金原ひとみ 『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』 : 長岡友梨奈と北村紗衣の違い
書評:金原ひとみ『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』(文藝春秋)
「フェミニズム」や「キャンセルカルチャー」に少しでも興味がある人はもちろん、漠然とではあれ、今の世の中が「生きにくい」と感じている人なら、絶対に読むべき傑作である。
宣伝文句的に言えば、「10年に1作」の作品だと、そう言っても過言ではないだろう。

本作は、芥川龍之介の短編「藪の中」からタイトルを採った作品である。
だが、芥川の「藪の中」との決定的な違いは、芥川のそれは、多視点としてのそれぞれの語り手による「目に見える事実」それ自体が異なっているのだが、本作の場合は、「事実」自体に変わりはない。
本作の場合は、同じ「事実」に対する「解釈」が、決定的に違うのである。
喩えて言うなら、本作に描かれるのは、「ありふれた殴り合いの喧嘩」における「どちらが先に手を出した」といった「事実」認定の問題ではなく、「先生が私を殴った」のは「愛からなのか、憎いからだったのか?」といった「解釈」の問題なのだ。
前者の「どっちが先に手を出した」という話なら、物理的事実は一つなのだから、例えば監視カメラの映像なんかが出てくれば、こっちが先だよねという話になる(決定可能)。
ところが後者の「先生が私を殴った、その意図は何だったのか?」という話になると、その「意味」を客観的に確定するのは、原理的に不可能となる(決定不可能)。
そもそも、「当事者個人」の中でさえ、その「意図」に関する「解釈」が、時間的に変わることさえあるのだ。
「あの時は、あいつのためだと思って殴ったつもりだったけど、やっぱりあの時の私は、あいつに腹を立てていたから殴ったんだろうな」
とか、殴られた方から言えば、
「先生に殴られた時は、なんでって思って、ただ腹が立つだけだったけど、大人になった今から思えば、あの時の先生は、私のことを心から心配してくれてたから、クビを賭けてでも私を殴って止めてくれたんだ。今の私が自分の子を、時には必要だと考えて殴るように」
とかいったことだ。
無論ここで「そもそも、殴った(手を出した)段階でアウトでしょ」的な感想や意見は、「論外」である。
だが、意外に、そのレベルの的外れで思考停止し、それに安住して、頭の悪い「正義」を振りかざす人も少なくないから、今の世の中は、こんなことになってしまっているのではないだろうか。
要は、いちばん楽な「無責任な立場」を選んで、そこに憑依するかたちで自分を「判定者」の高みに置き、それで気持ちよく満足してしまう。
しかし、それが出来るのは、あくまでも「頭の中」だけであって、現実の生活の中では、そんな「特権的な立場」になど、めったに立てはしない。
だからこそ、他人の目(判定)を怖れて、無難に生きることしかできない。
また、そんな自身の、臆病な保身に負い目を感じるからこそ、ネット上での匿名であったりすると、大して知りもしないことについてさえ、知ったかぶりで「判定者」を演じてしまったりするのではないだろうか。
例えば、フェミニズム書の3、4冊も読んでいないのに、聞き齧りだけで「ミソジニー」だの「家父長制」だのといった言葉を使ったりして、他者の行為を判定批判するといった、ありがちなことだ。
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『性加害の告発が開けたパンドラの箱――
MeToo運動、マッチングアプリ、SNS……世界の急激な変化の中で溺れもがく人間たち。対立の果てに救いは訪れるのか?
「わかりあえないこと」のその先を描く、日本文学の最高到達点。
「変わりゆく世界を、共にサバイブしよう。」――金原ひとみ
文芸誌「叢雲(むらくも)」元編集長の木戸悠介、その息子で高校生の越山恵斗、編集部員の五松、五松が担当する小説家の長岡友梨奈、その恋人、別居中の夫、引きこもりの娘。ある女性がかつて木戸から性的搾取をされていたとネットで告発したことをきっかけに、加害者、被害者、その家族や周囲の日常が絡みあい、うねり、予想もつかないクライマックスへ――。
性、権力、暴力、愛が渦巻く現代社会を描ききる圧巻の1000枚。
『蛇にピアス』から22年、金原ひとみの集大成にして最高傑作! 』
(Amazonの本書紹介ページより)
本作『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』は、文芸誌の元編集長・木戸悠介が、昔、自分の担当した元作家志望の女性・横山美津から、ネット上で「性加害」を告発されるところから幕を開く。
これに、同じく、かつて木戸が担当した女性作家・長岡友梨奈、木戸の部下だった中堅編集者の五松武夫、現在は夫と別居中の友梨奈の現在の恋人・横山一哉、友梨奈の実の娘・安住伽耶、木戸の離婚した最初の妻との間の息子で高校生の越山恵斗らが絡み、それぞれの視点で、それぞれの思いが語られていく。
つまり各章は、それぞれの一人称視点で、その人物の「主観」が語られるのだが、別の章では、その人物が「他者の視点」から語られることになる。
当然、そこには「主観」と「客観(他者の視点)」の食い違いが生じるのだが、問題は、どちらの評価が正しいとは、「決定不可能」な点である。
言うまでもなく、「主観」はあくまでも「主観」でしかなく、その自己評価は「自己保存本能」故の「手前味噌」に毒されており、いかに誠実に「客観的であろう」としても、それには限界がある。
「自己客観視」もまた、所詮は「主観」の内でしか、行い得ないのだ。
しかしまた、だからと言って、他人による「客観的な評価」が、その人物を正しく捉えているのかと言えば、無論、そうとは言いきれない。
「他人の視点」は、必然的に「観察対象の一部」しか捉えることができない。観察対象の「一部」を切り取っての(断片的な)判断でしかあり得ないのだ。
しかも、そうした「視覚」の限定性は無論のこと、対象の「切り取り方」というのも、多分に恣意的なものでしかなく、しばしばその人の「趣味嗜好」や「思想」や「経験」などなどに毒された「偏頗な立場」からのものでしかあり得ない。
つまり、「客観的な第三者」として見ているつもりでも、観察者というのは、決して宙に浮いたような「中立的な存在」などではなく、何らかの立場に依拠しており、その意味では、決して客観的ではあり得ない。したがって、一種の「主観的評価」でしかあり得ないのだ。
しかし、だからといって、本作を読んで「人それぞれな立場があって、客観的な立場なんてあり得ないんだよね」では、済まされない。
なぜなら、「客観的な立場など無い」という立場もまた「主観的に選択された、主観的な立場」でしかないからである。
したがって、結局のところ人間は、「主観的でしかあり得ない存在」でありながら、しかし、その事実(現実)に向き合いつつ、物事(現実)を、より適切に判断して、自身の「態度決定」をするしかない、しないわけにはいかない。
「私は、あの立場もこの立場も理解した上で、それでもこの立場を選んだのです」と言ったところで、それで自分の立場が「免責」されるわけでも「特権化」されるわけでもなく、やはり、自身の「立場選択の責任」を引き受けなくてはならないのだ。
言い換えれば、本作を読んで「私は、あの立場もこの立場も理解した」つもりになっただけでは、ダメなのだ。
それは、自分が本書を読み、いろんな立場を知ることで「客観的な立場=特権的な立場」に立ち得たと、勘違いしている、ということでしかないからである。
では、どうすれば良いのか?
それはたぶん、本作の登場人物たちの批判を、すべて「我がこと(読者に向けられたもの)」と捉えて、そのすべてに「反駁する」、ということであろう。
なぜ、それぞれの意見の「もっともらしい」部分に、それぞれに「承認」や「同意」を与えた上で、「自分なりの立場を選択する」といったことではダメなのかと言えば、それは結局のところ、自身に対する批判への応答責任を果たさず、ただ「理解者づら」をして、そうした真摯な批判をスルーしていることにしかならないからだ。
「皆さんの貴重なご意見、確かに承りました」というような顔をして、その上でやはり、自分の立場に固執するのを正当化することでしかないのである。
すべての登場人物の批判に反論するいうのは、すべての立場に対する(批判)責任を引き受けて、自分は「自分個人の立場」に立って、自己責任において発言する、ということなのである。
言い換えれば、「被害者」の立場にも立たず、「加害者」の立場にも立たない。
なぜなら、長岡友梨奈が言うとおり、私たちはすべて「被害者であり加害者である」からなのだ。
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私が「フェミニズム」に興味を持つことになったのは、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである北村紗衣のネット記事を読んで、北村紗衣を「ヘボ映画評論家」だと、ネット上で評したことに端を発する。
私はそこで、当時、北村紗衣と論争状態にあった、アマチュアの映画マニア・須藤にわか氏に向けて「今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)」と書いたのだが、北村紗衣はこれを読んで「年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメント(SNSの管理者に)通報いたししました」と、いきなりその場へ、コメントを書き込んできたのだ。


普通に日本語のわかる人なら、私が「北村紗衣の本を買って読み、その内容を事細かに酷評してやろうかな」という趣旨で書いたというのは、明らかであろう。
だが、北村紗衣は、私のような無名の人間が、有名フェミニスト教授である北村を、見下したような口ぶりで否定したことが、どうにも我慢ならなかったのであろう。
なにしろ北村紗衣は、須藤にわか氏との論争の中で、自分は映画の研究者であり、海外の文献まで読んでいる人間だが、所詮、須藤氏はアマチュアの映画マニアでしかないと、差別的な「特権階級」意識丸出しなことを書いていたような人物なのだ。
だから、私の「立場(階級)」を弁えない物言いに、カチンと来たのであろう。
だが、ハッキリ言わせてもらうが、批評家としての能力は、私の方が格段に上であるし、その事実は、そのファースト・コンタクト以降続けている、私の「北村紗衣批判」によって実証ずみなのだ。
北村紗衣は、自分の方から私に喧嘩を売っておきながら、私が反論反撃を始めた途端に黙り込み、今どきのフェミニストにありがちな、「ノーディベート(議論拒否)」の殻に閉じこもってしまったのである。
まあ、それは、世間によくある「姑息かつ卑怯な態度」としてやむを得ないとしても、北村紗衣の問題は、私が「酷評しようかな」という趣旨で書いた文章を、「故意に誤読」して、私が北村紗衣の本を「器物損壊すると予告して脅迫した」かのように言い換えて、管理者権力に訴えた(通報した)点である。
要は、故意に私を「おとし入れよう」としたのだ。
「武蔵大学の教授」(教育者)であり、文筆家として「公的言論人」である北村紗衣が、故意に事実を歪めて、他人をハメようとしたのである。
当然、こんな人物は、教育の現場や、言論の現場から「キャンセル」されるべきだ。
なにしろ、北村紗衣自身、自分への批判者を、公開告発状たる「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」や「名誉毀損の民事事訴(対雁琳スラップ裁判)」によって、社会的に「キャンセル」してきたのだから、人を呪わば穴二つで、自分自身も「キャンセル」されてしかるべきなのだ。
だが、私と北村紗衣との違いは、私は「言論」において批判はするけれど、「数の力」や「法権力」に頼ろうとは思わない、という点である。
その点で私の方が、「言論」に徹している。
私には、北村紗衣とまともに討論すれば、「絶対に勝てる」という自信がある。
一方の北村紗衣には、その自信が無いからこそ、逃げ回り続けるのだ。
自分の方から喧嘩を売ってきたことからもわかるとおり、北村紗衣とは、もともとは「好戦的」な人物で、かつてTwitter(現「X」)上では、自分の意見に批判的な発言をした人物に、「女性差別者」のレッテルを貼り、「管理者に対し通報するぞ」「職場に連絡するぞ」と、脅しをかけて黙らせたような人物なのだ。
意見への反論ではなく、相手に「立場的な弱み」があれば、そこを徹底的に突くといったやり方を恥じない、そんな悪質な人物なのである。

ところが、私の場合は、すでに退職した独り身の隠居である。
しかも、民事訴訟で訴えられて、大学助教の立場を失っただけではなく、賠償金200万円余りをむしり取られた、決して豊かではなかったはずの山内雁琳とは違い、「200万円くらいなら払ってやるから、訴えてみろ。こっちも逆提訴してやるぞ」と、そう啖呵の切れる、比較的恵まれた立場だったので、北村紗衣は、批評能力は無論、「守るべき社会的な立場」のおいても、まともにやり合える相手ではないと判断して、卑怯にも私を黙殺する方針に切り替えてしまったのである。
一一だから、本書『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』を読んだ人ならわかるだろうが、私の立場は、かなり長岡友梨奈に近いものがあるのだ。
長岡友梨奈は、リベラルな「フェミニスト」であり、かなり「好戦的」であるという点において、外見的属性においては、むしろ北村紗衣に近いと言えるだろう。
だが、長岡友梨奈と北村紗衣との決定的な違いは、「被害者としての女性の立場に立つ」ということに対する、「本気度」の違いなのだ。
長岡友梨奈は、次のような独白をする人物である。
『 美味しいか美味しくないかということではないんだ。そう思うものの私は「全然美味しいよね」と同調する。彼(※ 同棲している年下の恋人・横山一哉)は常に浅瀬で浮き輪に乗ってぷかぷか浮いていることを望む。潜水のような重い議論が苦手で、そういう話になると慎重に言葉を選びすぎるせいで話が進まなくなるのだ。日常会話や仕事以外の議論が苦手なようで、特に抽象的な話題を振ると思考が徹底的にフリーズする。そして彼は常に、善悪の判断をせず、相対主義的、中立的な立場をとるため苛立たされることが多い。もちろん私は民主主義者だ。死刑制度には反対。多様性という現代では重要度が高すぎるがゆえもはや形骸化してしまった言葉にも深い共感を持っているし、国や人の保守的、排他的な属性を最も嫌っている。去年登壇した配トークショーで、意地の悪い資本主義の批評家にヒラリー的リムジンリベラルと揶揄され、それを言えばあなただってアカデミー村で生まれ育った外の世界を知らないインテリ権威主義者、理想ばかり語る机上のクーロンズだと半笑いで反論した様子が面白おかしく切り取られてプチバズりをし、賛否両論あらゆる意見をぶつけられやるかたない思いもした。しかし私の中には、善悪の判断をし、悪を徹底的に潰さなければならない、間違っているものを排除し世を正さなければならないという、それはもう悪のような正義感が渦巻いているのだ。つまり私の言う多様性とは、私が認められる多様の中でのみ機能する多様性のことであり、そこから外れる女性を殺した者であったり女性を搾取する者であったり子供を殺したり搾取する者であったりはどんなに残酷な刑にかけられ殺されても構わないむしろそうしてもらわないと気が済まないという反社会的な怒りがあるのだ。もちろんそこまで極端な例に限らないが、一度激昂すると相手の死さえ厭わない悪のような正義感に一哉は引いているのだろうし、主義的には死刑反対と言いながら、個人的な怒りには打ち勝てない自分自身のダブスタ具合に、私も引いている。』(P32〜33)
このような「本気」が、北村紗衣にはない。北村紗衣の「フェミニズム」とは、所詮「商売道具」でしかなく、自分を賭けるようなものではない。
実際、北村紗衣が目指したフェミニストとは、資本主義社会における「一部の選ばれた女性」でしかない「セレブリティフェミニスト」の地位でしかない。
社会的な阻害された「女性(全般)」の立場のために、フェミニストをやっているわけではないのだ。
『最後に
異例ではあるが、著者がこの論考を書くにあたって感じた強烈な居心地の悪さについて記して本論考を終わりたい。著者は二〇一九年にウェブ連載をまとめた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』というフェミニスト批評エッセイ集を刊行している他、Wikipedia でジェンダーバイアスを減らす活動に取り組んでおり、さらに@Cristotorouというアカウント名でTwitterもやっている。つまり、オンラインでの活動が多いフェミニストである。
連載を始め、まとめて刊行したあたりから、イベントをするたびに女性読者から楽しかったという感想を頂いたり、またTwitter 等で女性と思われるユーザからさまざまな質問を受けたりするなど、ある種の「ファン」として記述できそうな読者が現れるようになった。著者が「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解したのは、この過程を通してだ。著者はあまり有名ではない研究者であり、田嶋陽子やグロリア・スタイネムのようなセレブリティではない。そんな人間でもファンになってくれる読者がいるほど、日本の女性はロールモデルにできそうなセレブリティフェミニストを必要としているようなのだ。著者は知らないうちに第四波フェミニズム的な風潮の真っ只中に投げ込まれていた。
客観的な記述を心がけないといけない研究者としては、これはあまり好ましくない事態である。本論考はできるかぎり先行研究のレビューや事実の指摘にとどめたが、著者が自分でも認識していないうちに大きな第四波のうねりの中に巻き込まれていたということは書いておきたい。波を数えているうちに、波の中に入ってしまっていたのである。この論考は、波の中から書かれている。』
( 『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』所掲、北村紗衣「波を読む 第四波フェミニズムと大衆文化」より)
実際、本作『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』の作中で、五松武夫が長岡友梨奈について、
『 長岡さんは柳沢さんの言葉の途中で口を大きく開けてあははっと笑った。馬鹿にしたりとか、排除ではなくて、本当に邪気のない笑いで、この無邪気さは(※ 勤め人ではない、しかも売れっ子)作家だから守られているものだよなとシニカルに思う。』(P 89)
と評するところに、近いものがある。
北村紗衣の場合は、「武蔵大学のテニュア(終身身分保証)の教授」であり、少々のことでは辞職させられることはないのだ。
だから、後顧の憂いなく、気楽に批判者に攻撃を加えることもできれば、言いたいことも言えたのである。
だが、相手も似たような立場なら、そう気楽ではいられなくなった、ということだったのだ。
ともあれ、そんな北村紗衣を目の敵にするに私は、長岡友梨奈的な「過激さ」であり「徹底性」がある。
長岡友梨奈が自身に認めるところの、『悪のような正義感』的なものがあるのだ。
私は、「荒らし」や「ネトウヨ 」が大嫌いで、これまで20 年以上、そうした輩とバトルを繰り返してきており、相手にした総数は1000人を超えていると思う。
昔は「ネットイナゴ」と呼ばれたように、彼らは連れもってやって来て、束になってかかってくることが多かったから、一度に5人以上を相手にするようなこともしばしばあったためだ。
また、私はそれ以前から「論争家」を自認し、そう名乗ってもいたし、相手を選ばずに批判した。
相手の有名無名は無論、人間関係の距離に関係なく「それは違う」と思えば、それはこうですよと(長岡友梨奈的に)反論するので、自ずと論争にも喧嘩にもなるのだが、そうなった場合、私は中途半端に手打ちをすることなく、(長岡友梨奈的に)徹底的に相手を批判するしたから、それで人間関係が切れたり、サークルから追い出されたりしたことも、何度もあった。
ちなみに、そんな私の論争について、私をよく知る友人は、私の昔のハンドルネーム「アレクセイ」と、小栗虫太郎の短編小説のタイトルを掛けて「聖アレクセイ寺院の惨劇」だなどと呼んだりもした。私に絡むと、酷い目に遭わされる、という意味である。
まあ、そんなことをやってるから、私はこれまで、「mixi」と「Twitter(現X)」のアカウントを2回ずつ停止され、「Twitter」は永久凍結のままである。
2回ずつというのは無論、2回目には「これを以上やったら、また相手が管理者通報して、アカウントが止められるかもしれないな」と気づいていながら、「それでもいいや」と思ってやり続けた結果だということである。
その後には、主に活動の場としていた「Amazonカスタマーレビュー」についても、管理者によるレビューの削除基準が曖昧であると、管理者とやり合った結果、レビューを全削除され、投稿機能まで停止されてしまった。
私がいま、「note」をやっているのは、そういう経緯があってのことなのだ。
(ちなみにこちらも、「そろそろ危ない」と思い始めた段階で「note」を始めた、ログを移していた)
ともあれ、本作の長岡友梨奈は、私の過激さとどこか似た「過剰性」を持ちながら、しかしそれでも、現実の行動としては、それなりに無難な世渡りをしてきた。
自身を俯瞰的に見る相対視によって、何とか世の中や他者とのバランスを取ってきた。
恋人の横山一哉が「乖離」と表現するように、自分を突き放す神の視点に立つことで、暴走しそうな自身を、なんとか宥めてきたのである。
だが、物語の最終盤では、別れてくれない夫の下に止むなく残してきた愛娘・安住伽耶にまで、その本質的に押しつけがましい「徹底性」を拒絶され、それがきっかけで、自制のタガが外れてしまう。
友梨奈はボクシングを習い始め、やがて街で見かけたセクハラ男たちに喧嘩を売るという「正義の逸脱行動」を始め、その結果、最後は事故に巻き込まれて死んでしまうのである。
こんな長岡友梨奈について、私が興味深いと思うのは、前述の引用部分でもわかるとおり、自分の「潔癖な理想主義」が、現実的なものではないと、理性的には自覚しながら、しかし、その「感情」を抑え切れない、という点である。
当初、表向きは何とか抑えていた感情の暴走だったのだが、結局は、そうした満たされない欲望が、一線を超えて、自身をコントロール出来なくなってしまった。
言い換えれば、「潔癖な理想主義」という悪魔に、完全に乗っ取られてしまったのである。
で、私と長岡友梨奈は、結局は「善悪という価値観は、絶対的なものではない」という自覚においては共通しても、その上で、自身の行動を、どこまで許容したか、自制したか、という点に違いがあると言えるだろう。
長岡友梨奈は言う。
『 理想郷にこもって生きていたいという欲望に駆られる。乃木さんや西村さん、一哉や越山くんみたいな人たちだけの世界で生きていきたい。偉そうな人、暴力をふるう人、弱者を搾取する人、人を貶めたり欺いたりする人、デリカシーのない人、そういう人のいない世界に生きたい。でもそれは、ある種の選民意識なのだろうか。そういう自分にとっての下等生物がいない理想郷を手に入れて、それ以外の世界は知らん勝手に減べとは思えない。でももし自分にとっての下等生物を抹殺できるボタンがあったら、きっと自分は迷いなく押すだろう。そうすれば戦争はなくなる。性被害も、殺人も、心の殺人もなくなる。それを押せば、世界の秩序が保てる。でも次から次へと生まれていく新たな下等生物もまた、定期的にボタンを押し殺すべきなのだろうか。下等生物になると殺されますよと周知して、下等生物の定義をガイドラインとして発表したら、下等生物はいなくなるだろうか。ガイドラインの作成にどれだけ注意と検討を重ねても、それを人間が制定することに異論は出続けるだろう。でもだとしたら、我々は下等生物たちとの共存を図り、敗れ続けなければならないということになる。終わらない戦争、有害な思考、虐げや嘲りの嵐の中、罪のない人々の命や精神が脅かされ続けるのだとしたら、繊細で上等な生物たちにとってこの世は、「生きるに値しない世界」に成り下がり自然に淘汰され、生きるに値しない世界でもガンガン生きれますタイプの図太い上等な生物たちと、下等生物たちだけの世界になってしまうのではないだろうか。』(P439〜440)
このあたりが、私と長岡友梨奈との違いであり、長岡友梨奈の「弱さ」や「不徹底さ」だと、私は思う。
なぜなら、長岡友梨奈は「結局のところ、この世界とは、そういうものなのだ」とわかっていながら「でも、私の感情がそれを許さない」と、そう言っているだけだからである。
また、さらに言えば「自分自身を含めた誰しもが、他の誰かにとっては、下等生物でしかない」という事実について無頓着であり、「下等生物抹殺スイッチ」を押す権利は、そうした価値観の異なる人たちにも与えられなければ、「フェア(公平)ではない」という点についての認識を欠いて、いかにも主観的なのだ。つまり、頭が悪い。
私は常々「本当は、この世界には善も悪もない」と言っている(書いている)。
一一しかし、これは当たり前の話だろう。
なぜなら、星間物質が凝集して地球が出来、それがやがて生命を生み、人類を生んだのだから、そんな場に、アプリオリな「善悪」など、存在するわけがないからだ。
つまり、人間が生んだ「善悪(倫理観)」とは、所詮は、人間という「種」が、効率的に生きてのびていくために生んだ「手前味噌な虚構」でしかなく、だからこそ、人間は他の生物を犠牲にして生きていても、それを「悪」だとは考えないのだ。
一一だから「本当は、善も悪もない」のである。
ただし、だからと言って、「何でもあり」「やったもん勝ち」「弱肉強食」が、「正しい」のかと言えば、無論そうではない。
なぜなら、そもそも「善悪」が無いからであり、その意味での「正誤」も無いからである。
しかしまた、「善悪正誤が無い」というのが「真実」であったとしても、私たちには、それぞれに「倫理観」がある(持っている)、というのも事実だ。
その「倫理観」が「正しい」ということではなく、否応なく「倫理観」が存在しているという事実であり、私たちは、それを無視して生きるわけにはいかないという現実がある、という意味である。
無論、私の「倫理観」と長岡友梨奈の「倫理観」は、似て非なるものである。
一一と言うか、正確に言えば、すべての人の倫理観は異なっており、「大同小異」であったり「小同大異」であったりして、その極端から極端の間のグラデーションのどこかに、すべての倫理観は位置していると、そのように言えるだろう。
だから、一般的な「倫理」とは、たいがいは最大公約数的なところに設定されるのだが、無論、そうした「多数派の倫理観」が「正しい」ということにはならない。
なにしろ、この世に「超越的な裁定者としての神」が存在しないかぎりは、「本当は善も悪もない」からである。
だからこそ、そうした「多数派の倫理観」には納得できず、極端に走る人も出てくる。
それは、その人にとっては「極端」なのではなく、世間の「多数派の倫理観」の方が「偽善的にヌルい」ということになるためだ。
だから、私や長岡友梨奈などは、そうした「極端」な人間の部類なのだろうが、ただ私と長岡友梨奈の違いは、長岡友梨奈が、自身の正しさや美意識や願望を、どこかで「正しい」と信じている点あり、私はそうは思っていない点であろう。
私の場合は、自身の正しさや美意識や願望を「正しい」と考えているのではなく、避け得ぬ衝動として自分の中にあるという事実を認めるだけなのだ。
私の「正義」とは、所詮、私個人の「正義」であり「美意識」でしかない。
だから、それを他人に「強制することはできない」と、そう考えている。
だから、私に出来るのは、ただ「説得すること」だけなのだ。
そのため、私の場合は、「権力(立場の力)」や「数の力」を行使しようとはしないし、それを欲しない。あくまでも、「意見の中身(説得力)」だけで勝負する。
そのため、おのずと「無視されればお終い」であり、多くの場合、その主張が実現されることはないのである。
しかしながら、長岡友梨奈とは違い、私の場合は、「それは仕方のないこと」だと考えるし、「私の理想の叶わない現実」に耐えることこそが、私の「美意識」に合致してもいる。
一一ここが、私と長岡友梨奈との、決定的な違いなのだ。
私は、徹底して「意見は述べる」が、「力で強制する」ことはしない。
なぜならそれは、私には「美しくない」と思えるからなのだ。だから「下等生物抹殺スイッチ」は、あったとしても押さない。
したがって、長岡友梨奈が、前の引用部分的で語っている「悲観的な現実」も、結果としてそうなるのなら、そうなるしかないこととして「仕方がない」と受け入れて耐える。
もしもそれが、どうしても耐えられないことなら、そのとき私は、長岡友梨奈と同様に行動を起こすことだろう。場合によっては、暴力も辞さない。
だがそれは、その時の私の「判断基準としての倫理観」が、それを「正しい」と思うから、その行動を選ぶということではなく、私個人の「美意識」からして、そうせざるを得ないする、ということにすぎない。
そこで問題となっているのは、事の「正邪」でなく、単に「美意識」の違いなのだ。
だから、その時の私に「正義」感などは無く、ただ「そうしないではいられないから、そうするだけ」なのである。
そして、そうした私からすれば、長岡友梨奈の思想は、安易に自身に「正義」を割り振るという点において、自分に甘すぎて「不徹底」であり、感情的に「無自覚・無認識」であり、その意味で「弱い」ものでしかない、ということになる。
だから、それは「美しくない」ということにもなる。
私は、長岡友梨奈とは違って、不愉快な人間の存在を容認する。それこそが「多様性」であると、シンプルに認める。
不愉快な存在個々については、個別に批判攻撃を加えることもするだろうが、彼らの存在を、原理的に否定したりはしない。
原則的には、彼らの存在を認めるし、それがこの世界の「自然」であり「真実」だとも思っている。
つまり、「不愉快と感じる存在」と「戦わない」と言うのではない。
戦いはするけれど、それは自身の美意識の範囲内のことでしかなく、大義としての「正義の実現」というような結果に縛られることはないということだ。
それが結果として、不愉快なものの存続をも容認する、ということなのだ。
また、そんな私にすれば、自身に何の負荷もかからない、自分の美意識や力が試されることのないような理想郷、「敵」の存在しない世界の方が、よほど気持ちの悪いディストピアだとも言えるだろう。
汚れた世界だからこそ、私には生きがいもあるのだ。
そうした意味で、私の思想は、わざわざ自ら、必要のない工場労働を志願した、シモーヌ・ヴェイユ的なマゾヒズムに、近いところがあるのではないかと思う。
私には、「勝ち誇る勝者」であるよりも、「美しく敗れる者」の方にこそ、魅力が感じられる。
だからこそ、いつでも「反主流」「反体制」「反時代(反流行)」的な、へそ曲がりたらざるを得ないのである。
(2025年8月5日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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