オットー・プレミンジャー監督 『栄光への脱出』 : イスラエル建国史を美しく描くという無理の産物
映画評:オットー・プレミンジャー監督『栄光への脱出』(1960年/アメリカ映画)
先日、本作と同年公開の作品『スパルタカス』(スタンリー・キューブリック監督)のレビューをアップしたところだが、私が、本作『栄光への脱出』と『スパルタカス』を見ようと思った理由は、この2作が、第二次世界大戦後の東西冷戦の開幕に伴いアメリカで始まった「赤狩り」のせいで、1年も刑務所に収監された、ハリウッドの脚本家ダルトン・トランボの、復権にかかわる作品だったからだ。
このあたりについては、ここでは詳しくは繰り返さないので、ぜひ拙稿「山本おさむ『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』:「赤いイデオロギー」という理想」や「Wikipedia」をご参照いただきたい。
ダルトン・トランボは、政府の「左翼思想」弾圧機関である「非米活動委員会」による召喚尋問の場で「みずからの思想を、他人に説明する義務は無い。それはアメリカ国民に認められた権利だ」と証言を拒否したことで、刑務所に入れられてしまう。
この思想弾圧に抵抗したハリウッドの10人は「ハリウッド・テン」と呼ばれ、歴史にその名を刻むことになるのだが、トランボはその一人である。
しかし、当然のことながら、ハリウッド(映画業界)としては、表だって政府に反抗するようなことは出来なかったから、「左翼」認定された人は仕事を失うことになり、ましてや刑務所入りしたトランボは、出所後も、表向きは、脚本家の仕事を失うことになる。
だが、脚本家として有能なトランボは、変名を使って仕事を続けた。ハリウッドとて、好きで有能な人材を排除したのではないから、バレさえしなければトランボを使うことも辞さなかったのだ。
無論、変名(ペンネーム)での仕事は、本来の原稿料には比べるべくもなく低賃金だったが、もともと仕事の早いトランボは、多くの仕事をこなすことで、家族と生活を守ったのだ。
このようにして、トランボが変名で脚本を書いた作品の中には、かの名作『ローマの休日』(1953年/ウィリアム・ワイラー監督)なども含まれる。
また、前記の2作、『スパルタカス』と『栄光への脱出』もそうした作品だったのだが、結果としては、この2作が同じ年に、ダルトン・トランボの「本名」を、そのスタッフ・ロールに刻んで、トランボの復権に一役買うことになった。
トランボの名前が、再びスクリーンに映し出されることになった経緯は、おおむね次のような事情であったらしい。
ユダヤ系オーストリア人の映画監督オットー・プレミンジャーは、「イスラエル民族の歴史からイスラエル共和国の建国まで」を描く叙事詩的な大作映画『栄光への脱出』(原題『エクソダス』)の制作進めていたが、その脚本作りが難航していた。
ユダヤ系アメリカ人の小説家レオン・ユーリスの書いた原作小説『エクソダス』が、旧約聖書の「出エジプト記」に始まって、第二次世界大戦後のイスラエル国の建国までを描くという壮大な作品で、原作者も加わっての、原作の物語を「映画の尺」にまで切り詰める作業が、難航していたのだ。
そこで、プレミンジャーは、旧知の腕利き脚本家ダルトン・トランボに脚本のリライト依頼する。
映画の脚本というのは、多数の脚本家が関わって何度もリライトがなされ、最終決定稿を書いた脚本家が、映画にクレジットされる、というのは、よくあることなのだ。
プレミンジャーの要請をうけたトランボは、原作をそのまま圧縮するようなそれまでの方針では、映画化は不可能だと判断して、プレミンジャーが「最も描きたいこと」は何なのかを聞き取り、それが「イスラエル共和国の建国史」だということだったので、旧約聖書などの時代はバッサリと切って、戦後の話に限定して、脚本をまとめたのである。
こうしたトランボの献身的な貢献に感動したプレミンジャーは、トランボが脚本を書いたと公表して、その名を作品に刻むと公言した。
そのため、同時期にトランボの脚本で制作の進められていた『スパルタカス』の方でも、トランボの本名を刻むことを決定し、作品としては『スパルタカス』の方が先に完成した。一一と、こういう経緯であったようだ。
しかしながら、本来「ハリウッドでの赤狩り」に関わるダルトン・トランボに興味があっただけの私は、本作の内容そのものには、あまり興味が無かった。
だから、実際に見てみるまではその内容も知らず、ただDVDのケースの表紙に、軍服姿のポール・ニューマンが写っているので、てっきり「第二次世界大戦の戦争もの」だと、そう思い込んでいたのである。

したがって、『スパルタカス』がそうであったのと同様、本作『栄光への脱出』も、オープニングロールにダルトン・トランボの名前を確認した段階で、私の初期の目的は達せられた。

あとは、映画本編を楽しめば良いと、そう気楽に構えていたのだが、一一これも『スパルタカス』同様、そうは問屋が卸さない作品だったのである。
○ ○ ○
本作は、前述のとおりで、第二次世界大戦後の「イスラエル共和国の建国」を描いた、歴史フィクションである。
大筋で歴史の流れに沿っているとは言え、例えば、ポール・ニューマンの演ずる主人公ユダヤ人活動家アリ・ベン・カナンは、実在の人物ではない。
このアリを狂言回しとして、パレスチナがまだイギリスの委任統治領下にあった大戦後の時代に始まり、ユダヤ人たちのパレスチナへの「帰還」運動、それに対する「国連」の対応、イギリスのパレスチナからの撤退、イスラエル共和国の建国、ユダヤ人とアラブ人(パレスチナ人)との抗争といったことまでが、一連のもの物語として描かれるのだ。
で、この映画の原作小説は、ユダヤ系アメリカ人作家によって書かれた、イスラエル共和国建国の正当性をアピールするためのものであり、それに共感するプレミンジャーが映画化を企画した作品だった。
だから、内容的には決して「中立公正」なものではなく、とにかくイスラエルの正当性が強調され、言うなれば「美化」されている。
「Wikipedia」よると、それでも原作に比べれば「反イギリス・反アラブ」色が薄められているという。
とは言え、現在、ガサで進行中の、イスラエルによる「ホロコースト」の現実を知る身としては、とても「単なるフィクション」として見ることなど出来ない作品になっている。
原作が明白に「民族愛小説」であり、それに共感した同胞のプレミンジャーが映画化したのだから、本作『栄光への脱出』が中立公正でないのは、やむを得ないところであろう。
本作は、紛れもなく「同胞愛」映画なのだが、しかし、それをして本作を「プロパガンダ映画」呼ばわりするのは、それもまた少し違うと、私は思う。
つまり、結果としてはそうであったとしても、どこの国の映画やドラマでも、自国や自国民を、大なり小なり「美化」して描くのは当たり前の人情であり、そのことだけをして「プロパガンダ(政治的宣伝)作品」だとは、普通は呼ばないからだ。
たしかに、「イスラエル」のやっていることは酷い。
今だけの話ではなく、建国以来の領土拡大と戦争は、どう考えてもイスラエルの側を「侵略者」と呼ぶしかないものだからだ。
だが、そんな国であっても、少なくとも「聖書」の中で約束されていた地での建国自体は、肯定的に考えたいと願うユダヤ人の気持ちもわからないではない。
現在の、イスラエル国民の中にも、現ネタニヤフ政権の暴力的なやり方を批判して、アラブ人(パレスチナ人)との連帯と共存を願う人も少なくはない。
だが、そんな彼らとて「イスラエル共和国の建国」までは否定しないことだろう。
国を持たなかったが故に、世界各地で差別され、そのあげく、ナチスドイツによる「ホロコースト」に遭うことになったユダヤ人としては、やはり、どこかに国が必要だったという思いは否定できないだろうし、となれば、その土地とは、かつて自分たちの祖先が、神から与えられた「約束の地」であるパレスチナをおいて他にはないと、そう考えるのは、当然のことだ。
なにしろ他に、大義名分の立つ場所など、世界のどこにも無いからである。

そんなわけで、良心的なイスラエル人は、アラブ人との平和共存を望むのだが、しかし、彼らとて、せっかく得た「祖国」を捨てるほどの覚悟は、当然ない。流浪の民に戻ることが正しいとまでは考えられないのである。
一一まただからこそ、アラブ人との「平和共存」を望みもするのだ。
だだ、この考え方には基本的なところで無理がある。つまり端的に言えば、そうした考えも、所詮は「自己中心的にご都合主義」でしかないということだ。
なぜなら、アラブ人からすれば、ユダヤ人は明らかに「後から入り込んできた侵略者」でしかなく、ユダヤ人の唱える「もともと聖書の時代には住んでいた」などという理屈は、おとぎ話による自己正当化としか聞こえないからである。
それが歴史的な事実だとしても、では「正当な住民」とは、今日に至る歴史的経緯をぜんぶ無視して、どこまで遡らなければならないのか、という話になるからだ。
そんなわけで、私としてはプレミンジャーの同胞愛もわからないわけではないが、しかしだからといって、この映画をそのまま肯定することは出来ない。
「プロパガンダ映画」ではなかったとしても、問題のある作品であることは、否定しようもない事実だからだ。
ちなみに、本作の脚本を書いたことから、ダルトン・トランボもユダヤ人だと考える人もいるようだが、事実は、そうではないようだ。
つまり、トランボは、プロの脚本家として、旧知のプレミンジャーから仕事を受け、その仕事に「良心的に」取り組んだ、ということなのであろう。
もちろん、ユダヤ人ではないからこそ、原作そのままでは「イスラエルの独善」映画にしかならないとトランボには、ハッキリとわかったのであろう。だから、原作にあった「反イギリス・反アラブ」色を薄め、イギリスやアラブ人にも「花を持たせる」描写を加えたのに違いない。
そうだったからこそ、欧米での映画公開にあたって、本作の主人公が、大きな反発を食らうこともなく、むしろ「大国の横暴に抗う主人公」として、共感を得ることができたのである。
さて、今更なのだが、本作の「映画としての出来」について言うと、端的にいって「冗漫な凡作」と評するしかない。「失敗作」だと言ってもいい。
どこがダメなのかと言うと、全体にメリハリが無く、それがいつまでも続くので、見ているうちに「まだ終わらないの?」などと考えてしまうような作品なのだ。
私は、本作の尺を知らずに見始めたのだが、さすがに2時間を超えたあたりで確認したところ、本作は実に「208分」の大長編であることを、初めて知ったのである。
無論、それがよく出来ていれば良いのだが、そうではないから、見ていて辛い。
そんな作品では、内容を云々する以前に、失敗作と言うほかなかったのだ。
本作の「ストーリー」は、次のとおりである。
(なお、原文に、適宜改行を加えた。)
『1947年の地中海キプロス島。当時キプロスにはイスラエルに帰ろうとするユダヤ人たちが英軍によって収容されていた。パレスチナを委任統治していた英国がアラブ諸国との紛争をさけるためとった政策である。
アメリカ女性、キティ・フリーモント(エヴァ・M・セント)はキプロスで死んだキャメラマンの夫の様子を探るため現地にやってきた。英軍司令官サザーランド(※ ラルフ・リチャードソン)が彼女に便宜をはかってくれた。
収容所のユダヤ人たちの窮状をみた彼女は看護婦として、働くことにした。そこでユダヤの美少女カレンや17歳のユダヤ少年ドヴ・ランドー(※ サル・ミネオ)と彼女は知り合った。少女と少年は互いに愛情を抱いていた。
その頃、1人のユダヤ人地下組織(※ ハガナー)のリーダーがキプロスに潜入した。アリ・ベン・ケナン(ポール・ニューマン)である。
元英軍将校だった彼の任務は、ユダヤ国家再建のため(※ の既成事実づくりのため)キプロスのユダヤ人たち2800名をエルサレムに送りこむことだった。
軍服を利用して(※ 英軍を騙し)、彼は貨物船オリンピア号をエクソダス号と改名、ユダヤ人たちをのせて(※ キプロスの)港を出ようとした。
英軍はこれを知って停船を命じた。ユダヤ人たちはハンストをもって対抗した。美少女カレンを養女にしようとしたキティも、少女とともにこの船の中にいた。やがて世界の世論に負けた英軍はエクソダス号出港を許し、一行はハイファについた。
カレンら少年少女はガガリーの丘にあるユダヤ人の(※ 入植地)「青春の村」におちついた。
アリの父バラク(※ リー・J・コッブ)や友好的なアラビア人タハ(※ ジョン・デレク)が一行を迎えた。
バラクの弟アキバは戦闘的なユダヤ人地下組織(※ イルグン)のリーダーで、アリたちの平和主義者と対立していた。ドヴ・ランドー少年はこの一派に加わった。
エルサレムでアリとめぐりあったキティは、彼に愛情を感じた。
その頃アキバ1派(※ いっぱ)は暴動をおこして(※ 爆弾テロを繰り返して)英軍に捕らえられ、刑務所に入れられ(※ 死刑を待つ身となっ)た。
アリはアラブ諸国の(※ ユダヤ人のパレスチナへの入植の)妨害を排除するにはユダヤ人組織を統一するのが必要と考え、アキバたちを救出した(※ 脱獄させた)。しかしアキバは(※ アリらと逃亡の途中、撃たれて)彼(※ アリ)の腕の中で死んだ。
1947年11月、国連はパレスチナ分割を可決しユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生した。
が、そのことは同時にユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することを意味していた。元ナチ将校フォン・ストークに指揮されたアラブ人たちはユダヤ人地区を襲撃しハタを殺した。
アリは少年少女を「青春の村」から脱出させ戦闘体制をととのえた。カレンが銃弾に倒れたが、ユダヤ人たちは屈しなかった。今はアリと行を共にする決心をしたキティも銃をとった。』
(サイト「MOVIE WALKER PRESS」より)

上の「ストーリー」を読んでもらえばわかるとおりで、本作は主として「3つの山場」が存在する。
(1)「出エジプト記」に描かれたエジプト脱出(エクソダス)を踏まえた、「エクソダス号」事件のエピソード。
(2)パレスチナのユダヤ人入植者内部での、対立。
(3)「イスラエル共和国の建国」と、それに伴う、アラブ人との本格的な対立。
映画として一番わかりやすいのは、(1)の「エクソダス号事件」だろう。
ユダヤ人の自由を妨げようとするイギリスに、ハンガーストライキという平和的な手段で対抗し、見事に世界の世論を味方につけて、「祖国」への帰還を勝ち取った、というエピソードである。
しかし(2)からは、イスラエルの「自己正当化」臭が鼻につき始める。
まず、イスラエルの建国前、パレスチナに入植したユダヤ人とアラブ人との関係は、いろいろだったということが描かれる。つまり、二つの民族が仲良くやっていける可能性とあったというのが描かれるのだ。それが、ユダヤ人入植者のために土地を分け与えたアラブ人タハの存在であり、タハはアリと兄弟のような友情の絆を結んでいたというのが描かれる。
つまり、パレスチナの入植地は、少なくとも当初は、暴力的に奪ったものではない、ということが、ここで示されているのである。

しかしながら、それは当然のことで、入植当初は、ユダヤ人の方が圧倒的に少数だったのだから、なるべく先住のアラブ人とうまくやろうとしたのは、身を守るためにも当然のことでしかなかったからだ。
しかし、大半のアラブ人からすれば、いきなり自分たちの土地にやってきて「ここは祖先の土地だから、我々も住ませてもらうよ」などと言うユダヤ人を心良く思えないのは、むしろ自然な心理というものだろう。
だからこそ、ユダヤ人入植者の排斥を訴えるアラブ人も大勢いたし、中にはアキバのような過激派もいたということである。
実際、本作でのアキバの描かれ方は、決して「悪役」ではなく、「考え方の違い」というかたちになっており、アキバの語る「いつの時代にも、国を作るとなれば、暴力は避けられないことなのだ」という言葉は、イスラエル建国には限らない、歴史の現実なのだ。
そんなわけで、この(2)段階は、主人公のアリは、まだ、アラブ人とも仲良くやっていきたいという立場の人物として描かれている。
ところが(3)に至ると、事情は一変する。
イギリスがパレスチナを放棄し、国連が「イスラエル共和国の建国」を認めると、一気に、ユダヤ人とアラブ人の関係が悪化したのだ。
間に入るイギリスという存在がいなくなって、ユダヤ人とアラブ人が直接向き合うことになったのである。
で、ここからがこの映画の一番の問題点なのだが、それまで仲の良かった、アリとタハに友情にも、心ならずも亀裂が入る。イスラムの最高指導者が「ユダヤ人を追い出せ」という指示を下したからだ。
そのためタハは、アリへの友情を持ちながらも「イスラム教徒として、最高指導者の支持に従わざるを得ない」とアリに理解を求め、その上でアリにこっそりと、この入植地への襲撃計画が進められているという情報を漏らして、アリに逃げるように促す。

そのおかげで、元ナチ将校フォン・ストークに指揮されたアラブ人たちによる襲撃をかわせたものの、タハは、アリたちに情報を漏らした裏切り者として殺害され、その遺体が晒しものにされていた。


そしてそれを見たアリは、ユダヤ人を排除しようとするアラブ人と戦う覚悟を決める。
一一というところで、本作は終わるのだ。
つまり、本作は、全体の作りとして山場が3つもあって、そのためにテンポの悪い作品になっている。
言うなれば、(1)だけで終わっても、ぜんぜん不思議ではなかった作品が、(2)(3)まで続くのだから、バランスの悪い作品になるのも当然なのだ。
だがこれも、当初の構想からすれば、削るだけ削って、最低限を描いた結果がこれだった、ということなのであろう。
これ以上削ると、「イスラエル共和国の建国史」を描くという本来の目的までが失われてしまうので、この3つのエピソードは、最低限どうしても必要だったのだ。
言い換えれば本作は、「娯楽作品としての完成度」や「映画としての完成度」を犠牲にしてでも、「イスラエルの建国史を象徴的に描く作品」にしたかった、ということだったのである。
しかしまあ、それはそれでいい。映画にもいろいろあって、「娯楽映画」もあれば「教育映画」もあり、「教育映画」の一種としての「愛国映画」といったものだってありだろうからだ。
しかし、やはり問題なのは、(2)(3)での、かなり無理のある「イスラエルの立場の正当化」だ。
アラブ人の立場からすれば、パレスチナの分割によるイスラエル共和国の建国が認められたとなれば、「何を勝手な」となるのは当然のことでだから「断固ユダヤ人を追い出せ」と、宗教指導者が指示するようなことも、事実としてあっただろう。
しかしそれは、客観的に見れば「当然の感情」でしかなく、それを「アラブ人が我々を力づくで追い出そうとするから、我々は仕方なく自衛のための暴力を行使するのだ」という、ユダヤ側の理屈は通らない。

また、それがわかっているからこそ、本作では「最後の切札」として「元ナチス」を登場させて、アラブ人を指揮させることにもなったのであろう。
何はともあれ、ナチスの指揮で動いている方が「悪役」だということなのだが、これはいかにも取ってつけた感が強く、安直にすぎる よう。
実際問題としては、仮に元ナチスがアラブ人を指揮して、パレスチナからユダヤ人を追い出そうとしたとしても、その行為自体は「アラブ人たちの、侵略者に対する自衛」に他ならないのだから、その指揮官がどこの国の人間かなど、関係のない(非本質的な)話なのである。
また、ユダヤ人に理解のあったアラブ人のタハを、裏切り者としてアラブ人に殺させることで、アラブ人を「悪役」化して、アリの「復讐心」を正当化する、というのも無理がある。
と言うのも、本来ならば、アリがタハから受け継ぐべきは、ユダヤとアラブの「融和の夢」であり、友情の継続であったはずだからである。
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そんなわけで、本作は「歴史的な現実」をベースにしているが故に、ユダヤとアラブの対立という、結果としての歴史的事実だけは変えられなかった。
そのために、後からパレスチナに入ってきたユダヤ人の立場をなんとか正当化しようと、無理に無理を重ねたというのが、簡単に見て取れるのだ。
だから、こんな失敗作を、高く評価することなど、到底できないのである。
ところが本作は、公開時、評論家などの不評にもかかわらず、結果としては大ヒット作となっている。
こんな作品のどこが喜ばれたのかがさっぱりわからず、もしかするとユダヤ人脈の強力な宣伝でもあったのかとまで疑いたくもなるのだが、いずれにしろ、凡作が異様にヒットし、傑作が評価されないなどというのは、よくあることで、本作のヒットだけを「陰謀論」的に理解する必要はない。
本作がヒットしようがしまいが、トランボの腕もってさえ、正当化しようのないものは正当化できなかった、ということだけは確かなのだ。
どんなに力量や技量があろうと、やはり「誤った前提」には立つべきではない。当然、良い結果が得られないからである。
いかなる経緯があれ、トランボが本作でやろうとしたのは、駄作を傑作だと強弁しようとするのと、同じことだったのではないだろうか。
(2025年9月4日)
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