シャロン・マグワイア監督 『ブリジット・ジョーンズの日記』 : フェミニズム映画とは何ぞや?
映画評:シャロン・マグワイア監督『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001年/イギリス・アメリカ・フランス合作)
「ラブコメ」映画である。
そもそも「ラブコメ」にはまったく興味のない私が、どうして本作を見ることにしたのかというと、映画が「フェミニズム」の文脈において語られる際に、しばしば本作のタイトルを目にする気がしたからだ。
それと、そうしたこと以前に、さほど映画に詳しくない私でも、本作のタイトルは、何度も耳にし目にしていたのだ。
したがって、本作が女性に人気のある有名作品だというのは、まず間違いない。事実、シリーズが4作目まで作られてもいる。
本作のノベライズ本の表紙や、その元となった映画のポスターなどを見ても、本作が「ラブコメのヒット作」だというのは、まず間違いないことのだが、しかし私の場合は、「ラブ=恋愛」ものにも「コメディ=喜劇」にも興味がないから、どんなに評判の良い作品であっても「ラブコメ」映画を、進んでみようなどとは、一度も考えたことがなかった。映画館は無論、テレビであろうともだ。なにしろジャンルとして、まったく興味がなかったのである。

ところが、前記のような理由で、今回はその「ラブコメ」映画を見ることにした。
「フェミニズム」の勉強の一環として、有名な本作くらいは見ておこうと、そのように考えたのである。
で、どうだったか。一一ひと言で言えば「軽くて楽しいラブコメ」であった。
まあ、「ラブコメ」で「重い」作品というのは滅多にないのかもしれないのだが、私は「重い」作品が好きだから、「軽い」というのは、要は「物足りない」という意味である。
ぜんぜん「面白くない」とか「駄作」だとまでは言わない。それなりに笑えるシーンや、思わず吹き出してしまったシーンもあった。
その唯一「吹き出してしまったシーン」とは、32歳になる現在も結婚相手を見つけられず、自身の「行き遅れ」を気にしている主人公のブリジットが、一人暮らしの自宅でパジャマ姿でくつろいでいた際、テレビで流れていた「うまくいかない女性の人生を嘆いて歌った流行歌」に合わせて、その歌をヤケのようになって激唱する、オープニングロールだ。
一一なぜ、私がこのシーンで笑えたのかというと、それは私が、うまくいかないことをイジイジと悩むようなのが大嫌いで、ヤケであろうと何であろうと、それを吹き飛ばすように振れ切ったその歌いぶりに、好意が持てたからであろう。

だが、そこ以外は、全体として「ありきたり」の「まずまず」の「駄作ではないが、傑作だというほどでもない、暇つぶし程度には楽しめる作品」だというのが、私の評価だ。
やはり、普通なら見ない作品だというのは、間違いないところだったのである。
ま、それはそれとして、本作を見終えた後、私は「それにしても、これのどこがフェミニズム映画なのだろう?」と、その点がどうにもピンと来なかった。
私の中では「フェミニズム映画」というと、「女性主人公が、男性社会の偏見と闘う作品」だと、なんとなくそんなふうにイメージされていたのだが、本作の主人公ブリジットは、決して「男社会」と「闘う」わけではないのである。
例えば、ブリジットは、自分が「32歳」になってもまだ結婚できていないことに「焦り」と「敗北感」を感じている。つまり「32歳で結婚していようがいまいが、私の勝手」「結婚しなきゃならない義務なんてない」などとは考えず、(当時の)社会の「常識」である「女性は、遅くても二十代のうちに伴侶を見つけて、幸福な家庭を築くべきである」という考え方を、完全に受け入れているのである。
そして、それができない自分は、女性として「負け犬」だと感じているからこそ、「焦り」と「敗北感」を感じ、時にヤケになったりするのだし、「このままではいけない」と「酒やタバコもやめて、ダイエットをしよう」とも考えるのだ。
しかし、「フェミニズム」的な観点からすれば、ブリジットは完全に、「男性中心社会」における「男性のロジック」を内面化してしまっている。
すなわち、「女性は結婚して、幸福な家庭を築き、子供を成して社会の存続に資するのが当たり前」だという価値観である。そのためには、できるかぎり若いうちに結婚しないと「子供が作れない」ぞ、というわけだ。女性が男性よりも「若さ」に価値を置かれる理由とは、結局のところ「子供を作るためには、若さが必要だから」なのである。
したがって、ブリジットの考え方は、ぜんぜん「フェミニズム」的なものではなく、きわめて「古い」ものであり、その意味で彼女は「意識低い系」だと言っても良いだろう。
しかも、そんな「モテないはず」の主人公が、なぜか二人のタイプの違った魅力的な男性に好かれて、その間で迷いながら、最後は誠実な男性の方を選んで「ハッピーエンド」一一などというこの物語は、そもそもの「設定」と「プロット」に整合性がなくて、到底「よくできた作品」だなどとは評し得ない。平たく言えば「モテない大人の女性向けのお伽話」でしかないのだ。
だから私は、どうしてこんな作品が高く評価されたり、フェミニズムの文脈で語られたりするのだろうかと、当初はそこが疑問だったのである。
さて、ここで、こういう作品を見ないであろう男性向けに、少し長くはなるが、「Wikipedia」から「あらすじ」を紹介しておこう。
『32歳のブリジット・ジョーンズ(レネー・ゼルウィガー)は新年のパーティのため実家に帰り、実家が近い法廷弁護士でバツイチのマーク・ダーシー(コリン・ファース)を(※ 娘の行き遅れを気にする母から)紹介される。ブリジットはトナカイ柄の(※ ダサい)セーターを着たマークに幻滅するが、マークの側もブリジットの(※ 人前ですら酒やタバコをひかえようともしない自堕落な)生活態度に幻滅し、互いの第一印象は最悪なまま別れる。ロンドンのフラットに戻った彼女は、何をやっても上手く行かない怠惰なシングルトンの自分を変えるため、日記を付け始める決意をする。
出版社勤務のブリジットは、(※ 女たらしで有名な無責任男である)上司の編集長ダニエル・クリーヴァー(ヒュー・グラント)に(※ それと承知で、しかし)憧れており、ふたりはブリジットの服装を起点にメールのやりとりを始める。出版記念パーティーに出席したブリジットは参加者の中にマークを見つけ、同僚の弁護士・ナターシャを紹介される。パーティを抜け出してディナーに行ったブリジットは、ダニエルから大学の同級生であるマークに、フィアンセを寝取られたと聞かされ(※ さらにマークの印象を悪くす)る。
ブリジットはダニエルと交際を始めるが、一方で母パメラは通販チャンネルのアシスタントを始め(※ その司会者とできてしまい)、父コリンを置いて(※ 家を出て)いってしまう。(※ 家同士でつき合いのある)オルコンベリー家のパーティに出席がてらダニエルと週末旅行に出掛けたブリジットは、宿泊するホテルでマークとナターシャに遭遇する。(※ しかしその翌日には)ダニエルは(※ 急に入った)仕事のため帰宅してしまい、ひとりでパーティに参加したブリジットは、(※ ダニエルのフィアンセを奪ったという)過去の行いに関して(※ そうとはハッキリ指摘せずに)マークを詰る。ロンドンに帰ってダニエルの家を訪れたブリジットは、彼がニューヨーク支社の(※ 女性編集者)ララを(※ 寝室に)連れ込んでいるのを見つけて破局に至り、後日ダニエルからララとの婚約を聞かされる。
ブリジットはダニエルから離れるためテレビ業界へ転職し、友人のマグダ夫妻のパーティで、ナターシャと共に出席したマークに出会う。ブリジットは既婚者ばかりが出席していることに辟易するが、帰り際にマークから好意を持っていると伝えられる。(※ テレビの仕事で)人権裁判の取材に行ったブリジットは、(※ たまたま被告の)担当弁護士だったマークの取り計らいで、独占インタビューに成功する。33歳の誕生日を迎えたブリジットは、友人たちを招いたパーティ用の料理で失敗するが、マークの手伝いで何とか取り繕う。(※ マークといい雰囲気になりかけた)そこにダニエルが現れ、ララとは破局したので復縁してくれないかとブリジットに頼むが、ダニエルはマークに表へ出されて乱闘騒ぎになる。(※ ブリジットはマークに、ダニエルを殴る資格はないと非難し、マークは腹を立てて立ち去ってしまう)
クリスマスを父コリンとふたり実家で過ごすブリジットの元に、アシスタントを辞めた母パメラが戻ってくる。ブリジットはダーシー夫妻のルビー婚パーティに向かうパメラから、マークの離婚の原因はダニエルが彼の妻を寝取ったことだったと聞く(※ つまり、ダニエルは、立場を真逆にした嘘をついていた)。(※ 真相を知った)ブリジットは(※ 誠実で口下手な)マークに好意を伝えるが、パーティの席で(※ マークの父である)ダーシー提督から、マークはニューヨークに転勤し、ナターシャと結婚する見込みだと明かされ、彼女は傷心に陥る。数日後、友人(※ たち)に誘われたパリ旅行直前のブリジットのフラットに(※ 突如)現れたマークは、(※ アメリカ行きと結婚はやめたと、ブリジットへの思いを伝えて、再び良い雰囲気になるが、しかし、ブリジットが着替えをする間に、テーブルの上に開かれて置かれていた)彼の悪口が満載の日記を読んで出て行ってしまう。ブリジットは慌てて彼を追うが、(※ しかし)マークは(※ 日記に腹を立てて出ていったのではなく)交際開始の門出に新しい日記を買いに行っただけで(※ あった。そんな)、ふたりは人目も憚らず通りで熱く口づけするのだった。』
(Wikipedia「ブリジット・ジョーンズの日記」・「※」とキャスト名は引用者の補足)



こんな具合で、「男性中心社会の論理」に、無自覚に従順な女性でしかないブリジットの、リアリティのかけらもないこの物語が、どうして「フェミニズム」の文脈で肯定的に語られるのか、それが私にはまったく理解不能であった。
まあ、こういう「お伽話」が好きな人が少なくないということ自体は、わからないでもない。そもそも「大衆娯楽映画」とは、そういうものなのであろうが、しかし、こんな「闘わない主人公」が、どうしてフェミニズムの文脈で「好意的」に語られるのか、そこが不明だったのである。
で、「Wikipedia」をはじめ、本作の記事をいくつか読んでみて、すこし腑に落ちる理由を見つけた。それは、本作の主人公ブリジットが「等身大のヒロイン」だとする視点である。
本作のキーワードは「ありのままの君が好きだ」だったのだ。

「等身大」とはどういうことかというと、要は、
(1)「酒やタバコをやめられずに、ダイエットも成功させられない女性」
であり、
(2)「つい、言いたいことを言ってしまう」というような、人間的な「弱さ」を持っている
ということなのだろう。
ブリジットは、決して「立派でもなければ強くもない」、どこにでもいる、普通の女性なのだ。

しかし、「男性中心主義社会」の価値観(理想)においては「酒やタバコをやる女なんてダメ(好ましくない)」ということになる。なぜなら「産んだ子供に悪影響の出る可能性が高くなる」からである。
また「ダイエットも成功させられない」というのは、要は「自己管理」が出来ず、「結婚・出産」ということに対する「真剣さをも欠いて、自堕落である」ということになる。「つい、言いたいことを言ってしまう」というのも同じことだ。
要は、ブリジットは「克己心や自制心を欠いて、欲望に流される人間」であり、その点(弱さ)が「等身大(普通)」だということなのだ。
言い換えれば、世の多くの女性は、自分もまた「男性の期待するような女性像」とは程遠い、「克己心や自制心を欠いて、欲望に流される人間」だと感じており、そのために「シンデレラストーリー」には縁がない生活を送っているのだとの(反省的な)自覚はあるのだ。だが、しかしそれでも、自分と同じような女性であるブリジットが、素敵な伴侶を見つけるという「ファンタジー」には、せめて酔いたいのである。
本来、幸福をつかんで然るべき「よく出来た女性」が、その良さを認められて幸せをつかむという「シンデレラストーリー」は、当たり前だし、自分とは無縁すぎて、どこか物足りない。
そうではなく、「よく出来てはいない」つまり「等身大」の女性が幸せをつかむ話だから、「親近感」が持てて楽しめるというのが、本作なのである。
つまり、私が本作を「軽い」「つまらない」と感じるのは、主人公が「闘わない」からなのだ。
私は、男女を問わず「闘う主人公」が好きだから、本作が面白いとは思えない。私の場合は、「自分に甘い」がゆえの「等身大」などには、まったく魅力を感じない。要は「ダメだとわかっているのなら、努力しろよ」ということなのだ。
闘うべき相手とは、社会や異性ばかりではなく「自分自身」でもあるべきだろう一一と、そんな「昭和スポ根世代」の「克己心」や「ストイックさ」に魅力を感じるタイプの人間だから、私はブリジットの「等身大」の物語には、まったく魅力を感じない。
男性であると女性であろうと「逆境の抗う」主人公に魅力を感じるし、私が、スーパーマンやバットマンに魅力を感じるのは、彼らが腕力的に「強い」からではなく、「困難に立ち向かう、孤高のヒーロー」だからなのである。

では、どうして「闘わないヒロイン」を描いた本作が、「フェミニズム」の文脈においても好意的に評価されたのかと言えば、それはたぶん、ブリジットが「酒タバコもやれば、自分に甘いヒロイン」ではあっても、そうした「物語表現」の側面においては、「男性から見た理想の女性像」をなぞってはいなかった(押し付けられるがままにはなっていなかった)、からなのであろう。
ブリジット自身は「男性から見た理想の女性像」を内面化しているのだが、しかしそうした「等身大の克己心のなさ(弱さ)」によって、結果として外見的には「男性から見た理想の女性像」に反してはいた。
そしてその姿が、結果として「現実の多くの女性の姿」を描くものだったために、「男性から見た理想の女性像に依らない、女性のリアルを描いた作品」として、フェミニズム的に評価された、ということなのではないだろうか。
要は、こんな「ダメ女(と、男社会からは判定されるだろう、リアルな女性)」を描いた点で、「映画としては、男性中心社会の価値観から一歩踏み出して、女性のための映画になっている」と、そう高く評価されたのではないか。
一一そういうことなら、わからないではないのである。
ただし、それでも私が本作を高く評価できないのは、「リアルな女性を描いたこと」あるいは「快楽主義的価値観を肯定的に描いたこと」については、一定の評価には値するけれども、しかし、こうした価値観というのは、現実社会においては、今も激しい抵抗や攻撃に遭うものなのに、そうした「厳しい現実」としての「リアル」の方については、まったく描いていない、という点なのだ。
私も以前から「澁澤龍彦に倣って、私も快楽主義の哲学を支持する者(快楽主義者)だ」と明言してきたが、ここで私が「快楽主義者」を名乗るのは、「世間のケチな倫理観」を嘲笑って批判するという、(マルキ・ド)サド的な「攻撃性」を意識してのことだ。単に、好きなことをしたいということ(自堕落な自己肯定)ではなく、世間に批判されようと、自分は好きなことをするという、これは断固たる意思表示であり、要は「世間の常識と闘う」という「闘争宣言」なのである。
言い換えれば、単に「やりたいことをやりたいけれど、世間の抵抗に遭ったら、あっさり妥協する」といったような「等身大の快楽主義」などではないのである。

そして、こうした観点からすれば、本作『ブリジット・ジョーンズの日記』という作品は、「ダメ男がダメ男のまま、なぜか複数の美女に愛されて、幸せになる」といった、滅多にないほど「馬鹿っぽいまでに、ご都合主義的な恋愛ファンタジー」と、完全に同質なものなのである。
したがって、たしかに「男性から見た理想の女性像」という枠から一歩出たという点は評価できようが、しかし私からすれば、「等身大であることに安住している、甘やかされて闘わないブリジット」という「女性像」は、やっぱり「欺瞞的」なものとしか評価できないのだ。
さて、私が「フェミニズム」を勉強するきっかけを作ってくれた、「武蔵大学の教授」で、ヘボ映画評論家である北村紗衣は、本作『ブリジット・ジョーンズの日記』に言及して、
『不健康でなにが悪い! フェミニズムにおける健康信仰』
という、自称「フェミニスト批評」のエッセイ書いているのを、この映画を見た後に見つけたのだが、「快楽主義者」である私としても、この主張自体には賛成である。
しかし、北村紗衣の場合、「それまでのフェミニズム」の「克己的でストイックな倫理観」に反対してまで、「個人の欲望」を肯定するという態度とは、結局のところ、『ブリジット・ジョーンズの日記』のような作品に、安易に共感する「女性大衆」の、そんな「自堕落な自己肯定」を追認する、言うなれば「ウケ狙い」のための「俗情との結託」(大西巨人)でしかなかろう。
まただからこそ、そうした態度は「フェミニストが、社会的な格差を容認して、自分だけが成り上がって、何が悪い」という「リーン・イン・フェミニズム」にもなってしまうのだ。それが、当然の帰結だったのである。
「欲望を肯定する」と言うと聞こえは良いが、しかしそれが「不当な抑圧に抗って闘って」という精神を失った時には、「自分さえ幸せになれれば、他の人が犠牲になろうと、そんなの知ったことじゃない」というような、自堕落で無節操な「自己中心主義」に、容易に堕してしまう。
だから、本作『ブリジット・ジョーンズの日記』を評価する場合にも、やはり、ブリジットが「男性中心主義社会の価値観」と「闘わない」という点と、またその価値観の中で「例外的に幸福をつかむ」という「ご都合主義のペテン」については、やはりキチンを批判すべきなのではないだろうか。
本作に見られるような中途半端な女性擁護(見かけだけの支持)を、「党派政治的な打算」において「絶賛」したりするというのは、北村紗衣のつまらない著作を、そうとわかっていながら褒めてみせる、打算的な「えせフェミニスト」連中と同様で、結局は「フェミニズム」に仇をなし、女性のためにもならず、差別されているすべての人たちのためにもならない。
いやむしろ、かえって、そうした弱者を食い物にするものでしかないのである。
「なあなあ」でやれるようなフェミニズムなら、そんなものは間違いなく「偽もの」なのだ。
(2025年3月31日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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