北村紗衣と「現代フェミニズム研究会」の共通点 : 池田緑 『ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』
書評・第1回:池田緑『ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』(勁草書房)
北村紗衣や「現代フェミニズム研究会」に対する、私のこれまでの批判は、「フェミニズム」の素人が、その専門家に向かって「あなた方のやっていることこそが、差別なのではないか」という批判を差し向ける体のものであったと言えよう。
言い換えれば、差別の現実を、「フェミニズム」の専門領域的な話題に限定させることを許さず、「反差別」という態度の「本質」を問うものであったのだ。
私のこうした「批判スタンス」が、完全に正しかった、というのを教えてくれたのが、今回ご紹介する、池田緑の著書『ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』である。
以下では、「ポジショナリティ」という概念と、本書のタイトルが混乱しないように、同書のタイトルについては『ポジショナリティの射程』と表記することにする。
○ ○ ○
私が、自称フェミニストの北村紗衣を批判するにあたり、
「女性差別に反対するのであれば、当然のこととして、すべての差別に反対しなければならないはずだ。しかるに、なぜ北村紗衣は、女性差別以外の差別については、一言半句、触れようとはしないのか」
と問うたのは、北村紗衣の、論理的な「一貫性の無さ」を批判するためであった、と言えよう。
つまり、北村紗衣の「女性差別反対」とは、所詮、折からの「#MeToo」ブームに便乗しただけの、自身が含まれる「女性」にとっての「党派利益」の追求でしかなく、本音では、自身の利益に関わりのない「他の差別」のことなんか、なんとも思ってはいない証拠だ、いうことである。
だから私は、北村紗衣が、まるでオマケのように、映画批評などの中で、たまに「黒人差別」や「トランスジェンダー差別」に言及することはあっても、日本人として、より身近でもあれば歴史的な課題でもある、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」について、なぜ触れようとはしないのかと、具体例を示して追及したのである。
当然、この「当たり前の疑問」に対し、北村紗衣が、私に対してはもちろん、誰に対しても応答することはなかった。
「ごめんなさい。おっしゃるとおりです」という、北村紗衣なとっては屈辱的な事実承認以外に、応答のしようなど無かったからである。
もともと、私の北村紗衣批判は、趣味の範疇でしかない「映画の話」ついて、いきなり北村紗衣の方から、私に難癖をつけてきたことに始まっている。
それなのに、私がそれに応答して反論した途端、北村紗衣は無責任にも、それっきり沈黙してしまったのだ。


ともあれ、学者としては無論、人間としても極めて程度の低い北村紗衣個人についての個別問題は別にして、私が、北村紗衣やその周辺の「フェミニスト」を批判するにあたって、「女性差別」を主として扱う「フェミニズム」に話題を限定することなく、より大きな「差別」一般を話題にしたことについては、「フェミニズム」にしか興味のない人の傍目には、「素人くさい」批判だと感じられたかもしれない。
だが、ここに「ポジショナリティ」という考えを持ってくれば、私の批判の仕方が、「フェミニズムという思想運動」が抱える本質的な弱点を突いたものであったことが、おのずと見えるようになるはずだ。
そんなわけで、以下では、「ポジショナリティ」とは、いかなるものなのかを紹介することによって、「フェミニズム」が、と言うよりも、「フェミニズムを担う人間」としての「フェミニスト」たちの多くがはらむ「偽善と無自覚」という問題を、適宜明らかにしてゆきたい。
池田緑の『ポジショナリティの射程』で紹介されている、まだあまり知られてはいない「ポジショナリティ」という考え方を紹介し、それを援用することで、北村紗衣やその周辺のフェミニストたちが所属する「現代フェミニズム研究会」の「偽善と無自覚」を、容赦なく剔抉することにしよう。
○ ○ ○
先日のレビュー「「現代フェミニズム研究会」に見る、専門家の無知と傲慢 : 今井むつみ 『「何回説明しても伝わらない」は なぜ起こるのか?』」の中で、私は議論の前提として、「フェミニズムとは何なのか」ということを、次のように簡明に説明した。
『「フェミニズム」とは、これまでの男性中心社会において、不当にも劣位に置かれてきた「女性」の権利を、同じ人間として、男性と「同等」にまで高めようとする、女性のための「権利の獲得・回復」運動であり、その意味での「女性差別反対運動」であり、そんな「反差別思想」のことである。』
この説明について、「フェミニズム」そのものに反発する男性なら、私がこのように、あっさりと「男性中心社会における女性差別」を認めてしまっていることに、疑念と不満の念を覚えるかも知れない。
「男のくせに、男による女性差別を認め、それが自明に悪いなどということを、どうして、そうもあっさりと認めることが出来るのか?」
というような「疑念」であり、不満である。
たしかに私は、ここで「男性中心社会による女性差別」というものを、歴史的事実として、完全に認めている。
つまり、「男性」である私自身が、私個人も、「女性差別を行なってきた男性」というものの「構成員」であり、「一定の責任を負っている」と、そう認めているのだ。
要は「男性には、例外なく、女性差別に対する責任がある」と、そう認めているのである。
一一たとえ、その男性が、私と同様に「女性差別に反対する」という立場の人であったしても、それは「その人や私」個人が「女性差別」に反対しているということではあっても、その人や私が「男性」として、「男性中心社会」から、大なり小なり「受益」しているという事実に変わりはなく、その意味で「男性」であるその人や私は、自ら望んだことでもなければ、不本意なことであろうとも、やはり「いまだ」に「女性に不利益を強いている男性集団の構成員」であり、その事実に関して、一定の責めは免れ得ないと、そういう認識に立っているのだ。
そしてこれこそが「ポジショナリティ」という考え方なのだが、一一ここまでは、ご理解いただけたであろうか?
たぶん、多くの人は「何となく、分かったような、でも、スッキリとは呑み込めない」という感じなのではないだろうか。
しかし、それはやむを得ないことなのである。
なぜなら、本書『ポジショナリティの射程』においても、著者の池田緑が何度も繰り返して語っているのが、この「混同」という難問なのだ。
「私は、女性差別に反対している男性なのに、ただ男性であるという避けられない事実において、女性差別集団の有責な一員だなどと、どうして認定されなければならないのか?」
一一というような、疑問なり不満なりを、たいがいの男性は、持ってしまいがちなのである。
また、現に本書の著者である池田緑自身でさえ、かつては、同様の疑問を感じたと言う。
自分としては、真摯に「沖縄差別」の問題に取り組んできたにも関わらず、またそれを知っているはずの「沖縄人」の友人からでさえ、「しかし、あなたは日本人(本土人・ヤマトンチュ)であって、沖縄人ではないのだから、加害責任の一端を、今も担っているのだ」と指摘されたことに対する、不満やら疑念やらをきっかけとして、この「ポジショナリティ」という考え方を深めたと、そう語ってもいるのだ。
実のところ、私自身も、この「ポジショナリティ」という考えを「完全に」理解しているかどうかは、いまだいささか疑わしい。
というのも、本書を読み始めた当初は、明らかにそのあたりの区別がついていなかったのだが、本書の5分の1に当たる100ページほどを読んだあたりで、おおむねこの概念の意味するところが見えてきた、といった感じなのである。
そう、実際のところ、私は本書をまだ読了してはおらず、その意味で、このあとを読んでいく中で、私の現時点での「理解」が修正される可能性は、十二分にある。
だが、現時点でも、言えることはたくさんあるし、ぜんぶ読んでからでは、たぶん書きたいことが多くなりすぎて、結局は、多くのことを書き落とさざるを得ないだろうと予想されたので、ひとまず「現段階での理解」において、「ポジショナリティ」の教えてくれたことを書いておこうと、そのように考えたのである。
だから、今回は「第1回」なのだ。
ちなみに本書『ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』は、極めて「重厚」な専門書だ。
本の体裁としても、菊版(小説単行本などの四六版よりひと回り大判)の2段組みで、500ページを超える大冊なのだ。定価も、1万円超えである。
そして、なによりその中身も、そうした体裁に恥じない重厚なものであり、こういっては何だが、例えば、「武蔵大学の教授」である北村紗衣なら、本書を読みこなすことが出来ないだろうし、ましてや活字に縁のない北村紗衣ファンなどには、別世界の書物だと、そう断じても良い程のものなのだ。

私は、レビュー「竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』:宗教原理主義化した「フェミニズム」」の中で、北村紗衣は無論のこと、その仲間である「現代フェミニズム研究会」に所属しているようなメンバーは、おおむね「無教養」であり「本を読んでいない」と断じた。
『無論、彼ら(※ 北村紗衣、河野真太郎、田中東子などの大学教授フェミニスト)はいずれも、私より10〜20歳も年下だから、そのぶん教養が無いのは仕方がない。そのぶんだけ本が読めていないのは仕方がない、ということである。
書物が「教養」資源のすべてではない、としてもだ。
しかし、ひと昔前なら、「大学教授」ともなれば、そら恐ろしいほど本を読んでいたものだ。また、それが彼らの「仕事」でもあったのだから、ある意味では、それくらいであって当然でもあったのだ。
ところが、上に挙げた、北村紗衣、河野真太郎、田中東子といった、「いまどきのフェミニスト大学教授」というのは、その著書を読んでみると、「一般教養」の無さを、ひしひしと感じさせて、実に「薄っぺらい」。
たまに、外国の研究者の名前やその著書名を挙げ、専門家ぶって見せはするのだが、そこで紹介される本というのは、ごく近年、海外で話題になったような、ごく「手近な」ものでしかない。つまり、そのジャンルの研究者なら「読んでいて当然」といったレベルのものでしかないのだ。
しかも、そうした「海外の、今どきの権威」の威を借りて、それを知ったかぶりに利用しているだけ(援用とすら言い難い)で、引用者の方には、原著者のようなラディカルさなどはカケラもなく、いかにも日本人的な「教養の輸入業者」でしかないのだ。』
と、このように断じたのだが、本書『ポジショナリティの射程』の著者である池田緑は、彼らとは違って、実によく本を読んでいる。
まあ、昔はこういうのが、「大学教授」としては当たり前だったのだが、北村紗衣や、河野真太郎、田中東子などという「今どきの若手大学教授」の本を読んでいると、彼(女)らとの対比のおいて、池田緑のような、明らかに私よりも本を読んでいる人には、思わず感心せざるを得ないのだ。
池田の年齢は、よく知らない。写真を見るかぎりは、私より少し下の五十代前半といったところであり、北村紗衣などよりはひと回り年上なのだろう。
たが、北村紗衣が、あと10年なり20年なり歳を重ねたところで、池田ほどの「学術的な教養(学識)」を身につけることは絶えてないだろうし、本書のような重厚かつ思弁的な著書を書くこともないと、そう断じても良い。
それくらい本書は、昔ながらに「まともな学術書」だということなのである。
したがって、本書『ポジショナリティの射程』は、下のレビューで扱ったような「通俗フェミニズム本」とは、「格」も違えば、「訳」も違うということになる。
・北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房→ちくま文庫)
・北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』(文藝春秋)
・河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)
・田中東子『オタク文化とフェミニズム』(青土社)
もちろん、寝転んで読める、上の四冊などとは違って、活字の量が10倍以上もあれば、本の重さも何倍もある本書『ポジショナリティの射程』は、その中身においても、「歯ごたえ」がまったく違う。
1ページごとに休みながら読まないと、頭の方がついていかないような本だから、いくら「オススメしたい」とはいっても、おいそれとオススメできるような本ではない。
まただからこそ、私が本書から学んだことの一部を、本稿では、何回かに分けて紹介し、そのことで「今どきの、日本の若い自称(現代)フェミニスト」が、「程度が低い」だけではなく、いかに「インチキ」なのかを、紹介していきたいと考えるのだ。
○ ○ ○
さて、この「第1回」では、本書から引用した、下の部分についての説明をしたい。
ここに、北村紗衣や「現代フェミニズム研究会」メンバーの、「偽善と無自覚」の本質が、すべて明らかにされているからである。
ただし、同書でも、この引用部分に至るまでの100ページ強において「ポジショナリティという概念の説明」に費やされているのだから、本稿でも、ここでそれをごく大雑把に説明しないことには、下の引用文を理解できる人は、ほとんどいないだろう。
だから、最初に「原文」を引用して示した上で、次に「用語の説明」をし、そのうえで、下の引用文が意味するところを解説したいと思う。
『ポジショナリティの複数性
われわれが社会生活を送るなかでは、同時に複数の権力露現関係が発現する。一人の個人は、かかわる社会的関係に応じて複数のポジショナリティにおかれることになる。それは帰属する集団の、複数の他集団との関係、個人が帰属する集団が複数に及ぶことの両方の理由による。たとえば日本人個人は、日本人という集団に帰属している。そして沖縄人やアイヌ、在日外国人に対しては抑圧者というポジショナリティにおかれるが、アメリカ人に対しては、文脈により被抑圧側となることもありうる。これは同一呼称でそれぞれ単一の権力露現関係が焦点化される場合である。わかりやすくいえば、同じ呼称であっても相手が変わればポジショナリティの様態も変わるということである。
また人びとはひとつの集団にのみ帰属しているわけではない。日本人女性は、日本人という集団と女性という集団に帰属している。したがって、日本人男性に対しては被抑圧側である。これは〈性差別関係〉という権力露現関係によるものである。しかし彼女たちも、沖縄人に対しては抑圧者というポジショナリティにおかれる。これは〈日沖関係〉という権力露現関係によるものである。たとえば日本人女性にとって沖縄人女性との権力露現関係は、〈日沖関係〉だけである。〈性差別関係〉という権力露現関係においては、日本人女性と沖縄人女性は(※ 女性という)同じポジショナリティを共有しているからである。したがってこの関係性において焦点化される権力露現関係は〈日沖関係〉(※ の方だけ)である。
第二章にて紹介した、岡真理が焦点化したFGMやサティをめぐる論点もこの状況と同じものである。FGMやサティを女性への暴力として批判する第一世界のフェミニストたちと第三世界のフェミニストたちとのあいだの齟齬は、〈植民地主義関係〉というもうひとつの権力露現関係によってもたらされたものである。この場合は〈性差別関係〉という権力露現関係と〈植民地主義関係〉という権力露現関係が同時に念頭におかれていた。注意すべきなのは、たとえばここでのシスターフッドという概念の成立失敗(※ としての、共闘の失敗)は、シスターフッドという概念そのものになんらかの決定的な問題や欠落があったわけではないと思われる点である。第一世界の女性と第三世界の女性は、たしかに女性というポジショナリティを共有している。それぞれの社会において男性からの抑圧を受ける存在だからである。この意味で、第一世界の女性が第三世界の女性が受けてきた暴力を批判し、第三世界の女性に共感を寄せること自体は理に適ったものであり、それをシスターフッドと呼ぶのならば、それが成立する可能性はあったと思われる。しかし現実はそうならなかった。〈性差別関係〉においてポジショナリティが共有されていても、〈植民地主義関係〉において抑圧関係が存在しており、そこで抑圧が再生産されていたからである。そして第一世界のフェミニスト女性たちは、この権力軸の存在を忘れていたのである。第三世界の女性たちはその点を批判したのだった。』(P114〜115)
ここで、説明が必要な、中心概念は、
・ポジショナリティ
・権力露現関係
である。
このほかに「FGM」や「サティ」あるいは「シスターフッド」などの専門用語もあるが、こちらはさほど難しい内容のものではなく、単に聞きなれない言葉であるだけだから、こちらを先に解説しておこう。
まず「FGM」だが、これは「女性性器切除」のこと。
こうした、第三世界(アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの新興国や発展途上国)の古い慣習を、第一世界(先進国)のフェミニストたちが「女性差別」だと問題視して告発した際に、第三世界のフェミニストたちが、そうした批判こそが「植民地主義的な文化蔑視」の表れだと反批判した。
そのことで、それまでの「第一世界」的なフェミニズムに伏在していた「植民地主義的な視点」という無自覚だった問題が明らかとなり、フェミニズムにおける(性差別問題だけに限定されない)「交差性(多視点性)」の必要性が、(人種問題の時と同様に)またもや問われることになったのである。
「サティ」(または、サティー)とは、「インドにおける寡婦殉死」という慣習のこと。
これも、単純に「女性蔑視」的な悪しき慣習だとは片づけられない、多視点的な検討を要する問題なのだ。
「シスターフッド」とは、北村紗衣なども使っているが、要は「女性同士の連帯精神(としての絆)」というほどの意味である。
つまり、「FGM」や「サティ」などの問題では、「第一世界」のフェミニストたちは、良かれと思って、「第三世界」の女性たちのために、そうした慣習を批判したのだけれど、そこには、自分たちの文化的な優位を自明なものとする「傲慢(という色眼鏡)」ゆえの、安易な判断があったということである。
「第一世界」のフェミニストたちとしては、「第三世界」のフェミニストたちとの「シスターフッド」の発露として、良かれと思ってやったつもりだったのだが、そうはならずに、逆に批判される結果となってしまったのだ。
つまり、ひと言に「差別」あるいは「差別的」なものだといっても、それは単に「女性蔑視」という単一観点からだけでは語れない、多様な要素や側面が含まれており、それらにまで配慮しなければ、自分の方が差別者になってしまいかねない、ということなのである。
そして、こうした難問を解くキーワードとして、フェミニズム方面では、馬鹿の一つ覚えのように「交差性(インターセクショナリティ)」という言葉が、言挙げされる。
例えば、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」にも、次のようにある。
『鍵を握るのは、インターセクショナリティ(交差性)の視点であり、また運動の在りかたです。』
たしかに、「交差性(インターセクショナリティ)」という考え方は、きわめて重要なものだ。
けれどもそれは、決して「万能薬」ではないし、ましてや、その言葉を唱えるだけでは、「あれこれ多面的に、配慮してますよ(やってますよ)」いう、アリバイ作りのためのアピールにしかなっていない。
だが、いうまでもなく、「交差性」に配慮するというのは、そんなに簡単なことでもなければ、お手軽な話でもないのである。
そして、そんな「フェミニズムにおける交差性(インターセクショナリティ)」という、えてして十全な実行を伴わない(所詮は)「レトリック」でしかないものの問題性(欺瞞)を、明らかにするのが、「ポジショナリティ」という考え方なのだ。
実際、「交差性」というのは、あるひとつの問題には、多様な要素が複合的かつ複雑に絡んでいるのだという「難しい事実」への、認識を促がすもののはずなのである。
ところが、「交差性(インターセクショナリティ)」という言葉を軽々に口にする、今どきのフェミニストにしばしば見られるのは、この言葉さえ唱えておけば、まるでそれが実践し得ているかのように見せかけるだろう、という安易さであり、意図的な「欺瞞」なのだ。
しかし、あれにもこれにも、すべての側面に配慮するなどということは、聖徳太子でもない「凡人」に、十全にできることではないのだし、そうした現実に即した、謙虚な自己認識というものが、「交差性」ということを言挙げする「フェミニスト」には、いっかな見られないのである。
「差別」の問題というのは、「性差別」という観点の一本槍で済ませることのできない複雑な現象である場合が多々あり、そのため、「人種差別」や「階級差別」などの多様な視点から検討しなければならないことも多い。一一と、こうした考え方自体は、原則としては正しい。
だが、「多様な視点」とは、原理的には「事前想定が困難なほどに多様な視点」ということでもあり得るのだから、例えば、「性差別」と「人種差別」と「階級差別」の視点にさえ配慮すれば、それで十分、というようなことには、ならないのだ。
例えば、「歴史性」や「地域性」といったことも、しばしば考慮が必要な項目となるのが、フェミニストに、それがいつでも十全になし得るのだろうか、ということである。
ところが、今どきの日本のフェミニストたちは、「性差別」と「人種差別」と「階級差別」という3つもの側面にまで考慮すれば、「それでもう、差別批判者としての私たちの立場は、どこからも文句をつけられる(反批判される)筋合いなど無い、完璧なものだ」と、そう言いたげなのだ。
一一だが、そうは問屋が卸さない。
なぜなら、物事にも人にも、多様な属性が複雑に含まれているのだから、そうしたリアリズムを前提にすれば、「完璧に無謬の立場(完璧に免責された立場)」などは、あり得ないからである。
そして、こうした過酷な事実を、容赦なく明らかにするのが「ポジショナリティ」であり、「ポジショナリティ」か明らかにするのが、そんな各種の「権力露現関係」というものなのである。
さて、これでやっと「ポジショナリティ」という言葉(学術用語)の説明に入ることができる。
「ポジショナリティ」とは、日本語で言えば、対他的・相互関係的な「位置性」とか「立場性」ということになる。
その人の立っている「位置」であり「立場」が持ってしまっている、他の「位置」や「立場」との「権力関係」の存在事実を指し示す概念が、「ポジショナリティ」なのだ。
例えば、「性差別(男女差別)関係」における「男性」は、「女性」に対して、「支配的で差別的」な位置に立っており、そのことによって「差別的な権力」を有している、と言える。これが、男性の、女性に対して有する「ポジショナリティ」だ。
これとは別に、「日米関係」で言えば、「アメリカ」は「日本」に対して、圧倒的な優位に立っている。その実例が、わかりやすく不平等な「日米地位協定」である。
また、人によっては、そうした現実をして「日本は、実質的にアメリカの属国だ(独立国家とは言い難く、アメリカに従属的だ)」と言ったりもする。
こうしたことが「日米関係のポジショナリティ」なのである。
次には、日本(本土)と沖縄の「日沖関係」、あるいは、日本人(本土人)と沖縄人の関係における「権力関係」を見てみよう。
それを典型的に明らかにしているのが、「沖縄への米軍基地」の押しつけ問題である。
誰も、家の近くに米軍基地などあっては欲しくない。うるさいし、何よりも危険だからだ。
しかし、それでも日本に米軍基地が必要だというのであれば、日本国民は、米軍基地の存在に関する「痛み」を、同じ国民の中で平等に分かち合うべきだろう。
ところが現実には、その大半が、狭い沖縄に押しつけられている。
どうして、そんなことになるのかと言えば、それは平等・対等であるべき日本の国内において、沖縄や沖縄人だけが劣位に置かれて、「差別」されているためである。
また、だからこそ沖縄人には、沖縄を、単純に「日本」の一部とは考えにくく、別扱いにされている特別な存在と考えなければならなくなり、忌憚なく言えば、沖縄は日本にとって、嫌なものを一方的に押しつけることの出来る、「植民地」も同然の扱いを受けている存在(場所)だと、そういう話にもなってしまうのだ。
そのため、沖縄人の多くにとっての沖縄は、「日本の中の(日本の一部としての)沖縄」ではなく、日本と切り離されて別枠で存在する場所だと認識されることになる。
またそのために、「日沖」関係などという、対立項的な表現がなされたりもするのだ。
明白な事実として、日本(本土)は、沖縄に対して、不当に犠牲を強いており、それはまるで「日米関係」の縮小版たる、不平等な「権力関係」なのだが、日本(本土)と沖縄の間には、このような「ポジショナリティ」が存在している、ということなのである。
つまり、「ポジショナリティ」とは、その人が置かれた「位置」や「立場」が、他の「位置」や「立場」に対して持つ、「権力関係」としての「加害者(抑圧者)性」だの「被害者(被抑圧者)性」だのといったことを明らかにするものなのだ。
そして、「ポジショナリティ」認識が明らかにするもののことを「権力露現関係」と言う。
要は、両者の立場の違いや差異によって生じる「権力関係」を露わにするもの、あるいは「露わにされた権力関係」のことを、そう呼ぶのである。

さて、ここまで説明すれば、上に示した引用文が、何を語っていたのか、おおよそのところはご理解いただけよう。
上の引用文の肝となるのは、冒頭部分での「ポジショナリティ」の説明であり、あとはその具体例による補足説明でしかない。
『 われわれが社会生活を送るなかでは、同時に複数の権力露現関係が発現する。一人の個人は、かかわる社会的関係に応じて複数のポジショナリティにおかれることになる。それは帰属する集団の、複数の他集団との関係、個人が帰属する集団が複数に及ぶことの両方の理由による。たとえば日本人個人は、日本人という集団に帰属している。そして沖縄人やアイヌ、在日外国人に対しては抑圧者というポジショナリティにおかれるが、アメリカ人に対しては、文脈により被抑圧側となることもありうる。これは同一呼称でそれぞれ単一の権力露現関係が焦点化される場合である。わかりやすくいえば、同じ呼称であっても相手が変わればポジショナリティの様態も変わるということである。』
つまり「私はフェミニストであり、差別的抑圧と闘っている者です」と主張したところで、その人も、別の「ポジショナリティ」においては「抑圧者の立場」に立っている、ということでなのある。
そんな事実を、「ポジショナリティ」という考え方は、明らかにしているのだ。
具体的に言えば、北村紗衣は「フェミニスト」として「女性差別」と(それなりに)闘っている、というのは事実だし、自身「女性」として、「男性社会」の中で劣位に置かれて差別され、不利益な立場を立たされている、というのも事実である。
しかしながら、日本人の一人である北村紗衣は、沖縄人やアイヌや在日朝鮮人などに対しては、個人的に差別的な感情を持っていようといまいと、日本人というその「立場・立ち位置」においては、まぎれもなく、「抑圧者」てあり「差別者」だということなのだ。
それが、北村紗衣の「ポジショナリティ」なのである。
また、北村紗衣が「大学教授」として、「実力」不相応な「優遇」を受けるのも、その「大学教授」という「ポジショナリティ」が持つ「権力性」のゆえなのだ。
つまり、「大学教授」である北村紗衣は、「肩書きなしの一般人」という「ポジショナリティ」に立つ私に対して、その「ポジショナリティ」に由来する「抑圧的な権力」を行使して、私を無視黙殺している、とも言える。
そしてこうした「ポジショナリティの優位性」による、ポジショナリティにおける劣位者への「抑圧・差別」というのは、肩書きを持たない私のような一般人に対するだけではなく、例えば「大学人」というポジショナリティの内部における「助教授」や「助教」に対しても、その意図が、個人的にあろうとなかろうと、事実として現に行使されている、ということになる。
言い換えれば、その「ポジショナリティ」における「権力」を行使する気が無いというのであれば、そもそもそんな特権的な「立場」に立ってはいないし、その立場を捨てるはずだ、ということなのである。
したがって、個人的には、他のポジショナリティに立つ人を「差別」する気が無くても、その立場に立っているという事実をして、それだけで、常にすでに「ポジショナリティに伴う権力」を行使し、受益しているのであり、だからこそ、その立場責任も、当然問われる、ことにもなる。そうなって当然なのだ。
しかし、以上のような「ポジショナリティ」についての理解は、いまだ不完全であり、曖昧なものなのかも知れない。
なぜなら、「ポジショナリティ」とは本来、その「ポジション」自体が持つ「権力性とその責任」のことを指すものであり、その「ポジション」を、そこに立つ人が、意図して望んだか否かには、関係のないものだからだ。
一一ここが「ポジショナリティ」の、わかりにくいところであり、誤解されやすいところでもある。
例えば、「男性」であれ「女性」であれ、誰も望んでその性別に生まれたわけではない。
自分自身には、性別の選択権など無く、気がついた時には、男であったり女であったりしただけだ。
一一それなのに、「男だから、貴方は抑圧者の立場にあり、その責任を負わなければならない」と言われたり、「私は女だから、自明に男からの非抑圧者なので、男に対して、この差別関係を解消せよと要求する権利がある」などと言われると、男性としては、つい「そんな理不尽な」と、そう考えてしまいがちである。
だが、ここでは、個人の「アイデンティティ(自己認識)」と「ポジショナリティ(立ち位置)」認識の、混乱が生じている。
女性が、「すべての男性」に対して「貴方個人が女性差別者であろうとなかろうと、貴方はまぎれもなく男なのだから、それだけで抑圧者の立場にあり、その責任を負わなければならないし、一方の私は、女だから、自明に男からの被抑圧者なので、男に対して、この差別関係を解消せよと要求する権利がある」とそう言えるのは、男性が個人的に差別者であろうとなかろうと、「男性であるという、その事実(ポジショナリティ)」において、すべての男性は、その立場から「受益」しており、その「利益」は、不当に劣位に置かれた女性から搾取されたものに、他ならないためである。
つまり、男性が女性からの批判を受けなくて済むようにするには、この世から「性差別(男女差別)」を完全に消し去るか、あるいは、自分が「女性になる」かしかない。
そうでないかぎりは、女性差別の意図があろうとなかろうと、どの男性も、女性の抑圧者という立場に現にある、ということであり、これは、動かしようのない「事実」なのだ。
だから、そうした「差別抑圧関係」の存在を否認拒絶する気がないのであれば、その人は、そのあきらかな事実としての差別を、撤廃するための行動を採らなくてはならないだろう。
それをせず、現状に安住して、その「ポジショナリティ」において、黙って「受益」しているような男性が、「罪なき人」でなど、あろうはずがないのだ。
言い換えれば、その男性に、他者を差別抑圧する意図があろうとなかろうと、男性であるかぎり、女性に対する差別抑圧についての、責めを負う義務があるのだ。
つまり、批判されて然るべき位置に立っているということだ。
仮にその男性が、自身「フェミニスト」として「女性差別反対」を唱えて運動していてさえ、現状では、まだ存続している「女性差別」について、「男性」としての責めを負ったままであり、「反差別運動をしている」からと言って、決して「免責されてなどいない」、ということである。

したがって、「現代フェミニズム研究会」に所属の男性フェミニストたちも、他の男性と同様に、その「男性」であるという「ポジショナリティ」において、「女性差別」についての責めを負っているのだから、「女性差別」に対して反対するのは「義務」でこそあれ、特別に立派なことでもなければ、ましてそのことによって、「差別抑圧者」の立場に立っているという現状についての、責めを免除されるわけではないのだ。
また、北村紗衣などの「女性フェミニスト」たちは、こと「女性差別」に関しては、被害者・被抑圧者として、責めを負うことはないけれども、しかし、男女を問わず、すべての人間は、原理的に「複数のポジショナリティ」に立つしかない存在なのだから、ただ「フェミニスト」という「ポジショナリティ」を選んでいるという事実だけを持って、自身の「潔白(無加害者性・無抑圧者性)」を主張することはできない。
つまり、「日本人・女性フェミニスト」もまた、「沖縄人」や「アイヌ」や「在日朝鮮人」や「被差別部落民」等に対しては、その「日本人」という立場(ポジショナリティ)において、「有責」なのである。
フェミニストとして「女性差別反対」を唱えているからと言って、自身の有する「他のポジショナリティ」における「有責性」を免除されるわけではないのだ。
そして、ここまで来れば、北村紗衣や「現代フェミニズム研究会」の面々が、どうして「フェミニズム」の話しかしないのか、あるいは、「女性差別」の話しかしないで済む「専門家」のポジションに固執するのか、その理由も、すでに明らかであろう。
要は、彼(女)らは、自らの「フェミニスト」という「ひとつの立場(複数の立場のうちの、たった一つだけ)」を強調することによって、「他の属性的な立場」における「加害者性・抑圧者性」を隠蔽して、まるで自分が「加害者性・抑圧者性」など一切保有しない、一点も曇りもない「正義の味方」であるかのように、見せかけているのである。
しかし、だからこそ、そうした「フェミニスト」たちの「偽善」は、しばしば「アイデンティティ政治(アイデンティティ・ポリティクス)」にすぎない、と批判されもするのだ。
一人の人間が保有する「立場性(ポジショナリティ)」は数多く、あまりにも複数的なものであるのに、その中から、自分が「正義の味方」や「被害者」になれる立場だけを、ご都合主義的にピックアップして、さもそれが自分の立場の「すべてでもあるかのように、訴え(見せかけ)る」というのが、ご都合主義的な「欺瞞」でなくて、何であろうか?
そんなわけで、「ポジショナリティ」という考え方(視点)は、「アイデンティティ政治」的な「欺瞞」を明るみに出すその力において、欺瞞的に「正義の味方」になりすまそうとする側に立つしばしば無自覚な「偽善者」たちから、次のように批判されることが少なくない。
「個人の現実を見ず、ミソもクソも一緒くたにして、すべてをその立場に還元する、誤った本質主義だ」
このように、拒絶的に批判されることが多いのだ。
だが、こうした「ポジショナリティ」への拒絶的な理解が、間違ったものであるというのは、これまでに縷々説明したとおりである。
「ポジショナリティ」で問題とされているのは、あくまでも、現在その人が立っている「立場」であり「立ち位置」の現実(事実)であって、その人個人の「考え」や「言動」など、問題ではないし、関係のない話なのだ。
その人が、何を考えていようと、どんな行動を採っていようと、その人がその時に、現に立っている、その「立場」が有する「権力性とその責任」は、何も変わらないからである。
さて、このように考えてくれば、北村紗衣をはじめ、「現代フェミニズム研究会」の面々が、どうして「フェミニズム」や「女性差別」や「トランスジェンダー差別者」といったごく限られた領域の話しかしないのかは、明らかである。
彼らとしては、話題や関わりをそこだけに止めておけば、自分は、世間の賞賛を浴び、支持を得ることの出来る「正義の味方」に止まっていられると、そう功利的に考えている。
そうした自己限定の中に身を潜めていれば、他人から「(フェミニストという立場以外の、他の属性的な立場における)責任を取れ」などと責められる恐れが低いと、そう考えている。
平たく言えば、「フェミニスト」という「肩書き」の誇示は、保身のための、一種の「煙幕」なのである。
だからこそ彼「女」らは、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」といった「差別問題」には、金輪際、触れようとしないのだ。
そうした「差別問題」に興味が無いからでもなければ、それが専門外だからでもなく、そこに触れれば「藪蛇」となって、自身が「責められる立場」に立たされると、そう先手回しに考え、そうなることを怖れ、その責めから予防的に逃れるために、意識的にそれらの差別問題への関与を「忌避」してきたのである。
したがって、私が北村紗衣を批判するにあたって、直観的に、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」といった問題を持ち出したのは、まったく正しかったのだ。
正しくそれは、北村紗衣の、そして「現代フェミニズム研究会」の、「痛いところ」を突くものだったのである。
不勉強な北村紗衣は別にしても、「現代フェミニズム研究会」のメンバーの中には、私の批判が、実質的に「ポジショナリティ」論に立脚するものだと気づいて、「嫌なところから突いてくるやつだな」と思った者も、いたかもしれない。
しかし、それに気づいたからといって、私に反論するのは、「ポジショナリティ」論の泥沼に自ら入っていくようなものだから、彼(女)らは賢くも、「無視黙殺」を決め込んだのである。
彼らには、知らずに「ポジショナリティ」論を持ち出してくるような私を、論破することなど、原理的に不可能なのだ。
彼らの「触れて欲しくない部分」に、狙い澄ましたように指を突き立てて来るような私の批判には、応戦のしようもなく、無視して逃げるしかないのである。
いくら「フェミニスト」だ「大学教授」だといったところで、「やましい」部分を隠し持っている者には、正々堂々の議論など、出来るわけがないというのが、彼(女)らの、身も蓋もない現実だった。
彼(女)らもまた「差別者」であり、その事実を認めないかぎり、彼(女)ら自身、「無反省な差別者」に止まらざるを得ないのである。
(2025年5月22日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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