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リフアト・アルアライール編著 『語ることの反撃 パレスチナ・ガザ作品集』 : 「もうひとつの人生」を生きる。

書評:リフアト・アルアライール『語ることの反撃 パレスチナ・ガザ作品集』(河出書房新社)

本書は、ガザ・イスラーム大学で「英文学」を講じていた研究者で、詩人のリフアト・アルアライール2013年に編み、翌年に刊行した本を、同編者の死を受けて、昨年、一定の増補を加えての「追悼版」として刊行されたものを、翻訳刊行したものである。

2023年10月、パレスチナ側の対イスラエル抗争組織「ハマス」の奇襲による「イスラエル人人質誘拐事件」。そして、それ以来、多くの民間パレスチナ人犠牲者を出しながら遂行されている、イスラエルのガザへのハマス掃討作戦。
その最中の同年12月に、ガザにいた本書編者のフアト・アルアライールは、イスラエル軍の攻撃によって殺されているのだ。
イスラエルは、ガザ・イスラーム大学も「ハマスの重要拠点」のひとつと位置づけて空爆を行い、すでに大学はその機能を停止して、遺された校舎の一部が、家を失った人たちの避難所となっている。

リフアト・アルアライールは「文学(小説)の力」を信じた人だった。
だから、自分の学生たちに「小説執筆」の指導を行い、良かれ悪しかれ「紋切り型」のイメージによって世界に伝えられるパレスチナ人の「真の姿」を、小説を通して発信し、パレスチナの真実を歴史に刻もうとした。
エッセイでも評論文でもなく、小説でしか出来ないことを、その力を信じて、やろうとしたのだ。

今回の「2023年追悼新版」には、リフアト・アルアライールの詩「わたしが死なねばならないとしても」が新たに冒頭に掲げられ、その後に、「新版」の編集に携わった、これもリフアト・アルアライールの学生だった、アリー・アブーニァマによる「序文」が付き、その後からが、元版にあったリフアト・アルアライールによる「編者による序文」、「用語解説」と続く。
「用語解説」とは、収録作品中に登場する国連機関の名称などの解説だけではなく、イスラーム特有の呼称の紹介などがなされいている。

その後に、リフアト・アルアライール自身の作品も含め、彼の指導を受けた学生たち14名とによる「短編小説」が「23本」収録され、さらに、「作者たち」と題する作者紹介、「謝辞」と続いて、ここまでが「元版」にあったものだ。

だが、この「作者たち」のパートは、この「新版」において、大幅に増補されている。
「元版」では比較的シンプルな自己紹介文だったものが、「新版」では、リフアト・アルアライールの生徒たちの「その後」を、彼(女)ら自身の手で書いてもらっているのだ。

だが、当然のことながら、その「新たな作者紹介文」執筆依頼の段階で、彼(女)らの恩師であるリフアト・アルアライールは、すでに亡くなっている。だから、彼(女)らの文章は、おおむね痛切なものとなっている。
また、そうした文章さえ、元生徒たちの全員が、今回の「新版」に寄稿できたわけではない。なぜなら、14人中の6人に連絡が取れず、その安否すら確認できなかったからだ。

以上の「新版」の中味に続いて、「日本語翻訳版」には、「訳者あとがき」(藤井光)、「解説」(岡真理)が付録されている。
本書は、メインの小説パートを挟むようにして、じつに丁寧に「紹介解説」の為されている本なのだ。

以上のようなわけで、「全264ページ」の本書において、「小説」の占める割合は、意外に低い。「23本」で160ページほどであり、だから、2〜6ページほどの「掌編」と呼んだ方が良いような作品も少なくないのだ。
それに、なにしろ学生たちの作品であり、中には「初めて書いた小説」もあるから、いわゆる「小説作品」としての巧拙を言えば、当然のことながら、いささか「幼い」作品も無くはない。
一一だが、これらの作品は、すべて「私小説」なのだ。

日本の「私小説」が「自分の体験をそのまま書くもの」だとは限らないように、つまり、ある程度の「創作」を加えることで、より自身の「実体験」を際立たせるように書かれているのと同様、本書収録の小説も、少なからず「創作(フィクション)」の部分を含むのだけれども、しかしそれは、その部分も含めて、決して「空想的な絵空事」などではなく、作者たちの実人生を、そのまま反映したものであり、そうした意味で、「私小説」なのだ。

彼らにとっては、「ある日突然、家族や友人が殺される」という描写も決して「フィクション」ではあり得ないし、「瓦礫に埋もれて、死にゆく自分の姿」でさえも、決して「フィクション」ではない。
それらは、彼(女)ら自身が、ごく身近に、日常的に経験していることを、「そのまま」描いているのである。

だから、どの作品をとってみても、技巧の問題を超えてリアルであり、切実な小説となっているのだ。
中には、彼らを虐殺する側である「イスラエル兵」の内面に入りこんで書かれた作品もある。それもまた、単なる「空想」ではなく、日常的に向き合っている「隣人」を描いているということなのだ。

前記のとおり本作品集は、「元版」における編者リフアト・アルアライールの意向をそのまま引き継ぐものとして、「作者紹介」に多くをページを割いている。
それはたぶん、「小説作品」というものが、何の「背景」もなく、商品的に存在するものだという、世の「錯覚」に抗うものなのだろう。「小説作品」の背後には「作者」がいて、両者は切っても切れない関係にあるのだ。

「作品」は、個人の「体験」を超えて、「世界」にその声を届けると同時に、「たった一人の人間」「たった一度の人生」というものの、かけがえのなさを伝えるものでなければならない。
だからこそ、リフアト・アルアライールは、本書において「作者紹介」のページに力を入れ、この「新版」でも、その意志を引き継いで、「生徒たちのその後」と、そこで「引き継がれた魂」を、彼ら自身の声で語らせたのではないだろうか。

「死なないと思っていた人が死んだ。死んではならないと思っていた人が死んだ。私はその現実に直面して、それでも先生の志を継がなくてはならない」と、ある元生徒は、そんな趣旨のことを書いていた。

この「残酷な世界」において、パレスチナから遠く離れた「恵まれた環境」のなかで本書を手にしていることに、私は言い知れぬ「居心地の悪さ」と「後ろめたさ」を感じ続けていた。

「何もできない私」ではなく、「何もしない私」であることに、言葉にはならない「居心地の悪さ」を感じ続けたし、今も感じ続けている。

このようなレビューを書いた翌日には、私は間違いなく「娯楽映画のレビュー」でも書いているはずだ。それも自覚的に、そうしているのだ。
そして、それはたぶん、それが、私自身の「正直な姿」に他ならないからであろう。

何もしないのであれば、せめて、ありのままの自分として、その後ろめたさくらいは感じ続けていたい。それがせめてもの、私の「倫理」なのである。

 わたしが死なねばならないとしても

  リファト・アルアライール

わたしが死なねばならないとしても、
きみは生きねばならない
わたしの物語を語って
わたしの物を売って
ひときれの布と
いくつかの糸を買えば、
(白い布に長い尾(テイル)をつけるといいよ)
ガザのどこかにいる子どもが一一
目に天国を映して
炎のなか去った父親を待っている
誰にも別れを告げず
自分の体にさえも
自分自身にさえも別れを告げずに去った父親を待つ子どもが一一
凧を見て、きみが作ったわたしの凧が空高く舞うのを見て
ほんの一瞬、それは天使で、愛を伝えに戻ってきたのだと思ってくれるから
わたしが死なねばならないとしても
それが希望を伝えるものとなり
ひとつの物語(テイル)となるように

(※ 原文では、(テイル)はルビ)


(2025年4月14日)

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