「令和人文主義」とは何か : 「軽い映画評論家」北村紗衣も、その一人?
現在、私に批判されている、北村紗衣ファンの「itchie」氏が連呼する言葉として、初めて「令和人文主義」という流行語を知った。
「itchie」氏は、私の批評を「オールドな批評」と呼んで否定的に評価し、それに対して「平成生まれ」の自身の「若さ」を強調することで、自分の書くものは「オールドな批評」ではなく「新しい批評」だとアピールするのだが、そんな「itchie」氏が、同様の文脈の中で連呼するのが、この「令和人文主義」という言葉なのである。
当然、わざわざ「令和」と断っているからには、「平成」や「昭和」の御世における「人文主義」とは違う、という意味であろうし、どう違うのかと言えば、たぶん、「平成」や「昭和」の批評に比して「軽快」だ、ということなのであろう。
令和の人文学が、過去に比して「重厚深遠」になったなどとは、とうてい誰にも考えられないから、考えられるのは「軽快なった」くらいの話なのだろうし、事実、その「令和人文主義」を言挙げする「itchie」氏が、「若さを強調」し、北村紗衣や三宅香帆なんかを取り上げるところを見ても、「重厚深遠」が売りだなどということは、あり得ない話であろう。
で、昨日Googleで「令和人文主義とは?」と検索してみたところ、AIがまとめたのであろう説明として、次のような回答があった。
『「令和人文主義」とは、主にSNSや新書などを舞台に、若い世代の知識人やクリエイターが展開する、「知的好奇心」や「楽しさ」を価値基準とし、教養主義や倫理主義とも異なる、軽やかで多メディア的な人文知のあり方を指す言葉です。谷川嘉浩氏が提唱し、ビジネス層にも響く語り口で、AI時代における新たな教養の形として注目されていますが、その実態や影響については議論も呼んでいます。
特徴
⚫︎「楽しさ」重視:権威や理想に縛られず、「知って楽しい!」という感覚が原動力。
⚫︎多メディア展開:SNS、動画、文章、ラジオなど、媒体を横断して発信。
⚫︎対象はビジネス層:会社員など、一般層に向けた語り口や内容が中心。
⚫︎「中間文化」での活動:アカデミズムやビジネスとも異なる、新しい知的空間で発展。
背景・対比
⚫︎教養主義(戦後~):権力に扇動されないための「知」を重視。
⚫︎倫理主義(近年):弱者支援など「正しさ」を追求するリベラル思想。
⚫︎令和人文主義:それらとは一線を画し、「楽しさ」を重視する新しい動き。
議論のポイント
⚫︎単なる「インフルエンサー活動」なのか、本質的な思想なのか。
⚫︎「良い会社員」「良い統治」を前提とし、現実社会への影響はどうか。
⚫︎共感を装いつつ、内輪で分断を生む可能性はないか。
このように、「令和人文主義」は、現代の知的トレンドを捉えるためのキーワードとして使われていますが、その中身や社会への影響については、まだ議論が続いている潮流と言えます。 』
見ての通りで、ごくごく平たく言えば、
・若者ウケする、親しみやすく、ちょっと知的な、人文主義的な文物
ということになろう。
かつての「教養主義」のように、しっかり勉強していないことにはついていけないような「学問的な文物」ではなく、特に教養など無くても、大筋のところは理解できるような水準で、平易に書かれた「ポップ教養主義」、懐かしの「軽チャー」みたいなものなのではないだろうか。
上の「AI要約文」によると『谷川嘉浩氏が提唱し』とあって、私としては「ああ、あの人か、なるほど。」という感じであった。
以前に、この人の著書のレビューを書いていたからだ。
・谷川嘉浩 『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』:「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、 私のことか?
このレビューを読んで貰えばわかるとおり、私はこの本も、そこに示された著者の考え方も、決して否定・批判してはいない。むしろ同感だと書いている。
ただし、「言ってること、書いてることは、至極あたりまえの話だから、ちょっと物足りない」という、注文をつけているだけだ。
だから、この谷川嘉浩が、
・若者ウケする、親しみやすく、ちょっと知的な、人文主義的な文物
を持て囃している、「令和人文主義の教祖」だ、ということではなさそうだ。
実際、「令和人文主義」について、谷川嘉浩は次のような文章を書いている。
(1)時代の兆候としての「令和人文主義」。あるいは、なぜ突然そんな用語をつくったのか。【追記:よくある質問】
この文章のタイトルが『時代の兆候としての「令和人文主義」』となっていることからもわかるとおり、谷川は「令和人文主義で行こう!」と煽っている人なのではなく、「時代の兆候として、令和的な人文主義とでも呼べるものが台頭していている」という「情勢診断」を語っているだけなのだ。
つまり、それが好ましいとか好ましくないとかいった「価値判断」ではなく、そんな「傾向性が見られる(そういうのが流行っているようだ)」と言っているだけなのである。
では、そんな「令和人文主義」的な「傾向」というのは、どのあたりに見られるのか言えば、
『 いま、令和人文主義が席巻している。代表的なのは、株式会社COTENの深井龍之介さん、株式会社baton(QuizKnock)の田村正資さん、文芸評論家の三宅香帆さん、広告会社勤務で大阪大学招へい准教授の朱喜哲さん、哲学者の戸谷洋志さん、元スクウェア・エニックスのシナリオライターで、作家・書評家の渡辺祐真さんなど。哲学の造詣(ぞうけい)が深く、地動説の漫画『チ。―地球の運動について―』(小学館)で大ヒットした漫画家の魚豊さんを含めてもいいかもしれない。
令和人文主義は、読書・出版界とビジネス界をまたいだ文化的潮流で、人文知の重要性を押しつけがましさ抜きに訴える姿勢に貫かれている。ここに挙げたのは、1985年から97年生まれの若い書き手で、コロナ禍の前後、つまり令和の時代に、この世代の躍進が始まっているわけだ。
ゆる言語学ラジオという人気YouTube/ポッドキャスト番組のパーソナリティーをしている水野太貴さんもこの世代に該当するし、YouTubeやポッドキャストでマルチに活躍する佐伯ポインティさんも、動画などの中で折に触れて小説や新書などを薦めている。ここにも、広く人文知への志向を感じることができるかもしれない。』
(2)深井龍之介、三宅香帆…新世代が再定義する教養「令和人文主義」とは(谷川嘉浩)
といったあたりになるらしい。
こうした「人気の書き手」に共通する傾向を大掴みにすれば、「令和人文主義」は、「昭和」や「平成」時代の「人文学系」文物とは異質であり、かつてのそれのような学的な「威圧感」を持たない、それでいて、「理数系ではない」(つまり、専門知識がなくても良い)人文系の読み物だ、というようなことのようだ。
谷川嘉浩は、私がレビューを書いた 『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』 (2022年)では、そのタイトルからもわかるとおり、「つながりすぎる世の中になった」からこそ、「孤独であること=孤独に耐えること」の重要性、ということを語っていた。
なにしろ、谷川の専門は「哲学」なのだから、哲学するためには「一人で、徹して考える」ということが絶対に必要であると、そう考えている。
しかし、つながりすぎると、その外部情報の侵襲撹乱によって、沈思黙考が阻害されてしまい、哲学することが困難となるためである。
ところが、(2)の文章を読むと、今の谷川は「令和人文主義」を、単に「時代の兆候」として見ているだけではなく、それへの一定の「共感」を示している。
昭和や平成の「悪しき教養主義」よりは、「令和人文主義」的なものの方がマシだし、自分はそっち寄りの人間だと、そう認めてもいるようなのである。
つまり、谷川自身は「令和人文主義」の教祖ではないとしても、「令和人文主義」の流れの中にいること自体は認めているようなのだ。
で、そこで問題のなるのが、谷川の「教養主義」批判である。
この「教養主義」批判というのは、三宅香帆の出世作となった 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (集英社新書)などでもなされていたことであり、要は、今どきの「トレンド」は、「反権威主義としての、反教養主義」だということになるのである。
言い換えれば、「令和人文主義」者の多くには、前世代に対する「被害者意識」が強くあって、自分が「加害者」となる、あるいは、すでにそうなっているという可能性についての意識は、無いに等しいようだ。
なにしろ「私たちは優しい」のだから、被害者にはなっても、加害者になることはないと、そんなナイーブな感覚が透けて見える。
ともあれ、「令和人文主義」を考える上で注意しなければならないのは、そこで言われるところの「教養主義」とは、言うなれば「権威主義的教養主義」であって、あたりまえに「教養は大事という考え方」とは、別物だという点である。
「権威主義的教養主義」としての「教養主義」と、あたりまえの「教養は大事という考え方」とは、どう違うのだろうか?
それは、平たく言えば、前者は「教養という看板重視」であり、後者は「教養そのもの(中身)を重視」するという違いである。
例えば、前者は「こんなに教養があるんだぞと、哲学者の名前やその著書を列挙して見せたりする」あるいは「不必要なほどに晦渋な文章で書く」などといったタイプだ。
一方、後者は、物事を深く考える上では、その基礎となる知識(教養)は当然必要なものであり、その意味で「教養は必要」だと考えるけれど、そうした教養をわざわざひけらかしたりはしないのが、「教養のある(頭の良い)人」の態度だと、そう考えるようなタイプだということになる。
「令和人文主義」が、その「兆候」として持っている「共通心理」的なものとしての「反教養主義」とは、当然のことながら、本来であれば「無知礼讃主義」などではない。
物を考える人間ならば(天才は別にして)「教養」は「あって当たり前」、したがって「教養を得る努力をして当たり前」だと考えるのだが、そうした意識を「仰々しくひけらかすな(押しつけるな)」という反発が、「令和人文主義」にはあるのだ。
また、「教養」そのものは否定しないからこそ、「人文主義」という「教養」を前提とした(ような)立場なのである。
しかし、こうした「反権威主義」は、何も目新しいものではない。
それこそ、「昭和」や「平成」の教養人ならば、即座に思い出せるのが、ひところ大流行した「ポストモダン思想」である。
「ポストモダン思想」を代表する思想家、ジャック・デリダのテクニカルタームとして、あまりにも有名な「脱構築」が象徴するように、ポストモダン思想とは、「象牙の塔」的なものに対する「反権威主義(的反抗)」だったと言えるだろう。
歴史的に営々として構築されてきた「知の大系(大伽藍)」を収めてこそ(そこに参入してこそ)、初めて「知」を語り、新たな「知」を開くこともできる一一と、そんな「知的権威主義大系」を構築していた学問世界に対する「異議申し立て」が、「ポストモダン思想」だった。
学問の崇高さを自認する「知の大系」に対して、その巨峰の絶対的な価値とやらを疑い、それを「いくつもある山(嶺)のひとつ」として相対化し、その「絶対権威主義」の大系を、解体して再構築しようとしたのが、ポストモダン思想なのである。
だから、ポストモダン思想は、一見したところなら、「反権威主義」に見える。
だからこそ、「令和人文主義」と似ているようにも思えるのだが、一一しかし、この両者を本質的に分つのは、「令和人文主義」は、しばしば「教養」そのものの持つ権威と、「教養を誇る人の権威主義」とが混同されて、「教養の重要性」自体を、ややもすると否定しがちな点である。
無論、それなりに有名な「令和人文主義」者なら、それなりに「教養の重要さ」を知っているだろう。
だが、彼らの「平易な文章」に甘やかされるばかりの読者は、いっこうに「咀嚼力」が育たないから、「教養なんかいらないんだ」と、そう安直に勘違いしてしまいがちなのだ。
昔、南伸坊が『面白くっても大丈夫』というタイトルのエッセイ集を出していた。
無論、このタイトルは、「気難しい顔をした教養主義」を批判して、「面白さ」や「平易さ」を擁護し、励ます趣旨のものだった。
しかし、ここで誤解してはいけないのは、南伸坊は「面白ければ、それで良い」と言っているわけではない、という点なのである。
ポストモダン思想の場合は、「反近代主義」としての「反権威主義」ではあったけれど、決して「知としての教養」を軽んじていたわけではない。
「知の形式的な独占権威」を批判したのであって、それは「知を重んじるがゆえ」の「反教養主義」だったのである。
だが、この違いをわかっている人は、そう多くはないだろう。
だからこそ、「令和人文主義」的なものとして、自らの「若さ」を強調する「itchie」氏のような人物も現れてくる。
こういう人にとっては、「形式=見かけ」だけが問題であって、中身が問題ではないのだ。
例えば、「itchie」氏は、私の批評を「オールドな批評」と読んで否定的に評価しているが、しかし、私の批評は、はたして「オールドな教養主義」的に「権威主義」的なものだろうか?
そんな人間が、還暦を過ぎてもなお、大真面目に、テレビアニメ『小林さんちのメイドラゴン』を論じたりするものだろうか?
また、批評対象の内容に合わせて、文体を硬軟使い分けたりするものだろうか?
例えば、私のレビューで、最も評判の良い、
・『パルプ・フィクション』 の 何がそんなに面白いのか? : タランティーノ的 趣味嗜好
は、どうだろう?
ここで私は、論評対象に合わせて「チンピラ風の語り口」を採用したりして、遊んでいる。
『一一というわけで、「『パルプ・フィクション』の何がそんなに面白いのか?」といった、ありがちな疑問について、忌憚なく考えてみたいと思う。 世間では、クエンティン・タランティーノ監督というと、むやみに崇拝する奴もいるようだが、俺はそんな人間じゃあねえ。あんな「タコ坊」を、そこまで持ち上げるつもりはねえって、ことだ。
おっと、私は、なにもタランティーノ監督が、嫌いだというわけではない。むしろ、彼の「子供っぽい」までの「映画オタク」ぶりには好感を持っているし、今回、論じることにした、タランティーノ監督の代表作である『パルプ・フィクション』や『レザボア・ドッグス』が、楽しめなかったというわけでもないというのは、これこのとおり、映画の影響を受けちまっていることからも、容易にわかるんじゃねえか? ええ、そうだろ、兄弟。』
と、こんな調子だ。
一一これを「権威主義的な書き方」だと考える人は、まずいないだろうし、「オールドな批評」だと評価する人もまずいまい。
私のこうした書き方が、「批評の形式的な王道的文体」を、故意に踏み外したところのものだ、というのは一目瞭然のはずだ。
それに、私の批評を読んでくれている人は、他でもない私自身が、骨がらみの「反権威主義」者であることを、ご承知のはずだ。
なにしろ私は、自身のテーマソングだとして、次のようなアニメ曲の歌詞を、一度や二度ではなく、引用するような人間なのである。
威張った奴は 嫌いだぜ
そっくり返った でっかいツラの
鼻をあかして やるのが趣味さー
(ザマアミローい!)
デッドボールの ひとつやふたつ
カエルのツラに シャンペンだー
(ああ、いい気持ち!)
【松本茂之作詞「サムライ番場蛮」より】
そもそも、私の批評を「オールドな批評」だという「itchie」氏が好きな「武蔵大学教授」でフェミニストの北村紗衣こそが、誰よりも「権威主義」であるというのは、周知の事実であり、北村紗衣は私から、その「権威主義」を批判されている。
「私はあなたとは違って、映画についての研究論文も書いている研究者です」
なんて調子で、非常にわかりやすい「肩書き」自慢をしているし、別の批判者に対しては、
「あなたがいくら、私の映画批評を貶そうと、(あなたとは違って)私には映画の著書が2冊あるんです」
なんて自慢を、公の場でやってしまう、恥ずかしいまでの「権威主義者」なのである(まあ、たしかに教養がないというのは事実だが)。

つまり、北村紗衣ファンの「itchie」氏は、「オールドな批評」だと、さも私が「伝統的な権威主義者」であるかのように言って批判しているけれども、その私に、「オールドな権威主義者」だと批判されているのが、他でもない、「itchie」氏が大好きな北村紗衣なのだ。
つまりここでは、「itchie」氏の無内容な「レッテル貼り主義」によって、そんな笑える「認識的な混乱」が生じているのである。
ではなぜ、「itchie」氏は、私のような「権威主義からほど遠い」無名人を、さも伝統的な「権威主義的批評」を書く人間であるかのように思ったのかと言えば、それは「itchie」氏が、人の「年齢しか見ていない」からである。
つまり、年寄りの書く批評は「オールドな批評」で、「オールドな批評=ダメな批評」という、「若さ」だけが売りの「itchie」氏らしい、願望充足的な思い込みによる「決めつけ」でしかなかったのだ。そこには、「批評性」が無かったのである。
言うまでもないことだが、年寄りでも「馬鹿は馬鹿だし、無知は無知」だし、当然、若くても「馬鹿は馬鹿だし、無知は無知」だ。
ところが、「若さ」だけが売り(すなわち、馬鹿で無知な)「itchie」氏は、「若さ=新しくて優れている」と考えたいものだから、相対的に「年寄り=古くでつまらないもの」だと決めつけてしまうのである。
もちろん、谷川嘉浩をはじめとした「令和人文主義」的な「教養人」は、「若さ=新しくて優れている」とか、「年寄り=古くでつまらない」ものだなどとは、考えていない。
彼らが考えているのは、
「頭が悪いくせに、長年溜め込んだ知識だけを振り回して威張る年寄り」
そして、
「そのせいで割りを食っている(孫をしている)、われわれ若い世代」
といったことなのである。
そんな「老害的な教養主義」者など、とうてい容認することは出来ないし、そうした無能かつ権威主義的で、これ見よがしな「教養主義」者的な身振りなど、真似るわけにはいかないと、そう彼らは考えているのだ。
ところが、「流行現象」というのは、必ず「頭数が増えていくぶんだけ、平均的な質はどんどん低下していく」ということになる。
かつてのポストモダン思想ブームでも、ポストモダン思想家はとても優秀だったが、そのブームに乗っただけの「若者」たちの大半は、馬鹿だった。
デリダやドゥルーズ=ガダリのテクニカルタームを、口真似で多用して、
「僕たちは、器官なき身体としての知において、今ここを脱構築し続けなければならない」
なんて言葉を、恥ずかしげもなく口にしていたのである。
分厚い『アンチ・オイディプス』を、小脇に抱えたりしながら。
で、これは、「itchie」氏が「令和人文主義」という流行語を連呼し、それが「スマートな批評」だから「ウケるのだ」なんて言ってる、かなり恥ずかしい態度と、まったく同質なものなのだ。
自分の頭を使わず、ただ「知的流行ファッション」を、下手に着崩しているだけ。
だから、「令和人文主義」というのは、「時代の兆候」を示した言葉としては価値中立的なものなのだけれども、当然のことながら「令和人文主義」的な人々には「ピンキリがある」ということになる。
そして、そのわかりやすい「キリ」が、北村紗衣であり、そのファンの「itchie」氏なのだ。
こうした、「令和人文主義」的に「ダメな層」というのは、だからこそ、基本的に無教養なのである。
彼らの「反教養主義」とは所詮、「古い教養はダメだけど、新しい教養は素晴らしい」とでも思っている程度のものでしかなく彼ら自身は、「新しくて古いくさい教養主義者」でしかない。
つまり、自分の頭で考えることの出来ない人たちなのである。
「finalvent」という人が、そんな「令和人文主義」の「負の面」について、次のような、実に的確な文章を書いている。
じつに素晴らしい文章なので、ぜひぜひご一読願いたいのだが、ここでは、同レビューの「見出し」だけを抜き出して、私なりの解説を加えてみよう。
この「見出し」の主語は、「令和人文主義」である。「令和人文主義は」斯様なものなのだ。
(1)人文学の外観だけで充足する
(2)書影文化、読書が「記号」へと変換される
(3)要点の復唱と思考の代行・理解の代理化
一一この見出しを、私なりに解説するとこうなる。
(1)の『人文学の外観だけで充足する』とは一一、「令和人文主義」は、人文学の外観を真似るだけで充足(満足)して、人文学としての中身を求めない。だから、たいがいは中身が無い。
(2)の『書影文化、読書が「記号」へと変換される』とは一一、「この本を読みました」といって書影さえ掲げておけば、それで読んだ(理解し身につけた、つまり読書した)ということになってしまっているような類いのものでしかない。つまり、読んだとしても、まともに理解できていないし、それでも平気なのだ。
だから、北村紗衣のように、恥ずかしげもなく「何冊読んだ」とその著書にまで書けるのである。
さすがは、自らの「発達障害」まで喧伝するだけの人物だと言えよう。要は、鈍いのだ。
『 私は一年に百本くらい映画を映画館で見て、かつ百本くらい舞台も劇場で見ます。
その全部について簡単な批評を書いて自分のブログにアップしています。また、一年に二六〇冊くらい本を読みます。
おかしいですよね。いくらなんでも多すぎます。大学教員なので、昼は授業をしています。でも、私の仕事は単に出勤して授業時間に話すだけではありません。きちんと研究して、その成果を授業で学生に還元しなければなりません。そのために映画や舞台を見たり、本を読んだりするので、まあこういうのは仕事の一部としてやっています。』
(『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』P8)
しかしながら、たくさん読んだだけでは意味はない。身についていない読書は無意味な時間潰しでしかないのだ。
例えば、「卑怯な振る舞いはいけない」というのは、誰にでもわかる(サイコパスでも、文章の意味だけならとれる)。
しかし、だからと言ってその人が、心から「卑怯な振る舞いはいけない」という言葉の意味を、理解しているとは限らない。
「令和人文主義」をありがたがる人の「軽い頭」とは、そうしたものなのだ。
例えば、北村紗衣ファンの「itchie」氏は、SNS「読書メーター」の「プロフィール」に、次のようなに書いている。
『※読んだ本、読みたい本を登録しただけで感想を書かないことも多いです。投稿の多さが気になる場合は、設定→タイムライン表示項目設定から、「本の登録」の表示をオフにしてください。』
これは、「読んだ本と読みたい本」の区別が無くなり、「読みたい本」がほとんど「読んだ本」同然になって、そのことで自身を「誇大化してアピールしている」ということである。
当然「読んだだけの本と理解できた本」との区別などついてはいない、ということにもなる。
(3)の『要点の復唱と思考の代行・理解の代理化』とは一一、人の考えについて「右に同じ」と書いておけば、それがまるで「自分の考えそのもの」だと、そう思い込める思考回路のことだ。
比喩的に言い換えれば、右端に立つ人と、「右に倣え」をしているだけの自分との、区別がついていないのが、「令和人文主義」ファン的だということである。
当然、これは(2)の「見かけだけ」主義に通じる、心的な傾向だと言えるだろう。
そんなわけで、「令和人文主義」というのは、今の令和の御世において、
「昔の人たちのような、威張った教養主義ではないけれど、私たち若い者には、本質的な教養がある」
と、そう主張したい人たちによって生み出された(醸し出された)「時代の兆候」だと言えるだろう。
もちろん、「我々は、前代の老人たちよりも、物が見えている」という主張は、時代を問わぬ、凡庸な「若者らしい主張」でしかない。
たしかに、馬鹿な大人や馬鹿な老人は多いだろう。それは事実だ。
しかし、そういう「低いところ」だけを見て、こっちの方が賢いなどと言っている若者が、賢い大人や老人になれるわけがない。
そうではなく、数少ない「理想の大人」や「理想の老人」を見つけて、「自分もそのようなものになりたい。しかし、今の自分はまだまだ未熟だ」と、そういう向上心を持てる者だけが、「理想の大人」や「理想の老人」になれるのではないだろうか。
およそどんな思想であれ、「被害者意識(ルサンチマン)」から生まれたものに、ろくなものはないのである。
(2025年12月9日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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