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内田百閒 『漱石先生雑記帖』 : 言葉にされない師弟の絆

書評:内田百閒漱石先生雑記帖』(河出文庫)

内田百閒に興味を持ったのは、まず初期の幻想小説からである。本のタイトルで言えば『冥途』(1922年)とか『旅順入城式』(1934年)などに収められた、初期短編だ。

百閒の初期著作は、

『冥途󠄁』稲門堂書店、1922年2月
『百鬼園随筆』三笠書房、1933年10月
『旅順入城式』岩波書店、1934年2月
『續百鬼園随筆』三笠書房、1934年5月
『繪入りお伽噺・王様の背中』楽狼書院
『百鬼園俳句帖』三笠書房、1934年6月
『無絃琴』中央公論社、1934年10月

(Wikipedia「内田百閒」

というようなことになるから、『冥途』は第1著作、『旅順入城式』は第3著作となる。『冥途』だけが10年以上も飛び抜けて早い時期のものであり、実質的な文壇デビューは、1933年頃から見て良いだろう。だが、それ以降は「随筆」が中心となっていく。

なお、内田百閒の場合は、著書のタイトルも「随筆」となっているから、ここでは今風に「エッセイ」とは書かず、百閒のものについては「随筆」と記す。
無論、随筆とエッセイは、厳密に言えば少し違うのだろうが、ここでは、その不毛な定義論には立ち入らない。

さて、もともと私は、幻想ミステリの巨編『虚無への供物』の作者である中井英夫のファンで、中井の「とらんぷ譚」四部作(『幻想博物館』『悪夢の骨牌』『人外境通信』『真珠母の匣』)の方も大好きであった。
中井の作品の中でいちばん好きなのは『虚無への供物』なのだが、中井英夫の本質は、ミステリであるよりも、むしろ幻想文学の方であったと思う。

で、そうした関係から、私は「幻想文学」というジャンルに愛好し、今は亡き『幻想文学』誌を購読し、国書刊行会「日本幻想文学集成」全33巻)を買い揃えるなどもした。一一そしてそのあたりで、内田百閒の名を知ったのである。

内田百閒の著作を読んだのは、2004年の岩波文庫『冥途・旅順入城式』が最初である。これに、百閒のめぼしい幻想小説が収録されていたので、以降は百閒からしばし遠ざかることになる。当時の私は、エッセイ・随筆の類は読まなかったし、百閒の好きな「鉄道」にもまったく興味が無かったからだ。

しかし、特に、短編「冥途」は大好きな作品だったので、初版本コレクターでもあった私は、岩波文庫を読んで程なくであろうが、『冥途』の初版本を購入したりしている。それで、ある意味、満足してしまいもしたのであろう。

ところが、2014年に、版画家・金井田英津子が画本化した『冥途』を、たまたま目にして、すっかり金井田英津子のファンになってしまった。

(2002年初版の金井田英津子版『冥途』)
(2021年の同新装版)

もちろん百閒のファンではあったのだが、百閒のあの「夢」の雰囲気をこれほど見事に再現できる画家は他にいないとそう感心して、内田百閒ファンであることとはまた別に、金井田のファンにもなったのだ。
要は、この奇跡的なペアによる絵本版『冥途』によって、金井田英津子の他の本への興味はもちろん、内田百閒への興味も再燃したのである。

そして、こうしたことから、普通なら手に取らないはずの本として手に取ったのが、竹田昼の漫画『ヒャッケンマワリ』(2017年・楽園コミックス)であった。

本作は、「ストーリー漫画」ではなく、内田百閒という作家の世界を全体的に紹介した、「エッセイ漫画」とでも呼ぶべきものだ。
百閒が、どんな小説を書いた人であるかが紹介されるだけではなく、その随筆に書かれた、百閒の生活と人生、人間関係などを紹介されており、「内田百閒という人」の全体像を描いた好著である。

だが、私としてはやっぱり、内田百閒という人やその生活そのものにはあまり興味がなかったので、いちおう興味深くは読んだものの、たぶん「ふ〜ん、そういう人だったのか」で終わったようである。
まただからこそ、昨年、その特別に美しい装丁に惹かれ、既読本とも知らずにまた購入してしまい、再読することになったのである。
中身を確認できれば、さすがに気づいたはずだが、昨今の漫画本は、ビニールバックされていて中身を確認できなかったせいである。また、昔の私は、書店カバーを掛けて本を読んだため、カバーデザイン(装幀デザイン)を目にするのは、購入時だけだったというような事情もあったのかもしれない。

(カバーは、線の部分が銀メッキであり、実物はとても美しいが、写真には乗らない)

ただ、気づかずに再読して損をした、というわけではなかった。
前回読んだ時とは違い、昨年読んだ際には、私自身すでに退職して隠居生活に入っていたから、百閒を見る目も変わっていたのだ。
以前の私には、「読むのなら、歯応えのあるもの」という考えがあって、軽い印象のある「エッセイ・随筆」の類は読まなかったのだ。

だが近年では、そういうものを読んでもいいなと感じるようになっていたから、同じ本(『ヒャッケンマワリ』)を読んでも、今回は、とても面白く感じられたのであろう。

そんなわけで「そのうち、百閒のエッセイ集もいくらかは読もう」と思うようになったのだが、やはり、興味のない「鉄道もの」や「愛猫もの」は避けた上で、さてどれが面白そうかと考えると、それはやはり、私の大好きな作家、夏目漱石について書かれた本書『漱石先生雑記帖』が無難であろうということになった。
内田百閒は、漱石の弟子の一人だったのである。

 ○ ○ ○

『毎週木曜日、漱石の書斎に門下生が集う木曜会一一錚々たる学者文人が揃う中で最も若いメムバーとして漱石に愛された百閒は、生涯を通して師への敬愛を語り続けた。愛読者となった中学時代の挿話から、文通、初めての出会い、門下生としての交流、漱石の臨終まで、深い哀惜にユーモアをこめて綴られた漱石追憶の本書は、百閒の代表的エッセイであり、また人間漱石を浮彫りにする名著である。』

Amazonの本書紹介ページより)

上の紹介どおりの内容である。
ただし、本書は、あちこちの随筆集に収められた漱石関係の文章を寄せ集めて編んだものなので、いささか内容に重複が多い。
したがって、その点では、書き下ろし本のような重厚さや情報量は無いけれども、繰り返し語られる「思い出」が、百閒にとっていかに重要なものだったのかがわかって、興味深かった。
これが、内容に重複のない書き下ろしの本だったら、そこに語られたエピソードも、多くのエピソードの中から選ばれた、比較的「面白いもの」だったのだろうというような印象になっていたかも知れない。
だが、あちこちで繰り返し語られていたという事実によって、その「思い出」の、百閒にとっての重要さがよくわかったのである。

で、それがどんなものかというと、

(1)まだ弟子になる以前(文通時代)、漱石が岡山に講演に来るという情報を得て、関西在住の学生であった百閒は、友人とともに、途中の停車駅まで漱石を見に行ったのだが、結局は会えなかったという思い出。

(2)弟子になって、漱石を心から尊敬していたが、漱石の相撲観戦と謡い謡曲)の趣味だけは、どうにも好かなかったという思い出。

(3)ある時、漱石の書き潰し原稿の束を、勉強のためにもらい受けたのだが、その中の一枚に、抜いた鼻毛が1列に並べて植え付けられているものがあり、それを空襲で焼くまでは大切に所蔵していたという思い出。

(4)若くして、母親や弟妹を抱える家長となった百閒が、借金でどうしようもなくなった時に、漱石に借金を頼もうと考えて、その旅先まで出掛けて行った際の思い出。

(5)漱石が亡くなった日のことと、数日後の葬儀のこと。

この5つほどがメインである。

漱石は、若死にしているので、百閒が弟子でいられたのは10年にも満たない期間であった。
だが、それにしても敬愛する師についての思い出が、5つというのは少ないのではと、そう考える人もいるかもしれない。
もちろん、他にも思い出はあるのだが、しかし特に繰り返して語られるのがこの5つということであり、その意味で、この5つが、百閒にとっては、繰り返して想起される大切なものであったということであろう。

だいたい、ある人について思い出すエピソードというのは、そうあれこれ変わるものではなく、たいがいはあれとこれといったものであることの方が普通なのだから、それが5つもあれば、決して少ないとは言えないのである。

さて、そんな5つの思い出なのだが、(4)借金がらみの思い出と、(5)師の死去の思い出が印象深いというのは、ある意味では「当たり前」である。また、同様の意味で(1)の思い出も「若き日の記憶」として懐かしく思い出されるエピソードであろう。
一一ということはだ、百閒らしさが最もよく現れているのは、一見どうでも良いようにま見える、(2)(3)だということになろう。そして、この(2)と(3)に共通しているのは、百閒が師を「偉人として奉る」のではなく、「人間としての師を愛し、尊敬していた」という事実を伝えている点なのではないだろうか。

敬愛する師のことだからといっても「イヤなものはイヤ」だし「面白いものは面白い」。
そこには、世間の常識的な価値観に迎合するような感覚は皆無であり、ただただ、師への自身の正直な敬慕の情が大切なのだから、それをそのまま書くだけだといった、百閒の一徹な正直さが、そこからは感じられるのだ。

百閒の『冥途』が、漱石の『夢十夜』直系の優れた「夢文学」であるというのはよく言われることだが、しかし、漱石と百閒には、本質的な違いがあると思う。一一それは、漱石が「論理的」で「癇性(真面目で潔癖)」なのに対し、百閒の場合は「反論理的」で「野放図」だという点である。

しかし、百閒について少し補足しておくと、ここでいう「反論理的」というのは、思想的なものではない。ある信念があって「論理的」であることに積極的に反対しているのではなく、もとからその感性が「論理的な発想から自由だ」というほどの意味である。だからこその「野放図」であり、よく言えば、「自由」で、物にこだわらない性格だったということである。
言うなれば、漱石が「真面目一徹」だとすれば、百閒は「なんだか適当」だということになるのだ。

で、なぜこんなことを書いたかというと、これは二人の作風の違いにもよく現れている、と思うからだ。
例えば、漱石の『夢十夜』所収の諸作には「計算され尽くした完成度の高さ」があるのに対して、百閒の『冥途』所収の作品は「計算されておらず、本能的に書かれたもの」とでも呼ぶべきものなのではないだろうか。

そして、これだと百閒の方が凄そうに聞こえるけれども、そういう話ではない。

漱石の場合は、優れた知性と才能と努力を注ぎ込んだ完成度の高い作品を書いたのだけれど、百閒の場合は、本能的に優れたものを書くので、それでうまくいけば凄い作品になるけれど、そういう作品は、滅多に書けない、ということなのだ。
だからまた、漱石は「長編」指向となって、人生というものを深く突き詰めて行ったけれど、百閒は短い随筆で、しかも呑気な調子のものを多くものするようになって行ったと、おおよそそういうことなのではないだろうか。

(金井田英津子版の新版・夏目漱石『夢十夜』)

で、たぶん百閒は、自分には無いものを漱石に見て、尊敬したのではないかと、私は思うのだ。
例えば、漱石から受けた影響として、百閒は次のようなことを書いている。

『 トルストイは自分が天才であると云ふ事を自分で承知してあるが、ドストイエフスキーはそんな考は少しもなく、ただ自分の生活の為にあれだけの仕事をした。ゲーテは自分の名が後世に傳はる事を生きてゐる内から知つてゐたに違ひないが、シエクスピヤは今日まで自分の作品が読まれようなどとは夢にも思はなかつたであらうと云ふ様な事を漱石先生が話されるのを聞いた事がある。ゲーテに就いては青木昌吉先生から学校で教はつたか、或は後になつてその御著書で読んだのかはつきりしないけれど、ゲーテは自分から人にやつた手紙が後世に遺る事を知つてゐて、手紙を出した後からその相手に自分の手紙を整頓しておく事を頼んだとか、秘書を廻らして整理させたとか云ふ話があつたのを覚えてゐる。私などが考へても、ゲーテはいやな男だと云ふ風に思はれるが、或はさう云ふ考へ方もいつの間にか、漱石先生から教はつたのであるかも知れないが、漱石先生が右の話でドストイエフスキーやシエクスピヤの方を買って居られた事は云ふ迄もない。何事によらず自分と云ふものにこだはる事をきらはれた様で、晩年の先生の則天去私もさう云ふ気持に通じてゐると思はれる。だから先生の紙屑(※ 書き潰し原稿)を私共が大事さうに貰つて来ると云ふ事は、先生はにがい顔をしさうな事であったが、その時は不思議に何も云はれなかった。』

(P73〜74・「漱石先生の書き潰し原稿」)

ここに引用した随筆のタイトルは「漱石先生の書き潰し原稿」で、要は、例の「鼻毛原稿用紙」の思い出の中で、このようなことが語られているのである。

つまり、漱石と同様、百閒も、ゲーテみたいなやつは嫌いで、ドストエフスキーシェイクスピアみたいは欲心のない天然が好きなのだ。
まただからこそ、自分に関わるものとして「阿呆の鳥飼」だの「阿房列車」だのと好んで自らを評したのだろうし、尊敬する師である漱石についても、わざわざ「鼻毛原稿」のことを書き残したのであろう。

だが、漱石と百閒の違いは、漱石の場合は「なぜそれがイヤなのか」ということを「論理的に突き詰めて、明晰に表現しようとした」のに対し、百閒は「イヤなものはイヤ」であり、それを突き詰めて考えるような性格ではなかった、という点であろう。
だから百閒は、漱石からこうした話を聞かされ、そこに自分にはない「徹底性」を見て、「先生は偉い。自分では、真似をしたくてもしようがない」と、そう素直に感心したのではなかろうか。

そんなわけで、漱石の幻想短編が「完璧」なのに対して、百閒の幻想短編はアタリかハズレかという感じになりもするのであろうし、百閒の幻想短編の長所であるその「夢」性とは、その「脈略とオチの無さ」に起因するものなのではないだろうか。
「こうだから、こうなって、なるほどここへ落ちる」といったものではなく、まさに夢のように「よくわからない脈略の中で物語が次々と成り行き、突然途切れておしまい」というような「夢的な構造」である。

実際、百閒の随筆も、そうした構造のもので、そうなった「原因(理由)」が探求されることもなければ、「結果」まで説明することもなく、適当なところで突然に終わるようなものが多いようだ。

例えば、漱石の葬儀の席では不思議に涙が出なかったのに、席を外して外へ出て、立木かなんぞに手をかけた途端に、自分でもよくわからないまま、突然に滂沱の涙が溢れて、声を上げて泣いてしまったという。
決して、なぜ「その時」だったのだ、「どういう感情から」泣いたのかということは追及されず、ただそのままに「なぜか」泣いてしまったという事実が書かれ、そしてたぶん、それが百閒にとっては大切なことだったのである。

こんなことも書いている。

『 私はなぜかう過去を顧るのだらう。今夜は前にひろげて読んである「消えぬ過去」から頻りに目を離して、昔に書いた文章のこと許り考へふけった。しまひにはその本を読んでゐても些とも面白くなくなつて来て、たうとう本を伏せて、其考へに溺れてさつき迄考へつづけた。今はもう十一時である。先生は過去を顧なかつた。其暇に新らしい仕事をするといふ言葉を先生の口から聞いたのを覚えてゐる。私は過去に溺れる度に先生を思ひ出す。』

(P108・「「百鬼園日記帖」より」)

漱石は「前向き」に走り続けた人であり、百閒は「過去」を思いながら今を生きた人である。

一一で、その作品としての優劣は別にして、漱石の「夢文学」よりも百閒の「夢文学」の方が「夢」らしく感じられるのは、この「過去指向」であり「先を考えない」性格に由来するものなのではないだろうか。
前述のとおり、「夢」というのは、「記憶」を素材としつつ「今この瞬間」の連想的な継起の中で生み出されてゆき、突然途切れるものであって、「落ち」などという気の利いたものなど存在し得ない性質のものだからである。

だから百閒は、漱石の「謡ひ」趣味に反発を覚えつつも、こんなふうに書いている。

『 謡ひのどこがどうして、うたってはいけないと云ふのか、そんな理窟はないので、要するに筋道の立たない反感である。又反感に筋道なぞいらないかも知れない。』

(P157「心耳を洗う」)

このあたりが、後年、日本芸術院会員に推挙された際、それを断るのに「イヤだからイヤだ」と言ったところにもつながっていくのだ(※ 詳細は『ヒャッケンマワリ』のレビュー参照)。

つまり、笠井潔ではないが「理屈など何とでもつけられる」のだが、その理屈のもとになるのは「イヤだ」という感情(直観)なのだから、わざわざ、説明のための理屈など必要ない。まるで言い訳のためのように捏造される「それらしい理屈」などつけなくてもいいし、つけたくもないと、そういうことだったのではないだろうか。

だが、百閒の場合は、小説に限らず随筆であっても、「結論」もなければ「論理(ロジック)」も無いものだから、そうしたものを期待した読者には、まるで未完成なもののように感じられるであろう。

『「榮さん(※ 百閒の本名)の書いた本は読めるけど、いくら読んでも実益がない」』

(P156・「実益がない」)

こう言われてしまったりもするのである。

実際、百閒の行動は、いささか無計画に非論理的であり、わかるようなわからないようなものである。少なくとも、まったく合理的ではない。

『(※ 金に窮して、初めて漱石に借金を頼みに行き)五円と云ふお金を(※ 返さなくていいからと与えられて)戴き、困つてゐる所を助かつて本当に難有かつたが、しかしさう云ふ実際上の意味よりも、もつともつとそのお金を難有く思つた。折角貰つたけれど使ふのが勿体ない気がする。
 困つてゐる手許の用(※ 借金の返済)に充てる前に、先づ外の事から使ひ始めようと思ひ立ち、神田駿河臺の文房堂へ行つて原稿用紙を買った。どこにも寄稿する宛てがあつたわけではないけれど、その内に役に立つ事もあらうと考へて、枚数の記憶はあまり確かではないが、確か千枚、少し持ち重りのする程買つて来た。普通の二十字二十行の罫であったが、紙の判が半紙判より少し小さく、四ツ折、八ツ折などの型に当て嵌まらない大きさで、それが新鮮な感じがした。持ち重りがしたのは枚数が多いからであつたが、また大変上質な紙だったからでもある。』

(P162・「質屋の暖簾」)

生活費にまで窮し、切羽詰まって先生のところへ借金に行き、思いもかけず大金をもらったからといって『困つてゐる手許の用に充てる前に、先づ外の事から使ひ始めようと思ひ立』つとは、どういう了見なのか?

まあ、なんとなく「気持ち」としてはわからないでもないが、当たり前の人間であれば、決してそのような「無駄遣い」はしないだろう。
だが、百閒にとっては「先のことへの配慮」よりも「今の気持ち(感謝)」が重要だったということなのであろう。
たしかに百閒は、「当たり前」の人ではないし、世渡り的には最低の人だったのである。

また、こんなことも書いている。
百閒が教師をやっていた際、高く設えられた教壇に上がろうと踏み台に足をかけたところ、それがズレて、百閒は派手にひっくり返ってしまった。

これが漱石の『坊っちゃん』であれば、悪童たちが皆してそれを囃して笑うところなのだが、百閒の時はそうではなかった。
生徒たちは、教室に教師を迎えて直立不動のまま、表情も変えずに百閒が教壇に上がるのをじっと待っていたので、百閒としては、かえって気まずく感じたというのである。

『 その生徒(※ のうちの一人)に(※ あとで)教壇へ上がりそこねて顚倒した時の話をして、よくあんなに知らぬ顔がしてゐられるものだ。お蔭でこちらはきまりの悪さを取り繕ふ事も出来ない。何とかその場の挨拶ぐらゐしたら(※ ツッコミぐらい入れたら)どうだ。君等は一体ああ云ふところを目の前に見て、可笑しくもないのかね、と云ふと、「人の失策を見て笑ってはならぬと教はって居ります」と答へた。笑ってはならぬと云はれたら、をかしくもなくなるのだらう。さう云ふ連中の前で引つ繰り返るめぐり合はせになったのが、こちらの不運と諦める。』

(P183・「くりくり坊主」)

百閒は、こういう「右を向いていろと言われたら、ずーっと右を向いているような優等生」が嫌いなのだ。
なぜ「嫌い」なのかと言えば、たぶん「不自然」であり「非人間的」だと感じられたからであろう。

百閒自身は、そのように感じた理由など説明しないが、たぶん百閒からすれば「面白いことことに出くわして笑わない」というのは「可哀想な人に出くわして同情しない」のと同様に、「非人間的」な公式主義のように感じられたのではないだろうか。
まさに今の世の中は、それが極まってしまったのだが…。

しかし、ならば生徒たちは、一体どうすれば良かったのか?
これは私の考えだが、笑ってから「笑ってしまい、相済まなかった」と謝罪すれば良かったのである。

言い換えれば、謝罪しなければならないような失策をおかしたくないがために、感情を殺してまで無難に生きるような「非人情」な生き方を、百閒は「嫌悪」したのではないだろうか。

だから百閒は、先輩弟子であった鈴木三重吉について、こんなふうに書いている。

『 鈴木さんは「千鳥」「山彦」などの一世を風靡した名品の作者であり、頭がよく語学が出来て、漱石門下の秀才である事はよくわかってゐたが、あまりお人柄はよくない。気むづかしくて、出鱈目で、風向きがどう変るか端倪す可からざるものがあった。
 漱石先生の前でお酒を飲む機会は滅多になかったけれど、外できこし召して来る事はしようちゆうである。取って附けた幇間笑ひ、アツ、ハツ、ハッハと笑ひ飛ばし、次ぎに何を云ひ出されるかわからない。そこいらにある者全部を当たるを幸ひ薙ぎ倒し、当時高名だった能楽評論家の某氏を、「Mが袴を穿いて羽織を羽織つた様な顔してやがる」などと罵つた。無茶を言ふにも限りがあるものだと思つたが、云はれて見ればそんな風にも見えた。
 後輩の私などしょっちゅう怒られた。漱石山房の席ではないが、お酒の座におつき合いした事があり、三重吉さんはお酒癖があまりよくないので、こちらも少しは(※ 酒が)廻って居り、我慢出来なくて座を外して逃げ帰つた事もある。
 三重吉さんが亡くなられたと云ふ知らせを、電話もなかつた晩に受けて、すぐにお別れに出かけた。人が死んだお位牌の前で、あんなに取り乱した覚えがない程私は号泣した。三重吉さんのどこがよかつたのか私は知らない。』

(P194〜195・「失敬申候へ共」)

ちょっと性格に難のある先輩のことを悪し様に言っているようだが、それでも百閒が、並いる先輩の中でも鈴木三重吉が「好き」だったというのが、とてもよく伝わる名文である。
もうここで、「なぜ、そんな鈴木三重吉が好きだったのか」その理由を語ることなど野暮の骨頂だったというよりも、百閒にとっては、この時の「感情」こそが、何よりも大切だったのであろう。

鈴木三重吉

こんなことも書いている。

『 一口に云って、東京の魚はまづい。岡山又は大阪以西の明石海峡から関門海峡あたりの魚とは比べ物にならない、と云ふ事になってゐる。それはその通りで、東京の魚と一口に云ふ事は出来ない。近海も遠海も場違ひも遠洋物も、みんな一緒になつてゐる。うまいもまづいもあつたものではないが、その中で子供の時から食べ馴れた魚の東京の味はどうか、と云ふに必ずしもまづくはない。それは自分の味覚が変化したと云ふ事を考へなければならないが、現実にうまいと思ふ物は即ちうまいので、割引きしたり、遠慮したりする必要はない。うまければうまい。どう云ふ風にうまいかと云ふに、東京の魚は味があってうまい。自分の変化した味覚から云へば、味があるから、うまいと云ふ事になるだらう。
 あちらの、西の方の魚はちがふ。味がなくてうまい。或は味がないからうまいのかも知れない。』

(P202〜203・「失敬申候へ共」)

これも、説明にはなっていない「説明」だが、『現実にうまいと思ふ物は即ちうまいので、割引きしたり、遠慮したりする必要はない。うまければうまい。』という理屈は、まさに「イヤダカライヤダ」の「論理」である。

このアンソロジーを編んだ、平山三郎『ヒャッケンマワリ』に、百閒の列車旅行に随行した編集者として登場する)が次のような紹介をしている。
「」内は、百閒の文章の引用である。

『「一たび約束した以上は、その約束は守らなければならないと云ふのは漱石先生の考へさうな事で、現に漱石先生は新聞に執筆した十年の間、一度も連載を休んだ事はなかった。始末がよかった人だからと云ふ風に解釋する事は出来ない。宿痾の胃病で机に向かふのが苦痛だった日が多かつたに違ひないが、それでも取りきめた約束に背むく様な事にならぬ爲に、強ひて筆を執つたのであらう。」「お弟子の鈴木三重吉さんも非常に文章に苦心する人であった。文学至上主義を奉じてゐた様である。或る時先生と二人で論じてみるのを傍から聞いた。三重吉さんは、約束であらうと締切であらうと、自分の意にみたない原稿は渡す事は出来ない。それは自分の良心に反する。締切の間に合はないとか約束と違ふとかは世俗の事であって、文学はさう云ふ事に従属しない。/漱石先生が(三重吉の意見を)たしなめて、さう云ふ至上主義が他人に迷惑を及ぼしても構はないと云ふ所までは通用しない、約束を破る理由にはならないと云った。‥‥‥」云々
 それで、(※ この)「鬼苑漫筆」も休む様なことがあってはいけないと百閒は自戒したのである。さいわい連載は休むことなく七十五回つづいた。』

(P236・「編纂者あとがき」)

漱石先生は真面目であり、かつ大人であった。一方の鈴木三重吉や百閒自身は、理想主義者の子供であった。
だから百閒は、鈴木三重吉の困った性格に「共感」を覚えつつ、漱石先生の「大人」ゆえの「苦しみの引き受け」に、「尊敬の念」を持たずにはいられなかったのであろう。到底自分にはできないと、そう思いつつ、それでも師に倣ったのであろう。


(2025年6月9日)

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