グレタ・ガーウィグ監督 『バービー』 : フェミニズムの限界と北村紗衣の誤魔化し
映画評:グレタ・ガーウィグ監督『バービー』(2023年/アメリカ映画)
正直なところあまり期待していなかった作品なのだが、フェミニズムテーマの作品だということで、見ておくことにした。
本作と言えば、同時期に公開された、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』との合わせ言葉で「バーベンハイマー」なんて言葉がネットミームとして広まったことだけが記憶に残っている。
そのおかげと言っては何だが、本作『バービー』も、『オッペンハイマー』と同様、世界的に大ヒットしたそうだが、だからこそ私としては「けっ、バカバカしい」という印象だけが強く残っていたのだ。
で、今回見てみたところ、どうであったか?
これは、はっきり言って「失敗作」だと思う。
明らかにフェミニズム的なテーマを扱いながらも、しかし「ああでもない、こうでもない」といった、総(枯)花的な内容を、主演のマーゴット・ロビーの美しさと愛らしさで、持たせているだけの内容だったからだ。

もちろん、試行錯誤的なものが悪いと言うのではない。
この世の中、簡単には割り切れないことばかりであり、フェミニズムが問題とする「性差別=女性差別」の問題も、「差別反対」を叫んでいれば片づく問題でもなければ、女性が権力を握れば世の中が良くなるというほど単純な問題でもない、というのも明らかだからだ。
女性が権力を握れば、間違いなく「男性差別」が行われるだろう。
なぜなら、人間とは「差別する生き物」であり、そもそも「生き物は差別するもの」だからで、「女性も人間であれば、差別する生き物」だからである。
したがって、理想としての「男女平等な社会の実現」ということから、「フェミニズム」の問題をリアルに考えた場合、「これが正解だ!」「こうすれば解決する」などという「具体的な方策や方向性」などといったものは、示せなくて当然なのだ。
したがって、それを本作で描けなかったのも当然。
よって、「理想の平等社会」などというものを、映画的に「具体的に描く」のが「不可能」だからこそ、映画的には、ああでもない、こうでもない、といったものになってしまわざるを得なかった。
だが、本作の問題は、「正解は出せない」とか「フェミニズムだけでは、理想の社会は築けない」という「事実」に薄々気づいていながら、その事実の明言を避けて、「理想の社会に満足して生きるよりも、現実社会の困難や不条理に立ち向かって生きていく方が、むしろ人間的に充実した生き方なのではないか」みたいな、「無難な綺麗事」に落とし込んでしまっているところ(誤魔化し)にある。

これは、本作が明確に「フェミニズム映画」であることを意識して作られて、その目的として「フェミニズムのお題目を唱えることで、女性をエンパワーメントする(かのような)娯楽作品」であることが目指されていたからだろう。
つまり「フェミニズムだけでは、理想社会は築けない」ということを、正直に明言できない宿命を背負った作品だからだ。
商業主義映画を撮る監督に、そこまでの覚悟など無かったのである。
それにしても、どうしても「フェミニズムだけでは、理想社会を築けない」のか?
それは、「フェミニズム」とは、現状における男性中心主義社会の「是正」を目指す「対処療法的な思想」であって、「その先」の「理想社会のビジョン」までは、持っていないからである。
ひとまず「女性差別が解消されなければならない」。これは確かなことだ。
しかしながら、それで「男女平等」が実現するとは考えにくい。
なぜなら「男女平等」とは、社会全体において、すべての側面(場所)で、「同時に」実現するというわけではないからである。
つまり、男女平等が早く進む場所もあれば、遅れる場所もある。
個人にしたところで、男女平等の意識を早く身につける人と、なかなか身につけられない人がいる。
そのため、全体としては、言い換えれば、平均的には「男女平等が実現した」と言えないこともないような社会(状態)が実現したとしても、その社会を仔細に見ていけば、「女性差別」と「男性差別」が同時かつ混交的に存在している社会にしかなり得ない。
ある場所では「いまだに女性差別が解消されていない」し、別のある場所では「女性が男性を差別するまでになった」といった具合になる。
どうしてこうなるのかというと、それは、それぞれの場所が「よそを見て、現状を判断する」からである。
たとえば、ある女性は次のように考える。
「たしかに私の身の回りでは、おおよそ男女平等は実現されているように思う。しかし、少し視野を広げて見れば、まだまだ女性差別は残っているのだから、ここで気を抜くことなく、これまでどおりに、女性の権利獲得運動を推進していかなければならない」
しかしだ、その努力の結果が、期待どおりに「遅れている場所」に効果を及ぼすとは限らない。
むしろ、すでにフェミニズムの効果が現れて、男女平等が実現している場所にこそその効果が現れて、女性中心社会へと傾くことになるだろう。
それでも、まだ「遅れている場所」が残っていれば、フェミニズムの運動を止めることは出来ないから、女性中心社会がさらに強化され、おのずと「男性差別」が生まれるだろう。
そうなると当然、男性は「男性差別を解消しなければならない」と考えるだろう。
そしてその場合、その「男性差別解消運動」は、まさに「まだ女性差別が残っている場所=女性の立場が弱い場所」でこそ進むことになり、「女性差別」こそが強化されることになる。

すると、それを見た女性は「反動だ。女性はますますフェミニズムの運動に邁進しなければならない」と考えるのだが、その努力は、主に「女性優位の場所」でこそ推進されることになり、ますますそうした場所では「男性差別」が強化されることになり、男性の「合理的な反発」を招くことにもなる。
一一という「悪循環」を招くのである。
つまり、「男女平等社会」というと、私たちは単純に「全体がフラットな状態(平衡状態)」を思い浮かべるけれども、実際には、そんな状態にはなり得ない。
実際には、デコボコのある状態(均衡状態)にしかなり得ないのだ。
例えばそれは「世界平和」という言葉を思い出せば、わかりやすいだろう。
「世界平和」とは、当然のことながら、全体が平和な状態のことを意味するし、私たちはそうした「イメージ」を持つ。
しかしながら、現実の世界では、その中に独立国家をはじめとした、様々な場所(地域)やレイヤーが存在しており、それらが同時に同様に「平和」になることなど、あり得ない。
すると、その国が良い状態でも、状態が同じではない隣国の影響は決して避けられず、徐々に状態は悪化するだろうし、逆に現状が好ましいものではない国でも、長い目で見れば、今よりはマシになるだろう。
つまり、「男女平等」であれ「平和」であれ、それが現実に可能であり得るのは、せいぜい「平均的(均衡的)には」という条件付きなのだ。
「平均的には男女平等の実現した社会・けれども、各個論(部分論)としては、平等ではない場所も多々ある」とか「全体的には世界は平和だけれども、細かく見ていけば、そうではない場所も多々残っている」ということになる。
つまり、この現実世界においては、「男女平等」であれ「平和」であれ、同時にすべての場所でそうした理想の実現した「フラットな状態」になることはあり得ず、細かく見ていけば「細かなデコボコのある状態」でしかあり得ない。
しかも、そのデコボコが相互に干渉し合って、高いところは下に引かれて低くなり、低い場所は上に引かれて高くなるという「上下運動」を繰り返して、まるで「さざ波立った海面」のような(永遠のシーソーゲーム的な)状態にしかならないのである。

だから、究極的には、「男女平等社会」も「世界平和」も、実現することはない。
それは「実現不可能なもの」であり、しかし「目指されるべきビジョン」なのだ。つまりそれは、「常なる理想」だということである。
だが、本作『バービー』は、そうした予感を持ちながらも、そうしたシビアなビジョンを語る勇気を持たない、凡作だったのだ。
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先日、レビューを書いた 映画案内書『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』 (略称 『女の子が死にたくなる洋画100選』 )で、著者の北村紗衣は、本作を次のように紹介している(全文引用)。
『バービー』
人生の意味を探して
マテル社から1959年に発売されたバービー人形は長きにわたり、性差別的だという批判にさらされてきました。定番のバービーはブロンドでスタイルのいい白人女性で、現実離れした体型や画一的な美の基準を理想化するおもちゃだと指摘されています。長い年月を経て体型が変わったり、人種や仕事などが違うモデルが増えたりもしていますが、それでも厳しい目が向けられてきたことは間違いありません。
そんなバービーを一風変わった自分探しの物語に仕立て上げたのが2023年の映画『バービー』です。監督のグレタ・ガーウィグはフェミニズム的なアート映画を得意としてきました。
この映画もびっくりするほど哲学的で、フェミニズム風味の強い作品になっています。
マーゴ・ロビー演じるヒロインである定番バービーはバービーランドに住んでいます。バービーランドはいろいろな型のバービーや、そのボーイフレンドであるケンなどが住むおとぎの国のような場所で、政治からゴミ収集まで、社会のあらゆる役割をバービーたちが担っています。ケンはバービーのボーイフレンドというだけで、それ以外にたいしてやることがありません。
バービーランドには死も暴力もありません。まるでユートピアのようですが、実は相当いびつな場所です。ユートピアが堕落した状態をディストピアと言いますが、男性であるケンが女性であるバービーの添え物のように扱われ、また女性でもケイト・マッキノン演じるへんてこバービーのような変わり者は受け入れてもらえないバービーランドはけっこうなディストピアだと言えます。
バービーランドは現実社会を逆転させた映し鏡です。ケンのような男性が気の毒な状況に追い込まれていますが、現実社会では女性が男性の添え物のように扱われ、男性である誰かの妻とかガールフレンドといった立場でだけ認識されて、本人の人格や関心がちゃんとした敬意を払ってもらえないということがよく起こっています。バービーランドが問題ある場所に見えたとしたら、現実社会も同じくらい怖くて不平等なのだということに気づいたほうがよいでしょう。
この映画は、定番バービーがそんなバービーランドを抜け出し、現実社会で苦労しているさまざまな女性たちと出会い、自分の人生の意味とは何なのかを考える旅を描いています。ピンクが大好きなブロンド美女が人生と向き合うようになる‥‥‥という展開は2001年の『キューティ・ブロンド』をほうふつとさせます。しかしながらバービーの物語はエルの物語とは違い、恋愛や仕事があれば人生はうまくいく‥‥‥というような楽観的な道を辿りません。この映画で提示されているのは、たとえつらくとも自由意志で考えて選ぶことが良き人生を生きるために大事だという考えで、バービーの人生は始まったばかりです。『バービー』はこれから人生で困難な選択に直面するであろう若い女性に寄り添ってくれるような映画です。
(P102〜103)

見てのとおり、北村紗衣は本作を、
『びっくりするほど哲学的で、フェミニズム風味の強い作品になっています。』
と評しているが、拙レビューにおいて縷々説明しておいたとおりで、同書での映画『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督/2012年)についての北村紗衣の評価が、「哲学オンチ」による的外れなものでしかなかったことからも明らかなとおり、本作『バービー』に対する『哲学的』だという北村紗衣の評価もまた、所詮は「哲学オンチ」による「よくわからなかった」という感想の、誤魔化し的な言い換えでしかない。
では、どうして北村紗衣には本作が理解できなかったのかというと、それは、北村紗衣が「フェミニズムの限界」を、認められなかったからなのだ。
本作の限界が、「フェミニズムの限界」を直視しきれなかったところにあったように、北村紗衣も、本作の「わかりにくさ」が「フェミニズムの限界を直視できなかった」という点にあることを直視できなかった。したがって、本作の難点を、ありのままに認めることが出来なかった。
さらに言い換えれば、その「わかりにくさ」の原因を直視するのを避けたからこそ、北村紗衣には本作が理解できなかった。
作品そのものを見ないで、作品を理解することなど、出来るわけがないのである。
(またそのくせ、正直に「わからなかった」とは言わずに、「哲学的」と評することで、わかったふりをして誤魔化すところが、まるで素人と大差のない、さすがの三流性だとも言えよう)
そんなわけで、本作『バービー』が図らずも描いてしまっているのは、「フェミニズムの限界」である。

なお、このシーンは映画『マトリックス』の有名な「赤い薬と青い薬」のシーンのパロディ。本作冒頭の『2001年宇宙の旅』のパロディと同様、本作には「わかりやすいパロディ」シーンが多いが、これは「フェミニズムの限界」をまともに描くことからの「逃避」だと見ても良いだろう)
たしかに「女性差別は解消されなければならない」し、「男女平等社会は目指されるべき」なのだが、それが実現した「理想社会」の具体的なビジョンが、原理的に描けないという現実(だからこそ、理想世界を具体的に描こうとすると、それはディストピアへと転化してしまうという現実)を直視できないところに、「対処療法的な思想」としてのフェミニズムの限界がある。
無論、実現し得ない未来のことを心配しても仕方がなく、とにかく今は目の前にある「女性差別」を減らしていかなければならない、というのは事実であろうし、間違ってもいない。
しかしながら、だからといって、「具体的には描き得ないビジョン」について、「描き得ているというフリ」をし続けるかぎり、フェミニズムには、どこかしら「欺瞞」性が付きまとわざるを得ないし、本作のように「描き得ない理想を描こうとする」と、無理が生じて、誤魔化さざるを得ないということにもなるのだ。
本作の「わかりにくさ=結局何が言いたいのか?」という特徴は、本作が、肝心なところを「口をつぐんで誤魔化している」が故の、当然の帰結だったのである。
(2025年11月3日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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