三木那由他 『言葉の展望台』 : 北村紗衣組の「カマトト」番長
「三木那由他の著作は、読むに値しない」というのは、先日、三木の『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』(以下『会話を哲学する』と略記)を読んで、私の確信したところであった。
だから、本来なら本書『言葉の展望台』は読まなかったはずの本なのだが、なぜ読んだのかというと、すでに買ってあったからである。
では、なぜ『言葉の展望台』よりも後に刊行された前記『会話を哲学する』の方を先に読んだのかと言えば、『会話を哲学する』の方は新書であり、漫画やアニメの作中「会話」を分析するというものだったので、手始めに読むには手頃だと考えたからだ。
その一方『言葉の展望台』の方は、「紀伊國屋じんぶん大賞2023」の「第2位」に選ばれた作品だったから、それなりに「力の入った作品」なのではないかと考えて、後回しにしたのである。まずは「周辺から攻めよう」と。

しかし、結果から言うと『会話を哲学する』を1冊読んだだけで、三木那由他が2冊目を読むほどの価値のない書き手だと分かったわけなのだが、そこは貧乏性の私なので「せっかくだから、この『言葉の展望台』も読み、それで三木那由他はおしまいにしよう」とそう考えた。
それに『会話を哲学する』を読み終えた後になって、本書『言葉の展望台』が意外に「薄い」本(157ページ)であることに気づいてため、かまえなくても、すぐに読めるだろうと、そう考えたのである。
そんなわけで、ついでに片づけるというようなかたちで読んだ本書『言葉の展望台』だったのだが、2冊目ともなると、三木那由他の「手つき・手癖」みたいなものが、いろいろとハッキリ見えてきた。
『会話を哲学する』のレビューで私の指摘したことは、決して同書にのみ言えることではなく、三木那由他の「いつもの構え(あるいは態度)」なのだということに、確信を持てるようになった。本書において、その「裏付けが取れた」のである。
したがって、薄い本のわりには、指摘したいことは山ほどあるのだが、まず最初に総括的に指摘しておきたいのは、
三木那由他は「信用のできない語り手」である。
という事実である。
端的に言えば、三木那由他は「演技派」であり、本性を偽って、読者へ「好印象」を刷り込みことに余念のない人なのだ。
もちろんこれは、何も三木那由他に限ったことではなく、プロ・アマチュアを問わず昨今の「書き手」一般に見られることなのだが、三木那由他を含む、北村紗衣以下の「第四波フェミニズム」のフェミニストでは、それが顕著な特徴となっているのである。
そして、おそらくこれは、「フェミニズム」が「権利獲得」運動であり、おのずと「実利優先」というその特性から出たものなのではないかと窺われた。
ともあれ、アマチュアならいざ知らず、仮にもプロの書き手であり、その多くが大学教員でありながら、彼(女)らは、自身自身を次のような人物であると、臆面もない自己申告で描いてみせる。
(a)フェミニストとして、女性やトランスジェンダーなどの社会的弱者の側に立つ、弱者の味方(正義)である。
(b)同時に、自分自身も「社会的少数者」としての特徴を有しており、その意味で「被害者側」の人間である。
(a)の点については、「フェミニスト」を名乗る以上は、当然のことだと言えるだろう。
したがって、問題は(b)の方である。
(b)について、具体例をあげると、北村紗衣の場合は、
といったことになるだろうし、
これに類した「有徴性」としては、北村紗衣が主導した「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の「発起人(呼びかけ人)」メンバーの場合、河野真太郎や田中東子などは「オタク」ということになるだろう。
清水晶子や隠岐さや香については、今のところ、それに類した「被害者特性の自己申告」は無く、「個人としての被害者性アピール」というものは目につかない。
だが、この種の「弱者性アピール」において、最もわかりやすい根拠となっているのが、本書の著者・三木那由他自身の「トランスジェンダー」性なのである。
ただ、ここで気をつけなくてはならないのは、彼(女)らはたしかに、それぞれにそれなりに「被害者性」を有してはいても、だからと言って、「被害者」は「いつでも常に被害者」だというわけではない、という事実だ。
当たり前の話だが、ある場合に「被害者」である人も、別の場合には「加害者」になっている。
終始、「被害者」一方、あるいは「加害者」一方だなどという人間など、存在しない。
例えば、植民地国の国民であるが故に、日々、食うや食わずの生活を強いられている人々は、全員「被害者」だと言える。
しかしながら、そうした「被害者」の中にも、「他人の食べ物を奪って食べる」というような「加害者」も存在する。また、食べ物を強奪される「被害者」の方も、別の局面では、他人に犠牲を強いてでも生き延びようとするだろう。
つまり、生きているかぎり、すべての人は、何らかの局面において「加害者」であることを避けられないのだ。
だから、「加害者性」というのは、誰しも例外なく帯びているものであり、そこに例外というのは存在しない。
したがって、その意味では「加害者性」があっても「仕方がない」とは言えるのだが、しかし、一一「やむを得ず加害者性を帯びているという事実」と「加害者性に開き直るという態度」とは、同じことではない。
ここが重要なのだ。
「植民地の飢えた住民」というような共通した「被害者性=弱者性」を帯びながらも、あるいは、だからこそ、自分自身が「加害者性」をも帯びた存在であるという事実に「開き直る」者もいれば、それに「良心的呵責」を覚える者もいる。
「被害者」なのだから、自身の「加害者性」を過剰に気に病む必要はないと、第三者的に助言するのは、正しいことだろう。
だが、その当事者として「自分は被害者なんだから、少々の加害行為はやむを得ないこととして許されるべきなので、それに良心的呵責を覚える必要はない」などと考えることが、果たして「真っ当な人間」の感覚であり、「良心」のあり方だと言えるだろうか?
つまり、どんなに「被害者性」を帯びている人間であっても、その人に本質的な部分で「良心」があるのであれば、その人は、自身の「被害者性」を悩む前に、自身の「加害者性」を嘆くだろうということなのだ。
自身が「純粋な被害者」ではあり得ないという事実に苦しみ、むしろ自身の「加害者性」の方にこそ、他人から求められるまでもなく、主体的に「責任」を感じて、「良心的呵責」を感じるのではないか、ということである。
ところが、上に紹介したとおり、本書著者である三木那由他を含む「北村紗衣周辺のフェミニスト」ときたら、競うかのようにして「自身の被害者性のアピール」に勤しんでいる。例えば「私たちは、誹謗中傷を受けている」といった具合だ。自分たちの言葉は「正当な批判」だが、敵側の言うことは「誹謗中傷」であるといった調子なのである。
彼(女)らは、自分(たち)は「純粋な被害者」であって、「加害者性などカケラも持たない人間なのだ」といったアピール(自己申告)に余念がないのだ。
だが、そうした「自家宣伝」とは、所詮「偽善」であるというのは、見え透いた話である。
私事で恐縮だが、私などは、ヒーローに憧れる者の一人として、「被害者性」の自家宣伝をするのは「恥」だという感覚があるから、そういうみっともないことは、基本できない。
たしかに私は「アマチュアの書き手」だから、北村紗衣や三木那由他のような「プロの書き手」を正々堂々と批判しても「相手にされない」とか、匿名捨てアカウントの人物らからの「荒らし」に遭うとかいった「事実」については、「事実」として書くこともあるけれど、だからと言って、私は自身を「可哀想な被害者だから、どうぞみなさん、私に同情して味方になってください」というような書き方はしない。
そうではなく、「応答責任を果たさないプロの書き手」や「卑怯な荒らし」を、積極的に「攻撃」しているというのは、周知の事実である。
むしろ、私から徹底的に「攻撃」された者の方が「被害者ヅラ」したがるのが常であり、見る人の立場によっては、私の方が「加害者」に見えることも多々あるだろう。だが、それは、私の場合、承知の上なのだ。
そんなわけで、「被害者ヅラ」というのが大嫌いな私は、自身のそうした「攻撃性」についても、言い訳をするのではなく、むしろ「私が他者を批判する際には、相手を筆で殺すつもりでやっている。手加減はしない」などと書いたりはする。
これは、自身の「加害者性」を、人に求められてしぶしぶ認めるのではなく、自ら積極的に「引き受ける」ということである。
ところが、三木那由他をはじめとした「北村紗衣周辺のフェミニスト」たちは、自身の「加害者性」については、さっぱり触れようとはしないし、端的に言えば「積極的に隠している」。
だからこそ私は、社会学者・池田緑の著書『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』のレビューにおいて、三木那由他をはじめとした「北村紗衣周辺のフェミニスト」たちが、いかに自身の「被害者性」ばかりをアピールしようと、例えば彼らが、「日本人」であるという事実ひとつ採ってしても、他者の犠牲の上に生きる存在だという、その「加害者性」の事実を指摘したのである。
話を本書『言葉の展望台』に戻せば、三木那由他の本書における最大の「被害者アピール」は、自身が「トランスジェンダー」であるという事実であり、本書での、その「公式発表」だと言えるだろう。
三木は、それ以前に「性別移行」を済ませており、自身の周辺(友人知人、職場)などに対しては、すでに「カミングアウト」していたも同然なのだが、それをわざわざ「公刊書」で発表したのは、本書を1冊目とする、文芸誌『群像』での連載においてであった(本書収録回「哲学と私のあいだで」)。
当然のことながら、本書においても三木那由他は、自身が「トランスジェンダー」であるが故に被ってきた「同情されるべき過去」を、自分語りしている。
例えば、中学生時代に、クラスメイトである男子生徒数人に囲まれて、「男らしく」振る舞う方法を教えてやろうと言われ、「〈僕〉ではなく〈おれ〉って言え」と強要された際の「悲惨な被害者経験」を語っているのだが、この部分での「描写」で、私が引っかかったのは、三木が、次のように書いている点であった。その前段を含めて引用しよう。
(001)『 (※ いつも「ぼく」を使っている)私は最初、(※「おれ」と)言えなかった。その言葉がどうしても口に出せなかったのだ。それがなぜなのか、当時はわからなかったし、「ぼく」は許容できて「おれ」が無理だった理由を、いまだってはっきりとわかっているわけではない。けれどともかく、それ(※「おれ」という一人称代名詞)は私のアイデンティティがぎりぎり崩れないで済む一線を越えた言葉だったのだと思う。しかし、じっと黙っていても解放されるわけでもなく、はやし立てるように男の子たちは「おれ」と自分を名指すように言い続けていた。どうしようもなく、振り絞るような気持ちで「‥‥‥おれ」と言った。
ここで泣き出しでもしたら多少ドラマティックだったろうか? でも現実の私は、「ほらちゃんと言えるでしょ?」、「みんなの仲間だってわかったでしょ?」とでも言うかのように、にっこりとほほ笑んだことを覚えている。いや、わからない。実のところ、子どものころのことは、あまりよく覚えていないのだ。ただ、いまの私の記憶ではそのような光景になっている。』(P97〜98)
最後のところで、この『にっこりとほほ笑んだ』という描写が「偽造記憶」である可能性に配慮して「エクスキューズ」を無難に付しているところが、いかにも三木那由他らしい。
さすがに「作りすぎ」だという自覚とやましさはあった、ということなのだろう。
ともあれ、普通なら「泣き出して」しかるべきところで三木は泣かずに、むしろ、無理して「おれ」といった後に「これでいいんでしょう?」と言わんばかりに、いじめっ子たちにほほ笑みかけたと、三木那由他はここで、そう語っている。
これは、自身の「卑屈」を語っているようにも見えるけれども、しかし、実際には、このシーンを読まされて「三木は卑屈だったんだな」などと思う人はいないだろう。
そうではなく、ほとんどずべての人が「なんと健気な。可哀想に」と、このシーンに描かれた三木那由他に(アニメのワンシーンでも見ているかのように)同情することだろう。それが当たり前だし、「そのように書かれている」のである。
つまり、このシーンの描写は、三木那由他が好きな漫画やアニメなどに見られる「名シーン」同様に、むしろドラマティックすぎる、のである。
言い換えれば、現実の話としては「リアリティを欠いている」のだ。
無論、こうした事実が無かったとまでは断じないけれども、これをこのように書いた三木那由他には、確実に「このように書けば、読者の同情を惹ける」という「計算」があったというのは間違いなかろう。
そうでなければ、いじめっ子たちに「〈おれ〉という主語を強いられた」という事実の報告はしても、その後「彼らにほほ笑みかけた」ということまで、普通は書かないからだ。
つまり、この「打ち明け話」のキモは、むしろ「いじめっ子に微笑みかけた」という「痛々しい描写」にこそあったのである。
しかも、三木那由他は「言語」の研究家であり、専門は「会話」である。
つまり、抽象的な「言語」ではなく、実際的な「会話」に重点をおいて研究しているような人なのだから、「こう言えば、こう受けとられる」ということを常に考えており、事実『会話の哲学』においても、会話における、他者に対する「マニュピレーション(操り=心理操作)」ということを強調していたほどの人なのだから、何も考えずに、上のような「同情を惹く描写」をしたとは、とうてい考えられないのだ。
しかしながら、私のような「老獪な小説読み」であり「疑り深さを備えた高齢者」などではなく、人生経験に乏しい「若者」なら、こうした「マニュピレーション」に、手もなく乗せられてしまうだろう。
それでなくても、今の若者は「嫌な現実問題」を考えるのは避けて、素直に「感動できること」や「泣ける話」を求める傾向が強いというのは、もはや周知の事実である。
つまり、多分に「純粋培養」的であり、生々しい悪に対する「抗性」が鍛えられていないのだ。
わかりやすい例で言えば、新作映画のテレビコマーシャルで、映画の内容そのものよりも、観客の反応として「めっちゃ泣きました」とか「10回見ました」とかいったものが紹介されるのが、その何よりの証拠である。その方が、一般への訴求力があるから、そうしているのだ。
前者の「めっちゃ泣きました」というのは「めっちゃ感動しました」ということであり、そこで語られているのは、映画の内容の良さではなく、とにかく「情動のツボを押された」という事実だけである。
また、後者の「10回見ました」とかいうのも、「10回見ないと理解できない、深い作品だ」という意味ではなく、「条件反射実験の犬(パブロフの犬)」と同様で、「同じ感動をくり返し欲している(与えてもらえる)」というだけの話なのである。
つまり、こうした若者たちを「読者層」と想定するならば、小難しい「言語哲学」の話なんかよりも、「泣かせる話」の方が「ウケる」というのは、見えた話でしかない。
実際、大学で若者を相手にしている三木那由他なら、学生たちに対し、「言語哲学」の話を教科書どおりに教えるよりも、程度を落とし、回り道をしてでも、漫画やアニメの話にかこつけて説明した方が「ウケが良い」ということは重々承知しているはずだし、「理解を求める説明」ではなく「感動できる話」の方が、圧倒的に支持されるというのも知っているはずである。
だからこそ、三木那由他だけではなく、北村紗衣や河野真太郎などは、そういう「ウケの良いもの」を介して、フェミニズムを語りたがるのだ。
したがって、三木那由他にあっても、先に紹介した「〝おれ〟って言え」というイジメ体験における「私は、そればかりではなく、彼らにほほ笑みかけさえしました」という話は、決して「自己批判的」に書いたものではなく、「これを書けば、確実に読者の同情を得られる」という、計算づくの「マニュピレーション」であったのであろうのは、三木那由他のプロフィールに照らして、明らかなことなのである。
実際、三木那由他は本書の中で、次のように書いている。
(002)『 会話には少なくとも、言葉そのものが持つ情報の伝達、言外の内容の伝達、話し手と聞き手による互いの心理の読み合いといった複数の異なる側面がある。(※ 例えば、一見無駄に思える)同じ話の繰り返し(※ 行為)がそれでも話し手の人柄について新しい何か(※ 情報)を教えてくれるという現象については、このうちの心理の読み合いという側面が特に関係しているだろう(※ つまり、人は直接語られていないことをも読み取ることもする、ということ)。たとえ話し手が同じ話を繰り返し(※ て、新情報を提供しなかっ)たとしても、その話をこの場面でしたということ(※ 新条件)から推察される心理(※ 読み取り内容)が変わってくることがある。だからこそ、同じ話が繰り返されながらも、話し手の新しい面がだんだんとわかるように感じられることがあるのではないか(※ それが誤解であったり、故意の誘導的誤解であったりする場合が、あったとしても)。』(P89〜90)
これが意味するのは、会話というのは「話し手と聞き手」の駆け引きであり、当然、「書き手と読み手」の駆け引きでもあるということなのである。
ちなみに三木那由他は、上のいじめ体験(「おれ」の強要)の他にも、自分は「一人称代名詞=私、僕、俺など」を、完全に見失っていた時期もある人間だ、という「昔語り」を、「「私」のいない言葉」の回で紹介している。
これは、自分の選んだ、男性性の薄い「一人称代名詞(ぼく)」を他者から否定されたというだけではなく、三木那由他自身が、昔は「世間の常識」圧力に屈して「自分が何者かのか」がわからなくなった結果、「私はこう思う」というような「発話の責任主体を明示する」ような語りのできない人間になっていたと、これまた「同情を惹く」哀れな過去を紹介しているのである。
(003)『そもそも「道徳的に間違っているのでは」、「生物としておかしいのでは」、「所詮はただの常軌を逸した男にすぎないのではないか」といった言葉は、子どものころからつい最近に至るまで、私自身が自分に投げかけてきた言葉なのだ。それをほかでもない自分自身から投げかけられ続けながらそれでもしぶとく生きてきた以上は、他人からいまさらそんなことを言われたところで、それ自体は大してダメージにはならない。
そう、「私自身が自分に投げかけてきた言葉」だったというのが大きいのだと思う。自分が世間から期待される性別(※ 男)では生きていけないと最初に感じたのは幼稚園のころのことだった。そのことと無関係ではないと思うが、ともかく集団のなかに溶け込むということが苦手で、幼稚園、小学校、中学校、高校とすべて休みがちで、特に中学校と高校は出席がまともに足りたことがないくらいのありさまだった。小さいころから漠然と自分には「将来」などないと感じていたのか、「将来の夢」を訊かれても自分でうまく考えることができず、周りの子の答えを真似て誤魔化していた。初めて死にたいと思ったのは一〇歳くらいのことで、初めて遺書を書いてみたのは小学六年生のときだった。大人になってからはこの「間違った」体が壊れてしまえばいいと考えて、頻繁にきついお酒を飲み、泣きながら自分の体を殴りつけることもあった。』(P77〜78)
そんなわけで、端的にいってしまえば、本書のような「言語哲学」的には「内容の薄っぺらなエッセイ集」が、それでも「紀伊國屋じんぶん大賞2023」の「第2位」となり得たのは、実際のところは、上のような「お涙頂戴のカミングアウト」が、若い読者の「感動」を買ったからである、というのは、まず間違いのないところなのだ。
そうでなければ、この程度の「人文書」が、「人文書の年間ベスト2」になる道理がない。
さらに言うと、この「紀伊國屋じんぶん大賞」の選考者は、基本的に「紀伊國屋書店の書店員」なのだから、書店員の「読解力」というのは、娯楽映画を見て「めっちゃ泣きました」とか「10回見ました」などと言っている若者と、大差がないということにもなる。なにしろ、書店員の大半も「若者」なのだ。
しかしながら、ここであえてフォローしておけば、書店員が、そこまで「世間並みの読解力」しかも持たない、というわけではなく、「何らかの事情」で、本書を「過大評価しなければならなかった」という理由が、もしかすると、存在したのかもしれない。
例えば、「#Metoo」運動以来の「フェミニズム」の盛り上がり(流行)に「影響された」というだけではなく、例えば、紀伊國屋書店の幹部の中にも「フェミニスト」がいて、流行りの「第四波フェミニズム」本を強く推したというような、内部事情があったのかも知れない。
実際、書店というのは、販促のためにも「作家」との良好な関係が求められるだろう。作家先生を招いての「サイン会」や「トークイベント」といったことは、作家とのコネがなければならず、公平にどこの書店でも開けるというものではない。
私はこれまでにも、「北村紗衣とジュンク堂書店」との特別な繋がりを指摘してきた。
北村紗衣は、自身の関わった書籍が刊行されるたびに「ジュンク堂書店」でトークイベントを行なっているし、ジュンク堂書店の方では、北村紗衣の著書について、全国の店舗において「フェア」の特別棚を作ったりして、持ちつ持たれつの関係にあるのだ。
ちなみにここで留意すべきは、北村紗衣が「プロの書き手の話は、無料で情報を提供すべきではない(カネを取るべきだ)」という主張をしている点だ。



つまり、北村紗衣が「ジュンク堂書店」を特別扱いにするのは、それ相応の「見返り」があるからであって、「個人的な好意から」などではない、ということである。
したがって、紀伊國屋書店の場合だって、こうした「コネ」作りはやっているはずだし、まして「フェミニズム」ブームが盛り上がってくれば、そこに目をつけて、優先的に唾をつけ、コネを作ろうとするのは、ごく自然なことであろう。
そしてその結果、書店幹部の中には、ブームに乗ろうと「これからはフェミニズムの時代です。だから、うちでも積極的にフェミニズム本を推していきましょう」と言う者が出てくるのも、ほとんど必然的なのである。
ましてや、その数年前には、「心ならずも」流行に乗って「ネトウヨ本」専用棚を作っていた紀伊国屋書店なのだから、その正反対である「フェミニズム」本に肩入れしたとしても、なんの不思議もないのである。
ただし、「読者としての能力」は「世間の若者に毛の生えた程度」の書店員が、「イデオロギー」的な「推し」を始めれば、その内容的水準が疑わしいものになるであろうことも、理の当然である。
たとえば、「とにかく、読みやすいフェミニズム本を推せ」ということになった結果、そうした「フェミニズム本」が、内容以上の高い評価を得て「紀伊國屋じんぶん大賞」に上位でランクインするといったことが、2000年前後から続いていたとしても、それは何の不思議もないことだし、そうした「文脈」からすれば、「トランスジェンダー」のフェミニストである三木那由他の、「カミングアウト」実況が含まれた本書が「過大評価される」というのも、わかりやすいところなのである。
なにしろ本書は「泣かせるフェミニズムの人文書」なのだから。
しかしながら、ここで気をつけなくてはいけないのは、「三木那由他は、なぜ2021年から『群像』誌に(この)連載をもつことが出来たのか?」という点である。
いうまでもないことだが、それまでの三木那由他は、一介の「言語哲学の研究者」でしかなく、一般には「無名」に等しい人物であった。
それがいきなり、伝統ある文芸誌『群像』に連載を持てたのは、どうした理由からなのであろうか?
それは無論、おりからの「フェミニズム」ブームに『群像』誌も「乗った」、ということであろうし、だとすれば、三木那由他が単なる「フェミニスト」であるばかりではなく、その中でもごく稀な「弱者としてのトランスジェンダー」であるというその「属性」も、当然『群像』編集部が承知していたためであろう。
つまり、三木那由他は、『群像』の連載以前は「言語哲学」の論文を専門書的なものに書いていただけだから、自分個人のことなど書く機会は無かった。
しかし、すでに「性別以降」は済ませていたから、「公式発表」こそしてはいなかったものの、三木が「トランスジェンダー」であるという事実自体は、すでに「周知の事実」だったのである。
したがって、三木那由他に連載を持ちかけた『群像』の編集者も、当然、三木那由他が「トランスジェンダー」であることを知っており、それが「売りになる(武器になる)」ということを承知していたはずなのだ。
つまり、著者である三木那由他自身は、この連載において、連載の都合上「たまたま公式発表することになった」かのごとく書いているが、本当は「この連載が始まる前から、著者である三木那由他のトランスジェンダー・カミングアウトは、内々に計画されたものだった」ということなのではないだろうか。
どうせ、いずれは公式にカミングアウトしなければならないのだとしたら、その機会を「有効利用したい」と考えるのは、ごく自然なことだろう。
つまり、単に、誰も知らないような言語学専門誌への寄稿で「実は私はトランスジェンダーでした」と公表したところで、その読者は「そうだったのか、なるほどね」と思うか「知ってるよ」というような薄い反応に終わるだろう。
だが、「フェミニズム」ブームの最中に、一般読者に向けて、私はいま話題の「トランスジェンダー」ですと告白すれば、それでフェミニズムに興味を持つ人たちの目を惹けるというのは、まず間違いないところであろう。
また、人口の半分を占める「女性」という弱者性ではなく、「トランスジェンダー」という文字どおりの「マイノリティ(少数者)」であれは、数多いフェミニストの中でも、特別な位置を占めることができる、との計算もあったであろう。
つまり、世間における無名な、いちトランスジェンダーが、ただ単にカミングアウトするのとは違って、三木那由他のような学者が、『群像』のような場所で「私はトランスジェンダーです」とカミングアウトするというのは、行為としては同じでも、その「効果」や、それで得られるものが、まったく違うし、時に真逆でさえあるのだ。
つまり、三木那由他は『群像』誌上で、あらためて「カミングアウト」することにより、「フェミニズム・スター」としての地位を得ることができるし、『群像』としても「異色のスター」としての書き手を得ることができる。しかも「『群像』は(講談社は)、フェミニズムに理解があります」とアピールすることもできるのだから、これは文字通り「一石二鳥」であろう。
だから、両者が結託して、初めから予定されていた「連載途中でのカミングアウト」を、さも「たまたま」であるかのように「演出」し、著者の三木那由他が、その期待される「被害者像」に沿って「可哀想な、昔の私」を描いて見せれば、これが一定の効果を持たないはずがない。
ましてやそこに「紀伊國屋じんぶん大賞」という宣伝装置を噛ませれば、その宣伝効果は絶大であり、講談社と紀伊國屋書店は「持ちつ持たれつ」で、どちらにも得になる話でしかないのである。
一一「商人としての良心を、捨てられるならば」の話ではあるのだが。
ともあれこれは、「トランスジェンダーという社会的弱者」を応援して、「スター」にしてあげたというような、「弱者のための」といった「美談」などではない。
そこでは「三木那由他は、差別に苦しめられてきた人である」という「被害者性」ばかりが強調されているが、「被害者性の強調」の陰には、たいがいは「加害者性」が隠蔽されていると、そう考えるべきだろう。
その、隠されている事実とは、例えば、芥川賞作家・笙野頼子の、『群像』誌からの「パージ」である。

私は過去に、笙野頼子の著書『発禁小説集』(鳥影社)を論じたレビューの中で、『群像』誌からの笙野のパージと、フェミニスト執筆者の登場は、リンクしたものであったという事実を指摘している。
笙野の『発禁小説集』に収録されている作品は、次のとおりだ。
(01)「女性文学は発禁文学なのか?」文藝家協会ニュース二〇二一年十月号
(02)「九月の白い薔薇ーヘイトカウンター」群像二〇一八年一月号
(03)「返信を、待っていた」群像二〇一九年一月号
(04)「引きこもりてコロナ書く」群像二〇二〇年十月号
(05)「難病貧乏裁判料弾/プラチナを売る」季刊文科84 二〇二一年春季号
(06)「質屋七回ワクチン二回」群像二〇二一年十二月号
(07)「古酒老猫古時計老婆」季刊文科86 二〇二一年秋季号
(08)「ハイパーカレンダー1984」書き下ろし
私は、本書のこうした収録作品を、次のように分析した。
『上の八つの収録文に、「1行開け」を入れて、4つのパートに分けたのは、次のような事情からである。
まず、最初の(01)と最後の(08)は、講談社と縁が切れ、鳥影社からの刊行が決まった後に書かれた、「まえがき」と「あとがき」にあたるものだということを示している。
つまり、後から書かれた「事情説明文」であり、問題となる本編作品は(02〜07)ということになるわけだ。ただし、本書収録にあたって、それぞれに、著者による「自作解説」などの短文が付録されていて、本書刊行の経緯が、詳しくわかる作りになっている。
また、この作品集の本体とも呼ぶべき(02〜07)を二つに分けているのは、次のような事情のためだ。
(02〜04)までは、講談社の『群像』に書かせてもらったものである。
一方、(05〜07)の方は、『群像』では自由に書かせてもらえなくなっていたところ、それまでもたまにエッセイなどを寄稿していた、鳥影社の文芸誌『季刊文科』が自由に書かせてくれるというので、書かせてもらったのが、後半の(05)と(07)、そして「政治向きの話は書かず、私小説作家らしく貧乏話だけを書く」ということで『群像』に書かせてもらい、結果として、最後の同誌寄稿作品となったのが(06)ということになる。
つまり、(02〜04)の2018年から2020年にかけての時期は、身辺雑記を書く「私小説家」ということで、笙野頼子はまだ、その時々に興味を持っていることを、比較的書きたいように書いていた。
その主たる内容が「トランスジェンダリズム批判」であると同時に「安倍晋三政権批判とコロナ禍における自粛生活」ということになる。
つまり、当時の安倍政権の政策批判やコロナ対策への批判、そして、自身の「共産党支持」を中心とした政治活動などを前面に押し出したものを、笙野は書いていたのだ。
だが、「安倍政権批判とコロナ禍における自粛生活」の方は、まだしも、「トランスジェンダリズム批判」については、当時は無論、今でさえ、まだまだ一般の理解など無かったこと(当然、編集者の理解も薄かっただろう)もあって、笙野頼子の主張を「トランスジェンダー差別」であると批判する者も、文筆家の中に少なくなかった。
そんなわけで、講談社としては、「トランスジェンダリズム批判」の方を、あまり好ましいものと思っていなかっただろうことは、容易に推測できよう。』
ここで、思い出して欲しいのは、三木那由他の連載「言葉の展望台」は、『群像』誌の「2021年1月号」からだという事実である。
つまりその時期、笙野は、作家デビュー以来、長年のつき合いだった『群像』誌から徐々にパージされていたのであり、それと入れ替わるようにして、三木那由他をはじめとした「フェミニズム系」の書き手が『群像』に入ってきていたのである。
つまり、『群像』誌は、「両論併記」ではなくハッキリと「トランスジェンダリズム批判」の笙野頼子を排除して、トランスジェンダーである三木那由他らを採用することで、その「政治的な立場」を闡明したのである。

つまり、ここで私が言いたいのは、「被害者は必ずしも、いつでも被害者であるわけではない(加害者である場合もある)」という「事実」である。
三木那由他は『群像』の連載を得ることによって「スター」になった。
事実、三木那由他自身、本書の「おわりに」で、次のように書いている。
(004)『友人から「この本はきっと三木さんという個人にとって記念となる本になるね」と言われました。私もこれはそういう本になるのだろうと思っています。』(P150)
当然のことながら、この「おわりに」は、本書が「紀伊國屋じんぶん大賞・第2位」を得る以前に書かれたものである。
では、どうして、このような「自信」が持てたのかといえば、それは本書が「公式カミングアウト」の書であったからだというのは、まず間違いないところだ。
こんな生硬な「言語哲学的エッセイ」など、普通であれば、そんなに売れるわけでも話題になるわけでもないのだが、フェミニズムブームの最中に、「トランスジェンダーであることを公式にカミングアウトした本」ということであれば、その「話題性」において本書が「一定の注目を浴びる」であろうことは、容易に推測できるところなのである。
だから、ここで「友人」として、その名が伏せられている人物が、この連載の「担当編集者」であったとしても、私は少しも驚きはしない。
この「おわりに」を書いた頃には、担当編集者も、ちょっとした「友人」の一人になっていただろうし、二人の間で、「きっと話題の書になりますよ」「そうですね」という会話があったとしても、何の不思議もないのである。
また三木那由他が、このように「肝心な情報を隠す」ことによって、他者を意図的に「マニュピレート」する(操る)人であるというのは、本書の「プロローグ」である「コミュニケーション暴力としての、意味の占有」の、次の文言にも明らかだろう。
(005)『 夢見がちだった、とまでは言うまい。ただ少しばかり能天気だったとは思う。コミュニケーションは、確かに素晴らしいものであり得る。けれど、それだけではない。言葉による支配も、侮蔑も、否定も、コミュニケーションの中で起こる。つまりは、差別も暴力も。(※ ママ)コミニケーションにおいて、しか起こらないわけではないが、コミュニケーションは少なくともそれらが現れるひとつの舞台だ。ここ数年、いくつかの、ここで書くのは憚られるような経験をして、いまの私は、コミニケーションのただなかでおこなわれる、コミュニケーション特有のかたちをまとった、そうしたもの(※ 言葉による支配や、侮蔑や、人格否定)たちを捉えたいと思うようになっている。(P10)
この『夢見がちだった、とまでは言うまい。』という言い方からして、三木那由他お得意の「カマトトぶり」なのだ。
ましてや、『能天気』だったわけでもない。
『夢見がちだった、とまでは言うまい。』という言い方は、『言うまい』と言いながら、臆面もなく言って見せる、なかなか図々しい書き方なのである。つまり、三木那由他は「したたかに計算する人」であって、決して「能天気」などではない。
幼い頃からイジメに遭ってきた人なら、自衛のためにも、人並み以上にしたたかでなければ生き残れなかったのだから、これは当然のことなのだ。
だが、肝心なのはそこではない。上の引用部分で私が注目するのは、
『ここ数年、いくつかの、ここで書くのは憚られるような経験』
の部分である。
この「経験」の中には、確実に、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」が含まれている、という点なのだ。
無論、三木那由他の立場からすれば、この「オープンレター」事件は、「社会学者である呉座勇一が、フェミニスト北村紗衣を誹謗中傷した女性差別事件」ということになり、ここでも「暗に」その含みを持たせているのだが、一一ではなぜ、それを「暗に」ではなく「明示的に」書かないのかといえば、それは自分たち「北村紗衣を応援したフェミニスト仲間」の方にも、いまさら具体的には「触れたくない事情」があったから、に他ならないだろう。
三木那由他自身も「発起人(呼びかけ人)」の一人となり、千数百名の賛同署名を集めてネット上に公開された「オープンレター」は、「#Metoo」運動による「キャンセル・カルチャー」の成功以来、おりからの「フェミニズム」ブームに乗ったものというだけではなく、その「数の力」によって、呉座勇一から二度にわたる「屈辱的な公開謝罪」を引き出したばかりか、呉座の「職を奪う」という決定的な「キャンセル」を遂行し得た。
しかしながら、その成果があまりにも「過酷なもの」だったがために、逆に「やりすぎだ」という批判を、三木那由他を含めた「オープンレター連」は受けることになり、それと同時に「偽署名」が発覚するに至って、「オープンレター」からは「発起人・賛同署名者」の名前が、すべて「削除」されることになる。
本来、この「オープンレター」は「女性蔑視的な文化を脱するために」と題されていたことからも分かるとおり、呉座勇一個人を名指しにしてはいても、建前としては呉座への個人攻撃を意図したものではない、ということになっていた。
つまり、この「オープンレター」は「女性差別的な文化」を脱するまでは、公開されていて然るべきものだったはずなのだが、現実には、呉座勇一個人を決定的に痛めつけたことで満足したかのように、そそくさと「告発責任者」たちの氏名を「削除」してしまったのである。
無論、この「オープンレター」に、いくつもの「偽証明」が発覚したからには、本物の署名と偽物とを分別するために「一時的に、全署名をいったんは下ろし、調査確認が済んだ後に、本物の署名者名だけを再アップして、事情を説明する」というのなら、わからない話でもない。
だが、それにしても「発起人」名に「偽物」が混じっていたとは考えにくいから、「発起人名」はそのまま残しておくべきだろうし、「調査」が済めば、「本物の賛同署名者」の名前は、元どおりに公開すべきであろう。
一一ところが、そうしたことは、署名の削除後、何年経ってもなされていないし、その理由説明もない。
タイトルだけになったに等しい、署名のない「オープンレター」が、その後もずっと、虚しく放置されることになったのである。
で、こうした事情を知っていれば、「オープンレターの発起人の一人」である三木那由他が、「オープンレター」の名を出したがらない理由も明らかであろう。
「被害者ヅラ」あるいは「正義の味方ヅラ」はしたいけれど、「説明責任」を問われる側には立ちたくない。
だから、「古傷に触れる」あるいは「藪をつついて蛇を出す」ことになりかねない「オープンレター」については、仲間同士で言い合せて、「いっさい言及しない」ことにしたのだ。
しかしながら、自分の「被害者性」だけはアピールしたくて仕方のない三木那由他は、
『ここ数年、いくつかの、ここで書くのは憚られるような経験』
だなどと、自身の「被害者性」を、思わせぶりにでもアピールしないではいられなかった、ということなのである。
したがって、このことからわかるのは、三木那由他という人は、自分で自分を『夢見がち』だったとか『能天気』な人間だなどと言い、いかにも「害のない」、ただ「被害者であるしかなかった人間」であるかのように語りながら、その一方では、自身が「食い物」にしてきた、呉座勇一や笙野頼子については、一言半句語ることもなく、まるで「私には関係ありません」というすまし顔で、読者を「マニュピレート」してきた、そんな「偽善者」だということである。
だから、それが違うと思う人がいたら、三木那由他に直接、
「オープンレターはどうなったのですか? 先生は、発起人の一人なんでしょう?」
「呉座勇一さんをキャンセルするに至ったことについては、どのようにお考えですか?」
「貴方が『群像』誌で連載を始めるのと入れ替わるように、トランスジェンダリズム批判者であった笙野頼子さんが、同誌を追われていますが、そのことはご存知ですよね。では、それについて、どうお考えでしょうか? 笙野さんはキャンセルされて当然な人だったということなのでしょうか?」
などと問うてみるといい。
私なら、機会さえ与えられれば、公衆の面前で公然とご当人に質問するだろう。
かつて、島田荘司や小鷹信光や筒井康隆に問うたようにだ。
○ ○ ○
本書を読めば、以上のような問題の他に、いくつも「三木那由他の陰険さ」や、その「偽善性」を示す事実を、指摘することができる。
例えば、三木那由他の「カマトトぶり」という点はすでに指摘したが、上の例だけではなく、三木は「好きな漫画」を語った際などで、これ見よがしに、自身の「乙女」ぶりを描いている。
本書の場合だと「会話の引き出し」の回での、ゲーム『スカイリム』の登場人物プリレナについての、次のような語りだ。
(006)『 ここまでくると、ブレリナさんが、もはやこのうえなく個性的で魅力的な人物に思えてくる。風変わりな比喩を気に入って隙あらば使いたがっている、照れ屋で、実は優しい相棒。なんてお茶目で素敵なひとだろう!』(P 87)
こうした「いいひとブリッコ」は『会話を哲学する』でもあったことだが、三木那由他は自身を「夢見がちな乙女」として、演出的に描出するのが好きなのだ。

そしてそれは、自身の中に「夢見がちな乙女」の部分が現にあるから、というだけではなく、そうした自画像を示すことで、読者の好感が得られるという「計算」があってのことなのである。
その一方で、三木那由他は、自分が「偉い」ということをアピールしたくてならない人でもある。
本書の「そういうわけなので、呼ばなくて構いません」の回で、三木那由他は、自身が「先生」と呼ばれることに抵抗を覚えているので、できれば「先生とは呼ばれたくない」と、わざわざ語るのだ。
なぜ抵抗をおぼえるのかといえば、「先生と生徒」は、「共に学ぶ」という関係であって、「先生が生徒を一方的に指導する」というような、不均衡な「権力」関係は認めたくないと考えているからだと、大筋そのような説明をする。
しかしだ、だからと言って、生徒の側が「はい、そうですか」と従ってくれるわけではない。
生徒の側からしたら、先生がそう言ったからと言って、「では、対等なんだな」と三木先生の言うことを真に受けて、対等の友達を呼ぶように「おい、三木!」なんて呼んで、万が一にも三木先生のご機嫌を損じたら、それこそ損だからである。
だから普通は、何を言われようが、無難に「三木先生」と呼んでおくことにするに決まっている。
実際、生徒の成績を評価するのは「三木先生」であり、その権限まで放棄するわけではないのだから、口先の言葉を真に受けるのは、実際、危険すぎるのである。
ともあれ、そんなわけだから、いくら三木那由他が「先生と呼ばないで」と言ったところで、当たり前の学生ながら「先生」と呼び続けるだろう。
それでは、三木那由他の方は、結局どうするのかというと、「先生権限で、生徒に先生呼ばわりの禁止を強制することも出来ないので」という理由で、「先生」呼ばわりをあっさり容認してしまうのである。
「私は先生呼ばわりされたくないのだけれど、それを生徒に強制するという権力行使をすれば、それはそれで矛盾した行為になるからだ」という「タテマエ」である。
しかし、前述のとおり、三木那由他が「先生と生徒は対等だ」と考え、本気で「先生」呼ばわりされたくないと言うのであれば、「生徒の成績を評価するという先生特権」を放棄すれば良いのである。
全生徒の前で、「私は、先生と生徒は平等だとだと考えるので、先生としての特権を放棄します。つまり、私を呼び捨てにしてくれた人に不利益になるような評価はしないし、万が一にもそんなことになったら、私は責任をとって、教師の職を辞します」とでも言えば、きっと翌日から「おい、三木!」呼ばわりする生徒も出てくるだろう。
だが、三木那由他のそうした約束を信じるのは愚か者で、権力者というのは、他人の権力は否定しても、自分の権力だけは守ろうとするのが常で、それは歴史的な事実でもあるのだから、三木那由他を呼び捨てにした者は、早晩かならず「なんらかのかたちで痛い目を見る」ことになるであろう。
そんなことは絶対にしないというような人だったのなら、そもそも三木那由他は「先生」になったりはしなかったはずだからである。
こうしたことは、三木那由他と同じ「現代フェミニズム研究会」のメンバーである、藤高和輝の著書『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』のレビューでも書いたとおりで、残念ながらこの世の習いなのだ。
平たく言えば、「偉くなりたくない人は、初めから偉くはならない」し、仮に偉くなってしまったとしても「私は偉くありません」とか「偉いのは嫌だ(先生呼ばわりは嫌だ)」などとアピールする前に、「イヤダカライヤダ」と、さっさと、その立場や権限を捨てているはずなのである。
つまり、それをしないというのは、やっぱり、自分の「権力的な立場」に恋々として執着しているという、なによりの証拠なのだ。
実際、三木那由他は「権威主義者」の威張り屋である。
それは、この連載でも、ことあるごとに「私は哲学者だから」という類いの、「哲学者」アピールを繰り返すことに明らかだ。
(007)『 哲学者として、差別発言について語ろうとするとき、私が語れるのは以上のようなことになるだろう。』(P75)
(008)『 「楽しむ読者」モードのときには、こうしたことを私は楽しんでいる。だが、一応は哲学者を名乗る身だ。試しに「理論的に考える哲学者」モードに切り替えてみよう。』(P108)
言うまでもないことだが、誰もが認める「哲学者」であれば、自分のことを「私は哲学者だから」などと、わざわざ断わらないし、その必要もない。
実際、そんな間抜けなことなど書いたりはしない。
だが、本書の読者の多くは、本書を読むまでは、三木那由他などという変わった名前の人物が、何者だかを知らなかったはずだからこそ、三木那由他は自分で「私は哲学者です」とアピールしているのである。
有名な「哲学者」の本を読んだことがある人なら、その哲学者が自著の中で「私は哲学者なのでこのように考える」だなどという「間抜け」なことなど決して書かない、ということを知っているだろう。
なぜなら「哲学者」とは、本来「哲学する人」のことなのだから、「徹底的に根本的に考えるのは、当然であり習性みたいなもの」なのだ。だから、自動的にそうするのであって、「肩書き」が哲学者だから、肩書きが嘘でないことを証明しようとでもするかのように、「わざわざ深く考えてみる」という「殊更なポーズ」を採る必要もないのである。
『会話を哲学する』のレビューでも触れたことだが、そもそも三木那由他は、一介の「言語哲学の研究家」でしかなく、それを便宜的に「哲学者」と呼んでいるに過ぎない。
つまり、「言語哲学の研究者」の中には、正真正銘の「哲学者」=自分の頭を使って考える人もいれば、先行の学者についての研究成果を「並べ直して」それを自分の成果であるかのように語る、二流三流の「単なる研究者」も、山ほどいる。
平たく言えば「言語哲学の研究者」にも、当然のことながら、ピンからキリまでいるのである。
しかしまた、「本物の哲学者」「偽物の哲学者」の間に明確な「線引き」はできないから、便宜的に、「哲学研究者」をぜんぶ引っくるめて「哲学者」と呼んでいるだけ。
この場合の「哲学者」という呼称は、「哲学で食ってる人」という意味であって、「哲学できる人」だという保証ではないのである。
つまり、三木那由他が自称しているような「哲学者」とは、所詮「見栄を張った哲学研究者の自称」でしかないわけなのだ。
三木那由他の、こうした「自分は一流の哲学者」アピールの、特に厚かましいところは、「同業先達の仕事に対する、ことさらな低評価」だ。
このことについては、三木那由他が研究対象にしてきたポール・グライスの扱いについて、『会話を哲学する』のレビューの方で、次のように指摘しておいた。
『だが、ここで注意しなければならないのは、この極めて単純な「バケツリレー式」が、ポール・グライスのコミュニケーション観のすべてだとは、ひと言も言っていないという点で、ただ、読者がそのような印象を受けてしまうような書き方がなされているだけなのだ。
だがまた、そのことによって、三木那由他は、海外の有名学者や哲学者よりも、深い「コミュニケーション理論」を構築している「かのような印象」を、読者に植えつけようとしている。
もちろん、これも意図的な「誤導(マニュピレーション)」だと考えていいだろう。』
これと同じことを本書でも、次のように語っている。
(A)『 これは単に想像に過ぎないのだが、従来の(※ 言語)哲学者たちはどうも「コミュニケーション」として、学術的なディスカッションや、裁判でのやり取りのような、極端に理性的なものを典型例と見なしていたのではないかと感じる。』(P110)
(B)『 私自身の考えがどれだけ正しいかわからない。それでも、こういう例が扱えないコミュニケーション論が描くコミュニケーションは、なんともあっさりとして面白みに欠けるというくらいは言って良いのではないか。』(P112〜113)
(A)については「そんなわけないだろ」と私などでも思うし、そもそも先達を、勝手な「想像」だけでそんなふうに語れる神経とは、驚嘆に値するものではないだろうか。
しかも(B)に至っては、「想像」や「感じ」でしかなかったものが、すでに(そう思う)何らかの根拠を持つ事実であるかのように語られているのである。
だが、それだけでは済まない。
本書では、さらに著名な先達を、いとも簡単に撫で切りにしてしまうのだ。
(009)『 さて、先ほど挙げた「言語行為」というアイデアに戻ろう。以前にも手短に説明したが、一九世紀末から一九二〇年代ごろにかけてゴットロープ・フレーゲ(Gottlob Frege)、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)、ルートウィヒ・ウイトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)といった哲学者が作り上げてきた言語観においては、言葉は世界を写し取る像のように考えられていた。この言語観では、さまざまな文が世界を正しく写し取っているか否か、あるいはそもそも世界を写し取るのに適した本物の文になっているか否かに焦点が当てられることになる。第二次大戦後のオクスフォードで活躍した哲学者ジョン・L・オースティンは、そうした言語観を狭隘なものだと見なし、世界を写し取る、つまり描写するというのは言語を使っておこなえる行為の一種にすぎず、それ以外にも私たちは賭け事をする、推測をする、主張をする、不平を言うなどたくさんの行為を言語によっておこなっていると論じた。言語を用いておこなう行為は「言語行為」と呼ばれ、従来の言語哲学では見過ごされていたさまざまな現象が、言語行為という観点から反省されるようになった。
一般に、言語行為にはそれをおこなうために充足しなければならない条件があるとされる。オースティンはそれを「適切性条件」と呼んでいたが、オースティンを引き継いで言語行為論を発展させたジョン・R・サール(John R. Searle)はさらに分析を進め、著作『言語行為』(坂本百大・土屋俊訳、動草書房、一九八六年)でそれをいくつかの規則へと切り分けた。』(P43〜44)
この説明を読んで「フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインって、意外と頭が悪かったんだな」と思った人も少なくないはずだ。しかし、それはそのように書かれているからである。
確かに、このように説明されると、この3人の本を読んだことのない人は、「昔の人だから、その程度のことしか考えていなかったのかな」と思わされてしまいがちであろう。
だが、今でもウィトゲンシュタインの研究家は世界中に大勢いるし、その人たちは、ウィトゲンシュタインの哲学を「単純」かつ「古くさい過去の遺物」だなどとは考えていない。
そこに、いまだ汲めども尽きぬ「天才の発想の豊かさ」を認めるからこそ、今になってもウィトゲンシュタインの研究をしているのである。
そしてこれは、フレーゲやラッセルについても同じことなのだ。
で、そんなフレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインの「言語哲学」を、『言葉は世界を写し取る像のように考えられていた。』と、そんなふうにまとめて済むものなのであろうか?
いくら100年前の人だと言っても、そんな単純なことしか考えなかっただろうか?
あるいは、自分自身が、そんなに単純なものではない言葉を使っていることに、自分で気づかなかったほど愚かだったとでも言うのだろうか?
一一無論そうではない。
彼らがいずれも「数学者」でもあったという事実からも分かるとおり、彼らは物事の根源的な「数式」を見出そうとしていたのだ。基本的に、そうした方向性で物事を考えたのである。
言い換えれば、「複雑なものを複雑なまま」に考えるのではなく、その奥に隠された「シンプルな法則性」を見つけようとしたのである。
その場合、まず考えるのは「言語の基本的な働きとは何か」ということであって、「あれもあるし、これもある」ということではない。
まずは、言語の基本的な機能を「言葉は世界を写し取る像」だと考えるところから始めれば、一見複雑に見える言語の、基本構造を明らかにすることができるのではないかと、そう考えて、「そこから始めた」ということなのである。
「表面的な複雑さ」にとらわれることなく、そうした様々な要因はいったん捨象して、言語の基本構造を探ろうとしたのだと、そう考えるのが当たり前。
なにしろ、彼らだって「日常会話」をしていたのである。
ところが、三木那由他の手にかかると、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインには、「言語の複雑さ」がまるで見えていなかった、単なる「頭の固い人」ででもあるかのようにされてしまう。
それを、後のオースティンやサールが「言語はそんな単純なものではない」と「気づいて」、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインを乗り越えていった、という図式になるわけなのだが、一一これはあまりにも幼稚な「昔のものは、新しいものに劣っている」という「進歩史観」的発想であろう。
そうではなく、普通に考えるなら、オースティンが、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインのような、いかにも「数学者」的な還元主義方法を採らなかったのは、そうした方向性に限界があると見て、「複雑なものは複雑なままに」という方向性に切り替えた、ということであろう。
つまり、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインとオースティンとの違いとは、前者が言語の本質をわかっていなかったが、後者がわかっていた、というような単純な話ではなく、前者の方法論の行き詰まりを確認し得た後者が、新たな方法論を模索した、というだけの話であろう。
つまり、単純に後者の方法論が正しいというようなことではないのだ。
言うまでもなく、いまだ極め尽くされていない「言語」の謎への探究では、将来「やっぱり、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインたちが模索した方向性は、間違っていなかったんだ」と言うことになるかもしれないのである。
だから、ここでの問題は、どうして三木那由他は、このように単純な「進歩」史観を持って、「複雑なものを複雑なままに」という方法論の優位性を、お得意のレトリックを駆使して、読者を「マニュピレート」したのかという点なのだが、それは無論、ポール・グライスの「単純さ」よりも、自分の「複雑さそのままに」主義の方が「優れている」に決まっている、という印書を読者に与えるためである。
昔の人は単純に「わかっていなかった」「現実が見えていなかった」ということにして、「それに比べて、現代の私は、その最先端に位置して、彼らより現実が見えている」ということを「暗に印象づけよう」としたのである。
言うまでもないことだが、物理学や数学というのは、物事の根源に潜む「美しい法則性」を見つけたいという「無償の美学」を持っている。
それが「現実に役に立つ」とか「金儲けの道具になる」といったことではなく、「美しい法則性を発見したい」という純粋な知的欲求だけで、その夢に向かっていくというような、子供っぽいまでの純粋志向があるのだ。
ところが、現代の「新自由主義経済社会」に生きている三木那由他などの場合は、そうではない。
「言語」というものの探究にあたっても、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタイン的な「いきなり最深奥の真理を求める」というような学者的なやり方ではなく、ひとまず「現実に即して、役に立つかたちでの理解」を目指すのだ。
今の実用科学がそうであるように「なぜそうなるのか」がわからなくても、ひとまず「実際にそうなる」というのが分かれば、それで「役に立つ」という「実利的発想」で、言語を研究しているのである。
まただからこそ、三木那由他の研究は「通俗書」向きに実用的なのだ。「商品」になりやすい、お手軽な言語学なのである。
そしてこれは、三木那由他が、自ら「哲学者」をアピールしたがることの理由でもある。
哲学を研究するだけなら「誰にでも(素人にでも)できる」のだから、「哲学研究者」という肩書きでは、あまり有り難みがない。
やはり、「哲学者」そのものでなければ「箔がつかない」し、自分の「商品価値」も安く見積もられてしまう一一と、三木那由他の発想とは、そういうものなのである。
だからこそ、三木那由他は、自身を「平等主義者」であるかのように語りながらも、実際には、決してその「社会的地位」や「特権」を捨てたりはしない。
捨てないどころか、それに執着する「権威主義者」なのである。
それがよく分かるのは、自称「哲学者」の濫発と同時に、出典記載が無駄に詳しいところである。
「巻末」ではなく、本文中でそれをやって、わざわざ「煩瑣」にしているのだ。
これも言うまでもないことなのだが、この連載「言葉の展望台」を掲載している『群像』は、「哲学誌」でもなければ「言語学誌」でもない。単なる「文学文芸誌」である。
そこに、編集者から『エッセイと評論のあいだくらい』(P150)のものを書いて欲しいと言われて書いているのが、この連載なのだから、この連載エッセイは「研究論文でもなんでもない」のである。
したがって、出典明記は簡単なものでいいし、巻末に載せておけば十分である。
ところが、三木那由他の場合は、次のような調子なのだ。
(010)『 こうしたドネランの議論を受けて、のちにソール・クリプキ(Saul Kripke)という別の哲学者は、確定記述の指示的用法というのは、要するに、確定記述の言葉としての意味を額面通りに受け取ったなら指し示せないはずの対象であっても、話し手がその対象を指し示そうという意図とともにその確定記述を使ったなら指示できる、ということなのではないかと論じた(この議論が展開されたクリプキの論文「話し手の指示と意味論的指示」("Speaker's Reference and Semantic Reference”)は一九七七年にMickest Studies in Philosophy 誌に掲載され、一九九五年には『現代思想』(青土社)の四月号に黒川英徳による翻訳が収録されている)。』(P64)
問題は、この( )内の部分である。
そもそもこの連載において『クリプキの論文「話し手の指示と意味論的指示」』の原題である『"Speaker's Reference and Semantic Reference”』を、ここで示す必要があるだろうか?
しかも、日本での初訳だというのならまだしも、すでに『黒川英徳による翻訳が』なされているものなのである。
また、クリプキのような著名な学者の名前に『(Saul Kripke)』などと付す必要が、どこにあるのだろう。これは先の、
『ゴットロープ・フレーゲ(Gottlob Frege)、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)、ルートウィヒ・ウイトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)といった哲学者』
といった部分でも、同じことである。
こんな著名な哲学者の、すでに一般化された日本語表記に対して、どうして英字表記を付け足す必要があるのか?
一一その理由は、誰もが気づくように「その方が、学術論文的で箔がつく」とか「学者が書いた論文らしく見える」からである。
つまり、所詮は『エッセイと評論のあいだくらい』のものをという編集者の注文に応じて書いている、「ちょっと学術風味をまぶした知的読み物」でしかないものに、三木那由他は「これでもか」というくらいに「学者風を吹かしている」ということなのだ。
『 学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。
若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人がよむとわかりにくいものにしてしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるためもあるらしい。』(P217・全)
というものもあれば、
『 ラジオなどで聞くえらい官吏などの講演の口調は一般に妙に親しみのないしかつめらしい切り口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛び込んで来るようなものが少ない。
ある会議の席上である長官がある報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを想い出した。
長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句はわかってもその内容は実はあんまり身にしみていないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生まれるのではないかという気がした。
これに反して、文士でも芸術家ないし芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底のほうに何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
空腹はなかなか隠せないものらしい。』(P243〜244・「講演の口調」全)
というものもあったが、さすがは「則天去私」の夏目漱石の、弟子だっただけはある人で、「見苦しい見栄」の愚かさを、よくよく承知していたということなのであろう。
無論こうしたことは、三木那由他に限らず、北村紗衣周辺の自称「フェミニスト」にはよくある「ひけらかし趣味(衒学趣味)」でしかなく、「先生と呼ばれたくない(特別扱いされたくない)」どころか、その本音は「特別に偉い先生扱いにされたい」というものであり、そうした願望が、端なくも露呈した部分なのである。
三木那由他の「偽善者ぶり」「カマトトぶり(知っているのに知らんぷり)」は、次のような言葉にも、よく現れている。
(011)『 私自身の体験する苦しみはこういったものだった。でも、こうしたことをどうやって語ればいいのかと考え込んでしまう。哲学説や哲学的概念を駆使した哲学者としての語りは、きっと多くのひとに届くだろう。少なくともそれは「冷静」な言葉だと受け止められるだろう。だが私自身の苦しみを語ろうとすると、それはきっと「感情的」で、理解しがたいものとなる。けれどもそれこそが私にとってはより「リアル」なのだ。
このところずっと、哲学と私のあいだで語る言葉を、それを語るための話法を探しているような気がする。子どものころの私のように絶望した子どもたちや、そうした絶望した子どもを胸のうちに抱えた大人たちのことを思い浮かべながら。』(P80)
三木那由他の体験した「トランスジェンダー」としての苦しみを語る場合、どのように語れば、より多くの人に届くだろうか?
その答を、三木那由他自身は、すでに出している。
すなわち、その答とは「お涙頂戴的に誇張された物語」として語ること、これである。
それを、現に実行したのが、他ならぬ本書であり、その成果が「紀伊國屋じんぶん大賞・第2位」という結果なのだ。
つまり、三木那由他自身は、すでに「どうやれば、最も効果的か」ということを知ってもいれば、それをすでに実行しているにもかかわらず、まだ答が出ていないかのようなふりをして、もったいをつけている。
一一これが、私が言うところの「三木那由他のカマトトぶり」なのである。
だが、「もったいをつける」に止まらず、三木那由他は「心にもない大ウソ」をついてみせる。それが、
『哲学説や哲学的概念を駆使した哲学者としての語りは、きっと多くのひとに届くだろう。少なくともそれは「冷静」な言葉だと受け止められるだろう。』
という部分だ。
そんな語り方をすれば、多くの人が「ついてこれない」という事実を百も承知で、こういう「綺麗事の建前」を口にするのが、三木那由他という人の「素顔」なのだ。
「私は、語ろうと思えば、そういう哲学者的に厳密な語りもできるのですよ。けれども、そういう語り方をした場合、皆さんは私の心の痛みを感じ取ってはくれないでしょう。だから私は、そういう語り方をしないし、ではどういう語り方をしたら良いのかと、同じような悩める人たちのために、日々悩んでいるんですよ」
という、「やろうと思えばやれるけど、あなた方にはついて来れないから、やらないでいるだけ」だと、要は「出来もしないことを自慢している」のである。
しかも恩着せがましく、「弱者の味方」アピールをしながらだ。
ともあれ、三木那由他の「マニュピレーション」とは、このような「欺瞞的レトリック」にことに他ならないのである。
だが、実際のところ、三木那由他の「哲学者としての力量」というのは、さほどのものではない。
それは、次の議論にも明らかなことだ。
(012)『 私の感覚からすれば、例えば映画の紹介(※ 文)で「LGBTの主人公」と言われる書かれる)と、結局それ(※ その主人公)はLなのかGなのかBなのかTなのかがわからず、情報が少ないように感じる。「レズビアン」などの具体的な言葉を使えばそれだけで(※ 読者の情報)処理労力を特に(※ 無駄に)増やすことなく情報(※ 伝達効率)が増えるのに、それをしていないわけで、そのままでは(※ 本来伝えるべき情報とは)関連性の低い発話となる。しかし関連性を最大化しようと「なぜわざわざ情報を減らすの(※ だろう)か」などと(※ 勘繰って)探ってみてもよくわからず、単に曖味な発言というので(※ 結論で)終わってしまう。要するに関連性を最大化しやすいように選ばれた発言ではない(※ 非効率な言葉でしかない)ということなのであって、これは関連性理論的には普通ならばしない発言なのだ(※ なぜなら、関連性理論的には、わざわざ非効率な発話はなされない、ということになっているからである〈と、三木那由他は説明している〉)。
「普通ならばしない」? これには留保がつく。「相手がそのような(※ 非効率な)情報を(※ わざわざ)求めていると想定されている場合には(※ そういうこともあり得る)」、と。逆に言えば、一部メディアでのこうした言葉遣いは、さまざまな性的マイノリティのカテゴリーのあいだの違いに無頓着なひとに向けられていると考えなければ、理解し難いものとなっているのだ(※ と三木那由他は、示唆する)。読者(※ 情報の受け手)がレズビアンもゲイもバイセクシュアルもトランスジェンダーも「だいたい同じような人々」のように思っている(※ 意識の低い人たちだ)と想定されているなら、「LGBT」ではなく「レズビアン」などの言葉を使うと、必要以上に具体的で、「なぜわざわざこんなに具体的な話をするのか」と読者(※ 意識の低い人たち)をまごつかせ、余計な処理労力をかけさせる発言になってしまう、という(※ 情報発信者側の)判断も関連性理論に照らして不自然なものではなくなる。
ここでもまた、問題は発言の背後にある(※ 発信者と受信者の)コミュニティ(※ の性格の問題)なのだ。もしもいま述べたような(※ 性的マイノリティについての意識が低いという)事情が「LGBT」という(※ 抽象的な)言葉をこうした文脈で好ませる理由であるなら、そのとき、その発言はきっと関連する性的マイノリティの当事者や、アライに向けられたものではない。そうした人々(※ 性的マイノリティの当事者やアライ)はきっと、もっと具体的な情報を欲しているだろうから(※ だ)。だからその言葉(※ 不自然に非効率的な言葉と)は、もっぱらそれ(※ 性的マイノリティの当事者やアライ)以外の人々に向けられて(※ 発せられて)いる。つまりは非当事者のコミュニティを想定した発言なのだ。だとすると、当事者やアライは自分たちが関係する話題であるにもかかわらず、この情報のやりとりがなされるコミュニティから脇に置かれ、蚊帳の外に追いやられていることになる。
コミュニケーションはコミュニティを背景になされる。だからちょっとした発言に、発言者がどのようなコミュニティに属し、どのようなコミュニティに属していないのか、あるいは発言者と同じコミュニティに属して、いまコミュニケーションが試みられている受け手とは具体的には何者であり、誰がそこから追い出されているのか、ということがときに透けて見える。こうした目線で見てみると、本も新聞もSNSも日々の会話も、単なる言葉と言葉の応酬ではなく、一種の勢力図のように見えてくる。私の言葉からは何が滲み出ているだろうか? あなたの言葉からは?』(P41〜42)
三木那由他が、ここで何を言っているのかというと、要は、『一部メディア』から、こうした不思議に曖昧な言葉遣いが発せられるのは、要は、その言葉の発し手(一部メディア)とその受け手の間で「LGBTQについては、このくらいの大雑把な表現で良いだろう」という「暗黙の了解」が存在しているからで、話題の当事者であるLGBTQやその支援者であるアライの存在は、そうしたコミュニティからは、あらかじめ排除されている。だからこそ、そこで交わされる言葉には、当事者への配慮が存在しないのだ、ということなのだ。
つまりこれは、「私たちは、こうしたところでも差別されている」という、持って回った「批判」なのである。
だが、こうした『一部メディア』の「不思議に曖昧は表現」とは、三木那由他がいうような、
『読者がレズビアンもゲイもバイセクシュアルもトランスジェンダーも「だいたい同じような人々」のように思っていると想定されているなら、「LGBT」ではなく「レズビアン」などの言葉を使うと、必要以上に具体的で、「なぜわざわざこんなに具体的な話をするのか」と読者をまごつかせ、余計な処理労力をかけさせる発言になってしまう、という判断』
によるもの、なのであろうか?
つまり、LGBTQやその支援者であるアライを『蚊帳の外』に追いやった、「差別的な世間の側の、身内での自己完結的な言葉遣い」ということになると、そう断じることができるのであろうか?
確かに「この程度の説明」でも「なるほど、そうなのかもしれない。それ以外は考えられない」などと説得されてしまう人も多いのだろうし、そうした読者が、本書に「紀伊國屋じんぶん大賞・第2位」を与えたりもしたのだろう。
だが、長い間「ミステリ読者」をやっていた私なら、この程度の「叙述トリック」に引っかかったりはしない。
つまり、三木那由他は「この解釈しかない」かのように、まことしやかに語っているけれども、「他の解釈は、いくらでも可能だ」ということである。
例えば、『一部メディア』は、
(1)流行の新語を、無闇に使いたがる。
(2)マイノリティに関して、個別具体的な言葉で表現すると、それが間違っていた場合に、厳しい批判に晒される恐れがあるから、故意に「ぼんやりとした包括的表現」で、無難に誤魔化しておく。
というような場合だ。
(1)のようなことはよくあるし、「バッカじゃないか」で済むかもしれないが、(2)の場合は、そうはいかない。
(2)は、三木那由他が言うような、単純に「LGBTQ当事者やアライを、蚊帳の外にした表現」などではなく、その真逆に、「LGBTQ当事者やアライをの存在を、過剰に意識し恐れたが故の、責任回避表現」だということになるのだが、これも十分ありえることではないだろうか?
では、なぜ三木那由他は「この程度の可能性」を考慮できないのかといえば、この「可能性」を認めることは、「LGBTQ当事者やアライ」が「一方的に阻害される被害者」などではなく、時に「他者を萎縮させる加害者」であるという可能性を認めることになるから、である。
現実には、「オープンレター」や「山内雁琳訴訟」などによって、「あのへんのフェミニストには手を出すな」と言われるほどの「キャンセル・カルチャー」を遂行しておきながら、自分たちはいつでも「可哀想な被害者」「無垢な被害者」でいた方が「得」だと打算して、自分たちが「加害者である可能性」は、絶対に認めない。その可能性に言及することさえも避けるのである。
一一その結果が、「それしか考えられない」と言わんばかりの、三木那由他の「叙述トリックとしての誘導レトリック」であり、要は「マニュピレーション」なのである。
平たく言えば、三木那由他はこのように「政治的な発言をする偽善者」であり「自覚的な嘘つき」だということなのだ。
三木那由他が、『一部メディア』の「曖昧な表現」の理由として「LGBTQ当事者とアライを蚊帳の外に置いている」からとしか語らない理由は、次の二つしかない。
ひとつは、前述のとおり「三木那由他は自覚的な嘘つき」である、という可能性。
そして、もう一つの可能性は、自称「哲学者」のわりには「頭が悪く、他の可能性が想定できなかった」、ということになるのである。
私は、三木那由他をそこまで「馬鹿」だとは思っていないので、正解は「前者」であろうと、好意的に結論する。
実際、三木那由他は「勝手ツンボ」であり「勝手オシ」である。つまり「ニセ聾唖者」である。
その端的な実例として、すでに「オープンレター」そのものについての「説明責任」や、「オープンレター」における「署名全削除」についての「説明責任」の回避沈黙という、言論人として恥ずべき「無責任」さを指摘しておいたが、三木那由他は、本書でそんな自分を、次のように正当化している。
(013)『 コミュニケーションとはある種の約束を生み出すことである。そして約束は一方の力によって、不均衡な仕方で、他方には望まぬ仕方で結ばれることもある。だとすれば、コミュニケーションにおいても、ひとはときに別のひとの力に屈し、自分が意味するつもりのなかったことを意味したことになり、それによって生まれた約束に縛りつけられることもあり得る、ということになる。(※ 温又柔の小説『魯肉飯のさえずり』に登場する女性である)桃嘉はまさにそれを経験していた。そして桃嘉以外にも、何人もの人々が、いま、これまで、この現実の社会でそれを経験しているだろう。文脈を接ぎ木して、ノーラの「何万、何十万という女はそうしてきた」(同書一六九頁)という言葉を引くべきだろうか? 哲学者スタンリー・カヴェル (Stanley Cavell)はノーラとトルヴァルについて言う。「『小鳥は澄んだ声で歌わなくてはならない』ー八年の結婚生活をとおし彼はこんな言葉で、彼女の声を支配し、声が発するものを命じ、声がそれをどう発するかを決定づけようとしてきた」(『道徳的完成主義』、中川雄一訳、春秋社、二〇一九年、四六-四七真)。女が、外国籍の者が、非異性愛者が、トランスジェンダーが、そうでない者たちの一部から「不合理なことを言っている」と責め立てられるとき、こうした意味の占有が背後にありはしないだろうか。当人が意味するつもりのなかったことを意味したことにされ、それによって生じた約束に従えば不利益を被り、従わなければ「不合理」という烙印を押されるという状況が。
だが、そうしたコミュニケーション的暴力に直面したとき、私たちはどうすればいいのだろうか? 自らがそれに巻き込まれたと気づいたなら、きっと私たちにできることは、会話を打ち切って、立ち去ることだけだろう。桃嘉が、ノーラが、そうしたように。意味が他者によって占有されるとき、対等な会話は成り立たない。意味を奪われた者にできるのは、会話をやめることだけだ。では、意味を奪われた者が立ち去ったあとに取り残された者は? 取り残された者が会話を望んでいるとしたら? 私たちが再び(あるいは初めて)会話を始めることはできるのだろうか? 「二人とも生れ変わって一一」と、ノーラは言う。「あたしたちの共同生活が、真の結婚生活になるようなことになれば」、と(『人形の家』一七三頁)。この生まれ変わりには、少なくとも、自分が相手の意味することを知っている、自分たちがどんな約束をつくりあげているか知っているという前提を捨てることが必要だろう。会話において対等であるというのは、ふたりが共同でつくる約束事が、自分の思い通りにいかない可能性を認めるということだ。それゆえ逆説的にも、自分には理解できない何かを相手は意味しているかもしれないという可能性を認めることでしか、コミュニケーションは、少なくとも対等なそれは、始まらないのだろう。』(P21〜22)
この文章は「プロローグ コミュニケーション暴力としての意味の占有」の中の、「会話を打ち切ること、そして」という見出しのついた「終盤部分」である。
ここで、三木那由他が言っていることも、少しも難しい話ではない。
要は、他者との言葉のやり取りにおいて、自分の発した言葉が、その力関係の不均衡により、「劣位」にある者の言葉が、優位にある相手のよって一方的に「意味付けされてしまう」というような、不公平な状況を指しているのだ。
三木那由他は、このことをして、優位者による「コミュニケーション的暴力としての、意味の占有」と呼んでいるのである。
そして、ここで注目すべきは、こうした「力関係」というのは、何も、いつでも必ず「弱者が女性で、強者が男性」だとは限らないにもかかわらず、そうした「イメージ」を植えるつけようとするかのような事例ばかりが挙げられ、いかにも「党派理論家たるフェミニスト」らしい「欺瞞的なレトリック」が駆使されている、という事実である。
本来、この「コミュニケーション的暴力」という事実を、客観的に語ろうとするならば、「AとBがいて、AがBの雇用者だった場合」といったように、個人の特性は抽象化して、その「力関係」だけに還元した上で、話を進めるべきであろう。
ところが「女性の味方であるフェミニスト」であり、かつ自分自身が「弱者としてのトランスジェンダー」である三木那由他は、「コミュニケーション的暴力」の被害者は、常に「性的弱者」や「性的少数者」であって、言い換えれば、加害者はいつでも「性的強者」としての男性であったり、「性的多数者」としての異性愛者である「かのような」印象を、読者に植え付けるような「物語」を紹介する。
しかし、現実には「女性上司に叱責されて、反論も許されない男性の部下」などといった場合もいくらでもあるし、これからはますますそうしたパターンが増えてもいこう。
なのに、なぜ、こんな「古いパターン」の譬え話ばかりを、恣意的に持ち出すのかと言えば、それは三木那由他自身が「女性の側の利益や権利のために働くフェミニスト」だからであって、「中立者」などではないから、に他ならない。
弁護士が常に「自分が弁護する人物の利益を最優先として、中立客観的ではない」ように、三木那由他は、女性やトランスジェンダーに「不利益になる証拠」は、意識的に「隠す」し「言及しない」ということなのである。
だが、「弁護士」ならそれが、分担的職務なのだからそれで良いのだが、「学者」や「言論人」が、そうであって良いのだろうか?
無論、私は「良くない」と思うのだが、三木那由他の場合は「自分たちは常に弱者であるから、説明責任を果たさないことも、嘘をつくことの許される」と、このエッセイで、暗に語っているのだ。
「私たちの真意は、相手のコミュニケーション的暴力によって捻じ曲げられており、その線での説明責任を求められているのだから、その手に乗る義理はない」という、一方的な理屈である。
だが、当たり前に考えて、三木那由他の「真意」が、私の指摘したところなのか、それとも三木那由他の「自己申告」なのかは、誰にもわからない。
心の中のことは、他人にはわからないからだ。
この場合、三木那由他が「私の真意は捻じ曲げられている。だから、それについての説明責任など無い」と本気で思っているのか、「痛いところを突れてしまい、言い訳のしようもないから、ここは無難にスルーした方が得策だ」と考えているだけなのか、それは第三者としての「他人」には判断のしようはないのである。
だが、だからこそ、多少は「不利な立場」に立たされているとしても、発言が許されているのであれば、堂々と抗弁し、反論すべきなのではないだろうか。
三木那由他のここでの言い草が許されるのであれば、どんな犯罪者だって汚職政治家だって、「私は世間から、不当なバッシングを受けている」などと「被害者ぶって」さえおけば、「説明責任」を果たさないで済ませることもできることになるわけだが、三木那由他は、それで良いというのだろうか?
(014)『このところ、謝罪が気になっている。誠実な謝罪とはどういうものなのか? 不誠実な謝罪はどうして不誠実なのか? そしてそもそもどうして謝罪をする必要があるのか?』(P126)
(015)『私はこの(※ 人気漫画『僕のヒーローアカデミア』における、ある謝罪シーンの)謝罪を(※ なぜ)誠実(※ なものだ)だと感じ(※ て感動し)たのだろう? 何が(※ その感動の)鍵だったのだろう?」と(※ 考えた)。また逆に、「不誠実な謝罪には何が足りないのだろう?」とも。
考えてみると、謝罪というのはかなり難しい行為だ。こちらが誰かに間違ったことをしてしまったとき、もちろん私は謝りたいと思うだろう。しかし、本当に心の底から反省しているとして、いったいどうやったらその気持ちが伝わる謝罪になるのだろうか? また、自分が謝罪を受ける側だとして、いったいどうしたら相手が心から謝罪していると言じることができるのだろうか? 謝罪の言葉なんて所詮は言葉なのであって、話し手はその背後で抱いている気持ちを本当に文字通り見せているわけではないし、また聞き手はただその言葉を聞いているだけで、話し手の本当の気持ちなど確認できない。言葉だけに頼らず、口調や表情を伴うようにしたなら本当の気持ちが伝わるのだろうか? でも、非常に演技が上手なひとであれば、心の底からの悔恨の表情に見えるものを浮かべながら、心にもない謝罪をすることだってできるだろう。
ここには何か、一種の他者の心の懐疑論のようなものがある。私はほかの人間が心を持っているということを確かめるすべを持っていない。どれだけほかのひとが「自分はこんなことを考えている」と言ったり、いかにも心を持っている存在らしい行動をしたりしたところで、私が観察できるのはそのひとの振る舞いと言葉だけなのであって、そのひとがよくできたロボットのように特に心らしい心を持つことなくそうした振る舞いをし、言葉を発しているという可能性を否定することはできない。結局のところ、私が本当にあると確かめられる心というのは、私自身の心だけで、他人の心については存在すると確信することはできないのではないか。これは、哲学のなかでもかなり大きなジャンルとなっている問題だ。
観察できる振る舞いや言葉からは、その背後にある心を見て取ることはできない。だとすれば当然、謝罪をするときの振る舞いや言葉からも、その背後にある本心を見て取ることはできない。』(P129〜130)
もったいをつけて「哲学者」ぶっているが、他人の心は認知できない(認知しようがない)というのは、分かりきった話である。
そもそも、自分の気持ちだって、偽る場合があるのだから、「今、私はこう考えている」という時の「こう」という自認だって当てにはならないのである。ましてや「他人の心」をや、ということだ。
しかし、これはあくまでも学的に厳密に考えた場合の話であって、人は、その日常生活においては、ここまで厳密に考えて、判断・行動するわけではない。
「この歩道を歩いていても、車が飛び込んでくることはないだろう」などと考えながら歩道を歩くわけではないのと同じことで、「たぶんこの人は、私に悪意を持っていないだろう」あるいは「悪意を持ってるはずだ」などという「推察」において、自身の対他的な行動を決定していくのである。
例えば、三木那由他や北村紗衣らが、呉座勇一を名指しにした「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を公開したことで、期待どおり、呉座が謝罪してきても、三木や北村は「自分の立場が危うくなったんで、慌てて謝罪してきたんだな。本当は反省なんかしていないけど、打算的に、形式的な謝罪をしてきたに決まってる」と、そんなふうに「妥当に推察」したからこそ、「本気の反省は無理にしても、せめて屈辱を味わわせてやれ」と、二度にわたって「公開謝罪」を強いたりしたのではないのか。
そもそも、相手の謝罪が、本物か偽物かの判断が不能だと考えているのであれば、謝罪は「その形式」において認めるか、「謝罪という形式」自体を認めないか、しかないのである。
しかし、そうであるにもかかわらず、謝罪を求めたのであれば、それはもう「形式としての謝罪」を認めるという前提に立っての謝罪要求であったはずなのだから、謝罪をした呉座から「職を奪う」まで責め続けたというのは、どう考えても理路に一貫性のない、所詮は「過剰報復」でしかないだろう。
だがまあ、それは、世間一般にもありがちな「誠意要求」という誤り(無茶振り)だから仕方がないとしても、問題なのは、三木那由他が、
『こちらが誰かに間違ったことをしてしまったとき、もちろん私は謝りたいと思うだろう。』
と書いている点だ。
つまり、三木那由他はここで、自分は「悪いことをしたと思ったら、正直に謝罪できる人間である」と自己申告しているわけなのだが、実際にはどうであったか?
三木那由他は、アビゲイル・シュライアーの著書『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る悲劇』(産経新聞出版)について、KADOKAWAから出版予告がなされた際、同書を「ヘイト本」だと決めつけて、その出版を差し止めようとして署名活動などに参加した、リベラル知識人の一人であった。
ある本を、どう評価するかは人それぞれだから、シュライアー本を「ヘイト本」だの評価する立場もありだし、そう考えるのなら、反対運動をする自由もあるだろう。
それが、言論・出版の自由への侵害行為に当たるか否かも解釈次第だから、それを確信犯的に実行する人がいても、何の不思議もない。
しかしながら、三木那由他の場合に「問題」だったのは、同書を読まないで、評判(噂)や「レビュー(間接情報)」などを読んだだけで、同書を「ヘイト本」だと決めつけて、同書の刊行反対運動を加担したことであり、さらには、「読まずに決めつけた」という点を批判された際に、「読まないでもわかる」などという、子供のような開き直りの反論をした挙句、そのツイートを削除して、謝罪もしないまま沈黙してしまい、説明責任を果たさなかった、という事実である。
『 三木那由他
@NayutaMiki@fedibird.com
シュライアー本は、もちろんヘイト扇動の本と言えるだろうけど、根本的にはトンデモ医療本であり、トンデモ医療を通じてトランスの生を困難にする構図になっているあたりが、あんまり広く共有されていない気がする。(私もばかばかしくて、反ワクチン本をわざわざ読まないというのと同じ理由でちゃんと読んではいないのだけれど、レビュー等は読んでいる)(※ 以下略)』

これを、与那覇潤は、次のように嘲笑して批判してみせた。
『三木氏は言語哲学が専門にもかかわらず、「本を読まずにレビューを見て批判します」との態度を表明して炎上し、直後に(※ Twitter)アカウントごと消すふるまいを示して、笑いものになったようだ。』
仮にも、著述家の端くれであり、学者の端くれであるはずの三木那由他が、思想や政治的な立場が違うとは言え、他人の著作を「読まずに批判する」というのは、決して許されることではないだろう。
実際には「斜め読み」で済ませて、「読んだ」とは言い難い状態で批判することなどがあるとしても、それでも「読まないで批判するのは間違いだ」という原則までは、普通、否定できないものなのだ。
だが、三木那由他の場合は、面子の故なのか意地なのかは知らないが、「読まずに批判した」という事実についてすら、自らの非を認めず、シュライアーに謝罪することもないまま、証拠隠滅をしてトンズラをかましてしまったのである。
そんなわけ(現実・事情)なので、こんな人の言う、
『こちらが誰かに間違ったことをしてしまったとき、もちろん私は謝りたいと思うだろう。』
とは「いったい何なのか?」ということにも、当然なろう。
どこが『もちろん』なのか、さっぱりわからないが、ともあれ「読まずに批判した」という、明らかな落ち度に関する謝罪すらできないような三木那由他なのだから、もっと微妙な問題についてなら、なおさら謝罪などできないに決まってる。
きっと、三木那由他なら、
「その件については、私は弱者として、相手方のコミュニケーション的暴力によって、あらぬ解釈を押し付けられている立場ですから、その件についてはノーコメントです。これが唯一正しい対応の仕方なのです」
とでも言うだろう。
だが、こんな汚職政治家みたいなことを言う、自称「夢見がち」な人のことを、信用して良いものなのだろうか?
ハッキリ言わせてもらうが、こんな人の語る、自己申告でしかない「綺麗事」を信用するような人は、度し難い大馬鹿者である。
私の言い方で言えば「詐欺被害者予備軍」以外の何者でもない、ということになろう。
そして、ここで最も肝心なことは、三木那由他が「トランスジェンダー」であろうとなかろうと、三木の「嘘」や「偽善」は、決して許されるわけでもなければ、大目に見られるべきでもない、ということである。
三木那由他という人が、「大学教員」であろうが、「フェミニスト」であろうが、「トランスジェンダー」であろうが、同じことをした他の人たちと同様に、平等かつ厳格に、断罪されないのであれば、それこそが「不公平」であり、「差別」なのだ。
「責任無能力者」扱いなのである。
したがって、三木那由他は、公平に、断罪されるべきだし、断罪しなければならない。
それが、マイノリティのためでもあるからである。
(2025年7月11日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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