新房昭之監督・虚淵玄脚本 『魔法少女まどか☆マギカ』 : 明るすぎる光には、暗すぎる陰が伴う。
テレビアニメ評:新房昭之監督・虚淵玄脚本『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年・全12話)
本作『魔法少女まどか☆マギカ』は、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)、『機動戦士ガンダム』(1979年)、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)以来のエポックメイキングな作品だと言っても決して過言ではない、日本のテレビアニメ史に残る傑作である。

そして、これらの作品に共通するのは、いずれも「原作もの」ではなく、オリジナル作品だという点であろう。
つまり、原作の人気にあやかれないし、そのために、事前の大宣伝もうてない。
その人気は、本放映を視聴した人たちから自然発生的に生まれたものであって、決して作られたものではない。
海のものとも山のものとも知れない作品を、さしたる期待もせずに見ていたところ、途中からそれが何やら「普通ではない」ということに気づいて「何なんだ、これは?」と思った時には、その作品世界に絡め取られていた。一一そんな作品群である。
逆に作り手の側からすれば、オリジナル作品は、アニメクリエイターとしての自分たちの存在価値を賭けた「勝負作」でもある。
もちろん、そうしたものを作る自信がなければ、そんな賭けには出られないから、おとなしく、当たりそうな原作を探すか、あるいは下請け的な仕事をこなすしかないだろう。
だが、自分なら、自分たちなら、そこいらの原作付き人気アニメを凌駕するオリジナル作品が作れるはずだという野心と自信を持ったアニメ作家が、実力のある仲間を集めて、一世一代の勝負に出る。
当たれば、次からも作りたい作品が作れるようになる。
だが、外れれば、再び下請け的な仕事をするしかない立場に立たされる。
だから、オリジナル作品を作るというのは、作家的なプライドにかけて、職業的な立場を掛け金にして切った、ギリギリのカードである。
「これが当たらなければ、それは自分がそこまでのものだったのだ」と諦めなければならない、そんな最後の切り札なのだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』は、そんな勝負に出て、見事に歴史的大ヒットを勝ち得た傑作である。だから、決して「無難」な作品などではない。
当たり前のテレビアニメの域から、数十歩も踏み出した場所で勝負に出た、野心と緊張感に満ち満ちた傑作だった。
こんな作品を次に見られるのは、いつになるだろうかと、そんな思いを抱かせるほどの作品だったのである。
○ ○ ○
とは言え、本作の本放映時は、私がテレビアニメから自覚的に遠ざかっていたので、本放映を見たわけではない。
たしかに、本放映が終わってもその評判は止まるところを知らず、「所詮、魔法少女ものでしょ」と甘く見ていた私も、さすがに「これは見ておかなくてはなるまい」と考えて、たしかYouTubeでの、一夜限定での有料による全話一挙放映を見たのである。
ちなみに今回は、来年2月に劇場版完結編となる新作『魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天』が公開されると聞いて、それではその前におさらいをしておかねばと、本テレビシリーズと、それに続いて公開された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』の「総集編」前後編(『始まりの物語』と『永遠の物語』)の2本と、オリジナル劇場(『叛逆の物語』)の中古DVDを購入し、ひとまず一昨日は、テレビシリーズの方を10数年ぶりに再鑑賞したのである。

したがって、このレビューの後は、しばらくおいてから劇場版3本を再鑑賞し、総集編は
別にして、来年の新作劇場版『ワルプルギスの廻天』に直接つながるオリジナル長編『叛逆の物語』のレビューも書く予定である。
さて、それにしても、私はテレビシリーズ放映時には、本作『魔法少女まどか☆マギカ』が「魔法少女もの」だという理由で見ていなかった。
その根拠とは、次のようなものである。
大掴みにいうならば、「魔法少女もの」というのは、東映アニメーション(旧・東映動画)の『魔法使いサリー』(1966年)に始まり、幾多の作品を生み出した後、それとはやや系統の異なる『美少女戦士セーラームーン』(1992年)の要素を、『ふたりはプリキュア』(2004年)に始まる「プリキュアシリーズ」に取り込むかたちで、今や完全に「定式化」されたものである。


つまり、次のようなパターンの物語である。
(1)おおよそ2人以上(7人以下)の普通の少女たちが、
(2)異世界から訪れた「妖精的な存在」によって、「魔法」に当たる「超人的な力」も持った存在へと変身する能力を与えられて、
(3)普通の人たちには見えない「邪悪な存在」と闘い、
(4)「みんなの平和を守る」
本作『魔法少女まどか☆マギカ』も、こうした「プリキュア」系の流れを汲む、「戦闘美少女チーム」系の「魔法少女もの」であって、昔はよく作られていた「魔女っ子もの」とは趣きの異なる作品だ。
昔の「魔女っ子もの」というのは、普通の人々の世界に「(善意の)魔法使いの少女」がやってきて、日常生活の中で起きるトラブルを解決していく「日常コメディ」的な作品である。
例えば『魔女っ子メグちゃん』(1974年)のように、ライバルの魔法少女が登場しても、それはライバル的な存在でしかなく、時に争うことはあっても、それは「悪」でもなければ、倒さなければならない対象でもなく、言うなれば「子供の喧嘩」のようなもので、最後は「仲良くなって」めでたしめでたしというパターンのものだった。
だが、『美少女戦士セーラームーン』は、女性が「守られる存在」でしかないことに対するフェミニズム的な女性の不満を反映して、女性であっても戦える、「戦闘美少女」の原型となった作品だ。

無論、それ以前にも『キューティーハニー』(1973年)のような「戦闘美少女」は存在した。
しかし、『キューティーハニー』と『美少女戦士セーラームーン』との大きな違いは、キューティーハニーは「単独ヒーロー」であり、セーラームーンは「チームヒーロー」であるという点だ。

これが何を意味するのかと言えば、「単独ヒーロー」には、男性的な「孤独のヒロイズム」が見られるのに対し、「チームヒーロー」には「仲間」を求める意識が強くある、という点である。
「単独ヒーロー」の美学というのは、根本的なところに「自分はアウトローだ」という自覚を持っており、だから「普通の人々とは、一緒には暮らせない」という孤独の是認にあろう。
例えば、前述の『キューティーハニー』のエンディングテーマ「夜霧のハニー」の歌詞(作詞:伊藤アキラ)は、次のようなものだ。
「夜霧のハニー」
誰かが呼んでるハニー
夜空をこえてくる
ふり向けばひとり
暗いやみばかり
あれはあれはいつのこと
ふたりで見上げた星
いいのこれでいい
そうよこうなると知っていた私
誰かが呼んでるハニー
ハニー ハニー
いつかの あの声よ
どこかで呼んでるハニー
ふるえる白い胸
うつむいて歩く
遠い霧の町
誰も誰も気づかない
私のこの涙
いいのこれでいい
そうよひとりなら
いつまでも泣ける
どこかで呼んでるハニー
ハニー ハニー
誰かが呼んでいる
(UTA-NET「前川陽子 夜霧のハニー」)
こうした感覚がどこから来るのかと言えば、『キューティーハニー』と直近のところでは、実写ドラマの『仮面ライダー』(1971年)などの「異形の男性ヒーロー」からの影響だと見て良い。
『キューティーハニー』は、空前の「仮面ライダーブーム」の最中に作られた、女性ヒーローという新機軸の作品、言うなれば『仮面ライダー』のような男性「変身ヒーロー」の、女性版なのである。
したがって『キューティーハニー』に見られる主人公の「孤独の宿命」というのも『仮面ライダー』の流れをそのまま汲んだものと見て間違いない。『仮面ライダー』のエンディングテーマ曲もまた「ロンリー仮面ライダー」だったのだ。

では、仮面ライダーの「孤独の宿命」というのは、奈辺から生まれたものなのであろうか。
仮面ライダーは、「改造人間(サイボーグ)」であり、そのために「超人的な力」を得たけれど、しかしその肉体はもはや人間とは呼べないものだった。
そんな肉体をして彼らは自らを「異形」であると恥じ、人交わりの叶わない存在であるとの自覚から、彼は「普通の人々」とは、深い関係を結びすぎないようにしていたのである。
では、なぜ「異形」だからという理由で、「普通の人々」と距離を取ったのかと言えば、それは彼が「改造人間」だと分かれば、普通の人は彼を、奇異の目で見たり恐れたりして、良かれ悪しかれ「差別」するというのが、わかっていたからだ。
で、仮面ライダーにあった、こうした「負い目」はどこから来たものなのかと言えば、それはたぶん『仮面ライダー』が「東映」の作品でもわかるように、そのルーツが「ヤクザ(任侠)映画」にあるからなのであろう。

今の「暴力団」や「反社会的勢力」といったニュアンスのそれではなく、「任侠」に生きる男の生き様を描いたのが「任侠映画」だ。
「法」に優先する倫理としての「任侠道(おとこみち=弱きを助け強きを挫くという生き方)」を生きることを選んだアウトローこそが、本来の意味での「ヤクザ」だったのである。
だが、現実のヤクザは「任侠に生きる」というのを口実にしただけの、単なる「無法者」でしかなかった。
だから「ヤクザ」と、「暴力団」や「反社会的勢力」に区別がなくなってしまったのだが、ほとんど現実には存在しない「理想としてのヤクザ」とは「法を破ってでも、人として守るべき大切なものを守る生き方を選んだ人」のことだったのである。
そして、ある時期、大量生産された「ヤクザ映画」とは、そうした「理想化されたヤクザ」が「現実の(堕落した、悪の)ヤクザ」を成敗する、勧善懲悪の物語(男のファンタジー)だったのだ。
だがいずれにしろ、いくら「人間として守るべき大切なもの」を守ったとしても、その行いは「違法行為」であり、社会のルールに反するものなのだから、彼らもまた、物語の中だとは言え、「犯罪者」ということになる。
つまり「任侠道に生きるヤクザ」とは、どんなに「正義」を行おうと「犯罪者」であるという事実に違いはなく、その点で、法のもとに生きている人たちとは初めから、違った道を選んだ存在なのだ。
だから彼らは、一般人たち(カタギの衆)を助け、感謝されたとしても、やはり同じ場所では生きていけない「アウトロー」であり、それを「ヤクザ者」と言ったのである。
つまり、仮面ライダーもまた「ヤクザ者」なのだ。
法律によらず、個人の力において「悪」を倒す「アウトロー」なのだから、彼が「ヤクザ」と同様に、どんなに人のために働こうと、やはり、普通の人たちと共に生きることの許されない身だったのである。
そして、キューティーハニーもまた、仮面ライダーと同様の「改造人間(サイボーグ)」であり、その力で悪を倒すアウトローだったからこそ、普通の人の中で生きていくことも許されなければ、当然、恋することも許されない存在であった。
だからハニーは、本気で人を好きならないように、いつも自分の気持ちを偽り、それでも本気になりそうなれば、自分から身を退くという生き方を選んでいたのである。
このように、「東映」系の単独ヒーローというのは、こうした「アウトローとしての倫理」を厳しく自分に課したきたわけなのだが、一一それがいつのまにか忘れられ、「女の子だって戦いたい」けれども「みんなと仲良く暮らしたい」「当たり前の日常生活を捨てたくない」となったのが、『セーラームーン』以来の『プリキュア』系の「戦闘美少女チームもの」だったのだと、そういうことになるのではないだろうか。
つまり、「戦闘美少女チームもの」には、どこか「甘さ」がつきまとう。「美味しいとこ取り」という感じが否定できないのだ。
「超人的な力を持っているのに、普通の生活もできる」というのは、普通に考えて、現実には「あり得ないこと」だ。
それなのにそれを、さもあり得るかのように描くのは「ご都合主義的な誤魔化し」なのではないだろうか?
実際、魔法が使えるとか、超人的な力があるとかすれば、普通はそれを「正義のため」ばかりではなく、「自分の欲望を満たすため」の使わないでいられるだろうか?
そんなこと「普通の人間」には、たぶん不可能であろう。
つまり、「超人的な力を持つ正義のヒーロー」であり、かつ「みんなと仲良く暮らしたい」「当たり前の日常生活を捨てたくない」などという「欲深い人間」に、自分の力を自制することなど、そもそも無理な話なのである。
したがって彼女らは、与えられたその「魔法=超人的な力」を、いずれ「自分個人の欲望」のために使ってしまう。
そしてそれこそが、この現実の世のありふれた「権力の横暴(な行使)」なのだ。それ以外の何物でもないのである。
「みんなの幸せを実現するため」に与えられた力を、自分個人のために行使して、結果として、他人の権利を侵害することになる。
そして、そうした「権力の行使」は、「法」に反するばかりではなく、「人の道」に反することにもなる。
彼女はすでに「任侠道に生きるアウトロー」ですらなく、単なる「悪」になってしまう。
つまり、本作『魔法少女まどか☆マギカ』は、こうした欺瞞を抱え込んだ「戦闘美少女チームもの」に秘められた欺瞞を、まっすぐに問うて見せた作品なのだ。
「女の子たちに、夢と勇気と正義の心を教えるアニメ」だと、そうナイーブに信じていい作品なのだろうか「それは?」一一と、問うた作品だったのである。
○ ○ ○
本作『魔法少女まどか☆マギカ』は、第2話くらいまでは、いちおう「普通の展開」を見せる。
ごく普通の少女・鹿目まどか(悠木碧)のもとへ彼女に「魔法」の力を授ける妖精役のキュゥべえ(加藤英美里)と呼ばれる、ネコとウサギとリスを掛け合わせたぬいぐるみのように可愛い生物がやってきて、「凶悪な魔女の手からみんなの平和を守るために、ボクと契約して魔法少女になってよ」と要請してくるのだ。
ただし、その見返りとして「君のどんな望みでも叶えてあげるよ」と言うのである。

だが、まどかは気の弱い普通の少女だから、いくら願いが叶えてもらえるとは言っても、恐ろしい魔女と戦うなんて使命を、おいそれも引き受けるわけにはいかない。
しかもそこへ、キュゥべえを殺そうとする、謎の転校生・暁美ほむら(斎藤千和)や、キュゥべえと契約して魔法少女になったという同じ中学校の先輩・巴マミ(水橋かおり)などからんで、まどかとその親友である美樹さやか(喜多村英梨)は、魔女がひき起こす妖しい事件の渦中へと巻き込まれていく。

魔女の存在を目の当たりにし、さらにはその魔の手から二人を救ってくれた巴マミを前にして、まどかは、キュゥべえの要請を受けるべきかどうかと悩む。できることならマミ先輩の力になりたいのだが、やっぱり魔女は怖い。
そんなまどかに対し、マミは、魔法少女の任務が如何なるものかを教え、その上で、まどかの自主的な判断を促そうと考え、自身の魔女狩りに、まどかとさやかを伴うようになる。
そして、当初は、魔女に対峙して圧倒的な戦闘力を持つかに見えたマミだったが、お菓子の魔女との戦いにおいて、まどかとさやかの目の前で、魔女に食い殺されてしまう。


そして、マミを失ったまどかとさやかの二人は、間一髪というところで、暁美ほむらに救出される。
そして、ほむらはまどかに対し「キュゥべえの言葉に乗せられて、魔法少女になどなってはならない。巴マミの悲惨な死に様こそが、魔法少女の宿命なのだ」と厳しく警告するのだった。
みんなの幸せのために戦った、優しくも勇敢だった巴マミに憧れていた、まどかとさやかは、マミの死に大きなショックを受けるが、同時に、マミがいなくなった今、誰が魔女の魔手からみんなを守るのか、魔法少女の使命を引き継ぐのは、自分たちしかいないのではないかという、そんな負い目を感じるようにもなる。
だがまた、巴マミの惨死を目の当たりにしては、まどかもさやかも、魔法少女になる決心など出来ないでいた。
ところが、そんな時、元は天才バイオリニストとして騒がれながら、事故によりその夢を断たれたかけていた同級生の男子に秘めた思いを寄せていたさやかは、怪我をした手が二度と動くことはないと告げられて絶望したその少年の姿を見て、その手を癒す奇跡のために、キュゥべえと契約して、魔法少女になる。
さやかが、何らかの願いと交換に魔法少女になったという事実を知らされたまどかは、大いに狼狽するが、それでもやはり、命を賭することになる魔法少女の使命を引き受けてまで叶えたい夢など、まどかには思いつかない。
だが、親友のさやか一人を魔女との戦いの場に送り出すこともできず、役には立たないなりに、さやかの魔女狩りに付き添うことになる。
一一以上が、シリーズ前半部のおおよその展開である。
この後については、おのずと終盤に明かされる「秘密」に言及することになるので、本作を未見の方は、ぜひ作品を見てから、以下をお読みいただきたい。
○ ○ ○
【※ 以下には、本作のネタばらしとなる記述がありますので、未見の方はご注意ください】
さて、本作『魔法少女まどか☆マギカ』のテーマだが、ときどき耳にすることのある「大きな力には、大きな責任が伴う」一一と言うよりは、より率直に、「大きな力には、大きな危険(負の要素)が伴う」と表現した方が良い、そうしたものだと言っていいだろう。
なぜ、人はしばしば「大きな力には、大きな責任が伴う」という表現をするのかといえば、それは「大きな力」を与えられた人が、しばしば、与えられた力をその目的以外のことに使ってしまい「責任を果たさないことが多い」からであろう。
だから、「大きな力には、大きな責任が伴う」んだぞ「力を欲するからには、絶対にその責任を果たすのだぞ」と、そういう教訓的な意味合いのものなのだ。
言い換えるならばこれは、「大きな力」とは当然、当人にとっては「大きな利得」または、それに直結する「特権」なのである。
ただし、本作『魔法少女まどか☆マギカ』の場合、魔法少女たちは大きな力を得る代償として、命がけで魔女と戦わなくてはならない、という使命が課せられる。

しかも、根が真面目な、まどかやさやからは、そうした代償のことを、あらかじめ十分には想定しておらず、キュゥべえに尋ねもしなかった。
だが、この使命は、途中放棄のできないものなのだ。
つまり、魔女を最後の一人まで倒すか、逆に自分が倒されて死んでしまうかするまで、その使命は永遠に終わらない。
さらには、彼女たちの「魔法の力」の源とされる、宝石状の物体ソウルジェムは、魔法を使えば使うだけ(そして、普通に生きているだけ)でも、黒く濁っていって力を失い、最後は魔法少女自身も死ぬことになってしまう。
そして、それを避けるためには、魔女を倒し、魔女が持っているグリーフシードと呼ばれる、これも黒い宝石のようなものを手に入れ、その力で、ソウルジェムを浄化しなければならないのだ。
だが、グリーフシードの浄化能力は無限ではなく、一定程度使用すれば浄化能力が無くなってしまうので、魔法少女が生き続けようとすれば、おのずと魔女を倒し続けなければならないようになっているのである。
したがって、魔法少女の魔女狩りは、当初は、
(1)自分の望みを叶えるため(利己)
(2)みんなの幸せを守るため(利他)
という2つの目的のために「主体的に選び取られた使命」だったのだが、魔法少女になってしまえば、その「使命感」があろうと無かなろうと、魔女狩りを止めてしまえは「死ぬしかない」という「呪い」となってしまう。
そうなると魔女狩りは、主体的に引き受けた使命ではなく、果たさざるを得ない「義務」であり、避けられない「呪われた宿命」となってしまうのだ。
さて、ここで気づいて欲しいのは、普通の「魔法少女もの=戦闘美少女もの」の主人公たちは、
(1)自分の望みを叶えるため
に戦うのではなく、
(2)みんなの幸せを守るため
に闘うものである、という事実である。
つまり、彼女たちは、正義のヒーローらしく「無私」であり、その使命を引き受けるための「交換条件」など求めない。
彼女たちは「悪と戦って、みんなの平和を守ること」自体が目的であり、そのために与えられた力で戦えることは、あるいは、戦って「勝てる力」を与えられたことは、それ自体が喜びなのだから、「みんなのために戦ってあげるから、その代償が欲しい」とは、考えないのである。
つまり、普通の「魔法少女もの=戦闘美少女もの」の場合は、彼女たちの望みは、
(1)自分の望みを叶えるため(利己)
(2)みんなの幸せを守るため(利他)
という具合に「分化」しておらず、
・みんなの幸せが私の望み
だと、一体化しているのである。
なのになぜ、本作『魔法少女まどか☆マギカ』では、これが二つに分裂させられているのだろうか?
一一だが、そこにこそ本作の秘密があり仕掛けがあったのである。
つまり、本来であれば、魔法少女たちは「見返りを求めず」に、自ら進んで魔法少女もなり、みんなの幸せのために、悪と戦わなくてはならない。
なのにどうして、本作ではキュゥべえが「どんな望みでも、ひとつだけ叶えてあげるよ」などと言うのか?
それは「美味しい話には、裏がある」ということなのである。
無論、魔法少女たちが、その「裏」の存在に気づかないのは、当初は、魔法少女の使命がきわめて過酷なものであり、普通ならばとうてい引き受けられない性格のものであることが、隠されているからだ。
いくら「みんなの幸せのため」とはいっても、とうてい無償では引き受けられないような「過酷な使命」なのだが、それを隠した上で、しらっと「交換条件」が提示されているのである。
例えば「確実な資産運用」の一種として人気の「新NISA」や「iDeCo」などといったものがあるけれど、これらとて当然「絶対確実」などではない。
つまり必ず、「元本保証はしない」と、約款に「小さく注意書き」されているのと、似たようなことなのだ。
だから、元来「無私」であるべき魔法少女が、魔法少女の使命を引き受ける「交換条件=代償」として、望みを叶えてもらえるという「餌が提示される」段階で、すでにそこには「罠」があったと見るべきだろう。まさに「美味しい話には、裏があった」のだ。
また、「裏」があるからこそ、キュゥべえはわざわざ「ボクと契約して、魔法少女になってよ」と「契約」を強調した。
だが、この契約には「クーリングオフ」の条項が無かったのである。
では、そこまでして少女たちを騙した、キュゥべえの目的とは何であったのか?
それは、魔法少女になった少女たちの抱いていた無垢な希望や理想が、終わりなき戦いの中で擦り切れてゆき、その限界に達して絶望へと反転する(相転移)の際に発生する、熱力学に縛られることのない膨大な感情エネルギーを回収して、自分たちの宇宙の存続に使うためであった。
では、なぜ「少女」だったのかといえば、それは「思春期の少女」こそが、希望と絶望との間での感情の振れ幅が、最も大きいからだと説明される。
つまり、最も美しい夢を見て憧れる反面、最も打ちのめされやすい存在だからこそ、相転移の際の感情エネルギーが最大化される、ということだったのである。
では、こんな非情な計画を平然と遂行するキュゥべえとは、どういう存在なのか?
その非情な残酷さを非難された際、キュゥべえ自身が弁解して語るには、彼らは「感情を持たない」のである。
ただ、論理的に判断して、最も有効な手段を採用しているだけ。そして、彼らにとっての人間とは、人間にとっての「益獣」としての家畜みたいなものだと言うのだ。
要は、自分たちの便益のために飼育する。そのために、餌も与えるし大切にもするけれども、最終的にはすべては自分たちのためなのである。
そして、その点では、当然、人間に自分たちを責める資格なんてないと、そう反論する。
騙したと言うけれど、人間の食用に供されるための動物の飼育は、すべて騙し討ちではないかと、そういう反論なのである。
一一そしてこの反論には、たしかに一理あるのだ。「種の違い(分かり合えないこと)」の絶対性の問題としては。
だが、このあたりの「SF的な設定」については、「うまく考えられるいるな」とは思っても、わたし個人としては、さして重要な問題ではない。
では、何が重要なのかと言えば、まず「過大な力を得る」ということの問題である。
なぜ、少女たちは、普通の人間には持ち得ない「超人的な力」を欲したのだろうか?
少なくとも、キュゥべえに選ばれて魔法少女になる少女たちは、みな純粋で理想主義的だ。
なぜなら、そうであるからこそ、その理想や希望が敗れて、絶望に相転移した際のギャップによって発生するエネルギーも大きいからである。
言い換えれば、最初から汚れた極悪人が魔女に相転移しても、得られるエネルギーは小さいから、魔女にする意味がないのである。
したがって、キュゥべえによって選ばれた少女たちは、みな純粋であり理想主義的だから、その「願い」や「望み」は利己的なものではなく「愛他」的であり、他者への献身的なものである。
自分の個人的な欲望を満たすために契約するわけではない。
最終話まで契約をしないとは言え、主人公のまどかもそうだし、美樹さやかもそうだ。あとで登場する4人目の魔法少女である佐倉杏子(野中藍)も、そうである。

唯一、巴マミの場合は少々例外で、彼女は幼い頃に事故か何かで死にかけていたところにキュゥべえが現れて、否も応もなく「助けて」と言って契約してしまったのだ。
だから、マミの場合も「利己的な契約」とは言いがたく、むしろ、キュゥべえに、弱みにつけ込まれて、騙し打ちにされただけど考えるべきだろう。

ともあれ、少女たちは「他人を助けるため」に、魔法少女になる契約を結ぶ。あるいは、その力で、他の人々を不幸から救おうとするのだが、しかし、問題はその方法が「魔女を倒す」ということに、限定されている点である。
私たちは、この種の「ヒーローもの」フィクションでは、ヒーローが「悪玉を倒す」というのは、「当たり前」のことだと考えている。
しかし、これも現実に考えてみれば、かなり「暴力的」で乱暴な話であり、決して理想的なものではない。
だからこそ、近年の「プリキュアシリーズ」では、悪は倒すのではなく、浄化して救済する、というパターンになっている。
フィクションとは言え、昔のように「悪は殺すしかない」というわけにはいかなくなったのだ。特に、ヒーローが「少女」である場合ならば尚更。
言い換えれば、ヒーローが男性である場合には、まだまだ「悪を倒す(成敗する)」つまり、平たく言うと、二度と逆らえないくらいな叩きのめすか殺す、ということをやっている。
だが、そういう昔ながらのヒーローは、当然のことながら、「アウトロー」とならざるを得ず、普通の生き方はできない。
また、それでも「悪を倒す」というのが、男性ヒーローの、標準パターンなのである。
だが、純粋であり優しくあることに価値が見出される「少女」においては、そういう「アウトロー」堕ちは歓迎されない。
「悪を倒す」ために、少女の聖性が削がれたのでは元も子もないと考えるから、「少女ヒーロー」ものでは、男性的な「暴力」を求めながらも、その「暴力性」を否定するための、誤魔化しがなされる。
それは、「敵を倒さずに、救済する」といったこともあるけれども、私が見たところ、最大の欺瞞は、彼女はたちがいくらその「超人的な力」を行使したとしても、決してその「権力に酔うことはない」という点である。
そんな圧倒的な力を得たなら、普通はいくら純粋な少女だと言っても、生きるための欲望を当たり前に持つ人間なのであれば、その力を自分個人のために使いたくなるのが「人情」なのだ。
なのに、通常の「魔法少女」たちは、決してその魔法を自分の欲望のためには使わずに、他人の幸せに使う。
たまに自分のために使っても「パフェが食べたい」とか、その程度の微笑ましいものでしかない。
だが、こうした理想的な人間像には、少なくともリアリティは無い。そんな「無欲な人間」なんて存在しないのだ。
リアルの世界においては、そう見せかけている人の大半は、なんらかの意味で「偽善者」なのである。
もちろん、アニメや漫画の「魔法少女もの」は、すべて「フィクションだから」ということで許容されているのだが、だからこそこの手の作品には「子供騙し」という評価もついて回らざるを得ない。事実、そのとおりだからだ。
また、そうだからこそ、本作『魔法少女まどか☆マギカ』では、そうしたリアリティの問題が追求されている。
憧れの天才バイオリニスト少年の、再起不能とされた手を回復させるために、魔法少女となる契約を結んだ美樹さやかは、決して自分のために契約をしたのではない。
さやかはそのことで、少年からの愛を得ようとは考えなかったから、その事実を少年には告げなかった。ただ、彼さえ幸福になってくれれば、それが自分の幸福であると考えて、怪我からの奇跡的な回復の後、その少年に彼女ができた際にも、自ら身を退くこともしたのである。

そしてこれは、佐倉杏子も同じだ。彼女もまた、不幸な父親のために、魔法少女の契約をした少女だったのだ。
繰り返すが、したがって彼女たちは、その純粋で理想主義的な優しさの故に、「他人の幸せのため」に、死ぬまで戦い続けなければならないという魔法少女の過酷な運命を受け入れたと言える。
だが、ここであえて言うのだが、「他人に幸せになって欲しい」というのは、「私の欲望」であり「私のための望み」ではないのか? 一一という問題である。
なぜ「他人の幸せを願う」のかと言えば、それは「他人が幸せになる」のを見れば「自分も幸せになる」から、なのではないのか?
つまり、「他人の幸せ」とは、「私の幸せ」のための「手段」であって、それ自体が「目的」ではない、のではないのか?
「他人の幸せ」を妬んだりもしないかわりに「何とも思わない」人は、わざわざ「他人のため」に何かをしようとは考えないだろう。
つまり、「他人のため」に何かをしようとする人は、そのことで、少なくとも「気持ち」的には、自分が幸福感を得られるからそれをするのであって、それは厳密に言えば「無償」ではなく、「満足感(幸福感)」という「対価」を得るための行為だと、そうは言えまいか?
私たちは「純粋に、他人のために尽くしている」つもりであってさえ、しかし実際には「満足感(幸福感)」という対価を得ているのではないか。
だからこそ、かつての少なからぬ作品の中で、そうした「善意」が、時に「偽善」であり「不純」なものだと、非難されることさえあったのではないだろうか。
だが、私はここで、そうした「善意」を批判したり否定したりしたいのではない。
私は、その点ではリアリストなので「他人が幸せになり、自分も幸せになるのなら、多少の自己欺瞞くらいあっても良いじゃないか。人間は生き物なんだから、100%の完全なんてあり得ないし、それを他人に求める権利なんて、誰にもない」と、そう考える。
だから、美樹さやかも佐倉杏子も立派すぎるほどに立派だし、魔法少女になった経緯に違いはあれ、魔法少女となったあとは「他人のために尽くした」巴マミも立派だったと思う。
私には、彼女たちの純粋さを否定するつもりは、これっぽっちもない。
ただし、私がここで言いたいのは、彼女たちはまだ幼かったから仕方がないものの、大人ならば、もう少し「己を知る必要はある」だろう、ということだ。
つまり、大の大人が「他人のために働いている私って、なんと立派」だなんて思うのは、頭が悪すぎるし、そうした頭の悪さは「権力の濫用」にも直結する、危険な無認識だと言いたいのである。
その実例としてあげたいのは、例えば、「権力者」となった女性の「公私混同」といった問題がある。
当然、この手の問題は、性別を問わないものなのだが、それは人間であれば当然のことであり、言い換えれば、男性の犯す人間的な誤りは、女性だって犯すものなのだ。
だが、その認識が十分に持たないまま、「みんなの幸せのために」と思って「権力」を欲し、その結果、権力を得た彼女らは、そのことによって「権力の魔性」に憑かれて、男性政治家によくあるような、誤った権力の行使者に転落してしまう。「女ヒトラー」にさえなってしまうのだ。
無論、これは「政治権力」に限った話ではなく、すべての「一人前以上の力=超人的な力」に、ついて回る問題である。
人はしばしば「他人のために、世の中を良くするため」の「力」を欲する。
それが「政治権力を手に入れる」ということだけではなく、各ジャンルにおいて、出世して「地位」や「名声」を手に入れて、人並み以上の「発言権=発言力」を手に入れようとする。一一そうしたことも、すべて含まれる。
「世の中を良くするためには、力が必要」だから、何らかの方法で、「一人前」分以上の力を得ようとするのだが、しかし、いったんその「力」を得てしまうと、人はしばしばその「一人前分以上の力」を「自分の力」だと勘違いしてしまいがちであり、そのために行動を誤りもする。
「自分はみんなのために働いている人間なのだ。だから、自分がちょっとした過ちのために、その地位や力を失うということは、悪を喜ばせることにしかならない。だから、私は、自分のためではなく、みんなの幸せのために、あえて嘘をついてでも、自分の地位を守るのだ」と、一一そんなふうに考えるようになり、徐々に「保身のため=自己正当化のため」の「嘘」や「アンフェアな策」さえ弄するようになって、彼女は知らないうちに、「魔女」に堕ちているのである。
私は、こうした例を、例えばアメリカに始まった「#MeToo」運動に見ることができる。
たしかに彼女らは、ハーヴェイ・ワインスタインという「悪の権力者」を打倒するために団結し、見事ワインスタインを倒すことができた。
けれども、その「成功体験」によって、「力」に酔ってしまった人も、少なからずいた。
ある女性が「これまでは黙っていたけれど、私はあの男からセクハラ(あるいはパワハラ)を受けた」という告発をしているのを知ると、事実関係を調べることもないまま「きっと、そうだったに違いない」と決めつけ、「#MeToo」のタグをつけて、その容疑者男性を袋叩きにして、社会的に抹殺し、その結果に満足し、溜飲をさげる。
彼女たちの意識としては「悪を倒した(成敗した)」ということなのだから、そこでもまた達成感が得られ、次なる「標的としての悪」を探して、世のために人のため、女性のために「善行」をなしているつもりになっている。
一一これが世に言う「キャンセルカルチャー」の心理だ。
だが、これは客観的に見れば、「法に依らない私的制裁」であり、平たく言えば「リンチ(私刑)」なのだ。
だが、それまで与えられていなかった「力の行使」に酔った彼女たちは、それが「リンチ」という「アウトロー(法の外)」の所業だということを、よく理解していない。
やたらに力を行使する者は、自分の力に酔っていて、その力の意味するところを、よく理解していない場合が多い。
だからこそ、自制が効かないのだ。
例えば、反政府デモなどでは、デモ参加者の中には必ず跳ねっ返りの行動に出る者もいて、デモが「暴徒化する」場合もよくある。
その場合、暴徒の鎮圧にかかる警察官は、鎮圧のためなら「何をしても良いのか」と言えば、もちろん良くはない。
そうした警備出動の際に警察官が携えている、警棒や盾や催涙銃といったものの使用には、それぞれに「法的な根拠」があり、その法の範囲内での使用しか許されない。
つまり、それを使用しなければならない場合にのみ使用が許されるのであって、いくら相手が暴徒化したデモの一員であっても、その人自身が暴徒でないのなら、暴徒鎮圧の手段をむやみに行使してはならない。ただ、逃げ惑っている人に対して、あるいは、悪罵を投げつけてくるだけの人に対して、それを使うのは「違法行為」なのである。
これは「#MeToo」だって同じことで、実際にセクハラやパワハラを行っている人物に、その行為を止めさせるのに、他に適切な手段のない場合は、「#MeToo」による、社会的な集団告発も許されるだろう。
だが、そこまでの段取りをすっ飛ばして「疑わしき男は罰すべし」となったのでは、これは単なる「リンチ(私刑)の肯定」であり、「アウトローたちの焼入れ(リンチ)」と何ら選ぶところのない、「違法行為」にすぎない。
にもかかわらず、彼女たちがそんな「責任も取れないこと」を、少なからず「しでかしてしまった」のは、「一人前以上の力」を持つ心構えも出来ていないのに、持ちなれない力を持ってしまったがための、暴走なのだ。
「力に酔って」しまったがための「暴徒化」でしかなかったのである。
だが、こうした暴走であり暴徒化は、アメリカ国内にも止まらず、「こうすれば、地位のある男でも社会的に抹殺できる」ということを学習した、日本の女性たちも少なからずいた。
常々「意識は高いが、力は持たない」ことに不満を抱いていたフェミニストやその予備軍の中から、「こうすれば、実力行使が可能なのだ」と、そう学んだ女性たちが、同じような「集団リンチ」による、自己エンパワーメントに走ってしまったのだ。
そしてその代表的な事例が、私が現在批判している、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである北村紗衣をめぐる「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」という、千数百名の署名を連ねた「公開質問状」(晒しによるバッシング)だったのである。
この「#MeToo」を真似た手法によって、1人の大学教員が、二度にわたって公開謝罪したにもかかわらず、その社会的な地位を追われて、いったんは社会的に抹殺された。
また、彼を擁護して、やや言葉のすぎた別の大学教員もまた、その言葉尻を捉えられ、スラップ訴訟を提起されて、やはり職を失うことになった。
たしかに、彼らの発言に問題はあっただろう。
だが、真の問題は「そこまで痛めつけるようなことなのか」「言論で何とか出来なかったのか」ということなのである。
無論「言論で何とかなる」場合は少ない。
政治的な外交努力が実らず、戦争になることが少なからずあるというのが、この世界の現実である。
しかしながら、だからと言って、私たちは「言論」を諦めて「力」に頼るべきなのか。
敵を「悪」だと名指して、力ずくで叩き潰して黙らせるべきなのか。
ましてやそんなことを、「教育者」としての大学教員や、著書があるという意味では「言論人」でもある彼女・彼らが、「力」による解決を喜んで行使するというのは、正しい選択なのであろうか?
もちろん、「力」での解決を望む者は大抵の場合、「力」に勝るものである。
誰だって、反撃され、逆に叩きのめされて負けることがわかっている喧嘩をしようとは思わない。
つまり、積極的な「力での解決」を望む者とは、「力において勝つ自信がある者」だけなのだ。
「力で勝てるのであれば、面倒な問答など無用だ」というのが、彼女・彼らの本音なのである。
だからこそ、今どきのフェミニストの間では「ノーディベート(議論拒否)」が、当たり前に採用されてさえいるのである。
だが、こうした「私は絶対に正しいのだから、目的の正しさは、そのあらゆる実現手段を正当化する」といった、度し難い「傲慢さ」とは、間違いなく「力に酔って(理性が働かなくなって)いる」が故のものであり、その何より証拠なのだ。
「私には、人並み以上の力が、他から与えられている」という「謙虚な認識のある者」は、それがすべて「自分自身の力だ」などという、身の程知らずの「傲慢な考え」を、決して持ったりはしないのである。
一一つまり、話を『魔法少女まどか☆マギカ』に戻して言うならば、「他人の幸せを望む」のは無論、「自分の幸せを望む」ことも、決して間違いでも悪でもないけれど、しかし、そのために、不都合な「他者」を力づくで打倒しよう、黙らせようというのは、所詮、傲慢なのではないか、ということなのだある。
文字どおり「法外の暴力」を行使する「アウトロー」でありながら、それでも「人並みの幸福」を求めたり、ましてや賞賛や栄誉を求めたりするのは、とんでもない勘違いなのではないか、ということなのだ。
なぜ、巴マミは悲惨な最期を遂げなければならなかったのか。
なぜ、美樹さやかは魔女に落ちなければならなかったのか。
なぜ、佐倉杏子は、魔女と化したさやかに良心を取り戻させようとして失敗したのか。
そして、なぜ最後に魔法少女になったまどかだけが、最終的に魔女に落ちてもなお、他の魔法少女たちのような「不幸」に落ちなかったのかと言えば、それは彼女だけが、「敵を倒すための力」を欲しなかったからではないだろうか。

「人の幸せを望んで働く」ことと、その人たちの不幸を取り除くために「悪を打倒する」こととは、近いことではあるけれども、明らかに違った行いである。
例えば、ガザへの「人道支援」を行っている人と、ガザの人を殺させないために、イスラエルを暴力的に打倒しようと考える人とは、目的は同じでも、手段は180度違う。
この違いが、最後の最後まで「打倒のための力」を欲しなかったまどかと、他の少女たちの違いなのではないだろうか。
「フィクション」としては、「困っている他者への救援」だけではなく、「根源的な悪を断つ」ことをしなければ、エンタメにはならないのであろう。
だが、だからと言って、それが無条件に肯定され、賛美されることには、大きな問題がある。
まどかは最後の最後で、これまで「みんなのために戦い、最後は魔女とならざるを得なかったすべての魔法少女たちの無念」を晴らすために、魔法少女の契約を交わすことになる。
そして、避けられないこととは言え、彼女は「みんなのため」に、誰も勝てなかった最大の魔女たる「ワルプリギスの夜」を倒した後、すべて魔法少女たちを救済する旅に出る。

まどかの願いとは、魔女の存在する世界、魔法少女たちの思いが報われない世界(宇宙)を、丸ごと改変することだったのである。
だが、多元宇宙を過去にまで遡ってなされる、まどかの「魔法少女救済の旅」は、否応なくまどかを傷つけ、まどかを魔女にする。しかし、そのまどかである魔女は、人を害さない代わりに、自らが人の不幸を一身に引き受けるという地獄を生きることになる。
それが、まどかが魔法少女となって「超越的な力」を得た代償なのだ。
改変された宇宙では、誰もまどかのことを憶えてはいないから、まどかが感謝されることも尊敬されることもない。
それでもまどかは、それで不幸な死を迎えるしかなかった魔法少女たちが救われるのであれば、それで良いと思ったのだ。
「悪を倒す力」ではなく、純粋に「人を救う」力を欲したのが、鹿目まどかという、自分に自信の持てなかった少女の、最後の選択だったのである。
私たちは「正義」の実現を求める。
そしてそのために、しばしば「力」を求め、そしてそのことによって人、しばしば「悪」に堕ちてきた。一一それが「人間の歴史」なのだ。
だから、私がここで問いたいのは「人を救うための力の行使」は、いつでも「正義」なのか、ということだ。
そして、その力によって「勝つ」ことが正義なのか。
「正義」とは、本来「勝敗」には関係のないものなのではなかったのか。
ならば、力を持たずに、その「力のなさ」に堪えることも、ひとつの「正義」なのではないかという、これが私の、本稿での問いなのだ。
私が「心の師」と仰いだ作家・大西巨人は、次のように言った。
『果たして「勝てば官軍」か。
果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。
私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』
(大西巨人「運命の賭け」より。改行は引用者による)
これは、間違いなく「力による正義」というものを、批判したものであったはずだ。
正義は勝たなければならない。勝つべきである。一一というのは、基本的に正しい認識であろう。
だが、そう考えて「正義の実現を願う」自分自身は、いつでも間違いなく「正義」の側であるという保証などあるまい。
であれば、「悪を打倒する正義の力」を欲するのは、ある意味では傲慢だとは言えまいか。
そうして「魔女」堕ちした人々を、私たちは、過去にも現在にも多く見ているはずだ。
それなのに、どうして自分だけはそうならないと、そんな安易な自己過信が可能なのだろうか。
しかし、人間というものが、それほどまでに愚かなのだとすれば、臆病で自分に自信の持てなかった少女・鹿目まどかの選択から、私たちが学ぶことは多いはずだ。
「明るすぎる光には、暗すぎる陰が伴う。」
だが、暗闇があれば、どこかに光もある。私たちが求めるべきなのは、身の丈にあった「光」だったのではなかろうか。
正義感の強いあなたに対して、キュゥべえはきっと要請するはずだ。
「ボクと契約して、魔法少女になってよ! そしてみんなのために魔女を倒して!」
でも、あなたに「魔法少女の力」が、担い切れるだろうか?
キュゥべえの罠を疑う以前に、まず自らを疑う心がなければ、私たちはみずから、「魔女」に堕ちるしかないのではないか。

(2025年11月28日)
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