ロンドン大学式不都合な証拠の隠し方 タランティーノ著書編
ここでは、人文系の常識である「不都合な証拠を隠す」ことによって、架空の記述が文献にあるように見せられるとともに、その架空の記述をもとに他者の意見を間違いだと断定できるという実例を示します。
はじめに
「不都合なデータ(証拠)を隠すのは当たり前」というのは人文系で当然のことです。これは活動家で東京大学名誉教授である上野千鶴子先生の持論であり、それを慶應義塾大学教授である小熊英二先生が「(不都合な証拠を隠すのは)正しい選択」と評価したことを含め、書籍に掲載されたことにより、人文系以外にも知られるようになりました。
上野 私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある。
古市 データを出さないこともある?
上野 もちろんです。
古市 それはいいんですか?
上野 当たり前よ。
しかし、不都合な証拠を隠した具体例が知られていないことから、隠したら実際どうなるのかが人文系でない人たちには実感しにくいという問題がありました。
そこでここでは、東京大学卒、ロンドン大博士である武蔵大学人文学部教授北村紗衣先生のネット上の次のブログを具体例として取り上げます。北村先生は、大学教授をはじめとする学術機関に籍を置く人を含む約1,300人が署名した、誰もが参加できる自由な言論空間を作っていくことを目的としたオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の呼びかけ人であることで有名です。また、ウィキペディアの執筆者・編集者としてマスメディアに登場する(NHK Eテレ、TBSなど)ウィキペディアの顔としても知られています。
これは学術的な文章ではありません。しかし、ご自身がウェブメディアに発表した文章に対する批評への返答であり、事典や研究書に基づき学問的な内容だけを「研究者」の立場で返答したことを明言しているので、学術的な作法に基づいた文章とみなせます。また、ロンドン大学で博士号を取得した北村先生にとって、「不都合なデータ(証拠)を隠すのは当たり前」であるのを確認することは、この人文系の常識が海外でも当たり前であることを示す点で重要です。
--
須藤さんがアメリカンニューシネマがお好きなのはわかりますが、これはまったく歴史的な経緯をふまえていない議論です。むしろ須藤さんのエントリのほうが、現在の映画批評で言われていることに比べるとだいぶ違うので、アメリカンニューシネマあるいはNew Hollywood(上記記事で触れているように、これは日本語と英語では微妙にズレた意味で使われることもあると思いますが)について大きな誤解を招く可能性があると思います。私は基本的に、先日のエントリではNew Hollywoodについてはそこらへんの映画に関する事典や最近の英語の研究書にのっているようなあたりさわりのないことしか話していません。映画の歴史について、ひとりの人の個人的、かつ非常に特殊と思われる見解があたかも一般的な考え方であるかのような形で広がると困るので、おかしいところを指摘するエントリを出します。
(略)
なお、私は本職はシェイクスピア研究者ですが(とはいえ私はシェイクスピア映画について日本語と英語で査読論文を出していますし、この間もシェイクスピアと映画について学会発表したばかりなので、インフルエンサーではなく映画についての論文も書いている研究者です)、(略)
強調は引用者による。
つまりこれから見ていくのは、北村先生が東京大学、ロンドン大学で身に着けた人文系の常識で書かれた文章です。
人文系の常識にもとづく、不都合な証拠の隠し方として、ここでは2種類の方法に注目します。
A 一部分だけ引用し、自分の要約を加えて、自分の主張の根拠にする。
B 一部分すら引用できない証拠は無視する。
「不都合な証拠を隠す」と聞いたとき、単純な B がまず思いつきますが、それ以外にもあえて見せる部分を作りつつ隠す方法 A もあります。
ここではA, B の1つの例として、北村先生による「Cinema Speculation」(映画に関する思索、クエンティン・タランティーノ著)の引用を取り上げます。
クエンティン・タランティーノ著「Cinema Speculation」に関する不都合な証拠の隠し方
A 一部分だけ引用し、自分の要約を加えて、自分の主張の根拠にする。
まず、Aについて見てみましょう。
たぶんNew Hollywoodの映画に極めて詳しいのはたしかだと思われるクエンティン・タランティーノは著書Cinema Speculationにて、New Hollywoodの特徴について、シニシズムを代表的特質としつつ、こう述べています。
The darkness, the drug use, the embrace of sensation-the violence, the sex, and the sexual violence. (p. 106)
闇、ドラッグ使用、興奮を受け入れることー暴力、セックス、性暴力。(拙訳)
このわずか17語の英文は、引用された通りに文献に書かれていますが、不都合な証拠が2段階で隠されています。文献は無料公開されていないので、ネット上で参照できる情報を使って、不都合な証拠を見ていきましょう。
第一段階
北村先生が引用したのと同じと思われる文章を英語版のウィキペディアの New Hollywood の(Characteristics 特徴の項目ではなく)Interpretations on defining the movement(New Hollywood の定義における解釈)の項目から引用します。
regular moviegoers were becoming weary of modern American movies. The darkness, the drug use, the embrace of sensation-the violence, the sex, and the sexual violence. But even more than that, they became wear of the anti-everything cynicism... Was everything a bummer? Was everything a drag? Was every movie about some guy with problems?
北村先生が引用していない部分を引用者が強調した。
(参考訳)定期的に映画を見る人たちは(1970年前後当時の)前衛アメリカ映画にうんざりし始めた。悪、薬物使用、そして暴力、性、性暴力といった興奮の容認。しかしそれよりも、彼らはすべてに反抗する冷笑主義にうんざりし始めた。何もかもが不愉快? 何もかもが面倒? どの映画も問題のある男の話?
この引用から次の2つがわかります。
タランティーノ監督はこの引用部分では自分の見解を述べていない。
New Hollywoodの特徴とはどこにも書いていない。
書いてあるのは、「映画をよく見る人たちが前衛的な映画にうんざりし始めた」ことです。強いて主な特徴をあげるなら、冷笑主義だけが当てはまりますが、それもうんざりした主な特徴であって、北村先生が述べているような「New Hollywoodの特徴についての代表的特質」ではありません。
この指摘に対する(仮想的)反論
映画をよく見る人たちにタランティーノ監督が含まれるはずだから、タランティーノ監督が述べているとした北村先生は正しい、つまりこの指摘が間違っていると思う人もいるでしょう。
Wikipedia にあった引用が(Regular ではなく)小文字の r から始まっているように、これはまだ部分的でしかない特殊な引用です(Wikipedia だから普通を望んでも仕方ない)。そこで別の隠された証拠を見てみましょう。
第二段階
引用した文章を含むパラグラフ全体を引用している、映画「去年の夏」に関する書き込みがネット上で誰でも確認できるので、そこから再び引用しましょう。
Audiences who didn't live in New York or Los Angeles, or didn't read the New York Times, or the New Yorker, or the Village Voice, began to become afraid of modern movies. After a steady diet of movies like The Panic in Needle Park, Joe, Lenny, Play It as It Lays, The Sporting Club, The Hunting Party, Last Summer, and Dusty and Sweets McGee, regular moviegoers were becoming weary of modern American movies. The darkness, the drug use, the embrace of sensation—the violence, the sex, and the sexual violence. But even more than that, they became weary of the anti-everything cynicism. As Pauline Kael suggested at the beginning of the decade, are the best movies suggesting the only sensible recourse for Americans is to get stoned?
Was everything a bummer?
Was everything a drag?
Was every movie about some guy with problems?
北村先生が引用していない部分を引用者が強調した。
(参考訳)ニューヨークやロサンゼルスに住んでいなかったり、ニューヨークタイムス、ニューヨーカーやビレッジボイスといった出版物を読んでいなかった観客は、前衛映画を不安に感じるようになりました。「哀しみの街かど」、「ジョー」、「レニー・ブルース」、「Play It as It Lays」、「The Sporting Club」、「さらば荒野」、「去年の夏」そして「Dusty and Sweets McGee」といった映画を見たあと、(前述の引用と同一のため略)映画批評家のPaulin Kael がその10年前に示唆していたように、アメリカ人にとって唯一の賢明な手段は酒や麻薬で気分を高揚させることだ、と最高の映画は示唆しているのだろうか?(前述の引用と同一のため略)
タランティーノ監督は幼少にロサンゼルスに引っ越しているので、このパラグラフにおける「(うんざりし始めた)映画をよく見る人はタランティーノ監督」という解釈はあてはまりません。そして、具体的に挙げられた映画を見た感想として、それらを見た人がうんざりし始めたということなので、New Hollywood に分類される映画一般について書かれたパラグラフではありません。さらに、英語版 Wikipedia の New Hollywood、日本語版ウィキペディアのアメリカン・ニューシネマにそれぞれ該当する映画作品のリストがありますが、それらのリストにここで挙げられている8つの映画が入っているかは次の通りです。
英語版 Wikipedia の New Hollywood のリスト 「哀しみの街かど」、「ジョー」、「レニー・ブルース」のみ
日本語版ウィキペディアのアメリカン・ニューシネマのリスト 該当なし
参考まで確認時点で、New Hollywood に掲載されている映画は277作品、アメリカン・ニューシネマに掲載されている映画は39作品でした。北村先生がアメリカン・ニューシネマに該当しないと明言した「ダーティーハリー」は英語版 New Hollywood のリストには含まれ、日本語版アメリカン・ニューシネマのリストには含まれていないので、ここでは日本語版アメリカン・ニューシネマのリストを参照する方が、北村先生の考えに近づけるでしょう。よって、性描写や暴力描写にうんざりし始めたのは、New Hollywood の映画作品を見たからではなく、当時の(具体的に作品名を示された)映画を見た後に過ぎません。
以上より、北村先生が引用した説明はNew Hollywoodに対するものではないことは明らかです。WikipediaのNew Hollywoodの項目に引用する文章としても不適切でしょう。
B 一部分すら引用できない証拠は無視する。
クエンティン・タランティーノ著「Cinema Speculation」は別のところでNew Hollywood について述べています。その個所の一例として「New Hollywood in the Seventies」の章の第10パラグラフを引用します。
However, in America, despite the best efforts of men like Stanley Kramer and Otto Preminger, Hollywood movies still remained stubbornly immature and committed to the idea of fun for the whole family. But with the rise of the sixties counterculture, the explosion of a youth culture movement, the new maturity that was introduced to popular music, and the excitement generated by films like Bonnie and Clyde, The Graduate, and especially the surprise success of Dennis Hopper’s Easy Rider, a New Hollywood was ushered in. An adult-oriented Hollywood. A Hollywood with a sixties' sensibility and an anti-establishment agenda.
(参考訳)しかし、アメリカでは Stanley Kramer や Otto Preminger といった人たちの努力にもかかわらず、ハリウッド映画はまだ頑固に未熟で、家族全体に向けた娯楽という考えに固執していました。しかし、60年代の反体制文化の台頭、若者文化運動の爆発、ポピュラー音楽に導入された新しい成熟、そして「俺たちに明日はない」、「卒業」、特に驚くべき成功を収めたデニスホッパーの「イージーライダー」といった映画から生み出された興奮とともに、New Hollywood が到来しました。それは大人向けのハリウッド映画であり、60年代の感性と反体制の意図を持ったハリウッド映画でした。
ここでタランティーノ監督は、「New Hollywood」という固有名詞を示したうえで、大人向けの映画、1960年代の感性と反体制の意図という3つを特徴として挙げています。(ただし、最初期の作品だけを言及した、始まりの時期に対するタランティーノ監督の評価と解釈できるので、New Hollywood のカテゴリに入る映画全体を考慮した特徴とまで主張するのは困難に思えます。)
しかしこの記述は、性描写、暴力描写のどちらにも触れていない、北村先生の主張にとって不都合な証拠なので隠されました。
余談 自然な疑問
北村先生は、タランティーノ監督の著書以外にも、ご自身の主張のための根拠を示しています。例えば、『世界大百科事典』オンライン版、オクスフォード映画事典(オンライン版)、ブリタニカ百科事典(オンライン版)などを根拠として挙げられています。監督の著書以外のこれらが確かならば、「タランティーノ監督が述べてもいない、New Hollywood の特徴とも書いていない」ことをわざわざ監督が書いた主な特徴と見せかけるようにする必要があったのでしょうか。それが人文系の当たり前だとしても。参照しなければならない文献ではありませんから、何も触れなければ終わる話なので、よくわかりません。また、オクスフォード映画事典(オンライン版)といった他では不都合な証拠が隠されていないのでしょうか。
余談 オープンレター署名者、ウィキペディアに対する裏切り
北村先生は、一般の人々がアクセスしづらい洋書(複数の図書館の所蔵を横断検索できるウェブサービスで検索した限りでは図書館の充実した東京都ですら所蔵がなく、引用されたわずか17語の前後の文章を確認するには購入しなければいけない文献)から(大きなまとまりではなく)ごく一部分だけ引用し、そこに独自の解釈を足して議論の根拠としました。これは、議論から(文献の参照に障壁のある)一般の人々を実質拒絶していて、「誰もが参加できる自由な言論空間を作っていきましょう」の呼びかけに応じ、約1,300人が署名したオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の精神とは相いれません。本当は自由な言論空間という看板は単に署名者を釣るためのもので、個人攻撃のために署名させたのではないか、という推測に、北村先生の言動は妥当性を与えるものです。
また、北村先生はウィキペディアの代表的人物として数多くマスメディアに登場していることは冒頭に紹介しました。例えば、ウィキペディアの記事の質をよりよくしようという人の代表としてNHK Eテレに出演しました。
scene 07記事の質をよりよくする取り組み
ウィキペディアの編集に参加する人をふやすことで、かたよりをへらし、記事の質をよりよくしようという人たちがいます。その一人、武蔵大学准教授の北村紗衣さん。(略)
scene 08ルール1.出典をのせる
北村さんたちのグループは、記事を書くときのルールをもうけています。(略)記事を書くときのルールその1.出典をのせる。「どこからその情報を持ってきたか、はっきりと書く必要があります」(北村さん)。たとえば、テレビで偶然知ったことなど、何でも書いてよいということではありません。信頼できるニュースや本、論文などにのっている情報でなくてはならないということです。
ところで、そのウィキペディアでは2012年に次のような指摘がありました。
ウィキペディアでは出典の重要性が随所で語られていますが、近年、出典を巡る諍いも散見されます。最近見かけた例ですと「出典として文献Aを明記し、記述を追加した。ところが、他者が文献Aを検証したところ、そのような記述は全く存在しなかった」というパターンがございます。
北村先生の言動は、この指摘に類似しているとみなせるでしょう。今回の例でいえば、引用されたわずか17語は確かに文献に記述されています。しかし、その文献をもとにしたはずの北村先生独自の記述は文献で確認できませんでした。
人文系の常識「不都合な証拠を隠すのは当たり前」を身に着けた北村先生がウィキペディアの記事の信頼性を高める代表的人物ということは、「不都合な証拠を隠すのは当たり前」がウィキペディアでは問題にならない、ということです。ウィキペディアにおいては、信頼できる文献が出典でも、ウィキペディアの記述を信頼せず、その文献を直接確認することが不可欠だ、ということが今回見てきた例からわかることです。
終わりに
東京大学卒、ロンドン大博士である武蔵大学人文学部教授北村紗衣先生の文章を例に、不都合な証拠を隠すことで、架空の記述が文献にあることにし、自分の主張が正しく、相手が間違っていると批判できることがわかりました。つまり、架空の記述を本当のこととして扱い、相手を批判することが人文系の当たり前だということが示されました。
