スタンリー・キューブリック監督 『スパルタカス』 : 船頭多くして…
映画評:スタンリー・キューブリック監督『スパルタカス』(1960年/アメリカ映画)
本作について書きたいことを書こうとすると、色々と説明しなければならないことが多くて、なかなか面倒くさい。
例えば、「映画.com」の本作紹介文は、
『スタンリー・キューブリック初の長編カラー作品で、ローマ帝国を舞台にした一大叙述詩。自由を手に入れるため、奴隷スパルタカスは剣闘士や奴隷で組織した軍を扇動し、ローマ貴族クラサスに大規模な反乱を起こす。前作「突撃」に続きカーク・ダグラスが主役に起用され、アカデミー賞俳優ローローレンス・オリビエが敵役のクラサスを演じる。ピーター・ユスティノフの助演男優賞をはじめ、第33回アカデミー賞4部門を獲得。』
となっているのだが、これは同作の製作事情をまったく知らない人の書いたものだというのが明らかだ。
たしかに本作は、スタンリー・キューブリックの監督作品ではあるのだが、キューブリックの前作『突撃』に続いて、本作でもカーク・ダグラスが主役に「起用され」た、というのは、ちょっと違う。一一逆なのだ。

本作は、カーク・ダグラスの設立した独立系の映画製作会社が、メジャーの「ユニバーサル・ピクチャーズ」を巻き込んで作った、基本的には独立系の映画であり、つまり、まずはカーク・ダグラスの企画がありきの作品で、彼が主役のスパルタカスを演じるのは、当初からの既定路線であった。
つまり、「監督」の方が、後から決まったスタッフにすぎないのである。
本作は、カーク・ダグラスの「製作総指揮・主演」で作られたものであり、クランクインの際の「監督」は、ユニバーサル映画の推薦した、アンソニー・マンだった。
だが、このアンソニー・マンとカーク・ダグラスが何らかの理由で対立して、マンは監督を降板させられ、その後に起用されたのが、キューブリックなのだ。
したがって、本作においては、キューブリックがカーク・ダグラスを「起用」したのではなく、カーク・ダグラスが旧知のキューブリックの「起用」を決め、イギリスから呼び寄せた、ということになるのである。

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さて、そもそも私が本作『スパルタカス』を見ようと思ったきっかけは、わりとシンプルなものであった。
それは、第二次世界大戦後の冷戦初期、つまり1948年頃より1950年代前半にかけてのマッカーシズムにより、ハリウッドでも行われた「赤狩り」で、これに抵抗した「ハリウッド・テン」の1人として、1年間の刑務所暮らしを強いられ、出所後も映画の仕事から干されながらも、覆面脚本家として『ローマの休日』など多くの作品を手掛けていた名脚本家ダルトン・トランボの名を、いち早くスタッフロールに明記して、その復権に寄与した2本の映画のうちの1本が、本作だったからである。
ちなみに、もう1本とは、本作『スパルタカス』と同年に公開された、オットー・プレミンジャー監督作品『栄光への脱出』である。

このどちらが先に、ダルトン・トランボの「名誉回復」に寄与したのか、つまり、どちらが先に、トランボの名前を(本名で)スタッフロールに明記したのか、私は現時点では知らないし、あまり興味がない。
なぜなら、たぶんこの問題は、何をして「先」だと呼ぶかの問題に帰着するのだろうと、容易に推測されるからである。だから、その程度の問題であれば、どちらが先でも大差はない、と考えるからである。
ともあれ、私としては「ハリウッドの赤狩り」問題に関わる「ダルトン・トランボの名誉回復」に先鞭をつけた2本の映画のうちの一本として、本作に興味を持ち、見ることにした。
無論、『栄光への脱出』の方も近々見る予定である。
そんな事情だったから、本作のオープニングロールに「ダルトン・トランボ」の名を確認した段階で、私の当初の目的は、達成されたとも言えよう。
だから、あとは「作品の出来」自体を評価すれば、それでお終いだったはずなのだ。


ところが、ことはそう簡単にはいかなかった。一一そこが、「話が面倒」だという点なのである。
本作は、私の見た「復元版」で、全「197分」つまり3時間超えの「超大作」である。
そのスペシャル版DVDには、同じ長さの「本編音声解説」が、2本(3本?)付録していた。
ひとつは、カーク・ダグラス(主演)、ピーター・ユスティノフ(出演)、ハワード・ファスト(原作)、エドワード・ルイス(製作)、ロバート・ハリス(映画修復)、ソウル・バス(デザイナー)の証言を、映画のシーンに合わせて編集したもの。
もうひとつは、これも別々のものとして書かれた、ダルトン・トランボ(脚本)の作品分析と、アレックス・ノース(作曲)の背景音楽の説明を、映画のシーンに合わせて編集したものである。
最後のアレックス・ノースの分は聞いていないのだが、それでも前者が3時間、トランボのものが3時間分あるのだから、これだけで、おおよそ6時間分の情報だったし、これが、ある意味では、本編そのものよりも興味深い内容だったのである。
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本作は、古代の「共和政ローマ」時代の末期に発生した、大規模な奴隷の反乱事件である「スパルタカスの反乱」を描いた作品で、このスパルタカスをカーク・ダグラスが演じている。
「共和政ローマ」は、この「スパルタカスの反乱」を、ひとつの契機として「帝政ローマ(ローマ帝国)」へと変貌することになるのだ。
なお、物語の冒頭でナレーションされるように、当然のことながら本作は、「紀元前」のお話、イエス・キリストが生まれる前の、ささやかな記録による実話を元にした物語(フィクション)である。

自由を求めて反乱した奴隷の頭目スパルタカスと対立するのは、当然のことながら「共和政ローマ」の支配者たちである。
「共和制」とは、要は「王制」のような「独裁制」ではなく、簡単に言えば、(貴族、平民など各)階級を代表する代議士の合議によって政治が執り行われる政体ことだ。
だが、当然のことながら、この時代の「平民(一般民衆)」には、「奴隷」身分は含まれていない。「奴隷」は、人間として数えられていなかったのである。


つまり、「共和制ローマ」は、それ以前の「王制」を打倒して「共和制」を実現した政体なのだが、それでも「奴隷制度」はそのまま存続したのであり、今の「民主制」とは、おのずと意味が違うのだ。
そうした階級社会のなかで、奴隷の反乱たる「スパルタカスの反乱」などが発生し、その「共和制」の屋台骨が揺らいだために、貴族の「軍人」が力を持つことになり、やがてその「貴族階級の軍人」が実権をにぎって「帝政」を敷くことになる。
そしてそこから、「ローマ帝国」へと発展していくというのが、歴史の流れなのだ。
一一私自身、こんなことを確認したのは、中学か高校の「歴史」の授業以来なので、間違っているところもあろうが、まあ、そのあたりが大目に見ていただきたい。
ともあれ、こうした「動乱の時代」に起こったのが「奴隷スパルタカスの反乱」だったのだから、彼スパルタカスと敵対するのは「共和政ローマ」に支配者たちであり、「元老院」を構成する元老たち(貴族の軍人や上級市民を含む)だったと言えるだろう。
で、本作で、そうしたスパルタカスの対立的な立場に立つのが、この元老院議員の一人で、貴族の軍人であるマルクス・クラッサス(ローレンス・オリヴィエ)であり、もう一人は民衆(平民)の支持を背景にした元老院の有力政治家グラックス(チャールズ・ロートン)の二人である。


つまり、言うなればクラッサスが「貴族・軍人」代表であれば、グラックスは「庶民の声を代弁する老獪な政治家」であり、両者は元老院の中で対立する関係にあった。
したがって、本作が描くのは、「奴隷(スパルタカス)vsローマの人々」というだけではなく、「共和政ローマ」の中での、「共和制主義者」(の代表グラックス)と、かつての「王制」時代の栄光の復活を夢見ている「貴族・軍人」(の代表クラッサス)との対立も、同時に描かれている。
そのため、3時間超えの大作になっているのである。
だが、問題なのは、主役はあくまでもスパルタカスであるはずなのに、結果としては、クラッサスやグラッカスが、その対立関係において「準主役以上の存在感」を示すのに加え、スパルタカスと元老たちの間に位置する、「剣闘士の育成」も行なっている「奴隷商人」のバタイアタス(ピーター・ユスティノフ)が、「トリックスター」的なユニークな立場の存在として、これも妙に目立っており、結果としては、バタイアタスを演じたピーター・ユスティノフが、アカデミー賞助演男優賞を受賞することにもなるといった、作品総体としてのバランスの悪さにある。

主役はスパルタカスだが、主役級に「掘り下げて描かれた」人物が、他に3人も登場するために、それぞれの登場シーンは、それなりに「さすがは名優」という感じで感心させられるものの、全体としては、「英雄」スパルタカスの存在感が、相対的に薄れてしまっているのである。
では、なぜこんなことになってしまったのかということだが、本作は主役スパルタカスの所属する「奴隷」の世界と対比的に、「ローマの上級市民」たちの世界をしっかり描きたいと考えた製作総指揮のカーク・ダグラスが、ローマ人の役に「イギリスの名優たち」を招いた結果だと言えよう。
カーク・ダグラスとしては「虐げられた者たちの決起叛逆の物語」をしっかり描くために、それとの対比で「ローマの上級市民たちの世界」をしっかり描きたかった。
その場合、奴隷の世界とローマ人の世界とを「質的に違ったもの」として描くために、ローマ人の役を、アメリカの俳優にやらせるのではなく、「貴族」の伝統が生きているイギリスの名優たちにやらせれば、説得力が増すだろうと、そう考えたようなのである。
もちろん、イギリスの名優たちを使えば、芝居が引き締まったものになるし、話題性もある、といった計算もあったはずだが、その部分が、カーク・ダグラスが考えた以上に、強く出てしまう結果となったのだ。

言い換えれば、カーク・ダグラスとしては、自身の演じるスパルタカスの「庶民的な英雄」性を引き立てるものとして、イギリスの名優たちを採用したつもりだったのだが、彼らも彼らで、一筋縄でいく相手ではなかったのである。
クラッサス役のローレンス・オリヴィエ、グラックス役チャールズ・ロートン、バタイアタス役のピーター・ユスティノフは、いずれも主役級の名優であるばかりではなく、みずから脚本も書けば映画監督も務める「才人」であったから、そう易々と「引き立て役の脇役」に甘んじるつもりはなかった。
彼らには、自身の役について一家言あった。薄っぺらい役など、当然のこととして御免なのであり、黙ってカーク・ダグラスや監督の言いなりになっているような人たちではなかったのである。

それとこれは、皮肉のきいたユーモアが売りで、いささか「面白おかしく、話を盛る」癖のあるピーター・ユスティノフによる「後年の証言」なので、鵜呑みにはできず、定説にもなってはいない話だから、話半分に聞いておくべきなのだが、一一彼が言うには、出演依頼のために、イギリスの名優たちのもとに送られてきた最初の脚本は、それぞれの役が重要な意味を持つものとして描かれていたと、そう言うのである。
要は、カーク・ダグラスがそうした勧誘用の脚本を用意して彼らを引っぱり込んだ後に、本来の脚本を渡して驚かせた、騙し討ちにして契約したという話なのだ。
ユスティノフが言うには、オリヴィエは当初、自分がスパルタカスを演じるつもりだったようだと言うのである。
だから、そうした裏切りに対し、彼らはその役が、自分にふさわしい役になるよう、それぞれに自己主張を強めた、というのが、ユスティノフの後年の証言なのである。
しかも、それとは別に、オリヴィエとロートンには、「俳優」として、その役柄どおりに「性格の違い」があって、互いを敵視しているところがあった。
オリヴィエは、シェイクスピア映画を何作も撮っているところからも分かるとおり、貴族主義的な伝統主義者の傾向があり、自らの出演作を厳しく選ぶ、いわば清貧の「硬派」であり、一方のロートンは「世俗・流行」に媚びて出演作品を選ばす、その結果として金儲けをした「軟派」俳優だったので、演技力において同じ名優だとは言っても、当然、この俳優としてのスタンスにおいては、まったくソリが合わなかったのである。
だが、それだけでは済まない。
この3人のイギリス人名優たちの中でも、最もタチが悪かったのは、バタイアタス役のピーター・ユスティノフではないかと、私は睨んである。
このピーター・ユスティノフも、オリヴィエやロートンと同じ、演技にこだわりのある俳優なのだが、彼は自分の「役柄」への注文だけには止まらず、映画の方向性をも揺るがすような「脚本の書き換え」をしばしば提案して、それが一部通っていたのである。
例えば彼は、自身の演じるバタイアタスを「多面性を持つユニークな人物」に書き換えただけではなく、彼と絡むロートンの演じるバタイアタスまで「多面性のある人物」に書き換えてしまった。

トランボの構想したグラッカスは「政治家だから、策を弄することもあるけれど、基本的には、クラッサスの独裁制の野望から、共和制を守ろうとしている良心的な政治家」というものだったのだが、ユスティノフの書き換えた脚本では、グラッカスに「好色な老人」という「個人性」が付け加えられており、そのせいで、トランボが考えたような「本当は良い人」的な人物ではなく、善悪の不分明な「胡散くさい政治家」という印象になってしまったのである。
本作は、アメリカの小説家ハワード・ファストの原作小説を映画化した作品であり、当初はこのファストが脚本も担当する予定であった。
ところが、ファストの脚本は遅々として進まず、このままでは企画が潰れてしまいかねないと見たカーク・ダグラスは、手が速い名脚本家ダルトン・トランボに脚本を依頼し、トランボが脚本を完成させたのである。
このハワード・ファストも、「赤狩り」の際に、呼び出しを受けた米国議会下院の下院非米活動委員会での証言拒否したために服役した人で、その時の囚人体験と奴隷の境遇とを重ねた結果、刑務所の中でスパルタカス研究を始めたという人である。
したがってその意味では、トランボと似たような立場にあった人とも言えるのだ。
ところが、原作者のファストは、トランボの脚本が気に入らなかった。
なぜなら、ファストの小説では、スパルタカスは、イエス・キリストのイメージが重ねられた「温和な知識人」的人物と解釈されていたのに対し、トランボのスパルタカス解釈は「当初は、奴隷として野獣的に粗野で反抗的な人物だったスパルタカスが、奴隷たちのリーダーとして徐々に人間的成長を果たしていく」というものだったのである。
だから、ファストにすれば、特に当初の「粗野なスパルタカス」という描写が見るに堪えず、原作を台無しにするものと感じられたのだ。

だが、所詮ファストは原作者であり、映画に直接介入できる立場ではなかったのだから、トランボの脚本がそのまま映画化されていたなら、それはそれで、良かれ悪しかれ「一貫性」のある作品になったいたはずであった。
ところが、このトランボの脚本が、イギリス人名優たちの提言や、ユスティノフの修正脚本や、あるいはそれらを受けてのカーク・ダグラスの判断やによって、色々と変更されたことによって、結果としては、脇役たちの「厚み」が増した分、主役のスパルタカスが、いささか「紋切り型」の「弱者の英雄」にとどまることになってしまったのである。
しかもそれだけではない。
キューブリックの存在も忘れてはならない。
これまでの紹介でわかるとおり、苦労人カーク・ダグラスの狙いは、基本的には「弱者の英雄スパルタカス」を描くというところにあるし、トランボの脚本もその線で描かれている。
そこへ、オリヴィエやロートンやユスティノフの意見が加わって、相対的に主人公の書き込みが薄くなり作品の焦点がボヤけたとは言え、ここまでなら本作は、言うなれば「人間を描く」映画という点では、同じ土俵上での争いだった。
ところがだ、スタンリー・キューブリックという作家は、そうした「ヒューマニズム」には興味のない人であり、むしろ彼のスタンスというのは、のちの作品からもわかるとおりで、「人間を突き放した視点から描く」という、いささかシニカルなものであり、その点では、ほかの誰ともその基本姿勢を共有するものではなく、ましてや「理想主義」的な人間観に立つトランボとは、真逆に近い性格の持ち主だったから、キューブリックもまた、しばしばトランボの脚本を無視したのである。
それに、キューブリックについては、カーク・ダグラスが呼び寄せたという事実から、カーク・ダグラスがキューブリックを、無条件な高く評価していたという印象を抱かれがちだが、これもそう簡単な話ではないようだ。
と言うのも、キューブリックの前作『突撃』は、まだ映画監督としては無名だったキューブリックが、人気俳優カーク・ダグラスと組んで作った作品であり、結果としてこれが彼の出世作になる。
だが、この『突撃』の段階で、まだ無名に等しかったキューブリックは、すでにカーク・ダグラスとぶつかっていた。
だから、二人がお互いに認め合っていたからこそ、『スパルタカス』にキューブリックが招かれた、というわけではなかったのである。
『主演のカーク・ダグラスは、自伝『クズ屋の息子』によればキューブリックの上梓した脚本に惚れ込んで主演を快諾したという。しかし本番近くに渡された台本は、キューブリック曰く「客のウケを狙って」の安易な登場人物の妥協を描くラストに改稿されていた。
激昂したダグラスは脚本を元に戻させ、無事完成に漕ぎ着けたものの、ふたりの不仲はその後も続いたとのことである。』
(Wikipedia「突撃(1957年の映画)」)
つまり、カーク・ダグラスとしては、キューブリックの人柄は認めていなかったが、その腕は認めていた、ということなのだろう。
そして、『スパルタカス』で早々にアンソニー・マンのクビを切ってしまった彼としては、すぐに使える腕利き監督はというと、キューブリックしかいなかった、ということなのではないだろうか。
そして、この時の立場としては、カーク・ダグラスの方がずっと上だったから、『突撃』と時と同じで、最後は自分に従わせるという自信があったので、カーク・ダグラスは、「嫌なやつ」キューブリックを呼び寄せることにしたのではなかったろうか。
一方、キューブリックにしてみれば、カーク・ダグラスをあまりよくは思っていなかったとしても、当時、破格の大作映画の監督にという話だったのだから、自身のキャリア形成のために、キューブリックはこれを喜んで引き受けたということだったのであろう。つまり、作品の中身は、二の次だったのである。
後年キューブリックは、『スパルタカス』を自分の作品とは認めないという頑なな態度を長らく採ってきたのだが、それは『スパルタカス』の場合は、すでに脚本が出来ており、基本的な方向性も決まっていた作品なので、最初(監督就任時)からわかっていたこととは言え、ぜんぶ自分の思い通りにやりたい「ワンマン」の彼には、『スパルタカス』の出来は、満足できるようなものではなかった、ということだったのであろう。
実際、本作『スパルタカス』の冒頭部10〜15分の映像は、マン監督の撮ったものが、そのまま使われており、キューブリックとしては、本当ならぜんぶやり直したかったはすである。
だが、さすがに当時の彼は、そこまで言える立場ではなく、彼は「実を捨てて、名を取った」ということだったのではないだろうか。
ともあれ、こうしたことがあったからこそ、本作は、第1回ラッシュ上映を見た段階でトランボの注文をつけた注文(この時のメモな内容が、コメンタリーのかたちでDVDに収録されている)にあるように「オリヴィエやロートン、ユスティノフのアップは多いのに、意外にもカーク・ダグラスのアップが主役にしては少なく、スパルタカスの内面描写が十分ではない」というような問題も発生したのであろう。

つまり、これはたぶん、キューブリックが、カーク・ダグラスの「アップの演技」を評価していなかったと言うよりも、そもそもキューブリックは「ヒューマンな英雄譚」になど、まったく興味がなかった結果なのではないだろうか。
私はまだ見てないので確かなことは言えないが、後年、サッカレー原作の『バリー・リンドン』を撮ったキューブリックの趣味からすれば、「奴隷の英雄譚」などより、上流ローマ人たちの方に興味が向いていたとしても、なんら不思議ではないのである。

そんなわけで、本作は、登場人物の魅力という点で、主人公のスパルタカスに焦点が絞りきれておらず、その点で弱いだけではなく、そもそもキューブリックには「人間を描く」気がなかったから、なおさら主人公の人物造形が不十分なものになってしまった、というようなことだったのであろう。
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もちろん、本作関係者には、それぞれに「言い分」があるし、そらはそれなりの「見識(方法論)」に立っての自己主張ではあったのだろう。
だが、その結果として、結局のところ本作は、よく言う「船頭多くして船、山に登る」と言うか、「船頭多くして船、霧の中に迷う」ような作品になってしまったのだと言えよう。
だから、本作を作品として見た場合、もちろん、色々と見どころはあるものの、しかし、その「完成度」においては、あまり高くは評価できないと、そう言わざるを得ない。
映画は、しばしば「集団芸術」であり、「スタッフ、キャストのみんなで、協力して作るのが当然だ」というような言われ方もすることもあるけれど、しかしそれは、あくまでも「建前・綺麗事」であって、「みんなの意見」を尊重したからといって、それでうまく行くとは限らない。一一そんな当たり前の事実を、よく示しているのが、他ならぬ本作だったのである。
無論、私はここで「ワンマン」的な制作体制の方が、良いと言っているのではない。
私が言いたいのは、「みんなで作る」のも「ワンマンで作る」のも、それは「時と場合と人によりけり」であり、こうやれば「いつでもうまくいく」などと、一概に言うことは出来ないだろうということなのだ。
キューブリックがのちに実現した「ワンマン」な制作体制は、しかし、いつでも必ず、うまくいったというわけではない。
また、トランボの「論理的に首尾一貫した、計算し尽くされた脚本」に対し「人間って、そういうものではない。人間とはもっと多面的で、計算し尽くせない幅のあるものであり、それを描いてこその映画だ」という「個人主義」の立場から作品に介入したユスティノフは、そのおかげで確かに個人としてはアカデミー賞を受賞したけれど、作品全体に対しては、必ずしもプラスの貢献とは言いがたい傷跡を残したと、私は見ている。
そんなわけで、本作の結果についてのみ言うのだが、本作は「自己主張の強い才人を集めたために、半ば空中分解した大作」だと、私はそのように評価する。
「トランボが名誉回復して、良かったよかった」では済まない作品だったのだ。
(2025年8月16日)
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