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女性である北村紗衣を批判する、男性である私 : 池田緑 『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』

書評・第3回(最終回):池田緑ポジショナリティ 射程と社会学的考察』(勁草書房)

今回は、本書『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』において、著者の池田緑の語った「ポジショナリティ」という考え方についての、私なりの考察と実践について、まとめをしたいと思う。

これまでの2回で論じたとおり、「ポジショナリティ」とは、簡単に言えば「立ち位置の責任」のことである。
そしてそれは、その「立ち位置」が、その人によって「選択」されてものである必要はない、というよりも、「選択されたものであってはならない」。一一ここが「ポジショナリティ」論の呑み込みにくいところなのだ。

自分で選んだ立ち位置なら、その「選択」という行為に伴う責任が発生するというのは、誰にもわかりやすいところだ。
例えば、私が批判している「武蔵大学の教授」である北村紗衣は、

・大学教授
シェイクスピアの研究家
・フェミニスト
・映画評論家
現代フェミニズム研究会会員
表象文化論学会会員

といった「属性としての立場(立ち位置)」に立っているが、これは北村紗衣自身が、自らの意思で選んだ立場であり、言い換えれば、その立場は、自らの意思で「捨てる」ことのできるものでもある。
一一だが、「ポジショナリティ」が問題とするのは、こういう「選択可能な立場」のことではない

「ポジショナリティ」という考え方が問題とするのは、例えば「男である」とか「女である」とか「日本人である」とか「アメリカ人である」とか「沖縄人である」とかいった、当人の意思に関わりなく、常に既に、立たされてしまっている「立ち位置」のことなのだ。

無論、こうした立場も、形式的になら「捨てる(変更する)」ことはできるだろう。例えば、「性別」なら「性転換」ということが可能だし、「国籍」であれば、一定の手続きを経るならば、捨てることも取得することも可能である。

ただしそれは、おいそれとやれることではないし、なにより、いくら「性別」や「国籍」を変えたところで、その人が「元男性・元女性」あるいは「元日本人・元アメリカ人」だといった事実までもが変わるわけではない。
マイケル・ジャクソンが「白人」に憧れて、整形手術を施して鼻を高くし、肌を脱色して白くなっても、やはり彼は「黒人」であると認識されていた。彼がそれを望んでいなくても、つまり彼の「人種自認」が「黒人」ではなかったとしても、彼の立たされていた「黒人」という立ち位置は、決して揺るぎはしなかったのである。

つまり、「ポジショナリティ」で問われるところの「立ち位置」性とは、このような「当人の意思に関わりなく、現に立たされている立ち位置」の持つ性格であり、その正負両面での「権力性」なのである。

まただからこそ、そこに「立場責任」を感じるのは、容易なことではないのだ。
「だって仕方ないじゃないか。そのように生まれてきたんだから、私の責任じゃないよ。こんなふうに産んでくれと頼んだおぼえはない」と、そう考えてしまいがちなのである。

だから、私たちは一般に、そうした「ポジショナリティ」の「責任」を、問うことはしない。
なぜなら、問うたところで、その「責任を負う課題」が発展的に解消されるという好ましい事態に立ち至ることは、まず無いからである。

まただからこそ、私たちが「立場責任」を問う場合には、その人が「自ら選んだ立場」の「責任」だけを問うというのが、慣習化している。それならば「責任をとって、その立場を変更する」ということも可能だからである。

例えば、「大学教授なら、学生の見本となれる言動をせよ」とか「シェイクスピアの研究家を名乗るんだったら、しっかりシェイクスピアのことを研究して、その成果を出せ」とか「フェミニストとして、女性差別反対を叫ぶのなら、他の差別問題についても、反対の立場であることをはっきりと示せ」とか「映画評論家を名乗るのなら、もう少し読めるものを書け」とか「現代フェミニズム研究会の会員なら、会の設立趣意書の中身に対する責任を持て」とか「表象文化論学会の会員なのなら、素人以下の映画評論だけで、学者でございだなどと無責任に名乗るな」一一と、そういった批判を浴びることになるのも、それはその「特別な(権利を有する)立場=特別な責任を負う立場」を自ら選び、その「立場責任」を「自ら引き受けた」というのが、自明の前提となっているからであり、その「立場責任」を果たせないというのであれば、責任を取って、その立場から去ることも可能だからなのだ。

(※ 自覚があるのなら、迷惑だから今から「教授」を辞してタレント専業になれと言いたい。進んで終身雇用教授の資格(テニュア)を取得しておきながらよく言うよ、この嘘つき女が)

ちなみに、ひとつ忘れていたが、北村紗衣の「立場責任」には、「この私(年間読書人)を、誤った根拠で批判したからには、反論されて黙ってないで、再反論するなり謝罪するなりして、その批判者という立場の責任を取れ」というものもあった。

他人を「批判」しておいて、しかもその批判の根拠が明らかに誤っていたのに、それを指摘されると、途端に沈黙して「逃げる」というのは、あまりにも「無責任」であり、そんな無責任女が「男性は、男性中心主義の差別的な現状に、責任を取れ」などと言う「資格はない(立場にはない)」。
また、学生の模範となるべき「大学教授」の立場に止まる資格も無いから、直ちに「フェミニスト」を標榜したり、「大学教授」の地位に留まったりすることを止めよ、とそう批判されることにもなるのである。

北村紗衣が、私からこのように批判されたのは、「取ろうと思えば取れる責任を、取ろうとはしない」からなのだ。
だから「卑怯者」「嘘つき(騙り)」呼ばわりもされるのである。

(私が「須藤にわか」氏のノート記事に上のコメントをしたところ、私にヘボ評論家認定された北村紗衣ご本人が、いきなり上のようなコメントを書き込んできた。これが全ての発端である。北村紗衣にかかると「めった切り批評」も「器物損壊罪」にすり替えられ、管理者通報されてしまう。こうして多くの北村紗衣低評価がネット上から消されていった)

だが、「ポジショナリティ」が問題にしているのは、こういう「自己選択的な立ち位置」のことではない。
当人の「意思」に関わりなく、その人が現に置かれている「立ち位置」の問題だから、わかりにくいのだ。その「有責性」ということが理解しにくい。

そもそも、なぜ「当人が選択した立ち位置でもない」というのに、その「立ち位置の責任」が問われるのかと言えば、それは、選択したものであろうとなかろうと、その「立ち位置」は、別の「立ち位置」に対して、有利であったり不利であったりという「権力関係」を、現に伴うからである。

例えば、今でこそそれなりに格差が減ったとはいうものの、「男性」は男性であるというだけで、社会的にずいぶん優遇されている。別に、個人的に「優遇してくれ」と要求したわけではなくても、現に「男性だから」、女性に犠牲を強いてまで、優遇されているのだ。

また、私が「沖縄人(沖縄に生まれた人間)」ではなく「日本人(日本本土生まれ)」であるおかげで、家の近くに「米軍基地」が存在し、それに伴う各種被害に遭う、という事態も、ほぼあり得ないし、現に無い。
我らの「日本政府」が、米軍基地の大半を沖縄に押しつけてくれているからある。

無論、私個人が、米軍基地を沖縄に押しつけたわけではないし、それを望んだこともない。日本政府の沖縄政策を支持した覚えなど、まったくない。それどころか、そうした政策を批判してさえいるのだが、一一しかし、それが事実だとしても、私は「日本人(本土人)」であるがゆえに、「日本政府」のそうした方針から「受益」しているというのもまた、否定できない事実なのだ。

つまり、私は、私個人の「意思」に関わりなく、「日本人(本土人)」であるという「ポジショナリティ」において、沖縄を犠牲にすることによって「利益」を得ているのである。
だからこそ、その受益者としての「立場責任」を引き受けなくてはならないのだ。

「ポジショナリティ」ということが問題にしている「立場責任」とは、このように「私の責任じゃない」「私には関係がない」といった、その主観性において「不可視化されがちな立場責任」のことなのである。

 ○ ○ ○

さて、そんなわけで今回は、本稿のタイトルにもあるとおり「女性である北村紗衣を批判する、男性である私」という問題を論じて、この3回に渡ったレビューを締めくくりたい。

この「女性である北村紗衣を批判する、男性である私」というのは、より詳しくいうと「被抑圧者(被差別者)の立場にある女性の一人である北村紗衣を、抑圧者(差別者)の立場にある男性の一人である私(年間読書人)が、批判することの正当性は、果たして存するのか? あるいは、存するとすれば、それは奈辺に存するのか?」という問いを意味するものであり、そうした観点からの問題提起である。

この問題を考える上で、本書『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』の後半では、主に「日沖問題(日本の沖縄への米軍基地押しつけ問題)」を例にとって、〈取引請負人〉という概念が提示されて、これについての検討と対応が、詳しく論じられている。

〈取引請負人〉とは何か?
これは、例えば「黒人差別問題」などでは、次のように呼ばれて問題化される人たちのことである。

『 抑圧(※ の存在を)を否定する被抑圧者
 それは被抑圧者の側においては、抑圧者のポジショナリティを曖昧化させることに加担する行為となる。その極端な例は、抑圧者の価値観を内面化し、抑圧者の利益に沿った言動をとり、ときには被抑圧者同士で敵対して(※ 仲間割れして)でも抑圧者に有利な行為をなすような被抑圧者となることである。そういった存在のありようは、以前より概念化されてきた。たとえば買弁階級、植民地エリート、モデル・マイノリティ、あるいはアンクル・トム。これらの呼び名が指し示す様態には、(※ 各種)権力関係の文脈に応じて少しずつ異なるものの、はっきりとした共通点も存在する。それは集団間の権力関係(および権力露現関係)の維持によって、(※ その者個人は)個人的な利益を得るという(※ 抜け駆け的に自分だけが利益を得るという)戦略を採用していることである。植民地主義から性差別にいたるまで、このような存在はつねに支配者によって準備されてきた。なぜそのような存在が準備されるのかといえば、(※ 彼らは)差別や抑圧の存在を否定してくれる被差別者・被抑圧者であり、(※ 抑圧者の)「漁夫の構造」(※ 他人同士を戦わせておいて、両者がへばったのを見届けた上で、その両者が争った利益を横取りするという手法)を産出するために不可欠な存在(※ 手駒)であるからにほかならない。すなわち、権力露現関係の存在を否定し、ポジショナリティを問われる契機を潰してくれる存在だからである。それも抑圧者自身の手を使わず(※ 汚さず)に、被差別者・被抑圧者(※ 自ら)が(※ すすんで、抑圧の正当化作業を)代行してくれるのである。これほど好都合な存在はない。』

(P377・※ は引用者による補足、ゴシック強調は引用者による)

この説明でも、十分わかりやすいとは思うが、具定例を挙げて、さらにわかりやすく説明しておこう。
例えば、「黒人差別」が行われているアメリカにおいて、ある黒人が黒人として「白人を責めてばかりしていてはダメだ。我々に必要なのか、あるがままの現実を肯定して、その現実の中に、より良き生き方を見出すことだ」とか「我々に必要なのは、人種を問わずに同じ人間として対等に話し合うことであり、相手を一方的に責めることではない」とかいった、いかにももっともらしくはあるものの、結局は「現状の不平等を温存する」ような態度を採る、そんな存在のことである。

上の「例」に、うっかり騙されかけた人も少なくないと思うのだが、どうしてこういう意見に、それなりに説得力を感じてしまうのかといえば、それは、一一私たちの多くが「支配者の側」の人間であって、「被支配者の側」の人間ではないためなのだ。

つまり、例えば私たち自身が、強硬に批判的な「被支配者」たちに向かって、「批判ばかりじゃなくて、あなた方もありのままの自分を肯定しましょうよ」とか「もっと落ち着いて、対等に話し合いましょうよ」などと言ってみても、現に「差別関係」がある以上、「差別者=抑圧者」の側がそんなことを言ったところで、全く説得力がないのだが、「被差別者=被抑圧者」の側の人間が、進んでそのような提案をしてくれたら、大変ありがたくも「好都合」だからである。「そうそう、そのとおりだよ。彼の言うとおりだよ」と、「追認」するだけで済むから、とても「助かる」。

つまり、本稿を読んでいる人の多くは、たぶん「反差別」の立場であろうし、私自身もそのつもりなんだけれども、しかしそんな人間であってすら、「被抑圧者」の側から、このように言ってもらえると、「ありがたい」し、ホッとするという「抑圧者の立場」に、現に立っている、ということなのだ。

だから、ましてや「自覚的に、差別関係を温存したい人」たちや、「差別関係における優位から得られる利益を固守したいと思っている人」であれば、尚更こういう「利用価値の高い存在」は、極めてありがたいものであり、そういう人間には「特別な優遇」を与えてでも、そうした存在を生み出したいほどのものなのである。
また、そんなわけで、買弁階級、植民地エリート、モデル・マイノリティ、あるいはアンクル・トム』という存在は、現に今でも、どこにでも存在しているのだ(例えば、あなたの会社などにも)。

で、本書著者の池田緑は、こうした『権力関係の文脈に応じて少しずつ異な』りはするものの、その本質として「抑圧者に好都合な、抑圧の存在を否定する被抑圧者」のことを、文脈的な「特色」を排して本質化した呼称として〈取引請負人〉と名付けた。

その意味するところは、「抑圧者と被抑圧者との取引において、抑圧者の側に資するよう、抑圧者側から望まれて働く人間」というほどの意味である。
そして、ここで言う「抑圧者側から望まれて」というのは、個々の〈取引請負人〉の自覚・自意識の問題ではなく、彼自身は「被抑圧者」側の「弱い立場」にあるために「選ばされてしまった立場」だという受動性を含意している。
つまり、進んでそうした「取引人」の立場を選んでいるつもりであっても、実は、その「抑圧・被抑圧」という関係性の中で、「選ばされてしまっている」ということであり、その意味で、彼(女)の「取引人」の立場は、本質的に「抑圧者から押しつけられて、請負ったもの(仕事)」だという意味なのである。

したがって買弁階級、植民地エリート、モデル・マイノリティ、あるいはアンクル・トム』であれ、〈取引請負人〉であれ、彼らは単なる、憎むべき「裏切り者」などではなく、実のところ「自覚の(足り)ない被害者(被抑圧者・被差別者)」であり「堕落させられてしまった被害者」だ、ということなのだ。

だが、このように言うと、「しかし、女性の北村紗衣の場合は、女性の利益のために発言しているのだから、〈取引請負人〉には当たらないのではないか?」と、そう疑問に思う人もいるだろう。一一まさに「そのとおり」なのだが、そこにこそ、重要な「トリック」が隠されているのである。

どういうことか?

「被抑圧者である女性の一人である北村紗衣が、女性の権利を主張して、男性を批判する」というのは、完全に正しく、その点では、まったく問題ではない。
であるにもかかわらず、北村紗衣の「フェミニズム」が「問題含み」なのは、一体なぜなのだろうか?

それは、私がこれまでに何度も指摘してきたように、北村紗衣の「反差別」の主張は、基本的に「性差別(男女差別)」に限定されており、例えば「部落差別(同和問題)」「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」などの、北村紗衣自身が「日本人」として(日本人というポジショナリティにおいて)、当然関わりのある(責任を有する)問題については、一言半句触れようとはしないという点に、問題があるからなのだ。

つまり、北村紗衣の「反差別」とは、自身を「被害者・被抑圧者」の立場に置ける所属「党派」である「女性」のための利益追求に限定されたものでしかなく、一人の「日本人」として、その「加害者・抑圧者」側であることの責任を問われるような問題に関しては、まったく「反差別」などではなく、「差別黙認の差別温存派」であるというのが、否定しようのない事実だからなのである。

言い換えれば、「ポジショナリティ」の観点から問われるべき、北村紗衣の「責任」とは、「女性としての責任」ではなく、それ以外の責任。例えば、「(一人の)日本人としての責任」なのだ。

ところが、北村紗衣の場合は、結局のところ、自分個人の利益に直結する「女性差別」の問題しか語らない。
いや、故意に「それ(フェミニズム)だけを強調する」ことによって自身を「反差別者」に「見せかける」ことで、自身の「差別者=抑圧者」としての「立場」を隠蔽し、その「責任」を回避しているのである。

つまり、北村紗衣は、自覚的な「抑圧者=差別者」なのであって、北村紗衣の「反女性差別」は、その事実を糊塗するための「煙幕であり、仮面でしかない」ということなのだ。
一一繰り返すが、肝心なことは、北村紗衣自身が、「日本人」の一人として、現に「差別者」であるという、今ここの事実なのだ。

したがって、北村紗衣は、批判されて当然だし、批判されねばならない、「隠れ差別者」であり「隠れ権力者」なのである。

そして、そうした北村紗衣の「権力性」なり「差別性」なりを端的に示すのが、「フェミニズム」の中でも問題視されて来た「リーン・イン・フェミニズム」の問題であり、「階級差別」に対する抵抗を完全に放棄して寝返った、典型的なモデル・マイノリティであるセレブリティ・フェミニズム」の問題であり、フェミニズムから「反差別」という本質をほとんど削除廃棄して「趣味化」した「第四波フェミニズム」性の問題なのである。

要は、「フェミニスト」を名乗って「女性差別」の問題を語りながらも、決して、そうした差別を生み出した「男性中心社会」を自体を打倒しようとは考えていない、ということなのだ。心にもない綺麗事としての「嘘」をついている。

「反女性差別」の言説を、見栄えの良い「ファッション」的に身に纏うことで、「被差別者である多くの女性」の支持をとりつけ、その加勢を得ることで「自分一人だけが抜け駆け的に、現行の男性中心社会の中で成り上がろうとする」のが、「リーン・イン・フェミニズム」や「セレブリティ・フェミニズム」であり「第四波フェミニズム」の本質で、またそれが、北村紗衣という自称「フェミニスト」の本質なのである。

だから、「ポジショナリティ」の問題として、北村紗衣に問うべきなのは、北村紗衣が自身で明示している、

・大学教授
シェイクスピアの研究家
・フェミニスト
・映画評論家
現代フェミニズム研究会会員
表象文化論学会会員

といった「選択的な属性(立場)」の問題ではなく、それによって隠されている、

・日本人
・先進国国民
・人間

といった「非選択的な立ち位置の責任」なのだ。

「日本人」であるからには、男女の別なく問われることになる「責任」。
「先進国国民」であるからには、後進諸国に対して負っている「責任」。
「人間」であるからには、すべての人間に問われることになる「責任」。

こうした好むと好まざるとに関わりなく「例外なく抱え込まざるを得ない責任」であるがゆえに「不可視化」されやすい「責任」を、看過することなく、問わなければならない。

他者の「責任を問う者=批判者=反差別者」であるのならば、当然のこととして「自身の負うべき責任」に、自覚的でなければならない。
そうでなければ、他人の責任を問い追求する資格がない。自分を棚上げにしての、他者への責任追求など、ご都合主義の「無責任」に他ならないからである。

だが、北村紗衣や、その周辺の自称「フェミニスト」や、北村紗衣の所属する「現代フェミニスト研究会」のメンバーがやっていることとは、まさに、このような「ごまかし」なのである。

「フェミニズム」というごく限定的な「反差別」の主張を前面に押し立てて、自身を「反差別者」に擬することで「無傷の正義の味方」に見せかけて、その道の専門家・知識人としての発言権や社会的な承認という「利益」を得る。
しかしその陰で、誰もが担って然るべき「差別者=抑圧者」としての責任には頬かむりをして、それを回避するのを恥じない、ダブルスタンダードの「偽善者」なのだ。

だから、私たちは、北村紗衣らが自分からアピールし、これ見よがしに誇示している「選択的な立場」である「フェミニズム」だけに目を惹きつけられるのではなく、奇術師が観客の目から注意を逸らそうとする「もう一方の手」の方にも、注意を向けなければならない。そこに「トリックのタネ」が隠されているからである。

しかしながら、こんな「偽善者」である北村紗衣にしても、なぜこんな人間になってしまったのかといえば、ひとつには彼女が「女性」という「被差別者=被害者」だったからに他ならない。
だからこそ、彼女は「フェミニストという反差別者の仮面」を利用してでも、「男性中心社会」の中で成り上がろう(リーン・インしよう)としたのだ。
北村紗衣が、最初から「男性」であったのなら、わざわざ、このような「アイデンティティ・ポリティクス(属性政治行動)」に頼らなくても、当たり前に「男性同士の実力勝負」も出来たのである。

(男性中心の資本主義社会の中で、上位1%に「リーン・イン」することを目指す「リーン・イン・フェミニスト」の象徴たるセレブリティ、シェリル・リンドバーグ。フェミニズム側からの批判も多い)

このように、「ポジショナリティ」の観点が明らかにするのは、北村紗衣は「女性」であるという点においては「被抑圧者=被害者」であるけれども、「日本人」(や、先進国国民)であるという点(属性・立場)においては「抑圧者=加害者」であり、その「抑圧者」意識を内面化したまま、「被抑圧者である女性」のなかで、抑圧者(男性中心社会)のために立ち働いている〈取引請負人〉であり、その意味において、己の「女性」という立ち位置認識を混乱させられた、哀れな「被抑圧者=被害者」だということになるのだ。

つまり、北村紗衣は、「女性という被抑圧者」でありながら、女性の中においても「男性中心の階級社会における〈取引請負人〉」であり、そのために北村紗衣は「男性中心社会における被差別者である女性(仲間)」を裏切る存在だとということになる。
言い換えれば、ここでは、「性差別」の問題に見せかけられた「階級差別」が行われている。一一これが「北村紗衣のトリック」なのだ

しかしながら、ここで問われるべきは、そんな哀れな〈取引請負人〉としての、悩乱した「被抑圧者=被害者」である北村紗衣を、抑圧者の側にある「男性」である私に、批判する資格があるのか、という問題である。

私と北村紗衣は、同じ「人間」であり「先進国国民」「日本人」などとしては対等であり、特に遠慮の必要はないけれども、こと「性別」においては、私は北村紗衣に対しての「抑圧者」の立場にある「男性」である。
つまり、言うなれば、北村紗衣が「あんな女になってしまった」責任の一端は、男性である私個人にもある、ということなのだ。

だから、この一点において問われるのが、本稿のタイトルである「女性である北村紗衣を批判する、男性である私」ということの是非なのである。

 ○ ○ ○

5 〈取引請負人〉への態度についての
 〈取引請負人〉を考えることは、ポジショナリティを考慮に入れた場合に、抑圧側にいる者(※ 例えば、男性や、日本(本土)人)に被抑圧側の者(※ 女性や、沖縄人)を批判することを慎むべきか否か、という問いを派生させる。以下本節は、ポジショナリティを変更する(※ 差別関係を解消する)という価値判断を行った(※ そう決意した)個人が、どのような態度で(※ ポジショナリティの変更を阻害する、しかし、被抑圧者の一人でもある)〈取引請負人〉に臨むことが可能なのかについての私の個人的な見解(価値判断)である。現実事象の学問的な分析ではなく、価値自由を前提とした事実判断でもない(学術的な議論にしか関心のない読者は読み飛ばしてかまわない)。しかし現実のポジショナリティに起因する齟齬や係争に直面したとき、避けては通れない葛藤である。
 たとえば、この問題に対する(※ 沖縄人の社会学者)野村浩也の解答は、いたってシンプルなものである。彼は、沖縄の言論界において、(※ 米軍基地の)県外移設論や引き取り論を批判し続けている(※ つまり、日本政府の側に立つ、沖縄人学者である)新城郁夫を批判するなかで、以下のように断言する。

〔‥‥‥〕沖縄人への差別をやめようとしている日本人は、差別をやめてくれるなと泣きつく(※ 新城郁夫のような〈取引請負人〉の)沖縄人を前にして、どのような応答が可能なのか。/簡単だ。「足を引っ張るな!」と言ってやればよい。「お前は必要ない!」と切り捨てればよい。(※ 差別者側に位置しながらも、沖縄差別に反対している)日本人(※ 本土人)が、新城のようなアンクル・トム(※ に遠慮することで、その差別温存)の道連れにされる理由はどこにもないからだ。〔‥‥‥〕日本人が差別をやめて(※ 沖縄への不当な依存から)自立するためには、そもそもアンクル・トムの甘言に誘惑されて(※ 差別の温存を容認することになどなって)はならない。(野村、2016b: 132)

 野村による新城批判は、たんに新城を裏切り者、アンクル・トムとして糾弾し、切り捨てるものではない。第一〇章でも紹介したように、野村はアンクル・トムの共犯性は強制された共犯性(※ 被害者が加害者に強いられた加害者性)であると繰り返し述べている。さらにアンクル・トムこそ、自ら(※ の立場)を裏切ることを強制された、もっとも深く傷つけられた存在(※ 最も哀れな被害者)として、抑圧者の犯罪性を(※ 裏切り者という、その哀れな存在形式において)告発している(※ とも言えるのだ)。たとえアンクル・トム(〈取引請負人〉)であっても、被抑圧者というポジショナリティは他の被抑圧者と変わらないのであり、抑圧者(※ の側にいる日本人)は等しく(※ 例外なく)その(※ アンクル・トムたちの哀れな)犠牲(※ から)の利益を受けとっているのである(※ だから、アンクル・トムを搾取している側の日本人が、沖縄のアンクル・トムを批判するというのは、やましく心苦しいこととなる)。
 にもかかわらず、野村は「抑圧を否定する被抑圧者(※ アンクル・トム=取引請負人)」には、(差別解消を目指した、ポジショナリティ変更のための行動の)「足を引っ張るな」と一喝せよという。それはポジショナリティの変更を価値判断として選択した抑圧者側の個人(※ 日本(本土)人)において、論理的に正しく、現実的対応としても唯一のものである。この点は価値判断ではなく、事実判断に属する(第一章での(事実判断C))。しかしその一方で、抑圧者が、たとえ〈取引請負人〉であっても、自らが抑圧している者に向かって、その態度を批判できるのか、というポジショナリティにかかわる根本的問題が残っている。この問題が、ポジショナリティに意識的であればあるほど、〈取引請負人〉を批判することを躊躇させるだろう。しかしその躊躇は、自らのポジショナリティの(※ 不当な)優位性の維持(※ 温存)に加担することにつながる。批判をしても、批判をしなくても、いずれにしろポジショナリティの問題を回避することはできない。この袋小路をどのように考えたらよいだろうか。この問題は私自身も、長い間扱いかねていた、難しい問題であった。ここで、いくつかの水準で整理してみたい。
 ここで、私が〈取引請負人〉を批判することを躊躇うのは、自分自身がポジショナリティへの意識を有しながら、そのポジショナリティの不平等を無視し、自分のことを棚にあげて、被抑圧者を批判するという、これまで本書で問題としてきたような行為(※ 抑圧者が、被抑圧者を批判するという、倒錯した不当行為)を(※ 自分自身が)なしてしまうことへの恐れからである。これは、私個人としての、個人的行為に対する葛藤である。一方で、私が〈取引請負人〉を批判せず、その問題性に目をつむることは、権力露現関係の維持と(※ 差別的な)ポジショナリティの固定化に加担することとなる。これはポジショナリティの構造と権力露現関係の(※ 解消)プロセスにかかわる(※ 事実)問題である。
 ポジショナリティを対等なものに変更しようという価値判断を行った抑圧者個人は、この二つの水準(※ 認識的水準と事実行動水準)のあいだの葛藤を、必ず経験することになるだろう。なぜならば〈取引請負人〉は必ず権力関係において、抑圧者によって(※ 便利な道具として=抑圧温存装置の一部として)準備されているからである。私は、原則的にはポシショナリティにかかわる論点において、抑圧側個人が被抑圧側個人を批判することに対して、最大限慎重であるべきと考えている。しかし例外はあり、その唯一といってもよい例外が〈取引請負人〉に対する批判である。』(P445〜446)

つまり、ここでいう「アンクル・トム=取引請負人」である、新城郁夫北村紗衣を生んでしまった、「日本人(本土人)」であり「男性」である私たちは、彼(女)らに対して、「加害者としての負い目」を持っているし、持っていて然るべきなのだが、しかしだからと言って「アンクル・トム=取引請負人」への批判追求をやめてしまっては、「差別構造の解消=ポジショナリティの変更」という大目的が不可能となり、結局のところは、新城郁夫北村紗衣のような、哀れまれるべき被害者である「アンクル・トム=取引請負人」をも「再生産」してしまうことにしかならないのだ。

だから、新城郁夫北村紗衣のような、哀れまれるべき被害者のためにも、心を鬼にしてでも、彼(女)らを斬ってやり、彼らを「成仏」させ、「差別のない社会」に生まれ変われるようにしてやらなくてはならない。
たとえその実現が、限りなく困難だとしても、「第二第三の新城郁夫北村紗衣」というような哀れな被害者を生まないためにも、目の前にいる「アンクル・トム=取引請負人」を、

「足を引っ張るな!」(中略)「お前は必要ない!」と切り捨てればよい。

ということにしかならないのである。

こうした「つらい難問」の存在を考える上で、私たちが「自覚」しなければならないのは、人間の誰一人として「加害者=抑圧者=差別者」ではない者などいないという現実であり、同時に「被害者=被抑圧者=被差別者」ではない人間もまた、いないという事実なのだ。

つまり、私たちは誰しも「何らかの立場(ポジショナリティ)において「加害者」である同時に、何らかの立場において「被害者」でもある」という、両義性(両面性)を併せ持った存在なのだ。一一どちらか一方ではない、ということなのである。

例えば、私たち日本人庶民は、先の戦争(第二次世界大戦)において、「加害者」だったのか「被害者」だったのか?
これはよく問われるところなのだが、正解は、一一「両方である」ということなのだ。

つまり、朝鮮半島の人たちなどに対しては、私たち日本人は、日本の戦争に協力した、あるいは止められなかったという事実とその責任において「加害者」なのだが、国内的に見れば、軍部政府に騙されて勝ち目のない戦争に動員された「(詐欺)被害者」だとも言えるのである。
つまり、私たちは、自分もまた、こうした両面性を持った存在であり、どちらか片方ではあり得ない、都合よく「可哀想な被害者」でだけあることなど出来ない、ということを自覚しなければならない。

そして、そうした両義性・両面性の自覚に立つならば、私たちの誰もが「差別解消」のために尽力するというのは、当然のことなのだ。

私たちは、「差別者」として「差別解消への責任と義務」があると同時に、「被差別者」としての「差別解消への願いと夢」がある。いや、そうあって然るべきであり、要はどちらにしても、自分の立場の「両義性」を自覚するならば、「差別解消」を望まない理由など、存在し得ないのだ。

責罪(schuld:負目)
 最後の(※ 最後に検討する)責罪(※ という問題)は、哲学からの類推(※ 的な検討)というだけではなく、現実のポジショナリティにおける被投性(※ 自己の意思に関わりなく、世界に投げ入れられてある、という人間存在の受動性という基本的性格の)機序の説明とも重なるものである。

すべての行為は、行為者も知らなかったところの諸結果を世界内でもつ。(※ だから)行為者は自分の行為の(※ 想定し得ない)結果に驚く。なぜというに、かれは、それらの結果に考え及ばなかったにしても、自らが行為の張本人であること(※ 責任を有する者であること)を知るからである。/私が自分の現存在に関して、闘争と他人の苦悩とにおいて、私の生活条件を認容するということによって、たとえ私が諸々の生活前提のための労働において悩んだり、苦労したりすることにより、しかもあげくのはてには私の没落により、自分の方でも代償を払うにしても、搾取によって生きるという負目をもっている。(Jas-pers,1932=1964:280,傍点原文)

 ヤスパースは、われわれは、生きているというだけで、否応なしに他者との関係性の帰結として、自らの行為の(※ 望まざる)結果を招来すると指摘する。生きるだけで、誰かを傷つけ奪い、また傷つけられ奪われる。これはいわば原罪のようなもの、生きるものの性(さが)ともいえる(※ 避け得ないものなのだ)が、だからといってそれに対する責罪が消えることはなく、われわれが存在するかぎり必然的に責罪も存在し、それから逃れることは困難で、またその責罪が誰に対するどのようなものかも選ぶことはできない。被投的に決定され、逃れえないものとして責罪は存在し続ける。
 この機序は、直接的にポジショナリティともかかわるものである。本書で論じたように、誰がどの集団に帰属するかは被投的に決定されており、そこから逃れる可能性は皆無ではないにしても、きわめて低いものである。その結果、ポジショナリティにおいて問題となる差別や抑圧関係では、その当事者であるということの自覚があるとはかぎらない。選択の不在がもたらす無知(※ 自分が選んだことではないという意識から来る、無関心による無自覚)である。これは差別一般にいえることであり、その無知によって差別は継続する。しかし当事者双方の認識にかかわらず、厳然と差別や抑圧関係は存在しており、自分がその当事者、とくに抑圧者/差別者であると定位された(※ 指摘され、確定事項として決めつけられた)とき、人びとは驚き、狼狽し、その理解不能性ゆえに怒りすら覚える。たんに自分が生きるうえでの「生活条件を容認」している(※ 止むなくやっている)だけのことが、(※ 自分の知らないうちに)誰か(※から)の搾取のうえに成り立っている。その(※ 事実を知らされた際の)衝撃は、負わされる責罪に対する身に覚えのなさ、即時の変更は個人の意志では不可能なもの(※ 自分一人がいくら頑張ってみても、すぐには解消のしようのない困難な性格のもの)であること、そのようなポジションに事前の承諾なしに(※ 自分が)配置されてしまっている被投性により、増幅されるだろう。
 そのような被投性に直面した個々人にとって、感情的にどうしても承服しがたいことは、自らの積極的な抑圧への関与もないのに、搾取の主体として定位される(※ 確定的に位置づけられる)ことである。自分はなにもしていない、にもかかわらずなぜ責められるのか、という理不尽な思いである。これが被投性を拒否し、その延長としてポジショナリティを否認する、もっとも感情を揺さぶる源動であると思われる。しかしこの点についても、ヤスパースは以下のように論じている。

〔‥‥‥〕私が活潑に生きることによって、私は他人を排除したり、魂の中にいろいろなものを巻き込んで、それを不純にしたり、或は他者を拒否することにおいて成立つ私の排他的行為によって、可能的実存を傷つけたりする。〔‥‥‥〕私の状況において私は、私が関与しなかったがゆえに起こった事態に対して責任を負う。私が或ることをなしうるのに、しかもそれをなさないならば、私は私の無行為の結果に対して責めを負うている。それゆえ私が行動しようがしまいが、いずれにしても結果をもつのであり、私はどんな場合にも不可避的に負目の中へ陥る。(Jaspers, 1932=1964: 281)

 ここでヤスパースが指摘するのは、行為であれ、不作為であれ、同様に責罪(負目)はやってくるという事実である。社会学的発想からいえば、なんらかの行為実践を選択しなかったという選択行為をもって、不作為もまたひとつの行為ではある。なんらかの問題に対し、それを解消すべく奔走しようと、関心をもたず(さらには問題の存在すら認知せず)家で寝ていたとしても、それぞれの行為の結果に応じて責罪は発生している。ポジショナリティに引きつければ、そこで問題となる行為とは、権力露現関係とポジショナリティを変更するかしないかという実践であり、変更(差別や抑圧の解消)が(※ 完全かつ最終的に)なされないかぎり、(※ 現状を)変更できていないという行為の結果として、個人の意志や感情にかかわりなく責罪は(※ 結果責任として)発生していることになる。
 いうまでもなく、その責罪は被投的なものであり、諸個人においては身に覚えのないものであり、耐えがたいものと感じられるだろう。これは抑圧側/非抑圧側の双方において(※「どうして、こんなことになったんだ⁈」と)感じられることだろうが、とくに抑圧側においては、身に覚えのない責罪を突きつけられている(※ 不条理)感覚は大きく、このような被投的責罪を回避し、否定しようとする欲望は大きくなると思われる。とくに抑圧側において、ポジショナリティの否認が頻発する背景には、このような(※ 心理的)機序が存在すると思われる。』
(P465〜466)

カール・ヤスパースが言うように、私たちは、ただ生きているだけでも、誰かを「犠牲」にしているのである。

例えば、部屋で寝ていても、その部屋がある家は、どこかの国の貧しい人たちから、その労働力や資源を搾取した結果としての、住み良い家として、その部屋として、そこに存在しているから、そのおかげで私たちは、ただ呑気に寝ていることができるのだ。
つまり、私たちが日本人が、比較的恵まれた生活をしていられるのは、どこかで誰かから搾取したものの「おこぼれに与っているから」なのだ。

たしかに、自分のこの手で、誰かから奪ったものではないだろう。しかし、先進国の国民として、比較的恵まれた生活をしている以上は、この生活が、どこかの誰かからの搾取の上に成り立っていることくらいは、少し考えれば明らかなことなのだ。
つまり、私たちは「生きていてゴメンなさい」とでも感じるべき「生」を、日頃は、安閑として何も考えずに、無責任に享受して生きている、そんな「特権階級」とでも言うべき存在なのである。

昔、マリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったという逸話があるけれども、これが事実かどうかなど、大した問題ではない。
なぜなら、この、自身の「立ち位置(ポジショナリティ)」についての無知と無自覚さは、現代の貴族とでも呼ぶべき、私たち自身のものでもあるからなのである。

問題意識を持たず、世界の現実を知らず、ただ、「自分の当たり前」を当たり前のように生きて享受しているか私たちは、ある時「おまえは食人鬼だ。だからおまえは、これまでのその所業の責任をとって、今後は虐げられた人たちのために奴隷労働せよ」と言われても仕方がないような、責罪を負った存在なのである。

だからこそ、当たり前に問題意識のある人であれば、「ガザの人々が虐殺されている」とか「世界には飢えに苦しんでいる子どもたちが約1億5000万人もいる」と聞かされると、今、この快適な部屋の中で寝そべりながらテレビを見ていること、ポテチを摘んでいることも、冗談でも何でもなく「申し訳ない」という気分になってしまうのだ。

自分自身は、積極的に彼らを苦しめるようなことをした覚えはない。
けれども、私たちが今、例えば、資本主義社会の中で生きているということは、どこかでなされている「搾取」を容認、あるいは暗黙のうちに加担しているということなのだから、「負い目」を感じるというのは、至極当然なことなのである。

だから、ある人は、その「負い目」を晴そうと「寄付」をしたりするだろうし、ある人は「反イスラエル」デモに参加したり、「反資本主義」を掲げる運動に参加したりするだろう。

だが、それでパレスチナ情勢が変わって平和が訪れるのか、資本主義社会が、真に平等な社会主義体制へと変更されるのかといえば、当然、そんな簡単な話ではなく、いま現にある好ましくない状態は、私たちが死んだ後までも、ずっと続く可能性は十二分にあって、その差別状況が解消されるという希望は、ひとまず当面のところは無い、と、そう言っても過言ではないのである。

だからその時、私たちの多くは「ひとまず、自分は今、できる限りのことをやっているのだから、すぐに状況が変わらないのは仕方がないことだ」と、そう考えるだろう。つまり、差別される人たちがこの先も、ほとんど変わらずに存在し続け、そうした社会構造に個人的に反対しているとしても、そうした社会構造からの恩恵を、その先も受け続けながら生きていくであろう私たちは、それでもひとまず、「責任逃れ」をしたことには、なるのだろうか?

そもそも私たちは、差別されている人たちを救うためではなく、ただ「自分の負い目を解消して、楽になりたいがため」に、寄付をしたり反対運動に参加したりしているのではないだろうか?
そうではないと、果たして自信を持って言い切れるものなのだろうか?

しかし、それでもそれは、仕方のないことなのだ。仕方がないことでしかないけれども、やらないわけにはいかないから、やるしかないことなのである。

だが、皆がそのような気持ちを持っていれば、この世界は、もっともっとマシなものになっていたはずである。
一一ということは、そういう気持ちを持っていない人もまた大勢いて、その多くは、自身が「搾取者」であるという現実を、知ってか知らずか「知らない」風にして生きている人たちであり、中には「人間も動物なんだから、食う者と食われる者の両方が存在するのは当然のことだ。ならば、私は食う者であることを選んだだけのことで、それにやましさなど感じる必要はないはずだ。なぜなら、それが〝自然〟なのだから」と、そんなふうに「自己正当化」をして、自己が負うべき責任や負い目から、積極的に逃げている人も、当然いるだろう(※ 例えば、イーロン・マスク等のビジネスエリートたち)。
そう考える方が、呑気に気持ちよく生きていられると、彼らは無意識のうちに、そう考えているのである。

だが、それで良いのだろうか?

「私個人が何をどう頑張っても、どうせ世界が変わることはないのだから、そんなことは気にぜずに、自分に与えられた立場を最大限に享受すればいいじゃないか。それは何も悪いことではないだろう。世界の現実に責任を負おうなんて考えるのは、それこそ身の程知らずの傲慢だよ」と、そんなふう考えるのは、果たして正しいことなのだろうか?

いや、そうではない。一一と、そう指摘するのが、「ポジショナリティ」の問題意識なのだ。

たしかに、そのひと個人としては、意識的に社会の差別構造を支持したわけでも容認したわけでもない。ただ、自分の預かり知らぬところで「そうなっているだけ」なのだから「私を責められても困る」というのが、ごく当たり前の感じ方ではあるのだか、しかしそれは「そうではない。それだけのことではない」のだと、そう指摘するのが「ポジショナリティ」の考え方なのである。

たしかに、あなた個人の「考え方」や「選択」としては、あなたに「責任」は無いと、そう言えるかもしれない。たしかに、そこに「故意」は無いし、積極的な選択の意思もないだろう。
一一だが、あなた個人がどう考えようと、あなたの「立場」は、間違いなく「差別構造」の上に成り立ったものなのだから、その立場から何らかの「受益」をしているあなたには、それ相応の責任があるのだ。

マリー・アントワネット個人は、良い人だったかもしれないが、自分の生活が、どのような犠牲の上に成り立っているものかを知ろうもしなかったところに、「不作為の責任」が問われざるを得なかったのだ。
端的に言って、「無知」に開き直ることは「罪」であり、「無知」であること自体が、すでに「罪」なのである。

そして、その「罪」を免れるためには、最低限、この世界の現実を知ろうと努力しなければならないし、知ったことについては、できる限りのことをしなければならない。

それで問題が解決されるわけではないとしても、その努力をすることが、そして、そんな心の痛み(無力感)を抱え続けて生きていくことだけが、私たちの「最低限の努め」なのである。

だから、私は、「イスラエル」も批判するし、「日本政府」も「アメリカ政府」も「ロシア政府」も「北朝鮮政府」も批判する。
そして、そうした罪深い体制の中で、その自覚もなく恩恵を被っている人たちをも「目を見開いて、己が責任を自覚せよ!」と批判する。
ましてや、積極的に、その「おこぼれに与ろう」としている人たちを許すことなど、到底できないし、してはならない。なぜなら、私には、それを批判する「義務」があるからであり、それが「せめてもの罪滅ぼし」だからである。

そして、同様の理由で、私は、北村紗衣を批判するし、そのファンも批判する。
北村紗衣を批判することもなく、同志として受け入れている「現代フェミニズム研究会」も、その「すべての会員」も批判する。

それが、今の「ポジショナリティ」にある私にできる、精一杯の「罪滅ぼし」だからなのだ。

「罪なき者は、石をもて(この罪の女に)擲て」

「ヨハネによる福音書」第8章)

そうイエス・キリストは言い、その言葉に、自らの抱えるやましさを自覚させられた人たちは、女に石を投げて罰するという加罰を放棄して、その場を離れていった。
そしてそのあと、イエスは罪の女に「もう同じ誤ちを犯すのではないぞ」と諭して、その罪を許した。

しかし、私たちは、「罪なき人イエス」ではないのだ。
誰も、罪人を真に許す資格など持ってはいない。なにしろ、私たちは全員、例外なく「罪びと」だからである。

だから私たちは、自分のことを「罪のない人間」だなどと勘違いしたまま、他の「罪ある人」を責めるのではなく、自分が「他人の罪を責める資格のない、同じ罪人」であるという自覚に立って、それでも、どこにも「罪を許す資格を持つもの=神」の存在しない「この地上」で、自らの身を打つようにして、他の罪びとを打たなければならないのだ。

それが、私たちにできる、唯一の「罪滅ぼし」だからである。


(2025年6月6日)


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https://www.bengo4.com/c_23/n_17464/

(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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