ギンギラギンの笠井潔 : 1979年の挑戦
まさに「暗合」である。
一昨日(2025年6月1日)、私は「『マルコ・ポーロの冒険』 46年ぶりの再放送に想う。」と題する記事を書いて、「note」にアップした。
46年前にNHKでテレビ放送されたまま、そのNHK内でも失われてしまっていた傑作アニメ『マルコ・ポーロの冒険』が、「発掘・蒐集とそのレストア作業」を終えて、この4月から再放送されていたことを、私はつい数日前に知り、この大好きだった作品の復活に関する想いを綴ったのが、上の記事である。
ちなみに、この『マルコ・ポーロの冒険』の本放送は「1979年4月」からの1年間だった。
そして、そんな記事を書いてアップしたその翌日に、たまたま入手したのが、本稿でご紹介する、『アサヒグラフ』1979 4-13号なのである。

小説家デビュー直後の笠井潔に取材した同誌の記事については、全文文字起こしして本稿末尾に添付してご紹介するが、同誌同号には、別に「この週末から楽しめそうなTV番組 4月5日〜4月11日」という記事もあって、そこにはしっかりと『マルコ・ポーロの冒険』も紹介されていた。一一これはなかなかの「暗合」ではないだろうか。

笠井潔についての紹介記事にあるとおり、全10作の構想で書き始められた「矢吹駆シリーズ」だが、その第8作『夜と霧の誘拐』が、先日(4月26日)刊行された。
つまり、約半世紀を経て、同シリーズはいまだ完結を見ていない。
同シリーズの初期3作品『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』で笠井潔のファンとなった私なのだが、同シリーズの近作は、やたらに分厚くなったわりには、ミステリとしての妙味が失われており、長年付き合ってきた私も、今回の『夜と霧の誘拐』では、これまでの刊行即購入という習慣を捨ててしまっていた。
一一だが、笠井潔と、「笠井潔葬送派」を名乗った私との縁は、やはり生半可なものではなかったと、この「暗合」はそう示しているように思えてならない。
本稿では、「笠井潔紹介記事」の中から、「若き日の笠井潔」の言葉を引用し、それに簡単なコメントをつけることにしたい。
○ ○ ○
「子作り・田園への親近感で成り立つフォーク・ソングは大嫌い。 徹底的な人工性を求めるロックに僕は賭ける」
1枚目の写真に付されたキャプション。
よって、笠井潔の言葉そのままではなく、それを編集したものだ。
一一まあ、あの時代がかってはいるものの、いかにも笠井潔らしい言葉ではあろう。一言でいえば「逆張り」である。
全共闘くずれの多くがそっちへ流れたので「俺は違うぞ」ということである。
横浜の自室で一一「1億円もうけて 映画を作りたい」
映画評も書くが 彼の認める最大の監督は「華麗な観念性」をもったルキノ・ヴィスコンティだという
結局、1億円儲けて映画を作るというわけにはいかなかったようだ。
映画を作りたかったという話は、他で読んだ覚えはないが、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を、日本の鎌倉時代に置き換えた同名翻案映画を吉田喜重が撮った際、笠井潔が、この吉田喜重版『嵐が丘』のノベライズを、角川文庫から刊行している。
しかし、このノベライズは、端的につまらなかった。
映画の方は見ていないのだが、私の記憶するところでは、期待作でありながら、さんざんな評判だったはずだ。

もしかすると笠井は、吉田喜重とどこで知り合いだったのかも知らないし、この映画が当たっていたら、笠井も映画界に強いコネが持てたのかも知れない。
少なくとも、その野望があったというのは、笠井の性格からして、100パーセント間違いないだろう。
「一九七四(二十五歳)、共労党(左派)解体。代償のように冬山登山・ディスコティックに熱中、ビル管理人などのアルバイトで生活しつつ、六〇年代政治経験の総括に固執する。黒木(※ 黒木龍思)名での論文活動を自覚的に停止する」
アルバイトで稼いだ百万円を手にフランスへ渡ったのが、七十五年秋。労働者街の小さなアパートに住み、月七万円で、もっぱら小説(この作品)と総括書きにすごした。その二年間、一週一回のディスコ通いは欠かさなかった。
このあたりのことは、おおよそ知っていたが、フランスでの『二年間、一週一回のディスコ通いは欠かさなかった。』というのは知らなかった。
いや、そのあたりは興味がないので、記憶に残っていないだけかも知れない。
「『野生時代』編集部に、ある雑誌から『こんど挫折した人の作品を載せたそうですが』と電話が入ったといいますが、『挫折なんかしていない』って返答してほしいと言ったんです。
僕にはもともと左翼的良心なんかありませんから、挫折なんかしっこない。たしかに革命派ではあったけれど、左翼でも、進歩派でもなかった。僕にとっては、全共闘運動は〝一瞬の生のきらめき〟を求めていただけであって、組織のオルガナイズはこの〝生のきらめき〟を具体化するためにセットで考えていたに過ぎません。
連合赤軍事件などで組織の末路が、ああいうことになるなかで、僕にとって組織が終わっていきました。昔の仲間で、のちに組合運動をする人も、また〝闇一族〟のように運動を続ける人もいるけれど、僕にとって必要だったのは、あの〝生のきらめき〟を自分の内部だけで持続することでしかなかったのです。
日本に帰ってから、昔の仲間の事務所に行った時、僕は彼らに言った。「最近の活動家諸君はむさ苦しいじゃないか」と。あの時代、全共闘はキャンパスではいちばんかっこよかった。へルメットにネービー・ルック‥‥‥。僕の賭けたのは、いつも先端でピリピリふるえている緊張感と華麗さだった気がします。
いや、ほんとに挫折なんかしてないんです。まったくまっすぐです。あんまりまっすぐすぎて、どうも世間とずれてしまうし、昔の仲間とずれちゃってるんですが‥‥‥」
ここで強調されている〝生のきらめき〟というのは、多少表現の違いはあっても、笠井潔が初期によく書いていたことで、特に、笠井の代表長編のひとつ『ヴァンパイヤー戦争』(全11巻)では、主人公・九鬼鴻三郎がそうした、生の究極的な充溢とその発露の果てに「超人」と化する、というようなお話であったと記憶する。
一方、もうひとつの代表作シリーズである「矢吹駆シリーズ」の同名主人公は、それとは真逆の印象を与える。つまり、極めて禁欲的な人物で、私はこちらに惹かれたのだった。
だから、ご本人に直接お会いするまでは、この作者にも、矢吹駆的な禁欲性を期待していたのだが、笠井潔自身は、どうやら『ヴァンパイヤー戦争』の主人公に近い方向性だったようだ。
もちろん、超人にはなれなかったのだが、初期の笠井潔には、『秘儀としての文学 テクストの現象学へ』(1987年)があり、それは、
『A.K.ル・グィン、P.K.ディック、J.G.バラード。…光と闇が交錯するSF空間を疾駆し、コリン・ウィルソンと至高体験を語る。文学・思想の両域に跨り、秘教的世界を横断する、初の文学論集』
(紀伊國屋書店『秘儀としての文学』内容紹介文)
とあるので、ベタなものではないとしても、多少なりともオカルト的なものに惹かれる部分があったようだ。「超越思想」と言い換えてもいいが。
それにしても、
僕にはもともと左翼的良心なんかありませんから、挫折なんかしっこない。たしかに革命派ではあったけれど、左翼でも、進歩派でもなかった。僕にとっては、全共闘運動は〝一瞬の生のきらめき〟を求めていただけであって、組織のオルガナイズはこの〝生のきらめき〟を具体化するためにセットで考えていたに過ぎません。
という、この物言いは気になる。
結局のところ、その後の笠井潔が「ミステリ小説界」に乗り込んできたのも、その後、そこでの覇権を握り損ねて出て行ったのも、『僕にはもともとミステリマニアに対する義理や良心なんかありませんから、挫折なんかしっこない。たしかにミステリは好きだったけれど、マニアでも、オタクでもなかった。僕にとっては、ミステリ界での活動は〝生のきらめき〟を求めていただけ』だった、とでもいうことなのだろうか?
ミステリ界での「探偵小説研究会」の設立も、ミステリ界を割って出たあとの「限界小説研究会」(現・限界研)の設立も、〝一瞬の生のきらめき〟どころか、安定的な〝生のきらめき〟を得るための、いたって凡庸な「党派政治」だったのか?
「ジーンズはついにギンギラギンになりえない もしジーンズを着るなら 徹底的に細いものか 太いものにしなけりゃ かっこつかない」
これは、写真のキャプション。
『ギンギラギン』というのは、あの時代の表現なのだが、それでもやはり、笠井潔にはギラギラした「権力志向」があった、ということなのであろう。
また「ジーンズの喩え」なども所詮は、のちに自ら口にする『理屈なら、なんとでもつけられる』の見本でしかないのではないか。
独身主義を標榜する、この〝大型新人〟
笠井潔が「独身主義」だったとは、初めて知った。
こんなことを言ってたから、私が同人誌に「笠井潔インタビュー」を載せた際、別の記事で笠井の「奥さん」と息子の「翔(カケル)くん」に触れて、その「家庭らしさ」を軽い気持ちで揶揄ったことに、本気で腹を立ててのの「お叱り」だったのだろうか?

つまり、笠井潔にとっての「世間並みの家庭」は、触れてもらっては困る「不都合な事実」だったのかも知れない。
私としては、笠井潔の「当たり前のパパ」っぷりを、むしろ好意的に揶揄ったつもりだったのだ。一一なにしろ、「独身主義」だったとは、つゆ知らなかったものだから…。
やはり、当たり前の「家庭のパパ」では、とうてい『ギンギラギン』とは言いがたく、それでは『かっこつかない』、ということだったのかも知れない。
だとしたら、一一なんとくだらない‥‥‥。
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むかし全共闘、いまディスコ
あの角川商法が目をつけた〝超大型新人〟笠井潔のギンギラ人生

十年ほど前、大学のキャンパスを吹き抜けていった全共闘の風。その時代、八派といわれたセクトのひとつのリーダーであった男が、このほど大長編小説をひっさげて女壇にデビューした(「バイバイ・エンジェル」=「野性時代」五月号)。「時代は変わる」と、ボブ・ディランは歌った。デイスコで踊り狂う、この「大型新人」の"歌”を聴いてみた。

挫折なんか知らないよ
フランコ後のスペインにおけるバスク自立の〝過数〟な動きが、学生たちの間に微妙な影を落とすパリが、小説の舞台。
☆ ☆
スペイン市民戦争の、そして第二次大戦中の反ナチ・レジスタンス運動の〝亡霊〟が、三十年後のパリにあらわれることで事件ははじまる。
スペインとの国境地帯からパリに遊学していた没落貴族の末が、スペイン市民戦争に参加し、共和派が敗れて後はパリにもどり、レジスタンスの指導者になった。そして彼は、戦後はやく亡くなっていたはずなのだ。
その彼からの脅迫状が、ある学生グループの一人の叔母に届く、その叔母の父も、かつて〝亡霊〟に従ってスペイン国境を越えていった男であり、すでに亡くなっていた。
この叔母は三人姉妹の一人、その父が〝亡霊〟の領地を横領した結果、パリで優雅な暮らしをしているのである。
三十年前の怨恨か? この叔母オデットは首なし死体で発見され、同居の妹ジョゼットは姿を消していた。そしてアパルトマンのドアには、エドガー・アラン・ポーの「赤い死の仮面」がはさまれていた。
事件の解明にあたるパリ司法警察の警視と警部。この二人はかつてレジスタンスで〝亡霊〟の同志だった。
警視の娘ナディアは殺されたオデットの甥の同級生であり、同じ仲間に〝亡霊〟の娘マチルドもいた。錯綜する人間関係の中で、ナディアは、日本からの留学生カケル (駆)と共に、独自に事件解明にあたる。
暗い過去を身辺にただよわせ、屋根裏部屋で無言のうちに暮らすカケル。彼が口ずさむのは常にマーラー「大地の歌」の〝生は暗く死も暗い〟のひと節一一。
殺人は次の殺人を呼び、常に現場に残される「赤い死(ル・モール・ルージュ)」のイメージ。
百万円を手にフランスへ
六百枚という長編を一挙掲載した「野性時代」の宣伝文によれば「ニューエンターテイメントの出発を告げる八〇年代への熱いメッセージ」であり、若手の評論家中島梓(推理作家・栗本薫)氏の「日本の探偵小説もここまできた、文体はヴァン・ダイン、人物はヘミングウェイ、いま、古い神殿を新しい風が吹きぬける」という、おそるべき賛辞もある。
この「超大型新人」笠井潔は東京・月島生まれ、横浜育ちの三十歳である。
笠井潔は本名だが、七〇年代初めごろ、彼は黒木龍思のペンネームで一部には知られていた。六九年九月に結成された全国全共闘八派のうちのひとつ、プロ学同のリーダー(委員長)であった。プロ学同は、構造改革派の流れを汲み、新左翼のさまざまな消長のなかで、七三年には「空中分解」したが、その一部は、昨年春の三里塚に、新空港の〝管制塔占拠〟の形で姿をあらわした。
しかし、元委員長は、こうした動きとは無縁である。自筆の履歴書によれば一一、
「一九七四(二十五歳)、共労党(左派)解体。代償のように冬山登山・ディスコティックに熱中、ビル管理人などのアルバイトで生活しつつ、六〇年代政治経験の総括に固執する。黒木名での論文活動を自覚的に停止する」
アルバイトで稼いだ百万円を手にフランスへ渡ったのが、七十五年秋。労働者街の小さなアパートに住み、月七万円で、もっぱら小説(この作品)と総括書きにすごした。その二年間、一週一回のディスコ通いは欠かさなかった。

”生のきらめき”を求めて
「『野生時代』編集部に、ある雑誌から『こんど(※ 全共闘運動を)挫折した人の作品を載せたそうですが』と電話が入ったといいますが、『挫折なんかしていない』って返答してほしいと言ったんです。
僕にはもともと左翼的良心なんかありませんから、挫折なんかしっこない。たしかに革命派ではあったけれど、左翼でも、進歩派でもなかった。僕にとっては、全共闘運動は〝一瞬の生のきらめき〟を求めていただけであって、組織のオルガナイズはこの〝生のきらめき〟を具体化するためにセットで考えていたに過ぎません。
連合赤軍事件などで組織の末路が、ああいうことになるなかで、僕にとって組織が終わっていきました。昔の仲間で、のちに組合運動をする人も、また〝闇一族〟のように運動を続ける人もいるけれど、僕にとって必要だったのは、あの〝生のきらめき〟を自分の内部だけで持続することでしかなかったのです。
日本に帰ってから、昔の仲間の事務所に行った時、僕は彼らに言った。「最近の活動家諸君はむさ苦しいじゃないか」と。あの時代、全共闘はキャンパスではいちばんかっこよかった。へルメットにネービー・ルック‥‥‥。僕の賭けたのは、いつも先端でピリピリふるえている緊張感と華麗さだった気がします。
いや、ほんとに挫折なんかしてないんです。まったくまっすぐです。あんまりまっすぐすぎて、どうも世間とずれてしまうし、昔の仲間とずれちゃってるんですが‥‥‥」
クロスオーバーなる言葉が巷に横行している。版画家が小説を書き、映画を撮る。批評家としてスタートしたか、と思えば探偵小説を書く。
笠井自身も、同じ主人公でシリーズ十作の推理小説を用意するかたわら、純文学作品(※ 『熾天使の夏』)を純文芸誌に発表しようともしている。
そして「野性時代」は、現代クロスオーバーの旗手・角川春樹氏が全力を込めている雑誌である。この「バイバイ・エンジェル」が、今から一年前に、この雑誌にもちこまれたのは、まことに〝正解〟だったのである。

映画評も書くが 彼の認める最大の監督は「華麗な観念性」をもったルキノ・ヴィスコンティだという/写真下のキャプション)
編集者の熱いまなざし
「いや大学ノート二冊にびっしり、立て看の字のような角張った字で書かれた草稿を読んだ時には、新鮮な衝撃を受けました。ついに〝七〇年〟を小説の形で総括できる人があらわれた、と。とにかく、七〇年を書ける人がいれば商売になる、とは前々から思っていましたし、その一方でフィーバーめいていた七〇年世代の人たちが、何がしか思い入れた心情を誰か書かないか、と心待ちしていました。彼の持っている、青春の致命的な暗さと輝き、は間違いなく反響を呼ぶし、スターになります。ある意味で開かれていること、これは読者を限定しない商業性を兼ね備えたことになります。地方で教師をしたり、大企業で沈黙を守ったり、あるいは野良仕事をしている、あの世代の人への、確かなメッセージと言えませんか」
最初に草稿を読んだ「野性時代」の編集者、見城徹氏二十八歳の熱っぽい言葉である。
彼と共にプロ学同のリーダーだった友人で、現在でもたまに酒を飲む友人がいる。三十六歳。彼は「もう組織の看板をおろした」が、三里塚などへは「ひっそりと仲間を集めて、新聞にも出ずに、そっと帰ってくる」ような日常を続けている。
彼も笠井の草稿を読んだ一人だが、「僕はマル(クス)中で、アル(コール)中ですから」と笠井のその後については寡黙であった。
独身主義を標榜する、この〝大型新人〟は、小学校二年の時に父をなくし、今は母親と二人暮らしである。
本誌・森 忠彦
撮影・橋本照嵩

(『アサヒグラフ』1979 4-13、P87〜91)
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(2025年6月3日)
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