北村紗衣 『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』 : 発達障害を口実にした、薄っぺらい映画紹介本
書評:北村紗衣『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』(書肆侃侃房)
昨年(2024年)11月に刊行された本だから、刊行後およそ1年になるのだが、今ごろになって本書を読むのには、それなりの理由がある。
本書は刊行前から刊行後の数ヶ月にわたって、SNS「X」を中心にした宣伝が、随分にぎやかになされていた。
著者自身と版元の「書肆侃侃房」は無論、北村紗衣がらみの本が刊行されると、それにちなんだトークショーをいつも開催している「ジュンク堂書店」が、トークショーの行われる東京の一店舗だけではなく、全国の多くの店舗で本書の特設棚を作り、フェアまで張って、それをまた宣伝してもいたからだ。
いかにも「SNSの女王フェミニスト」らしいとも言えようが。
そこで私はこう考えた。
「これだけ宣伝して、一体どれだけ売れるものなのか?」
要は、北村紗衣の「著述家としての人気」というものを知りたいと思ったのだ。

著述家としての「力量」が無いというのは、その著作に直接あたって確認済みだったから、作家的実力の無い北村紗衣の本が、宣伝によってどれほど売れるものなのかと、そこに興味を持ったのである。
北村紗衣が、いわゆる「人気者」の「インフルエンサー」だというのは、本人が否定して見せたところで、否定のできない事実である。
なにしろ、タレントでも何でもない一大学教授の、「X」のフォロワーが5万人というのだから、これは「社会現象」として注目にも値しよう。
で、私が本書刊行直後からAmazonの本書紹介ページをチェックしていたところ、刊行2ヶ月ほどが過ぎた頃でも、レビューの投稿数は1桁止まりだった。
それなりに売れていれば、もっとレビュー投稿があって然るべきなので、宣伝されているほどには売れていないのではないかと、そう疑われた。
なにしろ、フォロワーが5万人なんだから、その1割が本書を購入すれば、即ベストセラー入りして刊行即に近いタイミングで増刷もしていていいはずなのだが、そうした動きは見られない。
私は以前、
「北村紗衣のファンというのは、北村のツイッター(現「X」)での威勢の良い発言を喜んでいる人たちであって、その大半は活字に縁のない人たちなのではないか」
と指摘したことがあったのだが、どうやらその見立ては、大筋で当たっているようである。
それでも、刊行後3ヶ月ほどした頃には、書肆侃侃房が「増刷した」というアナウンスをしていたので、それなりには売れているのかなと思いもしたが、いずれにしろ、まったく興味のない「北村紗衣による英語の本」以外の未読は本書のみとなっていたので、本書はもう少し温存する(読まないでおく)ことにした。楽しみは、あとに取っておこうという心理である。
だが先日、北村紗衣の新刊が出たと、「note」をフォローさせていただいているヤマダヒフミ氏が記事を書いていらしたので、そろそろ本書『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』(以降『女の子が死にたくなる洋画100選』と略記)を読むことにした。
で、本書『女の子が死にたくなる洋画100選』はどうであったかというと、私はお爺さんだからなのか、死にたくなるほど酷い本というわけではなく、ヤマダ氏が上のエッセイで「立派な学者のクソどうでもいい、ゆるふわエッセイ」と評しておられたとおりの「武蔵大学教授によるクソどうでもいい、ゆるふわ映画紹介」であった。
見開き2ページで1本の映画を紹介し、それが100本なのだから、そもそも本書に「まともな映画評」など、期待してはいけない。
なにも「紙数に限りがあるから書けない」ということではなく、「もともと書けない人なのに、これじゃあ何も期待できないに決まっている」からである。
その見開き2ページの内容はというと、著者のイデオロギー的な視点(主にフェミニズム)からのストーリー紹介と、プラスいかにもなコメントだ。
この映画はこれこれの問題を扱っているとフェミニズムの視点から社会派的な紹介をして、最後は「しかし、ハッピーエンドで気持ちよく見終えることのできる作品です」とか「主人公が救われないラストですので、そういうのが苦手な人は気をつけてください。でも、挑むに値する作品です」みたいなことが付け加えられる。
つまり、「ですます」で書いているというだけではなく、やたらに「読者の感情に気をつかっている」のだ。
どうして、そこまで気をつかうのかというと、それは本書が、「死にたくなっているような女の子」が読んで「もう少し、頑張って生きてみよう」という気持ちになれるような映画を薦めている、という「体裁」で書かれているからである。
著者の北村紗衣は、まえがきに当たる「プロローグ」の「死んでるヒマなんかなくなった」の章をはじめとして、本書の中で「私は発達障害なので」ということを、4、5度書いている。
「そんな私だから、死にたくなるような辛いこともいっぱいあったけど、好きな映画を見ているうちに、そんな気持ちも忘れて前に進めた」一一という「体裁」で書かれた本なのだ。
だから、読者の感情に過剰に気をつかっているという「体裁」を採っているのだが、これは無論、世に溢れる自称「繊細さん・繊細くん」向けに書いた本だからである。
繊細扱いしてあげれば喜んでもらえるということをよく承知していて、そのあたりの若者を購買層として狙った本なのだ。
これは北村紗衣自身が、フェミニストとして「被害者たる女性」に向けて「あなたは被害者なんだから、言いたいことを言うべき」だとか何とか言っておけば、被害者意識を持ちたい「繊細な、若い女性」にウケが良い、という経験知からの、自覚的な戦略であろう。
本書で驚かされるのは、映画紹介本文に入る前に、「注意書き」として、映画紹介の各ページにわかりやすく「警戒アラート」を付けるので、それを参考にして欲しいと、わざわざそんなことを断っている点である。
一一いやはや、こんな時代になったのだ。ホラー映画は無論、バイオレンス映画すら扱っていないというのに、まったくご親切なことだ。
『 注意書き
読者の皆さんにはできるだけリラックスして映画を楽しんでほしいと思っています。とはいえ、映画にショックはつきものです。このため、この本では人によってはショッキングに感じるかもしれない各作品のポイントについて、ページの右下に小さい文字で告を出すようにしています。警告対象となるのは「性暴力」「子どもの虐待」「自殺」「ドラッグ」「手ブレ」「光の点滅」の6つです。こうした要素が目立つ作品については、下の例のような感じで警告を表記しています。苦手な要素がありそうだと思ったら見る前に心の準備をするか、避けてください。(以下略)』(P 14)

さて、そんな本書『女の子が死にたくなる洋画100選』なのだが、刊行後約1年が経った今、Amazonレビューの投稿数は、どのくらいになっているかと確認してみたところ、現時点では、レビューは10本で、点数だけの採点投票が10本(計20本)ということになっていた。
端的に言って、本書のような、殊更に敷居を下げた「ゆるい本」としては、大した反応ではないと思う。
例えば、北村紗衣のフォロワー5万人の1パーセントの500人が本書を購読し、それで「面白いと思えば」北村紗衣を応援するためにも、30くらいのレビュー投稿があって然るべきだと、義理堅い私はそう思うのだ。
なにも、長文を書けと言っているのではなく、Xと同程度の短文でも、いちおうはカスタマーレビューの内だからである。
ともあれ、内容の確認できるレビュー10本の内訳は、
5点満点が3人、4点が3人、3点が1人、2点が2人、1点が1人、である。
そして、5点満点をつけている3人の中身を見てみると、
レビューに「長い書名を裏切らない、勇気づけられる映画案内書」というタイトルをつけている「榎戸 誠」氏は、私がAmazonレビューを干される前から、ずーっとコンスタントにレビューを書いている人なのだが、この人は、レビューを書いた作品すべてに「5点満点」をつけているのが特徴だ。
「5点満点を付けられるものしかレビューを書かない」というポリシーをお持ちなのかも知れないが、単に「無料のホメ屋」なのかもしれない。
少なくとも、本音でレビューを書いていた、作家にはあまり喜ばれないレビュアーたちは、私だけではなく大勢、Amazonからクビを切られているのだが、榎戸氏がAmazonでご存命なのは、褒めることしかしないからだというのは、ほぼ間違いのないところであろう。
ちなみに、現時点での「役に立った」は3人。
5点満点の2人目「erikoS」氏は、「今までにない映画ガイド」と題して
『率直・フェアで、正確な背景知識に裏打ちされたさえぼう先生の映画批評のファンです。』
と書いているとおりの方だが、『率直・フェアで、正確な背景知識に裏打ちされたさえぼう先生の映画批評のファン』と書いている段階で、ろくに映画批評を読んでいない人だというのは明らかだろう。まさに「X」向けのレビューである。
ちなみに、現時点での「役に立った」は2人。
5点満点の3人目「Amazonカスタマー」氏は、「意味あるネタバレ」と題して、
『この世界に疲弊している映画を愛するすべての女性におすすめできる良本です。』
と書いているとおりで、著者が語るところの本書の趣旨をそのまま受け取って、そのまま高く評価している、今どきの素直な人のようである。
この人の「役に立った」は、34人とかなり多いが、こうした数字の差は、投稿時期に大きく左右されているようだ。すなわち、11月刊行の年内のうちに投稿されたレビューには、数十の「役に立った」がついているが、刊行から間があいた時期の投稿には、ほとんど「役に立った」が付いていない。
つまり、刊行直後の注目の熱が冷めないうちの投稿には、それなりの反応もあったということなのであろう。
ちなみに、2点(星2つ)の低評価のレビュアー「馬頭」氏は、「著者の気性の荒さで疲れる本」と題して、
『女性が活躍する娯楽映画がたくさん取り上げられていて、前向きな内容に元気づけられます。
知らない映画も多くて、参考になりました。
しかし女性上げよりも男性下げ、とでもいうべき文章が多すぎて、著者特有のマイナスの怒りが激しくて、毒気にあてられたようでどっと気疲れしてしまいました。』
一一と書いているので、決して「アンチ」ではないのだろう。
だが、北村紗衣との初対面だったためであろう、まだまだ抑え気味で、「当人はこんなもんじゃないぜ」という程度の内容の本書にさえ、その薄められた「毒気」に当てられた模様である。
なお、このレビューにも「役に立った」が、48付いている。
また、唯一1点(星1つ)を付けている「歩きスマホ絶対に許さない」氏は、「浅い‥‥‥。」というタイトルで、
『自称「映画好き」って感じの内容。浅い……。歳とってから出版したことを後悔しそうな文章。』(全文)
と書いており、多少は「アンチ」の気もないではないが、今年の7月になっての投稿だから、たぶん「アンチ」ではなく、純粋に、たまたま読んだしまった人なのであろう。
さて、このように見てくると、本書のレビューに関しては、「アンチ」はもとより、北村紗衣ファンの投稿すらもほとんど無く、どれほど売れたのかは別にして、反響の薄い本だったというのは間違いないようだ。
ただ、「採点投票」を含む全体を見てみると、5点満点が、20人中、約半数を占めているようだから、北村紗衣のファンは、文章を書かなくてもいい「採点投票」へまわったようである。
もっとも、それでも最大で10人ほどなのだから、フォロワーの数からすれば、お寒いかぎりだ。

以上、Amazonの本書紹介ページの動向を見るかぎりにおいては、本書は、宣伝のわりにはあまり売れていないか、売れたとしても、読んだ人の反応は薄かった、ということになるだろう。
実際、本書の場合は、読んだら「壁に投げつけたくなる本(カベ本)」と言うよりも、単純に「ぬるい本」だから、腹を立つというほどのものでもないので、こういう結果になったのではないかと推察された。
○ ○ ○
さて、ここまでは「本書の作り」と「世間の反応」みたいなことしか書いてこなかったが、ここからは私の感想を書いていきたい。
まず、本書で感心させられるのは、日本ではあまり紹介されることのない国の作品を、多く取り上げている点であろう。
これはたぶん、フェミニズム的な問題を扱った作品、言い換えれば、女性差別的な問題を扱った作品に絞って紹介しているからで、そうしたものを積極的に見ようとすれば、アフガニスタンやアラブ諸国などのように、女性差別的な慣習や制度の残っている国の映画なども、こまめにチェックすることになるためだろう。
とは言え、それだけでは説明のつかないのが、本書に限らず北村紗衣の本では、日本映画がほとんど扱われないという点で、本書もその例外ではなく、海外の作品しか紹介されていない。
この点について、ご当人は、その理由を次のように説明している。
『 私は発達障害がある女性なので、その立場から「18歳になる前にこういう映画を見て大人になれたらよかったな」と思う作品を選びました。22のテーマに分けて100本の外国映画を紹介しています。外国映画に限って日本映画を入れなかったのは、若いときに自分が住む場所とは違う文化に触れるのは世界を広げることにつながるし、楽しいことだと思うからです。このため、できるだけいろいろな地域の映画を選ぶようにしました。』(P4〜5)
これは、一応もっともらしくは聞こえるものの、北村紗衣の「外国好き」は認めるとしても、「映画ファン」であるならば普通は「日本映画」も見ているだろうに、わざわざ日本映画を外すところに、なんらかの意図があると思えてならない。
日本映画にもフェミニズム的な問題を扱った作品もあるし、「シスターフッド」ものなどはちょっとした流行りで、これまでの著作でそうした日本映画にも言及しているのだから、同じものへの言及は避けるとしても、本当に優れた作品なら、本書でいくつか紹介しても、別段なんの問題もないからである。
むしろ、本書読者への励ましになる日本映画なら、そちらを紹介する方が、本書の趣旨にも合致しているのではないだろうか?
したがって、北村紗衣が本書で日本映画の紹介を避けた理由は、いくつか想定できよう。
まずそのひとつは、ここまで専門的にフェミニズム的な外国映画を追っているということは、逆に日本映画はあまり見ていないのではないか、ということ。
人間誰しも、ぜんぶ見るわけにはいかないのだから、何かを専門にしてそれに時間をかければ、人より時間をかけられないジャンルだって、あって当然だ。
例えば、シェイクスピアの研究者であり、英文学はそれなりに詳しくても、日本文学にはトンとウトい北村紗衣なのだから、日本映画についても、さほどではないということは十分にあり得よう。
北村紗衣は、その性格として、苦手なものやウトいジャンルがあっても、それを公然と認めるような人ではない。
有名な「過去ログ削除」と同様、まずい話は徹底的に隠す(消す)という性格なのだから、わざわざ「私は日本文学を、ほとんど読んでいません」などとは言わないのと同じことで、日本映画もほとんど見ていないという蓋然性も低くはなかろう。
だがまた、一応「映画批評」もやっているし、「他の映画紹介本のような男目線の映画ばかりではなく、私は女性目線の映画も見てますよ」と、映画をよく見てますアピールをするのだから、日本映画を見ていないとは、言いにくいのかも知れない。
そもそも、私と北村紗衣が遭遇するきっかけとなった約1年前の段階では、北村紗衣は、かの名作『ダーティハリー』すら初めて見たという程度だったのだから、案外、当たり前の名作は見ていないのかも知れないし、ましてやゴダールや溝口健二だのは見てはいないだろう。オタクというのは、だいたい狭い知識のひけらかしが好きなものなのだ。
したがって、多くを語らない日本映画についての知識も、映画評論家ぶるには、少々乏しいものなのかも知れない。
また、北村紗衣が、積極的に日本映画のフェミニズム的な作品について触れようとはしないというのは、私がこれまで何度も指摘してきたとおり、「国内の差別問題には触れたくない」から、かも知れない。
つまり、同じ「男目線の映画」であっても、国内の人気監督の作品は貶しにくい(「クロサワはクソ」とか「オズはヘンタイ」)とか、東京大学でお世話になった有能な映画評論家でもある先生方(例えば、蓮實重彦など)の絶賛する作品は貶しにくいとか、フェミニズム的な問題を扱った国内的な日本映画について語ると、おのずと現実の国内の差別問題にもコメントしなくてはならなくなり、その場合には、現実の問題についての発言責任が問われることにもなるからである。
例えば、北村紗衣は「草津町虚偽告発事件」について、当初は虚偽告発をした女性町議の言い分を鵜呑みにして、当時の草津町長を「やったに違いない」というスタンスで批判するツイートをして誹謗したのだが、この裁判では、告発側の虚偽告訴であったという判決が下りて、北村紗衣はXで謝罪コメントを出すことになった。「表現が良くなかった」という趣旨の、謝罪ではないアリバイ謝罪ではあったが。
私に関して、「note」管理者に誣告した北村紗衣が、当の私には謝罪せず、「草津町虚偽告発事件」については謝罪して見せたのは、無論、広い「世間の目」を意識した(パフォーマンスだった)からであって、間違っていたと反省したからではないのは明らかだ。
「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の際には、告発した相手の呉座勇一の謝罪について「誠意がない」と、二度も公開謝罪させた人としては、これはあまりにも誠意の無い、打算だけの振る舞いだと言えるのではないだろうか?
ま、それはともかく、国内問題に言及すると、何かと面倒なことになりやすいが、外国映画なら、作り手のフェミニズム的な主張を絶賛して差別者を批判しても、その差別者とされた側から反論されることもない。
だから、お得意の「舌禍」を怖れて、国内作品について語るのは控えていると、そういうことなのではないだろうか。
北村紗衣がフェミニストとして、女性差別や人種差別にはよく触れるのに、日本の部落差別や朝鮮人(外国人)差別、沖縄への米軍基地押しつけ問題といった「差別問題」に一言半句ふれようとしないのは、それを口にすると、自分の立場(社会的責任)が直接的に問われやすくなるから、それは「損だ」という計算なのであろう。
なにしろ北村紗衣は「知識人が一般人に、無料で知識のお裾分けをするべきではない。ちゃんと金を取るべきだ」と主張するような、知識人の風上にも置けないケチな人なのだから、当然、損をしそうなことは意識的に避けるのである。


だから、一般的には、認めると損になることの多い自身の「発達障害」を、北村紗衣の場合はどうして積極的にアピールするのかと言えば、それは無論、その方が「得をする」からに他ならない。
現に北村紗衣が、発達障害の診断を受けるきっかけとなったのは、大学教授となって、大学の経営的な(面倒な)仕事を分担しなければならなくなった際であり、「それが出来ない」と証明するためのものだったのだ。
誰もしたくないような面倒な雑務でも、普通は、教授としてそれ相応の給料をもらっているという立場上、嫌々でも引き受けるものなのだが、障害者であれば、それも免除されて、できること(好きなこと)だけをやっていれば良いということにもなるためである。
つまり、「女性」のマイノリティ性を逆手に取って生きてきた北村紗衣としては、その手は存分に使ったので、今度は「障害者」という武器を、新たに備えたということなのであろう。
現にそれが、武器にもなるからこそ、本書のような、「障害者向け」とまでは言わないまでも、「過度に傷つきやすい人向け」本なんてものも、言い訳(自己正当化)しいしい書けるのである。
すでに多くの人が気づいているように、マイノリティ性や被害者性といった「弱者性」は、今の社会では「使いようによっては武器になる」のである。
本来それは、不利な立場に置かれている人(弱者)のための自衛手段として社会的に認めているものなのだが、現実には、その武器を使う人が、必ずしもその武器を使って然るべき人だとは限らない。
人並みより恵まれた立場にあっても、「せっかくある武器なら、使わないと損でしょ」というような輩は、いつの時代にもどんな社会にも存在しているのである。
例えば、生活保護は、生活に困っている人のための当然の権利であり、そのための制度なのだが、そうした制度が存在するのなら、生活に困ってなくても、困っているふりをしてでも、その制度の恩恵に預ろうとするような手合いが必ず存在する。
また、そういう手合いが存在するために、その制度の恩恵を受けて然るべき人までが、世間の偏見に晒されたりしてしまう。
「あいつは生活保護を受けながら、働きもせずパチンコ三昧の生活をしている」とか「高級車を乗り回している」、「よく海外へ遊びに行っている」などと、まるで生活保護受給者がみんな、そういう人間ででもあるかのように言われたりするのである。
つまり、こういう輩が現に存在するからこそ、不当な偏見に晒される人も出てくるのだから、こうした「制度悪用者」たちこそ、厳しく断罪されなくてはならない。
ところが、表面上「弱者アピール」をしている者を批判するのは、立証の問題があって、実際にはなかなか難しい。
また、それを押して無理にやると、まるでそれが「弱者差別」に見えてしまったりもするためだ。
だから、あやしいと思われる人物であっても、なかなか公然とは批判しにくいという現実があるのだが、しかしそうした及び腰のゆえに「制度悪用者」たちは野放しになり、本当に制度の恩恵を受けるべき人が不利益を被りもする。
であれば、その批判は、「社会正義」として、やはり為されなければならないことなのだ。
だから、北村紗衣が、雇用の保証されたテニュアの大学教授になった40歳にもなってから、どうして今更のように、発達障害の診断を受けに行ったのか、当然その理由が問われ、その妥当性が問われるべきなのである。
ちなみに、先に紹介したAmazonのカスタマーレビュアー「馬頭」氏は、本書を評して「著者の気性の荒さで疲れる本」と書いていたが、すでに指摘したとおりで、むしろ本書では、北村紗衣はいつにも増して「猫を被っている」。
つまり、北村紗衣という人は、必要に応じて、臆面もない「演技のできる人」だということである。
介護認定の判断がしばしば曖昧なものであるように、医者の判断とて絶対確実ではないのである。
まして、北村紗衣のような、わかりやすい「問題性格者」なのであれば、「発達障害」だったとしても、まんざらあり得ない方ではないと、誰もが納得するのだから、尚更であろう。
ともあれ、「得するため」なら、可哀想な被害者にでも何にでもなって見せる人なのだが、しかしその本性は、むしろ「昔のツイート」にこそ現れている。
今になって、それらを続々と削除し、「証拠隠滅」をしているというのが、北村紗衣の二面性の、何よりの証拠なのだ。
一一そういうことをしなければならない発言ばかりしてきた人だというのは、否定できない事実なのである。
○ ○ ○
さて、ここまでは本書の基本的な性格を批判してきたが、ここからは、本書所収のレビューの「酷さ」を具体的に紹介することにしよう。
まずは、哲学者ハンナ・アーレントの同名伝記映画のレビュー全文である。
『『ハンナ・アーレント』
女性いじめを乗り越えて
ドイツの女性映画監督マルガレーテ・フォン・トロッタは、フェミニズム的な視点を含んだ女性映画をよく撮っている監督です。2012年の映画『ハンナ・アーレント』は、有名な哲学者ハンナ・アーレントがアメリカに渡り、『エルサレムのアイヒマン』を書いた時期に焦点をあてた伝記映画です。アーレントがナチスに加担した師であるハイデッガーや抑留の暗い記憶に悩まされつつ、『エルサレムのアイヒマン』を仕上げ、これによってユダヤ人コミュニティも含むいろいろな人々からいじめや中傷を受けるのに果敢に応戦する、という内容です。
アーレントはナチスの犯罪者であるアイヒマンの裁判を傍聴しますが、著作でアイヒマンをステレオタイプな「極悪人」としてとらえず、新しい見方を提供します。ユダヤ人コミュニティのリーダーがナチス台頭の初期段階で現状を受け入れ、保身のために迫害に加担してしまったことも批判したため、ナチス寄りだという根拠のない中傷を受けます。それでもアーレントは「知識だけではなく深く考えることが必要」という態度を崩さず、哲学的思考を深めていきます。
アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で触れた「悪の凡庸さ」というのはなかなか哲学的に難しく、単純な理解を拒む概念です(日本でもかなり誤解されているようです)。しかしながらこの映画では、難解な哲学的概念を議論を通して深めるのではなく、型破りな考え方をする頭がよくて冷静な女性の発言が気に入らないからというだけで男性たちがなんだかんだと文句をつけていじめてくる‥‥‥という、現在の家庭でも職場でもインターネット上でも毎日のように起こっているありふれた女叩き現象が描かれています。アーレントのところに「顔が傲慢そうだ」という容姿攻撃の手紙が送られてくるところがありますが、これはアーレントが物言う女性であるから攻撃されているのであり、考え方よりも存在が気に入らない人たちがいるということが明確に示されています。これは気に入らない人たちを排斥しようとしたナチスと実はあまり変わりません。アーレントを攻撃する人たちはナチスを批判しているつもりで実はナチスに近づいているのです。恩師ハイデッガーとの関係を勘ぐられて「男の影響」のような方向で片付けられてしまうところもあり、女性がものを言うとどういう攻撃を受けるかが非常に丁寧かつイヤな感じで表現されています。
しかしながらこの映画には希望もあります。それはある程度の知的好奇心さえあれば学歴などを問わず深く考えることが可能であり、深く考える人にはそれを信頼して助けてくれる人も出てくる、という可能性が示されていることです。ハンナはひどい非難にさらされますが、夫ハインリヒや親友である女性作家メアリ・マッカーシー、また若い教え子たちなど、言いたいことを理解して支援してくれる人たちも登場します。考え続けることが戦う道なのです。』(P94〜95)
まずは、
『アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で触れた「悪の凡庸さ」というのはなかなか哲学的に難しく、単純な理解を拒む概念です(日本でもかなり誤解されているようです)。』
の部分だが、これには思わず笑ってしまった。
これではまるで、哲学の学者でも理解困難な難解なテーゼを、北村紗衣自身は「理解している」かの如き言種だからである。
一一当然、そんなわけないのだ。
まず『エルサレムのアイヒマン』を読んだ人にとっては、「悪の凡庸さ」という概念が、決して難解でもなければ、誤解にさらされてなどいないというのは、明々白々な事実でしかないだろう。
つまり、北村紗衣が『エルサレムのアイヒマン』を読んでいない蓋然性が、極めて高いのである。
あるいはまた、「発達障害」のせいで、人の感情に鈍感であり、そのため文学作品の多くを理解できない北村紗衣だからこそ、特別に難しいことが語られているわけではなくても、人の心が問題となる同書を、さっぱり理解できなかったという可能性も、無いではなかろう。
だが、こちらの蓋然性(読んだ上で理解できなかった)は、低いと思われる。
なぜなら、北村紗衣はもともと「損得打算で動く人」なので、哲学書を読むタイプではないからだ。
「そんなもん読んでも、一文の得にもならない」とでも考えるためである。
それよりは、好きな映画や舞台を見ている方が良いと、そう考えるに決まっているからなのだ。
なお、念のためな説明しておくと、『エルサレムのアイヒマン』で語られた「悪の凡庸さ」という概念が有名になったのは、それが、深く難解な哲学的テーゼだからではなく、「人間の悪しき部分を、わかりやすくも鋭く突いた言葉」だったからである。
アドルフ・アイヒマンは、ナチスドイツにおける「ユダヤ人絶滅政策」において、ユダヤ人の「東方移送」の責任者だった人物である。
要は、ドイツよりも東方に設置された、絶滅収容所へとユダヤ人たちを送り込むための、最高責任者だったのだ。
アイヒマンは、その職務を「いかに効率的に遂行するかという問題」に、多大な貢献した人物だったのである。
もちろん、「ユダヤ人の東方移送の効率化」とは、「ユダヤ人をいかに効率的に殺すか」ということなのだから、そんな職務に、責任者として精励したアイヒマンは、ユダヤ人はもとより、ドイツと戦った連合国の人々からは「血も涙もない人非人の殺人鬼」かと、そんな紋切り型のイメージで見られていたのだ。
たしか雑誌掲載用のリポートとして、エルサレムに赴いて裁判を傍聴した上で書かれた『エルサレムのアイヒマン』で、アーレントが描いて見せたアイヒマン像とは、多くの人が確信し、また期待してもいた「血も涙もない殺人鬼(人非人)」ではなくて、「どこにでもいる出世主義者で、職務に忠実な官僚」というものだったのである。一一だから衝撃的だったのだ。
アーレントは同書で、
「アイヒマンは、特別例外的な人だったというわけではない。ただ、自分の生活と立身出世のためなら、その職務内容の酷さに目を瞑ることもできた、どこの国にでもいる、ある意味では、凡庸な人間に過ぎなかったのだ」
という趣旨のことを書いたのだ。
要は、一一「あなただって、出世できるのなら、多少汚い仕事にも手を染めたでしょう? あなたがアイヒマンの立場だったら、与えられた仕事を断って、わざわざ自分の立場を悪くするようなことができましたか? それどころか、何を言えば上司であるヒトラーが喜ぶのか、それだけを考えて、要領よく立ち回ったのではありませんか? つまり、アイヒマンは、いつの時代にも、どこの国にも大勢いる、凡庸な小悪人であるに過ぎず、彼を極悪人の殺人鬼だということにして葬れば、それで済むという問題ではないのですよ」一一という趣旨のことを、アーレントは書いたのである。
さらに平たく言えば、「あなただって、アイヒマンであった可能性は否定できないはずです」と、そういう「ごく当たり前の人間の本質」に迫る哲学的な批判だったのだ。
だから、多くの人は「たしかにそうかも知れない」と、アーレントの言わんとするところを「理解して」ショックを受けたのである。
つまり、ハンナ・アーレントの言った「悪の凡庸さ」とは、決して難解な哲学的概念などではなく、誰もが理解できるものだったのである。理解できたからこそ、恐るべき指摘だったのだ。
ただ、その指摘は、普通の人々の「思考の死角」を突いたものであったからこそ、大変な衝撃を持って、広く受け入れられのである。「アイヒマンは他人事ではない」むしろ「我が友アイヒマン」だったのではないかと、そういう反省を、多くの人々に強いたのだ。
そんなわけで、北村紗衣の、
『アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で触れた「悪の凡庸さ」というのはなかなか哲学的に難しく、単純な理解を拒む概念です(日本でもかなり誤解されているようです)。』
という言葉は、「アーレントなんか絶対に読んでいないだろう、自分の読者層」に向けた、「知ったかぶりのハッタリ」にすぎないのである。
北村紗衣が、こうしたことを臆面もなくやれるのは、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の際、精一杯「傷ついた可哀想な女の子」を演じて見せた、まさに北村紗衣ならではのことで、普通なら、こんなバレバレのクサい芝居などやれはしないのだが、それをやれるからこそ、北村紗衣は「活字を読まない層」のファンを集めることもできたのである。
なにしろ、そうした大衆は、クサいほどのわかりやすい「お涙頂戴」が好きだからであり、わかりやす過ぎるくらいでないと、理解できないからなのだ。
ちなみに、ハンナ・アーレントへの批判を、単なる「女性差別」や「容姿差別」の問題にまで矮小化できるのも、哲学書なんて読まない北村紗衣ならばこそであろう。
無論、その程度の批判もあるにはあっただろうが、それがアーレント批判の本質であるかのように言って、まるで「私もアーレントと同じように悪口を言われました」と言わんばかりなのは、それが北村紗衣お得意の、ハッタリ的な詭弁であり、ほとんど嘘だからなのである。
無知な大衆とは、しばしば「知識人は馬鹿だ」という「エセ知識人」の言葉を真に受けて、溜飲を下げつつ、騙されるのだ。
ヒトラーの「ユダヤ人批判」「共産主義者批判」と同じで、人々は「事実を直視すること」よりも「信じたいことを信じる」ものなのだが、これもまた「凡庸な悪」の一種と言えるのである。
次に紹介するのは、いかにも北村紗衣の好きそうな作品『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』である。
『『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』
私はバカじゃない
突然ですが、私は英文学の博士号(PhD)を持っています。そんな私がものすごく共感したのが、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」に出てくる「あたしのことバカって呼んだわけ? あたしPhD持ってんだよ、ボケナス!」というセリフでした。仕事で試写室で見ていたのですが、思わず拍手しそうになりました。
ヒロインであるハーレイ・クインは腕利きかつ札付きの犯罪者で、バットマンの敵ジョーカーのガールフレンド‥‥‥でしたが、この映画では冒頭で既に別れているので、ふたりの恋の話ではありません。失恋したハーレイがクラブに行ったところ、そばにいた男性客にバカ呼ばわりされます。その男の脚をブチ折った後に心の中でハーレイが言うのがこのセリフです。
別に博士号を持っているから頭がいいとか偉いとかいうわけではないのですが、少なくとも何らかの分野に関して一生懸命勉強し、専門的な知識を持っているのは確実です。博士に限らず、料理人とか宮大工とか、何らかの分野で専門知識や技術を持っている人はそれ相応の敬意を払っでもらえるはずだ‥‥‥と思うのですが、どういうわけだか私は博士なのによくバカだと思われます。たぶん私が本当にバカだからではありません。おそらくは私がキンキン声でしゃべる小柄な女性で、少なくともこの映画を見たときはまだ若手研究者で、ヒラヒラした赤とかピンクの服を着ていたからです。
『キューティ・ブロンド』の章でもお話しましたが、現実世界で賢いと思われているのは、だいたい健康で、低い声で、スーツなんかのかっちりした服を着た男性です。若いよりは多少年をとっているほうがよく、多数派の民族に属しているとなお尊敬してもらえます。こういう基準にあてはまらない人は冴えていてもなかなか賢いと思ってもらえません。多少鋭いことを言うと、かえってこいつはおかしいんじゃないかとか、うるさいとか思われて敬遠されます。ハーレイみたいに金髪をツインテールにしてド派手で騒ぐのが好きな若い女性は、どんなに冴えていようと、専門的知識を持っていようと、見た目だけでバカだと思われます。
私も今まで、ハーレイみたいに自分のことをバカ扱いした相手の脚をブチ折ってやりたいと思ったことが何度もありました(もちろん実際にはやりません)。たとえ博士号を持っていたり、腕利きの犯罪者だったり、料理人や宮大工だったりはしなかったとしても、皆さんもハーレイみたいに見た目だけでバカだと思われることがあるかもしれません。この映画は一見メチャクチャで共感できなそうな暴力ヒロインのハーレイを通して、こういう女性のあるあるを全部明快にはね返していく映画です。失恋もバカ呼ばわりも、人生のいろんなつらいことをブチ折って乗り越えていけるんだ‥‥‥という希望をくれる作品なのです。
(P124〜125)
いかにも「活字を読まない人向け」の内容なのだが、それにしても、ここまで臆面も無く「私は博士なのよ」などと自分から「肩書き」アピールしたり、「それなのに馬鹿にされてきた」などと「被害者」アピールができるというのは、確かに「武蔵大学で教授が務まる程度」には知的だとしても、やはり人格的に「障害がある」と考えるべきなのかも知れない。
ハンナ・アーレントの時と同じで、まるで「私って、ハーレイみたいなものなのよ」と言わんばかりの、恥も外聞もない自己アピールぶりは、やはり、まともな人にはない「ある種の才能」なのであろう。
そんなわけで、このレビュー2本を見ていただいただけで、本書がいかに「読むに値しない、子供騙しの本」なのかが、活字の本を読み慣れた人には、容易にご理解いただけると思う。
こんな本だからこそ、間違って本書を読んでしまった人の多くは、わざわざレビューを投稿するまでもない「クズ本」として、そのまま古本屋にでも売ったのであろう。一一だから私も、刊行の1ヶ月後には、本書を入手することも出来たのである。ありがたいことだ。
なお、先日レビューを書いた、佐藤亜紀の「小説論」書である『小説のストラテジー』には、北村紗衣のこととしか思えないようなことが書かれていた。
ひとつ目は、北村紗衣とは真逆の「俗に媚びない高踏派」である佐藤亜紀らしい、佐藤自身の言葉である。
小説家・笙野頼子の作品『水晶内制度』を論じた章から引用する。
『 ですから、笙野氏をあるマイノリティ(※ 女性)に属する作家、マイノリティなるが故の問題を扱う(※ 女性)作家として論じることは、ここではしませんし、笙野氏の作品を例に、マイノリティを拒否し(※ 黙殺し)てきたかに見える(※ 男性中心であった)文学の正典のあり方に疑問を呈する気もありません。正典のリストに(※ 性差別的な)歪みがあることは認めないでもありませんが、だからといって正典に属する(※ 男性作家の)作品の価値を正面から検討することなく否定したり、正典から除外された作品ジャンルを無批判に持ち上げたりしても、正典の外側にゲット一 ーー正典を支える側からは一顧だにされないゲットーを作るだけであって、正典の何をも揺るがすことにはなりません。(※ 例えば)『テンペスト』を植民地主義の産物と批判したところで、(※ その作者である)シェイクスピアの作品を正典ならしめてきた作品の価値には髪の毛一筋ほどの傷も付かないことは、既に申し上げました。シェイクスピアの恐るべきところは、当時のヨーロッパ人相応の差別的な意識から彼もまた逃れていなかったにも拘らず、『ヴェニスの商人』のシャイロックや『テンペスト』のキャリバンを、今日的な視点からも有効な解釈が可能な人物として登場させることができた一一因果な物書き根性(※ 自分の日頃の思想をも超えてしまう作家根性)を十全に発揮した揚句、(※ そうした人物を)登場させざるを得なかったことであり、(※ 私たち読者が、それらの優れた)作品に潜む反ユダヤ主義や白豚根性をどれほど論ったところで、読み手の読解の狭さに対する疑問を浮かび上がらせるだけなのは目に見えています(その種の批判者で、一読者としての私を納得させるだけの読解を展開した例は皆無です)。正典を支えてきた無数の鑑賞者の評価の積み重ねは、異議申し立てのシュプレヒュールだけで否定し去れるほど脆弱なものではありません。それはあらゆる前衛と異文化を呑み込み、異議申し立てと批判を肥やしにして、膨れ上がり変貌してきた怪物です(でなければ我々は未だに、ストラヴィンスキーどころかワーグナーさえ受け入れることができずにいるでしょう)。正典から排除されたマイノリティの作品を、マイノリティの作品であるというだけの理由でこれ見よがしに持ち上げたところで、正典に対する何の働き掛けにもなりません一一だって屑じゃん、で終りですから。必要なのは、正当に評価されるべき作品に内在する、正当に評価されるべき根拠を示し、リストの書き換えを迫ることです。
(中略)
読むに値する作品の中で機能する重要な要素であることによってのみ、マイノリティの特殊な問題は普遍的な問題になるのです。
特殊である限り、問題はまるで問題にはされません。普遍的な問題だけが問題なので、特殊性に胡座をかいている限りは何の問題提起もできません。ひどく迂遠な言い方をしてきましたが、どんな種類であれマイノリティとされる側から何かを書こうとしておられる方には、すでによくお判りだと思います。何の問題提起もなくとも優れた表現は可能ですが、優れた表現なしの問題提起に有効性はありません。訴えかけたい問題を抱えているなら一層、表現として抜きんでていなくてはなりません」作品のためにも、問題提起のためにも。』
(佐藤亜紀『小説のストラテジー』P212〜214)
佐藤亜紀の作品評価の立場は、
『優れた表現なしの問題提起に有効性はありません。訴えかけたい問題を抱えているなら一層、表現として抜きんでていなくてはなりません」作品のためにも、問題提起のためにも。』
という言葉に明らかなように、北村紗衣とは、まるで真逆である。
したがって、北村紗衣への佐藤亜紀の評価も、当然、次のようになるわけだ。
『作品に潜む反ユダヤ主義や白豚根性(※ や、男性作家特有の、女性蔑視やミソジニーだけを)をどれほど論ったところで、読み手の読解の狭さに対する疑問を浮かび上がらせるだけなのは目に見えています(その種の批判者で、一読者としての私を納得させるだけの読解を展開した例は皆無です)。』
なるほど、そうだろう。
佐藤亜紀は「俗に媚びるのを峻拒する高踏派」なのに対して、北村紗衣の場合は「騙してでも俗に媚びる打算派」なのだから、そんな不純で劣悪な文章など、佐藤亜紀でなくても、読める人ならば、嫌悪し唾棄するほかないのである。
あと二つ紹介したいのは、佐藤亜紀が上で肯定的に論じている、笙野頼子の小説『水晶内制度』の本文引用部分(笙野頼子の小説文)である。
『水晶内制度』の主人公である、女性小説家の独白だ。
『 こんな危険ななんだか判らない国(※ 女性国家ウラミズモ)に、(※ 私は)本当に希望して来たのだろうか。混乱した状態で気が付けば私は、ここにいるのだ。しかも気が付けばぬくぬくと住んでいるのである。明日いきなり官憲が来て殺され、カイボウされてしまうかもしれないのに。知らない国なのに、今日ちやほやされて。でも、今のところ一ー。』
(佐藤書P225・笙野書P54)
『一一(※ 古代日本の女系国家の指導者である)彼女が一時作り上げて版図だけを(※ 実際よりも)大きくし(※ 描き変え)、そして結局は父系の出雲を手先とした天孫系の国にその代で滅ぼされるしかなかった弱く正しい(※ 女系)国、それが(※ 現在の女性国家)ウラミズモの原型である。この(※ 祖型となった女性の)国を取り戻すと言う(※ 安倍晋三的な)大義名分によって、現代のウラミズモのあらゆるきったない行為は許され(※ 正当化され)るのだった。またこの国を完全に取り戻した時、(※ 初めて)そのようなきったない行為はしなくてもよくなり、一一。』
(佐藤書P226・笙野書P149)
ウラミズモは、男性中心国家「日本」に反旗を翻して建国された、女性のための国家である(ようだ)。
そして、語り手の女性作家もフェミニストであったから、ウラミズモに招かれ、国賓級の扱いを受けながら、日本の『日本書紀』や『古事記』に対抗するような、ウラミズモのための「建国神話」を執筆する仕事を託される。
それを書いてくれる、ありがたい小説家として招かれたのだ。

だが、その女性作家にとっては「ウラミズモのものであろうと、建国神話なんてでっち上げじゃん。そんなインチキなものを私に書けというの?」という気持ちが、正直なところある。
ところが、実際ウラミズモに来てみると、ウラミズモの支配者である女性たちは、口では綺麗事ばかり並べているのに、その裏では何でもありの汚い手を平気で使っているという現実を見てしまう。
だから、自分が「インチキの建国神話なんて書けません」なんて言って、託された仕事を放り出しりしたら、今の恵まれた生活と「大先生待遇」を失って、ウラミズモから放り出されてしまう、というだけでは済まず、口封じのために抹殺されてしまうかも知れないと、そう彼女は恐れているのだ。
で、私はこれを読んで「まるで、オープンレター組のことであり、現代フェミニズム研究会のことだな」と、そう思ったのである。
「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に賛同署名をした千数百人の中には、今となっては、署名したことを後悔している人も少なくないはずだ。
なのに「あれに参加したことは間違いだった」と、正直な反省の弁を、公にする人が出てこないのは、それは「北村紗衣を中心としたオープンレターの発起人グループ」に気をつかっているからに他ならない。
「そんなこと言ったら、今度は私が裏切り者の差別主義者として攻撃されるかも知れない」と怖れるからこそ、皆ダンマリを決め込んでいるのであろう。
そしてこれは、オープンレター発起人組が中心となって今年(2025年)新たに設立された「現代フェミニズム研究会」に参加した、フェミニズム研究者(特に、なお売りたい若手研究者)たちも同じことであろう。
誘われたのでうっかり入会したのだが、後でどうも入会したのは失敗だったと気づいても、裏切り者呼ばわりされるのが怖くて、「足抜け」ができないでいる(非中心)メンバーがいることだろう、ということだ。
「理想」を掲げた運動というものは、それがしばしば政治運動化する中で、「結果重視。理念は二の次」となってしまいがちなのは、歴史の証明するところである。
収容所国家として恐れられたソ連共産党国家だって、最初は国王独裁国家に反旗を翻した、庶民のための革命運動だったのだが、権力を握って政治を動かし始めると、表もあれば裏もあるものへと、変貌頽落していったのである。
これは、「フェミニズムの美旗」を掲げる集団にだって、当然あり得ることであり、それをフェミニストである笙野頼子は、その作品の中で書いていたのであり、不幸にもその言葉は、予言として的中してしまう。
のちに笙野は、作家デビュー以来の付き合いであった『群像』誌を、オープンレター組のフェミニストなどと差し替えられるかたちで、追われることになったのだ。
ま、そんなわけで、佐藤亜紀が好きであろうと嫌いであろうと、佐藤亜紀の言っていることは、まったく正しい。
私は、佐藤亜紀ほどの「高踏派」ではないから「文章は下手でも、社会的意義のある小説なら、あっていいんじゃないの」とは思うのだけれど、少し気を緩めたら、カビがゴキブリみたいな輩が蔓延ってしまうというのもまた事実であり、ヤマタヒフミ氏がボヤくのも故あることなのだ。
そんなわけで、本書『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』は、まさしく『女の子が死にたくなるガールズ洋画100選』なのだ。
こんなものを真に受けていると、ウラミズモのような世界になって「北村紗衣を信じた私が馬鹿だった」と、死にたくなるだろうということである。
普通の女性は、笙野頼子や佐藤亜紀のようには、独りでは闘えないからである。
(2025年10月18日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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