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あおきえい監督 『放浪息子』 : 優等生の物足りなさ

作品評:あおきえい監督『放浪息子』(全11話・2011年)

2011年に深夜アニメとしてテレビ放映されたシリーズ作品である。なお、テレビ放映時には全11話だったが、私の見たDVD版では、第10話に補足がなされて2話に分けられたため、全12話となっていた。
だが、基本的なところは変わっておらず、私の感想への影響も、ほぼ無いと考えられる。

(左から、千葉さおり、有賀誠、二鳥修一、佐々かなこ、高槻よしの、更科千鶴、白井桃子)

さて、なんで今頃、十数年前のテレビアニメを見たのかといえば、それは無論、私の場合は、自称フェミニスト・北村紗衣がらみで、最近「フェミニズム」に興味を持ち、その関係で「トランスジェンダー」問題についても、多少は勉強しているからだ。

直接的には、以前レビューも書いたフェミニスト高島鈴の著書『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』の中に、オススメの参考作品として、本作が紹介されていたためである。

高島は、原作マンガもアニメも、どちらもオススメだと書いていたので、アニメファンである私は、アニメの方を選んだ。
原作マンガの方は全15巻もあるし、絵柄的にも特に好みではない。しかし、アニメの全11話であれば一晩で見られるし、絵柄的にも見やすくなっているだろうと、そういう判断からである。

私は、以前の「ゲイ文学」ブームや「やおい」ブームの頃に、初期のBL(ボーイズラブ)作品(マンガ・小説)も少しは読んでいるし、そもそもそれ以前の、栗本薫『真夜中の天使』や、いわゆる『JUNE』系の小説も読んでいる。
ジャンルとして特に好きなわけはないし、詳しいというわけでもないのだが、完全に無知だというわけではない。本作の原作者である志村貴子についても、名前に見覚えくらいはあった。

また、本作アニメ版『放浪息子』の第1話を本放映時に見た記憶もあって、その際は「色の塗り分け」部分をボカす画像処理や、画面周辺部分を中心に白くボカシを入れた「水彩画風」の画面づくりにも「今どきは、こんなことができるのか」と、感心した記憶がある。
だが、その一話分を見て、何か物足りないものを感じたので、それ以降を見ようとはしなかったのだと思う。
そして、そうした印象は、今回、シリーズを最後まで見ても、大きく変わりはしなかった。

この記事を読んでくださるような方なら、本作がどのような内容の作品なのか、そのおおよそのところはご存知かもしれないが、知らない方のために、その大筋のところを、「Wikipedia」から紹介しておこう。

『放浪息子』(ほうろうむすこ 英題: Wandering Son)は、志村貴子による漫画作品。『コミックビーム』にて2002年12月号から2013年8月号まで連載された。単行本はエンターブレインから全15巻刊行。性自認に揺らぎを抱える二人の主人公・高槻よしのと二鳥修一の、葛藤や恋愛を経て成長してゆく小学生から高校生までの姿を描く。また、二人の友人や家族など周囲の多くの登場人物の思春期を描いた群像劇でもある。トランスジェンダー異性装男の娘)をテーマとし淡々としながらも温かみのある独特の筆致で描いている。

フジテレビ「ノイタミナ」枠にてテレビアニメ化され、2011年1月から同年3月まで放送された。

あらすじ
「女の子になりたい男の子」である二鳥修一は、転校先の小学校で、背が高くてかっこいい女の子高槻よしのと出会う。最初は女の子になりたいという気持ちを隠し通していた修一だったが、クラスメイトの千葉さおりに偶然女装しているところを見られてしまう。かねてから修一に好意を持っていたさおりは、それ以来彼を積極的に女装させたがるようになり、誕生日にワンピースを贈る。

ある日、遊びに来たよしのに部屋に置いてあったワンピースを発見されてしまい、修一は困惑する。だが、よしのもまた「男の子になりたい女の子」であり、時折男装して遠くの街へ出ているのだった。お互いの秘密を知った2人は、修一がセーラー服を、よしのが学ランを着て、遠くの街で遊ぶことになる。

2人は成長による体の変化に悩み、周囲とのすれ違いに傷つきながらも自分の生き方を模索していく。

単行本15巻のうち、第1-4巻(第1-33話)は小学生編、第5-12巻(第34-96話)は中学生編、第12-15巻(第97-123話)は高校生編となっている。第1話のサブタイトルである「ぼくは、おんなのこ」は、志村のコミックビームへのデビュー作短編(2004年に刊行された単行本『ぼくは、おんなのこ』収録)と同名であり、この短編は主人公が脚本を書く劇中劇として作中に登場している。』

(Wikipedia「放浪息子」

以上のとおり、原作『放浪息子』は、主人公たちの、小学生時代から高校生時代までを描いているが、アニメ版はその、「中学生」時代を切り取ったものである。

(小学生時代の二鳥修一と高槻よしの)
(中学生になった二鳥修一)
(修一に女装をさせたがる旧友、千葉さおり)
(左は女装している修一)

上のとおり「Wikipedia」では、今風に『トランスジェンダーや異性装(男の娘)をテーマ』にした作品だと書いているが、本作が「2011年」の作品であり、つまり「#Metoo」ブーム以降の(第四波)フェミニズムの盛り上がりに乗ったものではない、というのを考え合わせれば、本作は、やはり「BL(ボーイズラブ)」ブームと「美少年」趣味の交錯の中で注目され始めた「男の娘」ブームの中から出てきた作品ではなかったかと考える。
私個人は「美少年趣味」寄りの人間だから、「男の娘」ブームというのは、いささか「キワモノ」という印象はあったが、一定の興味はあって、ネット検索してみたりはした。

現在「トランスジェンダー」問題といえば、ほとんどもっぱら女性層が興味を持つ問題なのだが、「男の娘」というのは、「特殊な性的文化」として一般の男性層にも興味を持たれていたはずで、その意味では、興味のもたれ方において、両者にはかなりの違いがあるはず。
だから、両者を「トランスジェンダー」という一語でひと括りにするのは、あまりにも雑な議論なのではないかと、私には感じられる。

さて、本作アニメ版『放浪息子』を私が論じるにあたっては、主に二つの側面がある。

(1)人間の「性」の問題
(2)アニメ作品としての出来の問題

見てのとおりで、両者は、まったく別問題なので、分けて考えることにしたい。

 ○ ○ ○

(1)について

本作(アニメ版)「女の子になりたい男の子」が主人公(二鳥修一)であり、そこに「男の子になりたい女の子」(高槻よしの)や、単に「異性装趣味のある女の子」や、本人はごく普通だが、そうした少数者に理解のある女の子や、理解の足りないその他の人々(老若男女)などが絡んで織りなされる、三角関係を基本としながらも、その特殊性ゆえに発生する「多角関係」、それに友情を絡めた、ごく当たり前の「恋愛もの」である。

そんなわけで、私の感想としては「トランスジェンダー」の問題が絡んでいるが故に、恋愛模様として、普通の「恋愛もの」よりかなり複雑にはなっているものの、しかし、所詮は「恋愛もの」でしかないと感じられた。
そして、いつも書いているように、私は「恋愛もの」には、ほとんど興味がない。他人の惚れたはれたには、興味が持てないのである。

では、トランスジェンダーの問題、つまり、その一部である「女の子になりたい男の子」や「男の子になりたい女の子」の問題をどう考えるのかというと、端的に言って、

「そりゃ、そういう趣味の人もいるでしょう。ただし、他人に迷惑をかけることではないのだから、他人がとやかく嘴をはさむようなことではない。だから、そうしたことを理由にした嫌がらせなどすべきではないし、する正当な理由もない。ブサイクな人(男・女)に、わざわざ「ブサイクだ」と言ったり、運動神経が鈍い人に「どん臭いヤツ」と言ったり、太っている人に「デブ」と言ったりするのが、好ましいことではないのと同じだ。
たしかにそうした属性を、肯定的なものだと思えないとか、不愉快だと感じたりすることはあるだろう。それは(動物的な本能だから)仕方のないことだ。しかし、熟慮することもなく、単なる感情的なものとして非理性的な、そうした反感や嫌悪感を口にするのは愚かなことでしかなく、他者への配慮にも欠けて、反社会的である」

と、このように考える。
一一つまり、「トランスジェンダー」は、何も「特別なことではない(単なる少数派にすぎない)」ということだ。

実際、私だって「美少年」に生まれていたら「女装」くらいはしたかっただろうし、その延長で「女の子(美少女限定)になりたい」と夢想したかもしれない。
また、「女性(一般)」なりたいとは思わなくても、ひとまず「美しい少女(かわいい少女)」あるいは「美女」にならなりたいと思っただろうし、それは男のままで「ものすごいイケメン」になりたいと夢想するのと、さほど違わないことのように思う。
どちらも、絶対になれないということを前提として、それなら、より「なり得ない」ところの「美少女」や「美女」の方が、夢想としては楽しい、ということだったのではないかと思う。

まあ、その一方で私が「ヒーロー」に憧れたひとつの理由は、「ヒーロー」ならば「ブサイク」なままでもなれる、ということがあったのではないかと思う。
要は「見かけじゃなくて、中身で勝負だ」ということだ。
美男にも美女にもなれないが、「ヒーロー」ならば精進次第でなれるのだから、これは私らしく現実的な選択だったのではないかと思う。

で、そんな私だからこそ「女の子になりたい男の子」や「男の子になりたい女の子」や「異性装趣味のある女の子」というものの、一種の「変身願望」がわからないではないし、それを差別する気もないのだが、しかし、そういう「外形的なもの」には、あまり興味がない。

一一こう書くと「トランスジェンダーは、趣味ではなく、本来の性質を求めるものだ」と言われそうだが、それは当人の「気持ち」の問題であって、「現実そのもの」ではない。

それが「現実(現状)そのもの」ではないからこそ、「それ」になりたいということなのだから、それは私が「ヒーロー」になりたいというのと、本質的には同じことだと思う。

私は、自分が「ヒーロー」になりたいと思うのは、私の「本質」が「ヒーロー」だからではなく、ただ「ヒーローになりたいという指向」性という「趣味」を持っているからだと考えるし、それは「女の子になりたい男の子」もその逆も、あるいは「プロ野球選手になりたい人」も「ウルトラマンになりたい人」も、すべて「同じ」だと考えている。
ただ、その「実現可能性の度合い」が違うだけだと考えるのだ。

言い換えれば、「性」の問題だけを、特別重要視するつもりはないし、そうした意識こそが「差別」(不当な序列化)を生むのだと考える。
要は、「性の問題」は確かに重要だけれども、重要なものは「戦争・飢餓・地球温暖化等」、他にいくらでもあって、それらよりも特別に重要な問題(優先事項)だとまでは思わない、ということである。

だからこそ、私は本作『放浪息子』を「ちょっと変わった、青春恋愛もの」だとしか思わない。

「ミステリー小説」に例えていうなら、普通の「ミステリー小説」ではなく「特殊設定ミステリ」みたいなもので、たしかに「特異な設定」が入っているけれども、その基本的性格が「ミステリー小説」であることに変わりはない、というのと同じことで、本作も「キャラクター設定」は「特殊」ではあるけれども、「思春期恋愛もの」であるという大枠に変わりはないと、そう考えるのだ。

だから、個人的には、あまり興味のない「物語」だったのである。

ちなみに、それぞれに個性的なメインキャラの中で、私が気に入ったのは、一人称「ちーちゃん」こと更科千鶴である。

彼女は、徹底した「マイペース」派で、学校に学ラン(男子生徒用の詰襟学生服)を着てきたかと思えば、当たり前に女子用の制服を来てきたりもする。またそれが、どちらも似合って、様になっている。
つまり彼女は、男性になりたいから学ランを着るのではなく、それも面白いし、何より着たいから、着たい時に着るだけのこと。

要は、人がどう思おうとかまわないのだ。
自分が楽しいと思うことをしたいだけであり、やりたいことをやるだけ。それで他人に迷惑をかけるわけではないのなら、それは私の勝手ではないか、何を気にする必要がある、という「お約束に拘らず、それに縛られない」タイプなのである。
だから、当人は、自他共に認める「変人」なのだが、千鶴自身も「変人好き」を公言しており、要は「変な人が好き」なのだ。

これは私も同じことで、その気持ちがよくわかる。
「変人好き」とは、要は「普通凡庸が嫌い」なのだ。なぜなら「つまらない」からである

「どうして、そんなつまらないことを気にするの? そんなどうでもいい約束事に縛られるの? やりたいようにやったらいいじゃない」一一という気持ちなのである。

「変人」とは、「空気を読まない人」であり、「当たり前」や「普通」であることに価値を置かない、あるいは、それを積極的に「つまらない」と「低評価」する人の、必然的な姿なのだ。

(2)について

まず、本作が「極めて丁寧に作られた作品」であるというのは、論を俟たないだろう。
第1話を見て私は、「この水準を、いつまで保てるんだろう」と思ったのだが、それを最後まで貫いたのは、じつに大したものであった。

前述の「水彩画を思わせる画面づくり」は、やはり大変手間のかかる新技術だったようだが、そのおかげで本作は、その点に関しての賞を受けたようだし、当然の結果だとも思う。

しかし、その上で、作品全体を評価すれば「78点」といったところだ。

「画面づくり」は申し分ないし、どこが悪いというほどの欠点もないのだが、物語として全体にメリハリを欠いており、そのため、最終的には印象に残らない「優等生的な佳作」、という感じなのである。

言い換えれば、これだけ手間のかかった、レベルの高い絵作りをしていながら、最終的には「なかなか好感の持てる作品」で終わってしまったというのは、物語演出的にどこかに、決定的な「弱さ」があったのだとしか思えない。
「感じの良い作品」ではあるけれど、それは単に、「普通に感じの良い人」は、会っている時には「好感」を覚えるけれども、離れてしまえば、すぐに忘れてしまうような存在でしかない、というのと似たようなことなのだ。
つまり、ちーちゃん的な「趣味」には合わない、「よく出来た凡作」なのである。

あおきえい監督が原作ファンであり、自ら企画を提出した作品だというから、確かに原作を最大限に尊重して、丁寧な作品づくりをしているというのはよくわかる。
だが、そこまでなのだ。
優等生的に及第点を取ってはいて、原作ファンが不満を漏らすこともないのであろうが、しかし、やっぱりそこまで。

そこに何が足りないのかと言えば、やはり要は、その「良心性」の枠を食い破っていくような、過剰な作家性としての「狂気」のようなもの。それが足りない、ということなのではないだろうか。

超一流の作家というものは、どこかでそうした「狂気」を抱えているものだが、あおきえいの場合は、どこまでも「良い人」であり「優等生」の域の止まって、その枠を出ないのである。

だから、よく出来てはいても、どこか物足りないのであろう。



(2025年6月23日)


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