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スラヴォイ・ジジェク 『「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』 : 「オール・オア・ナッシング(All or Nothing)」に非ず

書評:スラヴォイ・ジジェク「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』(NHK新書)

いささか唐突だが、無関係な話ではないので、まず問うておきたい。

なぜ「差別」は、いけないのだろうか?
なぜ、「いけない=好ましくない」ものとされるのだろうか?

一一あなたはこの問いに、きちんと答えられるだろうか?

あるいは、それ以前の問題として、「なぜ、差別はいけないのか?」と、そう自身に問うて(考えて)みたことがあるだろうか?

一一案外、無いのではないだろうか?

つまり、「差別がいけないこと」だというのは、「当たり前=当然」だと、そう決めつけていて、そのために、事改めて考えたことなど無かったのではないか?

ではなぜ、そうした人は、そのように「決めつけていた」のであろうか?

たぶん、多くの人は「そのように教えられたから」であろうし、「自分も差別されたら嫌だから」だと、そう考えたからではないだろうか?

しかし、それならどうして「差別」は、現に存在するのであろうか?

「それは、差別がいけないことだとわからない愚かな人が、それを差別だとわからずにやるから」なのだろうか?

だとすると、そもそも「差別とは何か?」ということが問題になってくる。
それが、わからなければ、その判断や行為が、差別か否かの判断ができないからだ。

そしてここで、しばしば問題となるのが、それは「差別なのか、区別なのか?」と言われるようなことであろう。
周知のとおり、自身の行為を「差別」だと批判非難された人は、しばしば、自身の行為を「差別ではない。区別をしただけだ」として正当化しがちだからだ。

だが、これを他人事だと考えてはいけない

「何が差別であり、何が差別ではない(区別な)のか」という明確な判断基準を、あなた自身、持っていないのであれば、あなたが「これは差別ではない」と判断した上での言動が「差別だ」とされることだって、十分にあり得るからだ。

一一だがあなたは、そんな、いつでも通用するような、しっかりとした判断基準をもっているだろうか?
案外「なんとなく」、それは「差別だ」「差別ではない」と判断しているだけなのではだろうか?

たとえば、「親に」あるいは「教師に」、そのように教えられたから、そう思っているだけなのではないのか?

しかし、「親」や「教師」あるいは「世間」や「テレビ」や「ネット」が、間違えることはないのだろうか?

一一もちろん、間違えることはある。
それは歴史に明らかな事実だと、そう断じても良いだろう。

有名なところでは「黒人」が差別されたし、「ユダヤ人」が差別された。
日本では「部落民」が差別されたし、「賎業」とされるものに従事する者が差別された。その「職業」が卑しいと差別され、だから、それに従事する者も卑しいとされたのだ。「職業差別」である。

そしてかつては、そうした職業が「家業」とされることもあったから、そうしたことから、それが「家柄(が悪い)」の問題として差別されたし、財産(カネ)さえがあれば職業が選べたために、貧しい者がおのずと「賎業」とされるものに就かざるを得なかった。
またそのために、貧しいこと自体が卑しめられ、「貧民」が差別されたのだが、このように考えてくると、本当に「何ひとつ差別したことのない」人など、存在するだろうか?

私は「差別したことがない人など、いない」と思う。あるいは「差別心」を持ったことのない人などいないと、そう言い換えても良い。

逆に言えば、「差別したことがない」とか、自分には「差別心など無い」と思っているような人は、「差別」ということを真面目に考えたことのない、よほど愚かな人だということにしかならないだろう。

したがって、「なぜ、差別はいけないことなのか?」ということを考え詰めたことのないような人が、差別をしないで来れたなどということは、あり得ない話だと、そう、断じても良いのではないだろうか。生まれついての「天使」でもあるまいし。

現に、ほとんどすべての人は「この世には、さまざまなの差別がある」と、まるで他人事のように認めはするはずだ。

だが、そんなにさまざまな「差別」が存在するのは、「差別」についてまともに考えたことのない人が、大勢いるからなのではないのか?

では、再び問うが、「なぜ差別はいけないのか?」あるいは「何が差別で、何が区別なのか?」といった「難問」を、あなたは真剣に考えてみたことがあるだろうか?

たぶん、そんな人は、決して多くはあるまい。
だとすれば、一一多くの人が、現に差別をしており、現に差別が数多く存在するというのも、当然のことなのではないだろうか。

では、話題変えて、こう問おう。

「進歩とは、なぜ好ましいものなのか?」

この問いに対しては「良い状態に変わることは、好ましいに決まっているからではないか」と答える人がいるだろう。確かに、そのとおりだ。
一一だが、それは「好ましいことは好ましい」と言っているだけで、根拠を示したことにはならないのではないか。いわゆる「同語反復」というやつで、何も言っていないに等しいのではないだろうか?

では、「同語反復」にならないように、「なぜ、進歩は好ましいのか?」という問いに、私はこう答えよう。

「進歩が好ましいのではない。好ましい方向への変化を、進歩と呼んでいるのだ」と。

たとえば、「便利なもの」が発明されるのは、一般に「進歩」だと言われるが、それが世の中や多くの人に「害」をなした(便益や利益をなさなかった)とすれば、それは「進歩」だとは認められないだろう。つまり、「発明」が、すべて「進歩」だとは限らないはずだ。

もちろん、「発明」品は、多くの場合「使いよう」で、好ましい結果も、好ましくない結果も生むものだ。だから、要は「使い方を間違えなければ、大概の発明は、進歩のうちだ」と言えるのだが、だからと言って、すべての「発明」が「進歩」だとまでは言えまい。
例えば、「核兵器」の開発を、「進歩」と呼ぶ人は、ほとんどいないのではないだろうか?

たしかに「技術的進歩」の結果として生み出されたものではあるのだが、しかし「核兵器」そのものを、「進歩」の内に含める人は、まずいないだろう。
なぜなら、「核兵器」の生む結果は、ほぼ必ず「好ましいものではない」と考えられるからである。「好ましくない」ものが生み出されることを、普通は「進歩」とは呼ばないのだ。

ならば「進歩」は、必ず「好ましい」結果を生むはずであり、だからこそ私たちは「進歩」を望んできたのだが、しかし、その「進歩」の結果、人類が絶滅の危機に瀕しているのだとしたら、その「進歩」と思えたことは、実は「進歩ではなかった」ということになるはずである。
ならば、私たちはどこで、「進歩ではないもの」を「進歩」だと見誤ってしまったのであろうか?

本書のタイトル『「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』とは、まさにそういう「問い」なのだ。

さて、ここで再び、話を「差別」問題に戻そう。

「差別を無くす」というのは、人類・文化の「進歩」なのだろうか?

普通は「進歩」だと考えられるだろう。
ではなぜ「差別を無くす」ことは「進歩」だと考えられるのだろう?

それはたぶん、「一部の人が幸せになる」のではなく、「みんなが幸せになる」方が、良いに決まってるから、ではないだろうか。
「みんなが幸せになる」のであれば、誰も「差別を無くす」努力に、反対する人はいない。

けれども、現実には、いわゆる「反差別運動」に対して「反対」する人が、少なからずいるのは、なぜなのだろう?

それはたぶん、その「反差別運動」によって、自分が今より不幸になると考える人が、現にいるからではないだろうか。
自分の「幸せ」の一部を、他の人が奪おうとしていると、そう考えるからなのではないか。

では、差別をなくすという努力をすれば、それだけで「みんなが幸せになる」というわけではないのだろうか? そうはいかないということなのだろうか?

たぶん、そうなのであろう。
それまで自分が持っていた「権益」が、強制的に他人に移されるのを喜ぶ人は、あまり多くはないはずだ。
つまり、それを「喜ばしいことではない」と感じるから、「権益を奪われた分、自分は不幸になった」と考えるのだろう。それはたぶん、自然な感情だ。

では、ある人を「不幸」にしてまで、なぜ「別の人」を「幸福」にしなければならないのだろうか?
「幸福」の総量は同じようなものなのに、なぜ、その分配をわざわざ変えなければならないのだろうか?

たぶんその答は、「公平平等」が正しいと考えるからであろう。
つまり、「権益」の偏りは、それ自体が「悪」であるから、是正されなければならず、その是正によって「公平平等」が実現されなければならないと考えるから、「みんなが幸福になること」よりも先に、まずは「差別の是正」が必要であり、それがこそが、より根本的な「善」であり「正義」であると考えられるためであろう。

こうした「公平平等」は、一般に「善」であり「正義」であると考えられているが、しかし、そうではないと考える人も少なくない。

例えば「努力した人が、より多く幸せを得るべきである」と考える人は少なくないし、これ自体は「当たり前」のことのように思えるのだが、事はそう簡単ではない。
なぜなら、その人の「努力量」を、何を持って、誰が量るのか、という問題があるからだ。

例えば、一見「怠けている」ように見えても、それは、実は「病気」のせいかもしれないし、「身体障害」のせいかもしれない。

それなら、それは「仕方ない」ことだから、「怠けているのではない」ということにしよう、ということにしたとする(現に、そうしている)。

だが、身体的あるいは知的な「障害」のせいで「努力しようにも出来ない」場合は、「怠けているわけではない=怠けていない」ということにしたとすると、では「持って生まれた性格として、怠けてしまう」人は、どうなるのだろうか?

その人は、普通「怠け者」とされるのだが、しかし「持って生まれた性格」と「持って生まれた障害」とは、厳密に線引きできるようなものなのであろうか?

医学的に「障害」だと認められなかった人が怠けているのを、別の人が「怠け者が不幸になるのは、自業自得だ」と考えたり、時に、その人を発奮されるべく「怠けていると、当然の報いとして不幸になるぞ」と告げることは、正しいのだろうか?

その場合、その「怠けている人」が、

「私だって、好きでこんな性格に生まれてわけではない。勤勉な性格に産んでもらっていたら、勤勉な生き方をしただろう。だが、私の親は、私に断りもなく、こういう怠け者の性格に産んだのだ。これは、私自身には、どうにもならないものなのだ。生まれつき努力できない性格なのだから」

と言ったとしたら、その言葉を「言い訳だ」「詭弁だ」と否定するのは、はたして適切なことなのだろうか?

実際、ひと昔前なら、今で言う「発達障害児童」は、単に「落ち着きのない(自制心の足りない)問題児」だとしか見られず、先生に叱られ、厳しく躾けられた。
逆に言えば、先生としては、躾けることが「可能」だと考えられていたからそうしたのだし、そのように躾けなければ、当人(児童)が将来、社会の出た時にうまく生きていけないと、そう考えたからであろう。つまり、「やれば出来る」はずの、当人のために「努力」を、させようとしたのである。

だが、それは今では「間違い」だったとされている。

生まれつき脚の無い人に、他の人と同じように「走れ」と要求するのは無茶であり理不尽であるのと同様、生まれつき「頑張る能力が無い」人に、頑張りを求めるのも無茶なのだから、そういう人にはそういう人なりのものを求めるしかないだろう。

だが、では、現に「頑張っていない人」が「私は頑張る能力が欠損した人間なのだ。だから、頑張らないのではなく、頑張れないのだ」と主張した場合、その主張が「事実なのか嘘なのか」を、客観的に判断できるものなのだろうか?
そもそも、そうした主張について、それが事実と嘘に、厳密に二分できるようなものなのだろうか?
あるいは、恒久的な「線引き」など、可能なのだろうか?

例えば「嘘つき」という性格も、先天的か後天的かを問わず、一種の「障害」だとは言えまいか?

したがって、厳密に言えば、上のような言葉が、本物か偽物かの「線引き」など、たぶん不可能であろう。他人にとってだけではなく、当人にとっても、である。
なぜなら、現に、そうした「線引き」は、「科学の進歩」や「社会の意識の変化」によって、どんどん変わってきたものだからだ。

では、「私は努力できません」と主張する人に、どう対処すればいいのか?

「線引き」ができない以上、その主張をすべて全面的に認めるべきなのだろうか?
しかし、そうすれば当然、多くのフリーライダーが現れて、働かずに楽して生きようとするだろうし、そうなると、真面目に働く正直者が、そうした人たちの分まで働かねばならず、馬鹿を見ることになるのではないか? 
一一そうなっても「仕方ない」と考えるべきなのか?

しかし、現実には「言った者勝ち」にするわけにはいかないから、すべての自己申告を、丸ごと是認するというわけにはいかないだろう。
となれば、その時点での「暫定的な線引き」である、例えば「医学的な線引き」において、こっちは「障害」であり、こっちは「性格的な怠け」だと区別するしかない、ということになるのだろうか?

しかし、そうだとすると、「今の基準」で見れば間違っていることも、「昔の基準」での判断はやむを得なかった、それは、その当時における「正当な判断」だと、そう考えるしかない、ということになるのではないか?
それは、法律における「不遡及の原則」みたいなものである。つまり、後でできた法律によって、過去の行為を「犯罪」とすることはできない、というのと同じことだ。

だとすれば、「差別」問題についても、「今の基準」で、躊躇なく押し通せば、それが将来的に「間違っていた」と判断されることでも、責任は問われず、「問題の無い行動」だったということになるのだろうか?

たとえば、上のように考えて、「差別はいけない。よって、反差別運動は、問答無用で推進されるべきである」と考え、そうした積極的な「反差別」の立場に従わない、あるいは積極的に反対する人は、「差別者」であり「悪」だと、そう呼んでいいのだろうか?

これもたぶん多くの人は「その時点で、そうとしか考えられないのだから、そう断じてもも良い。したがって、どんな反対意見があろうと、それは所詮、差別意識に出たものでしかないということになるのだから、そんなものには耳を貸さず、断固として、その反差別を推進すべきである。それが正義なのだから」と、そう考えることだろう。
人はしばしば、「シンプルの正義」をこそ、熱狂的に支持するものなのだ。

一一だが、それで良いのだろうか? 問題はないのか?

そもそも、なぜ「差別はいけない」という、誰もが認める主張に、反対する人がいるのだろう?

それは前述のとおりで、なにを「差別」だと考えるかは、人それぞれだからであろう。
学説ですら時代によって変わるのだから、まして一般の認識など、ひとつではなくて当然なのだ。

したがって「差別は間違い」「差別は無くさなければならない」という「基本認識」は正しく、そこは「共通」していても、いざ、実践段階において、何を「差別」だと考えるのかは、いろいろな立場があるはずなのだ。だから、実際の「反差別」運動にあっては、いろんな立場が生じて、意見の一致を見ないというのも、むしろ当然だということになるのではないだろうか。
つまり、実践の段階においては、あるひとつの「差別の定義」が、唯一「正しい」ものだとは、言えないのではないだろうか?

だとすれば、「これが差別であり、だからこの差別は断じて許されてはならない」という言い方は、実のところ「独善」であり、その意味で、他者の「価値判断」に対する「差別」、あるいは「差別的な否定」だとは言えまいか?

言い換えれば、「人種差別」も「性差別」も「職業差別」も、それだけを(他を犠牲にして良いものとして)個別的に絶対化するなら、その「絶対化」自体が、「差別」を生むことにはならないだろうか?

いや、現に差別を生んでいるのだが、それは仕方のないことなのだろうか?

つまり、新たな「差別」を生むことになってでも、ある「差別」を撤廃することにだけ尽力するというのは、正しいことなのだろうか?

だが、こんなことを、本気で支持できる人はいないだろう。
ある種の差別を撤廃するためには、別の差別も許されるというのであれば、それはもう「正義を目指す行為」ではなく、単に「党派利益を目指す行為」でしかないからで、それは明らかに「不公平・不公正」な行為だからである。

そうした、一つの失敗例が「部落解放」運動なのだ。なぜ、この運動が、今ほど影の薄いものになってしまったのか、それを他の「反差別運動」も反省してみるべきである。
特に、今の日本の「フェミニズム」は、「部落解放」と同じ過ちを犯しつつあるのだ。

本書においてスラヴォイ・ジジェクは、クリストファー・ノーラン監督の映画『プレステージ』から、小鳥を使った手品のシーンを紹介して、見事な手品のための「犠牲」となる、隠された「つぶされた鳥」の存在を見抜かなければならない、と語る。
この比喩での「手品」とは「見せかけての素晴らしさ」であり、「つぶされた鳥」は「その犠牲」の象徴である。

「脱植民地の時代(ポスト・コロニアルの現代)」においては、「反差別としての反植民地主義」の名の下に、別の差別が正当化され、温存されてしまっているケースが、現に少なからずあると、ジジェクは指摘している。

だから、そうした「反差別の陰で遂行されている差別」とその「犠牲(被差別者)」を見落としてはいけないし、そうした「独善としての反差別」を黙認してもならないと、そうジジェクは訴えている。

(1)『 悲しい話だが、脱植民地化という約束は他の手続きを進めるための煙幕として利用される可能性があり、その潜在的な解放の力もまた、過度に凝り固まった前進(※ 進歩)の定義によって万力のごとく締めつけられ、窒息させられてしまうかもしれない。アンゴラからジンバブエまで、アフリカ大陸の多くの国では、人びとが汚職まみれの政治体制のもとで暮らしている。そこでは「主人」と貧しい多数派との間の差(富や権力、特権や自由の差)が、場合によっては植民地支配の頃よりも広がっている。この状況下では「脱植民地化」もまた、新たな階級序列の台頭を表す比喩のように働いてしまうかもしれない。もちろん、植民地支配の頃のほうが「よかった」などという言説に対しては、いくらでも反論のしようがある。しかし、脱植民地化運動が問題含みの体制へと取り込まれてしまう可能性に気づけないようでは、新右派が代わりにこの可能性を実現するだろう(南アフリカではすでにそうしており、黒人には国を「適切に」運営する能力がないなどとまくしたてている)。毛沢東は「革命は晩餐会ではない」と言った。革命後の現実世界が晩餐会からさらにかけ離れた(※ 悲惨な)ものだったとしたら、どうだろうか。断っておくが、進歩を諦めよと言いたいわけではない。むしろ、進歩を再定義する必要がある。その初めの一歩として、目を背けたくなるような現実を直視できるようになろう。荒廃して支離滅裂に見える現実だけでなく、後ろめたさや痛ましさを感じさせ、もはや救いようがないように見える現実すら直視すべきだ。偽物の生きた鳥(※ 目眩しの正義)に拍手が送られ、資本主義的な腐敗と権威主義的な権力から注意が逸らされる傍らで、(※ 手品師の)トランクには(※ 犠牲の象徴たる)つぶれた鳥たちが隠されている。鳥つぶしをやめようではないか。』(P12〜14)

実際、「ポスト・コロニアリズム」の普及によって、第三世界に対する「フェミニズム」の影響力は弱まったと言われている。
先進国のフェミニストが、第三世界で行われている「女性性器の切除」や「女性へのヒジャブ着用の強制」などの慣習に対して「それは女性差別だ」と声を上げた際、第三世界の人たちから「お前たちの価値観を押しつけるな。それは西欧中心主義の偏見であり、差別抑圧でしかない」と反論されて、適切に対応できず、以降、第三世界への「口出し」は及び腰になり、「フェミニズム」は、もっぱら無難に「国内向けの反差別」になってしまった、というのである。一一だが、それでいいのだろうか?

無論、良くはない。
それでは「女性性器の切除」や「女性へのヒジャブ着用の強制」といった差別的な慣習を「強いられている」女性たちを救うことは、金輪際できないからである。

ならば、どうすればいいのか。
ジジェクは、「西欧的な価値観」が「すべて悪いわけではない」のだから、その長所を自覚的に鍛え直すことで、「見せかけの反差別(手品)」に対抗すべきだと訴える。

自分たちは「完璧」だと驕り高ぶっていたからこそ、見下していた相手から思いもよらない反論を受けて、対応を誤った。適切に対応できなかった。
しかし、自分が「完璧」ではなかったからといって、ただただ「申し訳ない」「お恥ずかしい」と、退きさがるのではなく、間違いや至らなさはそれとして反省した上で、それでも正しいと思えることは、相手のためにも、きちんと主張しなければならないのだと、ジジェクはそう訴えている。

(2)『 ラカンのセミネールの題名(‥‥‥またはもっと悪いもの)からは、ただちにある問いが浮かぶ。この省略記号は何を表しているのだろうか。もっと悪いものというとき、ここで省かれている比較対象は何なのか。ヒントとして、ラカンは「父」(le pere)と「もっと悪いもの」(pire)との間の(フランス語においてはほぼ成立する)同音異義で戯れている。そのため、本来の題名は「父またはもっと悪いもの」(le pére ou pire)となる。ここでの「父」は伝統的な父権を表すだけでなく、変数でもあり、異なる項を代入できるような空所でもある(単語そのものが空の省略記号に置き換えられている理由もここにある)。社会政治的に言い換えるならば、「‥‥‥」は支配的な権威の立場(父、上司、リーダー、専門家、教授など)を暗に含む
ような社会関係一般を表していると言える。ラカンの主張によると、そのような権威が徐々に衰えていくとき、権威側は挽回を図るために「己をもっと悪いものにする」。もっと悪いもの(ピール/pire)を動詞として発声することで、ラカンはこれを「己をまたはもっと悪いものにする」(サ・スピール/ça s'oupire)と表現している。
 ドナルド・トランプのような人物は、まさに政治指導者たちや政治的リーダー文化を「もっと悪いものにする」ことの好例ではないか。尊厳ある権威(という体裁)は(※ トランプのような)卑猥な父権的人物に取って代わられ、後者はあけすけに己を冗談の種にし、汚い性差別的なジョークや人種差別的なほのめかしに手を染めている。この手のポピュリスト系右派はどこまでいっても「ポピュルスト」だ(ドイツ語で「ルスト/Lust」は「快楽」を意味する)。憎き他者を貶めることで、最低の人種差別的・性差別的な快楽を味わう許可を与えてくれるからだ。
 すかさずここで言及しておきたいが、先ほどの「サ・スピール」(己をもっと悪いものにする、またはもっと悪いものへと近づく)の意外な同音異義語で、私の(スロベニアの)言語には「セ・ウピラ」(抗う)がある。ポピュリスト系の新右派は、ディープ・ステートと企業権力の組み合わせからなる新たなグローバリスト系エリートという悪者を設定し、これに抗う(あるいは抗おうとする)らしい。
 ここまで来れば明白だが、ラカンは抜本的な(※ 反差別的な)変革に対してよくある保守的な(※「やりすぎちゃいけないよ」的な)警告を発しているわけではない。つまり、「父権を弱体化させてしまっては、事態はもっと悪いものになってしまう」と(※ 単に、そう)言っているわけではないのだ。むしろ、「もっと悪いものにする」ことこそ、古い権威を存続させるための(※ 差別者たちの、故意の)必死な悪あがきに他ならない(※ のだということを見抜かなければならない。それは、もっと悪い方への変化なのではなく、逆戻りなのだ)。』(P95〜96)

(3)『 新右派の計略は4つのモチーフを主軸としている。自然環境にかんする「過剰な」懸念への反対、移民への反対、LGBTQ+の権利への反対、そして情熱的な愛国主義の推進だ。しかし、(ル・ペンの(※ ムスリムに対して批判的でありながら、中道ぶった)言い方を借りると)多くの「ムスリム原理主義者」もまた「過剰な」グリーン活動や環境保全に反対し、LGBTQ+の権利に反対し、自分の民族的・文化的アイデンティティを脅かす多文化主義者に反対している。つまり、(※ ル・ペンのような)新右派系ポピュリストたちは、敵視の対象であるはずのムスリム原理主義者たちと(※ 方法論的には)実は結託していると結論づけるしかない。
 これは偽善以外の何ものでもない。しかし、リベラルな多文化主義(新右派とムスリム原理主義の共通の標的)もまた偽善を含んでいる。しかもそれは、西洋の多文化主義が実は他者に対してそこまで開かれていない(※ 寛容ではなかった)、という意味だけではない。ここには超自我(※ 自己抑制的な禁止)が働いている。つまり、他者に開かれているように振る舞えば振る舞うほど、(※ 自分は、十分に開かれてはいないという)罪悪感もまた増大する。西洋のリベラルな左派の人たちの偽善は、自分の罪を認め続けるような偽の(※ つまり自己満足的な)自己批判的な態度に起因している。ここまで来れば明らかだと思うが、「もっと悪いものにする」ことは新右派の専売特許ではない。この枠組みに従うと、西洋のリベラルな左派による罪悪感に駆られた終わりなき自己批判もまた、偽善の論理に自らからめ捕られてしまっているという意味で、一種の「もっと悪いものにする」行為として解釈できる。』(P 98〜99)

ここで何が語られているのかと言えば、要は「それはそれ、これはこれ」だということなのだ。

つまり「反省すべきは反省しなければならないが、かといって全面的に間違っていたと恥じ入るという極端さも、それはそれで完璧主義者の傲慢でしかない」ということである。

たしかに、西欧の叡智は、第三世界に対して無知で傲慢であったのだから、そこは反省して改めなければならないが、だからと言って、西欧が第三世界に対して「何も言う資格が無い」ということにはならない、という話なのだ。

だから、ジャック・ラカンの言う『父性』というのも、「父性」とは、これまでに多くの誤りの元凶ではあったけれども、しかし、良いところが何もなかったということでもないし、「父性」など無くしてしまえば良いと言えるようなものでもないのだ。
もしもそうなれば、「悪いもの」を排除したつもりで、「もっと悪いもの」を招き入れることにもなりかねない、という話なのである。
「To throw out the baby with the bathwater(風呂の湯と一緒に赤ん坊を流してしまう)」という事態だ。

つまり、独善的な「脱植民地主義」の結果、植民地時代よりもさらに酷い(非西欧的に野蛮な)独裁政権が誕生して、より過酷な差別や搾取が行われることになった、というような事例が、まさにこれなのである。

私は先日書いた、シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』についてのレビューにおいて、「武蔵大学の教授」で、自称フェミニストである北村紗衣について、北村が「男性中心社会」の中で「リーン・イン」する(成り上がろうとする)「男性によって男性化された女性」だと評した。

北村紗衣は、わかりやすく、いまだに「男に作られた女」の典型だと言える。

その上で、そうした「男性に作り変えられて男性化してしまった、男性の被害者たる女性」としての北村紗衣への、男性として採るべき態度を、次のように表明した。

『例えば、私が北村紗衣を批判するのは、北村紗衣が「女性だから」でないのは無論、「フェミニスト」だからでもない。
事実、むしろ私の方こそが、真性のフェミニストであると主張して、私は「偽フェミニスト」である北村紗衣の、その「偽」性を批判しているのである。

また実際、私がこれまで批判してきた相手は、笠井潔をはじめとして、その大半は「男性」である。
ではなぜ「男性」が多かったのかと言えば、それは、これまでの社会が男性中心社会であったからであろう。打倒すべき悪の位置も、おのずと男性が占めていたのである。

だが、男女平等が進めば、私の批判対象も男女同数に近づくだろうというのは、理の当然である。

だから女性は、男性から「手加減なし」に批判されることを、むしろ喜ぶべきなのだ。
男と女は、対等に批判し合えてこそ、それもまた「男女平等」の、あるべき姿なのである。

ボーヴォワールが本書『第二の性』において、「これまでの女性」の問題点を厳しく指摘しているのも、それは、女自身が変わらなければ、社会を変えることなど出来るわけがないと、そう考えているからなのである。

そして私が北村紗衣を批判するのも、それは、北村紗衣その人が、「リーン・イン・フェミニスト(セレブリティ・フェミニスト)」であることからもわかるとおりで、いまだ「男に歪められた女」のまま、だからなのだ。

北村紗衣もまた、「男の罠」から救われなければならない女性であり、北村紗衣を救うことが、男である私に課せられた使命であり、男の端くれとしての、罪滅ぼしなのだ。

だから、手抜きなど許されはしないのである。』

つまり、私はここで、女性を抑圧するものとしての「男性」性を否定した上で、弱き者に救いの手を差し伸べようとする「男性」性だけは、捨てるべきではないと主張しているのである。
そしてこれが、ラカンが言うところの、両義性を有するものとしての『父性』的なものの、「残すべき一面」なのである。

私たちが、「先進国の住人」であれ「男性」であれ、あるいは「第三世界の住人」であれ「女性」であれ、心得えておかなければならないのは、ある「ひとつの属性」が、すべてではない、ということである。
話は、そう単純ではないからだ。

したがって、「それはそれ、これはこれ」と、たて分けて考えなければ、「悪いもの」を排除しようとして、「もっと悪いもの」を呼び込む結果になってしまうぞ、という話なのである。

(4)トランプポピュリズムは、少なくとも部分的には、自由民主主義福祉国家の失敗への反動だ。よって、リベラル中道派が推進する措置の一部(妊娠中絶を支える法律、人種の平等など)は支持できる・すべきだが、長期的にはリベラル中道派こそが危機の根因であるという点も忘れてはならない。この話は、アントニオ・グラムシ(イタリアの哲学者)の『獄中ノート』からの有名な一節へとつながる。「古いものが死にゆく中、新しいものは誕生できずにいる。その空白を幾多の病的症候が埋めている。この事実こそが危機の本質である」。現代の戦いは、右派ポピュリズムからキャンセルカルチャーまで、ほとんどがリベラル中道派の病的症候にすぎない。』

なぜ「フェミニズム」が、しばしば「男性」に評判が悪いのか?

それは無論、男性の身勝手ということがあったし、それは否定できない事実なのだから、そこは反省して、改めなければならない。

だが、それだけなのか? それがすべてだと、単純に考えたり、主張するのは、危険な誤りなのではないのか?

古いものを古いからと言って丸ごとお払い箱にすれば、それだけで自動的に「良きもの」がやって来るというほど、現実は単純ではない

じじつ私たちは、「より良き」を目指して発展しながら、自滅へ向かっている

つまり、単細胞な「正義」の濫用は、いつだって危険なものなのであり、「正義」という刃物を使うには、相応の知性と目配りのきいた配慮が求められるのである。


(2025年9月7日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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