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田中東子 『オタク文化とフェミニズム』 : 北村紗衣のオタク仲間による「亡国の書」

書評:田中東子オタク文化とフェミニズム』(青土社)

著者の田中東子『2022年4月 東京大学大学院情報学環学際情報学府教授』で、それ以前は『2019年4月大妻女子大学文学部コミュニケーション文化学科教授』だった『社会学者』である(wiki)。

さらに言うと、「武蔵大学教授」で自称フェミニストである北村紗衣が主導した、2021年の「歴史学者呉座勇一についての告発的な公開(訴)状たる、オープンレター〈女性差別的な文化を脱するために〉の賛同署名者でもある(すでに名前は削除)。

そして、わたし的には、先日読んだ、『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』への寄稿者の一人でもあれば、「名古屋市立大学の准教授」である菊地夏野、および、「専修大学教授」である河野真太郎との鼎談「分断と対峙し、連帯を模索する。一一日本のフェミニズムリベラリズムを行った人物でもある。
この鼎談の中身については、下のレビュー「黙認されてきた、北村紗衣的退廃:『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』を読む(第1回)」で、すでに詳しく論じた。

私は上のレビューで、田中東子河野真太の両名が、「ネオリベラリズム(新自由主義)」の影響下にある「ポストフェミニズム」の一種たる、日本の「第四波フェミニズム」を批判的に語りながらも、その実、自分自身は、そうしたものの一部である「出版界の売らんかな体制」に便乗することを良しとし、それを批判することを避け、その一環としてツイッター(現「X」)のフォロワー5万人」の「人気作家」である北村紗衣の「ネオリベ的な偏向フェミニズム」を、追認的に黙認していると、そう批判した。

北村紗衣の「ネオリベ的偏向」とは、「フェミニスト」として「性差別」の問題を声高に語りながら、他の「反差別」へのコミットについては、明らかに消極的・回避的である、という点だ。

フェミニズムを多少とも勉強すれば、現代のフェミニズムにおいては、「黒人」差別を中心とした「人種差別」や、「性差別=ジェンダー不平等」の一環としてのトランスジェンダー差別」については、日本で「フェミニスト」を名乗る以上は、多少なりとも「私も反対しています」程度のことは、言わずには済まされない、というくらいの認識を、否応なく持たざるを得ないだろう。

しかし、「反差別」において肝心なのは、そうした「一般的かつ抽象的な、反差別意識の立場表明」などではなく、例えば、私が北村紗衣に対して具体例を挙げて問うた「部落差別問題(同和問題)在日朝鮮人差別問題」「従軍慰安婦問題」「沖縄の米軍基地負担問題といったことに対しても、当然「反対」の意思表明をくらいはして然るべきなのだ。
ところが北村紗衣は、そういう「今ここの生々しい差別問題」については、一言半句語ろうとはしないで、「女性差別」「ジェンダー不平等」ばかりを語ってきた。
たまに「黒人差別」や「トランス差別」について、「映画批評のネタ」として言及するというのが、せいぜいのところだったのである。

ではなぜ北村紗衣は、そのような「今ここの生々しい差別問題」については消極的なのかといえば、それは、北村紗衣「フェミニズム」という武器で、この「ネオリベラリズム社会」の中で成り上がろうとする「リーン・イン・フェミニスト」だからであり、自分自身が「今ここの社会」において「キラキラ」することを目指すだけの、「キラキラ・フェミニスト」だからに他ならない。

つまり、自分自身「ネオリベラリズム」にどっぷりと浸かり、誰かを踏みつけにして、その中で成り上がろうしている人間なのだから、そんな「ネオリベラルな資本主義」を否定するつもりなど、はなから無いのである。

「フェミニズム」を武器にして個人的に成り上がろうとしているのだから、当然のことながら、その範囲内の「差別」については、反対してみせる。
女性の権利拡大は、そのまま女性である自分自身の「権利拡大」にも直結するからであり、現に北村紗衣は、学者・研究者としてはさしたる業績もないまま、40歳そこそこで「武蔵大学テニュア教授」に収まっている。

なぜ、そんなことが可能なのかと言えば、北村紗衣の「シェイクスピア研究者」というかなり地味な「専門」などよりも、「フォロワー5万人の人気作家」という肩書きの方が大きいからだというのは、衆目の一致するところだろう。
要は、大学にも経営努力が求められる昨今、大学経営者にとっては、北村紗衣のような「大学の広告塔=客寄せパンダ」は、下手な実力派の学者よりも、よほどありがたい存在なのである。

したがって、北村紗衣と同様に、公式には「女性差別反対」「ジェンダー不平等反対」を訴えている、田中東子河野真太郎にあっても、本音では、北村紗衣のように社会的に成り上がりたいと、そう思っている。だからこそ、先に「リーン・イン」した北村紗衣の「お仲間」にはなっても、北村紗衣を批判したりはしないのだ。
それどころか、北村紗衣に続けとばかりに、「フェミニズムを謳った通俗書」の刊行には積極的であり、そんな自らの行いが「ネオリベラルな資本主義社会」に竿さすものだとわかっていながら、それでもそれに、喜んで乗っかっていくのである。

「リーン・イン」フェミニストの代表、シェリル・サンドバーグ

ちなみに、本書著者の田中東子は、

「歴史学者呉座勇一についての告発的な公開(訴)状たる、オープンレター〈女性差別的な文化を脱するために〉」の賛同署名者

だと紹介したが、上の鼎談「分断と対峙し、連帯を模索する。一一日本のフェミニズムとリベラリズム」の参加者の一人、河野真太郎は、その「オープンレターの呼びかけ人(発起人)」の一人である。

したがって、そんな河野が、同じ「オープンレターの呼びかけ人」仲間である北村紗衣を、わざわざ批判することなどあるわけもない。

鼎談「分断と対峙し、連帯を模索する。一一日本のフェミニズムとリベラリズム」における「リベラリズム」とは、要するに、河野真太郎田中東子の寄って立つのが「資本主義的な自由主義」という意味であり、ここでいう自由主義というのは、限りなく「ネオリベラルな自由主義」に近いもので、実質的には「ネオリベラルな自由競争主義」を「擁護」しようとする立場なのだ。

したがって、河野真太郎田中東子の自称するする「リベラルなフェミニズム」とは、アメリカのブラックフェミニストであるベル・フックスが、資本主義の侍女(はしため)」としてのフェミニズムだと批判した「リベラルフェミニズム」そのものなのである。
だからこそ「リーン・イン・フェミニスト」で、「ポストフェミニズム」的な「第四波フェミニズム」の申し子である北村紗衣と、共同歩調をとることも可能なのだ。

その点、上の鼎談において、「従軍慰安婦問題」の重要性を持ち出していた菊地夏野の場合は、北村紗衣を名指しで批判しはしないまでも、現在の「第四波フェミニズム」における「資本主義」との馴れ合い的なものに疑義を呈して、フェミニズム内における「議論・論争の必要性」を、ただひとり主張していたという点が評価できる。

しかしまた、その菊地が、「名古屋市立大学の准教授」という、世間一般的には、田中東子河野真太郎のそれに「見劣りのする肩書き」だというのも、腑に落ちるところではないだろうか。
要は、弱者のために立ち働くフェミニストよりも、「俗情との結託」を狙った通俗書の執筆に熱意を注ぐような者の方が、いまやアカデミズムにおいても厚遇を受けやすい、ということである。

実際、すでに私もその著作を論評した河野真太郎については、自身の趣味である「オタク文化」について著作を刊行しておれば、それで満足な人、それで北村紗衣同様にファンでもつけばありがたいと、そう思っている人にしか見えない。
たしかに、河野真太郎は、その著作の中で「ネオリベラリズム」や「ドナルド・トランプ」や「右派ポピュリズム」を批判してはいるけれども、まさかベル・フックスナンシー・フレイザーを読んでいないこともあるまいに、「資本主義」自体を批判することは絶えて無いし、「ヒラリー・クリントン」式の「リベラル」や「左派ポピュリズム」の「リーン・イン・フェミニズム」的な欺瞞を、批判することもない。
一一無論それは、自身の依って立つものが、そうした「リベラルフェミニズム」に他ならないからである。

実際、大学は違えど、田中東子河野真太郎は、同様の傾向を持つ、事実として近しい関係にあると見ていい。
具体的に言えば、「Wikipedia」にもあるとおり、両者は、アンジェラ・マクロビーの共訳者である(『現代思想』誌版元の青土社が取り持った仲か?)。

『アンジェラ・マクロビー『フェミニズムとレジリエンスの政治──ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』田中東子との共訳、青土社、2022年』

(Wikipedia「河野真太郎」

「Wikipedia」を見ればわかることだが、河野真太郎はもともとは「英文学」が専門で、エドワード・W・サイードなどの翻訳に関わった「カルチュラル・スタディーズ」の人である。
また、そうした「差別問題」との関連において「フェミニズム」にも関わり、上の『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』に登場することにもなったのであろう。

だが、河野真太郎が近年刊行し始めた「自著」は、

『〈田舎と都会〉の系譜学——二〇世紀イギリスと「文化」の地図』ミネルヴァ書房、2013年
『戦う姫、働く少女』(POSSE叢書 Vol.3)堀之内出版、2017年
『増補 戦う姫、働く少女』ちくま文庫、2023年
『新しい声を聞くぼくたち』講談社、2022年
『この自由な世界と私たちの帰る場所』青土社、2023年
『はたらく物語──マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』笠間書院、2023年
『正義はどこへ行くのか──映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』集英社新書、2023年
『ぼっちのままで居場所を見つける──孤独許容社会へ』ちくまプリマー新書、2024年

と、最初の『〈田舎と都会〉の系譜学』を除けば、「オタク」的な内容のものが明らかに多いし、河野が一般読書界において注目を浴びたのも、まさに2023年の『増補 戦う姫、働く少女』からだというのも、一目瞭然だ。

さらに言えば、この『増補 戦う姫、働く少女』と、同書元版を含むそれ以前の著作との間の時期に位置するのが、Metoo運動」に端を発する、日本における「第四波フェミニズム」ブームであり、そのブームの中で発生した、かの「オープンレター」事件だったのである。

つまり、河野は「第四波フェミニズム」ブームに便乗して、「オープンレター」ではその「呼びかけ人(発起人)」となり、そうした北村紗衣的な「ポピュリズム」の流れの中で「売れた者勝ち」の「ネオリベラルな出版界」にも乗っかっていった人物だ、ということになるのである。

田中東子は、本書で、

『 私たちは現在、グローバルな競争、大量のアイドルやコンテンツの間の競争のただなかで、「あの人ではないこの人」、「あの作品ではないこの作品」という選別を迫られるようになった。
 そうした選別を迫られた「」は、気付けば非常に競争主義的なものと化し、自ら主体的に参加してより積極的に「推し」を応援しなければならないという意味で、現在の経済体制であるネオリベラリズム的な主体の在り方と非常に相性がいいとも考えられる。そのため、たとえば株の投資に近いような主体性、参加意欲、感性のようなものが、「推し活」の広がりを駆り立てているのである。』(P21)

などと、河野真太郎と同様、いちおう「ネオリベラリズム」を否定的に語って見せはする。

しかし、これも河野真太郎と同様で、「資本主義」そのものについては、決して批判しようとはしない、そんな「ヒラリー・クリントン」式に「リベラル」な「リーン・イン・フェミニスト」でしかない。

しかも、田中東子が、ナイーブに「資本主義」を信じ、「ネオリベラリズム」だけを問題視しているということではなく、「ネオリベラリズム」の問題とは、結局のところ「資本主義」の問題であると承知していながら、そこまで批判すると「リーン・イン」できないからと、一般にも評判の悪い「ネオリベラリズム」という「部分」だけを、トカゲの尻尾切り的に批判して見せているだけなのだ。

そしてその証拠とは、田中東子ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』を読んでいるという事実である。
田中東子は、フレイザーの中心的な問題意識をわざわざ避けて、ただ、知ったかぶりをしたいだけなのだ。

『 ちなみに「搾取」という言葉が世界中で知られるようになったのは、マルクスによって書かれた『資本論』といういまや古典となった本のおかげである。簡単に要点をまとめると、マルクスは、労働者が自分たちの生産した剰余価値分を支払われることなく資本家によって掠め取られてしまうことを、「搾取」と呼んでいる。『資本論』にまで遡って説明すると冗長になるため、ここではナンシー・フレイザーというフェミニストの研究者が『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』という本でマルクスの『資本論』を読解している箇所に言及しながら、搾取の構造について簡潔に説明してみることにする。
 フレイザーは、資本主義が経済システムであることを超え、利益第一の経済を機能させるための非経済的な支援を捕食する権限を与えられた社会秩序になったと主張している。例えば自然や被支配民からの富の収奪、ケア労働の収奪、公共財と公的権力、労働者の活力や想像力などを搾取し、その社会秩序の中であらゆる惨事が一つに集まり、互いを悪化させ、私たちを飲み込んでしまったのだと指摘する。こうした現象について、フレイザーは「共食い資本主義」と名付けて批判しているが、その際に、マルクスの『資本論』に依拠しながら、資本主義による搾取の構造を四つの特徴に基づいて説明している。』(P57〜58)

ここで田中東子の書いている、

『 フレイザーは、資本主義が経済システムであることを超え、利益第一の経済を機能させるための非経済的な支援を捕食する権限を与えられた社会秩序になったと主張している。』

という説明は、ほとんど「嘘」である。

なぜなら、フレイザーの主張するのは「資本主義とは、もともと経済という範疇に収まるようなものではなかった」ということであり、『資本主義が経済システムであることを超え、利益第一の経済を機能』させることが問題だというような話ではない、からである。
「超える超えない」の問題ではなく、資本主義とは、もともと「経済の範疇を超えたものだった」「マルクスでさえ、その認識が不十分だった」という話なのだ。

ナンシー・フレイザーによる同書についてのレビューで詳述したことだが、同書のキモは、フレイザーが、マルクスの言う「剰余価値の搾取としての資本主義」の問題の、その「先」、「資本主義」のマルクスが見落としていた部分を論じている点にあるのだが、田中東子はここで、フレイザーを、マルクスの剰余価値論を説明するための出汁に使って「矮小化している」のだ。

なぜ、マルクスの剰余価値論の説明を、素直にその入門書にでも沿ってしなかったのかというと、それはたぶん、次のような事情によるのではないだろうか。

(1)そもそも、マルクスの『資本論』を読んでいない
(2)いちおう『資本論』は読んでいるものの、自分の言葉で説明するのが面倒なので、フレイザーの説明を援用しつつ、暗に「私は、フレイザーも読んでますよ」というアピールをした。
(3)フレイザーの「反資本主義」は、資本主義社会に依存する「リーン・イン・フェミニスト」の一人である田中東子には、不都合なものだったから、婉曲に矮小化した。

実際、北村紗衣河野真太郎田中東子の共通点は何かといえば、それは、3人とも「現役のオタク」である点だ。

その事実は、それぞれの著書に、自己紹介的に示されていることだから、私が事あらためて紹介するまでもないだろうが、簡単に言えば、北村紗衣田中東子は、女性オタクとしての「腐女子」出身であるし、河野真太郎は「アニメオタク」であり「SF映画オタク」である。

そして、そもそも「オタク」とは、「資本主義的な高度な消費社会」であってこそ可能な、生存形式なのだ。
だからこそ、その立場で自己中心的に考えれば、ナンシー・フレイザーが指摘しているとおり、グローバルサウスに犠牲を強いる」ことになっても、「資本主義経済」を捨てることはできないのである。
フレイザーが望むような「フェアトレードの世界=搾取・剥奪のない世界」になれば、「オタク」は今のような水準での「過剰な消費生活」など送れなくなるから、「資本主義」そのものを批判することは出来ないのだ。

もちろん「オタク」であること自体が悪いわけではないのだが、しかし「オタク」というものには、総体的に言って、抜きがたい「問題」がある。それは、一一「自分たちのことしか考えていない(世間がせまい)」という点だ。

私は先日、「note」でフォローさせていただいているヤマダヒフミ氏の記事「百人の一般人よりも一人のオタク」に「スキ」を押した上でコメントし、ヤマダ氏と次のようなやりとりを交わした。

年間読書人
 2025年2月26日 01:55

私の場合は、昔からオタク嫌いでした。

高校生の頃に、初めて同人誌に書いた評論が「アニメファンはダメだ」という趣旨のものでした。何と比べてかというと、目立たないプラモファンに比べてです。

で、社会人になってから、伝統あるミステリマニアのサークル「SRの会」に入ると「ミステリマニアはダメだ」と内部批判を始め、縁あってSFファンのサークルに入ると「SFはダメだ」とやりました。

つまりまあ、自分が好きで所属している場所において、大勢を占める人たちというのは、当然のことかもしれませんが、基本的につまんねー奴ばっかりだから、どうしても批判してしまいます。もっとしっかりやれと。

現在は、フェミニズムに興味を持ったので、北村紗衣だけではなく、日本のフェミニストはもっとしっかりやれと叱咤しています。
すべては愛ですね。

大好きな中井英夫が(※ その著書である、私の)大好きな『虚無への供物』を「アンチミステリー」と名付けたのも、自身を「反世界」の人間だとしたのも、決して偶然ではないでしょう(笑)。

………………………………………………
 ヤマダヒフミ
 2025年2月26日 04:38

そうですね。まあ自分オタクに批判的なのですが、この文章は違う視点から書いてみました。

一般人から見ると、自分も年間読書人さんもオタクに分類されるんじゃないでしょうか。

価値観的には   玄人>オタク>一般人
なんですが、玄人はいない事になっていますから。またこれに関しては違う視点から書こうと思います。

………………………………………………
 年間読書人
 2025年2月26日 04:49

いや、一般的な分類からすればオタクである、というのは認めています。
いちいちその違いを説明するだけ無駄だから否定はしないのですが、まあ、違うものは違うものとして話をしないと意味がないので、オタク嫌いだと、そう表現せざるを得ないんですよね。

ですから、ヤマダさんのここでの狙いは十分承知しているつもりです。
外から「オタクはダメだ」といくら言っても、腹を立てられるだけだから、オタクの中のアンチ・オタクという表現を選ばれたんでしょう。

もう、私の場合は、オタクに理解してもらおうとは思ってなくて、ただ事実は事実として書いておく必要があるから、そのまま書いているという感じです。

………………………………………………
 ヤマダヒフミ
 2025年2月26日 04:59

なるほど。了解致しました。 』

つまり、「オタク」というのは、おおむね「お山の大将」であり「世間がせまい」。
またそれでいて、「我賢し」といった鼻持ちならなさがあって、広く世間を知ろうとするような「謙虚さ」に欠ける。

要は、自分の好きな「手持ちカード」だけで、世間全般を「説明」してしまえば、「どうだ、私はオタクでも、決してタコツボに閉じこもった存在などではなく、世間のこともちゃんとわかっているんだぞ」と、そうした「ケチな自己顕示」をやりたがりがちなのだ。

そして、その典型的な著作が、北村紗衣のそれであり、河野真一郎のそれであり、田中東子のそれなのである。

そしてそれは、いずれも「大学教授」が書いたものとは到底思えない、きわめて「薄っぺらい」ものでしかない。こんなものの書き手が「大学教授」をやっているようでは、世界の中での「日本の大学」のランク付けが、極端に落ち込んでいるという現状も、なるほどと思わざるを得ない。
なにも、難しく書けば良いというものではないけれども、少なくとも、私が若い頃にふれた大学教授の著作というのは、もう少し「本気で学問していた」と思う。

もちろん、当時の大学教授だって、ピンからキリまでいたし、キリの書いた本というのは、いくら頑張って学問して見せても、やはり、つまらないものではあった。
だが、今にように、ネオリベラルな「資本主義ポピュリズム」にそのまま乗っかったような「薄っぺらい」本など、当時の大学教授には「アカデミズムの禄を食む者の端くれ」として、恥ずかしくて人前に出せなかったはずである。

実際、田中東子による本書『オタク文化とフェミニズム』も、完全に「そのレベル」のものなのだ。

たまに、学者の名前を出したり、学問的なジャーゴンを使って見せたりはしているが、そこで語られている内容自体は、そんな「専門性」をわざわざ持ち出すまでもない「薄っぺら」なものに過ぎない。

それは、本書に関する「Amazonカスタマーレビュー」の評価にも一目瞭然で、専門家ではないレビュアーから「薄っぺらい」という趣旨の評価を受けている点では、先に紹介した河野真一郎の著書と、まったく同様なのだ。

現時点で、最も「役に立った」と、39人からの高評価を受けているカスタマーレビューは、次のものである。

『 Amazon Customer(5つ星のうち1.0)
 オタク文化を男性の文化と決めつけ、性対立を煽りたい?
  2024年11月14日

オタク文化を推し活に限定し、女を消費しているという前提の元、強引に展開する解像度の低い内容でした。
元となるオタクの根拠が著者本人、すなわちn=1のサンプルという稚拙さが原因になっています。
推しの韓流アイドルが性犯罪を起こした、私は傷つきましたのような話にも違和感があります。

オタクとフェミニズムを安易に対立する手法はXのようなSNSでよく見られるものです。
元々オタク人口は女性の方が多いと言われてもいます。
コミケの参加人数がわかりやすいです。
またアイドルファンはオタクの中では主流ではありません。消費文化でもありません。
コンテンツを自ら作っても来ました。
女性やオタクをバカにしたものとだと思います。

推し活やファン文化、アイドル文化に関する論考は書籍も先行論文など多々あります。
わざわざ論理的に破綻しているものを参考にする必要はありません。
なぜ筆者が「推し活」「アイドル」などのワードをタイトルに入れなかったのか?ということを考えて、この本を読むといいと思います。』

田中東子による本書『オタク文化とフェミニズム』「解像度の低い内容」については、いちいち解説するのも馬鹿馬鹿しいものなので、そこまではしないけれど、ご当人が「それでは納得できない」とおっしゃるのなら、北村紗衣河野真太郎の場合と同様に、なますに切り刻んでご説明して差し上げよう。

だが、そんなことをするまでもなく、田中東子自身による「はじめに」の、次のような言葉を引用紹介すれば、私が自らの手を煩わすまでもない著作だというのが、ご理解いただけるはずだ。

『本書は全体を通して、現象そのものを実証することを目的とはしていない。それよりもむしろ、重要な問題、困難な状況が浮かび上がっていることを批判的に捉え、指し示すことが重要であると考えている。したがって、取り上げている現象にかかわる新聞記事や雑誌記事、論文、最近ではSNSでの投稿などを集め、スクリーンショットを保存して目を通しつつも、その数をカウントしたり、キーワードの数や関係性をコーディングしてまとめたり、というような手法は用いていない。
 そういう意味で、本書は実証主義的な研究に基づく書籍ではない。しかし、返す刀で本書の内容が批評であるかと尋ねられたら、それもまた違うと答えざるをえないだろう。本書には幾人もの理論家や思想家、学者や評論家の言葉や概念や分析枠組みを引用し、現象に当てはめて考察をしている部分もあるが、コンテンツや作品の批評を行っているわけでもないからだ。社会現象を批評的に分解することを試みてはいるものの、批評のための理論を精緻化することを目的として分析を行っているわけではないのである。
 ではどういう本なのか? と説明を求められたら、首をひねりながら「あるオタクの研究者が、研究を目的としないままオタ活のフィールドに出て目にしたものを記述した記録のようなもの」と答えるのが適しているような気がする。つまり、「研究者」という超越的な主体がオタク文化をフェミニズムの視点から分析し、記述したのではなく、たまたま研究者の職にあるオタク女性が地面の上に立って身の回りの出来事を分析し、記述したら、たまさかそれが社会を批判的に提えることになり、フェミニズムが問題としてきた事柄にあてはまってしまったのである。そういう意味で、本書は主観的に感情や感覚を交えて書かれているわけではないけれども、極めて一人称的な本であることは間違いないだろう。
 天空から構えて論を振りかざすのではなく、地上から見上げて叫んでいる。
 そんな本なのである。』

このとおりである。
要は「学術的な著書ではなく」、したがって『重要な問題、困難な状況』だと自分が思っていることを、説明もなしに「重要な問題なのだ」と決めつけ、オタクがオタク問題の重要性をアピールしている本、だということだ。

それは私が、ヤマダヒフミ氏の記事へのコメントでのやりとりに関して書いた、次のような「オタクにありがちな問題性」である。

『「オタク」というのは、おおむね「お山の大将」であり「世間がせまい」。それでいて「我賢し」といった鼻持ちならなさがあって、広く世間を知ろうという「謙虚さ」に欠ける。要は、自分の好きな「手持ちカード」だけで、世間全般を「説明」してしまえば「どうだ、私はオタクでも、決してタコツボに閉じこもった存在ではなく、世間のこともちゃんとわかっているんだよ」と、そうした「ケチな自己顕示」をやりがち』

こうした『鼻持ちならなさ』が、最後の部分の、

『 天空から構えて論を振りかざすのではなく、地上から見上げて叫んでいる。
 そんな本なのである。』

という「自己賛美」的言葉に、ハッキリと表れている。
一一要は「学術」的でも「批評」でもないけれど、私(田中東子)は、そうした『天空から構えて論を振りかざす』という傲慢なやり方ではなく、みなさんと同じ「地に足がついた立場」から、謙虚に一生懸命、声をあげているのですという、搦手の自己賛美とは、仏教で言うところの「卑下慢」なのである。

しかし、そんなことを本気で思っているのであれば「東大教授なんて、さっさと辞めちまえ」ということにしかならない。
「学者」「研究者」が、その地道な職務を軽んじてみせて、世間の「オタク」に迎合することで味方につけようなどという欺瞞的な「ポピュリズム」は、断じて看過すべきではない。端的に言って、この偽善的な物言いは「エリート意識」に由来するものでしかなく、「一般のオタク」の知的レベルを低く見て、馬鹿にしたところから出たものなのだ。

たしかに田中東子は、本書において、自身が「オタク」であることを認めて、「オタク」を擁護してる。
しかしそれは「オタク一般」を高く評価しているからではなく、自身が「エリート・オタク」ではあれ、「オタク」であること自体は否定できない事実だからだ。だからこそ、「自己正当化」のために、これ見よがしに「オタク」の側について、「オタク」を擁護して、人気取りをしているに過ぎないのである。

つまりこれは、女だから女の側に立つとか、日本人だから日本人の側に立つといった、自分自身のための、ケチな「党派利益第一主義」の一種でしかない。

例えば、「在野」の著名な消費社会研究家である三浦展の「推し活」論について、田中東子は、「推し活をしている人」の側に「寄り添う」かたちで、次のように論じている。

『 拡大される「推し活」論議

 最近では推し活批評のようなものも次々と登場している。三浦展氏の『孤独とつながりの消費論|推し活・レトロ・古着・移住』では、サブタイトルに「推し活」という言葉が入っている。
三浦氏は、趣味的消費が最近では非常に増えてきたと主張して、次のように述べている。

〈推しの対象は、俳優、お笑い、スポーツ選手、地下アイドルなどなどに及び、あるいはアニメキャラクター、ゆるキャラのぬいぐるみでもよい。
 推し活は、自分が誰かを推す(愛する・応援する)とともに、推しているタレントからの愛を求めるところがある。推し活や応援消費は自分が応援すると同時に相手から応援されるという相互感覚が大事なのではないかと思われる。(一〇ー一一頁)(※ 右は「10〜11頁」の漢数字表記)〉

 また、三浦氏は孤独感と消費を結び付け、「推し活とは孤独者の宗教である」というテーゼを掲げて推し活を批評していく。三浦氏によると、推し活関連消費は、未婚女性と既婚男性、二〇代パラサイトシングルの男女と一人暮らし女性で多い傾向にある、そして、「孤独を感じる人のほうが消費額が多い」(四三頁)とのことである。さらに、二〇代、三〇代の女性の中で、好きなタレントやアーティストのグッズ購入、追いかけをする人が増えている、とも述べている。調査に基づいて分析してはいるものの、推し活をしている女性たちからは、「そうかもしれないけど、それが全てではないような‥‥‥」と反発的な感情を抱かれそうなことを躊躇なく書いている。
 二〇代、三〇代の独身女性は孤独だから消費活動に没頭して心を満たしている、という主張はありきたりでいささかステレオタイプ的でもあり、インタビュー調査などで消費活動の内実を補足する必要を感じる。』

(P30〜31、三浦文の引用部分は、原文では一段落としだが、ここでは〈〉で括った)

もちろん問題は、田中東子の、

と反発的な感情を抱かれそうなことを躊躇なく書いている。

の部分である。一一つまり、田中東子なら「評価対象」に反発を招きそうなことは書かないと、そう言っているのだが、これが「東京大学教授である学者」の言うことなのかと、愕然とさせられる。

学者というものは、自身の研究結果については、それが例え「世間」や「国家」に受け入れがたい内容であっても、むしろ信念を持って、それをそのまま公表することで、世間や国家に貢献すべき存在ではなかったのか?

「学問的には、本当はそうじゃないんだけど、そう正直に言っちゃうと、世間から爪弾きにされそうだから」と、「天皇陛下は現人神です」とか「太陽は地球の周りを回っています」などといった調子で、「想定読者」である「推し活するオタク」たちに配慮・迎合して「嘘さえつく」のが、田中東子という「東大教授」なのである。

そして、こういう欺瞞的な態度こそが、田中東子自身の言う『天から構えて論を振りかざすのではなく、地上から見上げて叫』ぶ、とやらの実態なのだ。オタクに「寄り添う」ことの内実とは、そんな「ペテン」でしかないのである。

まただからこそ、「マーケティング・アナリストである三浦展」よりも、肩書きこそご立派な「東京大学大学院教授」である田中東子は、「社会研究者としての実績」では、三浦に遥かに及ばない「三流学者」であるにもかかわらず、偉そうに、『天空から構えて論を振りかざ』して、次のように書いたのである。

『二〇代、三〇代の独身女性は孤独だから消費活動に没頭して心を満たしている、という主張はありきたりでいささかステレオタイプ的でもあり、インタビュー調査などで消費活動の内実を補足する必要を感じる。』

まったく、「社会学者としての実績も碌にないくせに、いったい何様のつもりだ」と訊いてやりたいところだが、本書を読むかぎり、いかにも臆病で保身的な田中東子は、心の中で「私は天下の、東大教授です」と、つぶやくだけなのであろう。

ちなみに本書には、こんな田中東子が、「リーン・イン・フェミニズムのお仲間」である、北村紗衣に言及している、次のような部分がある。

『 その他にも、「推し活」という言葉の誕生以前から、類する活動はあったのだという指摘もある。例えば、二〇二三年四月二四日から八月六日まで早稲田大学の演劇博物館(エンパク)で「推し活!展ーエンパクコレクションからみる推し文化」という展示が行われた。エンパクの展示では、「集める」「共有する」「捧げる」「支える」という推し活を構成する四つのキーワードが導き出だされ、エンパクの所蔵物から展示物が選び出されていた。この企画を担当した早稲田大学の赤井紀美氏は『週刊文春 WOMAN』二〇二三年秋号で、歌舞伎学会会長でエンパク館長でもある児玉竜一氏と対談している。対談では、能楽や歌舞伎のスターシステムや相撲のタニマチなども今でいう推し活ですよね、といった話が展開されている。英文学者で評論家としても著名な北村紗衣氏の著書『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』では、一七世紀から一八世紀半ば頃までの時期に当時の著名な作家や宮廷人から一読者、一観客にいたる女性ファンがどのように演劇文化を支えてきたかイングランドの社会文化的文脈とともに論じられている。つまり、一七世紀から一八世紀頃のヨーロッパにもお芝居に熱狂したり、書籍を集めたりと、推し活に類するようなファンの活動があったということなのだ。』(P32)

無論、問題は『英文学者で評論家としても著名な北村紗衣氏』という部分だ。

たしかに、北村紗衣の著作『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』は「昔のイギリスの女オタク」の活動を研究した本だから、ここで紹介すること自体は間違いではない。

けれども『英文学者で評論家としても著名な北村紗衣氏』という「表現」は、どうだろうか?

そもそも、北村紗衣は「英文学者」ではなく「英国文化の研究家」であり、その一端として「英文学」にも言及するだけのことだし、その「文学研究のレベル」は決して高くはない。
また「評論家」と言っても、「文芸評論家」としては無論、「英国文化評論家」としてのレベルも低い。
そもそも、北村紗衣の売りは「分析評価」ではなく、オタクらしい「知識の切り売り」的な、最新研究成果の「紹介」の部分にあるのだ。

一一したがって北村紗衣は、「英文学者」としても「評論家」としても「著名」ではない。
北村紗衣が著名なのは、「フォロワー5万人」に「タレント教授」として「著名」なのだ。

そして、そんな北村紗衣を、このように「ヨイショ」するのは、無論、田中東子が、北村紗衣と同じ「オタク出身の研究者」であり「リーン・イン・フェミニスト」であり「キラキラフェミニスト」を目指している、北村紗衣の「お仲間」だからだ。
「身内」を褒めておけば、見返りがあるかもしれないからで、だからこそ、この臆病者が、かの「オープンレター」にも喜んで参加し、それが問題になってからは、北村紗衣の意向に従って沈黙を守るという「従順ぶり」を示しているのである。

もちろん、現在の肩書きとしては、田中東子の方が北村紗衣よりも立派なのだが、しかし、オープンレターに署名するほど、以前から北村紗衣のことを知っており、かつ、もともとは本書からもわかるとおりの臆病者である田中東子は、今でも北村紗衣に逆らうことなどできないはずだ。
なぜなら、呉座勇一に対するオープンレター山内雁琳に対する民事訴訟」Twitter上での、ファンネル・オフェンスを使った、陰険な個人攻撃」やといったことに表れた北村紗衣の獰猛さ」を知っているからで、北村紗衣に媚びて、保身に走るというのは、ごく自然なことだろうからである。

また、本書の「あとがき」に、私の「読解(妄想?)」を唆る、とても興味深い記述がある。

『 それから本書が出版されるまでには紆余曲折があった。紆余曲折、というか、端的に私が怠惰だったというだけの話だ。(※ 青土社の担当編集者)永井さんは毎月のように連絡をくれ、打ち合わせのために会いに来てくれたし、原橋の修正を催促してくれた。しかし、私の方ではどうにも踏ん切りがつかず、「来月までには原稿を直しますから」などと言い訳を繰り返し、与太話をするばかりで、作業は遅々として進まなかった。同年代の親しい研究者たちが次々と著作を刊行していくのを眺めては焦りを感じていたにもかかわらず、一向に作業は終わらなかった。怠情であったせいもあるのだが、ここ数年、私は校務やら学会の仕事やらに激しく追われていた。
 そして三年が経ち、この度どうにか陽の目を見ることになった。このように書籍という形になり、みなさまのお手元に届けることができるようになったのは、ひとえに担当編集者の永井愛さんのおかげです。本当にありがとうございました。』

(P241「あとがき」より)

本書の刊行企画が持ち上がってから、田中東子は、延々3年間も編集者を待たせたそうなのだが、本書の刊行が2024年9月なのだから、本書の企画が持ち上がったのは2021年ということになる。つまり「第四波フェミニズム」が最高潮に達した頃だ。
だから、編集者が、こんな本でも出したいと考えたのは、ごく自然なことだ。「バスに乗り遅れるな」というわけである。

しかし、田中東子には田中東子なりと思惑があって、延々と3年も遅らせてしまったのではないだろうか?

というのも、2021年と言えば、すでに「オープンレター」とその後のゴタゴタが続いていた頃だった。

『オープンレター公開から3ヵ月後の2021年7月21日、代理人を介して交渉中だった呉座勇一氏と北村紗衣氏の交渉が決着し、呉座勇一氏の謝罪文が北村紗衣氏のブログ上で公開されました。呉座氏が公式に謝罪するのは3月20日の1度目を含めると、これが2度目になります。』

こんな時期だったから、私が言うところの「臆病」者である田中東子としては、著書を刊行するのに臆していたとは考えられないだろうか?

つまり、刊行までに3年もかかったのは、「時効」の成立を待っていたのではないかと、そんな推理も成り立つわけなのだ。

しかし、無論、その場合には「時効」など存在せず、正確には「ほとぼりが冷めるのを待っていた」というべきなのだが、私などは本書の刊行直後に、北村紗衣の存在を知り、「オープンレター」のことを知ったのだから、悪いことはできないものだ、ということなのであろう。

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なお、私が「ブックオフ・オンライン」で、古本として入手した本書は、版元である青土社が、新聞社にでも献本したもののお流れのようで、「乞御高評 青土社」と刷られた短冊と、献本用のチラシが挟み込まれたままだったのだが、そのチラシには次のように書かれていた

『謹啓時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
日頃お世話になっております小社では、このたび上記新刊を刊行いたしましたので、とりいそぎ献本申し上げます。貴紙誌媒体にてご高評賜れば幸甚に存じます。
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苦しさや葛藤もありながら楽しさや喜びも確かにある、

その両義的な実践の中で

「見る主体」はもはや男性だけではなくなり、「推し活」を通じて多くの女性たちもまた「見る主体」となり始めている。「オンナコドモ」のものとされていたエンターテインメントも、現在では批評の俎上に載せられるものとして、多くの人が語り始め、巨大なマーケットとして注目を集めている。
社会現象ともなっている「推し活」を、客観的にまなざしながら、主観的に寄り添いながらその現在地を描きだす。「推し活」論の決定版!』

だそうである。

『客観的にまなざしながら、主観的に寄り添いながらその現在地を描きだす。』と、「青土社の編集者」が本気で書いたのなら、なんとも「読めない奴」だとしか評しようがない。

それとも、これは「巨大なマーケット」に着目した「青土社ネオリベラリズム」としての、「売らんかな」の「心にもない宣伝文句」なのだろうか?

いずれにしろ、本書『オタク文化とフェミニズム』は、水準以下の「クズ本」である。

すでに、田中東子の「オタク仲間」である、河野真太郎の著書『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』についても「クズ本」だという評価を下したが、批評的な水準で言えば、まだしも河野書の方がマシだったと、公平に評価しておこう。

たしかに、本書『オタク文化とフェミニズム』を読めば、「推し活」だの「2・5次元ミュージカル」だの「男の娘」だのについての知識は増えよう。だが、それとて「Amazon Customer」氏が、

推し活やファン文化、アイドル文化に関する論考は書籍も先行論文など多々あります。
わざわざ論理的に破綻しているものを参考にする必要はありません。

と書いている程度のものでしかなく、その筋の「オタク」であれば、「大学教授(研究者)」ではなくとも、知っているもいれば、書けるレベルの内容でしかない。

それにしても、こんな人物が「東京大学大学院の教授」だとは、まさに日本も「オワタ(終わった)」としか言いようがない。

昔、福井晴敏の小説『亡国のイージス』映画化された際、その宣伝文句として使われた(たぶん)作中のセリフは「よく見ろ日本人、これが戦争だ」というものであったが、それをもじって言えば、まさに

「よく見ろ日本人、これが東京大学(あるいは日本の大学)の実態だ」

ということになるだろう。
まさに、知的・学問的な「亡国」の危機である。


(2025年3月11日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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