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森永卓郎 『発言禁止 誰も書かなかったメディアの闇』 : 北村紗衣・成田悠輔的な「大勢迎合」に抗して

書評:森永卓郎発言禁止 誰も書かなかったメディアの闇』(実業之日本社)

本書著者の森永卓郎は、本年(2025年)1月28日に亡くなっている。
テレビコメンテーターとしてその存在を知ってはいたものの、著書を読むのはこれが初めて。テレビコメンテーターなんかにはあまり興味のない私だったのだが、森永に関しては、ぼんやりとした好感を持っていた。

その理由を考えてみると、森永が「ミニカー」のコレクションをするなど、みずから「オタク」であることを語って隠さない、およそ「知識人」的な気取りのない、庶民派の人だったからではないか。
私も収集癖のある人間だし、威張った奴が大嫌いという性分なので、おのずと森永に共感するところがあったのだと思う。

書店頭で本書が目についたのは、森永が今年亡くなったことだけは知っていたのと、その「遺著」ともなるはずの本書のタイトルが『発言禁止 誰も書かなかったメディアの闇』というものだったからだ。
「これは死を覚悟していたからこそ書けた本なのだな」と、そう直感されたのである。

本書を読んでみると、私がこれまで森永の著作に興味を持たなかった理由がわかった。森永は「経済」の専門家で、彼のテレビでの肩書きは「経済アナリスト」だった。ところが私の方は大の数字嫌いで、数字の絡まざるを得ない「経済」問題には、ほとんど興味がなかったからだ。
例えば、「財務省」の問題を扱った森永の著書『ザイム真理教』がベストセラーらしく書店の棚に面陳で置かれていても、それを私が手に取ることはなかったのである。
だが、本書が扱っているのは「マスメディア」の問題だったから、それなら読んでみようという気になったのだ。

本書で語られているのは、「どうして、今のテレビ・ジャーナリズムはダメになったのか?」という問題である。
これについて森永は、自身の長年のテレビ出演経験と経済アナリストの視点を合わせることで、説得的な回答を提示している。

では、森永の示した解答とはどのようなものであったのかいうと、

(1)テレビ局が、ジャーナリズムとしての志を失ったのは、政府や財務省の「増税」方針に批判的なテレビ局を、国税局査察部)を使って徹底的にいじめさせたためである。つまり、執拗な税務調査で「あら探し」をして、莫大な追徴課税をしたのだ。
なぜ、こんなやり方が有効なのかというと、「取材」には「情報源の秘匿」が求められるため、「取材」に関する出費の多くは「使途不明金」的なものになりやすく、そこを突くことが容易に出来たからだ。
そして、結局のところテレビ局は、この合法的な攻撃に屈することになる。安倍晋三政権の時代には、内閣府からの直接干渉ということが取り沙汰されたが、それだけなのではない。収益・収入に直接的な打撃を与える追徴課税は、わかりやすく大きな痛手であり、無視し難いものだったのだ。

(2)財務省に屈したテレビ局は、政権批判などをやらなくなった。要は、会社を守るのために、「権力の監視」という使命を放棄したのだ。
またそのため、そこで働く制作スタッフや外部コメンテーターやタレントなどの現場も、それに忖度できる者だけしか使われなくなった。
その結果、池上彰に代表されるような「解説はすれども、意見は言わない(批判はしない)」という、事なかれの体裁主義が蔓延って、さらなる悪影響を及ぼしている。

と、おおよそこんなところだ。

(1)の点については、これを「陰謀論」だと批判する者も少なくないようだが、私は森永の意見を「陰謀論」だとは、まったく思わない。なぜなら、権力を持っている者というのは、可能なことであるならば、どんな手を使ってでも「敵」を潰そうとするものであり、「フェア」にやろうとする者の方が、むしろ例外だからである。
したがって、森永の指摘は、極めて「現実的なもの」と言えるし、逆に、このような「十分あり得る」話に、「陰謀論」のレッテルを貼って否定しようとする者こそ、現に存在する「陰謀」の手先だと考えるべきであろう。

(2)については、会社が及び腰になれば、そこで雇われている者も及び腰になるという、いわば当然の結果である。「ジャーナリストの使命」だからといって、会社の方針に逆らってまで頑張れば、かえって居場所が無くなるというのは、目に見えたことだからである。
また、池上彰については、「たしかに博学であり説明上手な人」だと思ってはいたけれど、池上の盟友が、元「外務省のラスプーチン」で、今では池上と同じ「転向左翼」佐藤優であるという事実において、私は池上が「信用ならざる人物」であると考え、以前からそのように指摘してきた。
だから、本書において明かされた「池上彰の実態」を読んで、深く納得させられたのだが、そのあたりは、後で詳しく紹介することにしよう。

以上は、本書の大筋の紹介だが、以降は、本書における森永の言葉を適宜引用しつつ、上に「まとめ」の根拠を示すとともに、さらに、私の関心領域に引きつけた議論を展開したい。

 ○ ○ ○

はじめに

「最近、テレビ出演はやめたんですか?」
 そう話しかけられることが、増えてきた。いま私がテレビにほとんど出ていないことは事実だが、私自身が出ないという判断をしているわけではない。出させてもらえなくなっているのだ。
 なぜ、テレビに出られなくなったのか。その理由について、私には、一つの仮説がある。それは、忖度せずに本当のことを言うようになったからだ。
 私だけがそう思っているのではない。昨年、ある情報番組でコメンテータを務める評論家がこっそりと教えてくれた。その番組のプロデューサーがこう言ったそうだ。
「これからは、本当のことを言うコメンテータは一切出演させない」。
 おかしなことを言っていると思われるだろうか。ただ、いまや「権力に忖度しなければ干される」ということは、ほぼすべてのコメンテータやテレビ関係者が共有している「常識」だ。前明石市長で弁護士の泉房穂氏も、あれだけ思い切った発言を繰り返しながらも、テレビでは「これ以上言ったら干される」というラインを超えないようにギリギリのところで発言していると話していた。
 私も、基本的には泉房穂氏と同じような戦略を採っていた。だが、これまで3段階に分けて発言のタガを緩めてきた。第1段階は、子供が成人した2005年ころだ。子供が成人するまでは、親には子供が不自由を感じないように、きちんと稼ぐ責任があると私は考えている。子供を作ってしまった以上、子供が「自分は親ガチャに敗れた」と思わせてはならない。子供は親を選べないからだ。
 2005年に長男の康平が20歳を迎えた。私は、それまで勤めていたシンクタンクを辞め、大学教員に軸足を移して、カネを稼ぐための仕事をストップした。そのため、私の発言の自由度は大幅に高まったが、それでも、常識を大きく踏み越える発言は、ある程度抑制していた。
 タガを緩めた第2段階は、私自身が年金を受給できる年齢に達した2020年代に入ってからだ。2020年から特別支給の厚生年金が、2022年からは、基礎年金を含むすべての公的年金が受給できるようになった。実際には、「在職老齢年金制度」というのがあって、厚生年金の受給月額と月額報酬の合計が50万円を超えると、厚生年金給付の減額が始まる。私はいまだにフルタイムで働いているため、厚生年金は全額支給停止となっていて、これまで公的年金を受給したことは一度もないのだが、仕事がなくなったら、いつでも年金受給ができる。だから、テレビなどの仕事を失うことが怖くなくなったのだ。
 タガを緩めた第3段階は、2023年末に医師からステージ4のガン宣告を受けて、余命4か月と言われたことだ。「どうせ死ぬなら、最後に本当のことを言って死のう」と考え、いまは誰にも忖度しない発言を繰り返している。
いま振り返ってみると、私のテレビ出演を最も減らしたのは、第2段階の発言規制緩和を行ったときだった。そこでガクンと出演機会が減ったのだ。
 ただ、「忖度しないと、テレビから干される」というのは私が考える「仮説」に過ぎない。私自身の人気がなくなって、私を使う動機をテレビ局が失ったのかもしれない。本当の理由は何なのか。それを物証や証言で検証することは現実問題としては、不可能に近い。そこで、本書では、私自身の周りで起きた事実を中心に、いわば状況証拠を積み重ねることで、いまテレビのなかで何が起きているのか、さらにそこからもう一歩広げて、メディアの世界で何が起きているのかを明らかにしていきたいと思う。それが、本書の目的だ。
 本書では、新しい経済理論とか、分析の枠組みが登場するわけではない。ただ、これまで誰も書いてこなかったメディアの実態に切り込んだことは、間違いないと私は考えている。何しろ、これを書いたら、私自身が大手メディアから完全に干されてしまうことが、ほぼ確実だからだ。ただ、それはそれで構わないと思っている。いずれにしても、私自身がそう長く生きることは、できないからだ。』
(P1〜4)

「はじめに」の全文である。
これを読めば、森永卓郎という人が、いかに正直な人かが分かろう。要は、自分の身を守りながらも、可能なかぎりの「批判」をやろうと、ギリギリの線を狙って頑張ってきた人なのだ。

当然、森永のこうした「戦略」に対して「ズルい」というような批判を投げかける者もいるだろうが、これは少しもズルくはない。
なぜなら、敵方は圧倒的な権力(裁量権など)を持つのだから、防御を固めてから、できる範囲での攻撃をするというのは、当然のことなのだ。銃器を持っている相手に、素手で殴りかかっていくような人間は、「勇敢」なのでも「正々堂々」なのでもなく、単なる「馬鹿」でしかないのである。

しかもこの点については、森永自身、周到に次のように書いている。

『メディアには、特権が与えられている。記者クラブに入っていれば、会員限定の記者会見で質問をすることができる。記者クラブに入っていなくても、さまざまな会見に出席できるし、企業や個人も取材に応じてくれる。展示会でも、メディア限定の事前公開に参加できる。そうした特権を持つのだから、メディアは国民の目となり、耳となって、真実を伝える義務を持つのだ。同時に、メディアには論評する権利も持っている。だからどんなに圧力がかかっても、権力者の利権や腐敗や癒着の追及を怠ってはならないのだ。ところが、最近のメディアは、すっかり牙を抜かれ、自分たちの暮らしを守ることを優先している。
 その結果、テレビにはブルシット・プログラム(くそどうでもいい番組)があふれることになる。大型量販店をタレントが訪れ、「これコスパが良くって、最高だよね。大量買いして近所と分ければ、とてつもなく安くつくよ」と喚きたてる。飲食チェーンのメニューをタレントが試食して、「こんなに質が高くて、おいしいものがファミレスでも味わえるんだ」と歓声をあげる。そんな番組ばかりになっているのだ。
 もちろん、権力者に歯向かったら大けがをするのは事実だし、最悪の場合、会社が吹き飛んでしまうかもしれない。そうなれば、自分や家族の暮らしは守れなくなってしまう。私自身も子供が成人するまでは、ある程度の「自主規制」をしてきた。
 ただ、そうであっても、完全降伏するのではなく、ギリギリのところまで権力者を追及することはできるはずだ。メディアの仕事をコスパのよい(※ 楽して儲かる)労働と捉えるのではなく、あくまでも権力者の追及を最優先の課題としていく。それがジャーナリストの矜持なのではないか。日本は30年もの長きにわたって経済成長もせず、文化はむしろ衰退した。その責任の半分は、メディアにあるのだと私は考えている。』
(P130〜131)

このとおり森永は、巨大な権力に対して「自爆攻撃をしかけろ」と言っているわけではないのだ。ギリギリの線を狙って、辛抱強く抵抗せよと言っているのである。

無条件に批判の許されている時だけは「居丈高」な態度でそれをするくせに、許されないとなると途端に「白旗をあげて無条件降伏してしまう」ようなことではダメだ。もっと志を持って、しぶとい「ゲリラ戦」で闘うべきだと、じつに真っ当な「正論」を語っている。

そして、こんな森永卓郎は、じつは新聞記者の息子なのだ。つまり、その矜持が、彼にこのような言葉を吐かせるのだろう。これこそ、親孝行と呼ぶべきではないだろうか。

あとで示すとおり、森永卓郎という人は、一見すっとぼけていて、決して威張ったりはしない人だが、じつは非常に「熱い」ものを秘めた人だったという事実を、多少なりとも感じていただけたのではないかと思う。

ニュースステーションで起きたスキャンダル

 テレビ神奈川でやった「おふざけ」は、思わぬ展開をもたらした。1999年、テレビ朝日「ニュースステーション」のディレクターから突然、一緒に食事をしながら飲みませんかという電話がかかってきた。「それは、タダですか」。「だったら行きます」。毎日夜中まで残業して、粗食を繰り返していた私は、タダ飯と美酒に酔いしれた。もちろん、世の中タダがあるはずがない。帰り際に、ディレクターがつぶやいた。
「森永さん、一度ニュースステーションに出てみませんか」。
 その直前、ニュースステーションのコメンテータが不倫スキャンダルを文春砲で撃たれ、後任を探していたのだと後から聞いた。私は即答した。「久米宏さんと渡辺真理さんのサイン入り名刺と引き換えなら出ます」。当時、私は有名人のサイン入り名刺をコレクションしていて、絶好のチャンスだと思ったのだ。
 テレビ朝日に到着した私は、生放送前に約束の履行を求めた。「サイン入り名刺をくれなかったら、スタジオに入りません」。ディレクターは、ちょっとだけ嫌な顔をしたが、2人のサイン入り名刺をもらってきてくれた。その時点で、私の仕事は、終わった。
 生放送の本番を私は適当に流した。何しろ仕事は終わっているのだ。ところが、後から聞いた話だが、その生放送をテレビ朝日の幹部が目を凝らして視ていたという。
新コメンテータ候補の値踏みをしていたのだ。「こいつは、どんな質問をしても動じないのですごい」ということになり、それから私は新コメンテータとして、番組に加わることになった。私のコメンテータ就任は、テレビ朝日制作陣のいわば勘違いがもたらしたものだったのだ。
 ただ、番組に参加して、久米宏さんが努力の人だということが分かった。ゲストの著書や資料はすべて読み込んでくるし、あらゆる勉強をおこたらなかった。番組で出せるのは、そのなかの数パーセントに過ぎないのだが、あらゆる想定をしているので、どんな事態が起きても、対応ができたのだ。真剣に仕事をしているから、緊張もする。生放送前には、久米さんの手が震えていた。「毎日やっていて、なぜ緊張するんですか。ボクなんて、ぜんぜん緊張しませんよ」。「緊張しない奴は成長しないぞ」。確かに、それ以降、私は一向に成長していない。』
(P12〜14)

ここには、森永卓郎という人の人柄が、とてもよく現れている。
つまり、自分のオタクぶりを殊更に強調して、偉ぶるようなことは決してしない。それどころか、久米宏のような尊敬すべき人物を持ち上げるためには、わざわざ自分を貶してまで、その人の立派さを強調しようとまでするのだ。

『 偶然がもたらしたニュースステーションへの出演だったが、番組の論調は、「反権力」という私のスタンスと完全に合致していた。特に、小泉構造改革が始まってから、私は徹底的に政府批判を繰り返した。番組は、その背中を押してくれた。何しろ、ニュースステーションの当時のプロデューサーの掛け声は、「徹底的に政府の利権や癒着や腐敗を追及して、政権交代を実現するぞ」といったものだった。』
(P14、ゴシックは引用者)

今どき流行りの、無難な「中立アピール」などではなく、『「反権力」という私のスタンスと完全に合致していた。』と、そうハッキリと言い切るところに、この人の「正直さ」が、よく現れている。

『 安倍政権末期の2020年度、国の一般会計決算の基礎的財政収支は8兆円の赤字だった。財務省は、いまだにその事実を隠蔽し、この数字は、財務省のホームページのどこにも出てこない。経済財政諮問会議の配布資料に記載されているだけだ。
 なぜ財務省がこの事実を隠すのか。それは、年間80兆円も赤字を出して、経済に何の問題も起きなかったことが国民に知られるとまずいからだ。
(中略)
 岸田政権が進めた財政緊縮によって、2025年度の赤字は4兆円にまで縮小する見通しだ。しかも2025年度予算は、税収を過少推計しているので、日本の財政はすでに単年度では実質黒字化されている。先進国でもっとも財政が健全なのは、日本なのだ。
 にもかかわらず、岸田政権は、社会保障改革カットを冷酷非情に進めてきた。』

(P52〜53、自著『官僚生態図鑑 ズレまくるスーパーエリートへの処方箋』からの引用部分を孫引き)

これが、最初に挙げた(1)の部分の根拠である。
要は、日本の財政はすでに健全化しているにもかかわらず、財務省はそれを偽り、それを理由にして「増税」しようとしており、その狙いは「持てる者への貢献」なのだ。それに、マスコミから横槍を入れられたくないのである。
せっかく、一般国民から税金をむしり取るための「見せかけの口実」があるのだから、そのあたりを適当に誤魔化しながら、たとえ弱者であろうと(あるいは、無抵抗な弱者だからこそ)「むしり取れるものはむしり取ってやろう」というのが、「新自由主義」政治の基本的な考えだということを知っていたなら、こうした「権力の欺瞞」も、なんら不思議なものではないのである。

『 会社にやってきた内閣府の職員は、会議室のテーブルに二つのファイルを置いた。

 厚さが12センチはあろうかという分厚いものだった。

「そのファイルは一体なんですか」。
「森永さんの書いたものは、こうしてすべてファイリングしてあるんですよ」。

 中身をみると、私が書いた連載原稿だけでなく、新聞や雑誌へのコメントなど、私自身が保存していないものも含めて、完璧なファイリングがなされていた。

「もう一つのファイルは何ですか」。
「森永さんの発言も、すべて文字起こしをして、ファイリングしてあるんです」。

 ただし、そこに記録されていたのは、テレビでの私の発言だけで、ラジオの発言はなかった。しかも、発言を記録されていた番組は限定されていた。「しんぶん赤旗」が(※ その記事の中で)現在の(※ 安倍晋三政権下の内閣府による)常時監視番組(平日)として挙げた①TBS系「ひるおび!」、②日本テレビ系「ミヤネ屋」(読売テレビ制作)、③日本テレビ系「スッキリ」、④テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」、⑤フジテレビ系「とくダネ!」、⑥テレビ朝日系「報道ステーション」、⑦TBS系「NEWS23」の7本のうち「スッキリ」を除いたすべての番組に私は出演経験があった。なかでも、「ミヤネ屋」と「羽鳥慎一モーニングショー」(前身のスーパーモーニング)、「報道ステーション」(前身のニュースステーション)は、レギュラーコメンテータを務めていた。それらの番組での発言は、すべて記録されていたが、他のバラエティ番組やラジオ番組での発言記録はなかった。
 このことから推察されるのは、①首相官邸の厳しいメディア監視は、小泉内閣の時代にはすでに始まっていた、②監視対象にラジオは含まれていない、②テレビでもバラエティ番組は監視対象ではない、ということだ。私は、官邸によるメディア監視は、小泉内閣の時代から基本構造が変わっていないのではないかと思う。(※ 財務省の欺瞞を暴いた著書)『ザイム真理教』を出版して以来、現在の常時監視番組からは完全に干されている一方、バラエティの『がっちりマンデー!』は続いている。また、現在6本抱えているラジオ番組のレギュラーは、すべて安泰だ。そのことが何を意味するのかと言えば、いまや言論の自由が守られている放送メディアは、ラジオだけということになる。私の言論活動の中心がラジオになっているのは、そうした背景があるのだ。』
(P72〜74)

森永自身が、現に体験した事実である。
権力とは、こんな露骨なことまでやるのだ。こんなことをやられたら、普通の者なら怖くなって、口をつぐむか、権力に迎合することになるはずである。
だが、森永はそこで「テレビが監視されているのなら、ラジオがある」という発想なのだ。このあたりが、「ゲリラ戦」を闘える人の、発想の違いだと言えるだろう。

『 (※ 紫煙の中で、記者たちが24時間とぎれることなく立ち働いていた昔とは違い)最近の新聞社は、ガラリとその姿を変えてしまった。土休日には正面玄関が閉じられ、なかで働く人もとても少ない。喧噪も、タバコのもなくなり、まるで一流企業のオフィスのような感じになっているのだ。それは、新聞社だけでなく、テレビ局でもまったく同じだ。
 一体何が起きているのか。私は、財務省や首相官邸の圧力に屈したジャーナリストたちが、それまで抱えてきたジャーナリスト魂を捨て、自らのプライベートを優先するという「小市民化」が起きているのだと考えている。
 実は、いつの間にか大手メディアの社員は、世間と比べて大変な高給取りになってしまった。新聞なんて儲からないと思われるかもしれない。確かに購読料だけをみればそうだが、新聞には広告が掲載される。景気がよかった時期には、全面広告一つで1000万円を超える大きな広告収入が得られた。テレビの場合はもっと極端で、キー局で15秒のCMを1回流すだけで、100万円を超える放映収入が得られた。しかも、地上波の民間放送局は5局しかないから、価格競争が働きにくい。その結果、地上波各局には潤沢な資金が流入し、制作費も豊かだった。私がニュースステーションのコメンテータをしていた2000年代前半、ニュースステーションの一日当たりの制作費は6000万円とも言われた。本当かどうかは分からないが、現場が巨額の予算を持っていたことは事実だ。
 例えば、ニュースステーションの名物コーナーに「桜中継」があった。全国各地の桜を様々な演出でテレビ鑑賞するコーナーなのだが、上空からの映像を撮影するために40メートルクレーンが持ち込まれた。当時は、ドローンがなかったので、それしか方法がなかったのだ。私は、「このクレーンのギャラはいくらですか」とディレクターに尋ねた。ギャラは100万円だった。なぜ、その金額が記憶に残っているのかというと、当時の私のギャラが3万円だったからだ。クレーンのほうが、コメンテー夕より30倍も高いんだと思ったのだ。もちろん、いまから振り返ると、私のギャラが法外に安かったのだ。いわゆる文化人価格というものだ。
(中略)
 そうしたテレビ局の持つ潤沢な資金は、当然のこととして、テレビ局の局員の処遇にも反映される。バブル期には「フジテレビの内定を取ったら生涯年収8億円確定」と言われた。一般サラリーマンの3倍だ。そうした高処遇は、テレビ業界が冬の時代に入って、現在は少しずつ修正されつつあるが、テレビ局の局員が、いまでもかなりの高処遇を受けていることは事実だ。統計があるわけではないので、正確ではないのだが、私が数人の40歳台後半のテレビ局社員に年収を聞いたら、1500万円程度という答えだった。世間の給与水準を大きく上回っているのだ。
 一方で、テレビ局員の仕事は、つぶしが利かない。転職したら、そうした高処遇を放棄しなければならないのだ。実際、ニュースステーションの終了後、仕事を失ったディレクターには、厳しい未路が待っていた。例えば、講演会で出かけた地方都市で、ニュースステーションの制作をしていたディレクターにばったり出会った。地方自治体や中小企業のPR動画を作っていると彼は言った。その手には、小さなデジタルカメラと華奢な三脚が携えられていた。
 そうした現実を前提に、テレビ局の社員の立場にたって、どのような判断をするのかを考えて欲しい。一番、コストパフォーマンスのよい決断は、「保身」を図ることだ。財務省や政権やスポンサーに盾突くようなコメンテータは使わない。番組も財務省や政権やスポンサーの意向に沿ったものにする。少なくとも意向に反する番組は、作らない。そうすれば財務省や政府からの圧力を避けることができるし、視聴者や世間からのバッシングも避けられる。
 韓流ブームのとき、来日した韓流スターの歯が真っ白できれいに並んでいることが、情報番組で話題になった。そのとき、コメンテータとして出演していた私はこうコメントした。「そうは言いますが、〇〇さんは、差し歯なんじゃないんですか」。隣にいたコメンテータが即座に「そんなことはないわよ」と全否定してくれたのだが、直後からテレビ局には抗議の電話が殺到して回線がパンクした。私は、かなり信頼できる筋からの情報に基づいて発言をしたのだが、それが正しいかどうかは問題ではなかった。私の不規則発言を収拾するために、多くのスタッフがかかりきりになってしまったからだ。ただでさえ、制作費の削減で現場に余裕がないなかで、余計な仕事を増やしてほしくないというのが、現場の「本音」なのだ。
 そうした本音は、番組に形式主義をもたらす。例えば、最近は、情報番組で自殺の話題を採り上げた後、必ず「一人で悩まず、いのちの電話などの相談窓口に電話してください」といったコメントが入り、連絡先が表示される。私は自殺の連鎖を防ぐためのカウンセリングは重要だと思う。問題なのは、テレビ局が形式的に「相談窓口に連絡してください」という定型文を付加しておけば、自分たちが免責されると考えていることだ。そうでなければ、いつも同じコメントが繰り返されることはない。自殺は、それぞれの背景が一つずつ異なり、連鎖を招かないようにする手法も、それぞれ違うからだ。
 それは、差別の問題を避けるという報道姿勢にも通じている。日本には、アイヌの差別とか、部落差別の問題がいまだに残されている。本来なら、そうした差別がどのような背景から生まれ、どのような被害をもたらし、その被害を解決するためにはどうしたらよいのかをきちんと検証、報道することがメディアの役割のはずだ。ところが、現在行われているのは、そうした繊細な問題を徹底的に避けるという番組作りなのだ。当然、コメンテータに求められることは、「触れない」ということに尽きる。
 大手メディアがセーフティー・ファースト、つまり事なかれ主義に陥ることの最大の問題は、番組がつまらなくなるということだ。若者のテレビ離れがしばしば話題になる。その原因は、インターネットに市場を奪われたためだと言われる。確かにその影響は大きいだろう。しかし、もう一つの原因は、テレビが本当のことを言わなくなったために、番組自体がつまらなくなってしまったことだろう。どの番組をみても、企業とタイアップした食品をタレントたちが「これすごくおいしい~」と歓声をあげる。どこからも文句を言われない、何の棘もない番組を一日中垂れ流していたら、視聴者に見捨てられてしまって、当然なのだ。
(中略)
 ここまでの事例で分かるように、言論統制には権力者からの圧力に加えて、制作現場の「保身」が大きな役割を果たしている。』(P77〜85)

長々と引用したが、

テレビ局員の仕事は、つぶしが利かない。転職したら、そうした高処遇を放棄しなければならないのだ。

という一文に「なぜテレビは、牙を抜かれたのか」の理由が、ハッキリと示されているだろう。また、

『最近は、情報番組で自殺の話題を採り上げた後、必ず「一人で悩まず、いのちの電話などの相談窓口に電話してください」といったコメントが入り、連絡先が表示される。』

云々については、その「形式主義の偽善」ぶりを、私も森永と同様に批判していた。
まともな人間ならば、あれを見て、何も思わないはずがないのだ。

この「テレビ局の事なかれ形式主義」批判と同様、「差別問題に関する回避」問題についても、私は同様の批判を行なっている。

それは私が、「武蔵大学の教授」で自称「フェミニスト」の北村紗衣に対して、繰り返し突きつけているものであり、下はその一例だ。

『「フェミニスト」を自称して「女性差別反対」を声高に語りながらも、そうした自己の利益に資する「パフォーマンス」にはならない、地味な「反差別運動」たる「部落差別(同和問題)」や「在日朝鮮人差別」「従軍慰安婦問題」「沖縄差別(沖縄米軍基地問題)」といった「今ここの差別」問題については、(※ 北村紗衣は)一言半句語ろうとはしないのだ。
要は「銭にならない差別問題」にまで関わる気はないということであり、北村紗衣にとっての「フェミニズム」とは、所詮、自分が成り上がる(リーン・インする)ための「商売道具」でしかないのである。』

(拙論「映画『教皇選挙』:北村紗衣の解説とカトリックの信仰」より)

本来、「女性差別に反対する」「差別は許されない」と言うのなら、あらゆる差別に反対するのが道理であろう。
それぞれの運動に直接関わることは物理的に不可能でも、それぞれの問題に言及することくらいはできるはずなのに、なぜそれすらしないのか?

それは、そっちに関わっても、個人的には「メリットが無い」どころか、むしろ「損だ」と考えているからに他ならない。

一一そうした意味で、北村紗衣の態度は、「高給取りであるテレビ局員たちの保身」と、まったく同種のものなのである。
「女性差別反対」とは言えても、「権力を批判する」ことにもなりかねない差別反対運動については「敬遠回避」する。
それが「上位の1パーセント」でありたい者、それを目指す者の「保身的な態度」なのである。

『 吉本興業は、2011年からすべての都道府県に住みます芸人と社員が拠点を置く「あなたの街に住みますプロジェクト」をスタートさせ、笑いの力で政府が目指している「地方創生」を実現するというコンセプトを掲げて活動をしてきた。そのプログラムのなかで、地域の魅力を発掘し、BS放送を通じて、全国に地域活性化のヒントを発信するという構想を吉本興業は明らかにしている。利権が欲しいのではなく、あくまでも日本全体の地域活性化に役立ちたいというのが、表向きの放送メディアを獲得する理由づけなのだ。
 吉本興業は2008年3月まで「ヨシモトファンダンゴTV」を放映していたが、それは「スカパー!」の放送枠を利用したものだった。また、大阪のCS放送局であるGAORAを通じた独自制作番組の放映もしていたが、BSよしもとの開局でついに独自メディアを手に入れたことになる。
 しかし、そのことで吉本業が失ったものも大きい。昔から芸能の世界では、「風刺」が一つの分野として確立しており、現代でも、お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの漫才はその典型だ。メンバーの村本大輔氏は、沖縄米軍基地、原発、震災、北朝鮮問題などの繊細な問題もネタとして採り入れ、「朝まで生テレビ!」などの討論番組にも出演した。ウーマンラッシュアワーほど先鋭化してはいないが、爆笑問題の漫才も、ベースは風刺にある。
 また、風刺ネタに限らず、およそ芸能活動というのは、政府から最も遠いところに存在することで、光を放ってきた。芸能人に品行方正を求めるということは、その光を奪うということにつながる。
 私が長年お世話になってきたお笑い芸人がいる。常日頃から「不純異性交遊をするために芸人になったのに、それができなくなったら、何のために芸人になったのか分からない」と言っていたのだが、彼は大変賢い人なので、コンプライアンス元年以降の環境変化を敏感に受け止めて、数人いた愛人をすべて「処分」した。彼が一般人と同じ品行方正の行動を採るようになった結果、いまだに第一線で活躍を続けている。
「芸人は愛人を抱えてよい」と言っているのではない。ただ、正直に言うと、彼の芸は、品行方正になる前のほうがはるかに面白かったのも事実なのだ。
 吉本興業が収益を拡大させるために行った政府との距離を縮める経営戦略は、批評ネタを封じ、芸能を萎縮させるという「文化破壊」をもたらしたのだ。』
(P97〜99)

吉本興業が「政府に食い込んでいる」というのは、テレビを当たり前に見ていればわかる明白な事実である。
だが、そのために芸人たちは「品行方正」「コンプライアンスの厳守」が求められ、「無難」な身過ぎ世過ぎを求められているから、芸がどんどんつまらなくなっているという。そして、ここでも森永卓郎は、

『「芸人は愛人を抱えてよい」と言っているのではない。ただ、正直に言うと、彼の芸は、品行方正になる前のほうがはるかに面白かったのも事実なのだ。』

と書いているが、まさにこの「正直さ」こそが、こんな「時代」への抵抗なのだ。

そして同じことを、私の興味に引きつけて言えば、こうなる。

「差別発言をしてもよい」と言っているのではない。しかし、過剰なポリコレ的配慮による「言葉狩り」が当然のものとなれば、私たちは「事実を語る言葉」さえも、同時に失ってしまうのだ。

次は(2)で言及した「池上彰問題」である。

『 権力を監視し、追及するという従前のジャーナリズムの役割を放棄し、「解説」に徹するという新しいコメンテータ像を池上彰氏は確立したのだ。
 財務省や首相官邸の圧力を受けて、大手メディアが政府の意向にそった報道しかしなくなるなかで、国民はメディアが垂れ流す中身のない「論評」にうんざりしている。だから、池上氏は、論評を捨て、解説に徹する。池上彰氏自身も「私はできるだけ自分の意見を言わないようにしています」と日ごろから話している。大竹まとと氏の番組に出演したときも、ひと通りの解説が終わったのを受けて、大竹氏が「それであなたはこの問題に対してどのような意見を持っているんですか」と聞くと、池上氏は、「それは言わないようにしています」と答えたそうだ。
 おそらく、視聴者は、コメンテータの意見を聞くのは時間の無駄で、分かりやすい時事問題の解説を聞いておけば、会社や学校に行ったときに、周囲とのコミュニケーションに役立つ。それだけで十分だと国民は考えるようになったのだ。
 かつてテレビ朝日に、『スマステーション!!』という香取慎吾さんが司会を務める番組があった。その番組では、解説者が時事問題を分かりやすく解説するというコーナーがあった。不定期出演だったが、私もその解説者の一人を務めていた。
 2011年頃だったと思う。その日のテーマは、「なぜアジアに駐留する米軍は沖縄に集中しているの?」というものだった。記録が残っていないので、正確ではないが、私はおよそ、次のような解説をした。

 米軍には、陸軍、海軍、空軍の他に海兵隊という部隊がいる。海兵隊は、先遣部隊で、敵地にいち早く上陸し、後からやってくる軍隊のために現地の港湾や空港、道路などを確保、占領する。海兵隊は言ってみれば、殴り込み部隊なので、そもそも「防衛」の役割はない。沖縄の駐留米軍は、普天間にしろ、嘉手納にしろ、海兵隊の基地なので、日本を守るという役割はそもそもない。それでは、なぜ沖縄に海兵隊が駐留しているのかというと、台湾有事などの際に、いち早く戦地に海兵隊を送り込んで、戦争を優位に進めるためだ。つまり、防衛ではなく、侵攻が主要な目的だ。さらに言えば、日本がアメリカに逆らったら、まっさきに日本を攻めてくるのが、沖縄の海兵隊の役割なのだ。

 私は、自分がコメントをしている最中から、スタッフが青ざめはじめ、スタジオが凍り付いていくのをはっきりと感じた。もちろん、私のコメント収録は完全に「ボツ」になった。そこで急遽代役として呼ばれたのが、池上彰氏だったのだ。
 池上氏の解説は、見事なものだった。面倒な安全保障日米地位協定など日本の対米隷属には一切触れず、地政学的な見地から、いかに沖縄がベストのポジションに立地しているのかを説得力をもって「解説」したのだ。その後、私の『スマステーション!!』への出演機会は激減し、それとは対照的に池上氏はメディアの寵児となっていった。最近では、池上氏はどんなテーマでも、やさしく解説してくれる識者としての地位を確立した。「池上無双」と呼ばれ、まるで全知全能の神様のように崇め奉られている。
 もちろん、池上氏は神ではない。それではなぜ池上氏は神格化されたのか。そこには、こんな番組制作上の仕掛けがあると私は考えている。
 まず、池上解説を行うテーマが決まると、テレビ局のスタッフがリサーチをかけて、池上氏が行う解説内容を決める。池上氏は論評をせずに解説に徹するのだが、世間が驚くのは、そこで披露される博覧強記ぶりだ。例えば、コロコロ変わったイギリスの首相の名前をスラスラと挙げていく。世間は驚くが、事前に調べていて、スタジオの池上氏の前には、コメントのカンペ(カンニングペーパー)まで出ているのだから、スラスラ言えるのは、当然のことだ。ただ、そうした「博識」を披露するだけでは番組は成立しない。世間が「そうだったのか」と納得する意外な真実の提示がどうしても必要になる。そうしたネタは、ネット・リサーチではなかなか出てこない。そこで番組スタッフは、そのときのテーマの専門家に接触して、おいしいとこ取りをするような形で、世間が驚くネタを仕込んでくる。しかもそれをノークレジットで使用する。
知的成果物の横取り、ブレイン・ピッキングと呼ばれる手法だ。

この「ブレイン・ピッキング」の裏づけとなると証言の部分は、長くなるので省略)

 もちろんブレイン・ピッキングを行っているのは、番組スタッフであり、池上氏本人ではない。池上氏は抜群のトーク能力を生かして、スタッフが作り上げた台本にしたがって解説者を演じているだけだ。イメージとしては、紅白歌合戦に登場する「巨大小林幸子」のようなものだと私は考えている。池上氏は一見、巨大な神のような存在にみえるが、胴体は張りぼてで、その上に抜群に歌の上手い小林幸子が乗っかっているという構造になっているのだ。
 ただ、その仕掛けには、致命的な弱点がある。それは「外からの力」に弱いということだ。少しでも横から突っ込みを入れられると、あっと言う間に瓦解してしまうのだ。
 それを防ぐために番組スタッフが採用した手法が、池上氏の番組に「イエスマン」だけを呼ぶということだ。番組のなかで池上解説を聞いたイエスマンたちは、「なるほど」「そうだったんだ」と、池上氏の見事な解説を絶賛する。決して解説に疑問を差し挟んだりはしない。そうした忖度ができるタレントだけで池上氏を取り囲むのだ。
 実際、池上氏の番組に出演したタレントに聞くと、彼らが池上氏にする質問も事前に決められていて、そのときに思い付いた別の質問をしても、「では次の質問に行きましょう」とスルーされてしまうそうだ。
 実は、私は、池上氏が大ブレイクする前に、ラジオ番組のイベントで、池上氏と二人で経済に関する討論をしたことがある。その際、私が軽い横やりを入れただけで、「池上解説」はあっけないほど簡単に音を立てて崩れてしまった。そのときの感触で言えば、池上氏の経済に関する知見は高校生レベルでしかなかった。それは当然のことだ。池上氏の経歴のなかで、経済の専門的な研究をしたことは一度もないからだ。私はこれでも、40年以上経済分析の仕事に携わってきた。だから、池上氏と直接対決の経済論争の場を与えてくれたら、10分以内に100%論破できる自信が私にはある。
 また 池上氏のもう一つの弱点は、「知らない」というセリフを言えないことだ。私は、たとえ経済に関することでも、ファッションや化粧品や美容に関することを聞かれたら、「その分野はまったく分かりません」と堂々と言う。知らないことで、いい加減なことを言うと、その後の議論の展開のなかで、その点を突かれて、やり込められてしまうからだ。ところが池上氏に「知らない」というセリフは許されない。全知全能の池上無双は、何でも知っている知の巨人でなければならないからだ。
 さらに、池上氏にとって最大の制約は、財務省や政権にとって致命的になる批判ができないことだ。大手メディアに出続けるためには、それが絶対条件になっているからだ。
 このように池上解説の正体は、実はガラス細工のように精密に組み上げられた楼閣であり、そこに外力を加えてくるような批判者は、けっして近づけてはならないのだ。
 実際、ラジオイベントで池上解説を私がぶち壊した直後、池上氏からラジオ局の幹
部に強い要請がなされた。それは、「二度と森永とは共演させないで欲しい」というものだった。それは、現実のものとなり、私はそれ以降、池上氏との共演が、すべてのメディアを通じて、一度もなくなっている。
 最近、池上氏は「もっとも信頼できる情報メディアは何ですか」と聞かれて、「それはテレビです」と答えたそうだ。
 官邸や財務省に徹底的な忖度をし、国民から批判精神を奪い、そして高報酬を受け続けるテレビ局の正社員の高報酬を維持するための番組作りをしている中心人物が、「テレビの情報が最も信頼できる」と言うことは、私にはブラックジョークとしか思えないのだ。』
(P108〜116)

池上彰という人に対して私たちが持っていた「博学」というのは、実は「作られた虚像」に過ぎなかったのだ。

池上がやっているのは、「アナウンサーが原稿を読み上げる」のと、本質的には何ら変わらないものでしかない。アナウンサーは、基本的には、自分で原稿を書いているわけではないのである。

しかし、池上彰の凄いところは、他人の書いた原稿を、さもすべて自分の知識であるかのように語れる「役者ぶり」なのだ。
本当は、よく知らないことでも、他人の知識や意見の「パクリ」であっても、さもそれを「自分独自のもの(オリジナル)です」という顔で、平然と人前で語れる、その神経なのである。

私が、池上彰という人が「信用ならない」と考えたのは、前述のとおり、池上が、自称「作家」の、佐藤優の盟友であったからだ。

私は以前から、佐藤優のことを「コウモリ男」と呼んで批判していた。
その理由は、佐藤は、沖縄出身者として安倍晋三政権を批判しれリベラルぶりながらも、その一方では「保守」勢力に媚びる本を書いたり、創価学会公明党に媚びまくったり、原子力発電を推進するための、電力会社の連絡組織である「電気事業連合会」から大金をもらって原発擁護の原稿を書き、そのことを評論家の佐高信に指摘されると「そんなには、もらっていない」と主張して、佐高を「スラップ裁判」にかけたりしたような男だったからである。

つまり、こんな佐藤優と仲良くできるような男は、本質的には同種の「コウモリ男」であろうと疑われたのである。

だから、森永の指摘した「解説はすれども、批判はせず」といったところが、いかにも「佐藤優の盟友」だと、私は深く納得させられたのである。佐藤優もまた「博学」で知られ、「知の巨人」などと持ち上げられた人物なのだ。
一一もっとも最近は、お得意の「対談本」の出版ペースさえ落ちているようだが。

ちなみに、池上彰「ブレイン・ピッキング」の厚かましさという点は、私の批判する自称フェミニストの北村紗衣にも、ピッタリ当てはまるところだ。

その著作を分析して批判したとおりで、北村紗衣は、読解力や批評能力が低い。

そのため、北村紗衣の著作における「売り」となっているのは、「“男は敵だ”式の通俗フェミニズム」と、あとは「一般人が知らないオタク的な知識の披露」である。
だが、「大学教授・研究者・学者」を名乗っているからには、さすがにたまには「専門知識」の披露もしなければならない。一一そこで北村紗衣がやるのが、一般人は決して読まないだろう、マイナーな研究論文や英字論文から得た知識を、さも自分独自の知見であるかのように語る(書く)、というペテンなのだ。

次に紹介するのは、文学研究者・小谷野敦による、北村紗衣『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』についての、Amazonカスタマーレビューである。

『(※ 著者の北村紗衣は)「精読」と言い(※ その必要性を訴え)つつ映画の話が多いが、映画はどう「精読」するのか、もうちょっと実例を含めて説明してほしかった。
 著者自身の作品へのコメントが面白くない。(※ 映画)「アンソニーとクレオパトラ」「ミッドサマー」についての部分など、「どこがオチ?」とか思ってしまう。渾身の作であるらしい「ごん狐」におけるうなぎの話(※ 北村紗衣の指摘)もさほど面白くない。
 日本の作品(※ 日本の文学作品への言及)が少なすぎる。(※ 専門である)シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーってのは若い読者にはいいのかしれんが。なお(※ 志賀直哉の小説)「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。』

Xのフォロワー5万人」を誇る北村紗衣は、自分の若い読者が、知名度の低い国文学者の論文など読んではいまいと、しらっとした顔で、あの「ブレイン・ピッキング」をやっているのである。

だが、こうしたことを繰り返し指摘したためなのか、最近の北村紗衣は、英字論文からそれを行うようになっているようだ。
つまり、原著者の知見を、さも自分の発見であり見解であるかの如く書いておいても、文末に「参考文献」として、その英字論文を英字のまま載せておけば、誰もその中身までは確認しないし、「参考文献」として挙げているから「パクリではない」と、そう主張することもできるためである。
しかしながら、「公正(フェア)」にやるつもりがあるのであれば、文末に「参考文献」として挙げておくだけではなく、本文中に「これは、〇〇が『〇〇』の中で指摘していることなのだが〜」というふうに断ることくらい容易だし、良心的な書き手ならそうするだろう。
だが、池上彰北村紗衣は、意図的に「知ったかぶり」を装っているのだから、そんなに正直な書き方など、するわけがないのである。

ちなみに森永卓郎は、このことに関して、次のように書いている。

『池上氏のもう一つの弱点は、「知らない」というセリフを言えないことだ。私は、たとえ経済に関することでも、ファッションや化粧品や美容に関することを聞かれたら、「その分野はまったく分かりません」と堂々と言う。知らないことで、いい加減なことを言うと、その後の議論の展開のなかで、その点を突かれて、やり込められてしまうからだ。』

これなども、「論争家」を自負する私と共通する態度である。つまり、

「知らないことは知らない。全てを知っている人などいないのだから、知らないことを知らないと正直にいうことは、なんら恥じるべきことではないし、論争においては、知ったかぶりは致命傷になることもあるから、そんなつまらないことはしない方が良い」

というのが、私の従来からの考え方なのである。

その点、北村紗衣の場合は、専門の「英米文化」(英米文学ではない)関係は別にして、あと詳しいのは「映画」と「音楽」であり、言い換えれば、「日本文学」などはほとんど読んでいないというのが、日本文学を愛好する私や小谷野敦には、見え透いてしまうのだ。

しかし、ここで問題なのは、日本文学をほとんど読んでいない様子の北村紗衣であれば、志賀直哉を読んでいない蓋然性も低くはなく、ましてや「志賀直哉に関する研究論文」などほとんど読んでいないはずなのに、なぜ前記のように志賀直哉の短編「クローディアスの日記」に関する研究論文を読んでいたのかと言えば、それは無論、この作品が、北村紗衣の専門である「シェイクスピア」を元ネタにしたものだったからであろう。
つまり、北村紗衣としては、シェイクスピア研究の一端として「榊敦子の論文」を読み、こりゃあ面白いと思い、また「国文学」は自分の専門ではないという気やすさから、学者としては失格の「ブレイン・ピッキング」をやったということなのである。

そんな調子だから、北村紗衣のエッセイで評判の良いものというのは、たいがい「マニアックな知識のひけらかし」であり「参考文献に英字論文が挙げられている」ものだということにもなる。自分の体験や考えを語るだけでは、薄っぺらすぎて、読めるものにはならないのだ。

それに、海外の学者の研究成果を、さも自分の研究成果のごとく喧伝するというのは、日本の三流学者のお家芸でもあるし、そもそもオリジナリティなど望むべくもないような凡庸な学者には、それしかできないということなのである。

『 いま財務省が考える新しい社会のグランドデザインは、おおよそ次のようなものだ。
高齢者の暮らしを社会保障カットで追い詰めることで、体が動く限り、労働を続けさせる。そうすれば社会保障給付をさらにカットできるだけでなく、彼らから税金や社会保険料を徴収することで、さらなる財政収支改善効果が出てくる。ただ、高齢者は永遠に働き続けられるわけではない。納税マシンとして使えなくなったら、彼らは姥捨て山に送られる。そして社会の負担にならないように医療や介護のレベルを下げることで、一日も早く命が奪われるように仕向けるのだ。
 いまの若手論客に共通する高齢者への認識は、そうした財務省の戦略に基づいて作られたものだ。財務省は先の先まで読んで、新しい論壇のリーダーたちの「洗脳」に取り組んでいるのだ。
 そしてその戦略に極端なレベルまで迎合したのが、イエール大学・アシスタントプロフェッサーの成田悠輔氏だと私は考えている。
 成田悠輔氏は、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」といった発言を繰り返し行っている。その発言に対しては、世界中から非難の声が上がっている。当然のことだ。私は、マスメディアの重要な役割の一つは、差別と闘うことだと考えているし、実際に日本のマスメディアは、差別に対して相当気を使ってきた。だから、例えばコメンテータが「LGBTは集団自決せよ」とか「障碌者は集団自決せよ」などという言葉をおくびにでも出したら、そのコメンテータは即刻、永久追放になる。ところが、不思議なことに高齢者に対してだけは、それが許されている。実際、成田悠輔氏はメディアから排除されることなく、いまだにテレビにも出続けている。もちろんその背景には、メディアの財務省への忖度がある。』
(P128〜130)

成田悠輔に見られるような「政府が望む方向であれば、差別発言も許される」という事情は、北村紗衣における「政府の望まない差別問題には言及しない」という態度と裏表の関係にある「ご都合主義」だと言えるだろう。

こうした人たちは、高齢者や男性などの「他者」を叩き、そんな人たちを「犠牲」にしてでも、自分個人が成り上がれるのなら、それでかまわないと考えているのである。

だが、こうした「偽善者たち」に憤りを隠さないことこそが、森永卓郎と私の共通点であり、及ばずながら、私が森永から受け継ぐべき「精神」なのだと思っている。

(2025年4月27日)



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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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