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デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義 その歴史的展開と現在』 : 新自由主義者・北村紗衣とその周辺

書評:デヴィッド・ハーヴェイ新自由主義 その歴史的展開と現在』(作品社/2007年刊)

「自由主義者」であることについては自負がある。とにかく他人に干渉されるのは好きではない。だから、グループ行動だの、みんなで盛り上がるだのが、好きではないのだ。
そして、そんな私が「note」を使っていて「煩い」と感じるのは、例えば、やたら「有料記事」を書けと奨めてくる点である。

そりゃあ「有料記事」を書いてもらった方が、「note」としても何かとありがたいのだろうが、私にその気は無い。その気は無いのに、奨められるから「煩い」と感じる。

では何故、私は「有料記事」を書かないのかと言えば、「好きなことで金儲けをしようとすると、自由が制限されて、楽しみが楽しみでなくなってしまいがち」だと考えるからだ。一一つまり、つい「俗ウケを狙って」しまい、「本音」をそのまま書くことを控えてしまいがちになって、そのぶん自由ではなくなるからである。いくらカネをもらっても、私は「太鼓持ち(幇間)」になど、なりたくはないのだ。

特別な才能のある文筆家ならともかく、私を含め、大した才能もない凡人が「俗ウケ」を狙ったりすると、だいたい「つまらないもの」しか書けなくなる。

持てるものすべて注ぎ込んでも、なかなか非凡なものは書けないというのに「小金欲しさ」に妥協なんかしたら、その人ならではの面白さなど、出せるわけがない。
だから、特別な才能を持たない私としては、目先の「はした金」に惑わされることなく、「アマチュアの強み」である「自由」を、最大限に発揮しようとやってきたのだ。

(アマチュアにはアマチュアの戦い方がある)

そんなわけで、いまさら「有料記事」を書けなどと言われても「その手に乗るものか」としか思わない。

「俺が、ケチなカネで動ずるような人間だと思うなよ」

ということである。

だが、こういう「古風」な考え方を持っている人は、今やそれほど多くはないだろう。
それでなくても「新自由主義」経済の進展経済格差が広がって、金のない人が増えているのだから、小金だって「もらえるものなら、もらいたい」と考えるのは、ごく自然なことだろう。たとえそれで、自分の「自由」を売り渡したとしてもだ。

まあ、実際のところ、アマチュアの大半はその自覚すらない人が大半なんだろうが、たとえばプロのライターなんかになると、そうした自覚も自ずと醸成されざるを得ない。
なぜなら、端的にいって「書きたいことが書けない」「面白いとも思えないものを、面白いと思っているかの如く書かなければならない」といった「苦役」を強いられるからである。

しかしまあそれも「仕事」だと思えば仕方がない、ということになる。要は「嘘をつくのも給料のうち」だということなのだが、そうなると、その人は自分自身の良心を切り売りすることで対価を得ることになるし、それはその人の良心を徐々に切り崩すことにもなるだろう。
「誰も、お前の意見なんて求めてはいない」「誰も、お前の正直な評価なんか期待していない」と言われているも同然なのだし、そうした自身に対する否定的な評価に「お説ごもっともです」と頭を下げ、その屈辱に堪えることで、対価を得るのだから。

例えば、弁当箱工場のライン工員なら、好きで弁当箱を作っているわけではないから、その面白みのかけらもない単純作業に堪えるのも「給料のうち」だと我慢もできよう。
だが、もともと文章を書くのが好きで「書きたいことのある人」が、「お前の意見なんて無価値だ。いいから、お前は黙って、この商品を褒める文章を書け。書けないというのなら、辞めてもらって結構。お前のような無個性なライターの代わりなど掃いて捨てるほどいるし、そのうち生成AIに任せることにもなるだろう」と言われたら、どうだろうか?

それでも、プライドを捨ててまで「はした金」と「肩書き」を固執するのだろうか?
そうではなく、そんな仕事は辞めて、自分の書きたいことを書く道を選ぶだろうか?

だが、資本主義の世の中では、書きたいことを書いているだけで「食える」人は、ほとんどいない。それをするためには「特別に商品価値のある才能」が必要。それが無ければ「好きなことを書いて、それで食っていく」などということは、まず不可能だ。

だから、「好きなことを書きたい人」は、書くこととは別に「食い扶持を稼ぐための手段」を持っていなければならない。
好きなことを好きなように(自由に)「書くことで食っていく」というような「専業文筆家」には、普通はなれない、ということだ。

したがって、文章を書きたい人は、ここで選択が迫られる。
別の「食い扶持を稼ぐための手段」を確保し、その上で「好きなことを書く」という道を選ぶか、とにかく「専業文筆家」であることにこだわって、「書くものの中身において妥協する」かの、いずれかである。

で、「note」などで「有料記事」を書いている「アマチュア」というのは、この中間形態だと言えるだろう。
それで「食える」わけではないのだけれど、多少なりとも「カネ」が入ってくるのなら、それこそ多少なりとも生活の助けになるし、何より「文筆家気分」が味わえる。だから、たとえそれが細やかな収入であっても、有料記事を書くことで、ある種の満足感も得られるのである。

だが、なぜそれで「満足感」が得られるのかと言えば、それは「対価」によって、自分の文章が、あるいは自分自身の価値が、目に見えるかたちで「客観的に示された」と思える(承認欲求を満たせる)からであろう。
そしてそれは、ついこないだまでは「いいね(スキ)数」や「フォロワー数」であったものが、「対価」というものに、より具体化されたということなのではないだろうか。
では、この進化が何によるものかといえば、それはたぶん「新自由主義(ネオリベラリズム)」的な価値観の徹底ではないかと、私はそう考えるのだ。

例えば、「自分の子供の面倒をみる(育てる)」というのは、本来であれば「親」がなすべきこと(ケア労働)なのだが、「新自由主義」の進展によって、それさえ「外部」化され、切り離されて「商品」になった。
今や、金を払って子供を赤の他人に面倒を見てもらい、それで両親が働くという生活形態は、当たり前のものになった。

「新自由主義」においては、男性の労働力だけではなく、「より安価な女性労働力」を動員するために、「女性の家事からの解放」だとか「女性の社会的な自己実現」だとかいった「美辞麗句」が活用される。
そうした「美辞麗句」によってウカウカと乗せられた女性たちは、進んで「職業人」となるのだが、それを受け入れる社会の方は、決して「男女平等」など実現してはいないから、「安価な労働力」として利用されることになるのだ。
また、女性が家庭を離れて「夫婦共働き」が当たり前になれば、誰かが子供たちの面倒を見なければならないのだから、そこにビジネスチャンスも生まれ、そこへ「安価な女性の労働力」が当てられるということになる。そして、それで誰が儲けることになるのかは、もはや明らかであろう。

このように、「新自由主義」は、「自由」という言葉を錦の御旗にして、人々からその労働力を安価に吸い上げようとする。
フレキシブルな労働」と言えば聞こえは良いが、要は、どうとでも便利に使える労働力ということでしかないのだが、労働者として「自由」になった人たちは、実際には「奴隷労働」を強いられるだけであって、少しも豊かにはならない。そして、そうした労働によって生み出された「利益」は、すべて資本家たちに吸い上げられるからこそ、経済的ニ極分化が進んだのである。
つまり、「自由」になるはずが、実際には「新奴隷」になっただけなのだ。「二馬力で悠々自適」のはずが「二馬力でないと子育てもできない」ということになってしまったのである。

「新自由主義」の掲げる「大義名分」とは、「国家」による規制を極力排して「企業による自由な経済活動」に任せることこそが、最も効率的に「利益」を生み出し、そこで生み出された利益は、やがて、水が滴るように「下層」にも広がってゆき、最終的には「皆が豊かになれる」というものだった。

しかし実際には、この「トリクルダウン(滴り落ち)」が起きなかったからこそ、経済的ニ極分化が進んだのだから、私たちは、「新自由主義」の標榜した「建前的きれいごと」をして、資本家や政治家たちに「騙された」と言って良いだろう。
儲かったからといって、それが「下層」にまで再配分されるという保証などまったくないのに、私たちはおめでたくも、そんな「きれいごと」を真に受けて、体の良い「奴隷化」制度を受け入れてしまったのである。

しかしながら、「新自由主義」化によって、資本家以外の誰もが、例外なく奴隷化されたのであれば、さすがに、それに騙される人もそう多くはなかったかもしれない。
だが、「経済の自由化」という「個人主義(という名の、排他主義)」によって、少数ながら現に「成り上がった人」もいて、彼(女)らが「自由は素晴らしい。努力と能力次第で、成功が掴めるのだから」と自らの成功を喧伝して、「その他の人たち」までもが皆、そうなれるかのような「幻想」を振り撒いたからこそ、多くの人たちは、そういう限られた「成り上がり」たちを「ロールモデル」にして、自分もそうなりたい、「頑張ればなれるはずだ」などという「甘い夢」を見せられた挙句、体よく「搾取され、使い捨てられる」ことになったのである。

例えば、私が批判している「武蔵大学の教授」で、自称「フェミニスト」である北村紗衣なども、この「新自由主義」における「成り上がり(リーン・イン)」モデルの一人であろう。
なにしろ北村紗衣Twitter(現「X」)のフォロワー5万人」だというのだから、かつて北村自身が「望んだ」ように、北村は見事セレブリティ・フェミニスト」となりおおせ、そうではない人たちの「ロールモデル」になったというのは、間違いのない事実なのだ。

最後に

 異例ではあるが、著者(※ 北村紗衣)がこの論考を書くにあたって感じた強烈な居心地の悪さについて記して本論考を終わりたい。著者は二〇一九年にウェブ連載をまとめた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』というフェミニスト批評エッセイ集を刊行している他、Wikipediaジェンダーバイアスを減らす活動に取り組んでおり、さらに@Cristotorouというアカウント名でTwitterもやっている。つまり、オンラインでの活動が多いフェミニストである。
 連載を始め、まとめて刊行したあたりから、イベントをするたびに女性読者から楽しかったという感想を頂いたり、またTwitter 等で女性と思われるユーザからさまざまな質問を受けたりするなど、ある種の「ファン」として記述できそうな読者が現れるようになった。著者が「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解したのは、この過程を通してだ。著者はあまり有名ではない研究者であり、田嶋陽子グロリア・スタイネムのようなセレブリティではない。そんな人間でもファンになってくれる読者がいるほど、日本の女性はロールモデルにできそうなセレブリティフェミニストを必要としているようなのだ。著者は知らないうちに第四波フェミニズム的な風潮の真っ只中に投げ込まれていた。
 客観的な記述を心がけないといけない研究者としては、これはあまり好ましくない事態である。本論考はできるかぎり先行研究のレビューや事実の指摘にとどめたが、著者が自分でも認識していないうちに大きな第四波のうねりの中に巻き込まれていたということは書いておきたい。波を数えているうちに、波の中に入ってしまっていたのである。この論考は、波の中から書かれている。』

『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』所収、北村紗衣「波を読む――第四波フェミニズムと大衆文化」より/ゴシックは引用者)

しかし誰も、北村紗衣のフォロワー「5万人」の大半が「セレブリティ」だとは思わないだろうし、また、北村紗衣と同様の「学識者」だとも思わないだろう。
所詮、フォロワーの大半は、お布施を搾り取られながら「アイドル(偶像)」を崇拝する「貧しき信者」だというのは、見えやすい構図であり事実である。

例えば、その証拠としては、私は次のように言い切った。

「北村紗衣の著作を褒めるようなファンは、基本的に文章の読めない、盲信者にすぎない。その証拠に、北村紗衣の著作は、それなりに売れているにも関わらず、まともな論評が書かれることがない。なぜなら、5万人いても、文盲は文盲でしかなく、まれに多少は読める書評などがあっても、それは心にもないお世辞を書く、三流ライターのものでしかない」

このように、露骨に「挑発的」なことを、もう半年ちかく前に書いたのだが、その後、やはり私の睨んだとおりに、北村紗衣の著作についての、読むに値する「肯定的評論文」などは、1本も出てこなかった。

読むに値する評論文とは、「批判論文」ばかりであり、肯定的なものといえば、「X」(※ 旧Twitter)の短文で「面白かった」などと書くのが関の山の、幼稚なものばかりだったのである。

つまり、ここでもわかるのは、資本主義における「魅惑的な宣伝」によって目の眩まされた大衆は、新自由主義の広告塔」の言うことを真に受けて、わざわざ自ら進んで「奴隷化」されていく、ということである。
彼らは孤独に自立した「一者」であるよりも、「奴隷の安寧」を欲するものなのだ。

自称「フェミニスト」である北村紗衣の、薄っぺらい「男性批判」が「フェミニズム」だと思い込むような、およそ活字に無縁な人たちは、北村紗衣が「男性たち」を批判してくれることで溜飲を下げると同時に、それで「女性の権利」が獲得されるものだという「幻想」を抱かされてしまう。
たしかに、そんな「紋切り型の男性批判」であっても、「数あつまれば」一定の効果を上げるだろうが、しかしそれで「男性社会」の基本構造が揺らぐわけではない。

なぜなら、北村紗衣による「紋切り型の男性批判」によって、女性になり替わられてしまう男性とは、所詮、女性たちと同じ「下層」の人間に過ぎないからだ。
「下層」の者どおしで、ケチな椅子の取り合いをしているだけなのだから、資本家階級の支配的な男たちの立場が揺らぐわけではない。
そうした支配男性たちは、せいぜい自分たちに従順な「女奴隷」に形式的に地位を与えて、まるで社会が「公平化」しているかのような幻想を振り撒き、アリバイ工作をするだけなのだ。

北村紗衣が口にするような低レベルな「男性批判」で、この男性中心社会の屋台骨が揺らぐと思うのは、そもそも、社会的なスケールで物事を考えることのできない人たちだけなのである。

なぜ、黒人フェミニストであるベル・フックスは、次のように書いたのか?

『スーキー・スタンプラーは著書『ウーマンリブ 将来の青写真』(1970年)の導入部分で、(※ 男性を批判することで、一気に世界が変えられるとする)そうした急進的な精神をこう表現している。

〈(※ フェミニズムの)女性運動家は、有名人やスーパースターをつくりあげようとするマスメディアのために、いつもわき道に脱線させられてきた。これはわたしたち(※ フェミニスト)の基本理念に反することである。私たちは、名誉や名声を鼻にかけるような女性たちと関係を結ぶことなどできない。わたしたちは、特定の女性の利益や特定の女性集団のために闘っているわけではない。わたしたちは、すべての女性にかかわる問題に取り組んでいるのである。〉

ブルジョワ的イデオロギー(※ 見出し)
 運動の初期、こうした意見は多くのフェミニストによって支持されていた。しかし、それは長続きしなかった。フェミニズムの文章を書いたり、あるいは労働における平等を要求するフェミニズム運動によって利益を得たりして、名誉や名声や金を手に入れる女性が多くなるにつれて、自分勝手な日和見主義が横行し、集団闘争の訴えの土台は(※ こうした、堕落したフェミニストによって掘り)崩されていった。そして、社会、資本主義、階級差別、そして人種差別に反対する気もない女性たちが、自らを「フェミニスト」と称した。』

『ベル・フックスの「フェミニズム理論」 周辺から中心へ』より)

つまり、ベル・フックスに言わせれば、北村紗衣などは「フェミニスト」ではなく、まさしく「自称フェミニスト」でしかない「フェミニズムの敵」なのだ。
「自分が成り上がるために、新自由主義的な個人主義を肯定して、大半の女性を含めた、その他のすべての人を、資本家階級のための犠牲の祭壇に捧げること」を拒もうともしない、要は自分さえ良ければそれでいい「個人主義者」であり、その意味での「自由主義者」でしかないのである。

○ ○ ○

私が本書『新自由主義 その歴史的展開と現在』を読んだのは、著者デヴィッド・ハーヴェイが、フェミニスト菊池夏野の著書『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店)の中で、アメリカの女性哲学者ナンシー・フレイザーとともに、「肯定的」の紹介されていたからだ。

菊池は、ナンシー・フレイザーデヴィッド・ハーヴェイからの強い影響を受けて、自らのフェミニズムを構築したという趣旨のことを書いていたのである。
そしてその菊池夏野は、今どきのフェミニストには珍しく、「従軍慰安婦問題」という難題にも粘り強く取り組んでいる、奇特な人だったのだ。

私は北村紗衣のフェミニズムの偽善」を、いつも次のように具体的に批判している。

北村紗衣は、フェミニストとして、女性差別反対を声高に唱える。しかし、女性差別が許されないものとするその大前提となるのは、いかなる差別も許されないものであるという認識だ。差別が許されないことだからこそ、女性差別も許されない。逆に、差別が許されるのなら、女性差別を否定する根拠は無くなってしまうである。したがって、北村紗衣が、差別を許されざる誤りだと考え、それに反対するのなら、女性差別だけではなく、当然、あらゆる差別に反対しなければならない。
例えば、「部落差別(同和問題)」「在日朝鮮人差別」「従軍慰安婦問題」「沖縄への米軍基地の押しつけ問題」など、日本における長年の懸案である様々な差別問題について、直接運動には関われなくても、それに対する反対を唱えることくらいはできるはずだし、したはずだ。一一だが、北村紗衣はそれをしない。なぜか? 
それは、そんなことをしても「ゼニにならない」からだ。それどころか、この「資本主義」社会の力関係そのものを批判することになって、損をするからである。北村紗衣は、その資本主義社会の中の「上位1%」の側にこそ与していたいのだ。
言い換えれば、北村紗衣における反女性差別としてのフェミニズムとは、実のところ、差別への反対が目的なのではない。反女性差別やフェミニズムとは、結局のところ、世間ウケの良い、流行りの商売道具でしかない。
実際のところ、北村紗衣は(ベル・フックスなども指摘するとおりで)自党派(女性)全体の利益すら考えてはいない、エリート主義のリーン・イン・フェミニストでしかないのである。

(「リーン・イン・フェミニスト」の代表的人物、シェリル・サンドバーグ

この点について、本書『新自由主義』の著者デイヴィッド・ハーヴェイは、こんなふうに書いている。

『個人の自由を根源的なものとして重視する新自由主義のレトリックは、国家権力の獲得による社会的公正(※ 階級差別の解消という変革)を追求する社会勢力の隊列の中から、リバタリアニズム(自由至上主義)アイデンティティ・ポリテイクス多文化主義、さらにはナルシスト的な消費主義を分裂させる力をもつ。たとえば、(※ このような)運動の政治的担い手たちは、個人的自由を希求し、特定のアイデンティティの完全な承認とその表明を求めているが、以前からよく知られているように、そうした願望を妨げることなく(※ 満足させながら)、社会的公正を達成するのに政治行動上必要な集団的規律を確立することは、(※ 自由と規律という相反する要求として)アメリカ左翼の内部では非常に(※ 実現の)難しいことであった。新自由主義そのものはこうした分化(※ 分裂)をつくり出しはしなかったが、それ(※ 連帯を拒絶する運動)をたやすく利用することができたし、場合によっては助長することさえできた。』(P63)

ここで、特に問題となるのはアイデンティティ・ポリティクスである。

要は、「女性優先主義」としての「フェミニスト」は無論、「黒人至上主義者」とか「民族至上主義者」とか言った「アイデンティティ・ポリティクス(アイデンティティ政治)」に明け暮れる人たちは、「自党派」の利益を優先する「自由」に固執するあまり、「新自由主義」的な「個人主義的な自由主義」に取り込まれてしまって、「差異(違い)を乗り越えて協力する」のが困難であるばかりか、結果として「新自由主義」に利することすら珍しくはない、ということだ。

つまり、自党派の「権利主張」に固執するあまり、多種多様に存在する、他の「差別」や「格差」を無視することになって、それがまさに、反資本主義の連帯を嫌う「新自由主義」の、思う壺となってしまっているのである。

そして、そうした「視野の狭い自己中心性」には止まらず、「自党派」どころか、「自分」一個の利益しか考えられなくなって、現状の「階級社会」の中で、自分一人の地位さえ確保できればそれで良しと開き直った者の一例が、「リーン・イン・フェミニスト」であり「セレブリティフェミニスト」である、北村紗衣その人なのだ。

なぜ、「新自由主義」における「貪欲資本主義」が、多くの犠牲者を生み出しながら、それでも広範に支持されてしまうのか?

それは「新自由主義」が、少なくともその「建前」においては、「自由」を標榜し、それを前面に押し立ててみせるからである。

私たちの多くは、「貪欲」には反対しても、「自由」については支持せざるを得ないだろう。一一だがそうなると、いつの間にか、支配階層の、弱者を犠牲にしてでも「貪欲である自由」まで、認めなければならなくなるというのが、新自由主義のレトリック」なのだ。
つまり、

「なぜ、貧しい者に再配分しなければならないのか? 皆が自由に競争した結果の差異ならば、それを受け入れるべきなのではないか。そんな落伍者に脚を引っ張られるからこそ、この社会と経済は停滞するのだから、国家による強制的な富の再配分(課税と福祉)などという、不自由きわまりない国家の介入はやめて、すべてを自由な実力主義の競争に委ねるべきだ。そうすれば、社会と経済は活性化して、富は蓄積されるだろうし、それが回り回って、社会全体が豊かになるはずなのだ」

という理屈なのである。

したがって、「国家権力の介入には反対」だとか「自由であるべき」だなどと言えば、たしかに聞こえが良いし、それ自体に反対する者は(左翼も含めて)少ないだろう。
けれども、「新自由主義」の掲げる「自由」のレトリックとは、「他人を奴隷にする自由」まで含まれているという事実を、決して見落としてはならないのだ。

「自由」とは、決して良いことばかりではないし、少なくとも「正しい自由」とは「野放し」や「何でもあり」ということではない。
そこには、「他者への配慮」という「ささやかな不自由」が、必ず備わっていなければならない。弱者のために必要な「連帯」を実現するためには、それぞれが「他者」を思いやって「譲る」という一定の「不自由」も、絶対に必要なのだ。

こうした「自由」というものの考え方として、ディッド・ハーヴェイは、次のように書いている。

『 ブッシュ大統領は、イラクに対する先制的予防戦争を遂行する上で他のいっさいの理由に(※ 正当な)根拠がないことがわかった時、イラクに自由を与えることだけで戦争は十分に正当化されるという考えに訴えた。イラク人は(※ アメリカのしかけた戦争によって)自由になった、それだけが真に重要なのだと。だが、ここで想定されているような類の「自由」については、ずっと以前に文化批評家のマシュー・アーノルドが思慮深い言葉を残している一一「自由はとても乗り心地のいい馬だが、それに乗ってどこに向かうのかが問題だ」。ならば、イラクの民衆は、武力によって与えられた自由の馬に乗ってどこに向かうことを(※ アメリカの広める新自由主義から)期待されているのだろうか?
 この問いに対するブッシュ政権の回答は、二〇〇三年九月一九日にイラクの連合国暫定当局(CPA)ポール・ブレマー代表が発表した四つの命令の中にはっきりと示されている。そこには以下の諸措置が含まれていた一一「公共企業体の全面的民営化、イラク産業を外国企業が全面的に所有する権利、外国企業の利潤の本国送金を全面的に保護すること〔‥‥‥〕、イラクの銀行を外国の管理下に置くこと、内国民待過を外国企業に開放すること〔‥‥‥〕、ほとんどすべての貿易障壁の撤廃」である。これらの(※ 新自由主義に好都合な)命令は、公共サービス、メディア、製造業、サービス業、交通運輸、金融、建設など経済のすべての領域に適用された。』(P17)

要は、イラク戦争は「イラクに自由を与えるため」というのを大義名分にしてなされたが、その結果としてイラク人に与えられた自由とは「アメリカ企業に自由にされる自由だった」ということである。

だから私たちも、マシュー・アーノルドの、

「自由はとても乗り心地のいい馬だが、それに乗ってどこに向かうのかが問題だ」

という思慮深い言葉を、よくよく噛み締めなくてはならない。

「自由」とは、「誰かの自由」ではあっても、それはしばしば「それ以外の人の不自由」でしかないことも少なくない。
ましてや、もともと「自由」を持たない(剥奪されてきた)人々は、そうした新自由主義的な「自由」の拡大ために、かえって「不自由」を強いられやすい立場にある、ということを忘れてはならない。
この点については、ハーヴェイは次のように書いている。

新自由主義的な堕落を遂げた自由の概念は、カール・ポランニーの指摘によれば、「所得・余暇・安全を高める必要のない(※ それらをすでに十分持っている)人にとっては、自由の充足を意味するが、財産所有者の権力から避難場所を手に入れるために、民主的な権力を利用せんと虚しい試みをするかもしれない(※ 窮乏に瀕しているような)人にとっては、ほんのわずかな自由しか意味」しない。』(P256)

つまり、新自由主義的な「自由」とは、「すでに持てる者」には「享受できる自由」だが、「持たざる者」にとっては「相手にされない(配慮されなくなる)自由」かもしれない、ということである。
自分の「自由」ではなく、相手の「自由」が優先されてしまうという怖れが多分にある、ということなのだ。

例えば、その具体例として、次のような指摘がなされている。

『 司法を利用する権利は、建前の上では平等だということになっているが、実際にはきわめて高額の費用がかかるものとなっている(過失行為に対する個人の訴訟であれ、WTO規則に違反したとしてある国がアメリカを訴える場合であれ。ちなみに後者の場合、一〇〇万ドルにまで費用が跳ね上がるが、これは、貧しい小国の年間国家予算に匹敵する)。そのせいで、司法の下す判決は、しばしば金のある側に有利になるよう偏向したものとなる。司法判断における階級的偏向は、まだ確固たるものになっていなくても、少なくとも広く蔓延している。』(P110)

北村紗衣のことを多少でも知っている人が、この文章を読めば、即座に思い出すのが「北村紗衣による、山内雁琳に対する名誉毀損民事賠償訴訟」であろう。
この文章の「アメリカ」を「北村紗衣」に、「アメリカを訴えることのできない貧しい国」を「山内雁琳」に置き換えてみれば良い。
どうして山内雁琳が、北村紗衣反訴できないのかと言えば、端的にそんな経済的・時間的な余裕など、山内には無いからである。

また、貧乏人には不利なものだからこそ、元「維新の会」松井一郎が、タレントの水道橋博士を提訴して、勝訴することもできたのだ。
「スラップ裁判」というものが現に存在するのは、民事裁判が、そもそも貧乏人には不利にできているからなのである。

この北村紗衣vs山内雁琳」裁判では、原告の北村紗衣側が8人だか9人だかの「大弁護団」で、山内雁琳側のたった一人の弁護士を相手にして、勝訴した。

これはまさに、たった一人の呉座勇一を叩くのに、千数百名の署名を集めた「オープンレター:女性差別的な文化と脱するためにを公開して、ネットリンチにかけたのと、同じパターンだと言えよう。要は、数を頼んでの、問答無用の袋叩きである。

それにしてもなぜ、弁護士の数が「8対1」などという不均衡が可能なのかといえば、それは無論、北村紗衣が「地方新聞社の社主の娘」であるばかりでなく、身分の保証された「大学のテニュア教授」であり、一方の山内雁琳は「一介の大学助教」であったからだ。
この裁判の「高裁判決」(後に確定)において、担当裁判官が「助教助教授の区別もついていない」と方々から批判的に指摘されたのは、身分の安定した「助教授」と、そうではない「助教」では、賠償金の支払い能力においても、雲泥の差があるからである。

つまり、この裁判では、山内雁琳が「裁判費用のためのカンパ」を広く求めたことが「さらに悪質である」と判断されて、賠償金額が類例を見ない200数十万円という高額になったのだが、裁判官は、山内の「支払い能力」に対する理解もなければ、「なぜカンパを求めなければならなかったのか」の理解も無いまま、「裁判費用のカンパを募るなどとは、なんと無反省な」という程度の理解で、北村紗衣側の「山内のカンパ運動は、裁判利用の悪質なビジネスモデルとなるものである」という主張を鵜呑みにして、懲罰的に高額の賠償金支払いを命じたものなのである。

したがって、当該裁判官に、自覚的な「階級的偏向」があったとまでは言わないが、しかし、いかにも身分の保証された階級の人間らしい「世間知らず」において、無自覚な「階級的偏向」があったとは言えるのではないか。

山内雁琳「助教」という「不安定な身分」に対する理解があれば、高額の賠償金支払い判決など出さなかったのではないか、ということだ。

たしかに、山内雁琳の「ツイート」には「下劣なもの」も含まれてはいただろう。
ただ、この裁判で「争点」とされたのは「たった11個の言葉」だという事実からすれば、「それ以外の大半」は、それほどのものでもなかった、ということにもなろう。
北村・山内両者の「やりとり」は、片方が数十程度の発話による、小一時間ほどの短いものなどではなかったのである。

だが、裁判は「北村紗衣vs山内雁琳」の「言い争い」全体について判断したのではなく、あくまでも原告である北村紗衣側が持ち出した、山内雁琳の「11個の言葉」だけについて、その言葉が「名誉毀損に該当するか否か」を判断したものにすぎない。

それを、その点だけにおいて「勝訴」したからといって、さも「北村紗衣には何の非もなく、一方的にすべて山内雁琳が悪かったのだ」とばかりに言い募る、北村紗衣側の弁護団や北村の取り巻きたちの言い草は、端的に言って「部分の事実を、全体の事実」だと言い募る「悪質なプロパガンダ」でしかなく、「正義」に反する言論だと言うべきであろう。

(勝てる方の弁護しかしなければ、『正義は勝つ!!』とは言えるだろう)

北村紗衣の弁護士たちだとて、北村が日頃、どのような「物言い」をしているのか、まんざら知らないわけではないはずだ。
にもかかわらず、北村紗衣が一方的に「可哀想な被害者」であるかの如く「偽る」のは、一種の「ペテン」である。

北村紗衣の言動が、他人の神経をわざわざ逆撫でするようなものだというのは、すでに何度も示したとおりで、私個人も直接体験した、周知の事実である。
私は、北村紗衣による「事実無根の誣告」によって、「note」記事を公開停止にされるという実害を被っているから、そのことだけでも確信を持って「北村紗衣の日頃の言動は、低劣だ」と言えるし、それは北村紗衣が、ネット上から自身の「過去の発言」を次々と削除している事実からも裏付けられる事実なのだ。

(上を、下のように言い換えて「管理者通報」するのが、北村紗衣流)
(かつては、こんな調子だったが、ログの大半は削除されている)

それでも、そんな北村紗衣が「一方的な被害者」だと北村側の弁護士が言い募るのは、司法における「弁護」という役目を超えた、過剰に政治的な行動であり、司法の倫理に反するものだと言えよう。

私が「心の師」として仰いだ作家、故・大西巨人は、次のような言葉を残している。

果たして「勝てば官軍」か。
果たして「政治論争」の決着・勝敗は、
「もと正邪」にかかわるのか、
それとも「もと強弱」にかかわるのか。

私は、私の「運命の賭け」を、
「もと正邪」の側に賭けよう。

(大西巨人「運命の賭け」より)

北村紗衣の弁護団を構成した弁護士たちは、共産党系」だと言われている。
私自身が確認したわけではないが、北村紗衣がそのエッセイで「祖父は戦時中、治安維持法で警察に逮捕された。」と書いているくらいなのだから、そうしたつながりから、「共産党系の弁護士」が北村紗衣の弁護を引き受けても、なんら不思議はない。
それにそもそも、金さえ積まれれば、基本的には、仕事として、弁護を引き受けもしただろう。

しかし、仮にも「反体制」であり、「弱者」の見方であるべき「共産党系の弁護士」が、金持ちの北村紗衣の側につき、まるで「階級的偏向」でもあるかのように、金持ちではない山内雁琳をに敵対するのは、常識的に考えて「おかしい」のではないかと、そう思う人も少なくはないだろう。

だが、事実はそうではない。
なぜなら「共産党」の中にさえ「階級的偏向」は、歴史的に存在するからである。

前記の大西巨人もまた、元は共産党員だったのだが、当時の共産党指導部が示した路線に批判的であったために、一方的に党を除名された人なのだ。
他の除名者に、中野重治がいたことの方は、もっと有名であろう。

もちろん「今の共産党」と「昔の共産党」は違うと、共産党員ならそう言うのだろう。
だが、政治的イデオロギーの如何にかかわらず、そもそも人というものの大半は「階級的偏向」を持っており「長いものには巻かれ」るし「よらば大樹の陰」ということにもなりがちなのだ。
それは、政治的イデオロギーの如何にかかわらず、SF作家のシオドア・スタージョンが、次のように言うとおりだからである。

『SF小説の9割はクズである。だが、あらゆるものの9割もクズである。』

だからこそ、「賊軍が勝つ」ことなど、いくらでもあるのだ。
それは、歴史が証明している事実なのである。

だが、それでも自分の「運命の賭け」を「もと(より)正邪(を問う立場)の側」に賭け得るかどうかが、一人ひとりの「良心」に問われているのである。


(2025年4月20日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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