【小説】ここに、おったけん――猫は何も言わんけど、佐世保は知っとるまち景色(第36話「水のにおいと、ぶんちゃんと」/「水んにおいと、歩幅ん音と」)

サイドB:「水のにおいと、ぶんちゃんと」
——お母さんの視点より
川沿いの道を、ベビーカーを押して歩く。
まだ春浅い佐世保公園。
りんは、ベビーカーの中で、うとうとしている。
——りんちゃんのお母さん。
最近、誰かに呼ばれるたびに、
その名前しか聞かんようになった。
うれしかこと。
うれしかことに、間違いはなか。
ばってん。
ふと、自分自身の名前を、
最後に誰に呼ばれたか、思い出せんときがある。
りんは、わたしの宝物。
ばってん、
わたしも、わたしのままでいたいと思う夜も、ある。
公園を歩いていると、温水プールが見える。
ガラス越しに泳ぐ人たちの姿。
水のなかをすべる身体。
腕を伸ばし、足を蹴り、
水面を割っていく、あの感覚。
——また、泳ぎたい。
心の奥から、
小さな波が立つ。
けれどすぐに、
「でも」と思う。
りんがまだ小さい。
家のことも、夫のことも。
今さら、わたしだけのために時間を使うなんて。
そんなふうに、
自分で自分を押さえ込んでしまう。
そのときだった。
足元に、ふわりと影が落ちた。
白と茶のぶち模様の猫。
片耳にちいさな傷。
「……ぶんちゃん」
町のあちこちで名前を聞く猫。
誰にもなつかんばってん、
そっとそばにおる、不思議な存在。
ぶんちゃんは、
何も言わず、
わたしとりんのそばに座った。
風が、川を渡ってきた。
プールのガラス越しに、
またひとり、バタ足の水音が聞こえた。
わたしは、りんを見た。
眠っている、やわらかい寝顔。
この子のために生きる日々。
ばってん、
自分の呼吸ば取り戻す時間が、
ちいとだけあっても、よかとやなかろうか。
週に一度でも。
ほんの短い時間でも。
——泳ぎたい。
また、水の中で、自分の輪郭を感じたい。
ぶんちゃんは、
しっぽを、すっとひと振りした。
まるで、
「それでよかとよ」と言うみたいに。
わたしは、ふっと笑った。
よかよね、りん。
よかよね、わたし。
ベビーカーの向きを変え、
わたしは、あたたかい川風に背中を押されながら、
もう少しだけ、公園を歩くことにした。
春は、もうすぐそこやけん。
【了】
サイドA:「水んにおいと、歩幅ん音と」
——ぶんちゃんの視点より
おれは猫。ぶんちゃん。
今日も、風のにおいに耳ばすませながら、歩いとった。
川沿いの道。
佐世保公園。
春の手前、冷たか風ん中で、
ほんのり、桜のにおいも混じっとった。
コンクリートの上を、
かすかなゴロゴロという音が通りすぎる。
ベビーカー。
押しとるんは、
まだ若か女の人。
風と一緒に、
その人の心ん音が、ふわりと届いた。
——水のにおい。
プールのある建物ば横目に、
女の人は、
胸ん奥で、小さな波ば立てとった。
泳ぎたい。
けど、
泳げん。
たしかにそう言っとった。
おれは、その人のそばに、
そっと歩み寄った。
にゃあとも鳴かん。
頭ば擦り寄せることもせん。
ただ、
ベビーカーと、お母さんの間に、
ちょこんと座った。
お母さんは、おれに気づいて、
少しだけ、笑った。
その笑いの中に、
ほんのちょっとだけ、
あたたかい水面が広がった気がした。
人は、時々、
誰かのために生きとるうちに、
自分の息ば浅うしてしまうとたい。
ばってん、
ちいとだけ、
自分のために深呼吸しても、
だれも怒ったりせんとよ。
泳ぎたいなら、
泳いだらよか。
おれは、しっぽをすっとひと振りした。
「よかよ」って、
「だいじょうぶ」って、
そう伝えたくて。
お母さんは、
ベビーカーば押し直して、
また、川沿いの道ば歩き出した。
歩幅が、さっきより少しだけ、軽か。
風が、
りんちゃんの眠たか顔と、
お母さんのほおば、そっとなでていった。
おれは、
そのあとを、そっと見送った。
春は、すぐそこたい。
ちゃんと、胸ん中にも、来とるけんね。
【了】
▼ぶんちゃん(デフォルメ版)LINEスタンプ始めました🐾
前話です▼
シリーズタイトル一覧:(順次、掲載予定です)
第11話:「陸(おか)に戻った日」/「帰港する心」
第18話:「I didn’t say it out loud, but you heard me.」/「声のない声、ちゃんと聞こえとるけんね」
第20話:「ふたりの間に光が灯る」/「来ると思った。根拠なんてないけど」/「別に、会いに行ったわけじゃない——とか言っても信じんやろな」
第24話:「ほどける音は、声の中じゃなく目の奥にあるとたい」/「おかあさんと、ねこさんと、知らないおじさん」/「坂の途中で、風がふたつ、重なった気がした」
第36話:「水のにおいと、ぶんちゃんと」/「水んにおいと、歩幅ん音と」
第37話:「川ん匂いと、祈りと、春のしじまに」/「川のにおいと、誓いと、ぶんちゃんと」
第38話:「潮のにおいと、伝えた言葉と、ぶんちゃんと」/「潮ばすくう風と、祈りん音と」
第39話:「水面にゆれる思いと、またぶんちゃんと」/「川沿いのにおいと、祈りの影と」
第40話:「解かれる音と、ぶんちゃんと」/「風ばくぐる音と、海のにおいと」
あとがき
この本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
そして、ぶんちゃんと佐世保の町を、ここまで一緒に歩いてくださったことに、心からの感謝を申し上げます。
私は佐世保で生まれ育ちました。
けれど、大学進学で町を離れ、そのまま県外で就職しました。
けれど人生の節目がいくつか重なり、今はまた、この町に暮らしています。
この短編集は、そんな「ふたたびこの町で暮らす」ようになった私の目に映る、どこか懐かしく、でも確かに変わってきた佐世保の風景と、そこに生きる人たちの姿を、“猫の目線”という静かなレンズを通して描いてみたいと思ったことから始まりました。
主人公のぶんちゃんは、白と茶のぶち模様の猫。
人の言葉は話しませんが、ただそばにいることで、人の心の奥にある小さな揺らぎや、誰にも見せていない表情を、そっと受け止めてくれます。
町の片隅にいる猫。
それだけでありながら、たしかに「ここに、おった」と記憶される存在。
この短編集のタイトルは、そんなぶんちゃんの在り方、そして、この町で過ごしてきた人々の“想いが残る場所”としての佐世保を象徴する言葉として名づけました。
なお、本書の創作には、OpenAIのChatGPTを創作パートナーとして活用しています。
最初は「猫と町を舞台に、どんな物語が生まれるだろう」と軽い気持ちでプロットを相談しはじめましたが、気がつけば、物語の呼吸や言葉の余韻を、AIとの対話によって丁寧に探りあてていく日々になっていました。
「語らない猫」「語りたがらない人」「語られずに消えていく町の記憶」——
そんなテーマを、ChatGPTとの共同作業で、時に詩のように、時に物語として形にしていけたことは、まさにこの作品にとって欠かせないプロセスだったと感じています。
佐世保は、坂と港の町です。
変わってしまった景色も、変わらずそこにある空気も、すべてが人と町の記憶を育て続けています。
ぶんちゃんの物語が、そんな記憶のひとつとして、あなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しく思います。
2025年 春
佐世保の町より
筆者
プロフィール|Kazuomi Matsunaga

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒中京地区の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
🧭 読んだあと、あなたの中に“新しい見方”がひとつ芽生えるような。そんな記事をお届けできたらうれしいです。
つでも大歓迎です!
いいなと思ったら応援しよう!
「クリエイティブの世界へようこそ!」
創造・表現することが好きで、日々新しいものを生み出しています。応援が次の創作の力になります!