BBCテレビドラマ 『高慢と偏見』 : 北村紗衣推薦の「シンデレラ+α」
テレビドラマ評:サイモン・ラングトン監督『高慢と偏見』(1995年/イギリス)
ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)を原作とした、イギリスのテレビ局BBCが制作した、各話55分・全6回のドラマである。
テレビドラマというのは、国内外を問わずほとんど見ないのだが、本作は「フェミニズム」関連で少し興味のあった作品で、中古DVDがわりあい安く手に入いったから見ることにした。
原作小説は文庫本で上下巻になることもあるくらいそこそこ長い作品で、また、どうやら基本的には「恋愛もの」みたいなので、私には、この原作小説を読もうと思うほどの興味はなかった。かと言って、通常の尺の映画では、おのずとカットされる部分も多いは明らかなので、この6時間弱のテレビドラマはちょうど手頃だったのである。
また、幸いなことに、「Wikipedia」によると、本作は、映像化作品としては可能なかぎり原作に忠実に作られたようである。
『(※ 「制作(プロデューサー?)」の、スー・)バートウィッスルと(※ 脚本家の、アンドルー・)デイヴィスは小説の格調と精神に忠実でありながら、「日曜のお茶の時間に放送される昔ながらのスタジオで撮られたBBCドラマ」ではなく「現実の人々によるフレッシュで生き生きした物語」を作りたいと考えていた。セックスと金銭を物語のテーマとして強調することで、デイヴィスはエリザベスのみならずダーシーにもスポットを当てた。キャラクターを生身の人間として描くため、デイヴィスはベネット家の娘たちが社交界に自分たちを売り込むためにドレスアップをするシーンなど、短い背景的な場面を挿入した。男性たちが趣味的な交際をする場面は、女性に焦点をあてたジェーン・オースティンの原作にはない部分である。最大の技術的問題は物語の後半にある長い手紙の翻案で、デイヴィスはボイスオーバーやフラッシュバックといった技法を用い、登場人物が独りで、あるいは互いに手紙を読む場面を挿入した。デイヴィスは現代の観客に分かりやすくするために出来事を明確にする会話も付け加えたが、小説の会話の大部分は手を加えられずに組み込まれた。』
(Wikipedia「高慢と偏見」(テレビドラマ))
『「日曜のお茶の時間に放送される昔ながらのスタジオで撮られたBBCドラマ」ではなく』という部分は、個人的にはあまりピンと来なかった。
と言うのも、前述のとおりでテレビドラマは基本的に見ないのだから、ましてやイギリスのBBCのテレビドラマが、通常どのようなものかも知らないからだ。
ただ、私が唯一よく知っているジェレミー・ブレット主演のシリーズドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』(英国グラナダTV制作・1984〜1994年)などでは、屋外シーンのロケ撮影も多く、今回の『高慢と偏見』と、さして違わないという印象であった。
ということは、『高慢と偏見』のような力の入った作品は、名高きBBCのドラマとしても、やはり例外的なものだったということなのかも知れない。
ともあれ、本作ドラマ版『高慢と偏見』は、アカデミー賞映画『英国王のスピーチ』などで知られるイギリスの人気俳優コリン・ファースの出世作ということもあり、とても評判の良いテレビドラマである。

私が見たDVDのケース裏面の解説文には、本作の本放送当時「放映時間になると、通りから人影が消えた」という体験的逸話が紹介されている。
『女の子の永遠の夢=リッチで知性があって背が高い殿方と結婚するには?
このドラマを見て、はまらなかった人を私は知らない。BBCでリアルタイムで放映されたとき、イギリスに留学していたのだが、知り合いは男も女も学生も教授も全員、見ていた。放映時間中はマジで通りから人が消え、主役のダーシー様役コリン・ファースの人気は「ロンバケ」時のキムタク状態。あまりにのめりこんだヘレン・フィールディングという人などはこれを現代版にアップデートした小説まで書いてしまった。それがもちろん『ブリジット・ジョーンズの日記」である。日本でもNHKが放映したところ、爆発的な人気で、リクエスト再放送が2回。録画ビデオがこっそり街に出まわった。
なんでこんなに人気が出たか? それはもうおもしろいからだ。早い話が英国風光明媚メロドラマの巨匠J・アイヴォリー監督作品をもっと下世話にして、ポップにしたラヴ・ストーリーなのだが、原作が英文学の古典とは思えないほどテンポ早い早い。リズムよいよい。出演者が異常に多いのにキャラ立つ立つ。6時間があっという間です。週末に幸せになりたければぜひ。
CUT/ロッキング・オン:鈴木あかね 』
紹介文の見出しに『女の子の永遠の夢』とあるとおりで、本文中に『このドラマを見て、はまらなかった人を私は知らない。』『知り合いは男も女も学生も教授も全員、見ていた。』とはあっても、それはあくまでも地元イギリスでの話であり、日本においては、おおよそのところ「女性で、ハマらなかった人はいない」ということなのではないだろうか。
無論、男性の中にも「ハマる」人はいるだろうが、女性ほどの熱狂はあり得ない、と思う。
なぜなら本作は、あくまでも「女性目線」のドラマだからで、その意味では、女性がヒロインに感情移入するというのはわかりやすいところだし、なるほど、女性フェミニストが取り上げたくなるような内容の作品だというのも、十分に理解できるところであった。
では、私個人の感想はというと「完成度の高いドラマで、それなりに楽しく見ることができた」一一という感じである。
つまり、見て損をしたとは思わないが、私の好みではないので、「フェミニズム」関連の資料として見るのでなければ、決して見なかった作品だった、とは言えるだろう。
私が、本作に興味を持った直接のきっかけは、私が批判しているフェミニスト北村紗衣の第一著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』などで、本作が『ジェーン・エア』や『嵐が丘』などと共に、取り上げられていたからである。
北村紗衣がその著書で触れていた作品を、ぜんぶ読もうという気はさらさらない。
だが、文学書(小説・批評・研究)を読んでいれば、こうした女性作家による古典的傑作のタイトルをくり返し眼にすることになるため、いちどは「読んでおこうかどうしようか」と躊躇することにもなる。しかし、あらすじを確認すると、どうにも触手が動かない。
これらの作品がどうだったかは覚えていないが、女性が主人公の作品は「恋愛」がらみのものが多く、そのあたりで私は興味を失うのである。
小説作品を、映像化作品で代用して、知ったつもりになるというのが間違いだというのは、活字派として重々承知している。
だがまあ、まったく無知であるよりはマシだし、あらすじだけではわからないところもわかる。また、映画を見て「活字なら、こんな感じかな」と推察できる部分ないではないから、見ないよりはマシ、勉強にはなった、というレベルで、本作を鑑賞したのであった。
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本作の「あらすじ」は、原作小説の「Wikipedia」に詳しいので、興味のある方は、そちらをご参照願いたい。
イギリスの歴史や社会構成に詳しいわけではないのだが、どうやらイギリスは、今でも階級制度の残っている国のようだ。「王室」もあれば、「サーの称号」だとか「ナイトの称号」をもらったとか言っている、あれである。
しかし、「民間から王室に、嫁入り、入婿する」こともあれば「サーの称号」をもらうこともあるのだから、階級間の移動がまったく不可能だというわけわけではない。
原作『高慢と偏見』は19世紀初頭の作品だが、当時のイギリス社会もまた同様で、今よりも格差意識が強かったとしても、それでも階級間移動が不可能だったようではなさそうだ。
また、そうした意味では、インドのカーストとか、日本の「士農工商」といったものより、ずっとゆるいもののようである。
本作『高慢と偏見』の場合は、中流の家庭(上流の下?)の娘が上流の(上流)男性と結ばれる物語である。
中流のベネット家には5人の娘がいるのだが、当時は、妻や娘などの女性には家督の相続権が無かった。そのため、当主である父親(家父長)が亡くなってしまうと、家財も含めてすべては親類の男子、ベネット家の場合には、甥に持っていかれ、残された家族たる妻や娘は、その甥の温情にすがって生きなければならなくなってしまう。つまり、今より生活レベルが下がるのはまず間違いない、あなた任せの不安定な身分になってしまうのである。
そのため、母親は娘をなんとか良い男性と結婚させたいと焦っている。私にはよくわからなかったが、娘婿つまり義理の息子には相続権があるということなのだろう。

だから、母親としては、5人のうちの一人だけでも早く結婚させたいのだが、しかし、だからと言ってどんな相手でも良いというわけにはいかない。当然のことながら、できれば、自家よりも格上か、財産を持っている男性に嫁がせた方が良いには決まっている。一一しかしまた、高望みをしすぎて、婚期を逸するわけにもいかない。
そんなわけで、夫が先に死ねば自分の身分が不安定になる母親の方は、かなり焦り気味であり、一方の父親の方は、結婚はさせたいが、娘に不幸な結婚をさせたくはないと、さほど焦っている様子ではない。
まあ、今すぐ自分が死ぬかも知れないなどと想定することはないのだから、父親は、そういう余裕のある態度にもなるのであろうが、ドラマとしては「生活の安定のために、娘たちの結婚のことばかり口にしている、騒々しい母親」と「娘たちに理解のある、落ち着いた父親」という感じの描写になっている。
本作の主人公は、次女のエリザベスで(ジェニファー・イーリー)、彼女は姉妹たちと参加した資産家青年ピングリーの開いた舞踏会で、ビングリーの友人で、さらに桁違いの財産家の青年ダーシーと(コリン・ファース)初対面する。
だが、ダーシーは、階級意識が強い上に、無口で無愛想な男だったので、勝ち気なエリザベスの、ダーシーに対する印象は、最低であった。
しかしなからこの物語も、最後はこの二人が結ばれて、ハッピーエンドとなる。

ダーシーは初対面の時からエリザベスに惹かれるものを感じていたのだが、その階級意識から、エリザベスに積極的に近づこうとはしなかった。
また彼は、基本、真面目で口下手な不器用な男なので、適当に「遊ぶ(だけ)」というようなことは出来ず、ただ、気になるエリザベスを、離れたところから無愛想な顔で、じっと見つめているということしか出来なかったのである。
つまり、このあたりが、本作のタイトル『高慢と偏見』の「高慢(プライド)」ということになるのだろう。
「高慢」というのは、否定的な性格を意味しており、普通の意味では「プライド」の訳語にはならない。だから、原作の翻訳タイトルも『自負と偏見』『自尊と偏見』となることもあり、本作の『高慢と偏見』の「高慢」とは、ダーシーの性格に合わせた意訳なのである。
ダーシーの「プライド(自負・自尊)」は、当初、鼻持ちならないものとしてマイナスに働いたから、「高慢」ということになったのだ。
では、訳語が共通している「偏見」の方はどうだろうか?
ダーシーに、エリザベスらに対する「階級的な偏見」があったというのは間違いない。
しかし、本作の視点は女性側にあって、第一の主人公はエリザベスなのだから、タイトルがダーシーのことだけを語っているとは考えにくい。
つまり、この「偏見」というのは、エリザベスのダーシーに対する「当初の偏見」という意味合いの方が強いと、そう考えるべきだろう。
ダーシーは「本当はいい奴」なのだが、彼の不器用に発する無愛想さと、階級意識のとらわれた一部の発言だけを捉えて、ダーシーを「嫌な奴」と決めつけてしまったエリザベスにも、確実に「偏見」はあったのだ。
では、タイトルの『高慢と偏見』は、「ダーシーの高慢、エリザベスの偏見」だと考えて良いのだろうか?
一一基本的にはそう考えて良いだろう。
だが、前述のとおり、エリザベスにも「私には人の価値を正しく見抜く力がある」といったような「自負=高慢」があったし、ダーシーの方には、他人を階級で見るのいう「偏見」があった。
つまり、本作の『高慢と偏見』というタイトルには、エリザベスとダーシーの双方が、共に持つ難点を表現したものなのだが、ただし、実際の社会階級や性別の問題があって、「高慢」は主にダーシー、「偏見」は主にエリザベス、という感じになっているのであろう。
本作は「階級社会であるが故の偏見による誤解を乗り越えて、エリザベスとダーシーが相互理解を深めることで結ばれる」と、そういうお話なのである。
したがって、一般的には、女性からすると「最初は、嫌味なキザ男と思えたが、実は素敵な男性だった」という、そんな「プリンス」の登場する、「日本の少女マンガ」的にも定番的な、シンデレラ・ストーリーということになるのだろう

だが、その一方で、「フェミニズム」的に見れば、「男女差別」+「階級差別」という「インターセクショナリティ(交差性)」の問題を読み取れる作品だ、ということにもなるのだろう。
女性フェミニストにしても「女」だから(その多くは)、やっぱり「素敵なプリンス」によって見染められる「シンデレラ・ストーリー」というところに惹かれるのだろうし、その一方、シンデレラのように「プリンスの登場を待っているだけ」ではなく、女性の側からの「自己主張」をし、失敗もするけれど、みずからも積極的に動き、それでいて最後はまた、プリンスが彼女を危機から救ってくれるという「頼もしさ」が、また格別だ、ということにもなるのだろう。
しかしながら、こうした展開は、男性目線からすれば、所詮は「女性らしいファンタジー」の域を、まったく出ないものとしか見えない。
つまり、シンデレラのような「受け身」ではなく、それに「女性の側の積極性」が加わってはいるとしても、やはり、女性視聴者が自己を投影するヒロインには、理想的なプリンスに見染められるだけの「特別な価値がある」という、フィクションならではの手前味噌な幻想に裏打ちされた、ファンタジーでしかない。
そもそも、上流のイケメン男性が、階級的に下の、そこそこの美貌の持ち主だが、負けん気は強く主体性のある女性を好きになる可能性というのは、現実にはあまり高くはない。
事の善悪は別にして、現実の男性の多くは、従順な女性の方が好きなのだし、それは、現実の女性の多くが、自分に従順な男性を好むのと同じことである。
例えば、北村紗衣が、マーガレット・サッチャー(元英国首相)を称揚する男まさりの性格で、それが過ぎて、わかりやすく「いけ好かない」性格であったとしても、それなりに「Xのフォロワー50,000人強」というファンがつくのは、もちろん北村が、学者の中では、それなりに美人の部類だからに他ならない。
言い換えれば、北村紗衣よりも頭の良い、学者として有能な女性フェミニストだったとしても、歳をとっていたり、不美人であったりすれば、北村紗衣ほどの「人気」を得ることは、現に出来ていないのだ。
もちろん、この「人気」というのは、資本主義社会における「商品」としての人気ということであり「学者としての、文化貢献的な価値」とかいった間接的なものではなく、「タレント本」を出せる(金を取れる)とか、イベントで人を集められる(金を取れる)とか、大学の「広告塔」になれる(金を取れる)とかいったことだ。
すでに「学問の府」としての特権を保証されなくなって、自前で稼ぐことを期待されるようになった「大学」には、そういう「金を取れる」存在が、何より必要とされているのだ。北村紗衣は「武蔵大学」のテニュア(終身雇用保証)教授なのである。その「学者的実力」があるとは、とうてい思えなくてもだ。
まあこれが、「貧すれば鈍する」ことになった、「非文化立国」日本の、偽らざる現状なのである。
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そんなわけで、本作『高慢と偏見』が、若い女性に人気があるというのは、わかりやすいところだし、本作が女性フェミニストによって語られる機会が多いというのも、ほとんど同様の理由で、わかりやすいところだ。
だが、基本「女性のための恋愛ファンタジー」である本作を、それでも男性が、心から楽しめることなど、ほとんどないのではないか。
エリザベスがダーシーに見染められたのは、まずは「外見(ルックス)」であって、決してその「性格」故ではなかったし、ましてや、「思想」の故などではない。
なにしろ最初は、会話すらしていないのだから。

つまり、本作が「女性向けファンタジー」として成立しうるのは、「男女差別」や「階級差別」という問題については、一応は対応した内容ではあっても、こと「容貌差別(ルッキズム)」については、不問にふしているからこそ、なのである。
どんな女性フェミニストだって、醜男よりはイケメン(美男)の方が良いに決まっている。だから、女性フェミニストが好むドラマや映画の主演男性がイケメンであるのは、しごく当然のことなのだ。
本作の主演は、若きコリン・ファースなのだし、北村紗衣が好きな俳優はレオナルド・ディカプリオと、実にわかりやすいしそれを隠すつもりもないようだ。
しかし、ならば男性が女性の「容貌」を問題にするのは、基本的には何ら問題はないであろう。
例えば、「ルックス」こそが、その「商品価値」の重きをなしているような職業、俳優とかタレントとかモデルとかいった職業に就いている者が、その「ルックス」を「論評」されるのは、致し方のないところだ。
つまり「おばさんになっちゃったな」とか「劣化しちゃったな」などと言われるのは、残酷なようだが、仕方のないことなのだ。
それは、「このキャベツ、ここが痛んでるから、半額にしろ」と言うのと、まったく同じなのである。
もちろん、人間には感情があり、そうした言葉によって傷つけられるのだから、当人の前でそれを口にするのは、可能なかぎり避けるべきである。
だが、場合によっては、一一例えば、当人に「商品価値の低下」を自覚してもらうためには、それをハッキリと伝えなければならないこともあるだろう。
それは、仕事が出来なくなって高齢男性に、以前と同じだけの賃金を当たり前に要求された際に「いや、貴方の現在の仕事量はこれだけですから、それ相応の給金しか払えません」と伝えなければならないのと、同じことだ。
そのあたりを「相手が傷つくから」という理由で曖昧にしておくわけにはいかないのが、このシビアな「資本主義」社会というものなのである。
そんなわけで、この資本主義社会を容認し、その社会の中で利益を得ている者は、誰人もそうしたシビアな評価を避けることができない。
例えば、資本主義社会下でも、身体障害者などは、そうした「実力主義」からの保護を受け得るとは言っても、その保護を受けんがためには、自身が「人並みの能力を持たない存在」だということを、証明しないわけにはいかないだろう。
それが無ければ「障害者」認定はされないからだ。単なる「自分の気持ち」や「自己申告」では認められないのである。
また、だからこそ、客観的には「生活保護」を受けて然るべき人が、それを受給しないまま餓死するなどの悲惨な事件も、現に発生する。
彼(女)らは、自身を「弱者」や「無能力(低能力)者」だとは認めたくなかった。「憐れまれるべき人」だとは認めたくなかったから、「生活保護受給対象者であることの自己証明」を拒絶したのだ。
彼らには、そんな「誤ったプライド」と「現行社会システムに対する偏見(誤解)」があったのである。
だから、私たちは本作、ドラマ版『高慢と偏見』が、美男美女俳優によるフィクションであることを忘れてはならないし、それを忘れさせるのが「資本主義という残酷なシステム」だということにも気づくべきだろう。
自分たちの権利を強く主張する人たちがいる一方で、その権利を主張しないが故に社会から置き去りにされていく人たちもいる。
しかしこれは、前者が正しく、後者が間違いだと、単純に断ずることのできない問題であろう。
ただし、「この資本主義社会下において」という「条件」を認めるのならば、自分たちの権利を強く主張する人たちの方が、正しく、その権利を主張しないが故に、社会から置き去りにされていく人たちは、間違っている、ということになるのだろう。
だが、それで良いのだろうか?
私たちは、この資本主義社会下の現実において生き残るために、したたかにその権利を主張しなければならない。そうでなければ、生き残れないからだ。
しかしながら、だからと言って、その態度が「正しい」のかと言えば、必ずしもそうではないだろう。ましてや、それが「美しい」とは、とうてい呼びがたいのではないだろうか。
私たちは、この決して美しくも優しくもない資本主義社会下にあって、おのずとしたたかで残酷な存在にならなければ、生きていけないのかもしれない。
だが、少なくとも、そんな自身の「醜さ」を完全に忘れて、「勝者」であることを無条件な誇れるような人間にだけは、なりたくないと、私は思う。
「イケメンの貴族男性」と結ばれたからハッピーエンド、などという単細胞なファンタジーに惹かれない自分を、私は肯定したいと思っている。
残酷な資本主義システムの中で生きざるを得なくても、それに妥協して薄汚れなくてはならないとしても、それでも「お前なんかの、意のままなはならない。指の1本でも噛みちぎって死んでやる」という「自負」を持ち続け、資本主義社会の押し付けてくる、イーロン・マスク的、あるいは、北村紗衣的な「価値観=勝者意識」に、しぶとく抵抗したいと、私はそう願うのだ。
だから、私の好きな言葉は、こうなるのである。
『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』
(大岡昇平『成城だより3』・1985年10月15日付け日記より)
(2025年7月30日)
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