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石打ち好きのキリスト教「律法主義者」・小林えみの原罪

小林えみは、「よはく舎」という個人出版社の社主であり、「マルジナリア書房」という書店の経営者だ。
『nyx』という雑誌も刊行しているらしい。

その小林えみが、プロテスタント神学者・深井智朗が講談社学術文庫から宗教改革者ジャン・カルヴァンの著書の翻訳書『キリスト教綱要 初版』を出したことに対して、講談社に対する(講談社学術文庫ご担当者様 宛ての)公開質問状を、「ブログ記事」のかたちで、今年2月に公開した。

一一小林えみは、この「公開質問状」で、いったい何を、講談社の担当者に「質問」したのか?

かつて深井智朗が、その著書において、学者にあるまじき「捏造」事件をし、それが当時所属していたキリスト教系大学の調査委員会により事実と認定され、懲戒解雇される、という事件があった。

深井智朗は、そのことによって、キリスト教界、プロテスタント神学界などから、厳しく処断され、その地位の多くを失うことになった。
今で言うところの、「キャンセル」されたのである。

その事実は、今も、深井智朗の「Wikipedia」に、詳しく記されている。

そしてそれから5年あまりの月日が流れたのだが、そんな「前歴者」である深井智朗による訳書が講談社から刊行された。
そして講談社のその判断につき、松井健人というが学者が、こんな研究者の風上にも置けない人物をまた使うとは、講談社は一体どういう了見なのかという趣旨の「公開質問状」を出した。

これに対しては、講談社側も「公開回答」を行った

その趣旨とは、
一一深井智朗は、かの事件による社会的制裁をすでに受けており、今回出版した訳書においても、訳者の言葉として「二度と同じ誤ちは犯さない」という趣旨の反省の弁を述べている。だから、講談社としては、深井智朗の過去の誤りの重さは認めた上で、それでも、一度の誤りをして永遠に社会的に葬られなければならないとは考えないので、再起のチャンスは与えられるべきだと考え、今回、深井智朗を使ったのだ。
一一と、おおむね、そういう趣旨の公式回答を、出したのであった。

では、松井健人の「公開質問状」と、それへの講談社側の「回答」の後に、フェミニストとして知られる小林えみは、講談社側に対して、いったい何を論点としての「公開質問状」を出したのであろうか?

それは、
一一深井智朗がかの捏造事件で、一定の社会的制裁を受けたというのは事実だが、いまだに、個人としては公式な「謝罪文」を出していないし、『学校法人キリスト教若葉学園理事長も務められている』
これで、本当に十分な社会的制裁を受けたと言えるのか。せめて今からでも、「謝罪文の公表」をすべきなのではないのか。
そんな「反省不十分」な深井智朗を使った講談社は、学術関係者の社会的責任についての認識が、甘すぎるのではないか。
一一と、そういう趣旨のものである。

つまり、学者としてあるまじき、捏造事件を起こした深井智朗は、いまだに、

(1)公開謝罪文を出して、世に問うていない(広く世の許しを受けていない)。

(2)完全に「社会的地位」を失ったというわけではない。

ということである。

だが、この一見もっともらしい言い分も、裏を返せば、次のようなことになる。

(1)許すまじき犯罪者は、法で罰せられるだけではなく社会的な制裁を受けるべきだが、法的処罰の対象にあたらないのであれば尚更、十二分な社会的制裁を課されるべきである。

(2)許すまじき犯罪者は、少なくともいったんは、完全に「社会的地位」を奪われて然るべきである。つまり、社会的に「キャンセル」されるべきだ。

そのくらいして初めて「罪は贖われる(贖罪)」のだ一一として、クリスチャンの小林えみは、講談社の「寛容」は誤りだと、批判しているのである。

言い換えれば、
一一そのくらい徹底的に痛めつけられないかぎり、犯罪者は許されるべきではない。許してもならない。「普通の人」と同じように、仕事が与えられてもならない。
ましてや、学者ヅラを許して、訳書なんかを刊行させるべきではない。
最低限、「公開謝罪文」を出さないかぎり、あらゆる出版社は、深井智朗を使うべきではなく、キャンセルすべきである。
その点で、講談社は(金儲け優先なのか)、犯罪者に対して甘いすぎる。
一一と、そう小林えみは、主張しているのだ。

つまり、それなりの「社会的地位」にあった者が犯罪を犯した場合、法的な処罰や社会的な制裁を「受動的に受けるだけ」ではなく、「主体的な贖罪」として「公開謝罪文」を出すくらいのことは最低限必要であり、それをしない者については「反省していると認めるべきではない」から、「その罪を許すべきではない」と、そう主張しているのである。

もちろん、小林えみは自身の「過剰なまでの処罰要求」を正当化するために、いつものように、「かつて、捏造問題が取り沙汰されていた深井智朗を、自分の雑誌に使った(原稿を書かせた)のは、深井の罪ではなく、自分の不明であり罪だ(だけど、そのことで私は深い心の傷を受けて苦しんだ)」とか「深井智朗の反省を疑っているわけではないが」といった趣旨のことを書いて、平たく言えば「いい人」ぶっている

だが、小林えみが「これまで繰り返してきたこと(前歴)」を思えば、小林えみの「過剰な処罰意識(指向)」は、明らかにその性格に由来するものであって、社会的な道義心から出たものではないのは、明らかなのだ。

そして、その事実を端的に証する事例が、フェミニズム界隈では知らぬ者のいない、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」事件だ。
一一小林えみは、この「オープンレター(公開質問状)」に、「発起人」の一人として参加していたのである。

さて、ではこの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」とは、如何なるものだったのであろうか?

当時、気鋭の歴史学者であった呉座勇一が、フェミニストである北村紗衣を、Twitter(現「X」)で執拗に批判しただけではなく、自身の「鍵アカウント」(つまり、メンバー以外には覗けない、プライベートなアカウント)内で、北村紗衣陰口を叩いたのだが、それが北村紗衣にリークされ、北村紗衣はその「鍵アカウント」での呉座の発言を公開し、それが「女性差別的」なものであり、私を深く傷つけたとして、公けに呉座を批判。

そして、北村紗衣当人を含むフェミニズム関係の発起人たちが、ネット上で呉座を弾劾する署名運動を行い、フェミニズム関係者(大学教員など)からのものを中心とした千数百人分もの署名を集めた上で、呉座勇一を名指しにしたその「質問状」を、ネットに公開した。

そしてそこでは、「この(呉座勇一の)ような人物が、学問研究に携わっていて良いのか。これでは、女性研究者は安心して、研究の場を同じくすることなど、怖くて出来ない」という趣旨のアピールを行い、実質的に呉座を「学問の世界(職場)」から排斥せよと訴えたのである。

その結果、当時アメリカでの「#MeToo」運動の影響で、大変な盛り上がりを見せていた、主にインターネット上での、日本のフェミニズム運動の勢いを押されるかたちで、呉座を採用していた学術研究組織は、呉座の懲戒処分を決定して、その身分を奪ったのである。

しかし、この処分が決まる以前、「鍵アカウントでの陰口」を暴露された呉座は、世間の風向きが自身に厳しいものになってきたのを感じたのであろう、件の「オープンレター」の告発を受けて、北村紗衣に対して、公に「公開謝罪」をした(反省謝罪文を公開した)

しかしながら、北村紗衣は、この謝罪には「誠意が感じられない」と、謝罪の受け入れを拒否。
困った呉座は、今度は、卑屈なまでにへりくだった文面の公開謝罪を、再び行っている。

つまり、呉座勇一は、二度にわたる公開謝罪をして北村紗衣の軍門に下り、いちおう北村から許されたかたちにはなったものの、その後の結果としては、更に保証されていたはずの地位までも失い、出世の可能性を断たれて、学術研究業界から実質的に「キャンセル」されてしまったのだ。

そして、この呉座の業界からの実質的追放(飼い殺し措置)について、北村紗衣ら「オープンレターズ」は、冷たい傍観を決め込み、「そこまでする必要はない」とか「そこまでは求めていない」などというメッセージを出すこともなく、呉座勇一が社会的に抹殺されるのを、まだ不十分だとばかりに、横目に黙認したのである。

(※  上のリンクは、私が現時点でレビューを書いている「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」関係者(オープンレターズ)。清水晶子河野真太郎田中東子三木那由他隠岐さや香である。なお、小林えみは、河野真太郎の著作を刊行したことがある)

一一以上がオープンレター:女性差別的な文化を脱するために」事件(騒動)の概要だ。

しかしながら、呉座勇一の学会からの実質的な追放(将来性を断たれる)という過酷すぎる結果を受けて、これは「やり過ぎではないか」という「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に対する逆批判が巻き起こることになった。

アメリカの「#MeToo」運動もそうだが、悪辣極まりない映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインを、「#MeToo」の力で追放したまでは良かったのだが、この「成功体験」に酔った女性たちの中には、男性映画関係者について、「疑わしきば罰せよ」という「魔女狩り」に走って、真偽の定かではない(女性側の)告発のみを根拠に、その男性たちの映画生命を奪っていった。

そしてこうした過激な運動の広まりから、単に他者の誤りを批判するには止まらず、その社会的な地位を奪うところまでいくような過激な「告発運動」は、「キャンセルカルチャー」と呼ばれるようになり、その行き過ぎた「不寛容」が批判されるようになったのである。

そして、こうした風向きの変化によって、日本の「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」もまた、典型的なキャンセルカルチャーとして、批判されるようになった。

すると驚いたことに、インターネット上で公開されていた「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」からは、その中身が、すべて削除されて、何があったのかがさっぱりわからない、タイトルだけを残すものに、スポイルされてしまった。

誰が誰をどういう理由で告発し批判したのか、そのページからでは、もはや何もわからないものにされてしまったのだ。
告発者の名前も、被告の名前も、告発の内容も、すべて完全に削除されてしまったのである。

だが、残されたそのタイトル「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」からもわかるように、この「オープンレター(公開質問状)」は、建前としては「女性差別的な文化を脱するために」なされたものである。

つまり、呉座勇一個人を攻撃して、社会的に抹殺するためになされたものではない、という建前になっているのだ。

だがだからこそ、呉座勇一がその地位を追われた際には、「そこまでしなくても良い」「そこまでは望んではいない」という「建前」的なメッセージが出されることはなく、喜んで(本音で)呉座を見殺しにしたのである(女性は、男性に劣らず、残酷な生き物である)。

そもそも、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」が、呉座勇一への「個人攻撃」を意図したものでなかったのなら、そこで呉座を、名指しにする必要はなかった。

つまり、「学者の中にも、こんな差別的な男がいる」と、その行為の中身だけを紹介することでも、「問題提起」ならば、可能だったのである。

だが、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の賛同者たちは、そんな生ぬるいことでは納得できなかった。
だからこそ、呉座勇一を名指しにして告発し、社会的な制裁が加えられるよう、意図的に仕向けたのである。

つまり「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の「本音」とは、まさに「キャンセルカルチャー」そのものなのだ。

社会的な問題提起だとか、社会を少しでも良くしようとかいったことは、所詮「建前」であって、その本音は「あんな男は、社会的に抹殺してしまえ!」ということだったのである。

無論、そんな「本音」を馬鹿正直に語って、「私はあいつ個人が憎く、あんな奴は死んでしまえばいいと思ったから、晒しものにしてやったのです」とは、誰も言わないだろう。

だが、そうした底意があったからこそ、オープンレターズは、呉座勇一が学会を追放された際、「そこまでしなくても良い」「そこまでは望んではいない」と、呉座を庇おうようなメッセージを出そうとはせず、むざむざ見殺しにしたのである。

そして、この「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の十数人の「発起人」の一人が、一一他でもない、「小林えみ(よはく舎)」その人だったのだ。

私が、この「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」について問題にしているのは、前述のとおり、事件後、そのオープンレターから「誰が誰を、どのような理由で告発したのか」といった内容を、すべて削除し、証拠隠滅してしまった点である。

(ちなみに、Wikipediaの当該項目は、「オープンレター」という名称では検索に引っ掛からず、「女性差別的な文化」云々でやっと検索に引っかかっるように設定させている。
また、ここでも、告発者名も被告名は記されておらず、騒動の内容と、騒動に巻き込まれた第三者の氏名だけが記されている。

これは、まず間違いなく、北村紗衣Wikipedia日本語版の管理者の一人として、その内容の管理・編集に関わっているからであろう。つまり、自分自身を含む関係者名を隠蔽したのだ。これは、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に限らず、フェミニズム関連の項目で目につく事実である。

ちなみに、すでに記したとおり、Wikipediaの「深井智朗」の項目では、その事実がありのまま記載されており、過去のこととして隠されてはいない。つまり、関係者名の不記載は、恣意的なものなのだ)

「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」における、こうした「内容削除」は、たぶん建前としては、すでに呉座勇一は過酷な社会的制裁を受けたので、「ひとまずその目的は達した」から、呉座の名前が記されたオープンレターを取り下げ、これ以上「晒し者」にならないように配慮した、ということなのであろう。

しかしながら、このオープンレターの趣旨が、呉座個人への制裁ではなく、タイトル通りに「女性差別的な文化を脱するため」のものなのであれば、呉座個人が社会的制裁を受けたとしても、「女性差別的な文化」そのものは日本社会の中に残っているのだから、このオープンレターの使命は、いまだに果たされていないと考えるべきだろう。
つまり、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」は、いまだその使命を果たしていないのだから、取り下げられ理由などは無いのである。

したがって、社会的制裁を受けた呉座勇一の名前を晒し続けるのは好ましくないと思うのであれば、「呉座の名前だけ」を削除し、告発者側の名前だけを残せばいいのだし、そうすべきだったはずなのだ。

しかし、オープンレターズは、そうはせず、中身をぜんぶ丸ごと削除してしまった。
一一なぜか?

それは、この削除の狙いが、「自分たちの名前」とその行いを、永遠に隠蔽隠滅することにあったからである。

「呉座勇一に対して、あそこまで過酷な集団リンチを加えたのは、あいつとあいつとあいつだ」一一と、今度は、自分たちが名指しで(永久的に)批判されるのをおそれて、証拠隠滅を図ったのである。
(敗戦直後の日本政府や日本軍がやった、戦争法違反行為を裏付けるような資料の焼却処分と似たような、証拠隠滅行為である)

そうでなかったのなら、ぜんぶ丸ごと削除する必要はなかったし、この内容削除に対する批判に対しても、堂々と反論も出来たはずだ。

呉座勇一をはじめとした、女性差別的な男たちに向けて「オープンレター(公開質問状)」を発したからには、反論・批判があれば、それに対して再反論する義務が、言い出しっぺであるオープンレターズにはあったはずなのだ。
だが、彼女・彼らは、誰一人として「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」についての「説明責任」を果たすことなく、それに触れようとさえしなくなったのである。一一ただの一人もだ。

もちろん、小林えみ(よはく舎)もまた、そんな「証拠隠滅」に加担し、沈黙を続けている、現在進行形の「当事者(発起人)」の一人である。

小林えみは、自身が「発起人」として名を連ねた、各種フェミニズム運動の結果について、その説明責任を、まったく果たしていない。

それだけではない。

小林えみ「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」でやったことを反省して、オープンレターズから距離をとったのかと言えばそうではない。そんな事実は全然ない。

小林えみは、その後もオープンレターズが絡む、多くのフェミニズム運動に、その名を連ねている。

例えば、トランスジェンダリズムを批判した本の翻訳刊行反対署名運動に、小林えみは参加しているし、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人たちが中心になって今年発足した「現代フェミニズム研究会」には、小林えみは「研究者」でもないのに、その名を連ねている。

つまり小林えみは、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」以来、ずっとオープンレターズたちと行動を共にしており、オープンレターズの一員(中心メンバー)そのものなのである。

したがって当然、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」についても、反省などはしていないし、その後も、他のメンバーと共同歩調をとって、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」については、口を閉ざし続けているのである。

つまり、小林えみ「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」主犯格の共犯者であり、しかも、その結果について、多くの批判があったにも関わらず、まったく反省などしていない、「確信犯」なのだ。

したがって肝心なことは、小林えみ「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」確信犯であり、だからそれへの批判に対しては、いまだに「説明責任」をはたしてなどいない、という事実なのである。

そして、そんな小林えみが、ここ1年くらいハッキリしてきた「ネット・フェミニズムへの逆風」を受けてなのか、フェミニズム運動から距離を置くそぶりを見せ始めている。
今年、「現代フェミニズム研究会」に、臆面もなくその名を連ねておいて、である。

そしてそんな「無反省な確信犯」である小林えみが、不人気なフェミニズムから距離を取ろうとすると同時にアピールし始めたのが、他でもない、「キリスト教の洗礼を受けました(クリスチャンになりました)」ということである。

一一これが何を意味するかは、もはや明らかであろう。

そんな小林えみが、今年始めたのが、プロテスタント神学者である深井智朗の「過去の罪状」を持ち出して、「まだ禊ぎは済んでいないのだから、訳書とは言え、深井智朗に出版など許すべきではない」という、版元・講談社への、批判的な「公開質問状」の公表だったのである。

小林えみは、フェミニズムの世界で、さんざやり慣れた「告発手法」を、日本のキリスト教界に持ち込み、実践して見せたのだ。

「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」とは違い、今回の告発は、小林えみ一人によるものである。
たぶん、フェミニズムの世界での経験により、「知名度を得た今なら、もう一人でもやれる」という自信をつけてのことなのであろう。

だが、それにしても、自分が真っ先にそれをやった、というわけではない。

本稿の冒頭付近で紹介した通り、最初に深井智朗の訳書刊行を問題にしたのは、松井健人という人であって、小林えみは、言うなれば「#MeToo」(私も!)と、後追いで「公開質問状」を発出したのである。
(まるで、聖霊を発出するのは、父なる神だけに限られるのではなく、子なるイエスもだ、とでも言わんばかりに)

しかしながら、こんな小林えみほど「イエスの説いた、寛容の心」から遠い人はいない。小林えみは、それとは真逆の、ゴリゴリの「律法主義者」なのだ。

無神論者である私は、当然のことながら、「聖書」に書かれていることは、所詮「フィクション」でしかないと考えているから、イエスがどんな人だったのか、その実相を聖書から窺い知ることは出来ないと考えている。

しかしながら、イエスをキリスト(救済者)と呼ぶ価値があるとしたら、それは、ユダヤ教の厳格な「律法主義」を否定して、それを超える「寛容」を説いたという点にあろうと思う。

「そう決まっているのだから、そうしなければならない。そうしないと社会に示しがつかないのだから、律法の定めるとおり、例外なく、石打ちにだってするべきである」という、頑なな律法主義者に対して、イエスは「そういうあなた方は、(旧約聖書に示された)罪を(ひとつも)犯したことがないというのか?」と、そう問うて、硬直した原理原則主義者の「偽善」を突き、完全ではあり得ない人間という生き物、全員が罪人でしかあり得ない人間への、寛容を説いた。
そうでなければ、人間とは、全員「抹殺されて然るべき存在」であり、救済の可能性など無い、からである。

そして以上が、有名な「姦通の女」のエピソードである。

「ヨハネによる福音書」の中でも、特に有名なそれの内容については、つぎのブログ「きょうも読書」に、短く的確に説明されているから、ここでは、私の下手の説明ではなく、それを「全文引用」させていただくことにしよう。

2017-07-10
「罪のない者だけが石を投げよ」 ヨハネによる福音書

あなたたちの中で
罪を犯したことのない者が
この女に、まず石を投げなさい

「姦通の女」ヨハネによる福音書第8章3〜11節

 聖書の中に、姦通罪で捕らえられた女性をめぐって、主イエスと(※ ユダヤ教の)律法学者たちが対決する場面があります。旧約(※ キリスト教で旧約聖書と呼ばれる、ユダヤ教の聖典)の律法では、姦通罪は石打ちの死刑にされることになっていました。(※ 律法学者たちから、あなたならどうするのかと挑発的に)判断を求められた(※ 試された)主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言いました。すると年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、誰も女に石を投げることができませんでした。

人を裁く権利や資格をもつ者はいない
 この出来事は、この世界には罪を犯したことのないものは一人もなく、自分の正しさを根拠に人を裁く権利や資格をもつ者は、誰もいないことを明らかにしています。さらに一人の人が罪を犯すことになった背景にある社会的責任は、社会のすべての人にあることをも意味しています。キリスト(※ イエス)は(※ 、)その女性を裁き、排除することより(※ も)、そこで起こった問題をみんなの問題として受け止めることを求め、その人の立ち直りのために赦しと愛とを与えられたのです(※ ちなみに律法では、男性の側は姦通の罪には問われない)。

(※は、引用者による補足)

つまり、小林えみによる、
「深井智朗は、いまだに反省文を公表しておらず、禊ぎは済んでいない。したがって、深井智朗に社会的な地位を与えるようなことをしてはならない」
という批判は、

「社会的に地位のある者が誤りを犯した場合には、それが刑罰法令に触れるものではなくても、最低限、厳しい社会的制裁は受けるべきだし、それを受けたとしても、本人が主体的に、公的な謝罪をしていないのであれば、それは反省していることにはならないので、決して許されるべきではない」

という「律法」によるものなのだ。

「今どきの世間」による「人前に出てきて、頭を下げろ!」という、小林えみは、そんな「世俗主義的な律法」主義者なのである。

当然、こんな小林えみは「寛容を説くイエス」の信徒ではなく、それを演じているだけの「世間教」の信者であり、それを代表する「異端審問官」なのだ。

小林えみの根底にあるのは、キリスト教の「寛容」でなはく、キリスト教の「異端審問」「十字軍」の精神だと言えるだろう。

自分たちの価値観に従わない者は、神の名において、徹底的に滅ぼすべし。

小林えみ「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」仲間である北村紗衣は、「若い女性らしからぬ生意気口調」で、男性中心社会にルサンチマンを募らせていた若い女性たちからの強い支持を受け、Xのフォロワー50,000人という、自称「シェイクスピアの研究者」とは思えないほどの人気を博した。

しかしその反面、今では、その行き過ぎた言動が災いして逆風に晒され、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」関連のログをふくめて、自身の過去の発言ログを片っ端から消去隠滅し、それだけではなく、そうした北村紗衣の証拠隠滅工作を察知して、北村紗衣の発言ログをまとめた「まとめサイト」までも、そのSNS管理者に苦情を申し立てることで、次々と削除させていった。

私の知る範囲では、まとめサイトで有名なSNS「togetter」は、北村紗衣のそうした要請に易々と応じて、百を超える「まとめ記事」を削除した。
私がフォローしていた、北村紗衣のログに関する「まとめサイトのまとめサイト」は、私がその存在を知った当時は、99ものサイト(ページ)が登録されていたのに、それが後には、ほとんど一夜にして、登録数「0」になっていたのである。

だから、そんな北村紗衣のことを「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」以来のフェミニズムの同志として、よく知る小林えみは、北村の失敗した「強気押し」路線とは真逆の、「謙虚」路線を採っているというのは、ごく自然で賢明な「戦略」だったのではあろう。

だが、小林えみの、そんな「見せかけ」に、易々と騙されてはならない。

小林えみは、やりすぎた「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」のことを反省してもいなければ、当然「公開謝罪」どころか「公開弁明」すらしておらず、北村紗衣に歩調を合わせて、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」は無かったことにしようと、あらゆる批判に対して無視黙殺・ノーディベートを決め込んでおり、「説明責任」を果たす気など更々ない、厚顔無恥きわまりない人物なのである。

だから、そんな小林えみが、深井智朗の「過去の誤ち」について、「公開謝罪」をしていないから禊ぎは済んでおらず、社会復帰させるべきではない、などと言うのは、盗人猛々しいにもほどがあるのだ。

その理屈が通るのであれば、自身が積極的に加わった「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に対する批判に対して、反省しているのならしている、反省していないのなら反省していない理由を「公開弁明(応答)」して、「説明責任」を果たすべきなのである。

だが、小林えみは、たぶん北村紗衣の意向を受けた「オープンレターズ」の統一方針に従って、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に対する批判については、無視黙殺をきめこんでいる。また、そんな無反省のゆえにこそ、「石を投げ打つ、偽善的な律法主義者」なのだ。

「石を投げられる私は、罪人ではない」のだと。

小林えみは、講談社の「公開質問状」の中で、次のように、歯の浮くようなことを、臆面もなく書いている。

『私は(※ 深井智朗による捏造)騒動ののちに、そのことだけに起因してということではありませんが、キリスト教の洗礼を受け、信徒として過ごしております。同じ信仰を持つ者として、深井氏には本当に私たちの神に恥じいることのない行いをし、神に仕える仕事を遂行して頂きたいと思います。私たちは共に生きる者同士です。』

ここに、小林えみの「偽善者」ぶりが、あられもなく露呈していると、そう断じて良いだろう。

ハッキリと言って、小林えみは「寛容の福音」の信徒ではなく、自己を世間に「正義の徒」として売り込むために、キリスト教の「神」を利用しているだけの、「偽信徒」である。

洗礼さえ受けてさえいれば「信仰がある」などと思うのは、明らかな間違いだ。

小林えみは、優しげな微笑を浮かべた、現代の「律法主義者」だ。

しかも、「ヨハネによる福音書」に語られた、イエスに諌められ、我が身を恥じて石打ちをやめた律法主義者たちとは違って、自らの正義をアピールするためには、是が非でも「石打ちの犠牲者」を出さないでは気が済まないという、現代の「異端審問官」なのである。

私たちはもうそろそろ、小林えみの、その上っ面だけの「善人ぶり」の下に隠された素顔に、気づくべきであろう。

現時点での、小林えみ最新エッセイのタイトルは、「愚かさの立場から書く/愚かさについて/小林えみ」

その内容は、次のとおりである(全文)。

『愚かさについて、まとまった書籍はあまりない。
能力主義や理性主義、教養主義、また現在のポピュリズムの流れから、知識人の側からの「愚かさ」論もでることと思う。
私はもう少し、「自分が愚かである」という当事者性から書く。』

人の「愚かさ」の問題については、知識人もまだあまり書いていないことだし、私なら彼ら知識人とは違って『当事者性から書く』だろうと、そう自慢しているのだが、真に「愚かさ」を恥じているのであれば、わざとらしく声高に自身の「愚かさ」を語る前に、まずは自身の、「偽善」や「卑怯さ」をこそ語るべきであろう。

実は昨夜(2025年12月2日)の夜10時頃だったか、私は、小林えみの上の記事のコメント欄に、次のようなコメントを書き込もうとした。

『初めまして。 すでにご承知でしょうが、あなたへの「公開質問状」を書きました。
どうぞ、深井智朗氏に範を示して、ご応答ください。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n4bcc833bd475

それが出来ないのであれば、自らの「愚かさ」を語ってお茶を濁すのではなく、自ら「卑怯さ」を語るべきでしょう。』

ところが、この時すでに、私は小林えみからブロックされており、このコメントを書き込むことは出来なかった。
なんとも手回しの良いことである。

ともあれこれは、小林えみ「ノーディベート」宣言だと、そう受け取っても良いだろう。

だが、こんな輩が、「罪ある男」深井智朗の「過去の罪」を捉えて、彼を許そうとした講談社に対して、「あなた方も、この男に石を投げ打つべきだ」などと説教するのだから、やっぱりキリスト教は「偽善的だ」あるいは「無力だ」と言われても、仕方がないのではないだろうか?

だからこそ、私は言いたい。

「罪なき者から、この男に石を投げなさい」

最初に投げたのは、松井健人という男であり、それを見定めた上で、2人目に「#MeToo」(私も!)と叫んで石を投げたのは、小林えみという女だったのである。

(2025年12月3日)



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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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