【小説】ここに、おったけん――猫は何も言わんけど、佐世保は知っとるまち景色(第8話「あのとき、わたしが泣いた理由」/「母の心、子の手のぬくもり」)

サイドB:「あのとき、わたしが泣いた理由」——ぶんちゃんと、迷子のお母さん
あの日のことは、ずっと胸の奥に残っている。
港の風も、アーケードのざわめきも、すべてが逆再生のように脳裏を駆けめぐる。
——ほんの数分目を離しただけだった。
息子は、レモネード屋さんの前にいた。
「ちょっと見るだけ」と言った手を、わたしは信じてしまった。
でも、振り返ったときには、もうどこにもいなかった。
「ごめんなさい、見かけませんでしたか?」
「この辺りで……小さな男の子を……」
何人にも声をかけた。
でも、時間が経つにつれて、声が震えてくるのが自分でもわかった。
焦りと不安が、全身をしめつける。
「母親なのに」「目を離すなんて」「もし何かあったら」
自分を責める言葉が、頭の中を何度も、何度もまわった。
そのときだった。
文具屋の前で、視界の隅に一匹の猫が現れた。
茶色と白のぶち模様。落ち着いた足取り。
まるで、“今、ここに来た理由”があるかのように、まっすぐ歩いてきた。
その猫のすぐ後ろから、小さな足音が聞こえた。
「ママぁっ!」
——あの声。あの泣きそうな顔。
もう、何も考える暇はなかった。
わたしは、思わず息子を抱きしめた。
「よかった、ほんとによかった……」
その瞬間、涙がぶわっとあふれた。
安心から? 後悔から? ありがとうから?
自分でもわからない、ぐちゃぐちゃの気持ちが、全部こぼれ出た。
文具屋の店主が言った。
「ぶんちゃんやねぇ。あの子、迷子の道をよう知っとるとよ。
……そして、帰り道も。」
わたしは、改めてその猫を見た。
——“ぶんちゃん”。
誰かがそう呼んだその子は、なにも言わず、ただしっぽをゆらりと揺らしただけだった。
「ありがとう、ぶんちゃん」
港の夕日が、石畳を金色に染めていた。
息子の手のぬくもりが、まだ震えていた。
でもその横には、もうひとつのあたたかさが残っていた。
それは、「母親でいること」が、怖くなりかけたわたしに、
「だいじょうぶ。ちゃんと向き合ってるよ」って伝えてくれた、
言葉のない、でも確かな優しさだった。
——きっと、ぶんちゃんは子どもを導いたんじゃない。
あの時、いちばん迷子だったのは、
わたし自身だったのかもしれない。
そして今でも、ふと迷いそうになる時、
あの時のしっぽの揺れを思い出す。
「大丈夫。帰れるよ」
そんな風に、心の中でささやく声とともに。
【了】
サイドA:「母の心、子の手のぬくもり」——ぶんちゃんのまなざしより
おれは猫。ぶんちゃん。
港町の風は、日によって匂いが違う。
今日の風は、ちょっとばかしざわついとった。
海の匂いと、人の声と、あともう一つ——さみしさの匂い。
耳をすませると、人の足音が早まっていくのが聞こえた。
「すみません、男の子、見ませんでしたか?」
「どこ行ったと……あの子、どこ……?」
——“母”の声やった。
おれは歩き出した。
鼻先にひっかかったのは、レモネードの甘か香りと、
どこかで涙ばこらえとるちいさな気配。
そう、あの子はおれがもう見つけとった。
でも、ただ連れていくだけじゃ足りんとや。
おれが今、向かうべきは——その母の「心」のほうたい。
文具屋の前。おれは、ただそこに現れた。
おれのうしろには、ちいさな足音。
そして、風を切って走ってくる音。
「ママぁっ!」
声と、手と、涙と、ぬくもりと——
ぜんぶが一気にぶつかって、
おれのまわりに、空気のようなやさしさがひろがった。
そのときのお母さんの顔ば、
おれはずっと忘れん。
涙があふれるのは、悲しいときばっかりじゃなか。
「自分を許した瞬間」にも、人は泣く。
おれはその横で、何も言わず、何もせず。
ただ、しっぽをふわりと揺らした。
「ぶんちゃんやねぇ」
文具屋のおばちゃんが言った。
——そうたい、おれはぶんちゃん。
人が“いちばん迷ってるとき”にだけ、ふっと現れる。
おれはもう、港の風にまぎれて歩きだす。
そのとき、お母さんが小さく言った。
「ありがとう……ぶんちゃん」
——その一言だけで、じゅうぶんたい。
子は、母を探す。
母もまた、母である自分を探しとる。
そして、ときどき、どちらも迷子になる。
けど、誰かが「ここにおるよ」と言ってくれたら、
その瞬間、心は、ちゃんと帰ってくる。
おれは猫。
でも、ときどき、誰かの“帰る方向”をそっと指し示す、
風のしっぽば持っとるとたい。
【了】
前話です▼
https://note.com/asdeldi/n/ncd7b32661171
シリーズタイトル一覧:(順次、掲載予定です)
第8話:「あのとき、わたしが泣いた理由」/「母の心、子の手のぬくもり」
第9話:「ただいま、を言えない夜」/「ちゃんと“父親”になれるだろうか」
第10話:「魚の声、親父の背中、猫の足あと」/「親父の店に、立つ。」
第11話:「陸(おか)に戻った日」/「帰港する心」
第12話:「あたたかいしっぽのとなりで」/「においの奥にある、遠い山の気配」
第13話:「夜の出口で待っとった」/「わたしに戻る数分間」
第14話:「まだ鳴りきらん音の前で」/「ごめん。でも、ありがとう」/「残るって、逃げることですか」
第15話:「黙して祈る人の横にて」/「祈る者の祈り」
第16話:「静けさが汗に変わる前に」/「今日もおるね、ぶんちゃん」
第17話:「のれんを上げる理由」/「ぶんちゃん、ここはまだ終わっとらんとよ」
第18話:「I didn’t say it out loud, but you heard me.」/「声のない声、ちゃんと聞こえとるけんね」
第19話:「鳴かぬ勝者と、笑わぬ道化」/「上から見える距離、下から届く匂い」
第20話:「ふたりの間に光が灯る」/「来ると思った。根拠なんてないけど」/「別に、会いに行ったわけじゃない——とか言っても信じんやろな」
第21話:「境界にいる者」/「出発も到着も、においでわかるけん」
第22話:「転んでも、目だけは前を向いとる」/「できたって、言いたかったんだ」
第23話:「音が出ん日も、聴こえとる者はおるけん」/「音の向こうに、心があるばい」
第24話:「ほどける音は、声の中じゃなく目の奥にあるとたい」/「おかあさんと、ねこさんと、知らないおじさん」
第25話:「今日は、箒の音がしなかった」/「あいつが黙っとると、庭が少し広くなる気がした」
第26話:「鈴の音は聞こえんでも、風はまだ吹いとるけん」/「鈴の音はせんでも、ここには想いのにおいが残っとる」
第27話:「ここに、確かに誰かがおったけんね」/「おったけんね」
第28話:「あの手が、やさしかったけん」
第29話:「干した網のにおいと、黙っとるやさしさと」/「なんも言わんでも、通じとるもんがあるとたい」
第30話:「おまわりさんで、よかったばい」/「帽子の影に、やさしか気配があったとよ」
あとがき
この本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
そして、ぶんちゃんと佐世保の町を、ここまで一緒に歩いてくださったことに、心からの感謝を申し上げます。
私は佐世保で生まれ育ちました。
けれど、大学進学で町を離れ、そのまま県外で就職しました。
けれど人生の節目がいくつか重なり、今はまた、この町に暮らしています。
この短編集は、そんな「ふたたびこの町で暮らす」ようになった私の目に映る、どこか懐かしく、でも確かに変わってきた佐世保の風景と、そこに生きる人たちの姿を、“猫の目線”という静かなレンズを通して描いてみたいと思ったことから始まりました。
主人公のぶんちゃんは、白と茶のぶち模様の猫。
人の言葉は話しませんが、ただそばにいることで、人の心の奥にある小さな揺らぎや、誰にも見せていない表情を、そっと受け止めてくれます。
町の片隅にいる猫。
それだけでありながら、たしかに「ここに、おった」と記憶される存在。
この短編集のタイトルは、そんなぶんちゃんの在り方、そして、この町で過ごしてきた人々の“想いが残る場所”としての佐世保を象徴する言葉として名づけました。
なお、本書の創作には、OpenAIのChatGPTを創作パートナーとして活用しています。
最初は「猫と町を舞台に、どんな物語が生まれるだろう」と軽い気持ちでプロットを相談しはじめましたが、気がつけば、物語の呼吸や言葉の余韻を、AIとの対話によって丁寧に探りあてていく日々になっていました。
「語らない猫」「語りたがらない人」「語られずに消えていく町の記憶」——
そんなテーマを、ChatGPTとの共同作業で、時に詩のように、時に物語として形にしていけたことは、まさにこの作品にとって欠かせないプロセスだったと感じています。
佐世保は、坂と港の町です。
変わってしまった景色も、変わらずそこにある空気も、すべてが人と町の記憶を育て続けています。
ぶんちゃんの物語が、そんな記憶のひとつとして、あなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しく思います。
2025年 春
佐世保の町より
筆者
プロフィール|Kazuomi Matsunaga

略歴:九州の国立大学工学部卒業(材料工学)⇒中京地区の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
🧭 読んだあと、あなたの中に“新しい見方”がひとつ芽生えるような。そんな記事をお届けできたらうれしいです。
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https://note.com/asdeldi/n/n389275018556
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