スラヴォイ・ジジェク 『ラカンはこう読め!』 : ラカン的に見た、北村紗衣的フェミニズム
書評:スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』(紀伊國屋書店)
先日、ジジェクの映画論映画『倒錯的イデオロギーガイド スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2』 のレビューを書いた時だったか、あるいはその前に、ジジェクの社会批評書 『「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』のレビューを書いた時だったろうか、古い友人であるオロカメンさんから、本書『ラカンはこう読め!』をオススメいただいていたので、今回読むことになった。
本書『ラカンはこう読め!』は、そのタイトルどおり、心理学者ジャック・ラカンの思想・哲学の解説書と言うか、入門書的な本なのだが、一般的なそれがラカンの思想や哲学を、文字どおりに「解説する」のに対して、本書の場合は、ラカンのそれを、具体的な作品分析に適用したら「こうなる」という実践例に示すことで、その思想・哲学を解説しようとしたものだと、大筋のところそう言えるだろう。
だから本書には、ジジェクの好きな、映画の話が頻出する。
オロカメンさんは、こうした点で、この本が私向きであろうとオススメ下さったのであろうし、私にも比較的わかりやすい本だと考えてオススメ下さったのだと思う。
また、私自身もそう期待して本書を読んだのだが、一一これが、そうわかりやすい本ではなかった。

もちろん、わかりやすいという人もいるのだろうが、そもそも難解で知られるラカンの哲学を、ラカンの本を1冊も読んでいない私が、その解説書を読んだだけで理解できたら、誰も苦労はしない。
だいぶ前に、ラカンの解説書として大変評判の良い、片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房)という本を読んでレビューも書いたのだが、それでラカンが少しでもわかったという実感は、私には無い。
そのレビューには、同書に書かれていたことについて、私の考えたことを書いただけであって、「ラカンとは、こういうものだとわかりました」という話ではなかったのである。
いずれにしろ、もうだいぶ前の話なので、何を書いたのかさえ、今ではすっかり忘れてしまっているのだ。
本書でも、ラカン理論の三幅対たる〈象徴界〉〈想像界〉〈現実界〉のことが、批評的実例に即して簡単に説明されていたはずだが、読んだ時は「なるほど、そういうことなのか」とは思ったはずなのだが、今ではさっぱり思い出せない。
これはたぶん、私の記憶力が弱い(悪い)ということだけではなく、本質的なところで理解できていなかったからであろう。
つまり、字面を理解しただけで、そこで語られていることを血肉化できていなかったのである。
喩えて言えば、「人を愛するべきだ」というのは「わかる」が、具体的に「すべての人を、愛する」とはどういうことなのか、ということはわかっていない、というのと同じことだ。
当然のことながら、好きな人だけ愛すれば良いのなら、「人を愛するべきだ」という言葉には、なんの意味もない。
つまり、それ以上の愛を求められているのだが、それを容易に実践できる人など、ほぼいないのが現実なのである。
そんなわけで、私としては、本書のレビューとして「ジジェクはラカンを、斯く斯く然々なものだと説明していました」といった「解説の解説」みたいなものは書けないので、ここでは、部分的にピンと来た話題に限定して、自分の考えたことを書きたいと思う。
その「ピンと来た話題」とは、私自身ここ1年興味を持っている、「フェミニズム」に関わる部分だ。
ラカンは、フェミニストからも批判されることのある人だ、というくらいのことは、私も知っていたが、ジジェクは、そのあたりに関してなのだろう、次のように、かなり挑発的なことを書いている。
『 この幻想の逆説的な地位は、われわれを、精神分析とフェミニズムがどうしても合意できない究極の一点へと導く。それは強姦(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)である。少なくとも標準的フェミニズムにとっては、強姦が外部からの暴力であることは自明だ。たとえ女性が、強姦されたり乱暴に扱われたりするという幻想を抱いていたとしても、それは女性に関する男性の幻想であるか、もしくは、その女性が父権的なリビドー経済を「内面化」しているために自らすすんで犠牲になったのだということになる。裏を返せば、強姦の白昼夢という事実を認めた瞬間、われわれは男性優位主義的な決まり文句への扉を開けることになる。その決まり文句とは一一女性は強姦されることによって自分が密かに望んでいたものを手に入れるだけのことであり、彼女のショックや恐怖は、彼女が自分の欲望を認めるほど正直ではないという事実を示しているにすぎない......。このように、女性も強姦される幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的な立場(性的に虐待され搾取されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかるにフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。
このことから得られる現実的な結論はこうだ一一(一部の)女性は実際に強姦されることを空想(※ する)かもしれないが、その事実はけっして現実の強姦を正当化するわけではないし、それどころか強姦をより暴力的なものにする。ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会的現実において実現するからである。主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の
存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けることは絶対にできない。私があえて接近しようとすると、ラカンが主体の消滅(自己抹消)と呼んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンテイティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のようなことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、たんにそれが残忍な外的な暴力だからではなく、それが同時に犠牲者自身の中にある、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「[主体が]幻想の中で最も切実に求めるものが現実にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。』(P97〜99)
なかなか難しい部分もあるのだが、ここで言われていることの中核は、
「自身が秘め隠している重要事だからこそ、それを言い当てられた際には、人はその事実を承認することが出来ず、是が非にも否認しようとするものだ」
というようなことなのではないだろうか。
例えば、フェミニストの多くは、自分が「女性差別を無くすためにフェミニズムを奉じているのだ」と主張している。
つまり、自分は「他者のための正義を行なっているのだ」と告示しているのである。
だが、そういうフェミニストに対して、
「でも、あなたのそんな正義感の根底にあるのは、結局は、自分が称賛されたい、人から認められたい、先生扱いにされ尊敬されたいといった、自己実現的な願望なのでしょう? だから、例えば、そうしたフェミニストだって、それを唱えることで、自身が社会から阻害されるような状況なら、簡単に口を閉ざすし、真逆なことさえ言い出したりするんじゃないですか?」
と、そう直截に問うた場合、そのフェミニストは、どう答えるだろうか?
普通に考えれば、
「あなたのおっしゃるとおりです」
と答えるのが、「正直な回答」であるはずなのだが、一一そんなふうに答えるフェミニストが、100人に1人もいるだろうか?
多くは、良くて「無視黙殺」のノーディベートだろうが、タチの悪いフェミニストなら、話を逸らして「そんなことを言うあなたは、ミソジニーに塗れた女性差別者だ!」なんて、ヒステリックにわめき出すのではないだろうか。
ラカンやジジェクに対してさえ、たぶんそうした過剰反応的な批判が向けられているのだろうから、私のような小物がそんなふうに謗られたって、ぜんぜんかまいはしない。そもそも私は、そんな馬鹿が大嫌いなのだ。
だからむしろ、ラカンやジジェク並みの扱いをうけるのなら、それはありがたいようなものなのである。
まただからこそ、これを書いてもいる。
ともあれ、「当たっているからこそ、激しく否認する」というのは、薄っぺらい「正義」を誇示する人ほど、よくあることだ。
思い当たるところ、やましいところがあるからこそ、必死になって否認する。
あるいは、無視黙殺して反論をしない。反論できないからだ。
「あなた、マゾっ気がありますよね」と言われて怒る人は、たいがい思い当たるところがありながら、それを「隠している」人である。
マゾっ気があっても、それを隠していない人は、そう指摘されても「ええ、ありますよ。あなたには無いんですか?」と、そう問い返すこともできるだろう。
つまり、女性に「(被)強姦願望」や「マゾっ気」がある(と同時に、男性にもある)のは「自明」なことなのに、それを認めたら、まるで「実際に強姦されることを望んでおり、強姦を肯定しているかのように思われてしまう」などと、過剰反応的に考えてしまうのは、その人の「(被)強姦願望」や「マゾっ気」が、人に言えないほど強烈なものなのか、あるいは、よほど「裏表のある性格」だからなのであろう。
例えば、女性に支持されて大ヒットした映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』について、「この映画を楽しめる女性は、男性の欲望を内面化した、自己卑下的な女性だ」などと決めつけるようなフェミニストは、所詮、イデオロギー的な自己の教義を守り抜きたいがために、事実まで歪めようと強弁しているに過ぎない。
現実を直視して、冷静に検討しようという気が端から無い、「護教家」にすぎないのである。

「表裏のある人間は、決して自身に表裏があることを認められない」。
表裏なんて、そんなものは誰にだって多少なりともあるものなのに、ことさらにそれを隠そうとするのは、その人の「表裏」が、並外れて「悪質」なものだからなのではないだろうか。
例えば、私が現在批判している「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣は、自身を「か弱い女性」であり「発達障害」があって、そのために「イジメ被害者」でもあったなどと、自ら進んで宣伝している。
本来であれば、「弱い(力が無い)」とか「発達障害で、他人の気持ちがわからない」とか「不当にイジメられながら、抵抗することもできなかった」というようなのは、当人としては「恥ずかしい」と感じて、隠そうとするはずである。
つまりそれは、他人が「そんなことないよ」とフォローするのとは話が別で、「恥じてしまう気持ち」こそが、「普通」の人間の、当事者心理なのだ。
それなのに、そうしたことをわざわざ自分からアピールするのは、自身を「弱者」の立場におくことで、かえって「弱者への特別待遇」が得られるという、姑息な打算があるからに他ならない。
だから、北村紗衣はそうした「弱み」を、聞かれもしないのに、みずから進んでアピールするし、そのくせに、自身が積極的に為した、不正・不適切行為に対する批判については、頑なに無視黙殺し、否認するのである。
前者の「自身の弱者性を認める」というのと、後者の「自身の悪質性を認めない」というのは、前者が「自分が弱いと認めても、それで得をするのなら、認めたほうが得だ」という打算なのに対して、後者は「それが事実であっても、それを認めたら損をする」という裏返しの打算である点で、完全に一致している。
つまりそれは、「事実よりも打算を優先している」という点で、同じ態度の裏表でしかないのだ。
「何が正しいことなのか?」ではなく、「何が得になるのか?」という、実にわかりやすい発想なのである。
そして、そんな「正義のフェミニスト」という「表ヅラ(仮面)」と、「我利我利亡者」という「素顔」の、ギャップの激しさ故に、彼女らは、
「私が、フェミニストをやっているのは、まず何より自分の利益のためです。だけど、それが他の女性のためにもなるのなら、それでいいじゃないですか」
と、「正直な本音」を漏らすことなど、金輪際できない「偽善者」なのである。
先にご紹介した『倒錯的イデオロギーガイド スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2』 では、ジジェクは、SF映画『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督)をとり上げて「見かけ上のメッセージと本当のメッセージ」というようなことを語っており、「本当のメッセージ」こそが「隠されたイデオロギー」なのだ、というような話をしていた。
だとすれば、一般的な「フェミニズム」のイデオロギーとは、表ヅラ的には、
「誰であろうと、差別は許されない」
ということなのだが、本音では、
「我々に権利と地位をよこせ」
ということであり、そのためには、
「弱者性を武器にして、権力を奪取せよ。そのためには、頭の弱い女も騙して利用してもいい」
ということになるのではないだろうか。
無論、理想的なフェミニズムならば、そうしたものではなく、
「差別する側に立つくらいなら、私は差別される側に立つ。なぜなら、私は弱者のためのフェミニストだから」
ということになるはずなのだが、こんなに並外れて立派な(理想的な)態度を採れる人間など、100人に1人いるかいないかだろう。
当然、こんなに立派な女性も、100人に1人くらいだろうし、そうした意識が高いはずのフェミニストにしたところで、所詮は「同じ人間」なのだから、そんなに立派な人は、100人に2人いれば御の字であり、98人までは、確実に「偽善者」なのである。
まただからこそ、自身の中にもある「(被)強姦願望」や「マゾっ気」なんてものですら、是が非にも認めることが出来ないのだ。
そもそも「(被)強姦願望」や「マゾっ気」が、ぜんぜん無い人間なんていないのだし、もしもそれが人よりも少ないのなら、その女性は、平均的な女性より「強姦(したい)願望」や「サドっ気」が強いということにしかならないのだが、その理解で良いというのだろうか?
そこまでして、薄っぺらい「面子(仮面)」に固執するのは、いったいどんなに「醜い素顔」を隠しているからなのであろう?
『ゼイリブ』では、素顔を透視するサングラスを掛けた途端、立派そうな人たちまでもが、ドクロめいた醜い素顔を露わにしたのだが、必死になって隠すからには、多くのフェミニストの素顔も、同じくらいグロテスクなものだと考えて、まず間違いない。

普通に考えて、フェミニズムというイデオロギーを奉じている人の大半は、「聖人君子」などであるはずがない。
SF作家シオドア・スタージョンは、
『SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである』
と喝破したのだが、当然のことながら、フェミニストの9割も「クズ」だと考えるべきだろう。
フェミニズムを唱えるだけで、聖人君子になれるのなら、誰も苦労はしないのである。
つまり、北村紗衣のように「自分の得になる弱者性」ばかりを強調して、自身の人間的な「弱さとしての汚さ」を語らないフェミニストこそが、9割のクズであり、「偽フェミニスト」だと考えるべきだろう。
そんなところにしか、偽物の入り込む余地などないのである。
本書の『ラカンはこう読め!』において、ジジェクは次のように語っている。
『 ではラカンの思想は、主流の精神分析思想家たちと、またフロイト自身と、どのように異なっているのだろうか。ラカン派以外の諸派と比較したときにまず眼を惹くのは、ラカン理論がきわめて哲学的だということだ。ラカンにとって、精神分析のいちばんの基本は、心の病を治療する理論と技法ではなく、個人を人間存在の最も根源的な次元と対決させる理論と実践である。精神分析は個人に、社会的現実の要求にいかに適応すべきかを教えてくれるものではなく、「現実」なるものがいかにして成立しているのかを説明するものである。精神分析は、人が自分自身についての抑圧された真理を受け入れられるようにするだけではなく、真理の次元がいかにして人間の現実内に出現するのかを説明する。ラカンの見方からすると、神経症、精神病、倒錯といった病理学的な形成物は、現実に対する根本的に哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。私が強迫神経症にかかっているとき、この「病」が、現実に対する私の関わり全体を彩り、私の人格の全体的構造を規定している。他の精神分析的アプローチに対するラカンの批判の核心は、彼らの臨床的方向性に関わっている。ラカンにとって、精神分析療法の目的は患者の幸福、社会生活の成功、自己実現ではなく、患者をその欲望の基本的座標と行き詰まりに対決させることである。』(P19)
ここを、私の批評行為に喩えて言い換えれば、私の批評は「フェミニズムが、正しいとか間違っているとかいった、評価を語るもの」ではなく、「フェミニズムを声高に叫ぶ女性(フェミニスト)」や、それを声高にけなす「アンチフェミニストの男性」は、何を抑圧し、隠蔽しているのかを問題とするものであり、彼女・彼らを、その「隠されたもの」に直面させ、それとの対決を促す、というものなのである。
彼女・彼らの「頑な」なイデオロギー的態度とは、『神経症、精神病、倒錯といった病理学的な形成物』と同質なものであり、そこにこそ『現実に対する根本的に哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。』。すなわち、そこにこそ、彼女・彼らの「隠された本質」が表れて、その言動全般を規定している。
彼女・彼らが、強迫神経症的な「頑なさ」を示す時、その「症候」が、彼女・彼らの、現実に対する『関わり全体を彩り』、彼女・彼らの『人格の全体的構造を規定している。』のである。
(※ 「現代フェミニズム研究会」は、北村紗衣が主導した「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人メンバーが今年設立したグループ。この「設立趣意書」を見れば、彼(女)らの独善的な「頑なさ」は明らかである。)
だから私にとって、批評の目的は、批評対象の『幸福、社会生活の成功、自己実現ではなく』、彼女・彼らを『その欲望の基本的座標と行き詰まりに対決させること』なのだ。
「フェミニズム」が、社会にとって必要なものであり重要なものであるというは、論を待たない。
しかしながら、だからといって、それを奉じる「フェミニスト」までもが「正しい」、ということにはならない。
多くの「フェミニスト」は、「フェミニズムの権威に憑依しただけの、当たり前の人間」でしかなく、彼女・彼らの9割は、クズなのだ。
だから、彼女・彼らが、フェミニストであるとか、アンチ・フェミニストであることが、問題の中心なのではない。
その看板(仮面)の下に隠された、彼ら個々の、人間としての、個人としての「抑圧隠蔽された欲望」が問題なのであり、彼女・彼らを、それとの「自己対峙」に導くことこそが重要なのである。
一一それが、私の批評なのだ。
(2025年12月17日)
○ ○ ○
● ● ●
・
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
○ ○ ○
