リュック・ベッソン監督 『レオン』 : ロリコンとフェミニズム
映画評:リュック・ベッソン監督『レオン』(1994年/フランス映画)
良い映画だった。何が良かったのかというと、アクション映画だが、基本的には、とても「ロマンティック」な作品だった点だ。
本作は、先年、日本の某テレビコマーシャルで「リアル・ドラえもん(ドラれおん)」をやったりしたジャン・レノの出世作であり、また『ブラック・スワン』でアカデミー賞主演女優賞を取ったり「スター・ウォーズ」シリーズでアミダラ姫役をやってりして硬軟幅広く活躍しているナタリー・ポートマンの出世作でもある。

この映画は、渋い中年男の殺し屋と12歳の少女のバディというところが面白くで、公開当時とても評判の良かった作品だ。
しかし、リュック・ベッソンの(私にすれば、きわめてわかりやすい)「ロリコン(ロリータ・コンプレックス)」趣味が知られるようになり、それが災いして、今では本作を、諸手を挙げて褒める度胸(と知恵)のある評論家やアマチュアレビュアーが、ほとんどいなくなっているようだ。
男は「私はロリコンではない」と(本当かどうかは別にして、そう)アピールするのに必死だし、女は「ロリコン」は女性蔑視(女性を人間として見ずに、性的な対象としてだけ見る態度)の典型的な形態だと、ここぞとばかりに嫌悪感を突きつけたがるのだ。

私は昔、「SFアクション映画」として、ベッソンの『フィフス・エレメンツ』を劇場で見て、そのSFセンスが「ダサい」と思い、ベッソンにはあまり良い印象を持っていなかった(今から考えれば、あれはフランス人のSFセンスだったのかも知れない)。
だが、私も最近はいろんな映画を見るようになったので、代表作と言われる『レオン』くらいは見ておこうと、今回見ることにしたのだ。
ちなみに、私が見たのは、たまたまなのだが「完全版」の方である。つまり「劇場公開版」に20分ばかり、未公開シーンが加えられたバージョンだ。
で、この付け加えられたシーンに、ベッソンのロリコン趣味がよく出ていたのだか、しかしながら、こちらこそが本来の姿であり、そのあたりが興行的に何かと「まずい」判断され、そこいらを削ったのが、「劇場公開版」なのである。
もちろん、そんな「劇場公開版」の方が良かったという人もいるようだが、私としては、やむなく世間に迎合した結果としての「ハードなアクション映画」などではなく、ベッソンの作家性が正直に出たこちら「完全版」の方を推したい。
一一そもそも、私としては「ロリコンの何が悪い」ということなのだ。そんなにフェミニズムおばさんたちが怖いのかと、そう言いたいのである。
そもそも、フェミニズムおばさんたちに「女性蔑視だ」とか言われるのが怖くて、本作「完全版」を評するのに、枕詞のように「今となっては問題がある」みたいな言葉を、アリバイ工作的に付け加えなかればならないような「腰抜け」どもは、「ハードなアクション映画でも見て、センズリをこいてろ!」と、そう言いたい。
そんな、映画マニアぶったやつに限って、「フェミニズム」の「フェ」の字も知らないくせに、ただ「世間の風向き」を見て、それに迎合しているだけなのだ。

さて、そんな私は半年ほど前、それまで縁もゆかりもなかった「武蔵大学の教授」で、ヘボ映画評論もやっている北村紗衣という若ぶった女に、いきなりネット上で難癖をつけられた。そしてそれ以来、そのお返しとばかりに「北村紗衣葬送派」となって反撃に転じ、その必要から「フェミニズム」を勉強し始めたのだ。
しかしながら私は、それ以前から自称「フェミニスト」ではあった。だが、ここで言う「フェミニスト」というのは「弱き女性を守る騎士」としての「フェミニスト」というほどの意味だったのだ。
だが、どうやらこういう「フェミニスト」というのは、今どきの「フェミニズム」からすれば、「男性は強いもの、女性は弱いもの」という「偏見」から出たものでしかなく、男性上位主義に由来する「パターナリズム」ではあっても、本来の意味での「フェミニズム」ではないと、そう否定されているようである。また私としても、そういう側面(男は強くあるべきという意識)がないわけでもないと認めて、「古いタイプのフェミニスト」と言い換えて、そう名乗っていた。別に、「フェミニスト」という言葉の定義を、人様に押し付けられる謂れはないとも考えていたからだ。
しかし、そんな経緯で、もともとはさほど興味のなかった「フェミニズム」について勉強を始めてみると、これがなかなか面白かった。
それに、「フェミニズム」を声高に語っている女性陣をはじめとした少なからぬ人たちが、意外に「フェミニズム」を勉強していないということにも、勉強してみて気づいたのだ。
「なんだ、この程度の奴らが、知ったかぶりで居丈高にフェミニズムを振り回していたのか。この程度なら、大学教授クラスだって、簡単に論破できるな。さあ、勝負しようぜ」と、そんなスタンスになったのである。
一一で、件(突っかかり牛人間)の北村紗衣をはじめとして、私に批判され、喧嘩を売られたフェミニストたちは、誰ひとり喧嘩を買ってくれない。
Twitter(現「X」)での短文による悪口陰口合戦ならしているくせに、長文でロジカルに批判しあうというようなことは、出来ないようなのだ。それで負けると、赤っ恥をかくことになるから、危険な野良犬には関わらないのが得策だと、そういう判断なのであろう。
だから、今や私にとっての北村紗衣は、完全なサンドバック状態で、物足りないことこの上ない。「最初の威勢の良さは、どうしたの?」という感じなのである。

そして、そんな私から言わせれば、本作『レオン(完全版)』(以下『レオン』とのみを記す)を評するのに、「10代前半の少女を性的な目線で描いている点において、問題のある作品」だなどと付け加えなければ、怖くて本作を褒められないような腰抜けどもは「映画批評など辞めちまえ」と、そう言いたいのである。

一一ちょっと驚かせるようなことを書くが、「フェミニズム」をちゃんと勉強すれば「ロリコン」であること自体は「何ら問題はない」ということが、ハッキリとわかるのだ。だから、その点において、本作も何ら問題はない。
映画ファンはもとより、自称フェミニストの多くも、きっとこれだけでは理解できないだろうから説明するが、「ロリコン」だの「ショタコン」だのが問題となるのは、そういう「性癖」を持っているからではなく、まだ性的な判断が十分に可能でない「子供」に対し、「性的なかたちで手をだす(行為する)」からなのだ。それは一種の「暴行傷害」の類いだからである。
年端もいかない「少年少女」に「性欲」を感じること自体は、何も悪くない。
しかし、実際に手を出したら、それは「他者を害すること」として、多くの場合「犯罪」となるから「やってはいけない」のであって、手を出さなければ、頭の中でどんなに「変態的」と言われる、性欲に由来する「性妄想」を爆発させても、ぜんぜんかまわない。
言うなれば、それは「思想信条の自由」みたいなもので、頭の中で「国家転覆の夢」を見ようが「人類皆殺しの夢」を見ようが、それが「自由」なのと同じことで、別に心の中で「子供を凌辱するような妄想」をしようと、それも完全に「自由」なのである。頭の中に止めてさえおけば、まったくの自由だし、何をオカズにしてマスターベーションしようが、それはその人の勝手なのである。例えば、怪獣映画のDVDを見ながらオナニーするのさえ勝手(自由)なのと、まったく同じことなのだ。
したがって、リュック・ベッソンが、現実に少女に手を出したら、それは犯罪であり(社会的に)許されないことなのだが、映画でその妄想を爆発させる分には、勝手なのだ。
無論、合法的に「出演者やスタッフの協力が得られれば」という条件付きではあるが、フィクションとしてそれを描くのは、何らかまわないし、それが「気持ち悪い」と感じる人は、見なければ良いだけの話である。それこそが「大人の社会」なのだ。

では、どうして「ロリコン」が「蔑視される」のかと言えば、それは、多くの女性には「男のロリコン」が理解できないし、自分たち「大人の女性」が軽んぜられているとでも感じるからだろう。
だが、いい歳をした「大人の女性」で、若い男性アイドルグループの追っかけをしている人などいくらでもいて、それでもそれが「女のロリコン」だとして「蔑視」されることはないのだから、「男のロリコン」だけが蔑視される謂れはない。
ではなぜ、男は「女のロリコン」を「変態」だと思わないのかと言えば、それは「男だって若くて綺麗な方がいいわな」と、そう女性の立場に立って考えられるからである。


「若くて綺麗」という評価を、「年齢差別」だとか「外見差別(ルッキズム)」だとか言う人もいるけれど、人を、「年齢」や「外見」について「心の中でまで、差別しない」人など、存在しはしない。男女を問わず、たいがいの人は「若い」方が良いと感じるし、「綺麗」な方が好きなのだ。なぜなら、それは「動物的な本能」に由来する、「自動的な(自然な)判断」だからである。
無論「年寄り好き」とか「ブサイク好き」とかいう人も、少数ながらいるだろう。どんなことにも「例外」や「少数派(マイノリティ)」というものはあるのだから、これも何の不思議もなければ、悪いことでもない。そういう「趣味」を持っているというだけの話なのだ。
だがまた、そういう「少数派」が「私は、人間を年齢で差別しない」とか「外見で差別したりはしない」などと威張る理由もない。それは、多数派とは「趣味が違っているだけ」か、そもそも「美醜判断の機能が働いていないだけ」なのである。
だが、そうした「美醜判断能力の欠如」とて、それが「悪い」というわけではない。
何も「美醜判断をしなければならない義務」があるわけではないから、そういう人はそういう人として生きていけば良いのであって、それが正しいわけでも、間違っているのでもないのだ。一一ただ、多数派とは異なっている、というだけの話である。
で、「フェミニズム」を、ちゃんと勉強するとわかってくることなのだが、これまでの人類の歴史においては、何事においても「正常と異常」ということが、二項対立的に単純化されて問題にされたし、それは「性の問題」においても同じだった。
例えば、「人間は、異性に対して性欲を抱くものである。それが正常だ」とされ、言い換えれば「同性に性欲や恋愛感情を抱く者」は「異常者」であり「変態」であるとされた。
そしてそれが、そのまま「悪」または「負」の観念と結びつけられた。
しかし、これは「論理の飛躍」である。
「異常者=正常ではない者」「変態=常態ではない者」というのは「事実」だが、そもそも、なぜ「正常」や「常態」でなければならないのか?
他人に迷惑をかけないのであれば、別にそれで良いではないか。
例えば、同じ本を10冊ずつ買ってもかまわないではないか。たしかにその行動は、世間的には「正常」でも「常態」でもないけれど、人様に迷惑をかけないのなら、そんなものは「私の勝手(自由)」なのである(ジョン・スチュアート・ミル『自由論』より「危害原理」)。
それと同じことで、多数派としての「世間」が言うところの、「異常者」や「変態」であるのは、何も「悪いこと」ではない。
そのせいで「他者に害をなした時」に初めて、その「行為」が処罰の対象になるのであって、「趣味」や「性癖」自体は、何も「悪くない」のである。


では、どうして世間の「多数派(マジョリティ)」の人たちは、「異常者」であり「変態」を、「悪」だの、価値的に「負」だのと考えてしまうのだろうか?
それは、「多数派」というものが、たいがいの場合「頭が悪い」からである。多数派であることに、あぐらをかいているためだ。
彼らは、知的に「凡庸」だから、「少数例外」というものの存在を「当たり前」だとは考えられず、すべて「自分基準(私と同じか違っているか)」で判断してしまう。
そして、その「頭の悪い(誤謬)判断」の「正当性の根拠」を、「世間の多数派の多数性」に求めてしまう。つまり「だって、みんなも私と同じじゃないか。あいつだけが違うんだから、あいつが間違っているということなんだよ」と、そういう理屈なのだ。
このように、「頭が悪く」て「視野が狭い」から、この世界には「多種多様な少数派や例外者」が存在するということに、気づきもしなければ、勉強もしない。
そのため、「異常者」や「変態」は、それだけで「悪」だと認定され、またそれを根拠に、長らく「精神障害者」や「性的少数者(ジェンダー・マイノリティ)」は、「悪」だとされてきたのだ。
したがって、「ロリコン」であること自体は、何ら悪くないし、「少女や少年に、性的な視線を向けること」も、何ら悪くない。だって「そのように生まれてきた」んだから、それは止めのようのないことなのだ。
例えば「人間だけが頭を使う動物で、ごめんなさい」と、他の動物に謝罪しなければならない理由などないのと、これは同じこと。「人間だもの」仕方がないのだ。
ただし、そういう「性癖を持っている」からといって、それを理由に、「他者」に「手を出して」はならない。
なぜなら、人間というのは、「動物的な本能」だけで生きているのではなく「理性」で生きているのだから、その「理性」に伴う「ルール」が存在するし、それを守らなければ、その人は、ルールに基づく「人間社会」の中で生きていく権利を剥奪されるしかないからである。
「フェミニズム」を勉強すればわかることだが、今や「性差別」というのは、単に「女性差別」を指すものではない。
たしかに「フェミニズム」は、「女性差別の解消」を目指して始まったものではあるけれど、そもそもその考え方の正当性の根拠とは「差別は悪だ(間違っている)」つまり「人間は平等であるべきだ」という、動物的「本能」を超えた、人間固有の知的な「理念」なのだ。
そして、その「理念」を正しいとするのであれば、すべての人間に対する、あらゆる「差別」は、基本的に「悪」だということになるから、「女性差別」だけではなく、「男性差別」も「人種差別」も「階級差別」も、とにかく「差別」は全部ダメということになり、「年齢差別」も「外見差別」もダメだということになるのである。
一一ただし、すでに書いたとおり、人間というのは、少なくとも、その感情や本能的な判断においては、現に「差別」を行なっている。
だから、それ(内心の差別)までも完全に否定して、それをまったく行わない、行わせないということは、本能を否定するということであり、人間が動物の一種であるという事実を否定することなのだから、そんなことをすれば、人間は生きてはいけないのだ。
したがって、ここで言う「差別はいけない」というのは、あくまでも、それを「外に出して表現する」とか「行動に移す」といったことなのであって、「心の中」でなら「差別」は「思想信条の自由=内心の自由」として、まったくOKなのだ。
心の中で「この汚いクソ婆」と思っていようが、「この気持ち悪いロリコン親父」と思っていようが、ぜんぜんかまわない。
相手が「反社会的な言動」をしないかぎり、そうした「判断」や「感情」を表に出してはならず、あくまでも相手を、人間として尊重する態度を採らなくてはならないのである。
そんなわけで「フェミニズム」においては、基本的に、否定的な意味での「異常者」や「変態」というものは存在しないし、そうした否定的な評価における言動を、「差別」と認定して、容認しはしない。
原則的に、「男が上だ」とか「女が上だ」などということは無いのと同様、「異性愛者が正しくて、同性愛者が間違いだ」ということもない。つまり「多数派が正しくて、少数派が間違いだ」ということもない。この逆も同じ。

「同性愛」であろうが、「ロリコン」や「ショタコン」であろうが、「SM(サドマゾ)」であろうが「スカトロ」であろうが「動物性愛(ズーフィリア)」であろうが「死姦趣味(ネクロフィリア)」であろうが、他者に迷惑をかけないかぎりにおいては、すべてOKだし、それを認めない者こそが、「差別(行動)者」であり「悪(を現に為した者)」として罰せられるべきだ、ということになるのである。
一一これで、ご理解いただけたであろうか?
つまり、この程度のことを考えられるだけの頭があれば、「ロリコン」であることも「ロリコン映画」を作ることも、何ら悪くない、ということくらいは理解できる。
もちろん、そうした作品を作ることを他人に強いたり、無理に他人に見せたりすることは「犯罪」だが、一人前の人間としての判断能力を持つ大人が、その点を理解した上で、周囲に配慮しつつ、「12歳のナタリー・ポートマン、最高だな」とか「こんな映画を作ったベッソンは、われらロリコンの神だな」などと言ったり話したりするのは、完全に自由だし、人に恥じることもなければ、それを責める理由もないのである。
そもそも、大半の人間というのは、多少なりとも、他人とは違ったところがあるから、それが個性ともなっているのであって、何の個性もない人の方が珍しいのだから、人間は、他者の「個性(違い)」を、お互いに認め合うべきなのだ。その方が、お互いのためなのである。
したがって、本作『レオン』は、たしかに「ロリコン趣味」の反映された作品であり、その点で「理解できない」人もいるだろうが、「理解できない方が正しい」ということにはならない。それは単に、その点において「理解能力を欠く」だけのことであり、ぜんぜん自慢できることではない。

むしろ自慢できるのは、それもこれもあれも「幅広く理解できるセンスと想像力」を持っていること、言い換えれば「共感能力」が高いことであって、「異性愛しか理解できません」とか「大人の異性しか美しいと思えません」などという「凡庸な人間」が、その「凡庸さ」や能力的な「狭隘さ」を自慢するのは、それこそ、馬鹿なればこその所業、でしかないのである。
で、この私は、「美少女」も「美少年」も好きである。もちろん「大人の女性」も好きで、「色っぽい女性」も「清楚系」も「気風の良い女性」も好きである。一一しかしながら、このあたりが私の限界で、残念ながら私は、大人の男性に性欲を感じることは無いし、男女ともに、年配者高齢者に性欲を覚えることもない。
「ああいう、かっこいい男になりたいな」とか「ああいう、お爺さんになりたいな」とか「こんなお婆さんは素敵だな」とは思うけれども、それは「性欲」の対象として惹かれるということではなく、「生き方(の結果的反映としての理想像)」として惹かれる、ということのようだ。
しかしまた、そうは言っても、「かっこいい男性」とか「素敵な高齢男女」に惹かれるのが、100パーセント完全に、「性的なもの」とは無関係なのかといえば、そうだとも言えないだろう。直接的な性欲の対象ではなくとも、フロイト的な意味合いでの「性」となれば、どこかで関係してると考えても良いのである。
なぜなら、そもそも「性欲」とは、動物が「生きる残るために与えられた本能」なのだから、それは単に「生殖」だけに限定されたものではないと、そう考えるべきだからである。
つまり、私たちが「美しい」とか「かっこいい」とか「あのように生きたい」とか思う時には、そこに少なからず「生きることへの欲動」が働いており、それは「性」的なものと、まったく無縁だというわけではないからである。
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そんなわけで、私は、ベッソン監督の「ロリコン趣味」的なものを含めて、本作『レオン』の魅力を理解することができた。
前述のとおり、本作が、非凡な「ロマンティシズム」を湛えているのは、たぶんその「禁止された欲望=叶えられない夢(理想)」を描いているからなのであろう。
ナタリー・ポートマンが演じた少女マチルダが、12歳という年齢に不似合いなほど「性的な存在」なのも、それでいて同時に「子供っぽさ」を残しているのも、ジャン・レノが演じた殺し屋の男レオンが、一見「イケオジ」であるにもかかわらず、極めて「ストイック」な人間であり、ほとんど「童貞」を疑わせるほどに「無垢で真面目で奥手」なのも、最後は「二人の幸福」をつかめずに、敵を倒すために自爆して死んでいくという悲しいラストも、要は「欲望がありながら、それが決して満たされない」がゆえの「ロマンティシズム」なのだ。「満たされない」からこそ、それは「夢見られ」、その「夢の中で美しく浄化される」のである。

言い換えれば、満たされてしまった「欲望」は虚しい。
「億万長者」になろうが、「権力者」になろうが、「金メダリスト」になろうが、「人気タレント」になろうが、それが「達成された夢」なのであれば、それはすでに、単なる「現実」であり「凡庸な日常」に堕してしまわざるを得ない。
だから、ベッソンがいくらそれを夢見たところで、やはりレオンとマチルダは、結ばれてはならなかったのだ。
大人の男と10代前半の少女だから、性的に結ばれては「ダメ」だというのではなく、結ばれてしまったら、それは単なる「男女の仲」に堕してしまうからである。
なぜ、まだ「子供」と呼べるような「少女」や「少年」が、映画や漫画の登場人物として、時に「性的な意味」を持たされて描かれるのかと言えば、それは単に「変態性欲」を満たすため、などではなく、本来「侵しがたい無垢なる存在」として、決して「満たされない性欲」の対象となるからであり、だからこそそれとの、あり得ない関係性に、人は「現実では得られないファンタジー」に夢見てしまうのだ。
キリスト教の聖女が、時に「イエス様の胸に抱かれる夢」を幻視したりするのと、これは同じことなのだ。「神聖侵すべからざる」存在だからこそ、人はそこにこそ、当たり前の対象以上のものを見てしまうのである。

現実に存在するもの、そうである通りのもの、だけに価値があるのではないというのは、たとえば私たちは「剣と魔法とドラゴン」の世界に独特の「夢」を感じる、といったことにも明らかだろう。
だから、男であれ女であれ、「少年」「少女」に惹かれることは、何ら不自然なことでもなければ、恥ずべきことではないのだ。
それらは、私たちが、「現実」の世界では得ることの出来ない「神聖冒すべからざるもの」の、代理的な「表象」なのである。
だから、そうしたものを、即物的な「性欲」の対象だと見てしまう発想は、逆に、極めて動物的(獣的)なものでしかなく、人間らしい想像力を欠いた、非知性的な「短絡思考」だと考えるべきなのだ。
したがって、そうした非知性的な「短絡思考」において、本作『レオン』を、「ロリコン映画だから、ちょっとまずい」などと言っているような者こそ、その「心根の卑しさ」を恥じるべきなのだ。
そんな「おもてヅラ」だけ整えているような者こそ、その反動で、家へ帰れば何をしているのか知れたものではないのである。家に帰ってからそこで何をしていようと、勝手だとしてもだ。
ともあれ、「レオンとマチルダの物語」は、現実にはあり得ないものだからこそ、かぎりなく「禁欲的」であり「切ない」ファンタジーたり得ているのである。
そんなわけで、もう、「あらすじ」を紹介する必要などないだろう。

(2025年4月5日)
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【補記】
先ほど、本稿「リュック・ベッソン監督 『レオン』 : ロリコンとフェミニズム」をアップし、しばらくした頃、「note」管理者から、
「この記事は18禁に分類されました。ご意見があれば、検討させていただきます」
という趣旨のメッセージが表示されたので、本稿の内容は、「18禁」などではまったくないから、そんな規制は解除するようにと返信しておきました。
私の意見を検討した上で、1週間以内に対応を決定して、回答するとのことでした。つまり、現在の「注意喚起メッセージ」の表示は、ひとまずの対応のようです。
結果がどうなるかはわかりませんが、本稿を読んでくださった皆さんには、是非お考えいただきたい。
本稿は「18禁」になるような内容を含むレビューでしょうか?
もしも、これが「18禁」だと判断されるようなら、「表現の自由」どころか、「内心の自由」すら侵害される世の中になるのではとさえ、私には危惧されます。
たぶん、今回の措置は、AIか何かによる「語句」のチェックによるものなのでしょうが、人間が同じように粗雑な判断を下さないと、信じたいものです。
(年間読書人・2025.04.05 14:25)
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【補記2】
上の【補記】を追加してから、12時間弱が経過した先ほど、確認のために「LINE」で、当該ページ(映画『レオン』のレビュー)を開いてみたところ、昨日のような「18禁警告ページ」は、表示されませんでした。
そこで、昨日は表示されなくなっていた、「検索ワード」関連ページの「人気記事ランキング」のページを開いたところ、こちらも反映されておりました。
つまり、私が確認した範囲では、すでに昨日課された「制限」は解除された模様なのですが、まだ、「note」管理者からの連絡はありません。さて、説明があるのやら無いのやら?
皆様から見て、現在の当該ページは、どうなっているでしょうか?
(年間読書人・2025.04.06 14:00)
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