夏目漱石 『漱石書簡集』 : 漱石と似た者同士なるは恐悦至極なり。
私が、活字の面白さを知ったのは、夏目漱石の『こころ』(『こゝろ』)によってである。高校生時のことだ。
それ以前に最後まで読んだ活字本と言えば、石津嵐によるアニメ『宇宙戦艦ヤマト』のノベライズ本と、古文の授業で課せられた『古文入門』という入門書の2冊だけだった。
前者の小説『宇宙戦艦ヤマト』は、アニメのファンでストーリーを知っていたから、なんとか読めたようなもので、特に面白いとも思わなかった。だが、ひとまず活字の本を初めて最後まで読めたという達成感はあったはずだ。
たしかこのノベライズ版では、主人公の古代進の戦争で死んだはずの兄・守が、イスカンダルのスターシャに救われて生きていたというアニメの展開ではなく、キャプテンハーロックのなって生きたいという改変がなされていて、何だかなあとは思ったものだ。ちなみに、古代守のハーロックが乗っていたのは、アルカディア号の前のデスシャドゥ号で、それなりにマニア向けの趣向だったのだろう。
なお、石津嵐はその昔、手塚治虫の「虫プロ」でアニメ制作の「進行」をやっていた人だが、Wikipediaによると、本名は「磐 紀一郎」。虫プロ時代の愛称は「アオちゃん」だったのだが、この「アオ」の出所は不明。元妻の石津節子は、アニメ『マルコ・ポーロの冒険』で美術監督を務めた人で、本名は川崎節子だそうだ。
アニメのスタッフは、複数のペンネームを使い分ける人がけっこう多い。
一方の『古文入門』の方は、ただ読んだだけなので、中身などまったく記憶にないし、たぶん、ほとんど役に立たなかったと思う。レ点や返り点の使い方くらいしか記憶にない。
一一そんなわけで、活字の本の凄さを私に教えてくれたのは、漱石の『こころ』だった。
それまでの私は、漫画やアニメの人であり、要はビジュアル派だったから、絵の無い活字の本が面白いなどとは、とうてい思えなかった。
ところがこれも、国語の授業の課題として課され『こころ』にハマってしまった。
私も若かったから、作品の世界にのめり込むようにして読んだ挙句「活字には、こんなことができるのか!」と、豁然大悟したのである。
なお、ここで言う「こんなこと」とは、複雑微妙な「心理描写」のことだ。
大した事件も起こらず、無論アクションも何もないのに、心理を描くだけで、これほどのドラマを成立されてしまう「小説」というものの凄さを、私は『こころ』によって初めて教えられたのである。
そして私がいまだに、アクション系の小説には興味がなく、心理偏重なのは、『こころ』の影響もあるだろうし、また、もともと私はそっち向きの人間だったということなのでもあろう。
自身では気づかなかった特性を、漱石が私に教えてくれたのである。
そんなわけで、漱石の作品はあらかた高校生の頃に読んだ。
読まなかったのは、短編と『草枕』『坑夫』『明暗』といったところで、先年退職してからは、そのあたりをぼちぼちと読んでいる。漱石の評論や、本書『漱石書簡集』もその一環だ。
さて、先日、漱石初期の中編「野分」を読んだ時にも多少は感じたことだが、今回『書簡集』を読んで驚いたのは、漱石は、小説から感じられた以上に、私と似たところがある、ということだ。
私が日頃書いてるのと、そっくりなことを書いている。
言い換えれば、今どきの文筆家なら決して書かないようなことを、呆れるほど率直に書いているのだ。
漱石を集中的に読んだ高校生の頃には、まさか漱石がこんなに率直な人だとは思いもしなかった。
もっとこう、何か深いことを考えており、あまりそれを口にはしないというような、重い感じの人をイメージしていたのだが、この『書簡集』を読めば、漱石が、率直・熱血・反骨の理想主義者だったというのが、とてもよくわかるのだ(無論それだけではないが)。
それで今回は「私と同じようなことを言っているな」と思った言葉の数々を紹介することにした。
私の文章を読んでくれている危篤な方ならば、必ずや「なるほど」と、感心したり呆れたりしていただけることだろう。
したがって、私自身の言葉は、できるかぎりコメント程度に短く止めたいと思う。
○ ○ ○

(01)
『総て文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙するが妙味と被在候。さればこそ瓶水を倒して頭上よりあびる如き感情も起るなく、胸中に一点の思想なくただ文字のみを弄する輩は勿論いふに足らず、思想あるも徒らに章句の末に拘泥して天真爛漫の見るべきなければ人を感動せしむること覚束なからんかと存候。今、世の小説家を以て自称する輩は少しもオリヂナルの思想なく、ただ文字の末をのみ研鑽批評して自ら大家なりと自負する者にて、北海道の土人に都人の衣裳をきせたる心地のせられ候。なるほど頭の飾り衣の模様仕立の具合寸分の隙間なきかは知らねど、その人の価値はと問はば三文にも当せず、その思想はと問はば一顧の価なきのみならず鼻をつまんで却走せざるを得ざる者のみのやうに被思候。』
(P18、1889年・正岡子規宛)
最初なので、少し詳しく書いておこう。
漱石がここで書いているのは、文学者だとか言って威張ってる者の大半は、字句を細かく弄って満足してるだけの、中身のない気取り屋のクズだ、いうことだ。
文飾ばかりで中身がない。中身が無いから、率直に書けないのだと、そう批判しているのである。
ここで漱石の言う『北海道の土人』とは、今で言う「アイヌ」の人たちのことで、当然のことながら、今ではこんな比喩表現は、きっと誤解を受けるから、許されない。
何が「誤解」なのかと言えば、それは「漱石がアイヌを差別している」という理解は、誤解だということだ。
明治の人である漱石が、ここで『北海道の土人』と表現することで何が言いたかったのかと言えば、それは「知的に文明化されていない人たち」つまりは「知的では無い人たち」ということであり、言い換えれば「世間が狭く、自分たちの〈ムラの論理〉だけで生きている人」たちのことを、それではダメだと批判しているのである。
つまり、「アイヌ」を差別してしているのではなく、「田舎者」的な人のすべてを、公平に批判している。
田舎に住んでいる人も、都会に住んでいる人も、文壇人(文学者)もアイヌも、分け隔てなく、向こう三軒両隣的な「狭い了見」に自足している奴はダメだと、そう批判しているのだ。
無論、その意味するところはそうであっても、「誤解される表現」には、十分な注意と配慮が必要だろう。
しかしながら、だからと言って「誤解される怖れのある言葉」は、すべて自粛する(自粛せよ)という「言葉狩り」は間違いであり、それはそれで、「触らぬ神に祟りなし」という、臆病で無責任な思考停止でしかない。
なぜなら、言葉というのは、もともと完全なコミュニケーションの道具などではなく、いつでも「誤解」の怖れは付きまとうものなのだから、誤解をゼロにすることなど、原理的に不可能なものだからである。
だから、必要とあらば、誤解を怖れずに、その「リスクを伴う言葉」を使う勇気も必要なのだ。
その言葉でしか、自分の気持ちを伝えられないというのであれば、その言葉を使うべきなのである。
そして、それで誤解されたのなら、それは誤解であると説明すれば良いし、説明しなければならない。
そうした丁寧な意味のすり合わせこそが、健全なコミュニケーションというものなのである。
したがって、ここで漱石の言う『北海道の土人』とは、私がしばしば使う「田舎者」という言葉と同じものを意味している。
現実に「地方に住んでいる人」のことではなく「知的に視野の狭い人」のことを指して批判する言葉なのだ。
言い換えれば『北海道の土人』という言葉の字面だけを見て「差別だ!」などと、何も考えずに(脊髄反射的な)言う人は、まさに漱石の言うところの、
『胸中に一点の思想なくただ文字のみを弄する輩』
つまり、中身のない馬鹿野郎だということになるのである。
(02)
『伏して願はくは(雑談にあらず)御前少しく手習をやめて余暇を以て読書に力を費し給へよ。御前は病人也。病人に責むるに病人の好まぬことを以てするは苛酷のやうなりといへども手習をして生きてみても別段馨しきことはなし。knowledgeを得て死ぬ方がましならずや。塵の世にはかなき命ながらへて今日と過ぎ昨日と暮すも人世にhappiness あるがため也。されど十倍のhappinessをすてて十分の一の happinessを貪りそれにて事足り給ふと思ひ給ふや。しかしこのIdeaを得るより手習するが面白しと個意遊ばさばそれまでなり。一言の御答もなし。ただ一片の赤心を吐露して歳暮年始の礼に代る事しかり。穴賢。
御前この書を読み冷笑しながら「馬鹿な奴だ」といはんかね。とかく個前のcoldnessには恐入りやす。』
(P19〜20、前同)

漱石が、敬愛する正岡子規に当てた助言であり、忠言である。
要は、たとえ病人であったとしても、趣味に淫して現実逃避するのではなく、少しでもこの世のことを知ろうとしなければならない。その方が価値のある生き方だと、おおよそそのようなことを言っている。
漱石は、子規に見られた、世間を突き放したような態度を是認せず、人間や社会に、もっと熱情(関心)を持てと言いたかったのであろう。
(03)
『ああ正岡君、生をればこそ根もなき毀誉に心を労し、無実の褒貶に気を揉んで鼠糞梁上より落つるも目を消す、と禅坊に笑はれるではござらぬか。御文様の文句ではなけれどニッ(※ ふたつ)の眼永く閉ぢ、一つの息永く絶ゆるときは君臣もなく父子もなく、道徳も権利も義務もやかましい者は滅茶々々にて真の空々真の寂々に相成べく、それを楽しみにながらへをり候。棺を蓋へば万事休す。わが白骨の鍬の先に引きかかる時分には誰か夏目漱石の生時を知らんや。穴麗。』
(P24、1890年・正岡子規宛)
生きているからこそ、あれこれに腹も立つけれど、死んでしまえば、だれも私のことなんか気にもしないのだから、気楽にやれば良いようなものだが、まあ、生きていてはそうもいかないのだ、くらいの意味であろう。
漱石は、自分の倫理観を相対化しながらも、だからといって、何もかも無意味だ、とはなれない自分を肯定していたのだ。
(04)
『一は(※ 一方は)堪忍(※ 我慢)を大事となし一は任意直情(※ やりたい放題)を潔しとせるなり。堪忍の方が気節(※ 意気と節操。気骨)あらば任意の方気節なきなり。但し両方共に気節ありといふや職を高官に奉じて座睡禁ぜず(※ いいご身分での知的怠惰であることを否定できない)。これ耄碌なり、気節にあらず。格闘を挑まれて敢てせずこれを酒に誘つて逃る、これ卑法なり。(昔しの武士道より見れば)気節にあらず。故に仮令ひ(※ 仮に)気節をして片言隻行の間にあらはるるものとするも編中(※ 子規が漱石に送ってくれた書の中)の事悉く気節的の件りのみとはいひ難からんと存候。君もし以上の論議に不同意ならば再び方針を転じて総概的に気節の何物たるを説明致さんと存候。』
(P34、1891年・正岡子規宛)
要は「どっちもあり的な、君の気骨論には不同意だ。それが間違いだと言うのなら、きちんと反論して説明してほしい」ということである。
(05)
『小生元来大兄を以てわが朋友中一見識を有し自己の定見に由つて人生の航路に舵をとる
ものと信じをり候。その信じきりたる友がかかる小供だましの小冊子を以て気節の手本にせよとてわざわざ恵投せられたるはつやつやその意を得ず(※ 納得できない)。小生不肖といへどもまた人生について一個の定見なきにあらず。この年頃日頃詩を誦し書を読むも読むに従ひ誦するに従ってこの定見の自然と発達して長大になるがためのみ。徒らに彫琢の末技に施して一字一句の是非を論ずるは愉快なきにあらず(※ 愉快ではないということもない)。然れども遂に小生が心を満足せしむるに足らざるなり。されど小生とて我が見識こそ絶大なれ最高なれといふにあらず。もしわが主義の卑野ならんか、大兄の高説を拝聴してその愚を癒するも可なり。前賢の遺書に出てこれを啓発するも可なり。何を苦んでこの蕞爾(※ 小さい・つまらない)たる一俗冊を用いん。君この書を読んで自ら思へらく、日本男子の区域外に放逐せられて饕餮(※ 中国古代の神話の怪物)飽くなきの蛮夷とするに至らざるを喜ぶなりと。然れども君の目して蛮夷となすもの饕餮飽くなきの輩となすもの、実に余に誨ゆるに人生の大思想を以てせり。僕をしてもし一点の節操あらしめばその節操の一半は鴃舌(※ 意味の通じない野蛮人の言葉)の書中より脱化し来つて余が脳中にあり。この脳中にあるの秤量を以てこの書の貫目をはかるにその軽き事秋毫の如し。君何を以てこの書を余に推挙するや。余殆んど君の余を愚弄するを怪しむなり。君の手翰(※ 手紙)を通観するに字義共に真面目にして通例滑稽的の文字にあらず。かつ結末に(僕がこれを贈るの微意を察せよ)とあり、小子翻読再三に及んでなほその微意の在る所を知るに苦しむ。不敏の罪逃るるに由なきは是非なし。但し小子は賢愚無差別、高下平等の主義を奉持するものにあらず。己より賢なるものを賢とし己より高きものを高しとするにおいては敢て人に遜らずといへども、この編中の人、われより賢なる人われより高き人われの取て以て崇拝せんと欲するもの果して幾人かある。由しやこれありとするも君の余に勧めんと欲するものは抽象的の気節にして実体的の片言隻行にあらず。余も三尺の童子にあらさればこの片言隻行を誦して気節ここにありと歎賞する能はず。故に聊か疑を書して机下に呈す。』
(P36〜37、前同)
「君が私をおちょくっているのではないというのはわかっているが、こんな本に、学べるものがあるとは到底おもえないので、こうして大真面目に問うているのだから、その意のあるところ汲んでもらいたい」ということだ。
つまり、漱石は、いくら親しい人や尊敬する人からのものであろうと、納得できないものは納得できないから、納得可能なものなら納得させてくれと、そう言っているのである。
ここまで言う面倒くさい人というのは、私は、私自身以外には思いつかない。
(06)
『士人の子弟にても御鬚の塵を払ひおべつか専一にて世に時めく者幾千万なるを知らず(※ 士族の子弟でも、ゴマスリばかり成り上がっているやつが幾千万いるかわからない)。
また気節(※ 気骨)の点に至つても商工の子無下に意気地なしと思ひ給ふべからず。身分々々に応じて相応の意地はあるものなり。但し無学なる工商に望むに絶大の見識を以てするは赤子をして郵便配達夫たらしめんとするが如し。いはずとも分り切た話しなり。これに反して士人の子といへどもあながち気節ある人多しとはいふべからず。方今紳士ともいはるる輩青萍とも浮草とも評すべき行為あるもの枚挙すべからず。その身元を尋ねたらば大方は士族なるべし。とにかく気節の有無などは教育次第にて工商の子なりとて相応の教育を為し一個の見識を養生せしめば敢て士家の子弟に劣らんとも覚えず。』
(P38、前同)
正岡子規には「さすが士族の子は違う」という思想があったようだ。
漱石はそれに迎合することなく反論を加えている。
(07)
『先にいふ処のものは単に壮言大語僕を驚かせしなれば僕向後決して君を信ずまじ。また冗談ならば真面目の手紙の返事にかかる冗談は廢してもらはんと存ず。また先年の主義を変じ今日の主義となしたりといはばそれでよし。人間の主義終始変化する事なければ発達するの期なし。変じたるは賀すべし。しかし変じ方の悪きは驚かざるを得ず。高より下に上り大人より小児に成長したるやうな心地するなり。僕決して君を誹謗するにあらず。ただ君が善悪の標準を以て僕が言の善か悪かを量れ。
実は黙々貰ひ放しにしておかん(※ 黙って放置しておこう)と存じたれど、かくては朋友切磋の道にあらず、君が真面目に出掛たものを冷眼に看過しては済まぬ事と再考の上好んで忌諱に触る。狂妄多罪。』
(P40〜41、1891年・正岡子規宛)
このように、「正論」をそのまんま貫いてしまうところが、若き漱石の天才であり、『坊つちゃん』に描かれた坊っちゃんそのものの、一本気であり「無鉄砲」ぶりでなのである。
(08)
『換言すれば文学三昧にて消光したきなり。月々五、六十の収入あれば今にも東京へ帰りて勝手な風流を出る覚悟なれど、遊んでをつて金が懐中に舞ひ込むといふ訳にもゆかねば衣食だけは少々堪忍辛防して何かの種を探し(但し教師を除く)、その余暇を以て自由な書を読み自由な事を言ひ自由な事を書かん事を希望致候。然るに小生は不具の人間なれば行政官事務官などは到底してくれる人もなく、あつても二、三月で愛想を尽かすにきまつてをれば大抵な口では間に合はず。』
(P58、1897年・正岡子規宛)
イギリスへの官費留学中の手紙である。
「そこそこの収入があれば、すぐさま東京に帰って好き勝手するのだが、金がないからそうもいかない。自分は、好きな本が読めて好きなことを書けるのなら贅沢を言うつもりはない。だがまあ、自分は変わり者だから役所勤めは無理に決まってるしなあ」というほどの意味である。
その点、私は役所を40年勤め上げて、今は漱石の憧れた「好きな本を読んで、好きなことを書く」だけの毎日である。
これは私が、けっこう常識人なればこそ叶ったことだと、漱石に自慢できるのではないだろうか。
「そのぶん小物なんだ」とは言われるだろうが…。
(09)
『倫さん(※ 漱石の友人大塚保治の妻、大塚楠緒子のことと考えられる)の日記も筆(※ 漱石の娘)の日記も面白かつたからひまがあつたらまた御つかはし可被成候(※ こちらイギリスへ送って下さい)。倫さんは近頃大改良大奮発のよし至極結構に存候。家の中に出入りしてヘーヘーピョコピョコしてゐる者などを相手にしてみてはいけない。それから古人の書を読むとむやみに古人の言行が真似たくなる。自分で小説的な人間になつてしまふ。若い内はこんな弊がよくあるからよく考へて表面上の役者的人物にならないやうにしなければいけない。良質は深蔵あるなきが如しと言ふからむやみに人を凌いだり出過ぎたりしてはいけない。学問は智識を増すだけの道具ではない。性を矯めて真の大丈夫になるのが大主眼である。真の大丈夫とは自分の事はかり考へないで人のため世のために働くといふ大な志のある人をいふ。しかし志ばかりあつても何が人のためになるか日本の現在ではどんな事が急務かそれぞれ熟考して深思せねば容易にわからない。これが智識の必要なる点である。大丈夫の人格を備くてまた智識より得たる大活眼を有する底の男にならなければ人に向って威張れない。よくよく細心に今からその方向へ進行あらん事を希望します。』
(P104、1902年・妻 夏目鏡子宛)
小説家や学者、あるいは人間一般の心得であろう。
目先のことにとらわれることなく、真に大切なことを見定めて励むべし、といったところか。
大塚楠緒子は、小説家・歌人。
(10)
『手紙を頂戴ありがたく拝見しました。その後君は大分勉強の由結構です。何もする事がないとか外に面白い事がないと勉強するものだから、学者になるには君のような境界(※ 境涯)が一番よいと思う。交際が多かったり女に惚れられたりして大学者になったものはない。』
(P124、1905年・中川芳太郎宛)
私が大学者になれなかったのは、これが理由だろう。やりたいことが多すぎ、気が多すぎて、専門家には到底なれない。
(11)
『 あれだけ長く僕の事をかいており、またあれだけ僕の事をほめているが少しも御世辞らしい所がない。昔の文章家のようにウソらしい文句がない。誇張も何もない。どうしても真摯な感じとしか受取れん。これが僕の三重吉君に尤も深く謝する所である。
あの手紙は僕がこの手紙と同じくなぐりがきにかき放したものであるらしいが頗る達筆で写生的でウソがなくて文学的である。三重古も文章をかいて文章会へでも出席したら面白いと思う。』
(P129、1905年・中川芳太郎宛)
無名の若者だった鈴木三重吉の、その素直な人間性に対する、漱石の愛情がよく伝わる文章だ。
こういう人なればこそ、お世辞には極めて敏感であり、それを激しく嫌ったのである。
(12)
『 小生は人より物しりなりといはるる事を好まず学者なりといはるるを好まず。これらは
皆中らざる(※ あたっていない)事に候へばただ赤面致すのみに候。しかし著述はよかれあしかれ著述に相違無之、このはきとしたる書物についての批評は善悪ともに悦こんで甘受する覚悟に御座候。就中公平にして眼識ある人の賞賛は満腔の感謝を以て拝受致候。既に確然たる一冊の書物ありての上の事、これに対する批評は空漠たる賛辞や虚名とは異なるものとの自信有之候故に御座候。
小生は漠然として学者なり篤学なりなどいはるるを欲せざると同時に、拙稿たりとも世に公に投げ出したるものについての褒辞は大にありがたくアクセプトする(※ 受け入れる)主義に候。しかもそのありがた味は博士に推挙されたり勲章を貰つたりするよりも遥かに優るありがた味に候。』
(P133〜134、1905年・内田魯庵宛)
平たく言えば「自分は、世間並みのお世辞や肩書きなんていらないが、あなたのような目もあれば正直でもある人の批判なら喜んで受けるし、ましてや褒めてもらえたのならこんなに嬉しいことはない」と、そういうことである。
私も、漱石にこう言われるような人間になりたい。
(13)
『『野菊の墓』の評をかいて下さる由、定めし本人から(即ち牛乳屋の主人(※ であった伊藤左千夫))はよろこぶだろう。どうかかいてやって下さい。左千夫なんて聞いた事もない人だから誰も相手にしてはくれん。切角出色の文字でも誰も相手にせんでは甚だ気の毒である。君が評をしてやれば僕も何だか愉快な気がする。しかも君の評は十中八、九まで僕と同様であると思うからなおさら愉快である。しかしわるいと感じた所は遠慮なくいうてやって下さい。本人の参考になります。
牛乳屋が気に入ったというのは見上げたものです。牛乳屋の主人の方が大学の講師よりも気韻があると思う。顔も願る雅な顔ですよ。』
(P142、1906年・森田草平宛)
鈴木三重吉の場合と同様で、無名の人が適切に評価されることを、我がことのように喜ぶ漱石の優しさ。
いささか判官贔屓の気はあるとしても、これは滅多にない、人としての美質であろう。
(14)
『 僕もそれだから大に聡明な人になりたい。学問読書がしたい。従ってどうか大学をやめたいとばかり思っています。先達晩翠が年始状をよこしてまだ教授にならんかというから人間も教授や博士を名誉と思うようでは駄目だね。『失楽園』の訳者土井晩翠ともあるべきものがそんな事を真面目にいうのはよくない。漱石は乞食になっても漱石だ‥‥‥」というような事をかいてやりました。あとでなるほど小供らしい気焔だと気がついた。
君が人の作を読む態度は甚だよろしいと思う。それでなければクリチシズム(※ 批評)は出来ない。ただ人の長所を傷けないだけの公平眼は是非とも御互に養成しなければならん。僕は人の作に対してただ面白く読みたい。よんでやりたいという気が先へ起る。しかし読んでしまってこれは敬服したというようなものはあまり少ない。』
(P143、1906年・前同)
まったく同感。私の書くものは批判が多いが、何も貶そうと思って読んでいるわけではない。ただ、読めば期待外れが多いだけなのだ。
もちろん、私が批判している「武蔵大学の教授」である北村紗衣の場合のように、「どうせダメだろう」と思いながらも、必要があって読む本もある。だがそれだって、良ければ良いと書くのだが、期待したものでさえ滅多に満足できないのに、期待していなかったのに、意外にも良かったなんてことは、余計にないのが当然だろう。
残念ながら、やっぱり駄作だから、駄作だと書かざるを得ないだけなのだ。
(15)
『 (※ 島崎藤村の)『破戒』読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也。『金色夜叉』の如きは二、三十年の後は忘れられて然るべきものなり。『破戒』は然らず。僕多く小説を読まず。しかし明治の代に小説らしき小説が出たとすれば『破戒』ならんと思ふ。君四月の『芸苑』において大に藤村先生を(※ 世に)紹介すべし。』
(P158、1906年・森田草平宛)
児童文学者の鈴木三重吉、伊藤左千夫の『野菊の墓』、島崎藤村の『破戒』とくれば、漱石が「作者の誠実な心情の表れた作品を好む」というのがよくわかる。
(16)
『鈴木三重吉君
先日来卒業論文を漸く読み了った。中川のが一番えらい。あの人は勉強すると今に大学の教師として僕などよりも遥かに適任者になる。しかも生意気な所がもない。まことにゆかしい人である。ただ気が弱いのが弱点である。』
(P159〜160、1906年・鈴木三重吉宛)
これは「中川」の話に言寄せての、鈴木三重吉への励ましであろう。「君も中川同様にゆかしい、性情の美しい男だが、気の弱いところが弱点だ」というような。
漱石は「闘う人」であり「善人が負けて良いわけがない」と思う情の人だから、ただ善人であるだけではなく、強くなれと言いたかったのであろう。
「中川」は、中川芳太郎のことと思われる。
(17)
『 君は九月上京の事と思う。神経衰弱は全快の事なるべく結構に候。しかし現下の如き愚なる間違ったる世の中には正しき人でありさえすれば必ず神経衰弱になる事と存候。これから人に逢う度に君は神経衰弱かときいて然りと答えたら普通の徳義心ある人間と定める事に致そうと思っている。
今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か、さらずば二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候。
もし死ぬならば神経衰弱で死んだら名誉だろうと思う。時があったら神経衰弱論を草して天下の犬どもに犬である事を自覚させてやりたいと思う。』
(P160、1906年・鈴木三重吉宛)
これも、神経衰弱(※ うつ)気味の鈴木三重吉に対する励ましの手紙だ。
私の場合は、神経衰弱とは真逆なので『二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉』ということになってしまう。
たしかに、よく腹を立てはすれども、けっこう満足している部分もあるから、反論はできない。
(18)
『 小生は何をしても自分は自分流にするのが自分に対する義務であり、かつ天と親とに対する義務だと思います。天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きておれれという意味より外に解釈しようがない。コンナ人間以上にも以下にもどうする事も出来ないのを強いてどうかしようと思うのは当然天の責任を自分が脊負って苦労するようなものだと思います。この論法からいうと親と喧嘩をしても充分自己の義務を尽しておるのであります。天に背いても自分の義務を尽しておるのであります。いわんや隣り近所や東京市民や、日本人民や乃至世界全体の人の意思に背いても自分には立派に義理が立つ訳であります。これではちと気焔が高過ぎましたね。少々ひまになったから余計な事を書きます。
昔はコンナ事を考えた時期があります。正しい人が汚名をきて罪に処せられるほど悲惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になって見たい。世界総体を相手にしてハリツケにでもなってハリツケの上から下を見てこの馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい。尤も僕は臆病だから、本当のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいいなら進んで願いたい。』
(P162〜163、1906年・高浜虚子宛)
まったく同感で、じつのところ私も似たようなことを考えたことがある。
最近、この部分を何かのレビューに引用したが、どのレビューだったか、すでに失念。
(19)
『 学校を卒業して一日のうちに世の中が恐ろしくなつたからこれからよほど注意を周密(※ 周到緻密)にする由結構に候。
しかし周密といふ意味に上等と下等あり。自己の智力にて出来得る限り考へ、自己の感情にて出来得る限り感じ、しかして相手と自己とに不都合の破綻なきやうにするを上等といひ、ただ人を見て泥棒の如く疑ひ何でもコソコンに先を制するやうな事を得意にする、
これを下等の周密といふ。
君の感じたるは如何なる方面においての意味なるやを知らず。もし前者ならば賢の方へ一歩進みたるなり。もし後者ならば悪の方へ一歩進みたるなり。世上幾多の才子は愚に近づきつつ自ら賢に進むと思へり。利害の関係なき三者(※ 第三者)より忌なくこれらの人を評して見よ。学校にあるうちの方が遥かに上等にして卒業して世の中にある時の方がよほど下等なり。しかも自らは頗るワイズになつた(※ 賢くなった)と考ふる人多し。これほどいやな現象なし。』
(P164、1906年・中川芳太郎宛)
これも、その資質を高く評価するがゆえに「下らない俗物になんかなるなよ。その気質のままで強くなれ」という励ましであろう。
要は、昔はあんなに謙虚そうだったのに「いつのまにか、先生気取りで偉そうになりやがって」というそんな人物が少なくない、ということだろう。
漱石に、先生先生と擦り寄ってきた者の中にも、当然そうした人物が少なくなくて、失望させられることも、ままあったのであろう。
(20)
『功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後誰かこの一事を以て君が煩とする者ぞ。君もし大業をなさばこの一事かえって君がために一光彩を反照し来らん。ただ眼前に汲々たるが故に進む能わず。かくの如きは博士にならざるを苦にし、教授にならざるを苦にすると一般なり(※ 同様のことだ)。百年の後百の博士は土と化し千の教授も泥と変ずべし。余はわが文を以て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは彼らを眼中に置かねばなり。彼らを眼中に置けばもっと慎んで評判をよくする事を工夫すべし。余はその位な事がわからぬ愚人にあらず。ただ一年二年もしくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭わざるなり。如何となれば余は尤も光輝ある未来を想像しつつあればなり。彼らを眼中に置くほどの小心者にはあらざるなり。彼らに余が本体を示すほどの愚物にはあらざるなり。彼らが正体を見あらわし得るほどな浅薄なものにあらざる也。余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の仰を求む。天下の仰を求めず。後世の崇拝を期す。この希望あるとき余は始めて余の偉大なるを感ず。君も余と同じ人なり。君の偉大なるを切実に感じ得るとき這般の因果は紅炉上の雪と消え去るべし。勉梅々々。』
(P171〜172、1906年・森田草平宛)
「目先の栄達に捉われて、つまらない奴に気を遣い、言うべきことも言えないような人間は、生前はそれなりに栄達しても、すぐに忘れ去られる小物にしかならない。
我々は、もっと欲を持って高いところを目指そうではないか」
と、大要そのような叱咤である。
(21)
『 京へは参り候。京の人形所望なれば御見やげに買つて参るべく候。どんなのが京人形やら実は知らぬにて候。京都には狩野(※ 狩野亨吉)といふ友人有之候。あれは学長なれども学長や教授や博士などよりも種類の違ふたエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざわざ京へ参り候。一力は如何相成るやわかりかね候。大坂へも参りて新聞社の人々と近付になるつもりに候。昨夜はおそく相成、今日はひる寐をして暮し候。学校をやめたら気が楽になり候。春雨は心地よく。以上』
(P194、1907年・野上豊一郎宛)
『あれは学長なれども学長や教授や博士などよりも種類の違ふたエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざわざ京へ参り候。』なんて言ってもらえれば、それは漱石が言ったのでなくても、嬉しい言葉だ。
『学校をやめたら気が楽になり候。春雨は心地よく。』という言葉は、私も仕事を退いて、よく実感するところである。
でも、よく職場の夢を見ることはあって、それは嫌だ。
(22)
『(※ 私=漱石が)君の事を心配したからというて感涙などを出すべからず。僕はむやみに感涙などを流すものを嫌う。感涙などを云々するは新聞屋が〇〇の徳をし奉る時に用いるべき言語なり。』
(P197、1907年・野間真綱宛)
すぐに「感動した」「泣きました」とか言う人は、マスコミの実なき決まり文句である「感動作」という評言を鵜呑みにした阿呆である。
○○とは「天皇」か?
(23)
『 僕が洋行して帰ったらみんなが博士になれ博士になれといった。新聞屋(※ 朝日新聞の社員)になってからそんな馬鹿をいうものがなくなって近来晴々した。世の中の奴は常識のない奴ばかり揃っている。そうして人をつらまへて(※ 学位や名誉称号を断るなんて)奇人だの変人だの常識がないのと申す。御難の至である。ちと手前ども(※ テメエら)の事を考えたらよかろうと思うがね。あんな御目出度奴は夏の蛍同様尻が光ってすぐ死ぬばかりだ。そうして分りもしないのに『虞美人草』の批評なんかしやがる。『虞美人草』はそんな凡人のために書いてるんじゃない。博士以上の(※ 真に優れたる)人物即ちわが党の士のために書いているんだ。なあ君。そうじゃないか。』
(P198、1907年・小宮豊隆宛)
博士博士と「肩書き」ありがたがるような馬鹿のために、俺は小説を書いてるんじゃないし、あんな奴らに何がわかるものかと、そういう意味である。
件の北村紗衣は、自分の映画評が貶された時に、「私は貴方とは違って、著作が2冊もあるんだぞ」などと威張って見せていた。一一まさに、馬鹿丸出しである。

(24)
『 細民(※ 貧しい庶民)はナマ芋を薄く切って、それに敷割(※ 納豆?)などを食っている由。芋の薄切は猿と択ぶ所なし。残忍なる世の中なり。しかして彼らは朝から晩まで真面目に働いている。
岩崎の徒(※ 岩崎弥太郎ら財閥の金持ち)を見よ‼︎!
終日人の事業の妨害をして(否企てて)そうして三食に米を食っている奴らもある。漱石子の事業はこれらの敗徳漢を筆誅するにあり。
天候不良也。脳癲異状を呈してこの激語あり。蓊先生願くは加餐せよ。以上。』
(P200、1907年・中村蓊宛)
財閥の御曹司だから、いくら馬鹿な発言をしても、いつまでも「自民党の領袖」でいられる麻生太郎を、私が憎むのとまったく同じ調子だ。
(25)
『 文壇に立つものはあらゆる競争排擠に伴ふ堕落的行動に対して従容事を弁ぜざるべからず。もし清きを以て自らをり高きを以て自から処せんとせば一日も留まるべからず。
文壇の諸公皆賢なるにあらず。また正なるにあらず。しかして賢の如く正の如くに見せる術を日夜に講じつつあり。憤るべからず。社会が胡魔化される程度にあるがためなり。
傍観すべからず。社会は進む期なし。
今の文壇に立つものより生活難を引き去れ。彼らの十中七、八は喜んで文壇を引き上ぐべし。彼らは文壇に立ちながら苦悶しつつあり。
君もし以上の諸件を承知の上ならば筆を執るも可なり。ただ一時虚子(※ 高浜虚子)の依頼にて出来心よりするは人魂のふわつく姿なり。それにてもよし人魂を以て任ずるがいやならば始めからその覚悟をせざるべからず。
今の自然派(※ 自然主義文学派)とは自然の二字に意味なき団体なり。花袋・藤村・白鳥の作をありがたがる団体をいふに外ならず。しかして皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品をいへば大抵君より下等なり、理窟をいへば君よりも分らずや多し。生活をいへば君よりも甚しく困難なり。
さるが故に君の敢て為し能はざる所いひ能はざる所を為す。君これらの諸公を相手にして戦ふの勇気ありや。君をこの渦中に引き入るるに忍びざるが故にこの言あり。以上。』
(P207〜208、1908年・小宮豊隆宛)
漱石の文学観や人物評価が必ずしも正しいとは思わないが、しかし、文学者だと言っても、基本的には「ただの人」なのだから、いろいろ間違いもあれば、嫌らしいところもあっただろう。
私の場合は、日本のミステリ小説界で、これを経験したし、それが私を「笠井潔葬送派」にもしたのである。
ともあれ、「スタージョンの法則」からすれば、文学者の9割もクズなのだから、それに迎合し、ただ順応するようでは、間違いなく己がクズの証明にしかならない、ということである。
(26)
『 趣味は年に従つて変ず。永き年を通じて融通の利く趣味を有するものはその人の幸福に候。二十五の時は二十五の趣味、三十の時は三十の趣味だけならばあまりいき苦しく候。』
(P238、1911年・阿部次郎宛)
私の場合、若い頃から、あまり趣味や考えが変わらないように思う。
警察官をやっていた当時、私は若い頃から「生涯一巡査」でいくと公言して、先輩方から「悪いことは言わないから、ちょっと勉強して、ひとつくらい階級をあげておけ。そうでないと後悔することになるぞ」と言われ続け、もしかすると歳をとったらそうなるかもなと思いつつも、その時はその気がないから昇任試験の勉強を一切しなかった。
そして、結局は退職するまでそれで押し通したし、それで後悔することもなかった。
アニメ好きも読書の趣味も一生もので、十代の頃からまったく変化なし。
歳をとったら、草花を愛し自然を愛でるようになるとか、旅行を楽しめるようになるものかと思いきや、これもまったく変わらなかった。
こうしたことから、自分はある意味で、一生子供のままの発達障害なんじゃないかと思わないでもなかったが、それでなんの不都合もないのだから、これで良かったのだと思っている。
『永き年を通じて融通の利く趣味を有するものはその人の幸福に候。』
そんなわけで、私の趣味の変わらなさは、漱石をも羨ましがらせているとの自信がある。
(27)
『 拝啓。学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故、小生の希望通り取計いかねる旨の御返書を領し再応の御答を致します。
小生は学位(※ 文学博士号)授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと考えにならん事を希望致します。学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫も小生の(※ 学位はいらないという)意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ず(※ 辞退できない)と定められたる文部大臣に対し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲(※ ここ)に言明致します。
文部大臣が文部大臣の意見として小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆って、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。
最後に小生は目下我邦における学問文芸の両界に通ずる超勢に鑑みて、現今の博士制度功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。
右大臣に伝えを願います。学位記は再応御手元まで返付致します。敬具。』
(P244〜245、1911年・福原鐐二郎宛)
「前にハッキリと断っておいたのに、また、教授になれ、などと言ってくるとは、一体どういう了見だ。しかも、文部大臣が、断る権利など無いとか言ってるそうだが、ふざけるな。二度と、こんな舐めたことを言ってくるんじゃないぞ」という、怒り心頭に発した返書である。
『学問文芸の両界に通ずる超勢に鑑みて、現今の博士制度功少くして弊多き事』
という言葉は、北村紗衣なんかの存在が、そのわかりやすい証拠となるだろう。
(※ 上のブログ記事で北村紗衣は、自分の映画評を批判した須藤にわか氏に対して「私は専門の研究者だから」あなたとは違うと主張している、わかりやすい「肩書き」主義者だ)
実際のところ漱石の時代にも、北村紗衣みたいなのが大勢いたのだ。
まあ、「スタージョンの法則」によれば、「教授の9割もクズ」なのだから、それは当然のこと。
学位なんてものは、昔から、半分は「学内党派作り」などの道具だったのだから。クズが増えるのも当然だし、多くの人は「人を見る目がない」からこそ、人を「肩書き」でしか判断できないのである。
もちろん、1割の「クズではない教授」なら、恥ずかしいから威張ったりはしないのだが、恥知らずほど「肩書き」をひけらかして威張りたがるものなのである。
一一百年と言わず、十年と持たない目先の評判を信じて。
(2025年11月24日)
○ ○ ○
○ ○ ○
● ● ●
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
