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大澤真幸 『西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』 : 北村紗衣とドナルド・トランプ

書評:大澤真幸西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』(朝日新書)

相変わらず、大澤真幸の書くものは、じつに面白い。本書のその例外ではない。

大澤真幸は、私が、ライフワークのひとつである「宗教批判」に取り組むにあたって、ひとつの方途を示してくれた人だ。

「宗教」とひと口に言っても、あまりにも色々あって、どこから手をつけたらいいのかわからない。
そんななかで、若い頃に読んだ、大澤真幸の『虚構の時代の果て――オウムと世界最終戦争』(1996年)は、「宗教」というものを、説得力を持って批判する方法を示してくれた、初めての本だったのだ。

「宗教を、非科学的的な現象として科学的に批判するのではなく、また、安直に思想の一種と考えるのでもなく、社会心理学的な現象として相対化する」ことができるということを教えてくれたのが、この『虚構の時代の果て』であり、若き大澤真幸だったのである。

だから、大澤の著作はいつも気になっていて、可能なかぎり読もうという気持ちは持っていた。だが、実際に読んだのは、単著だと5冊ほどかも知れない。だが、買ったのは30冊を下ることはないはずだ。

近年でも、大澤の単著ではないものの、次のような本を読んでいる。

(1)大澤真幸、稲垣久和『キリスト教と 近代の迷宮』(プロテスタント神学者との対談)
(2)柄谷行人・見田宗介・大澤真幸『戦後思想の到達点』
(3)見田宗介『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(長編解説)
(4)堤未果中島岳志・大澤真幸・高橋源一郎『支配の構造  国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか』
(5)堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎『別冊100分de名著 メディアと私たち』

以上に名前の上がっている著者で、柄谷行人を別にすれば、私が最も注目していたのは、いつでも大澤真幸であった。
だからこそ、大澤の単著も多数購入してはいたのだが、その時々に興味のあるテーマの本を追いかけていると、その時々に「いま読まなければならない」ということではなかった大澤真幸の本は、どうしても後回しになってしまったのである。

ともあれ、大澤真幸への私の興味は、ずっと継続していたのだが、最近の「フェミニズム」への興味から読んだ、社会学者・古市憲寿の対談集『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』にも、大澤真幸は対談相手の一人として登場していた。
だが、私がそこで注目したのは、大澤・古市対談の中身よりも、古市が上野千鶴子などに語った、社会学における大澤真幸という学者の位置付けだった。

一一要は、古市憲寿のような世代にとっては、すでに「社会学」は人気の学科だったのだが、その人気を確立したのが、大澤真幸宮台真司の二人だった、という評価なのである。
そして、この二人が代表する「社会学」とは、「グランドセオリー」派だと表現されていたのである。

「グランドセオリー」とは、「さまざまな社会現象の背後に存在する法則性」みたいなものである。

つまり、「社会現象」を数量調査するなどして、その実態を個別具体的に解き明かそうとするタイプの社会学ではなく、社会の表面に多様なかたちをとって表れるものの背後にある「グランドセオリー」を、多様な資料を駆使して剔抉して見せるのが、大澤や宮台が代表した「グランドセオリー」派なのだ。

地味な計量的研究やインタビューなどの積み重ねで、その実態を探ろうとするようなタイプではなく、例えば、社会的な事件やニュース報道や流行現象、あるいは文学やサブカルチャーといったいろんなものを通して、その背景に共通して存在する「時代精神」的なものを剔抉する、そんな「批評」的な手法を採る社会学なのだが、大澤と宮台は、そうしたタイプの学者の中でも、特に水際だった「名探偵」ぶりを示して多くの人を魅了した、「天才肌」の学者だったのである。

宮台真司ブルセラ援交」等の最新「性風俗」をフィールドワークによって研究し、新しい社会学を印象づけたのとは正反対に、大澤真幸は当初から「メディア」というものに注目していた人であり、その意味で、文学や漫画、アニメというものまでも(非フィールドワーク的に)取り上げて、やはり新しい社会学を印象づけた。

「オウム真理教」は「オタク宗教だった」というのは、今や通説となっているが、オウム真理教のそうした側面を、その本質まで掘り下げて、最初に論じたのが前記の『虚構の時代の果て』だったのだ。
「虚構」が現実と同等に対置されるようになった時代の、そんな時代精神から生まれた宗教が「オウム真理教だった」と論じたのが、大澤真幸だったのである。

そんなわけで、「性風俗」には縁遠い私は、宮台真司に興味は持ちつつ(その著書を10冊くらいは買っている)も、なかなかその著書を読む機会を持てなかった。
だが、大澤真幸の方は、常に興味の対象が重なる学者と注目してきたのである。

で、今回、本書『西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』を読んだのは、前述の古市憲寿の対談集でひさしぶりに大澤真幸の名前を目にしていたところに、ごく最近、本書の書評を読み、新書で読みやすそうでもあったからだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、大澤真幸とは、私が斯くも信頼する学者・批評家・哲学者である。
いつでも、読んで裨益されるところ多く、しかも、いつでも面白い。

で、今回はどうであったかというと、まさに期待どおりであった。

まえがき
本書は、「この世界の問い方」というタイトルで、朝日新聞出版の月刊誌『一冊の本』に連載してきた時事的な評論をまとめたものである。本書に収められているのは、この連載の2022年12月以降の文章だ。
この連載自体は、それより前の2020年に始められた。2022年12月より前の連載分は、前著『この世界の問い方』(朝日新書)にまとめ、発表した(2022年11月)。前著に収録した評論は、コロナ禍の中で書かれ、そしてアメリカ大統領選挙(2020年)の後の混乱や、ロシアによるウクライナへの突然の軍事侵攻によって始まった戦争を目撃しつつ、それらの出来事について考察している。私は、前著の「まえがき」でこう述べた。私たちは、大きな転換を一一トータルな破局に向かっているようにさえ感じられる無秩序や混乱へと向かう転換を一一経験していることは確かだが、この転換は、それを規定している原理や法則がさっぱり見えないという点に特徴がある、と。
前著発表の後に、中東ではガザ戦争が始まった。アメリカでは、トランプが一一2016年より前だったらこれほど「大統領」のイメージに背馳している者はいないと本人以外のすべての人が思ったに違いない人物が一一二度目の大統領職に就き、彼のような人物が世界のリーダーとなることに、何らかの歴史的な必然性があることが明らかになった。ウクライナ戦争も終わっていない。つまり、「それを規定している原理や法則が定かならぬ転換」は、まだ続いている。
それゆえ、本書に収録した時事的な評論を通じて、私は、二つの作業を同時に進めようとしている。個々の出来事を解釈しつつ、そのことを通じて、解釈の前提になるような理論を構築すること、これである。』(P3〜4)

以上のように、本書は、時事的な問題を取り上げながら、同時にそれを分析探究して理論化するという試みのものである。
つまり、すべてが終わってから「結局のところ、あれはこういうことだった」と論じるのではなく、全体が見えていない並走段階での「仮説」構築がなされていく。
だから、話題も多岐にわたっていて、一つの問題を深掘りしていくというのではなく、例えばドナルド・トランプ『ゴジラ−1.0』「日本の戦後問題」ガザ戦争」などが、それぞれ分析的に論じられながら、しかし、それらが最終的には根底で繋がっていくところに、大澤真幸らしさがあり、本書の醍醐味でもある。

一見無関係な事象であっても、それらの背景にはなんらかの「時代精神」が、「歴史」的に形成されたものとしての「グランドセオリー」として存在しており、それを剔抉することで「あるべき未来」を指し示そうとした格闘が本書であり、シャーロック・ホームズ風に言えば、本書は大澤真幸流の、世界規模の『緋色の研究』ということにもなるのだ。

したがって、そんな本書は、私の目下の研究対象である「北村紗衣」「(第四波)フェミニズムとも、決して無縁ではない。
だから私は、以下でその「意外な関連性」を指摘つつ、本書を紹介したいと思う。

まず大澤は、「第1部」を「離婚の危機を迎えている民主主義と資本主義」と題して、これまではベストパートナーだと信じられてきた「民主主義と資本主義」だが、今やその確信が世界的に揺らぎ始めている、と論じている。
つまり、かつては、「民主主義」と「(独裁主義などの)権威主義」では、「自由」な民主主義の方にこそ「資本主義」は合致している、と考えられてきた。
だが、中国という大国が権威主義体制のまま「資本主義」において成功を収める一方、社会主義国が倒れて民主主義が一人勝ちしたはずの西欧世界においても、急進右派による保守主義の台頭が止まらず、それはついに、ドナルド・トランプがアメリカ大統領に再任するところにまで至ってしまった。

特に、中国のような「権威主義国家」が資本主義を成功させたとなると「民主主義と資本主義は、唯一絶対のベストパートナー」だという認識は、もしかすると誤認だったのではないかと、そう考えざるを得ない。

今や、新自由主義的な資本主義は、「経済活動の自由」を求めはしても、「民主主義」的な「万人の自由」など少しを求めてはいないのではないか。
つまり、民主主義は、資本主義に見放されかけている、「離婚」を迫られているのではないか、というのが、大澤の見立てなのだ。

『資本主義のもとでは、資本は、永続的に利潤を一一というより剰余価値を一一生み続けなくてはならない。剰余価値を産出しながら増殖する資本の運動が永遠に止まらないということが、資本主義が成り立つための条件である。この条件を考慮に入れたとき、グローバルな資本主義に対応する民主的な政治秩序が不可能だということが明らかになる。
 どうして剰余価値(=超過利潤)が発生するのか。それは、グローバルな市場が均質ではないからだ。市場で、すべての人に平等に同じルールが適用されているわけではない。市場が完全に均質であったならば、ただ等価交換がなされるだけで、剰余は発生しない。剰余価値が発生するのは、均質性を破る多くの例外が、平等に適用されるべきルールに対する違反が、いたるところに仕込まれているからである。何らかの自然の資源が無料か、きわめて廉価で獲得できる、非常に安い労働力が使える、等が、そうした「例外」にあたる。たとえば極端に安い賃金で労働者を雇うことができるということは、資本主義的な資本一賃金労働関係よりも前の直接的な支配一服従関係が一一たとえば奴隷制的な関係が一一残っており、それが安い賃金を補うかたちで機能している、ということを意味している。
 資本主義が存続するためには、このような逸脱や例外を見出さなくてはならず、ときに経済外的な方法を使ってでも、それらを維持したり、さらには創出したりしなくてはならない。経済外的な方法とは、政治的な権力や影響力であり、そして最終的には物理的暴力(軍事力)である。また、イマニュエル・ウォーラーステインの言う近代世界システムの「中心/周辺」は、資本主義的市場が絶対的に必要とする不均質性の最も顕著な形態である。
 したがって、グローバルな市場は必然的に、公平なルールの適用から排除されたことで、周辺化されたり抑圧されたりしている人々を生み出すことになる。この事実が、グローバルな民主主義の政治秩序を不可能なものとする。1節で述べたように、民主主義が成り立つためには〈原合意〉が必要になる。つまり、自分とは政治的な意見を異にしているライバルでさえも「私たちのことをも配慮している」と信頼できる程度の暗黙の合意がなくてはならない。しかし、周辺化され、抑圧されている者たちは、自らが〈原合意〉の範囲に入っていると実感することはできない一一つまり自分たちが、優位な立場にある人たちの配慮の対象になっているということを真に納得することはできない。
 彼らはむしろ、主流の〈原合意〉の外部にある、彼らの境遇を特徴づける特殊な属性に、自らのアイデンティティの拠り所を見出すだろう。具体的には、ナショナルであったり、エスニックであったり、あるいは文化的であったりする特殊性に固着し、同一化することになる。グローバルな資本主義は、こうして、むしろ文化的な分断をもたらす。これは、実際、現在われわれが目の当たりにしていることである。この分断は、グローバルな民主主義には適合しない。』(P79〜81)

私の北村紗衣・フェミニズム」関連記事を読んでくれている人であれば、ここで語られていることが、以前にレビューを書いた、ナンシー・フレイザーの著書『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』の(そして、フレイザーが参照するデヴィッド・ハーヴェイの著書の)内容に直結する認識であることがわかるだろう。

つまり、大澤は、ここで民主主義が資本主義から離婚された」後に、どのような「政体」が望ましいものなのか、そこまでは書いていないが、すでに「資本主義」経済を前提とした「民主主義」は限界に来ており、そうした政体下では、人々の「自由」は、必然的に形骸化し失われていくと、そう示唆しているのである(例えば、経済的二極化の進展などだ)。

そして、フレイザー書のレビューでも論じたとおりで、北村紗衣に象徴されるような、今どきの「第四波フェミニズム」「リーン・イン・フェミニズム」「セレビリティ・フェミニズム」といったものは、「資本主義」に迎合順応しようとする性格のものだからこそ、一見「自由」を求めているように見えながらも、結局のところ、「自分たちの自由」しか求めておらず、多くの人の「自由」を搾取するものでしかない、ということにもなるのだ。

私は、こうした北村紗衣的なフェミニズム」が、しばしば「オタク的」だと指摘してきたが、こうした特徴も、無論「資本主義」に由来する「高度消費社会」(消費のための消費を必要とする社会)特有のものであり、要は「世界のどこかから搾取した富」によってのみ可能な、あまり認めたくはない「不都合な現実」なのである。

例えば、大澤は本書において「気候変動などの世界的な危機に対して、なぜ日本の若者たちは、諸外国の若者たちに比べると、動きが鈍いのか?」という問題提起をして、その心理的な背景としても、「セカイ系」いう日本特有の文化を論じ、「オタク」の精神性を次のように論じている。

『 セカイ系とは何か、具体的なイメージを得てもらうために、新海誠の有名な作品を紹介したが、セカイ系の作品は非常にたくさんあって、ありふれている。『鬼滅の刃』もセカイ系に分類することができるだろう。ここで考えるべきは、この種の作品を享受する者の、心性や態度である。彼らももちろん、自分も、世界の救済や変革にコミットしたいと思っているはずだ。少なくとも一一幻想の域に属するものだとしても一一そのような願望はもっているだろう。セカイ系の作品を享受する者たちは、世界の救済の活動にかかわる主人公に憧れをもっているはずだ。そして、自分の人生も、人類の幸福につながるような世界の改善に貢献しているとしたらどんなにすばらしいだろうか、と思っているに違いない。

 なぜ非現実になるのか
 日本のアニメや漫画の業界で、数多くのセカイ系の作品が製作され、そしてしばしばそれらは興行的にも成功する。つまり、きわめて多くの人に読まれ、視聴され、消費される。この事実は、日本人もまた世界を改善したり、変革したりすることへの強い意欲をもっていることを示している。
 が、しかし、問題はその先にある。世界を救済したり変革したりする使命を帯びた主人公を設定すると、その物語は、超能力が使われたり、異界が出てきたりする非現実的なファンタジーになるのだ。それらを思いつく作者の想像力には驚嘆するが、設定されるセカイは、現実の〈世界〉と有効なつながりをもたない。
 どうしてなのか。どうしてそうなるのか。〈世界〉(※ 現実の世界)にかかわりたい、全体としての世界に意味ある貢献をなす人生でありたい、という願望はある。しかし自分と〈世界〉とのつながりに実感をもてないとしたらどうだろうか。自分が〈世界〉に実質的な影響を与えうる主体だという確信をもてないとしたらどうだろうか。このとき人は、〈世界〉とは完全に切断された虚構のセカイを構築し、願望を代理的に満たすこと(※ によって解消すること)になるのではあるまいか。
 ついでに付け加えておけば、セカイ系と一部は重なりつつ、アニメや漫画の世界で、異世界への転生ものが流行している。主人公が、いきなり、まったく非現実的な異世界に、思いもよらぬものに転生してしまう、という話である。それならば、「転生」などという設定にせずに、最初から、主人公を、その非現実的な主体としておけばよいのに、「転生してそうなった」という想定で物語が展開していく。ここにも、今、セカイ系に関して述べたのと同じような論理が、現実の〈世界〉に代えてセカイを構築させたのと同じ論理が作用していると考えてよいだろう。
 本来は(※ 現実の)〈世界〉であるべきものがセカイへと置換されているという解釈を支持する傍証は、セカイ系のフィクションに見られる、物語の主題との関連では一見非本質的な、現実への強いこだわり、現実への強い執着である。もともと物語の根幹には、(※ 新海誠『君の名は。』『天気の子』に登場する)タイムトラベルとか、天気を操作するといった絶対にありえない超能力があるのだから、厳密には、どこの時代のどの地域ともわからないように状況を設定してもよいはずだ。『風の谷のナウシカ』の「風の谷」や『ロード・オブ・ザ・リング』「中つ国」のように、現実のどことも特定できない虚構の時空間で十分だ。漠然と、「核戦争後の地球っぽい場所」とか、「中世ヨーロッパ風の雰囲気のある時代」とか、その程度のことでよいはずだ。
 しかし、セカイ系の作品は、しばしば、まったくのフィクションであるにもかかわらず、現実の場所や風景を正確に模写しようとする。この駅が(※ 『君の名は。』に登場する)糸守の駅のモデルであるとか、この階段で瀧と三葉はすれちがったのだ、と正確に特定できるほど緻密に現実の風景や建物が写実的に描かれている。そして、これらの場所が、ファンたちにとって「聖地」となり、彼らをそこへと「巡礼」させることになる。それら現実の細部へのこだわりは、物語の根幹的な展開にとっては、何の意味もない。にもかかわらず、作者も、享受者も、セカイに組み込まれた現実のそうした断片にこだわっている。どうしてなのか。これは、セカイが〈世界〉の代理物であることを示しているのではないか。全体としては、極端なフィクションなのに、細部だけは、異様に写実的である。このセカイに露出する現実の断片は、ほんとうは、〈世界〉に対して有効でありたいという欲望が残した痕跡であろう。
     *
 日本の漫画やアニメの主人公は、高校生が多い。セカイ系の物語に関しては、ほとんどすべて高校生である、と言っても過言ではないほどだ。高校生(だけ)を読者や鑑賞者として想定しているわけでもないのに、主人公はほとんど常に高校生になる。社会人であることもないし、大学生であることさえもない(『すずめの戸締まり』で宗像が大学生だが、これはかなりレアなケースで、この作品でも主人公である岩戸鈴芽は高校生である)。どうして、主人公は高校生なのか? それには、おそらく製作者すら十分に意識していない理由がある。
 大学生は、卒業したらすぐに社会人である。つまり大学生は、直接的な社会人予備軍だ。大学生は常に、自分が社会人として現実の社会の中でどのような職業に就くか一一何をやりたいか、何ができるか一一を考えており、実際に就職活動は在学中に始まる。社会の中にすでに位置づけられようとしている者に関して、〈世界〉の全体に何らかの貢献をする使命をもっているというイメージを、現代の日本人はどうしてももちにくいのだ。
 もちろん、小学生程度の幼い子どもであれば、ファンタジーのセカイの中で遊び、その中でヒーローとして活躍しているということを夢想しても、それはそれで問題はなく、微笑ましいことである。が、それでは困るのだ(※ 『星を追う子ども』の失敗を思い出すと良い)。主人公は、すでに大人の自意識をもっていなくてはならない。すると、虚構のセカイに埋没させても愚かしく見えないギリギリの高い年齢として、現実の社会からまだ隔離されている高校生が設定されざるをえない。こうして、セカイ系の主人公は全員、高校生になる。』
(P109〜113・※ は引用者)

「セカイ系」についてのこうした議論自体は、少なくとも「オタク」たちの耳には、常識に類するものではあろう。
だが、大澤がここで問題にしているのは「日本の若者はなぜ、世界の問題に具体的にコミットしようとしないのか?」という対比的な事実であり、日本の若者を非難しているのではなく、その「文化的背景」として、「セカイ系」の社会心理学的な考察の客観的な提示を、あらためて行なっているのだ。

そして、ここでの大澤真幸の議論を「北村紗衣的フェミニズム」につなげて言えば、北村紗衣的フェミニズム」とは、すなわち「セカイ系フェミニズム」である、ということになろう。

つまり、一見「社会にコミットしている」ように見えても、実はそうではない。
だからこそ、「北村紗衣的フェミニスト」たちは、実質的に「女性差別(ジェンダー不平等)」の問題しか語らない

つまり、私が北村紗衣を批判して言ったような、部落差別(同和問題)」「従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」といった、その他の「現実的な差別」には、触れようとしない。

なぜなら、彼(女)らは、そうした「現実世界」に対する、非力な口説の徒としての「無力感」を隠し持っているからある。
だからこそ、無難かつ保身的に、生な現実には関わらないようにしているのだ。

北村紗衣的フェミニスト」における「女性差別(ジェンダー不平等)」の問題とは、彼(女)らが人々から賛嘆される「ヒーロー(正義の味方)」でいられる、専門「セカイ」に他ならない。だから、決してそこから出てこようとはしない。
自分自身もまた、「差別者の一員であるという現実」の〈世界〉に、その身を晒し、自身が傷ついてでも闘おうというような気など、さらさら無いのである。

『今日では、オタクは若者の風俗とは言えない。最初は、とてもめずらしい人のように見なされ、「おたく」という語にも、軽い蔑称のような含みがあった。しかし、今日では、誰がオタクか、などということを人はあまり気にしない。何かのオタクであることはごく普通のことになり、ほとんどの日本人が、多かれ少なかれオタクだからである。
 だが、オタクを、「何かに関する熱心な趣味をもつ人」という意味でとるならば、そんな人はいつの時代にも、どこの国にもいるのではないか。1980年前後に、突然、日本社会に出現したかのように見るのは、おかしいのではないか。
 そうではない。オタクは、どこにでもいる熱心な趣味人とは違うのだ。どう違うのが。
     *
 オタクは、彼または彼女が関心をもっている主題領域(テーマ)一一アニメ、漫画、鉄道、ラーメン等々何でもよいのだが一一に関する、ある独特な認知的な態度によって特徴づけることができる。その主題領域に関する情報の密度は極端に高いが、意味の密度としては極端に低く、ほとんどゼロであるというアンバランス、これがオタクを特徴づけている。
 オタクは、その主題領域に関して、非常に細かいことまで知っている。これが、情報の密度が高いということである。だが、オタクが、自分が関心をもっていることがらについて、細々とした知識を熱心に開陳しているのを聞いたとき、さしてその主題領域に興味がない部外者の最初の反応は、「それで?」「それがどうした?」というものではないか。「あれとこれとは、微妙に違っているんですよ」と言われれば、なるほどそうなのかとわかるわけだが、「それにどんな意味があるの?」という疑問をもってしまうのだ。これが、その情報が意味的には希薄だ、ということである。普通は、大量の情報が蓄積されたり、情報の精度が高められたりするのは、そのことが有意味だからである。つまり情報の密度と意味の密度の間には、正の相関関係があるのが普通である。しかし、オタクの知識に関しては、そのような相関関係はない。情報的には高密度だが、意味的には希薄である。
 意味と情報とはどう違うのか。その情報が(どのような)意味をもつのか、ということは、常に「より広いコンテクスト」との相関で決まる。ある情報的な差異が、「より広いコンテクスト」の中で価値をもつとき、その情報的な差異に意味がある、と感じられる。たとえば、マルクスの全著作を若い頃に書いたものから晩年の著作までつぶさに見ると、ある時期までは「疎外Entfrendung」という語が頻繁に使われていたのに、やがてあまり使われなくなっていることがわかる。それに代わって、「物象化Versachlichung, Verdinglichung」という語がよく使われるようになる。この情報は、マルクス・オタクの知識と言うべきか。違う。この概念の交替には、マルクスの著作の内部にとどまらない合意があるからだ。マルクスが疎外概念を中心に議論を組み立てていることと、物象化概念を中核にして議論を組み立てていることとの間に、もし実質的な違いがあるのだとすれば、そのことは、資本主義の理解、コミュニズムの理解、革命のやり方についての理解等々に影響を与える。この情報は、マルクスの著作群を超えた包括的なコンテクストの中で、意味をもつのである。
 オタクの知識に関しては、そのようなことが成り立たない。その知識を構成している大量の情報は、より広いコンテクストの中で何らかの意味をもったりはしないのだ。むしろ、オタクは、その情報が、それ以上の何かの「意味」をもつことを積極的に拒んでいるようにすら見える。それはそれであって、それ以上の意味などもってはならないのだ。どうして? オタクが関心をもっているその主題領域を超えるコンテクスト、その主題領域を包摂するより広いコンテクストなど存在しない一一存在してはならない一一からだ。言い換えれば、オタクが関心をもっているその主題領域は、オタクにとっては、すでにひとつの世界である。世界とは、それがすでに完全に包括的な領域であって、その外部が存在しない、ということである。
 もちろん、オタクは、自分が関心をもっているその主題領域が、現実の〈世界〉の中のごく小さな部分、限定的な特殊領域であることをよく知っている。鉄道オタクは、鉄道がすべてではないことは、もちろん知っている。ラーメン・オタクは、ラーメンがすべてでないことを、よくよく理解している。それにもかかわらず、その主題領域をあたかも包括的な「世界」であるかのように扱うこと、これがオタクという現象である。現実の〈世界〉が、「世界」(主題領域)に置き換えられている(※ 代替物にされ、現実における不作為のアリバイとされている)のである。
 繰り返せば、オタクは、自分が興味をもっているその主題領域が、〈世界〉の中のきわめて小さな部分、〈世界〉の中の特殊で限定的な領域であることについては、よく自覚している。ゆえに、オタクの態度において、極限の全体性(世界性)と極端な部分性との間の短絡が生じていることになる。オタクは、興味をもっているその主題領域の部分性を知りつつ、あたかもそれが包括的な全体であるかのようにふるまう。オタクのその趣味に対する態度は、「アイロニカルな没入」の形式」(※ それが代替品でしかないのを認識していながら、それがすべてであるかのように、あえて熱中し没入する、自己欺瞞的な態度のこと)をとっている。「アイロニカルな没入」は、ペーター・スローターダイクリチャード・ローティが述べていることに触発されて私が造った言葉だが、「そんなことはわかっている、しかし‥‥‥」というねじれによって特徴づけられるコミットメントのやり方である。「それが世界でないことはわかっている、しかし世界であるかのように扱おう」と。』
(P125〜129。※ は引用者補足)

北村紗衣の「オタク性」とは、例えば、北村紗衣の専門である「シェイクスピア研究」が、正確には「シェイクスピアその人」や「シェイクスピア文学」を研究対象としたものではなく、「シェイクスピアのファン(愛好家)」を対象としたものであるということからも明らかだ。

なぜそうなるのかと言えば、シェイクスピアそのものについては、もはや「オタク的な知識」は出尽くしており、若い日本人研究者の出る幕などは無い。
しかし、ならば、かつて自身が所属した「ファンジン」的な世界を、シェイクスピアの場合に当てはめて、シェイクスピアファンについての瑣末情報を集めて研究してみせる、というのが、北村紗衣の「シェイクスピア(の周辺)研究」の内実であり、これも一種の「アイロニカルな没入」なのである。

また、そんな北村紗衣の「研究」とは、当然のことながら、しばしば「雑学開陳」的にペダンティック(衒学的)なものでしかあり得ない。
大澤真幸が言うところの『情報的には高密度だが、意味的には希薄』なのである。

だから、北村紗衣は「マイナーな知識」の開陳は得意だが、「意味」の掘り下げはほとんどない、「こけおどし」が多い。
マンスプレイニング」「ワン・トリック・ポニー」「シスターフッド」「ミソジニー」だのと言っておれば、「鬼面人を脅す」で、読者が恐れ入るとでも思っているかのような、意味的に薄っぺらい内容なのである。

つまり、北村紗衣的フェミニズム」とは、まさに次のとおりなのだ。

『自分(※ 北村紗衣)が興味をもっているその主題領域(※ ワンイシューとしての「女性差別」)が、〈世界〉の中のきわめて小さな部分、〈世界〉の中の特殊で限定的な領域であることについては、よく自覚している(※ 「差別」問題の中でさえ、それはその一部でしかない)。ゆえに、オタクの(※ 自己正当化的な)態度において、極限の全体性(世界性)と極端な部分性との間の短絡(※ 全体と部分の恣意的な同一視)が生じていることになる。オタクは、興味をもっているその主題領域の部分性を知りつつ、あたかもそれが包括的な全体であるかのように(※ つまり「女性差別」問題が、最重要であり、それが根底的事実ででもあるかのように)ふるまう。』

それにしても、どうして、今の日本人は「オタク」的になっており、「世界」に開かれていないのであろうか?

そこで、問題とされるのが、日本の「敗戦」を「終戦」と言い換える、「清算されない敗戦」意識の問題である。

『 もし眞人(宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』の主人公の少年)が大伯父の要請(※ 戦前的の正義や善の観念)をそのまま引き受けたとしたらどうだっただろうか。もし戦後に獲得した「正しさ」の観念を前提にした上で、眞人が大伯父の願いを受け取り、その仕事を引き継ぐ英雄となったとしたら、この行為が全体として意味し、表現していることは何であろうか。そのような継承が成り立つとしたら、それが意味していることは、「われわれ日本人は、もとから一一戦前から一一倫理的に誤ってなどいなかったのだ」「われわれは最初から正しかったのだ」「われわれはもともと善人だった」という宣言である。なぜなら、すでに戦後の正義や善の観念を有する眞人と戦前の指導者を象徴する大伯父との間に、ポジティヴでスムーズな継承が成り立つならば、大伯父は、戦後の観点から、遡及的に正当化されたことになるからだ(※ 「戦前の人たちの選択も、やむを得ないものだった。彼らは彼らなりに最善を尽くしたのだ」といった、被害者置き去りの、加害意識の恣意的な忘却)。
 実際、戦後の日本人の大半は、この宣言の通りの態度をとった。戦争が終わったときに、ほとんどの日本人は、自分たちを善意の(※ 被害者であり、戦争の、軍部政府の、政治権力の、一方的な)犠牲者である(※ なんらやましいところの無い、純粋な被害者だ)と見なしたのだ。なるほど、日本人と戦争の犠牲者なのかもしれない。では、その犠牲をもたらしたのは誰なのか。戦争は自然災害ではない。加害者は誰なのか。日本人の大半はこの点をあいまいにしたまま、自分たちをもっぱら犠牲者として捉えた。悪意のない犠牲者として、である。
 たとえは、映画監督の伊丹万作は、敗戦からちょうど1年後に発表した「戦争責任者の問題」というエッセイで、次のように書いている。非常に多くの人が「今度の戦争でだまされていた」と語っている、と。そして、伊丹はこう続ける。これほどたくさんの人がだまされていたとすれば、ずいぶんたくさんの人がだましたはずなのに、自分が知る限り「おれがだました」と言った人間はひとりもいない、と。「だまされていた」ということは、自分は、ほんとうはあんな戦争を欲していなかった、ということだ。言い換えれば、自分は、前から一一敗戦の前から一一誤った戦争に積極的に加担するような悪人ではなく、もとから民主主義を愛する善人である、と主張しているに等しい。これは、しかし、伊丹が見抜いているように、とてつもない欺瞞である。
 太宰治も、敗戦直後の日本人の同じ欺瞞に憤っている。昭和21年4月に一一つまり敗戦から8ヵ月の後に一一発表されたエッセイ「十五年間」で、太宰はこう書いている。自分は、「誰かのように、『余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり』などと、戦争がすんだら急に、東条(※ 東條英機)の悪口を言い、戦争責任者云々と騒ぎまわるような新型の便乗主義を発揮するつもりはない」。そして、

私(※ 太宰治)は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラア(※ アドルフ・ヒトラー)を軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったかと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。

 太宰治は、日本の戦争を導いた皇国思想の熱心な支持者からはほど遠い。通常の基準から見ればむしろ反戦論者に近いし、どちらかと言えば(もとから)自由主義者であった。しかしなお、戦争を容認し、それを「消極的に」であれ応援していた以上は、自分が誤った戦争の支持者であったという事実を引き受けねばならない。これが太宰の主張である。
 自分たちの戦争を推進したイデオロギー一一つまり戦争を正当化していた物語=虚構一一がまちがっていたと判明したときに、絶対にとってはならなかったのは、「私たちはもともと善人だった」というスタンスであった。しかし伊丹万作や太宰治が証言しているように、日本人の主流は、まさにこのようなスタンスをとった。伊丹は、同じエッセイでこう響告する。「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」、と。「だまされていた」ということで免罪されるならば、人はいくらでも、安易にさまざまな思想や理念にコミットし、そして何度も「だまされるだろう」。
 逆に言えば、敗戦後に日本人がまずとるべきだったのは、「私は誤っていたし、今もまだ誤っている者と同じ水準にいる」という立場である。つまり戦後の日本人は、「私は悪人である」「私は悪によって汚染されている」というところから出発すべきだった。『君たちは』は、眞人を、そのような(あるべきだった)(※ 反省的な生き方の)出発点に立たせているのだ。眞人は、大伯父を拒否するときに、自分には悪意(※ 穢れ)がある(※ 自分は、他人の人生やその運命を預かれるような、そんな立派な人間ではない)、ということを理由にしたことを思い起こしておこう。「悪意のしるし」が、額の傷であった。同級生に罪を負わせるために、眞人が自分で自分の額につけた傷である。
 この自傷行為は、日本の侵略戦争の愚劣さを最も強烈に刻みつけている工作活動への暗示を含んでいる。日本の軍隊は、自作自演で自分を攻撃しておきながら、それを敵からの攻撃だと主張し、戦争を始める口実にした(柳条湖事件のことである、念のため)。このことを思うと、眞人の傷は、日本の戦争の悪の象徴であったことがわかる。大伯父は、眞人に、13個の「悪意に染まっていない石」を差し出し、これを崩れないように積み上げて、豊かで平和な世界を構築するように、と命じるのであった。もしこの石を受け取っていたならば、眞人は、最初から純粋に善意だけの人として、戦後の世界の構築を始めることになるだろう。だが彼は、額の傷を指さし、悪意に汚染されている自分は、その石に触れるべきではない、と大伯父の依頼を拒否するのであった。』(P166〜170)

例えば、この記述で思い出すのが、北村紗衣が歴史学者・呉座勇一にネット上で陰口を言われたことに端を発する、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」事件の顛末である。

北村紗衣は、呉座勇一の「陰口ツイートのスクリーンショット」を入手し、それを根拠として、主として大学教員のフェミニストや出版関係者に、その(Twitter)コネクションを駆使して声をかけるなどし、実に千数百名に及ぶ賛同署名まで集めて、それを公開して呉座を名指しで批判した。
その結果は、呉座は二度にわたる屈辱的な「公開謝罪」を強いられた上に、最終的には「職を追われて」しまった。
「オープンレター」が、「公開処刑」だとか「ネットリンチ」だと言われる所以である。

なぜ、そこまでの「過剰報復」に立ち至ったのかといえば、このオープンレターでは「このような人と、職場を同じくすること」に対する苦痛までが、フェミニズムの名において批判がなされていたからである。

つまり、直接的に「呉座をクビにしろ」とは書いていないが、実質的に「こんな女性蔑視的な人物が野放しになっている職場では、女性は安心して働けないから、そうした職場環境を改めよ」と、暗に職場管理者(呉座の雇用者)に対して「女性蔑視を黙認するのでないのならば、呉座を厳しく処分せよ(職場から排除せよ)」と言っているも同様の内容だったからである。

そして、ここまで情け容赦なく言えるのは、北村紗衣の側、オープンレターの側に、自分たちは「無謬の、穢れなき被害者である」と、そんな意識があったからに他ならない。

一一時はまさに、アメリカにおける「#Metoo」運動後のフェミニズムが盛り上がりを見せ、それに伴う「キャンセルカルチャー」が猛威を振るっていた時代なのだ。

「#Metoo」運動家たちが、一人残らず「無謬の、穢れなき被害者(悲劇のヒロイン)」であったとされているのだから、自分たちだってその立場に立つ権利があるはずだ。それが、現在の女性に与えられた「超越的な特権」である。一一と、そんな意識があったから、情け容赦なく、呉座勇一をなぶり殺しにすることもできた。

「だって悪いのはあっちなんだし、私は一方的な被害者なんだから当然でしょ」と。

だが、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」で興味深いのは、呉座勇一が目的どおりに「キャンセル」されてしまうと、それに対して「やりすぎだ」という批判がにわかに盛り上がり、さらに「オープンレター」の署名者とされた者の中から「私は署名した覚えはない」という者まで出てきて、「オープンレター」側の「無謬性」が疑われるようになると、北村紗衣をはじめとした「オープンレターの発起人」たちは、「オープンレター」が一定の成果を上げたとして、その「主張内容」も「関係者氏名(呼びかけ人と賛同署名者)」なども、すべて「削除」してしまった、という事実である。

言うまでもないことだが、「オープンレター」の公式な目的は「女性蔑視的な文化と脱する」ことであって、「呉座勇一個人を社会的に抹殺する(キャンセルする)」ことではない。

つまり、呉座勇一個人が社会的に抹殺された(キャンセルされた)としても、それで世の中の「女性蔑視的な文化」が消えてなくなったわけではないのだから、「オープンレター」が公式見解どおりの目的で公開されたものなのであれば、未だその目的は達成されていないのだから、その「主張内容」や「関係者氏名(呼びかけ人と賛同署名者)」を削除して、実質的に「オープンレター」を取り下げる理由など、どこにも無いはずなのである(まあ、せいぜい呉座の名前だけ、伏せ字にでもすれば良かったのだ)。

にもかかわらず、「主張内容」も「関係者氏名(呼びかけ人と賛同署名者)」を削除したのは、結局のところ「やりすぎ」だとか「署名の集め方がうさんくさい」とかいった批判に対し、誰も責任を取りたくなかったために、丸ごと「証拠隠滅」した、ということにしかならないのである。
一一実際、この批判された「削除」に関しても、呼びかけ人や賛同署名者は、誰ひとりとして、何も説明をしないまま、未だ沈黙を守っているのだ。

で、これはどういう「心理」から出たものなのかと言えば、要は「私たちは、間違ったことなんか、何ひとつしていない」ということであり、言い換えれば「悪いのは、一方的に呉座勇一であり、私たちのやったことは、過剰報復でもなんでもないのだから、オープンレターを削除しようが何をしようがこっちの勝手で、第三者から説明責任を問われるような筋合いはない」という、そんなご都合主義的な「被害者意識」なのである。

被害者であるかぎりは、なんの責任も問われなくて良い(それで済まされる)という「特権意識」
にもかかわらず「自分たちは何も悪いことはしていないのに、人から不当に虐められている」という、北村紗衣的な被害者アピール」を、そのまま体現したものが「オープンレター」なのだ。
だから、正当な批判を受けると、途端に沈黙してしまうのが、「北村紗衣的フェミニスト」の常なのである。

他人の「加害責任」は問うが、自分たちは「被害者」なのだから、「加害者」ではあり得ない。だから、「加害責任」を問われることなどあり得ない。一一とそういう理屈であり、子供のそれのような、「善か悪か」「敵か味方か」という、幼稚な二者択一式の心理なのである。

さて、このようにして呉座勇一を「オープンレター」で黙らせ、呉座を擁護して北村紗衣を批判した山内雁琳には「名誉毀損の民事賠償スラップ訴訟」を仕掛け、まんまと勝訴して200万円以上の高額賠償金をせしめるとともに、山内の職までも奪った

また、そのおかげで、一時は「誰も逆らえない、恐怖のフェミニスト」としてネットの片隅に君臨し、主としてTwitter(現「X」)において、気に入らない発言をする者は、プロアマを問わず「片っ端から黙らせる」までになっていた、ネットの女王・北村紗衣だったのだが、こうした「言いたい放題のフェミニスト・北村紗衣というのは、一般の第三者から見れば、かなり「異様な存在」に映ったはずだ。

というのも、「虐げられた弱者としての女性の味方である(心優しいはずの)フェミニスト」の北村紗衣が、ネット上では「傍若無人な言いたい放題やりたい放題」としか評価し得ない人物になっていたからである。

「フェミニズム」というのは「女性の自由(解放)」のための運動であり、大前提としてそれは「すべての人の平等な自由」を目指すものであったはずだ。

ところが、北村紗衣は「女性の被害者性」ばかりをアピールすることで、すべての男性を「差別者」であるとして、問答無用に黙らせようとし、その「被害者性」において、反論禁止・問答無用という「権力」を、現に振るった。
「もし神がいなかったとすれば」と、そのような仮定することさえ許さなかっ異端審問の如く、北村紗衣は「女性が加害者である可能性」を、実質的に否定し、封じてみせたのだ。

北村紗衣が自称するところ、自分は「女性」であり「いじめ経験者」であり「発達障害者」でありと、そうした「弱者性」や「被害者性」を殊更にアピールするその一方で、自身が「テニュア(終身雇用を保証された)の大学教授」であり「Xのフォロワー5万人強のインフルエンサー」であるといった「社会的強者性」については、公式な場所では口を拭って語ろうとはしない。

個別の場所では「私は映画の専門家なんだから、素人は黙っていろ」(対・須藤にわか)というようなことを言っても、自身のそうした「権力性」は、公式には隠そうとするのである(しばしば、その点で穴だらけであるとしても、そこを批判されれば、臆面もなく沈黙黙殺するだけ)。

それにしても、「フェミニズム」が、あるいは「日本のフェミニスト」たちは、どうして北村紗衣のような「異様な人物」を産み、しかもまだ北村紗衣を「仲間」として、無条件に匿うのであろうか? 反省的な自浄能力は無いのだろうか?
また、北村紗衣のような「傍若無人な人物」にどうして、5万人強ものフォロワーがついたりするのか?

その問題を考える上で、参考になるのが、本書におけるドナルド・トランプ人気」についての、大澤真幸の分析である。

『 寛容な社会の二つの極限
 トランプは、(※ 公式見解的には)伝統的な価値、保守的な道徳の擁護者だということになっている。実際、たとえばアメリカの伝統的な価値の継承者だとされているキリスト教福音派は、トランプの重要な支持母体のひとつである。トランプが大統領就任演説で口にした言葉の中で最も意外な語は、「コモンセンス」である。彼は、コモンセンスを継承し、守護する者として自己を提示しているし、かつ国民からもそのように見なされている。
 しかし、他方で、トランプの公的なふるまいは道徳とはほど遠い。そのパフォーマンスは、保守的な価値観の中でよきものと見なされていることの正反対である。思いついたままにしゃべり、他人を口汚く罵り、品位あるマナーのすべてを蹂躙している。隠れてなされていたこと一一しかしすでに暴露されていること一一までも含めれば、不品行の程度はますます高まっていく。その中には、セックススキャンダルや犯罪的なことも含まれる。
この両極性をどのように解釈したらよいのか? これもまた、既成支配層の一一つまり主流の一一民主党リベラルへの反発という文脈で説明できることである。しかし、ここにも逆説がある。
 最初に気づかねばならないことは次のことだ。トランプを、単純にリベラルがめざしていた社会への「敵」として解釈すべきではない。「トランプ」なる人物は、むしろリベラルが指向しているものの極限に見出される像である。言い換えれば、リベラルが理想化している状態を極端化し、戯画化して表現すれば、「トランプ」という像が得られるのだ。どういうことか?
 アメリカのリベラルが実現しようとしている社会は、寛容な社会である。かつては道徳的に望ましくないとされていたアイデンティティー一一たとえば同性愛者やトランスジェンダー等々一一も認められ、受け入れられる社会、かつてはタブー視されていた行動も、他者に危害を与えない限り、個人の自由の範囲として承認される社会。寛容であるということは、許容的だということだ。ところで、道徳の本性は「禁止」にある。許容性の拡大は、したがって、伝統的な道徳から離脱していくプロセスである。この(※ 自由化)プロセスを徹底的に推し進めたらどうなるか。「(ほとんど)すべての道徳的な禁止を平気で、恥ずかしげもなく公然と侵犯する人物」という像が得られるだろう。それこそがトランプである。トランプは、リベラルがめざしている許容的な(※ 多様性重視の)社会の誇張された真実である(※ トランプみたいなやつもありという、許容的な社会の極限)。リベラルは、トランプを通じて「あなたが向かおうとしている先には、こんな人物がいるのですが、これでよろしいでしょうか?」と問われているようなものだ。
 無論、リベラルとしては、こんな極限は受け入れられない。避けなくてはならない。しかし、そうするとリベラルは別のかたち(※ 別パターン)の極限を、自己否定的な極限を得ることになる一一すでにそのような極限に到達してしまっている。それが、「ウォーキズムWokism」と(右派から)揶揄されている潮流であり、また「キャンセル・カルチャー」と呼ばれている現象だ。「ウォークWoke」とは、「目覚めている人」という意味であり、現代日本の社会現象と対応させれば「意識高い系」と似たような合意をもつ語である。律儀な左派系の人々を嘲笑的に指し示す名詞だ。キャンセル・カルチャーは、リベラルにとっての社会正義、PC(※ ポリティカル・コレクトネス)的な正義の基準にわずかでも反する言動をとった個人を排斥し、追放し、そして解雇したりする社会現象を指している。「キャンセル」という言葉が、その排斥の容赦なさを表現している。
 キャンセル・カルチャーや過激なウォーキズムは、リベラルがめざす寛容な社会を厳格に追求したことから生ずる(※ 自己矛盾的に)自己否定的な現象である。寛容に徹しようとすると、「寛容」を(※ すべての他者にまで)推進したり、維持したりするとされる行動や態度からの一切の逸脱(※ 例外)が許容できないものに見えてくる。そうした逸脱を禁止し、逸脱者を排斥しなくては(※ 理想状態を実現することには)ならない。つまり寛容を律儀に追求した結果として、当初よりもはるかに不寛容な状態が出現する。あるいは包摂的な社会を権限まで追求した結果、逆に過酷な排斥をともなう状態が導かれる。
 リベラルが求める寛容な社会、許容的な社会は二種類の極限をもつ。文字通りの過剰な寛容、道徳にこだわらない極端な許容性は、リベラルの外部に現れる(トランプ)。寛容の極限をリベラルの内部に押しとどめようとすると、今度は、極端な不寛容が得られる(キヤンセル・カルチャーウォーキズム)。』
(P322〜325)

私が本稿を北村紗衣ドナルド・トランプと名付けた理由が、ここでご理解いただけたであろう。

つまり、ドナルド・トランプが『リベラルが指向しているもの(※ 目指しているもの)の極限に見出される像である。言い換えれば、リベラルが理想化している状態(※ 多様性)を極端化し、戯画化して表現』した「予示的な人物像」であり、北村紗衣の方は、「リベラルが指向しているもの」が必然的に生んだ、トランプと「逆対応した相似物」であり、「過剰なリベラル」が「非寛容な原理主義」へと頽落・転化した姿なのである。

したがって、

キャンセル・カルチャーは、リベラルにとっての社会正義、PC的な正義の基準にわずかでも反する言動をとった個人を排斥し、追放し、そして解雇したりする社会現象を指している。「キャンセル」という言葉が、その排斥の容赦なさを表現している。
キャンセル・カルチャーや過激なウォーキズムは、リベラルがめざす寛容な社会を厳格に追求したことから生ずる自己否定的な現象である。寛容に徹しようとすると、「寛容」を推進したり、維持したりするとされる行動や態度からの一切の逸脱が許容できないものに見えてくる。そうした逸脱を禁止し、逸脱者を排斥しなくてはならない。つまり寛容を律儀に追求した結果として、当初よりもはるかに不寛容な状態が出現する。あるいは包摂的な社会を権限まで追求した結果、逆に過酷な排斥をともなう状態が導かれる。』

とは、まさに「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」そのままである。

すべての人がすべての人に対して、公平に「寛容」である社会を目指したはずなのに、だからこそ「非寛容は絶対に許せない」という極限的な「非寛容」に陥ってしまい、呉座勇一や山内雁琳という「女性蔑視者」を、抹殺してしまったのである。

そして、これは「理想を目指す思想運動」には常について回るジレンマだ。
「自由を求めて権力と闘った反体制運動が、権力を奪取した途端に、より過酷な抑圧者に転化する」というのは、「革命」などにはつきものの、歴史的なジレンマであった。

だからこそ「寛容」の重要性を深く考えたユマニスト『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』と、あえて問うたのである。

『 最も不品行な男が道徳の保守者になる仕組み
 寛容で、多様なアイデンティティを公平に包摂する(※ 多様性の)社会。非常に結構だ。が、この理念には、根本的な矛盾がある。少なくとも、現代の資本主義(※ の、他者からの搾取)を前提にしてこの理念を十全に現実化しようとすると、寛容の追求が不寛容へと反転するのである(※ 搾取する人も搾取される人も、同等かつ自由に存在すべきである)。
 ウォークによる批判のターゲットになりやすいのが、相対的に貧しい白人中産階級の労働者たちである。先に述べたように、彼らは、リベラルな既成支配層が、移民やジェンダーに関して多様性や包摂を訴えているのに、自分たちを尊重し、積極的に包摂しようとしていないことに不信感を抱いているからである。
 リベラルの「多様性・公平性・包摂」といった理念に反発を覚えるのは、下層の白人労働者たちだけではない。ここまで述べてきたように、この理念は矛盾を内在させているので、これに疑問を覚えたり、うさんくさいものを感じたりするのは当然のことである。この理念への疑念は、「道徳の不在」に対する不安という形態をとる。先ほど述べたように、寛容な社会、許容的な(※ 多様性)社会という理念の極限には、一種の虚焦点として、一切の道徳の効力が停止する状態、すべての道徳から解放された状態が待ち構えている。ある特定の道徳ではなく、道徳一般が無効になった世界‥‥‥これは人に耐え難い不安を与える。
 こうした不安を抱く者は、リベラル(※ 自由主義者)の(※ 自由という)理念に対してどのように対抗するのか。ごく素朴な戦略は、リベラルが唱える「寛容」や「許容」の中で消滅しかけている保守的な価値観、「古きよきコモンセンス」を称揚し、リベラルの理念に対置することだ。かって一一1980年代に一一共和党の大統領の誕生に貢献した政治組織「道徳的多数派(モラルマジョリティ)」は、実際、そのような戦略をとった。が、今日の右派一一リベラルな民主党に反対している右派一一には、単純に、伝統的な道徳の復活や保守を訴える戦略はアピールしない。なぜならば、彼ら自身もすでに、伝統的な道徳の大半を恣意的なもの(※ 選択的な立場のひとつ)に過ぎないと見なしており、それらが誰に対しても強制できるような妥当な規範ではないことを理解しているからだ。
 個々の道徳や規範に関しては、もはや時代遅れのもの(※ 当たり前だとは思えないもの)に感じられる。しかし、(※ だからといって)リベラルが推進している「寛容な社会」のさらにその先に予感されている、道徳の真空地帯に対しては恐怖を感じる。このような(※ ダブルバインドの)心理状態にある保守派に対しては、どんな態度が魅力的なものとして現れる(※ 映る)だろうか。許容的な(※ 多様性)社会へと向かうダイナミズム、民主党的なリベラルが成し遂げようとしていることを(※ 対案なしに)ただ純粋に否定すること、これである。何か守るべき道徳(※ 多様性への対案)を唱えるのではなく、「多様なものの寛容なる共存」を指向するリベラル派の実践に対して嘲笑的に(※ 頭から全否定的に)ふるまい、その価値を徹底的に貶める(※ だけの)人物、つまりPC的な「社会正義」の規定を(※ 根拠提示も無しに、平気で)蹂躙し、蔑ろにするような人物が、今日の保守派(※ 頼り甲斐を感じさせ、不安だった彼ら)を惹きつけるはずだ。そのような人物こそ、ほかならぬトランプである。
 かくして、一見奇妙なことが生ずる。PC的な品行方正さを意図的に侵兆し、徹底的に冒瀆的にふるまっている人物が、保守的な価値や伝統的な道徳を守る最後の砦として現れるという逆説が、つまり一種の「対立物の一致」が生ずるのだ。
 その上で、トランプは、道徳性の一般を代表するような論争的な主題に関してだけは、はっきりと保守的な道徳を支持する。たとえば、女性の人工妊娠中絶に関しては、一一「プロライフ(胎児生命尊重)」の名目を使って一一否定的な態度をとる。あるいは、LGBTQ+を認めず、「男と女しかいない」と公言する。トランプは、性行動に関しても極端に奔放なので、こうした保守的な主張はちぐはぐな印象を与える。が、ここまで述べてきたように、トランプの支持者は、これを矛盾とは見ていない。』(P325〜327)

北村紗衣のファンも、北村紗衣周辺のフェミニストたちも、北村紗衣的な「言いたい放題」を、理想を目指すフェミニストのそれとしての「矛盾」だとは見ていない。
だから誰も、それを咎め立てすることはない。

『寛容で、多様なアイデンティティを公平に包摂する社会。非常に結構だ。が、この理念には、根本的な矛盾がある。少なくとも、現代の資本主義を前提にしてこの理念を十全に現実化しようとすると、寛容の追求が不寛容へと反転する』
一一そして、それに対抗しようとする者は、「保守的なもの」による対抗の限界を理解して『許容的な社会へと向かうダイナミズム、民主党的なリベラルが成し遂げようとしていることをただ純粋に否定する』というニヒリズムに走る。

「より良きもの」を求めるのではなく、ただただ「自由を否定する」のである。一一あいつらだけは許せない。そのためであれば「後は野となれ山となれ」だ、と。

そして、その結果残るのが、漁夫の利を得る「利潤のための利潤を目指す、過酷な資本主義」ということになるのだ。

その中で生き残るのは、そうした「非人間主義=新自由主義」的な資本主義に順応した、ドナルド・トランプや北村紗衣のような「セレブリティ」だけであり、北村紗衣ファンや大半のトランプ支持者たちは、勝ち馬に乗ったつもりで、自分たちの足元を掘り崩し、最終的には、搾り取られて廃棄されるだけなのである。


(2025年6月26日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)

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