【小説】ここに、おったけん――猫は何も言わんけど、佐世保は知っとるまち景色(第65話「白球と、ちいさな息継ぎ」/「グラウンドの隅に、ただおるけん」)

サイドB:「白球と、ちいさな息継ぎ」
県道を挟んで米軍基地の向かい側の小学校。
来年には、小中一貫校になるらしい。
その校庭に、一番乗りするのはいつも誠やった。
今日は、特に静かか。
昨夜の雨の名残で、砂がしっとりと湿り、鉄棒の下には水たまりができとる。
体育倉庫のシャッターが半開きで、風にあおられて、かすかに軋む音がした。
誠は、濡れたベースを一枚ずつ雑巾で拭きながら、背中を伸ばす。
腰が重い。まぶたの裏に、まだ夜の光景が残っとった。
昨晩、母・百合が「胸が苦しか」と訴えた。
仕事から帰って、夕食もそこそこに付き添いで夜間外来へ。
結果は軽い過呼吸やった。けんど、顔色の悪い母を見ながら、
「ひとりにしとるけん、こがんことなるとよね」と、自責の念が胸ば刺した。
会社では営業課長として、部下のフォローと予算の数字に追われる日々。
週末だけが、息の抜ける時間——のはずやった。
でも今は、その時間も母の介護と、少年野球の指導で埋まっとる。
それでも、このチームは、辞めきらんかった。
五年前、同僚の子が入団するって聞いて、顔だけ出すつもりが、
いつの間にかノックを任され、今じゃ“守備の鬼”と呼ばれとる。
子どもたちは、まっすぐだ。
うまくなりたい、勝ちたい、ただそれだけで汗ば流す。
その姿が、どこか昔の自分を思い出させてくれるけん、離れきらん。
ばってん、今朝は違った。
体が動かん。
ベンチに腰を下ろし、指先ば組んで、息ば吐いた。
そのときやった。
足元に、小さな気配。
そっと目をやると、そこに猫が一匹——
白と茶のぶち模様。片耳に小さな切れ目。
濡れた校庭の端から、いつの間にか近づいてきたらしい。
猫は、誠の足元に腰を下ろした。
逃げもせず、鳴きもせん。ただ、じっとおる。
「…おまえ、どこから来たとや」
声に反応するでもなく、ただ見上げてくる目。
やさしくて、すこし澄んでて、まるで「わかっとるよ」とでも言うとるごたる。
給湯室の雑談で、部下の子が口にしていた名前を思い出す。
「——ぶんちゃんか?」
猫はゆっくりと瞼を上下させる。
誠はふっと、笑いそうになった。
張りつめとった気持ちが、ちょっとだけほどけた。
必要とされとる。それが、今の誠ば支えとる。
けど、その重さに気づかんふりして、走ってきた。
この猫は、ただ“おる”だけ。
誰かに必要とされようとせんでも、ただ、そこにいてくれる。
それだけで、なぜか救われた気がした。
しばらくして、ぶんちゃんは立ち上がり、何も言わずに校庭の端へと歩き出した。
しっぽが、ゆらりと揺れて、朝の風に溶け込んでいった。
「コーチ、おはようございまーす!」
グラウンドの一段上の校舎の陰から、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。
誠は、ゆっくり立ち上がった。
そして、大きく息ば吸い込んだ。
「さあ、今日もノックから行くばい」
——ここに、おったけん。
それだけで、ちいさな息継ぎができた朝やった。
【了】
サイドA:「グラウンドの隅に、ただおるけん」
朝の空は、ぼんやりと白く曇っとった。
昨日の雨の匂いが、まだ地面に残っとる。
しっとりした土と、ちょっと冷たい風。
おれは、プールの脇を抜け、小学校の校庭に足を踏み入れた。
まだ誰もおらん。鉄棒の下に水たまり。
ブランコは濡れたまま、風に小さく揺れよった。
その真ん中に、ひとりの男が立っとった。
ベースば拭きよる姿。指先に力が入っとる。
けんど、その肩は、少しだけ落ちとった。
——心の音が、ぎりぎりって鳴っとった。
昨夜は眠れんやったとやろ。
体の疲れだけやなか。心も、ちょっとくたびれとる。
おれは、倉庫の隅からそっと近づいた。
猫は音ば立てんけん、気づかれんことが多か。
でも、今日はわざと、足音ば少し残した。
その人は、ベンチに腰かけて、目ば閉じとった。
風が吹いて、グラウンドの砂がさらりと流れた。
おれは、その足元に座った。
すぐに気づいた。
その人は、そっと目ば開けて、おれば見下ろした。
「…おまえ、どこから来たとや」って、つぶやいた。
声には疲れがあった。けんど、かすかに笑いの気配も混じっとった。
おれは、何も言わん。まっすぐに見上げるだけ。
しっぽば、ふわりと揺らして、そこに“おる”と知らせる。
「——ぶんちゃんか?」
その人の呼びかけに、おれはゆっくりと瞬きして返した。
必要とされることは、うれしかことやけん。
ばってん、ずっと背負うとは、しんどかろうも。
そんなとき、おれは、そっと“おる”だけ。
だれも見とらん場所に、そっとおるけん。
声はかけん。動かん。ただ、ここにおる。
しばらくして、その人はゆっくり立ち上がった。
顔にはまだ疲れが残っとったばってん、目は少しだけ軽うなっとった。
おれは、ゆっくりと立ち上がって、校庭の隅へ歩き出す。
遠くから、子どもたちの声が近づいてきよった。
風がまた吹いて、グラウンドの空気が変わる。
ここに、おったけん。
それで、よかとよ。
【了】
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前話です ▼
シリーズタイトル一覧:(順次、掲載予定です)
第11話:「陸(おか)に戻った日」/「帰港する心」
第18話:「I didn’t say it out loud, but you heard me.」/「声のない声、ちゃんと聞こえとるけんね」
第20話:「ふたりの間に光が灯る」/「来ると思った。根拠なんてないけど」/「別に、会いに行ったわけじゃない——とか言っても信じんやろな」
第24話:「ほどける音は、声の中じゃなく目の奥にあるとたい」/「おかあさんと、ねこさんと、知らないおじさん」/「坂の途中で、風がふたつ、重なった気がした」
第45話:「木くずとため息」/「木くずの遊び相手」
第65話:「白球と、ちいさな息継ぎ」/「グラウンドの隅に、ただおるけん」
あとがき
この本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
そして、ぶんちゃんと佐世保の町を、ここまで一緒に歩いてくださったことに、心からの感謝を申し上げます。
私は佐世保で生まれ育ちました。
けれど、大学進学で町を離れ、そのまま県外で就職しました。
けれど人生の節目がいくつか重なり、今はまた、この町に暮らしています。
この短編集は、そんな「ふたたびこの町で暮らす」ようになった私の目に映る、どこか懐かしく、でも確かに変わってきた佐世保の風景と、そこに生きる人たちの姿を、“猫の目線”という静かなレンズを通して描いてみたいと思ったことから始まりました。
主人公のぶんちゃんは、白と茶のぶち模様の猫。
人の言葉は話しませんが、ただそばにいることで、人の心の奥にある小さな揺らぎや、誰にも見せていない表情を、そっと受け止めてくれます。
町の片隅にいる猫。
それだけでありながら、たしかに「ここに、おった」と記憶される存在。
この短編集のタイトルは、そんなぶんちゃんの在り方、そして、この町で過ごしてきた人々の“想いが残る場所”としての佐世保を象徴する言葉として名づけました。
なお、本書の創作には、OpenAIのChatGPTを創作パートナーとして活用しています。
最初は「猫と町を舞台に、どんな物語が生まれるだろう」と軽い気持ちでプロットを相談しはじめましたが、気がつけば、物語の呼吸や言葉の余韻を、AIとの対話によって丁寧に探りあてていく日々になっていました。
「語らない猫」「語りたがらない人」「語られずに消えていく町の記憶」——
そんなテーマを、ChatGPTとの共同作業で、時に詩のように、時に物語として形にしていけたことは、まさにこの作品にとって欠かせないプロセスだったと感じています。
佐世保は、坂と港の町です。
変わってしまった景色も、変わらずそこにある空気も、すべてが人と町の記憶を育て続けています。
ぶんちゃんの物語が、そんな記憶のひとつとして、あなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しく思います。
2025年 春
佐世保の町より
筆者
プロフィール|Kazuomi Matsunaga
🧭思考の案内人|Thinking Navigator

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒愛知の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。こどもは二人とも大学生となって巣立ち、妻と二人暮らし中。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
🧭 読んだあと、あなたの中に“新しい見方”がひとつ芽生えるような。そんな記事をお届けできたらうれしいです。
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