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『倒錯的イデオロギーガイド スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2』 : イデオロギーとは何か。

映画評:ソフィー・ファインズ監督『倒錯的イデオロギーガイド スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2』(ダゲレオ出版/2012年)

思想家・哲学者であるスラヴォイ・ジジェクが、映画などの実例を示しながら「見えないイデオロギー」というものを解説した「教養映画」である。

つまり、本作の本質は、哲学的な社会批評にあるのであって、映画の哲学的な分析的ガイドにあるわけではない

したがって、日本語サブタイトルの「スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド」というのは、あまり正確なものではなく、あくまでも売りやすいように付けられたものなのだと、そう理解すべきなのだ。
そして、そこに気づくことの重要性に、本作を見た後になら、気づけるようになっているかもしれないし、なっているべきでもあろう。

もちろん、映画を素材にして解説されているので、結果としては、そこで扱われている作品について「そういう見方ができるのか」の裨益されることにもなるのだが、あくまでもそれは「作品論」そのものではないという点を、勘違いしてはならない。
本作における「映画」の扱いは、あくまでも「イデオロギー」というものを説明するための道具であり、そうした側面からの「わかりやすい実例」にすぎないのだ。

本作を見ればわかることだが、文化的なものにあっては、イデオロギーと無縁なものなど、およそ存在しないのであり、さらに言えば、私たちはしばしば、イデオロギーを通して「自然物」さえ見ている。

例えば、ダイヤモンドがガラスよりも美しいのは、成形やカットや磨きなどの加工のためばかりではなく、まず第一に「ダイヤモンドは貴重なものである」という、資本主義経済的なイデオロギーが刷り込まれているからである。
私たちが、自力では区別のつかない、ダイヤモンドと模造ダイヤに大きな差別をもうけるのも、両者の背後に存在する経済的なイデオロギーを通して、それらを見ているからで、真性ダイヤの方に、もともと(自然に)価値があるからではない。

金(ゴールド)に価値があるのも同じことだ。
私たちが、銀や銅よりも、金を美しく思うのは、経済的なイデオロギーの刷り込みがあるからで、例えば、「色としての金銀銅」ではなく、なぜメタリックブルーやメタリックレッド、メタリックグリーンなどの色について、「美しい」とは感じても、それに「特別な価値(ありがたみ)」を感じないのかと言えば、それは、そういうものをありがたがる、イデオロギー的な背景を持たないからなのだ。

一一と、ここまでは私のオリジナルの解説だが、「見えないイデオロギー」という意味が、少しは実感していただけたのではないだろうか。

本作に引用解説されている映画は、次のような諸作である。

「意志の勝利」(1934)監督:レニ・リーフェンシュタール
「永遠のユダヤ人」(1940)監督:フリッツ・ヒップラー
「逢びき」(1945)監督:デイヴィッド・リーン
「ベルリン陥落」(1950)監督:ミハイル・チアウレリ
「捜索者」(1956)監監:ジョン・フォード
「ウエストサイド物語」(1961)監督:ロバート・ワイズ+ジェローム・ロビンス
「サウンド・オブ・ミュージック」(1964)監督:ロバート・ワイズ
「ブロンドの恋」(1965)監督:ミロシュ・フォアマン
「東京オリンピック」(1965)監督:市川崑
「セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身」(1966)監督:ジョン・フランケンハイマー
「火事だよ!カワイ子ちゃん」(1967)ミロシュ・フォアマン
「プラハのためのオラトリオ」(1968)監督:ヤン・ニュメツ
「if もしも‥‥‥」(1969)監督:リンゼイ・アンダーソン
「M★A★S★H」(1970)監督:ロバート・アルトマン
「砂丘」(1970)監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
「時計仕掛けのオレンジ」(1971)監督:スタンリー・キューブリック
「キャバレー」(1972)監督:ボブ・フォッシー
「ジョーズ」(1975)監督:スティーブン・スピルバーグ
「タクシードライバー」(1976)監督:マーティン・スコセッシ
「未来世紀ブラジル」(1985)監督:テリー・ギリアム
「フルメタル・ジャケット」(1987)監督:スタンリー・キューブリック
「最後の誘惑」(1988)監督:マーティン・スコセッシ
「ゼイリブ」(1988)監督:ジョン・カーペンター
「タイタニック」(1997)監督:ジェームズ・キャメロン
「アイ・アム・レジェンド」(2007)監督:フランシス・ローレンス
「ダークナイト」(2008)監督:クリストファー・ノーラン

(当DVDケース裏面の紹介文より)

本作におけるこれらの作品の引用解説は、当然のことながらストーリーに触れる部分もあり、その点で若干のネタバレを含むので、できることなら、こうした映画を先に鑑賞してから本作を見るのがベストではあろう。

だが、作品の扱いには軽重があるから、ネタバレになっているものもあれば、なっていないものもあるし、そもそもソビエト映画『ベルリン陥落』、あるいはいくつかのドキュメンタリー映画などについては、なかなか見る機会もないだろうから、そのあたりについては、あまり気にせずともよかろう。
だが、あまりにも有名な作品については、本作を見る前に見ておいた方が、先入観による色眼鏡を持たなくてよいので、その方がベストであることに間違いはない。

 ○ ○ ○

本題に入ろう。

本作は最初に書いたとおり、「映画解説」の教養映画ではなく、あくまでも「イデオロギーとは何か」ということを解説した、哲学的な批評映画である。
映画を多用しているのは、ジジェクの趣味でしかない。

「イデオロギー」というものを解説するための実例は、私が先に示したように「自然物」であってもかまわないし、「文学作品」などの芸術作品は無論、家電製品などであってもかまわないし、それで十分なのだ。
だが、それらでは、素材として地味すぎて見てもらえない、というだけの(資本主義経済的な)話(理由からなの)である。

ただ、簡単にひと言で「イデオロギー」といっても、その指し示す内容はいろいろであって、明確に固定的な「定義」があるわけではない
だからこそ、この言葉は難しいのだ。それを、語られている文脈に沿って理解しなければならないためである。

私が先に、単に「イデオロギー」とは書かず「見えないイデオロギー」と書いたのは、本作で語られるイデオロギーとは、見えない、あるいは、見えにくいものとしてのイデオロギーだからである。

本作で問題とされているのは、そうした種類のイデオロギーであり、要は、そうした(見えない)イデオロギーについての気づきを促すことが、本作の目的なのだ。
「見えていることが、すべてではない」ということである。

イデオロギーという言葉を聞いて、私たちがすぐに思い出すのは「左翼イデオロギー」とか「資本主義イデオロギー」とかいった、主に「政治思想」がらみのそれであろう。
そこでは、イデオロギーは、主として「思想・哲学」的なものとして扱われており、決して「見えない(見えにくい)」ものとしては扱われていない。
せいぜいが「難解なもの」と思われている程度のことで、それがそこにあるということに気づき得ないわけではない。
「左翼イデオロギー」であろうと「資本主義イデオロギー」であろうと、それらは基本的に「明示的」なものである。

そこでのイデオロギーとは、「この世は(あるいは、人間社会とは)こういうものである」とか「我々はそのように考える(理解している)」といった「解釈的な真理」を語るものであって、「真理そのもの」ではあり得ないものの、それを「選ぶ」人は、それが「真理であろう」とか「真理に近いものであろう」とか、「それが目指されるべき理想であろう」などと「判断」して、それを自分の「指針」であり「信念」として、道具的なものとして採用するような、要は、自身の「思想」であり「哲学」として、採用し活用するような概念を指していることが多いのだ。

言い換えれば、そこでのイデオロギーとは、明示的な(見える=認識できる)ものであり、だからこそ「選択可能なもの」なのだが、本作で語られるイデオロギーとは、そのような「見える、思想・哲学」ではなく、「見えない(隠された)、思想・哲学」であり、見えないからこそ、私たちは、気づかないうちに、その影響を受け、その思想や哲学を刷り込まれて、そのコントロール下に置かれることにもなる。

だから私たちは、そうした「見えないイデオロギー」の存在に気づくべきだし、見えようと見えまいと、それが確実に存在して、私たちに影響を及ぼしているのだという事実を、肝に銘じなければならない。

私たちは、自分で思っているほどには、自由に考え自由に選択しているわけではなく、考え方をコントロールされ、選択をコントロールされているのである(マインドコントロール洗脳)。

そして、そうした事実を、わかりやすく、かつ寓話的に語っているのが、本作の冒頭で紹介される、ジョン・カーペンター監督のSF映画『ゼイリブ』だ。

私はこの作品を、若い頃にテレビで見て「(SF映画として)まあまあかな」という程度に思ったのだが、同作を「社会批評」的な観点からの「イデオロギー批判」の映画だと理解すれば、ジジェクが本作中で語っているように、「隠れた傑作」だということにもなる。

先に、『ゼイリブ』の「ストーリー」の発端部分を、Wikipediaから紹介しよう。

『世は貧富の差が激しく、失業者が増える一方だった。しがない肉体労働者で、流れ者のナダ(ソフトによってネイダとも発音・表記)は、ある都市に流れ着いた。建設現場で知り合った男・フランクに誘われて、都心の自由教会が所有する空き地に設けられた、家のない貧民たちのキャンプに住み込むようになった。1台のテレビだけがキャンプ地の人々の唯一の娯楽だったが、そのテレビはたびたび電波ジャックに悩まされていた。決まってヒゲを蓄えた男が画面に現れ、次のようなことを言い始めるのだった。

「我々の暮らしている世界は、『彼ら』の発信する信号により、人工的な仮眠状態にさせられています。彼らは抑圧的な社会を作り上げています。彼らの目的は人々を物質主義者に仕立て上げ、自分たちの正体を詮索させないため、我々を欲に狂わせて、『奴隷』にしているのです……」

ナダは、キャンプ地のそばにある自由教会で賛美歌の歌唱が始まり、キャンプの住民のひとり・ギルバートがそそくさと教会へ入っていくときに、決まって電波ジャックが起こることに気づき、裏口の倉庫から教会に忍び込む。すると賛美歌は録音テープによるものであり、教会堂からは、賛美歌の大音量に紛れて人々の話し声が聞こえた。壁には「THEY LIVE WE SLEEP(彼らは生き、われわれは眠る)」と大書され、つまづいたときに偶然開いた、壁の一部に隠された収納スペースには、何かが密封された大量の段ボール箱が隠されていた。教会堂ではある秘密の会議が開かれていたのだが、関わり合いを恐れたナダは、ひとまず教会をあとにする。

ある夜、教会は多数のパトカーやパトロールヘリに囲まれたうえ、警官隊に襲撃され、宣教師たちは逮捕される。教会が場所を提供していたキャンプ地にも重機がなだれ込み、テントやバラックはことごとく破壊され、キャンプの人々は追い立てられた。ナダは警官隊を振り切り、辛くも逃れた。

翌朝、もぬけの殻になった教会をおとずれたナダは、ふと隠し収納の段ボール箱を思い出し、封を切ってみる。中身は大量のサングラスだった。何気なくそのサングラスをかけて街へ出てみると、広告看板、雑誌の表紙、新聞記事、テレビ番組のキービジュアルはすべて「従え」「考えるな」「眠っていろ」「消費しろ」「結婚して、生殖せよ」といった文字列に見えるのだった。また、裕福そうな人々の大半をサングラス越しに見ると、髑髏のような恐ろしい顔をしていた。彼らは人間に擬態したエイリアンであり、サングラスはエイリアンに抵抗する人々が極秘に開発した、彼らが発する洗脳信号を解除することができる透視装置であり、メディアに仕込んでいるメッセージ、エイリアンの正体、そして通常は目に見えない監視飛行ロボットの存在を見抜くことができるのだった。テレビ中継で演説する政治家も髑髏の顔をしていた。ナダは「そんなことだろうと思ったよ」とつぶやく。(以下略)』

(Wikipedia「ゼイリブ」

こうして読んでみれば明らかなように、『ゼイリブ』が、必然的な貧富の格差を産む「資本主義経済」を批判した「社会派作品」だというのが、よくわかる。
それを「エイリアンの侵略」になぞらえているのは、それだけ「資本家」というものが「金儲けのためには、人を人とも思わない、血も涙もない輩」だと考えているからであろう。つまり「エイリアンのごとく非人情」な生き物(異種族)なのだ。

わかりやすく言えば、ドナルド・トランプイーロン・マスクなどは、人間ではなく、人の皮をかぶった「エイリアン」も同然なのである。
『ゼイリブ』に登場する特殊サングラスを掛ければ、彼らの顔が「髑髏」に見えること、間違いなしなのだ。

(サングラスを通して見た人の姿に驚き、裸眼で二度見してしまう主人公ナダ)

まあ、それはともかく、『ゼイリブ』が「資本主義経済」批判の作品だというのは、

『そのサングラスをかけて街へ出てみると、広告看板、雑誌の表紙、新聞記事、テレビ番組のキービジュアルはすべて「従え」「考えるな」「眠っていろ」「消費しろ」「結婚して、生殖せよ」といった文字列に見えるのだった。』

という部分に明らかだろう。

それらの広告が明示的語っているのは、それが指示する対象の「美しさ」や「便利さ」「幸福感」などの有価値さ、あるいはそれらのものを所有することは「あなたの生活を豊かにしますよ」といったことなのだが、しかし、そうした広告を出している資本家たちの本音は、我々に「従え」、お前たちは「考えるな」「眠っていろ」「消費しろ」「結婚して、生殖せよ」といったことであり、要は、人々を、自分たちの都合の良いようにコントロールしようとしている、ということなのである。

そして事実、私たちはそれに「踊らされている」のだ。

例えば、私がよく槍玉に挙げる「オリンピック」「万博」「大谷翔平」も、そうした「商品」のひとつにすぎない。

圧倒的な宣伝の力によって、私たちは、それが何やら「魅力的なもの」だと思わされがちだが、それそのものに大した価値があるわけではない。

例えば、大リーガー大谷翔平の価値は、多少とも「野球」に興味あったり「祖国日本」というイデオロギーを重視していたり、「有名であることは有価値である」というイデオロギーに染まっていたりしてこそ「特別にありがたい存在」なのであって、「野球? 球投げと棒切れを振り回す遊びになど興味はない」とか「日本? 私は、たまたま日本に生まれただけで、日本が特別なものだなどとは、つゆほども思わない」とか「有名? たしかな有名なら金儲けにはなるだろうが、有名だからといって、その人自体に価値があるとは限らない」などと思う人にとっては、大リーガー大谷翔平とポケモンの価値に、大差は無いのである。

つまり、私たちは様々なメディアを通して「これは美しいものだ」「これは尊敬すべきものだ」「これは価値あるものだ」などと、気づかないうちに刷り込まれており、それを「自分の価値観」にしてしまっている
それが「当たり前のこと」であり、それが「自然なこと(自然な価値観・評価)」だと思わされているのである。

だから私たちは、すべてのものを見る際に、それをそのまま鵜呑みにするのではなく、「これは本当に、それだけのものなのか?」と疑ってみる「知性」(というサングラス)が必要なのだ。

「みんながそう言ってから、そうなのだ」というのは、あまりにも「馬鹿=盲目」すぎるのである。

したがって、私たちは「見えているもの」の背後に存在する「イデオロギー」をも見抜けなければならない。「見えているもの」がすべてではない

無論、「見えているもの」の奥に、「見えているもの以上の価値」がある場合もあり、それを見抜く洞察力は賞賛に値しよう。
なぜなら、私たちはつい「見かけ(表面)」のとらわれて「隠された宝石」の存在に気づけないからである。
「優しい人の優しさ」だけではなく、「一見優しくない人の秘められた優しさ」に気づける人の方が、間違いなく、この世を豊かに生きることができるだろう。

だが、当然のことながら「秘められた魅力」よりも、「明示された魅力」の陰に隠された「秘められた貪欲やコントロール指向」の方が、この資本主義経済社会にあっては、圧倒的に主流なのだ。
だから私たちは、その「隠された意図」の背後に存在する「隠されたイデオロギー」に敏感であるべきだ。

真の「自由」とは、そうしたところにしか存在せず、他人から良いように操られ、コントロールされた行動など、「自由」の名に値しないというのは、自明の理なのだ。

しかし、私たちの大半は、オリンピックや万博や大谷翔平をめぐる「右向け右」状態がそうであるように、決して「自由」ではない。
「見えてはいない=目隠しをされている」のである。

本作でスラヴォイ・ジジェクが語っているのは、そんな「見えないイデオロギー」の存在であり、「それに気づき得る知性を持って、あらゆるものに立ち向かえ」ということなのだ。

当然、前述のとおりで、本作の日本語サブタイトル「スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド」という言葉にも、資本主義経済における、購買者コントロールの欺瞞が込められている。
「これは映画ガイドの映画なのだ。だから楽しいぞ」という、いささか欺瞞的な誘惑である。

したがって、本作を見て、そのことにも気づかない者は、本作を理解しなかったということにしかならない。

本作を「見る」ことは誰にでもできるが、その意図するところを「理解」することは、決して容易なことではないのである。


(2025年10月28日)


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