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『フェミニスト現象学入門 経験から「普通」を問い直す』 : 本書と北村紗衣を 現象学的に直観する。

書評:稲原美苗川崎唯史中澤瞳・宮原優 『フェミニスト現象学入門 経験から「普通」を問い直す』(ナカニシヤ出版)

前々から引っかかっていたことがある。私が現在批判している、「武蔵大学の教授」で自称「フェミニスト」である北村紗衣の、同傾向の2著のサブタイトルが、微妙に違っていた点についてだ。

『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(2019年・書肆侃侃房)

『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』(2022年・文藝春秋)

上の2冊は、ほとんど似たような内容のものである。
簡単に言えば「映画批評・英国カルチャー紹介・フェミニズムということになる。要は、北村紗衣の守備範囲内にすっぽりと収まる「雑多なエッセイ集」だと、そう言って良いだろう。
だが、前者のサブタイトルは「フェミニスト批評入門」なのに、なぜか後者は「ジェンダー・フェミニズム批評入門」となっているのだ。

「フェミニスト批評」は、「ジェンダー・フェミニズム批評」を含むはずである。だから、後者が「ジェンダー・フェミニズム批評」に特化された内容だというのなら、このサブタイトルであっても理解できる。
しかし、前記のとおり、両者の内容に大差ない。なのになぜ、後者ではこんな殊更な「限定」を課すような表現を採用したのか? 一一そこが謎だったのだ。

 ○ ○ ○

北村紗衣というまったく未知の人物から、いきなりネット上で批判されて以来、私は「フェミニズム」というものに興味を持つようになった。
そしてそこからフェミニズム関連書を読み始めてまだ半年弱の私は、間違いなく「フェミニズム」の初心者であり、素人であろう。

そんな素人の私からすると、「フェミニズム」とは「女性イズム(女性主義)」であり、「フェミニスト」は「女性主義者」ということになる。
だから、「フェミニズム」の観点に立った文章や著作というのは「〇〇フェミニズム」とか「〇〇のフェミニズム」とかいうタイトルになるのが「自然(普通)」であり、あえて「フェミニスト批評」などとすると、「フェミニストである人が、フェミニズム以外のことについても批評したもの」なのだろうかと、理屈っぽい深読みしてしまう。
「フェミニズム」の観点に立って書いたものなら、どうして素直に「〇〇のフェミニズム」といった表記にしないのか? なぜ、わざわざ「フェミニスト〇〇」などとするのか?

つまり、北村紗衣の第1著書である『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』のサブタイトルは、どうして「フェミニズム批評入門」ではなく『フェミニスト批評入門』になっているのか?

そしてさらに、その後の著作である『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』は、「フェミニスト批評入門」とはせずに、どうしてわざわざ『ジェンダー・フェミニズム批評入門』と、テーマを限定するようなサブタイトルにしたのか?
「ジェンダー・フェミニズム」の問題だって「フェミニスト」は扱うんだから、わざわざ「ジェンダー・フェミニズム」だけについて論じた本でもない同書に、どうしてこの時は、このような「限定的なサブタイトル」を付したのか、その理由がわからなかったのである。

この疑問については、管見の及ぶかぎり、北村紗衣自身は何も説明をしていないし、私が読んだフェミニズム関連書にも、そうした区別の基準を明示したものは無かった。
だからこそ、ずっと引っかかっていたのだが、そんな中で読んだ本書もまた、「フェミニズム現象学入門」ではなく、『フェミニスト現象学入門』となっていたのだが、どうして「フェミニズム現象学入門」ではないのだろうか?

タイトルにそんな引っ掛かりを覚えながら本書を読んでいて、しかし気づいたことがあった。そこに明示的に語られていたわけではないが、「これではないか」ということに気づいたのだ。

それは、「フェミニスト批評」とか「フェミニスト現象学」などと事更に言う場合の「フェミニスト」とは、「旧来のフェミニストによるフェミニズム批評」のことではなく、「旧来のフェミニズム」の「進化系」的なものに関わる「新しいフェミニズム批評としてのフェミニスト批評」だといったニュアンスのものであり、要は「旧来のフェミニズムとは違うのだ」と、その「差異」をアピールする際に使われるのが「フェミニスト〇〇」という言葉なのではないか、ということである。

どういうことか。
要は「フェミニズム(女性主義思想)」というのは、男性中心社会の中で差別されてきた「女性」の権利の獲得または回復しようとする、思想であり思想運動であったと言えるだろう。
そしてその「フェミニズム」における初期の際立った理論家が、「フェミニスト現象学」においても最重要の位置を占める、フランスの作家・哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールである。

(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

ところが、彼女の著作がアメリカで受容される際に、厳しい批判にさらされた
彼女の「フェミニズム」が「中流以上の家庭の白人女性」の立場(家政に縛りつけられた女性の立場)を想定したものでしかなく、貧しいが故に否応なく働きに出なければならなかった「貧困階級の女性」や、社会的に劣位に置かれた「黒人」や「有色人種」などの存在が、その視野には入っておらず、その意味では男性たちと同様に「無自覚に差別的」であると、そう批判されたのだ。

そこで、それまでは、もっぱら「中流階級以上の白人女性の権利」を問題としてきた「フェミニズム」は、その「反差別思想」の対象を、あらゆる「階級」や「人種」にまで拡張しなければならなくなった。
「女性差別」に反対するのならば、単に「中流階級以上の白人女性」へのそれだけを言挙げするのではなく、「貧困階級の女性」や「白人以外の人種の女性」への差別にも、当然反対しなくてはならない。そうでなければ、「フェミニズム」の名に値しない。

しかし、さらに言えば、私が北村紗衣に対して

「どうして女性差別の話しかしないのだ。おまえは、部落差別朝鮮人差別や沖縄差別(含「米軍基地問題」)の問題を知らないのか? 知らないはずはないのに、それをあえて無視するということは、おまえが差別する側の人間だということになるが、それで、女性の場合だけ反差別を訴えるのは、ご都合主義的な欺瞞ではないのか。結局のところそれは、反差別ではなく、単なる(女性)党派利益の獲得運動でしかないのではないか」

と、繰り返し批判したのと同じで、「(被)差別」というのは、何も「女性」だけに限定された現象ではないのだ。
だから、「フェミニズム」が「差別に反対する思想運動」なのであれば、男性までも含めて、すべての「差別される人たち」を擁護し、その権利を守り獲得するための思想運動でなければならないはずなのである。

つまり、「フェミニズム」は、アメリカでの受容に際して、「女性主義思想」という構えの根本的な部分(での無自覚)を批判されたため、「階級」や「人種」など、「差別」に関わるあらゆる問題を考慮しなければならなくなった。
そこで、「交差性(インターセクショナリティ)」ということが言われるようになったのだ。
この世のさまざまな差別偏見が交差する地点において、差別の実態を多角的に捉えようとしないようでは、「フェミニズム」もまた「党派利益優先型の差別的なイデオロギー」にすぎない、ということになってしまうからである。

そこでだ、「フェミニズム」という言葉には、どうしても「女性主義思想」という「限定的なイデオロギーとしてのイメージ」がついて回るので、「私たちは、旧来のフェミニズムではなく、フェミニズムの観点から出発して、それを拡張した、より上位の観点に立つフェミニストなのだ」という意味合いにおいて、色のついた「フェミニズム」という言葉とは区別するかたちで、「フェミニスト」という言葉を使い始めたのではないだろうか。

平たく言えば「私たちを、従来の(昔の)フェミニズムと混同しないでほしい。私たちは、もっと広く高い視野に立つ、公正なフェミニストなのだ」というようなニュアンスを「フェミニスト批評」という言葉に持たせようとしたのではないか。

言うなれば、「フェミニズム批評」は「交差性(インターセクショナリティ)以前のもの」であり、「フェミニスト批評」は「交差性(インターセクショナリティ)以後の今のフェミニズム」だ、というようなニュアンスである。

では、なぜ北村紗衣の場合は、「フェミニスト批評入門」から「ジェンダー・フェミニズム入門」へと「後退した」のか?
それはたぶん、流行りに乗っていったんは「フェミニスト批評」を名乗ったものの、それを名乗ると、あらゆる差別についての目配りをしなければならなくなる。
しかし、これまでも何度も論じてきたとおりに、北村紗衣の場合は、今の(新自由主義的)資本主義社会において社会的に成り上がることを「第一」とした「リーン・イン・フェミニスト」であり「セレブリティ・フェミニスト」であり「キラキラ・フェミニスト」であり、個人主義的な「第四波フェミニズム」の申し子であり、要は、自身の利益に直結する「ジェンダー・フェミニズム」にしか興味がなかったので、そもそも興味もなければ自分の手にも余る「フェミニスト批評」を前面に出すことはやめて、自身の身の丈に合った「ジェンダー・フェミニズム批評」と表記するようになった一一と、そういうことなのではないだろうか(もちろん、いまだに大した一貫性など無いとしてもだ)。

つまり「フェミニズム批評」でしかないのに、わざわざ「フェミニスト批評」と書いたり、実質的に「フェミニズム現象学」なのに、わざわざ「フェミニスト現象学」だなどと名乗るのは、「従来のフェミニズムとは、違うのですよ」という「差異化の意思」が、そこに働いていると見て良いのではないかと、私はそこに気づいたのだ。一一当然、本書も、そうした本だったということである。

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「フェミニズム現象学」とは何か? 端的に言えば、「フェミニズム」のイデオロギー性を、「現象学」の手法を使って補正したもの、である。

「フェミニズム」だけでは、目の前の現象を、手前味噌に「イデオロギー的」に見てしまう恐れがある。
そしてそれが、事実そうであったというのは、ボーヴォワール以来のフェミニズムが、長らく「階級」や「人種」を考慮できなかったという事実に明らかだ。

だから、「フェミニズム」のそうした弱点を踏まえ、単に、「交差性」を追加的に意識するというだけではなく、そもそも目の前の現象を「イデオロギー」から離れて見ようとする「現象学」の手法を取り入れれば、従来の「フェミニズム」の弱点を克服できるはずだと、そんなふうに考えたのである。
つまり「フェミニスト現象学」というのは、「フェミニズムを弱点を乗り越えていく、フェミニストの現象学的なフェミニズム」であって、「フェミニズムによる現象学」だとか、単に「フェミニズム的事象を対象とした現象学」などではない、というニュアンスを持たせたものなのであろう。

本書の紹介文に、

『妊娠、月経、身振り、ハラスメントトランスジェンダーカミングアウト、女らしさ/男らしさ、人種差別、障害、老い……
この世界に生きるということはどのような経験なのか?

ボーヴォワールメルロ=ポンティといった哲学者の議論を拡張しつつ、当事者たちの経験の記述から様々なテーマに接近し、「当たり前」と「規範」の問い直しを試みる。
フェミニスト現象学に関係する論文や海外文献を紹介した文献案内も巻末に収めた、充実の入門書。』

Amazonの本書紹介ページより)

とあるように、「はじめに」他、本書で何度も言及されているのは、ボーヴォワールメルロ=ポンティの2人で、現象学の祖であるエトムント・フッサールですら、一度しか言及されていないことからも明らかなように、本書は「フェミニズム」に軸足を置き、そこから出発したものだということがわかる。
まず「フェミニズム」があって、そこへ「現象学」を接木したものなのだ。

ちなみに、メルロ=ポンティとは、次のような人である(※ トップ画像の人物)。

生涯
1908年フランスのロシュフォールに生まれる。18歳のとき高等師範学校に入学し、サルトルボーヴォワールレヴィ=ストロースらと知り合う。21歳のときフッサールの講演を聴講し、現象学に傾注する。以後現象学の立場から身体論を構想する。37歳のとき主著『知覚の現象学』を出版するとともに、サルトルと「レ・タン・モデルヌ(現代)」誌を発刊する。戦後はパリ大学文学部教授となり(1949年)、児童心理学・教育学を研究する一方、冷戦激戦化の状況の中、マルクス主義に幻滅し、サルトルとは決別した。

メルロ=ポンティは、知覚の主体である身体を主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、世界を人間の身体から柔軟に考察することを唱えた。身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察した。1959年、『見えるものと見えないもの』を刊行。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため急逝(1961年)。』

(Wikipedia「モーリス・メルロー=ポンティ」

つまり、メルロ=ポンティは、本書でしばしば言及される『知覚の現象学』を書いた人であり、ボーヴォワールにも大きな影響を与えた人だということだ。

だから、ボーヴォワール的な「フェミニズム」を批判するというのではなく、ボーヴォワールのフェミニズムが本来持っていた現象学的な観点を重視するという立場が、「フェミニズム現象学」だとも言えよう。
ボーヴォワール以後の「フェミニズム」ではなく、ボーヴォワールが本来持っていた現象学的な観点を再獲得して、「その後のフェミニズム」の限界を「現象学」の手法を使って乗り越えるのが「フェミニスト現象学」だというわけだ。
一一要は「そこいらのフェミニズムとはちょっと訳が違って、こっちはもっと哲学的でもあれば、学問的にも客観的なものですよ(イデオロギーではありません)」ということなのであろう。

だが、言うまでもないことだが、「現象学」の勉強さえすれば、誰でも「現象を、より深く理解できる(その本質を正しく直観できるようになる)」と考えるのは、安直である。

「現象学」というのは、本書でも説明されているとおり、平たく言えば「色眼鏡を外して、現象をそのまま見る」という手法であり学問のことだ。
人間というのは、どうしたって、それまでの人生の中で培ってきた「常識」や「思考パターン」を通して、物事を見てしまう。
どうして、そうなるのかと言えば、それは、その方が「効率的」だからだ。

例えば、目の前に「馬」と呼ばれる動物がいたとする。
私たちは、それを見て「馬だ」と思うのだけれども、それはその動物を「馬」だと知っているからではなく、これまで蓄えてきた「知見」から推せば、それを「馬だと判断して、まず間違いない」と考えるためである。

しかし現実には、「一見したところ〇〇の仲間に見えても、生物学的には〇〇の仲間ではない」という生物が、たまにいる。擬態した生物などが、まさにそれだ。
したがって、経験則だけでは正しい判断の困難な「例外的事象」も存在するのだが、私たちは目の前の事象を判断するときに、いちいち経験則を疑ったりはしない。「これは、いかにも馬に見えるが、実は宇宙生物ではないか」などとは疑わない。なぜ、疑わないのかと言えば、現実問題としてそれは「非効率」だからである。

しかしながら、こうした「効率性」を優先した物の見方というのは、しばしば「誤認」を結果してしまう。
例えば、「みんなが、ユダヤ人は劣等人種だと言っているから、きっとそうなんだ」というような認識は、安易な「効率的判断による誤認」だということになるだろう。

だが、それでもまた、そういう「誤認」は、多くの場合、例外的なものであるため、私たちは「常識」や「思考パターン」に頼って、物事を見、判断してしまいがちなのだ。

では、私たちが、目の前の物事を「厳密かつ正確に見なければならない」場合には、どうすればいいのだろうか?
それは、自覚的に「色眼鏡」を外して、その対象の「あるがまま」を見るという努力をするしかない。

「こういうものは、一般にこうだと言われている」とか「これまではこうだと考えられてきた」とかいった「パターン認識」を排除して、目の前の事象を、新鮮な目で「そのまま」見ようとする態度。これが「判断停止(エポケー)によって臆見を排除する、現象学的な還元」による、物の見方なのである。

例えば、私の人生に多大な影響を与えたミステリ小説、笠井潔『バイバイ、エンジェル』には、「現象学的本質直観」を駆使する名探偵・矢吹駆が登場する。この矢吹駆の活躍する舞台が、まさにボーヴォワールやサルトルが生きていた時代のフランスなのだ。
この「矢吹駆シリーズ」の特色は、実在した思想家・哲学者をモデルにした人物が毎回登場して、矢吹駆と思想的対決をする、という点にあるのだが、シリーズ7作目の『煉獄の時』には、明らかにそれと分かるかたちで、ボーヴォワールやサルトルをモデルに人物が、事件に関わる重要人物として登場してもいる。

話を『バイバイ、エンジェル』に戻すと、この作品で描かれるのは「首斬り殺人の謎」である。被害者の首が切断され、首だけが持ち去られるという事件の謎が追われるのである。

この日本人留学生・矢吹駆には、彼に想いを寄せるフランス人女子大生ナディア・モガールという友人がいて、彼女の父親はパリ警視庁の事件課の警視であり、その関係で、矢吹駆は事件捜査に協力させられ、名探偵役を演ずることになるのだが、この作品で面白いのは、ナディアが「ミステリマニア」であるという設定だ。
彼女は「不可解な事件」が発生すると、ミステリマニアらしくいろんな推理をして、それを駆に開陳するのだが、当然のことながら、その推理は間違っている。

例えばナディアは、この「首斬り殺人」を知って「実は、被害者は、そうだと思われている人物ではないのではないか。むしろ、被害者と思われている人物こそが犯人で、被害者の首を切って持ち去ることで、被害者が自分だと警察に誤認させ、容疑圏内から逃れようとしているのではないか」と、いかにもミステリファンらしい推理を、得意げに駆に語る。

だが、哲学を専攻する博学の駆は、ナディアに「君の見方は臆見(ドクサ)に塗れている」と批判的に指摘する。
要は「ミステリマニア」的な「偏見」に凝り固まった物の見方であり、現象をそのものを見ていないと、そう批判しているのだ。そして駆は、そうした偏見によらない物の見方として、「首斬り」の「本質」とは何なのか、その「現象学的還元」によって「直観」したところを、ナディアに開陳することになるのである。

つまり、私たちの物の見方というのは、しばしばこのナディア的な「思い込み」に歪められているのであり、現象学的還元とは、そんな「色眼鏡を外す手法」なのである。

だが、本書『フェミニスト現象学』で問題なのは、「現象学」の考え方や手法さえ知っていれば、それが誰にでも可能なことのように語ってしまっている点なのである。

言うまでもないことだが、「色眼鏡で物を見てはいけない」というのは、現象学を知らない人でも、当たり前に知っていることであるし、誰も好んで「色眼鏡=偏見」をもって物事を見ようとはしていない。
つまり、当人としては、当たり前に「客観的に見ているつもり」なのだが、なかなかそうはいかないからこそ、この世の中には「偏見」というものが存在しているのだし、「現象学的還元」による「本質直観」などという手法も提唱されるのだ。

したがって、現象学的還元をいう手法を「知っていること」と、それが「実行できること」とには、天地の開きがある。
例えば、カルチャーセンターの「小説家養成講座」に通って、プロの小説家である講師から「面白い小説の書き方」を習ったところで、聴講生全員が「面白い小説を書けるようになる」わけではない。
むしろ、大半の者はそうはなれないのであって、宮部みゆきのような例は、あくまでも「例外」であり、その差は何かといえば、そもそも彼女には、特別な「才能があった」ということなのだ。

これと同じで、「現象学的還元」の手法を教わり、それを「知っている」ことと、それを「実行できる」こととは、完全に「別問題」なのだ。
だから、本書『フェミニスト現象学』の執筆者の13人が、いずれも「現象学的還元」を成し得ているのかと言えばとは、とうていそうは言い難いのだ。
それどころか、大半の著者にはそれができていないからこそ、本書所収論文の大半は「陳腐(つまり、本書サブタイトルで否定的な言われる「普通」に囚われたまま)であり、フェミニズムの紋切り型を一歩も出ないもの」となってしまっているのである。

本書のAmazonレビューは、刊行後5年現在で4つしか寄せられておらず、そのうち2つは「5点満点」、ひとつは「3点」、残りのひとつは「1点」なのだが、私は、この「1点」つけたレビュアー「YUKARI」氏の評価を支持したい。氏のレビューは、次のようにシンプルなものである。

YUKARI  『これが現象学?』(5つ星のうち1.0)
2022年1月13日
内容が浅薄で雑誌コラムやブログレベル。2500円払う価値はない。』

「YUKARI」氏は「雑誌コラムやブログレベル」と書かれているが、実際、本書は「フェミニスト現象学」研究会の仲間である大学教師たちが、自分たちの「フェミニスト現象学を宣伝するため」に(ゲスト執筆者を招いて)刊行した「見本同人誌」に等しい著作だと言えるだろう。

本書が刊行されたのは「2020年5月」は、まさに「フェミニズム本」刊行ブームの真っ只中である。
だから「バスに乗り遅れるな」とばかりに、自分たちの「フェミニズム現象学は、従来のフェミニズムとはちょっと違うぜ」というところをアピールしようと刊行されたもののようで、読めばわかるが、「自家宣伝」臭ばかりが鼻につく本なのである。

実際、本書編者の4人が、この「フェミニズム現象学」研究会の中心メンバーだと思われ、そのメンバーによって「はじめに」ほか、本書の趣旨を説明した文章が書かれているのだが、それらの文章は、特に宣伝臭がひどい。
その他の文章は、基本的に「フェミニズム現象学」では「こんないろんな問題が扱えますよ」という「実例集」的なもので、確かにいろんなことを扱ってはいるのだが、個々の論文がせいぜい10ページほどの短いもので、いかにも食い足りないものばかり。

先にも書いたとおり、私は「フェミニズム」を学び出してまだ半年ほどの素人なのだが、本書に書かれている程度のことなら、わざわざ「現象学」など持ち出さなくても、すでにすべて「知っていたこと」や「わかっていたこと」にすぎないのだ。

本書には、「はじめに」の他に14本の論文と、数本のコラムが収められているが、これらの中で私が「面白い」と思ったのは、第7章の池田喬による「一人暮らししなければ一人前じゃないのか? 〈家に住むこと〉のフェミニスト現象学」だけだったと、そう断じても良い。この論文に限っては、何度かハッとさせられ、「なるほど」と思わされたのだ。
そのほかで比較的にマシというか、期待の水準に達している書き手は、せいぜい第10章「「性別違和」とは何か? トランスジェンダー現象学の導入に向けて」藤高和輝くらいのもの。
あとはもう、私よようなアマチュアをして「当たり前のことしか書いていない」と、そう評価するしかないレベルのものだったのである。

Amazonレビューでは、こんな本に「5点満点」をつけているレビュアーが2人もいたのだが、そうした人はきっと、まともな哲学書を読んだこともなければ、フェミニズム書を読んだことすらないのだろう。
たしかに、本書の「はじめに」には、

『本書を読むためにフェミニズムやジェンダー論の知識はまったく必要ない。哲学・倫理学や現象学に興味があるだけだという方も、気軽に本書を手に取ってほしい。』

と書かれてはいるけれども、「入門書」だから「内容が薄い」ということであってはならないし、入門書であることを言い訳にすることもできない。
というのも、優れた入門書というのは、予備知識のない者にも、本質的な思考を促してくれるような「深い知恵」を提供してくれるものだからである。決して「内容が薄い」のが入門書だというわけではないのだ。
したがって、本書は単に、つまらない(不出来な)入門書なのである。

本書は、あれこれのたくさんの話題を振って目先を変えているから、哲学やフェミニズムに完全に無知な人には、「物珍しい」ものではあろう。
けれども、「フェミニズム」の本としても、「現象学」の本としても、本書は完全に薄っぺらい。だから、どうせ読むのなら、哲学であれ、フェミニズムであれ、もっとまともな入門書を読めとおすすめしたい。

そんなわけで、巻末の執筆者紹介を見てみると、前述の池田喬は「フェミニズム」研究者ではなく、専門はハイデガーであり、そこで「現象学」との関わりがある人だというのが判る。
当然、ボーヴォワールやメルロ=ポンティの専門家ではなく、その意味で、サブタイトルに「フェミニスト現象学」という言葉を入れているが、それに重きを置いているわけではない。事実、池田は同稿の中で、

『 フェミニズムの中で「家」は女性をケア労働に縛り付けるものとして否定的に言及され、女性の〈社会進出〉を推進するという方向が重視されることが多い。しかし、家はケアの場であるだけでなくロゴスの場でもあること、あるいはルディックの論点を踏まえていえば、語り合うことがケアに含まれること、また、家から出て進出するはずの社会が自分たちに敵意を向けて妨害してくるようなマイノリティに自らが属していることを考慮したときはどうだろうか。』(P81)

と疑義を呈した上で、ブラック・フェミニストであるベル・フックスの言葉を引いて、「フェミニズム的な紋切り型(色眼鏡=偏見)」を批判してもいる。

一方、藤高和輝は、すでにジュディス・バトラーに関する著作を持っていることからもわかるとおり、「フェミニズム哲学」をやっているとは言っても、いわゆる「フェミニズム」や「フェミニスト」と表記されるジャンルには限定されない、広く「クィア」問題されるものの方を重視しているようである。まただからこそ、寄稿論文のサブタイトルを、「フェミニスト現象学」ではなく、わざわざトランスジェンダー現象学」としているのである。

藤高の立場は、「フェミニスト現象学」は、どうもしばしば無自覚に「男性・女性」という二項対立を前提としてしまっているように見えるが、ジュディス・バトラーがその著書『ジェンダー・トラブル』で指摘したように、そもそも「男女二項」という考え方が「社会構築的な制度としての思考」に毒されたものであって、より本質な「男女二元論には回収不能な存在」としての「トランスジェンダー」という存在を起点として、ジェンダーの問題を考えなければ、いくら「フェミニスト現象学」などと言ってみたところで、「色眼鏡としての臆見(ドクサ)」からは逃れられないと、大筋でそのように考えているようだ。
だからこそ、本書のグループが掲げた「フェミニスト現象学」という看板に自足するのではなく、より本質的な「トランスジェンダー現象学」こそが必要だと、わざわざ訴えているのである。

つまり、本書のダメなところは「フェミニスト現象学」を名乗り、「フェミニズムの陥った陥穽を乗り越える手法として、私たちは現象学を活用してます。つまり私たちは、従来のフェミニズムに対し、そのメタレベルに立ったフェミニズムであり、その意味でのフェミニスト現象学なのです」と「自画自賛」してはいるものの、前述のとおり、「現象学的還元」つまり「色眼鏡を外して、事象をありのままに見る」というのは、「現象学をお勉強したからといって、必ずできるものではない」のだし、事実、本書の執筆者の大半は、やっぱり「色眼鏡」を掛けたままだからこそ、彼らの論文は、ありきたりの「フェミニズム的言説」を一歩も出ない、凡庸なものに止まっているという事実なのだ。

本書の中でも語られているとおり、メルロ=ポンティも、「現象学的還元」とは「ここまでやれば終わり。そこが現象そのもの」というような「明確な終着点」が得られるようなものではない、としている。

つまり、私たちの掛けている「色眼鏡」は、何重にもなっていて、色眼鏡をひとつ外しても、その下にはまた別の色眼鏡があり、色眼鏡をふたつ外しても、みっつ外しても、それで「裸眼」だという保証は、どこにもないのだ。

前述の『バイバイ、エンジェル』においても、矢吹駆は最初の「首切り」の本質直観を誤り、物語後半で新たに、「現象学的な還元」を徹底することで、ついに「事件の本質」に迫ることができた、という展開になっている。

このように、「現象学的還元」とはしばしば、「私は色眼鏡を外して、対象の素の姿を見ている」という「誤認」や「錯覚」や「過信」という「迷妄」へ、それを行う者を誘いこみがちなものでもあるのだ。
だから「現象学的還元」を行おうとする者にはいつでも、「自分はまだ、現象学的還元をし切れていない。自分がいま見ているそれは、現象の実相ではないかもしれない」と考える「謙虚さ」が求められる。

ところが、本書に瀰漫しているのは「我々の方が、真相を見抜いているよ。だって、現象学を採用してるんだから、ただのフェミニズムと一緒にしないでね」という「鼻持ちならない自負」なのである。

その点で本書は、本質的にダメなのだ。

ちなみに、本書が「自分たちの、フェミニズム現象学の、宣伝本」だというのは、「はじめに」の後に付け加えられた、次の一文にも明らかだろう。

本書を採用してくださる先生方へ
本書を用いる授業・講義をサポートする教師用資料をお分けしています。各章の内容を踏まえた対話やレポート作成のための問いのリストです。ご利用をご希望の方は、お名前・担当授業をご明記のうえ、manual@nakanishiyaco.jpまでお問い合わせください。』

もちろん、学者だって「霞を食って生きているわけではない」から、本書が「流行のフェミニズム」の上をいく「フェミニズムの客観的理解に役立つ教科書」として、広く採用してもらえたらありがたい、というそんな気持ちもわからないわけではない。

しかし「現象学的還元」とは、そんな「人情としてはわかる」といった「色眼鏡」すらも外して、対象をありのままに見て評価することなのだ。

だとすれば、私が本書全体に対して「現象学的還元」を行なった上での評価としては、やはり「流行のフェミニズム業界の中で、注目の的になりたい。そして我々も、売れっ子になりたい」というのが、その「本質」にしか見えないのである。
その欲望が強すぎて、目を曇らせ、言葉が飾られすぎているようにしか見えないのだ。


(2025年3月28日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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