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隠岐さや香 『文系と理系はなぜ分かれたのか』 : 日本学術会議のオープンレター組

書評:隠岐さや香文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書)

隠岐さや香は、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人の一人であり、同発起人らが中心になって最近設立した「現代フェミニズム研究会」の発足呼びかけ人でもある。

したがって、私がこれまで批判的に論じてきた、北村紗衣清水晶子河野真太郎田中東子三木那由他らのフェミニズムグループにおける、中心的なメンバーの一人だと言って良いだろう。

そして、北村紗衣という人物を批判・研究の対象としている私の立場からすれば、いささか雑な言い方ではあれ、便宜的に「北村紗衣グループ」の一人と呼んで良い人物ということになる。
私が今回、隠岐さや香の著作を読んだのも、もっぱらそうした文脈においてだ。

ただし、隠岐さや香には、ちょっと気になる属性がひとつある。
それは、隠岐さや香が「日本学術会議」の第一部(人文・社会科学)の賛助会員の一人であり、「国際学術会議」の「科学の自由と責任委員会委員」なども務めている、学者の世界での、リベラルな活動家の一人とでも呼ぶべき人で、その興味の対象は「学問の自由と自立性」といったところにある点だ。

つまり「北村紗衣グループ」の多くが「フェミニズム」を中心として、いささか「オタク」的に「限られた世界」の話題に終始する傾向があるのに対して、隠岐さや香の場合は、「フェミニズム」についても語りはするけれども、それは「学術界におけるジェンダー的な不平等」を問題にするからであって、ニュアンスとして、その重点は「学問の世界における自由と平等」というところにあるようだ。

そんな隠岐さや香については、「北村紗衣批判」では先輩にあたり、その論考に学ばせていただいただけではなく、参考文献としていつもリンクを張らせていただいている、与那覇潤も、次の記事で、隠岐さや香に批判的に言及している(※ なお、いつものことだが、プロの著述家については「敬称略」とさせていただいている)。

「ある "学会乗っ取り" の背景: トランスジェンダリズムは「戦前の右翼」であると題するこのいささか挑発的なタイトルの記事は、既存の「日本女性学会」を一部の会員が、外部の人間の署名を集めるなどし、その「数の圧力」で同学会の「乗っ取り」を企てた事件について報告するもので、要はその「一部の会員」というのが「オープンレター」の中心メンバーであり、そのやり口が「オープンレター」的なものであった、と指摘するものだ。

その際「日本女性学会」に対して突きつけられたのが、「有志による声明」である「「日本女性学会2024年大会分科会調査報告書」を受けての反省の表明 および 女性学・ジェンダー研究の発展と多様性の尊重をもとめる声明への賛同の呼びかけ」と題するものだったのだが、ここにも北村紗衣らと並んで、隠岐さや香も、その名を連ねていたのである。

そのため、与那覇潤は上の記事の結びを、

『5年前は世相を騒がせた「日本学術会議問題」も、もはやすっかり笛吹けど誰も踊らずである。戦後80年の今年、民間の運動体が「学問の自由」を侵害し、自由な言論を萎縮させて戦争に向かった歴史の教訓を思い出すために、とりわけリベラルな各紙誌はぜひ、この(※ 「日本女性学会」でのクーデター)問題を採り上げられたい。』

として、隠岐さや香「日本学術会議」問題がらみで『学問の自由』を訴える動画へのリンクを、隠岐さや香の画像付きで紹介していたのである。

つまりこれは、

日本学術会議のメンバーとして、学問の自由を訴えている貴方が、こんなゴリ押し的な学会乗っ取りのためのクーデターに加担して良いのですか、隠岐さや香さん?」

という「皮肉」である。

与那覇がこの記事で報告したような「学会乗っ取り」が許されるのなら、「学問の自由」など、とうてい守れるものではないと、そう言っているのだ。

要は、隠岐さや香は、あっちとこっちで言ってることに一貫性が無く、「言行不一致」だと批判しているのである。

そして、与那覇潤がこの記事で報告しているかぎりにおいては、与那覇の批判はまったく筋の通ったものだし、私の知る範囲においても、「オープンレター」組あるいは「北村紗衣グループ」なら、そのようなことをやったに違いないとも考える。

そもそも、与那覇潤は、同じ「学者」として公然と批判しているのだから、これに対して、名指しされた「オープンレター」組のメンバーが、なんら反論せず、卑怯にも無視黙殺し沈黙を決め込んでいる以上、与那覇の指摘した事実を容認している、と考えるべきであろう。

自分たちの都合だけで「オープンレター」だ「有志の声明」だといったものを公然と突きつけ、相手や周囲に「対応を迫る」ような強引なやり方をしてきた以上、同じように批判を突きつけられたなら、それに対しては堂々と応じる「義務」があろう。
一一それが出来ないのであれば、「人に意見するな」ということである。

だから、与那覇潤が、隠岐さや香を批判するのは、筋の通ったことなのだ。

ただ、私の場合は、「日本学術会議」問題については、同組織に政治介入を強めようとした、時の安倍晋三政権や菅義偉政権に対する批判を、及ばすながら展開した者の一人として、いまや同組織の「若手の顔」ともなっている隠岐さや香の、言行不一致の問題は、まことに残念でならない。隠岐さや香のせいで、日本学術会議の信用にまで、ケチが付きかねないと、そう懸念するからだ。

言い換えれば、今も影響の続く「日本学術会議」問題(学術の独立性問題)において、若手学者として、その矢面に立って活躍している様子の隠岐さや香の活動については、全面的に支持できるからこそ、隠岐さや香「オープンレター」「現代フェミニズム研究会」の中心メンバーの一人であるという事実は、残念としか言いようがないのだ。

私の支持できる活動に注力している隠岐さや香が、その一方で、なぜ、いかにも横暴でうさん臭い「オープンレター」組に与し続けているのか?

そのあたりの機微は、当人に訊かないことには、正確なところはわからないが、ただ、そのようなことのできる立場にはない私に出来ることとしての「王道」だと考えるのが、まず「当人の著書を読んでみる」ということである。

もともと文学派である私は「文章から、書き手の本質を剔抉する」ということを重視してきた。
たとえ、文章技巧的に「言葉を繕い、見解を装って」も、そんなことでは騙されないし、その「言葉を繕い装う」という痕跡を剔抉することで、その人物の本質を見極めることができると、そう考える。
そして私はこれまで、その実例を十二分に示してきたのである。


だから今回は、その批判対象を隠岐さや香とし、分析対象としてのテクストを、その著作『文系と理系はなぜ分かれたのか』にもとめることにした。

しかしながら、正直に言えば、私は本書『文系と理系はなぜ分かれたのか』には、あまり触手が動かなかった。

北村紗衣がらみで読み始めたとは言え、もともと私は「フェミニズム」というものには興味があったから、「この機会にフェミニズムの勉強をさせてもらおうか」という気分があった。だからこそ、北村紗衣らの著作や「フェミニズム」関係書を読むことは、少しも苦痛ではなかったのだ。

ところが、隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』には、あまり興味が持てなかった。そのため、「オープンレター」組の中では、隠岐を後回しにしてしまった、という事情もあったのである。

では、なぜ、この『文系と理系はなぜ分かれたのか』という本に興味を持てなかったのかというと、本書はそのタイトルからもわかるとおり、「フェミニズム」の本ではなく、平たく言えば「学術史」の本である。
しかも、ある特定の学術ジャンルを対象とした歴史ではなく、「学問(学術)」全体の歴史を扱うものだったので、私は、そういう「総合的」なものには、あまり興味が持てなかったのだ。

しかしながら、隠岐さや香の著作を調べてみると、隠岐には、単著としては他には『科学アカデミーと「有用な科学」―フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ―』(名古屋大学出版会)しかないというのがわかり、しかもこれは、隠岐のドクター論文を元にした、定価8,140円というなかなかの「大著」だというのがわかった。

別に、大著であっても、専門書であっても、内容に興味さえ持てれば、それを読むことに躊躇しない私なのだが、やはりこの本も『文系と理系はなぜ分かれたのか』と同様の「学術史」研究書であり、ただこちらは「科学史」に限定したものだったのである。
だから、それこそ文系の私としては、「学術史」以上に「科学史」には興味が持てないので、いきなりこんな大著に挑む気にはなれず、比較的小著である本書『文系と理系はなぜ分かれたのか』の方を優先することにしたのだ。

 ○ ○ ○

さて、本書『文系と理系はなぜ分かれたのか』は、たしかにタイトルのどおりの内容で、私たちがごく常識的なものと考えている「文系と理系」という区分について、この区分は、どのような「歴史」的経緯を経て形成されたのかを、跡づけたものである。したがって、膨大な資料をよく読み込んでおり、それを要領よく整理した好著だと言えよう。

だが、それだけではない。
それだけでは、個人的にはまったく興味のないテーマなので、最後までそれに終始されたのでは、いささか不都合でもあったのだが、幸いにも本書の後半では、隠岐さや香の「学問観」が語られていた
そこに、著者である「隠岐さや香の、物の考え方」というものが、ハッキリと刻まれており、それを読み取ることが出来たのだ。

で、結論から言うなら、隠岐さや香の考え方は、しごく真っ当であり、バカンス感覚のある良識的なものだった。
つまり、私としても、高く評価出来るものであり、この人となら「友達になれる」と、そう感じさせさえするものだったのだ。

ではなぜ、そんな隠岐さや香が「オープンレター組=北村紗衣グループ」などに、ずっとコミットしているのか? 一一という当然の疑問も湧くわけだが、その解答は、今のところは私には無い。
簡単に言えば、「何らかの事情があるのだろう」としか、現時点では言えないのである。

ただ、私がここで強調しておきたいのは、「人を、その所属(属性)だけで判断してはならない」ということである。

これは当たり前の話で「あいつはユダヤ人だから」とか「あいつ黒人だから」とか「あいつは金持ちだから」とかいったことだけで、その「個人」が、どういう人なのかを決めつけて考えてはならないだ。
なぜならそれは、「偏見」に他ならないからである。

私がよく引用する言葉に、SF作家シオドア・スタージョンの、

SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである

というのがある。

これは通常「どんなにものでも、大半は凡庸であり、大したものではない。優れたものとは、いつでもごく一部だ」というほどの意味だ。
例えば、「大学教授と言っても、その9割はクズ(凡庸)だ」とか、「芥川賞作家とかいっても、9割はクズ(凡庸)だ」とかいったことである。
どんなジャンルであれ、「本当に優れたもの」は、滅多に無いのだから、そのレッテルのマジックに踊らされるな、という意味合いの言葉なのだ。

だが、この言葉は、逆もまた真なりで「どんなジャンルであれ、ごく一部には真っ当なもの(や人)が存在する」ということでもある。
例えば「前科者の1割は、クズではない」「ホラー映画の1割は、クズではない」といったことだ。

だから、言い換えるならオープンレター賛同者の1割は、クズではない」ということにもなるのである。

したがって、「オープンレター組は、全員バカだ」などと安易に決めつけず、個々に見ていく必要がある。
「総論はバカ揃い。でも、個々にはまともな人もいる」と考えるのが、「偏見」の無い、バランス感覚というものなのだ。
無論、「参加」者には、全員もれなく「参加責任」がある、というのは当然のこととしてである。

で、私は、そうした観点から、隠岐さや香を、その「1割」の内だと評価するのだ。
一一「この人個人は、まともな人だ。しかし、なんらかの事情で、あの問題グループにが関わってしまっている」と、そう見ているのである。

したがって、以降本稿では、私がこのように判断した「根拠」を、本書の記述から摘示し、それに解説を加えていきたい。

隠岐さや香が、なぜ現に北村紗衣らとつるんでしまっているのか、その理由は、今のところは不明である。ただし、そうした事情は別にして、彼女個人の考え方は、しごく真っ当なものである」という事実についての説明をしたい。まず、その事実を認めた上で「ではなぜ」という疑問については、今後の課題としたいのだ。
新書1冊読んだくらいで、すべての謎を解けるなんて考える方が、むしろ横着にすぎるのである。

さて、隠岐さや香については、まずもって高く評価出来できるのは、その「バランス感覚」であり「良識」性である。

つまり、極端に走らず、全体を広く見渡して、バランス良く、最も好ましい道を選ぼうとする構えだ。
決して、北村紗衣のような「偏頗な利己主義者」などではないのである。

例えば、こんな具合だ。

イノベーション政策3・0と人文社会科学系一一SDGsSTEAM
 従来の政策においては、産業と政府にとって、科学と技術こそが経済を活性化させるために必要であり、それに上手く投資することで、社会の中での不平等も小さくなるのだととみなされていました。しかし、イノベーション政策をこれまで主導してきた学派が(※ 新たに)指摘したのは、この二〇一〇年代に至って、これまでの方針の欠点が明らかとなったということでした。
 かつて、科学・技術の発展とそれに支えられた産業は、人間社会に豊かさだけではなく環境問題をもたらしました。同じようにして、先端科学・技術の市場化可能な成果への集中的投資が、経済的な不平等という問題を悪化させているのです。
 不平等は、自然環境問題に劣らない危機的な国際問題であるとの認識が今、急速に広まっています。一つの国の中の不平等は、人々の健康格差や経済格差の急増により、社会保障費の急増と経済の停滞をもたらします。また、何より社会が分断され、政治危機や治安の悪化が人々の暮らしを蝕みます。そして一国の問題が、国家間の紛争に発展する可能性もあります。分断された社会では、しばしば、対立しあうグループ同士がそれぞれ外国に同士を見つけて巻き込もうとしたり、あるいは外交政策が混乱したり、ということが起こるからです。
 そのため、自然科学・技術は社会的な課題に取り組まねばならないし、また並行して人文社会科学における研究にも戦略的投資を行わなければならない、という新しい考え方が近年欧州(英国も含む)を中心に出てきました。イノベーション政策3・0とも呼ばれます。経済、環境、社会の三本柱がイノベーション政策の対象となりつつあるのです。
 ヨーロッパのホライズン2020、そして二〇一五年に国連で採択されたSDGs(持続可能な発展目標)がその方向を向いています。両者に共通するのは、自然環境への配慮に加え、ジェンダー平等も含めた社会的公正さへの取り組み、社会福祉の一層の普及、そして持続可能な消費パターンや、経済成長を生み出す新しい方法の探求、といった分野横断的な目標です。
 この方向転換は何を意味するのでしょうか。一つ言えるのは、もしこの路線が定着すれば、社会的不平等、失業、気候変動といった社会的、環境的課題が経済成長と同等の重要性を持ち、そのために世界中の知性が動員される時代が来るということです。そして、人文社会科学と自然科学・技術をつなげられる人材、すなわち「STEAM」(STEM+Ar ts)の視点がこれまで以上に重視されるでしょう。
 イノベーション政策2・0の時代は、「儲かる理工系/STEM」「儲からない人文系」の発想が国境を越えて共有されていました。その二項対立図を普及させる旗振り役となっていたのは、ある意味皮肉なことですが、(※ 文系の)社会科学でもある経済学や経営学の一部の学派でした。実は、二〇世紀は(※ 文系の)経済学および経営学が政治を動かした時代であったとの分析もあります(賛否両論ある考え方です)。
 しかし、彼らも決して不平等を拡大させたいと願っていたわけではありません。解決案
として考え出したはずの図式に欠点が見いだされ、それを修正しながらここまで来た。それが現在の状況です。
 日本の産業界が人文社会系、理工系に対してどういう関わりを持つのかも、これからにかかっています。先に述べたように、日本はイノベーション政策2・0による産業構造の変化は不徹底でした。それが吉と出るのか、凶と出るのか。3・0の波とどのように向き合うのかによっても変わってくるのでしょう。』(P149〜151)

この部分を読んで「左翼リベラルらしい、自然保護とジェンダー平等のお題目ですか」と皮肉に考えた人は、イデオロギーによって目が曇っている。

たしかに、頭の悪い「左翼リベラル」が、「教条主義的な倫理的題目」あるいは、問答無用の「絶対正義」として「地球環境保護」や「ジェンダー平等」を唱えがちだというのは事実である。
なにしろ「左翼リベラルの9割もまたクズ」だから、これは止むを得ない現実なのだ。

だが、それに対し隠岐さや香がここで「解説」しているのは、そうした「教条主義」的なものではない
「ホライズン2020」などに代表される「イノベーション政策3・0」と総称されるような考え方なり方針とは、決して「倫理的な教条」ではなく、あくまでも「それがみんなの得になる」というところから出てきた、極めて「実利的なもの」なのですよ、という話であり、隠岐さや香の説明の論点はそこにある。そこを読み落としてはならないのだ。

「左翼リベラル」が嫌いな人というのは、「左翼リベラル」の言うことというのは、「現実を無視した、自己満足的な綺麗事」だと(悪い例を見て)、そう決めつけてしまいがちなのだが、少なくとも「イノベーション政策3・0」などのレベルで語られているのは、そんな薄っぺらなものではないから「そのあたりをちゃんと見てくださいね」ということを、隠岐さや香はここで語っているのだ。

無論、だからと言って隠岐さや香は、「地球環境保護」や「ジェンダー平等」を、単なる「功利主義」的な打算において支持しているのではない。
それらが、功利以上の倫理的な重要項目であると認めた上で、しかし「ただ、それだけで言っているのではありません。実利的で合理的な側面にも配慮されたものなのです」と説明しているのである。
隠岐さや香が、本書でカントを引き合いに出している点に注目すべきである。つまり隠岐さや香は、カントの定言命法的な格率の重要性を強く意識している人だ、ということである)

で、こうしたスタンスというのは、当たり前と言えば当たり前なのだが、しかし、この当たり前が出来ていないのが、「オープンレター」組であり、北村紗衣に象徴されるような「独善的なフェミニズム」なのだ。
この「独善性」において良識的バランスを欠いていたからこそ、北村紗衣の言動は、自らも語るが如く「他人の気持ちがわからない」ものとして少なからぬ人からの反感を買い、批判されて、「フェミニズム」嫌いを増やしてしまったのである。

そして、その極端な例が、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」であることは、いまや言うまでもなかろう。

女性(北村紗衣)に対して女性蔑視的なツイートを繰り返したからと、北村紗衣らは、千数百名もの賛同署名を集めて、歴史学者・呉座勇一を名指しで告発し、こんな人が、同じ大学人として、当たり前に働いていて良いのかと世間に訴え、その圧力で、呉座に二度までも「公式謝罪」させた上で、さらにその職まで奪うという結果まで招来したわけだが、このようなやり方(キャンセル)は、果たして「正義」の名に値するものなのか? バランス感覚のある「妥当な批判」であったと言えるのか。

「悪人であれば、殺せば良い」「女性差別者は、社会的に抹殺すれば良い」というような、原理主義的な倫理観は、良識的なバランス感覚を欠いて、もはや「歪んだもの」「正当性を欠いたもの」なのではないだろうか。
そうではなく、物事はもっと多面的に見て、多面的な配慮が必要だというのが「世の良識」なのではないのか。

たしかに「悪」は処罰され排除されなければならない。そうでないと「正義」は実現できない。一一それはそうなのだが、しかしだからと言って、「正義」の名の下においてならば「何をして良い」ということにはならないはずだ。つまり「過ぎたる正義」は「悪徳」に他ならない、ということなのだ。

だからこそ、多面的な配慮のできるバランス感覚が必要なのであり、それが無かったのが、北村紗衣であり、「オープンレター」であったのだが、一一その一方、隠岐さや香による先の「イノベーション政策3・0」の説明には、北村紗衣「オープンレター」には無かった、多面性やバランス感覚に由来する「配慮」があった。

にもかかわらず、上の引用文で示されている、隠岐さや香本来のものと思われる「バランス感覚」は、なぜか「オープンレター」「現在フェミニズム研究会の設立趣意書」では、すっかり失われてしまっているのである。
一一明らかに、両者は「矛盾」するものなのだが、どうしてもこのようなことになってしまったのだろうか?

しかしながら、だからこそ、本書『文系と理系はなぜ分かれたのか』で語られる隠岐さや香の言葉は、「オープンレター」「現在フェミニズム研究会の設立趣意書」を擁護するものではなく、むしろ厳しく批判する言葉にさえなっているのだ。

『(略)後者に関する有名な事例を取り上げたいと思います。それは、エドワード・O・ウィルソンの『社会生物学 新しい総合』(一九七五)で提示された一連の見解と、そのあとに続いた論争です。
 社会生物学は、ダーウィン進化論を用いて、生物の集団的行動を説明しようとする試みです。たとえば、働き蜂が女王蜂の子どもを育てる場合のように、動物の一見利他的に見える行動が、どれだけ自分と近い遺伝子を効率よく残す行動に由来しているかといった点を説明してきました。
 ただ、それは同時に、ヒトの性差や性別分業、婚姻、攻撃性や社会階級など、様々な人間社会の現象をも考察の対象としました。しかもウィルソンは「人文科学や社会科学も単に生物学の特殊な研究領域にすぎなくなる」との見通しを示したのです。そのため、政治的な対立を交えた激しい論争が巻き起こりました。
 この対立はとても複雑で、本書では詳細を扱いきれるものではありません。ですが、自然科学の方法論で人文社会科学の領域を扱うときに起こりやすい対立の構図が典型的に現れているので、以下ではその点を少し細かく見てみたいと思います。
 当時の社会科学研究(特に社会学や人類学など)においては、ナチス・ドイツの教訓もあり、生物学的な議論を人間社会の現象と混ぜることに非常に慎重になっていました。人種衛生学が政治運動と結びついた過去の記憶が生々しかったからです。
 そのため、社会生物学を批判する人々は、ヒトの行動を生物学的に説明することが、いかなる社会的影響を与えうるかについて、研究者は気をつけるべきだとの指摘を行いました。また、ウィルソンらの主張は無自覚に、経済的不平等を肯定し、男女の生得的な違いを誇張して捉える政治的イデオロギーを反映しているとの批判もなされました。このように考えた人々は社会科学の研究者だけに留まらず、スティーヴン・J・グールドや、リチャード・ルウォンティンといった生物学者もいます。
 当時の社会生物学の創始者たちは、真っ向からこの批判に反論しました。彼らにとっては、批判者たちの方こそ、人間が平等で環境が全てを決定するという左派の政治イデオロギーを科学に押しつけて、研究の自由を損なおうとしていると映ったのです。また、社会的影響への配慮の必要性という指摘については重要性をあまり認識せず、女性の役割や同性愛者、経済的不平等といったセンシティブな問題に対し、仮説にもとづいた記述をすることをためらいませんでした(たとえばウィルソンの著書には、同性愛を遺伝の問題と仮定し、子どもを残さないのに同性愛が淘汰されないのはなぜかを論じている箇所がありましたが、現時点で同性愛に決定的な遺伝子は見つかっていません)。
 現在では論争は一段落しましたが、完全に終結したというよりは、支持者と批判者が論争に飽きて棲み分けたという趣もあります。また、時代が変わり、自然科学研究全般において、社会への影響や倫理的な側面を考慮する風潮が高まったことも両者の緊張感を下げたようです。
 社会生物学の問題関心は行動生態学などの分野に引き継がれ、今日も研究が進展しています。他方では、従来的な社会科学の諸分野も、特に生物学の影響を受けることはなく、
従来通り探求され続けています。結局の所、学問の統合よりは、人間社会について考える新しい分野が増える結果に終わったのでした。』(P222〜225)

例えば、これなどはトランスジェンダー問題」の対立図式と、そっくりではないだろうか。
一一と、こう書いても、「トランスジェンダー問題」で激しく対立している両派の大半が、その意味を理解していないので、簡単にでも説明しておく必要があるだろう。

だが、さらにその前に、前の「社会生物学」論争が意味するものについて説明をしておこう。

「社会生物学」とは、平たく言えば、すべての生物における社会性を研究する学問だ。
社会を構築するのは、人間だけではなく、ライオンだってアリだって同じ。その形式とレベルが、違うだけなのである。

ただ、社会生物学の考え方が問題になったのは「すべての動物に共通する社会性からすれば、これまで人間に特有のものとされてきた社会性も所詮は、動物のそれと大差はなく、特別なものではあり得ない」という考え方(言い方)だった。

なぜ、こういう「科学的」な(人間を特別扱いにはしない)「客観主義」に問題があるとされたのかというと、こういう考え方は「客観的」に過ぎて、「人間固有の事情」ということに配慮しないためなのだ。
つまり、しばしば「人としての尊厳」だと考えられてきたものを「所詮は人間の身勝手な自己過大評価的意味づけ」でしかなく「その本質は、アリと大差は無い」みたいな言い方をしてしまいがちだったためだ。

たしかに、客観的に見れば、例えば「異星人」から見れば、人類の命がライオンの命より重いとは、考えられない。その区別に合理的な根拠は無い。
「それは人間の価値観でしかない」からだ。

しかし、現実問題として、私たちは、人間とライオンを平等な扱うことなど不可能だ。なぜなら、それではいろいろと「不都合が生じる」からである。

社会生物学の考え方は、たしかに客観的で科学的なのだが、社会的には、いささか配慮に欠けて無神経な物言いになりがちなので「もっと配慮せよ」と言われた(批判的注意を受けた)のだが、言われた方は「科学者に、世間(常識)に忖度しろというのか!」という話になったわけである。

で、これは「どちらが正しいのか」と言えば、どちらも正しいのだ。
ただ、それぞれのフィールドや活用場面が違っており、どちらにしろ、どこででも絶対に通用する考え方、物の見方ではあり得ない、ということなのである。

そして、この社会生物学の問題点に関しては、隠岐さや香は、これを正しく理解している。

では、この社会生物学の問題と「トランスジェンダー問題」が似ている、とはどういうことなのかというと、「性別」や「性的指向」といった概念を、どう考えるかという問題での「立場の違い」を、この問題にかかわって対立する両者は、「善悪の問題」にしてしまっており、そこが社会生物学論争の場合と酷似しているのである。

トランスジェンダーという存在を考える際に問題となるのが、「性別」という概念である。

トランスジェンダーというのは、自身の「生物学的性(別)」と「性の自認」が異なる人でのことで、「体は女だけど、心は男」だとか、その逆に「体は男だけど、心は女だ」というような人のことだ。

昔は、こういう人たちのことを「性倒錯」者と呼び、要は「普通ではないから、異常であり、病気だ」と考えて、治療の対象にしたし、「変態」だと言って差別したりした。

しかし、〈そうした「少数者」たちの「性のあり方」も、それはそれで「自然」なことであり、たしかに「少数例」ではあっても、「異常」や「病気」などではない。「自然」の中には、常に「例外」という「少数例」は存在しており、むしろそれが「自然」の常態なのだから、それを無理に「多数派」に合わせて捻じ曲げることの方が「不自然」であり、無理のあることなのだ。〉一一という考え方が、一般化していった。

そうなると、そもそも「性別」とは、「生物学的な身体の問題なのか、それとも心(自認)の問題なのか?」という疑問が湧いてくる。

「むしろ、心こそ大事なのではないのか? そもそも、生物学的差異を、性別の基準とするような、絶対的な根拠などあるのか? それはあくまでも、人間が社会生活を営む上での、便宜的な取り決めなのではないか? つまり、それは社会構築的な約束事であって、天然自然の(先験的な)事実ではないはずだ? 例えば、SF的な思考実験をしてみるならば、一定以上の体力を持つ者を男、持たない者を女としても良いのではないか。あるいは、その逆でも。そうすれば、男みたいな女とか、女みたいな男なんて表現も必要なくなるのではないか?」

一一こんなことを考えるようになるのである。

実際、「体は女だけど、心は男」や「体は男だけど、心は女」だという人の中には、心に合わせて身体を改造し、見かけ上の身体を変えてしまう場合があり、その場合は「生殖機能」以外は、完全に「心と体の一致した男」あるいは「女」といった状態になるのだが、そうした人たちは、それでも「出生時の性別」において、ずっと「男」や「女」という性別に縛られなくてばならないのだろうか?

実際、すべての人が、子供を作りたいわけでもないし、肉体的に子供を作れない人もいるわけだが、「生殖器」による性別分類ということが原理的な基準だとなれば、そうした人たちはまるで「不完全な人間」であると言われているも同然ということになろう。
だが、昔ならいざ知らず、今ではそれも「大きなお世話だ」ということにしかならないから、生殖器による分類というのは、さらに説得力を持たなっている。

すると、「性別」も、「生殖器」を基準とした男女別の問題ではなくなるから、実質的に「心も体も」男または女なのであれば、その「性自認」を、「性別」とすれば良いではないかという話にもなってきて、法的にも、一定の条件を満たせば、性別を変えることが認められるようになる。
生殖器以外、どこからどう見ても、男あるいは女(の一方)なのであれば、それ(現在の実質的な状態)を性別と認めても良いではないか、それがその人をあり方を尊重することなのだし、というようなことである。

ところが、そうなると「性別」というのは「相対的」なものであり、しばしば「主観的」なものでしかない、ということになってしまう。

例えば、元男性が、自身は女だと確信して性別移行(性転換)したけれど、後になって「あれは勘違いだった。やっぱり私は男だ」と確信し、男に戻ろうとしたら、それを止める権利は誰にもないし、身体の再改造を行なって、見かけ上の男になれば、性別も男性だと認めざるを得なくなるだろう。
つまり、性別というのは、当人の認識である「性自認」の問題でしかないと認めてしまうと、性別というのは、当人の気持ち次第でいくらでも変えられるものとなってしまうのだが、そうなると、そもそも「性別」というものが意味をなさなくなり、社会が混乱をきたしてしまう。
全員ではなくても、やはり、多くの人にとっては、動物としての生殖行為の必然性から、性別認識というのは、やはり必要かつ重要なものだからである。そういう人には「男は男、女は女」であってもらわなくては、何かと困るのだ。

しかし、このように言うと、トランスジェンダー当人やその支持者は「性自認とは、そんないい加減なものではない。当人にとっては切実なものであり、絶対的なものだ」と言うだろう。たしかに「多くの場合」は、そうなのだろう。
一一だが、すべての物事には「例外」があって、実際、性自認を二転三転させる人の存在は、当然「想定されなくてはならないこと」だし、それを「無責任」だと責めることもできない。
なぜなら、その時々、当人は真剣にそう「確信」している可能性は、他者には否定できないからだ。

つまり、突き詰めて考えるならば、「性別」などというものは、しごく曖昧なものでしかないのである。
「まあ、伝統的に、生物学的な差異の線で区別しておくのが、最大公約数的に便利だ」という程度の「社会的構築物(便宜的な取り決め)」にすぎない、ということにしかならない。

しかし、そうだとすると、問題は、たとえ「便宜的な取り決め」に過ぎないものなのだとしても、それは「必要」だからそうなっているのであって、「どっちでも良い」とか「好きにすれば良い」では済まない、という事実である。
そのため、「性別」の問題は、「個人の意志」を尊重するのか、「社会の安寧」を優先するのかで、扱いが変わってこざるを得ないのだ。

極端な言い方をすれば、「個人の意志」を尊重するなら、毎日性別を変えてもかまわないということになるし、「社会の安寧」を優先すれば、「出生時の生物学的性別」至上主義となるだろう。例えば、成長に伴って、身体的な特徴が出生時とは逆のものになっていったとしても、つまり、当初「男の子」とされた人が、妊娠できる体に変わろうと、「男は男だ」ということになってしまう。

つまり、どちらにしても、徹底的に、ある立場に優先するならば、別の立場を否定することになって、そこで不都合が生じてしまう

だから、現実的には、社会の認識の変化に従って、両者の立場の間で妥協点を探りながら、折衷案的なもので適宜対応していくしかないのだが、しかしながら、当然それは「不完全」なものだから、両方の「原理主義者」から「誤魔化しだ」という非難を浴び続けることになるし、党派対立は永遠に収まらないということにもなってしまうのだ。

そんなわけで、「当人の意志を尊重して、性自認を、人の性とせよ(法的にも、そのように認めよ)」という主張は、ちょっと聞いたところでは、なるほどと思われるものではあれ、社会的には、様々な問題を孕んだものだという点に注意が必要なのだ。そんなに簡単な話ではないのである。

ともあれ、そうした「社会的な不都合」が、トランスジェンダーの個人の責任でないのは明らかだが、しかし、彼らに責任がないからといって、社会的な不都合が予測される制度改革を、不利益を被ると感じている人の立場を無視して行う(強行する)ことも出来ない。
なぜなら、政府はすべての人に責任を負うているため、「性自認」制を採用した場合には、その決定をした国家が、そのために発生する不都合に対して、責めを負わなければならないからである。

つまり、トランスジェンダー問題は、「どちらが一方の理論的正当性に徹すれば、それで良い」ということでは済まないし、その点において、社会生物学論争の場合と似ているのだ。

こうした、「理屈」だけでは済まされない「現実問題」の場合、どっちが正しいのかと議論したところで、決着のつく話ではない場合が少なくない。
そもそも、科学的真理とされるものは、すべて「仮説」であると言われたりさえするのだから、絶対正義で論敵を潰すというような、狂信的な考え方には、大いに問題がある。

だからこそ、どこかで折り合いをつけ、「よりマシ」的なかたちを適宜選びながら、だましだましやっていくしかないと、私は考える。人間が「神の絶対真理」の如きものを振りかざすべきではない。

社会生物学論争が、決着を見ないまま、立場の違う「物の見方」として、両方が残され、並存するしかなかったように、トランスジェンダーの問題も、「生物学的な性」か「性自認」の二者択一ということにはなり得ないし、そのような決断主義的なやり方が好ましいものではないはずなのだ。

しかしながら、それにもかかわらず「正義と真実は我にあり」という「信仰」的な原理主義に走る者がいるからこそ、両者は(旧教新教の、かつての対立のごとく)憎しみ合い、潰し合いをするしかないというところまで来ているのが、今のトランスジェンダー問題」なのである。

そして、そうした「原理主義」的な態度を典型的に示しているのが、隠岐さや香も所属する「現代フェミニズム研究会」「設立趣意書」の文言である。

そこでは、「3つの趣意」が示されており、ひとつ目は「学者の研究会」として当たり前のことが書かれているのだが、後の2つが、いかにも特徴的で、「檄文」的な「対決宣言文」に近いものになってしまっている。

『2つ目は、時代にともなって変化してきた日本のフェミニズム・フェミニズム研究の在りかたを再考する機会の必要性です。SNSが普及した2010年代以降、ジェンダーの視点から自己の経験を語ったり、フェミニズム的な立場から社会批評を行うといった実践は、日本社会で少しずつ一般化していきました。しかし、多くの人の感情に訴えかけ、SNS上での「拡散」を通じて主張を広めるという実践のありかたには、複雑な現実を過度に単純化したり、「敵・味方」関係を固定化させたりといった、限界が付きまといます。また、そうして「拡散」の流れに乗ることができるのは、マジョリティ女性の経験や思考に沿ったものになりがちです。現在では、多くのフェミニスト研究者もSNSを利用していますが、とりわけフェミニズム研究を行う者たちは、このような限界につねに自覚的でなければなりません。もちろん、多くの人が認めるように、SNS上では女性・フェミニストに対するハラスメントやバッシングが過酷さを極めており、そうしたミソジニーヘイトに対する対抗運動・対抗言説の形成は急務です。そうした対抗のためにも、現代のフェミニズムを取り巻く以上のような環境を反省的に考慮する機会が必要であると私たちは考えています。

3つ目の理由は、フェミニズムの名の下に行われる差別や暴力が無視できないものとなっている現実です。とくに問題視しているのは、2010年代の終わりごろから見られるようになった、「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。私たちは、そのような研究者らの言動を厳しく批判するとともに、そのようなフェミニズムとは異なるフェミニズムの研究を発展させ続ける場所が必要であると考えます。鍵を握るのは、インターセクショナリティ(交差性)の視点であり、また運動の在りかたです。社会の中で支配的な意志決定層の中ではマイノリティとなりやすいジェンダーとしての「女性」集団のなかには、多様な状況・属性・アイデンティティをもつ女性たちがいます。だからこそ、それぞれの女性が被る差別や抑圧の在りかたは、同じではありません。この現実から出発し、「一枚岩的な女性の経験」に訴えることなくフェミニズム(研究)を進めること、そしてそうした交差性の視点を欠くがゆえに差別や暴力に加担してきたフェミニズムの在りかたを批判し、乗り越えること。そのために、私たちは新たな研究会を立ち上げます。
(中略)
最後に改めて宣言します。
この研究会は、研究者としてのキャリアを始めたばかりの若手研究者たちに広く開かれたものであることを目指します。トランスジェンダー差別をはじめ、なんらかのマイノリティ属性に対する差別や憎悪を広げるような言動は、ここでは許容されません。完全な安全などありえませんが、差別やヘイトとの遭遇を恐れて研究の場を追われる研究者を生み出さないことを、この研究会の大きな目標の1つとします。

以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』

『「敵・味方」関係を固定化させたり』するのは、何もSNSに限ったことではない。
この「設立趣意書」自身が「敵・味方」関係を前提として書かれたものに他ならないし、「敵・味方」関係を「強化」しさえする、「対話を拒絶して、敵対関係を煽る」ような性格のものなのだ。

前にも論じたことだが、この「趣意書」には「多様性」ということの重要性が説かれている。でありながら、実際に語られているのは、

「私たちはマイノリティ理解のために頑張ってきたが、周知のとおり、それに対し悪意と憎悪を向ける人たちが大勢いて、そちらにつくフェミニスト学者までが存在する。だが私たちは、そうしたものと断じて闘う所存なので、差別に反対する人は仲間になってください」

と、手前味噌にも「我こそ正義、我に従わない者は悪であり、排除殲滅すべきである」といった「独善」を、学術用語を交えて語っているだけなのだ。

本来「女性という弱者の権利」のために闘うフェミニストというのは、その立場が正しいということを論証し、その論証を持って、他者を説得しなければならないはず。

ところが、この「現代フェミニズム研究会」の自称フェミニストたちが主張しているのは「我々の考えは、自明に正しい」ということであり、「にもかかわらず奴らは」、我々の意見に耳を貸さないばかりが、我々が正しいことを主張するが故に、かえって我々を攻撃する、無反省で確信犯的だ「悪」である一一と、その「説得不可能性」を、まるで自明の前提の、ように語って恥じない。
これはもう、「学問」ではなく「信仰」であり、「狂信的」と呼んでもいい態度なのではないだろうか。

なぜ、隠岐さや香は、こんな態度を、支持できるのだろうか? 
まるで「文系と理系」を比べて、一方を「上」だとするがごとき幼稚な決めつけに、どうして乗れるのか?

『 私自身は、第一章で触れたカントのように、論争の存在自体を肯定的に捉える立場です。それも、彼よりは一歩踏み込んで、ある学問が人間社会に関わる切実な対象を扱うほどに、その学術的な論争と、政治的論争との間の境目が不明確になっていくのはやむを得ないし、だからこそ論争が必要だと思っています。それは、人間の認識能力の不完全さと、対象の複雑さとが合わさったとき、何らかの政治性が生まれてしまうことは避けがたいと考えているからでもあります(なお私は、「政治的(political)であること」と「党派的(partisan)であること」を区別しています。前者は「市民生活においてどの価値を優先するか」ということ、後者は「誰の味方か」という人間関係的な側面のことです)。
 環境科学の例が示すように、どんな学問分野をもってしても、完全に世界を認識し、記述できるシステムはありません。もしそんなシステムがあるとしたら、それはこの世界そのものに他ならないでしょう。それ以外のものは、どれだけ確かな方法を駆使したとしても、不完全なものでしかあり得ません。何らかの形で、必ず情報が欠落しているのです。
どの情報を減らすかは各分野の選択であり、それは一種の価値観の反映でもあります。
 そのため、複雑な系、たとえば経済活動のような人間社会の営みや、自然界であっても気象現象のような複雑な対象の予測はしばしば当たりません。すると、研究結果の導く結論をめぐり、対立する意見が不可避に生じることになります。』(P228〜229)

隠岐さや香はここで、

『私自身は、第一章で触れたカントのように、論争の存在自体を肯定的に捉える立場です。
それも、彼よりは一歩踏み込んで、ある学問が人間社会に関わる切実な対象を扱うほどに、その学術的な論争と、政治的論争との間の境目が不明確になっていくのはやむを得ないし、だからこそ論争が必要だと思っています。』

と、明確に「論争」の必要性を説いている
しかも、

『ある学問が人間社会に関わる切実な対象を扱うほどに、その学術的な論争と、政治的論争との間の境目が不明確になっていくのはやむを得ないし、だからこそ論争が必要だと思っています。』

と説明しているのだが、ではなぜ、隠岐さや香は「トランスジェンダー問題」について、「異論のある人は入会させない」という「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」に、同意できたのか? 
トランスジェンダー問題」は『ある学問が人間社会に関わる切実な対象』ではない、とでも言うのだろうか?
一一そんなことはあるまい。

『人間の認識能力の不完全さ』を認め、『対象の複雑さ』を認め、それが『合わさったとき』の難しさを認めるが故に、時に「政治的な議論」なることも止むを得ないとまで認めて、だからこそ『論争』が必要だと語っておきながら、どうして「現代フェミニズム研究会の設立趣意書」になど、同意できたのか? 

本書の著者として、隠岐さや香には、この点に関して、読者に対する「説明責任」があるのではないのか?

『そもそも、ある社会的課題を扱う/扱わない、という選択自体が、既に一定の政治性を帯びています。研究に関与する研究者がどれだけ誠実に、理性的に、学問の基準に則して行動しようとも、あるテーマを選ぶというその行為自体は、社会における何らかの立場表明としての意味を持つのです。このことに、人文社会系、理工医系の差はほとんどありません。
 たとえば、「適切な多数決投票の方法を数学的に検証する」のようなテーマを研究したい経済学者がいるとしましょう。一見、特別な政治性は感じないかもしれませんが、独裁政権の支配する国であれば、「国民による多数決を行う政体を想定している」ために警戒されるかもしれません。
 それは独裁政権がおかしいだけではないかという話ではなく、ここで言いたいのは、少なくともそのようなテーマが彼らにとっては全く「中立」に映らないだろうということです。もし私たちにとってその主題が「中立的」に見えるとしたら、それは私たちが「民主主義は当然のこと」という価値観が普及した地域にいて、他の価値観をさほど想定せずに済んでいるからです。』(P230〜231)

ここなどは、かねがね私が、北村紗衣に対して問うている論点と、そのまま重なる部分であろう。

つまり、北村紗衣が「女性差別」については語っても、他の差別である部落差別(同和問題)従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」等については、一言半句触れようとしないのは、どういうことかと、そう問うている問題だ。

ここで問われているのは、なぜ「すべての差別に反対」とは言わずに、「女性差別」だけしか語らないのか
そこに「合理的な理由」があるのなら、それを説明するのが、反差別を語って他人を批判する者の「義務」なのではないか、ということだ。

なぜなら『あるテーマを選ぶというその行為自体は、社会における何らかの立場表明としての意味を持つ』からである。

つまり私は、北村紗衣が「女性差別」のことしか語らないのは、それしか語らない積極的な理由があるのではなく、単に「女性である自分の、利益のことしか考えていないから」ではないかと、そう疑っているのだ。

だから「そうではない。ちゃんとした(肯定的な)理由がある」というのであれば、その「他の差別問題に一切言及しない理由」を説明する義務が、差別批判者である北村紗衣にはある。
それをせず、あたかも「差別問題」に軽重を見ているかのような北村紗衣の態度は、それ自体が「差別」的なものとしか言えないのである。

そんなわけで、北村紗衣の態度は、私から見れば『少なくともそのようなテーマ(※  の選び方)が彼ら(※ 私=年間読書人など)にとっては全く「中立」(※ 非党派的)に映らないだろう(※ 映らなくて当然のものでしかない)』ということなのだ。

そして、北村紗衣の「バランスを欠いたテーマ選択(限定)」に対して、周囲のフェミニストたちが、何の疑問も覚えないのだとすれば、つまり、

『私たちにとってその主題(※ の選び方)が「中立的」に見えるとしたら、それは私たちが「民主主義は当然のこと」という価値観が普及した地域にいて、他の価値観をさほど想定せずに済んでいるからです。』

ということと同じで、「女性差別のことだけ語っていればそれで十分だという、フェミニズム業界のぬるま湯にどっぷり浸かっていながら、その自覚が無い」ということになるのだ。

「女性差別」のことだけ語っていれば、それで済まされるような、ご都合主義的な空気の瀰漫した特殊空間にいて、『他の価値観をさほど想定せずに済んでいる』という「特権階級」だということなのである。

だがそうした認識は「地域的に共有された偏見」に過ぎない。
世の中には様々な「差別」が存在しており、そこに単純な軽重を設定することなどできないし、してはならない。

けれども、「そうとわかっていても」、すべての問題には物理的に対処し得ないから、テーマを限定するのだと言うのであれば、その「選択理由」を説明する義務が、「差別批判者」には存するのである。

「私は決して、それらの差別を無視しているわけでも軽視しているわけでもありません。ですが、私としては、これこれの理由で、この問題に、集中的に取り組んでいるのです」一一という説明、なるほどという理由があるのであれば、説明ができるはずである。

言い換えれば「自分の利得のため」だとか「いちばん目立てて、マスコミにもウケも良いから」といった理由で「女性差別」の問題だけを扱っているのであれば、そんな選択理由など、恥ずかしくて語りようもない、ということなのだ。

『 もちろん、「テーマの選択が政治性を持つ」ことは仕方ないにしても、それは研究の過程に政治性が入り込むこととは違うのではないか、という指摘は可能です。
 たとえば、公害問題や、歴史上の虐殺事件といった問題に対し、ある組織や人物にとって不利になる証拠を隠蔽した上で論文を書いたとしたら、それは「政治的」かつ「党派的」なデータの隠蔽ですし、研究不正に等しい行いです。』(P 231)

私が、北村紗衣の「女性差別」のことにしか触れないという点を問題視するのも、まさにそれが、隠岐さや香がここで言う、やむを得ない「政治性」ではなく、単なる「党派性」に過ぎないと見ているからである。
現に私は、北村紗衣の「女性差別のことしか語らない、偏頗なフェミニズム」のことを「党派的」という言葉を使って何度も批判してきた。

北村紗衣の「反女性差別」は「自身が女性であるが故の、女性の党派利益を求めているだけのものであり、反差別などではないのだろう」と。

だが、隠岐さや香の言葉になぞられえ言えば、一一それは「政治的」かつ「党派的」な利益誘導ですし、反差別運動における「不正」に等しい行い一一ということになろう。

『 論争になりやすいのは逆のケース、すなわち証拠として用いる材料を広げる場合です。たとえば、教育を受けた役所の人間が残した文書記録や、定量的に計測可能な証拠といった従来も用いられていた判断材料だけではなく、知的障害をもつ人の数十年前の記憶や、コンピュータによるシミュレーションなど、確実さにおいて劣る要素を持ち込む場合、前者は「実証的」だが後者は違うとして、拒否されることがあります。そして、そのような不確かなものを研究の材料に使うのは、政治的な意図があるからだと糾弾されたりするのです。
 事例ごとに事情は違うので、一般化は困難なのですが、科学史を踏まえて私が思うのは、どちらかといえば、検証する対象を増やす方が、検証の厳密さを求めてそれを避けるよりは実りが多いのではないかということです。
 先の例でいえば、二〇一八年現在、日本では過去の優生政策により障害者に対する強制的断種手術が行われたことが問題視されていますが、これも最初は当事者の証言を真剣に聞き、証拠となる資料を探した歴史家の努力がありました。また、地球温暖化問題が今世紀半ば、最初に話題になったときには、それがシミュレーションに基づく推論であることが問題視されましたが、現在はそうした手法が科学的推論の一つとして認知されています。
 以上のことを踏まえるならば、むしろ、「複雑な対象を前にして、価値中立を掲げることが持ちうる政治性」こそが念頭に置かれなければなりません。すなわち、マジョリティの価値観に浸っているために自らの政治性が自覚できていない状態のことを、「中立」という名で呼び変えていないかどうかを、改めて問い直す必要があるでしょう。』(P231〜233)

ここで言われていることは、フェミニズムにおける「交差性(インターセクショナリティ)」の問題そのままだ。

つまり、「女性差別」の問題は、「女性差別」の問題だけを専門的に考えていれば、その方が「正確だ」ということには、ならない

なぜなら「差別」という「人間的な事象」は、複雑な要素が絡まり合っているものであり、例えば「貧しい黒人女性」への差別は、単に「女性差別」であるばかりではなく、「人種差別」や「階級差別」なども絡んだ事象なので、それらの要素も総合的に考え合わせなければ、実態を捉え損なうことになるのである。

で、今どきの日本のフェミニストは、アメリカ初の「交差性(インターセクショナリティ)」という「言葉だけ」を、専門家ぶった知ったかぶりで持ち出して「多様な角度から考えなければならない」などと、分かったようなことを言うのだけれど、しかし実際には、「歴史性」や「地域性」の深く絡んだ、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」については、北村紗衣ほど徹底してはいないにしろ、積極的に触れようとはせず、もっぱら「女性差別」の問題ばかりを言挙げしがちである。
なぜなら、端的に言って、その方が、「専門外」のことに無知のままでいられるからなのであろう。

だが、そのような「知的貧困に由来する専門化」では、ここで隠岐さや香が、

『 事例ごとに事情は違うので、一般化は困難なのですが、科学史を踏まえて私が思うのは、どちらかといえば、検証する対象を増やす方が、検証の厳密さを求めてそれを避けるよりは実りが多いのではないかということです。』

というかたちでの、問題への取り組みはできない。

したがって、「女性差別」が重大な問題であると主張するのであれば、なおさら、それ以外の問題にも視野を広げるべきであろう。
つまり、単に「女性差別」だけを問題にするのではなく『検証する対象(※ としての差別の種類)を増やす方が、検証の厳密さを求めてそれ(※ 検証対象の拡張)を避けるよりは(※ 差別という現象を本質的に理解する上で)実りが多いのではないか』ということにもなるのである。

『 それに加えて、人間の理性の限界という問題もあります。実際、本人は真剣に研究をしている場合でも、無意識のバイアスで、ある証拠を完全に見逃し、自分の論点を支持する証拠ばかり集めるということがありうるからです。一九世紀において、女性の知性が男性に劣るとの見解を出したいくつかの研究には、明らかにこのような傾向がみられました。』(P 233)

『本人は真剣に研究をしている場合でも、無意識のバイアスで、ある証拠を完全に見逃し、自分の論点を支持する証拠ばかり集めるということがありうる』からこそ、「他者」の意見には耳を傾けるべきだし、「身内」での議論に満足するべきではない。

先の優生保護法」問題における、「専門外」の者の知見を受け入れたが故に、問題の解決ば早まったということがあるように、「身内的なパイアスのかかった物の見方」ばかりではなく、専門家は、可能なかぎり「他の視点」に開かれてあるべきなのだ。

例えば、北村紗衣は、自身の「映画評論」に対して、アマチュアの映画マニアである「須藤にわか」氏が注文をつけた際、これに対して、自分は「映画を研究している人間で、映画に関する知識のレベルが違う。先端の映画研究の成果も知らない素人は黙っていろ」と、そういう趣旨の高慢きわまりない反論をしたが、しかし、その後、その北村紗衣が専門家ぶって引用していた、英語文献の引用に、恣意的な「切り取り」がなされているとの指摘があり、北村紗衣の「専門家」ぶりが、いかに当てにならないものであるかが、明らかにされた
また北村紗衣は、こんな重大な批判的指摘に対しても、反論をしていないのである。

「専門家」を名乗っていても、その実情がこのようなものであるだからこそ、隠岐さや香も本書で何度か指摘ている「学問のタコツボ化」には用心しなければならないし、「外部の目」を尊重する気構えが必要ともなるのである。
言うなれば「知の第三者委員会の検証」が必要なのだ。

『 私たちはバイアスのかかったやり方でしか世の中を見ることはできませんが、諸分野の方法というのは、地域や文化を超えて人々が選び取ってきた、いわば、体系性のあるバイアスです。体系的なやり方で、違う風景を見て、それを継ぎ合わせる。または違う主張を行いながらも、それを多声音楽のように不協和音も込みで重ねあわせていく。そのことに
こそ、様々な分野が存在する本当の意義があるのではないでしょうか。』(P233〜234)

不協和音も込みで』という部分が、特に重要な指摘だろう。

無論、ここで語られているのは、
「すべての学問は、おのずと研究対象を限定したり、研究方法を限定したりするため、一定のバイアスを引き受けざるを得ない。
だからこそ、その長所を生かしつつ、その短所を補うためにも、他の学問にも目配りすることのできる柔軟さが必要だ」
という「学問における反タコツボ論理」だと言えよう。

だが、これは何も「学問」に限られた話ではない。
なぜなら、同じ「学問」をやっている「学者」だと言っても、現実には、北村紗衣の実例が示すとおりでピンからキリまでいて、ここでの議論では、そもそも「キリの学者」は、問題外、配慮の対象外なのである。

つまり、「学者の9割がクズ」なのであれば、そんなものと連携するよりも「優れた1割のアマチュア」と連携した方が、よほどマシだし、タコツボから出ることも出来ようはずだ、ということである。
実際、「現代フェミニズム研究会」を代表するような学者でも、その学問レベルはお寒いかぎりではないか。

『 自然科学諸分野に特化した試みもあります。もともと、自然科学においては、アマチュアによる彗星発見や、鳥類の観察など、インディペンデント・スカラーといえるレベルの人々の研究が盛んでした。それに加えて近年は、Webをはじめとする情報技術の進展により、特殊な専門知識を持たずとも計測し、データを共有できるようになりました。より広い範囲の人々が本格的な科学研究に関われるようになったのです。現在も世界中で、集合知により数学の問題を解く試みや、バイオ燃料になりうる植物を探す試みなど、様々なプロジェクトが立ち上がっています。』(P 239)

「インディペンデント・スカラー」とは、大学や研究機関などの特定の組織や団体に所属せず、そうした既存の枠組みにとらわれずに、自身の興味や関心に基づいて自由な発想で、独立して研究活動を行う個人のことを言う。

つまり、ある程度の水準は求められるにしろ、やはり、アマチュアリズムを捨ててはいないアマチュア研究者のことであり、日本で有名なところでは、たとえば、南方熊楠牧野富太郎などを思い浮かべれば良いだろう。

彼らは、アマチュアだからと言って、決して、そんじょそこらの学者などでは及びもつかない見識を持っていた。
しかしながら、そうであっても、その「無肩書き」の故に、「肩書き」だけは有する学者たちに「差別」され、研究を「搾取」された(パクられた)という事実は現にあったし、それは今でもあるのだ。

ともあれ、「フェミニズム」学会を含めて、ほぼすべての学会における、「肩書き差別」は存在する。
「アカハラ」は、何も「性差別」だけではないのである(階級差別でもある、ということ)

『 複雑になること、多様になることは、混乱や無秩序だけを意味するわけではありません。むしろ、新しい視点を持つ人びとやその問題関心を学問の世界に呼び込み、豊かにしていく側面があります。
 事実これまでも、社会の変化や技術の発展により、数世紀にわたって、新しい種類の人びとが研究の世界に参画し続けてきました。古い話をすれば、教会の外に広がった自然科学諸分野も、新興産業家や労働者層を巻き込んだ社会科学諸分野も、そのたぐいです。
 比較的新しい例をあげれば、ジェンダー研究や障害学のような「学際」系分野の発展は、女性や障害者の高等教育への権利が阻まれていた一〇〇年前には想定できませんでした。それが今存在し、法律や経済の仕組み、そして科学・技術諸分野への働きかけをも通じて、私たちの社会を変えつつあります。
 一般に、異なる視点を持つ者同士で話し合うと、居心地が悪いけれど、均質な人びと同士の対話よりも、正確な推論や、斬新なアイデアを生む確率が高まると言われます。そう考えると、文系・理系のような「二つの文化」があること自体が問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそが問われるべきなのでしょう。あるいは、論争があったとしても、相手に対する侮蔑や反発の感情が先に立って、カントがその昔目指したような(第一章)、実のある討論ができなかったことに悲劇があるのではないでしょうか。このことは、たとえこの先「文」・「理」という分類が消え、別のものに変わったとしても、変わらないはずです。
 違いが活かせてこそ、補い合うことができる。集合知が発揮できる、そう思うことから、一歩が踏み出せるような気がしています。』(P249〜250)

これは、本書の「おわりに」の中でも、締めくくりの結論にあたる部分である。

つまりこれが、古今東西の「学問史」を瞥見してきた隠岐さや香の「結論」だということになるわけなのだが、私はここで語られていることを「心にもない綺麗事のタテマエ」だとは思わない

だからこそ、たとえ『異なる視点を持つ者同士で話し合うと、居心地が悪』くなることがあったとしても、

『一般に(…)均質な人びと同士の対話よりも、正確な推論や、斬新なアイデアを生む確率が高まる』

と言われており、

『複雑になること、多様になることは、混乱や無秩序だけを意味するわけではありません。むしろ、新しい視点を持つ人びとやその問題関心を学問の世界に呼び込み、豊かにしていく側面があります。』

と、そう本気で考え、

『 違いが活かせてこそ、補い合うことができる。集合知が発揮できる、そう思うことから、一歩が踏み出せるような気がしています。』

と、本気で言うのであれば
一一なぜ、隠岐さや香「現代フェミニズム研究会」「設立趣意書」を是認し得たのか、その理由を説明する義務があろう。

本書において、読者に向けて語ったことが、「嘘」ではないと言うのであれば、だ。

そして、読者の私としては、本書において隠岐さや香が「心にもない嘘」を語ったとは思わない。本稿に引用した言葉は、いずれも隠岐さや香の本心から出た言葉であると思っている。
また、だからこそ私は、本稿の最初の方で、隠岐さや香を高く評価していると明言しておいたのだ。

では、そんな隠岐さや香は、なぜ「オープンレター」に参加し、「オープンレター」に対する批判に対して応答することもなく、その後も「オープンレター組」と行動を共にしているのか。一一という問題だが、無論、これもすでに書いたように、本人が正直に語らないかぎりは、その真相はわからない。

しかし、「わからない」と言うだけでは本稿も締まらないので、ここでは、私の「推理」を示しておこう。

まず、隠岐さや香の場合は、前述のとおり、「学問の自由」の問題が主たる取り組み対象であり、その意味で「日本学術会議」問題が中心課題でもある。

だから、実際問題として、北村紗衣らの「フェミニズム」や「トランスジェンダリズム」について、十分に理解を持たないまま、その運動に「協賛」してしまっているのではないか、という疑いである。
具体的に言えば、北村紗衣や、清水晶子河野真太郎田中東子三木那由他といった人たちの本を読んでおらず、ただ「女性差別やトランス差別のために尽力している人たち」だという程度の形式的な理解だけで、いわば「名義貸し」的に参加している、「世間知らず」ということなのではないだろうか。

実際、本書『文系と理系はなぜ分かれたのか』もそうだが、隠岐さや香の研究ジャンルである「学術史」というのは、膨大な資料を読み込まなければならない類いのものなのだから、まだ評価も定まっていない、今どきのフェミニストの著作など、読んでいる暇はないはずなのだ。
だから、「読まずに批判する人」と同様に「読まずに高く評価し、協力してしまっている」ということなのではないか

あとひとつは、たしかに学者としても評価できるし、人としても「良い人」だとは思うのだが、良い人というのは、えてして「押しの強い人間には、押し切られてしまう」という傾向があって、隠岐さや香もそのパターンなのではないか、ということである。
平たく言えば「学者の世間知らず」あるいは「世知に疎い学者バカ」だということである。

この推理が、贔屓の引き倒しであるというのであれば、隠岐さや香さん、ご自分の口から「なぜ、オープンレター現代フェミニズム研究会などに参加し続け、しかもそれへの批判に応答しないのか」、その理由を「説明」をなさって下さい。

いちおうは私も、あなたの読者なのですから、その説明を受ける権利はあると思いますが、いかがでしょうか?


(2025年6月17日)

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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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