【小説】ここに、おったけん――猫は何も言わんけど、佐世保は知っとるまち景色(第58話「朝の裏口で、見つけたまなざし」/「朝の裏口で、重なる記憶」/「裏口に、やさしか風」)
サイドB:「朝の裏口で、見つけたまなざし」
——早乙女 彩音の視点より
夜が明ける少し前、裏口のごみ置き場は、しんとしていた。
どす黒い空気の残るこの一角で、ごみ袋を抱えたまま、わたしは動けずにいた。
スナック「彩月」に勤めはじめて、まだ三週間。
人の名前も顔も、お酒の種類も、ようやく覚えかけてきたばかり。
けれど、それ以上に、笑い方も、立ち位置も、話し方も、全部「作る」世界が、わたしにはまだ、息苦しかった。
「彩音ちゃんは、顔が優しかけん、癒し系って感じでいいとよ」
ママはそう言ってくれた。
ばってん、ほんとのわたしは癒す余裕なんて、どこにもなか。
短大を出てすぐ、就職先に選んだ佐世保のホテル。
フロントでの接客は、笑顔の奥に、怒りや軽蔑を隠したような視線が飛んでくる場所やった。
半年も経たずに辞めたあと、偶然、友達づてに紹介されたのがこのスナックやった。
「ちょっと華やかで、夢と違う道でも、やってみたら?」
熊本・八代で育ったわたしにとって、
知らん土地で、知らん世界に飛び込むのは、ほんとは怖かった。
その朝も、うまく接客できんかったことば思い出して、
自分にがっかりしとった。
「おはよう。……彩音ちゃん、ちょっと顔がしょぼんとしとるよ」
掃除のさと子さんが、ほうき片手に声をかけてきた。
いつもどこか明るくて、でも静かな優しさを持っとる人。
わたしは小さく笑って、首ばすくめた。
「んー、なんか……いっちょん、自信なかとよ。」
そのとき、ごみ袋の影が、ふいに揺れた。
ぴょこっと顔を出したのは、一匹の猫。
白と茶のぶち模様。
その目が、まっすぐ、こっちを見とる。
「……びっくりした」
わたしは思わず小さく声に出してしもうた。
猫は、ごみ袋の前に座って、じっとしている。
逃げもせんし、鳴きもせん。
ただ、そのまなざしだけが、やさしくて。
「ぶんちゃんて言うと。よく来るんよ、ここ」
さと子さんが笑った。
わたしはそっとしゃがんで、ぶんちゃんと目を合わせた。
なぜか、涙が出そうになった。
——この子、何にも言わんのに。
まるで「そのままで、よかよ」って、そんな目で見てくれる。
ほんとは、絵本を描くのが夢やった。
子どものころから、ノートに物語ば書いて、絵ば描いて。
その夢は、遠くのまんま、毎日が過ぎていった。
わたしはつぶやいた。
「……うち、このまま、ここにおっても、よかとやろか。」
ぶんちゃんのしっぽが、ふわりと揺れた。
それだけで、なんとなく、朝の空気がやわらうた気がした。
「彩音ちゃんは、彩音ちゃんのままでよかとよ」
さと子さんの声に、心がほっとした。
ごみ袋を置いて、立ち上がる。
朝の空に、ほんの少し、青がにじんできとった。
ぶんちゃんは、まるで見届けたように、くるりと背中を向けて歩き出した。
——あの子は、見守るためにおるんかもしれんね。
そんなことを思いながら、わたしは今日も、スナックのドアを開ける。
【了】
サイドB':「朝の裏口で、重なる記憶」
——清掃係さと子の視点より
朝の空気が、まだ夜の名残を抱えとる頃。
スナックビルの裏口で、私はいつものようにほうきを手にしていた。
ごみ袋の山の向こうに、彩音ちゃんの姿が見えた。
肩を落とし、どこか遠くを見つめるその横顔に、若い頃の自分を重ねてしまう。
あの頃の私は、飲食店で働きながら、日々の生活に追われていた。
夫の病気が発覚し、仕事を辞めて介護に専念した。
その後、夫を亡くし、子どもたちは県外へ。
今は、朝だけこのビルの清掃とごみ出しを請け負っている。
「おはよう、彩音ちゃん。顔がしょぼんとしとるよ」
私は、ほうきを片手に声をかけた。
彼女は、小さく笑って首をすくめた。
その笑顔に、どこか安心感を覚える。
そのとき、ごみ袋の影がふいに揺れた。
ぴょこっと顔を出したのは、一匹の猫。
白と茶のぶち模様のその猫は、じっと彩音ちゃんを見つめていた。
「ぶんちゃんて言うと。よく来るんよ、ここ」
私は笑って言った。
彩音ちゃんは、そっとしゃがんでぶんちゃんと目を合わせた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「彩音ちゃんは、彩音ちゃんのままでよかとよ」
私は、そう声をかけた。
彼女の目が、少しだけ輝きを取り戻したように見えた。
ごみ袋を置いて、彼女は立ち上がった。
朝の空に、ほんの少し青がにじんできていた。
ぶんちゃんは、まるで見届けたように、くるりと背中を向けて歩き出した。
その姿を見送りながら、私は思った。
——あの子は、見守るためにおるんかもしれんね。
そんなことを思いながら、私は今日も、ほうきを手にした。
【了】
サイドA:「裏口に、やさしか風」
——ぶんちゃんの視点より
夜と朝のあいだにある、しんとした時間やった。
スナックビルの裏手、ごみ袋の並ぶコンクリの路地。
人の気配がほとんど消えとる、静かな場所やけん、
おれはここが好きったい。
——今日も、来るやろうて思うたけん。
ごみ袋の向こうから、扉の音がした。
しゃらり、と小さく開いたドアの隙間から出てきたんは、
若か女の子。肩の力の抜け方が、どこか自信のなさを映しとった。
あれは、彩音ちゅう子や。
ここ最近、何度かこの裏手で見かけとる。
たいてい、ため息混じりに、ごみ袋ば抱えてきて、
立ち止まって、目ば伏せとる。
おれは、ごみ袋の陰から、そっと顔ば出した。
「……びっくりした」
その声は細うて、どこか揺れとった。
そこに、もうひとり。
ほうきの音と一緒に、歩いてきたのは、さと子さん。
ちっこくて、よう喋る、心のあったかか人や。
「ぶんちゃん、また来とるとね」
と、おれに声ばかける。
おれは、しっぽを一度ふわりと揺らした。
そのとき、彩音の肩が、すこーしだけゆるんだと、おれは見逃さんかった。
おれは、彼女の足元に座った。
じっと、目を見て。
なんも言わん。ばってん、伝えたかことは、あると。
——そのままで、よかとよ。
彩音の目が、そっとやわらいだ気がした。
おれは立ち上がって、背中ば見せた。
しっぽをふわりと揺らして、朝の匂いの中を歩き出す。
——おれは、そっとおるけん。
見守っとるとよ、このまちの、影んとこで。
【了】
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前話です ▼
シリーズタイトル一覧:(順次、掲載予定です)
第11話:「陸(おか)に戻った日」/「帰港する心」
第18話:「I didn’t say it out loud, but you heard me.」/「声のない声、ちゃんと聞こえとるけんね」
第20話:「ふたりの間に光が灯る」/「来ると思った。根拠なんてないけど」/「別に、会いに行ったわけじゃない——とか言っても信じんやろな」
第24話:「ほどける音は、声の中じゃなく目の奥にあるとたい」/「おかあさんと、ねこさんと、知らないおじさん」/「坂の途中で、風がふたつ、重なった気がした」
第45話:「木くずとため息」/「木くずの遊び相手」
第58話:「朝の裏口で、見つけたまなざし」/「朝の裏口で、重なる記憶」/「裏口に、やさしか風」
あとがき
この本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
そして、ぶんちゃんと佐世保の町を、ここまで一緒に歩いてくださったことに、心からの感謝を申し上げます。
私は佐世保で生まれ育ちました。
けれど、大学進学で町を離れ、そのまま県外で就職しました。
けれど人生の節目がいくつか重なり、今はまた、この町に暮らしています。
この短編集は、そんな「ふたたびこの町で暮らす」ようになった私の目に映る、どこか懐かしく、でも確かに変わってきた佐世保の風景と、そこに生きる人たちの姿を、“猫の目線”という静かなレンズを通して描いてみたいと思ったことから始まりました。
主人公のぶんちゃんは、白と茶のぶち模様の猫。
人の言葉は話しませんが、ただそばにいることで、人の心の奥にある小さな揺らぎや、誰にも見せていない表情を、そっと受け止めてくれます。
町の片隅にいる猫。
それだけでありながら、たしかに「ここに、おった」と記憶される存在。
この短編集のタイトルは、そんなぶんちゃんの在り方、そして、この町で過ごしてきた人々の“想いが残る場所”としての佐世保を象徴する言葉として名づけました。
なお、本書の創作には、OpenAIのChatGPTを創作パートナーとして活用しています。
最初は「猫と町を舞台に、どんな物語が生まれるだろう」と軽い気持ちでプロットを相談しはじめましたが、気がつけば、物語の呼吸や言葉の余韻を、AIとの対話によって丁寧に探りあてていく日々になっていました。
「語らない猫」「語りたがらない人」「語られずに消えていく町の記憶」——
そんなテーマを、ChatGPTとの共同作業で、時に詩のように、時に物語として形にしていけたことは、まさにこの作品にとって欠かせないプロセスだったと感じています。
佐世保は、坂と港の町です。
変わってしまった景色も、変わらずそこにある空気も、すべてが人と町の記憶を育て続けています。
ぶんちゃんの物語が、そんな記憶のひとつとして、あなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しく思います。
2025年 春
佐世保の町より
筆者
プロフィール|Kazuomi Matsunaga
🧭思考の案内人|Thinking Navigator

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒愛知の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。こどもは二人とも大学生となって巣立ち、妻と二人暮らし中。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
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