【小説】ここに、おったけん――猫は何も言わんけど、佐世保は知っとるまち景色(第39話「水面にゆれる思いと、またぶんちゃんと」/「川沿いのにおいと、祈りの影と」)

サイドB:「水面にゆれる思いと、またぶんちゃんと」
――美咲の視点
胸の奥が、
ぎゅうっと締めつけられたままやった。
伯父のぽつりとつぶやいた言葉。
「親父、ダメかもしれんな」
その音だけで、
世界が一瞬、真っ白になった。
もう、
病院の中にはおれんかった。
佐世保総合医療センターを出ると、
市民文化ホールの脇を抜け、
病院の裏手にある川沿いの公園へと足を向けた。
春先の光。
まだ冷たい風。
川の水面も、
さざなみひとつ立てず、静かに光っていた。
歩きながら、
美咲はあの日のことを思い出していた。
職場にかかってきた、母からの緊急の電話。
「おじいちゃんが遭難した」と告げられた瞬間、
体の奥が凍りついた。
そのあとすぐ、
彼からかかってきた電話。
海上保安官として、
出動した彼から。
「助けたけど、意識は戻らん……ごめん」
彼は、何も悪くない。
祖父を助けようとしてくれた、
大切な、大切な恩人だ。
それは、わかっていた。
ばってん。
あのとき、
電話口で責めるような言葉を吐いてしまった。
「なんで、じいちゃんば……」
そのあと、
彼とは話していない。
切った直後に、
一度だけかかってきたコールにも出ることができず、
今も連絡が取れずにいる。
顔も、声も、
ちゃんと見ていない。
自己嫌悪で、
自分が自分でいたたまれなかった。
公園のあずまやにたどり着き、
美咲は、ベンチに腰を下ろした。
ベビーカーを押すお母さんとすれ違ったとき、
胸に刺さった痛みが、まだ残っている。
川の水面は、
ぼんやりと、春の光ば反射していた。
涙が出そうだった。
でも、
ここで泣いたら、
もう立ち上がれなくなりそうで。
顔を伏せた、そのとき。
ふわりと、足元に、あたたかい気配。
顔を上げると、
白と茶のぶち模様。
片耳にちいさな傷。
——ぶんちゃん。
あのときも、
仕事に押しつぶされそうだった美咲のそばに、
そっと座ってくれた、あの猫。
ぶんちゃんは、
今日も、何も言わず、
ただ、美咲の隣にちょこんと座った。
にゃあとも鳴かず、
すり寄りもせず。
ただ、そこに、おるだけ。
それだけで、
ぎゅうっと縮こまっとった心が、
すこしだけ、ほぐれた気がした。
美咲は、
堪えていた涙を、
静かにこぼした。
ごめんね。
ありがとう。
おじいちゃんに。
彼に。
そして、自分にも。
涙は、
川の水面へ、
そっと吸い込まれていった。
ぶんちゃんは、
しっぽを、ふわりと一度だけ揺らした。
それは、
「だいじょうぶ」って、
言ってくれとるみたいやった。
美咲は、小さく笑った。
そのとき。
ポケットの中で、スマホが震えた。
ハッとして取り出すと、
「母」の名前が表示されている。
美咲は、指が少し震えながらも、
通話ボタンを押した。
耳にあてたその瞬間、
母の声が、
勢いよく、弾けた。
——そして、
美咲の顔が、ぱっとほどけた。
目に、涙がまたあふれた。
でも今度は、
違う涙だった。
あずまやの影の中で、
美咲は、何度も何度も、小さくうなずいた。
ぶんちゃんは、
静かにその様子を見守っていた。
春の光が、
川の水面に、
きらきらと、跳ねていた。
【了】
サイドA:「川沿いのにおいと、祈りの影と」
——ぶんちゃんの視点より
おれは猫。ぶんちゃん。
今日も、町んにおいに耳ば澄ませながら、歩いとった。
潮と川のにおいが交じる、
春先の佐世保川沿い。
病院のほうから、
ふわりと、
苦しか音が流れてきた。
おれは、
そちらへ向かった。
佐世保市総合医療センター。
白くて大きな建物。
たくさんの人の思いが、
毎日、ここを行ったり来たりしとる。
建物の影から、
ひとりの若か女の人が出てきた。
顔はうつむき加減。
肩は小さく震えとる。
——知っとる人やった。
田中美咲。
前に、福祉施設の外で、
心ば小さく丸めとったあの子や。
あのときと、
同じにおいがした。
泣きたいけど、泣かんと堪えとる。
誰にも見せんように、
胸の奥でぎゅうっとしとる、そんな音。
美咲は、
川沿いの歩道を、ゆっくり歩いていった。
おれは、
少し離れてついていった。
川のにおい。
まだ冷たか風。
春先の光が、
水面で、ちろちろ揺れとった。
美咲は、
やがて、佐世保公園にたどり着いた。
ベビーカーを押すお母さんとすれ違い、
小さくうつむいた。
あずまやのベンチへ。
ふらふらと、
吸い寄せられるみたいに。
おれは、
そのあとを、そっと歩いた。
美咲は、
ベンチに座り、
川ば見とった。
涙はまだこぼれとらん。
でも、
こぼれそうな音が、
胸ん奥から、聞こえとった。
おれは、
そっと、美咲のそばに座った。
にゃあとも鳴かん。
ただ、
そっと、おった。
美咲は、
おれに気づくと、
一瞬だけ目を見開き、
すぐに、やわらかく目を伏せた。
あの日と同じ、
あの目やった。
涙が、
頬をつたった。
ばってん、
それは、
心が壊れる涙やなかった。
少しだけ、
あたたかか、春の涙やった。
おれは、
しっぽをふわりとひと振りした。
——だいじょうぶ。
——ここにおるけん。
そのとき。
美咲のポケットの中で、
スマホが震えた。
驚いたように、
慌てて取り出して、
通話ボタンを押す。
電話の向こうの声に、
美咲の顔が、
ぱっと明るうなった。
さっきまでの、
重たか影が、
ふわりと風に溶けたみたいに。
美咲は、
何度もうなずいて、
そして、小さく笑った。
川の水面が、
春の光ば受けて、きらきら跳ねとった。
おれは、
それば、静かに見とった。
今日もまた、
ここに、おったけん。
【了】
前話の彼から電話の回▼
美咲の登場回▼
ぶんちゃん(デフォルメ版)LINEスタンプ始めました🐾▼
前話です▼
シリーズタイトル一覧:(順次、掲載予定です)
第11話:「陸(おか)に戻った日」/「帰港する心」
第18話:「I didn’t say it out loud, but you heard me.」/「声のない声、ちゃんと聞こえとるけんね」
第20話:「ふたりの間に光が灯る」/「来ると思った。根拠なんてないけど」/「別に、会いに行ったわけじゃない——とか言っても信じんやろな」
第24話:「ほどける音は、声の中じゃなく目の奥にあるとたい」/「おかあさんと、ねこさんと、知らないおじさん」/「坂の途中で、風がふたつ、重なった気がした」
第39話:「水面にゆれる思いと、またぶんちゃんと」/「川沿いのにおいと、祈りの影と」
第40話:「解かれる音と、ぶんちゃんと」/「風ばくぐる音と、海のにおいと」
あとがき
この本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
そして、ぶんちゃんと佐世保の町を、ここまで一緒に歩いてくださったことに、心からの感謝を申し上げます。
私は佐世保で生まれ育ちました。
けれど、大学進学で町を離れ、そのまま県外で就職しました。
けれど人生の節目がいくつか重なり、今はまた、この町に暮らしています。
この短編集は、そんな「ふたたびこの町で暮らす」ようになった私の目に映る、どこか懐かしく、でも確かに変わってきた佐世保の風景と、そこに生きる人たちの姿を、“猫の目線”という静かなレンズを通して描いてみたいと思ったことから始まりました。
主人公のぶんちゃんは、白と茶のぶち模様の猫。
人の言葉は話しませんが、ただそばにいることで、人の心の奥にある小さな揺らぎや、誰にも見せていない表情を、そっと受け止めてくれます。
町の片隅にいる猫。
それだけでありながら、たしかに「ここに、おった」と記憶される存在。
この短編集のタイトルは、そんなぶんちゃんの在り方、そして、この町で過ごしてきた人々の“想いが残る場所”としての佐世保を象徴する言葉として名づけました。
なお、本書の創作には、OpenAIのChatGPTを創作パートナーとして活用しています。
最初は「猫と町を舞台に、どんな物語が生まれるだろう」と軽い気持ちでプロットを相談しはじめましたが、気がつけば、物語の呼吸や言葉の余韻を、AIとの対話によって丁寧に探りあてていく日々になっていました。
「語らない猫」「語りたがらない人」「語られずに消えていく町の記憶」——
そんなテーマを、ChatGPTとの共同作業で、時に詩のように、時に物語として形にしていけたことは、まさにこの作品にとって欠かせないプロセスだったと感じています。
佐世保は、坂と港の町です。
変わってしまった景色も、変わらずそこにある空気も、すべてが人と町の記憶を育て続けています。
ぶんちゃんの物語が、そんな記憶のひとつとして、あなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しく思います。
2025年 春
佐世保の町より
筆者
プロフィール|Kazuomi Matsunaga

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒中京地区の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
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