宮地尚子 『環状島=トラウマの地政学』 : 北村紗衣の生んだ「環状列島」
書評:宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房)
本書は「トラウマ(精神的外傷)」という現象そのものを論じたものではなく、トラウマと社会との関わり方を論じた本だと言えよう。一一だが、こう書いても何のことだかわからないだろうから、まずは、本書の内容紹介文を引用する。
『戦争から児童虐待にいたるまで、トラウマをもたらす出来事はたえまなく起きている。「言葉では表現しようのない」この出来事は、それでも言語化されていった。しかし、言葉にならないはずのトラウマを伝達可能な言語にするという矛盾は、発話者をも聞く者をも揺るがせる。「なぜあなたが(もしくはこの私が)その問題について語ることができるのか」「もっと悲惨な思いをした人はたくさんいるのではないか」に始まる問いは限りなく、お互いの感情を揺さぶり、自身を責めさいなむ。
「だからここで考えてみたい。トラウマについて語る声が、公的空間においてどのように立ち現れ、どのように扱われるのか。被害当事者、支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者、傍観者などはそれぞれどのような位置にあり、どのような関係にあるのか」
前著『トラウマの医療人類学』を継ぐ本書で、著者は「環状島」をモデルに、加害者も含め、トラウマをめぐる関係者のポジショナリティとその力動を体系的に描いた。〈内海〉〈外海〉〈斜面〉〈尾根〉〈水位〉〈風〉などの用語を駆使しながら、トラウマをめぐる全体像とあるべき方向性をしめした初めての試みである。クライアントと日々を共にする医師であり、マイノリティ問題にかかわる研究者である著者自身に必至の課題であった。トラウマに関与するすべての人にとって、本書は実践と倫理のための道標になるだろう』
(Amazonの本書紹介ページより)
このとおりの内容なのだが、本書を読んでいない人には、たぶんこれでも十分にわかりにくいだろうから、補足説明を加えよう。
言うまでもなく「トラウマ」という現象は『戦争から児童虐待にいたるまで』いろいろな場面で、さまざまな形で発生しているものである。
だか、それにもかかわらず、それは「心の中の現象」であるがゆえに、言語化しなければ、他者にはまず気づかれることのないものだ。
そんなわけで、その「言語化」を担い、社会に認知させたのが、「精神科医」や「心理学者」なのである。
だが、「精神科医」であり「心理学者」が、それを「トラウマ」と名付けただけでは、目に見えないその「問題」に、広く認知を得て「社会化」することは、容易ではない。
だから、トラウマの当事者だけではなく、それに理解のある様々なアクターが、さまざまな角度から、この「社会的な認知の拡大」作業に関わることにもなる。
つまり、「トラウマ」の問題に関わるのは、「(被害)当事者」とだけではなく『支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者、傍観者』、あるいは「加害者」ということになるのだが、それらの「関係者」が、どのような角度からこの問題に関わるのか、それを「見取り図」として概念化し、そこから「トラウマ」との「より良き関わり方」を考察したのが本書であると、そう言えるだろう。
本書タイトルの「環状島」とは、「トラウマをめぐる、人的配置の見取り図」のことなのである。
「環状島」とは、具体的に言えば、中央に「内湖」を持つ「ドーナツ状」の島である。

「環状島」の中央の「内湖」のその真ん中の一番「深い場所」に位置するのが、「最も重いトラウマを受けた人」である。
最も重く深い傷を受けたその人は、その傷の深さのゆえに、「私は傷ついている」という発信もできないまま死んでしまっているかもしれないし、生きていても発信力を持てないまま沈黙しているから、他の誰にもその存在を気づかれることがない。つまり「水面下に沈んでいて、他者からはその存在が認知されない」被害者である。
そして、その「内湖」の中心部から「外」に向かって遠ざかると、浅瀬を経て島の「陸地(水面からの露呈部)」に上がり、そこは登り坂となって、一番高い部分「尾根」へと至る。そして、その「尾根」を超えると下り坂になり、やがて「外海」に至る。
したがって「環状島」というのは、円環状の「尾根」を持った島だということになるのだが、どうして「島」の「陸地」部分が平坦ではなく「尾根」を形成しているのかというと、その「陸地」の「高さ」が、「発信力の高さ」を概念化したものだからである。
つまり、「環状島」の中心部が「最もトラウマの深い人」であり「外」に向かうほど、トラウマは浅くなるのだが、傷が浅い分、体力としての「発信力」も高まるその一方、傷が浅くなればなるほど「当事者性」が薄れて、内容的な「発信力」が弱まりもする。
だから、島の中心部から「内斜面」を登って遠ざかるにつれて、当事者の発信力は徐々に高まり、「尾根」を超えて「外斜面」に至ると、今度は徐々に発言力が低下していく。そして、やがて「トラウマが無い」あるいは「認知されない」という状態において、発言力が完全に失われたしまう。この「発信不可能」が「外海」に沈んだ状態、ということになるわけだ。

以上は、「被害当事者」についての説明だが、では『支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者、傍観者など』あるいは「加害当事者」の「位置付け」はどうなるのであろうか。
最後の「傍観者」というのは、「無関心という外海」から「環状島」を望見しているだけの人、あるいは「環状島」の存在にすら気づいていない人であり、その意味で「外海」の中に位置する人だと言えるだろう。
当然、少なからぬ「加害者」は、この「傍観者」であることが多い。そもそも「加害意識」が無いのか、加害意識はあっても、故意に関わろうとしない場合などである。彼は「環状島」の存在を知らないか、知っていても無視して、「外海」に止まっているのだ。
一方、それ以外の『支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者』などは、「環状島」の存在を認知しており、その実態を世間に訴えようと、積極的な関わりを持つ人のことである。
言い換えれば、自身が「トラウマ」を持つわけではないけれども、この環状島に上陸して、その実態を調査探究したり、その結果を「外海」の「無関心な人々」に向けて発信ことで、「無関心な外海」の「水位」を下げ、トラウマとしての「環状島」を、より目に見えるように「陸地」化していこうとする人たちだとでも言えるだろう。

このように、文章で説明してもわかりにくいから「環状島」という「見取り図による概念化」が、本書ではなされているのだ。
さて、以上のとおり、本書は「トラウマ」そのものを扱うものではなく、「トラウマと社会のあるべき関係」を考察したものだと言えるだろう。
「トラウマという社会現象」の存在を、いかにして「社会」に伝え、理解を広げ、適切に対応するか、そうしたことを語った本である。
本書に「ポジショナリティ」という言葉が登場することからも分かるとおり、私が本書を読んだのは、すでにレビューを書いた、池田緑『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』に、本書が参考文献が挙げられていたためである。
しかし、参考文献の中でも、本書のタイトルが目を惹いたのは、その特徴的なタイトルに見覚えがあったからである。
私は以前、「トラウマ」という現象に興味を持ち、ジュディス・L・ハーマン(中井久夫 訳)の『心的外傷と回復』などを読んだりしたことがあったのだが、その頃、話題になった関連書の1冊として、本書の特徴的なタイトルが記憶に残っていたのだ。
それで今回は、池田書を読んだついでに読んでみようと思ったのである。
○ ○ ○
本書のユニークなところは、「トラウマ当事者」の問題を、「障害・病い」として個別的に取り扱うのではなく、この問題を取り巻く「社会」との関係で論じている点である。

「トラウマ」と言っても、それは当事者だけの問題ではなく、それに関わる『支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者、傍観者など』の各種アクターが存在して、初めて「社会化」され、認知されることになる。つまり、そうした関係性の中で初めて、トラウマの存在は「沈黙の海から浮上」して、その姿を現すのだ。
で、これを、私がここ1年興味を持っている「フェミニズム」の問題に接続してみると、こうなる。
一一「フェミニズム」の問題が混乱を来たしやすいのは、「当事者」と「代弁者」と「専門家」と「研究者」が、しばしば同一人物だからなのではないか。
つまり、その役割の自堕落な混淆が、混乱を引き起こしているのではないのか。
「性差別(女性差別)」という問題提起において、「女性フェミニストである(大学教員などの)研究者」というのは、「当事者」であると同時に「代弁者」「専門家」「研究者」でもある。だからこそ、その発言の「客観性」(の無さ)が、しばしば疑われてしまいがちなのである。
「それは、本当のこと(事実)なのか?」「自分に都合の良いことだけを、一面的に語っているのではないか?」あるいは「話を盛ってはいないか?」といった疑惑を、「女性フェミニストの発言」は、おのずと招いてしまうのだ。
したがって本稿では、本書『環状島=トラウマの地政学』に示された「当事者性から一歩退いた視点」を採用して、「フェミニズム」における「アクターの立場的な混乱あるいは複層性」という問題を考えてみたい。
「女性差別」問題が、基本的には「当事者問題」として始まり、その中心的なアクターの「立ち位置」が「複層化」しているがために惹き起こされる「混乱」を、いかにすれば回避することができ、外界に対する「説得力」を持たせられるのか、という問題意識である。
そこで、まず私が注目したのは、本書著者の語る「複数のイシュー化と複合的アイデンティティ」ということである。
人を「傷つける・傷つけられる」という「トラウマ」や「差別」の問題は、実際のところ「それのみ」として単体的に存在しているわけではなく、複数の問題が複雑に絡み合った中から、選択的にイシュー化されたものでしかない。
そのために、そのワンイシューに集中してを掘り下げていると、その穴の直径は自然と広がりを持ち、結果として、周辺の問題とも関わって来ざるを得ない。
ある問題に深く関わろうとすればするほど、問題は単純に「そこだけ」ということでは済まされなくなって、おのずと「問題化=イシュー化」は、周辺の関連問題を含む「複数のイシュー化」が必要となってくる。一一と、そういう話である。
したがって、「環状島」という「概念図」は、極めてシンプルでわかりやすいものなのだが、現実の問題においては、この「環状島」が一つだけポツンとあるというのではなく、いくつもの「環状島」が複雑に絡み合ったかたちで存在している、と考えるべきなのだ。
つまり、イメージとしては、「環状島」という「輪っか」がいくつも複雑につながったチェーンリングとでも言えようか。
しかもそれは、単純に両隣の輪とつながった「円形の鎖状」ではなく、個々の輪っかが、イレギュラーに繋がる、ごちゃごちゃと混乱した網目状の問題だと考えればいいだろう。
例えば、湖面に石を投げた時にできる波紋は、単純な「同心円」ではなく、石によって多方向に跳ね上げられた水滴が落下して作る波紋もそこに加わってできる、複雑でイレギュラーな多重の波紋をイメージして貰えばよいかも知れない。
「現実」の問題というのは、それほど複雑な現象だということである。

しかし、現実がそれほど複雑なものであるとしたら、「環状島」というせっかくの「シンプルな概念図」も意味をなさないのではないかと、そう考える人もいるだろう。
だが、そうではない。
「環状島」というのは、言うなれば人間(生物)における「細胞」ものようなものだと考えればいい。
たしかに「細胞の構造」を知っているだけでは、人間総体の問題に対処することはできない。だが、だからと言って、細胞の構造を知らなくても良いということにはならないし、漠然と「複雑だ」と思っているだけでは、お手上げだろう。
つまり、基本形式を押さえていてこそ、その応用として、複雑な事象にも対処できる、ということなのである。
「フェミニズム」における「ワンイシュー」としての「女性差別」の問題は、なぜ「女性当事者」以外の「第三者」の理解を、しばしば困難にしがちなのだろうか?
「女性差別」問題という「ワンイシュー」の中だけで考えれば、〈外海〉に位置する人たちというのは、「問題意識がない」とか「無知だから」と言ったことにしかならないだろう。
けれども、「複数のイシュー化」という視点に立つならば、今の「フェミニズム」の問題の立て方は、関連する問題を、自己中心的に「切り捨てて単純化した」ものでしかなく、そのために、「切り捨てられた数々の属性」が回帰して「フェミニズムの独善性」を批判するために、十分な説得力を持ち得ないのではないかと、そのようにも考えることも出来よう。
実際、「黒人フェミニスト」が、それまでの「フェミニズム」を「中流階級以上の白人女性」を対象としたものでしかなかったと、批判したようなことである。
つまり、「女性差別」の問題は、単に「女性差別」の問題のワンイシューでは済まされず、おのずとその周辺に位置する「人種差別」や「階級差別」といった「各種の差別」問題とも絡んでくるから、「女性差別」のみをイシュー化して済まされる問題ではないのだ。
だからこそ、「黒人フェミニスト」による問題提起の後は、フェミニズムにおいても「交差性(インターセクショナリティ)」という考え方が、必要不可欠なものとなった。
そしてこの「交差性(インターセクショナリティ)」とは、本書『環状島=トラウマの地政学』の言葉で言えば、まさに「複数のイシュー化」ということになる。
私が「今どきの日本のフェミニズム=第四波フェミニズム」のそれを、「口先だけの交差性」だと批判するのも、それは「今どきの日本のフェミニスト=第四波フェミニスト」が、自身の「複合的なアンデンティティ」を認めず、自分に都合の良い「立場」だけを「つまみ食い」にしているという点に対してなのだ。
この点について私は、前述の池田緑著『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』のレビューにおいて、「今どきの日本のフェミニスト=第四波フェミニスト」を代表する人物たる北村紗衣を、次のように批判している。
『「ポジショナリティ」の問題として、北村紗衣に問うべきなのは、北村紗衣が自身で明示している、
・大学教授
・シェイクスピアの研究家
・フェミニスト
・映画評論家
・現代フェミニズム研究会会員
・表象文化論学会会員
といった「選択的な属性(立場)」の問題ではなく、それによって隠されている、
・日本人
・先進国国民
・人間
といった「非選択的な立ち位置の責任」なのだ。
「日本人」であるからには、男女の別なく問われることになる「責任」。
「先進国国民」であるからには、後進諸国に対して負っている「責任」。
「人間」であるからには、すべての人間に問われることになる「責任」。
こうした好むと好まざるとに関わりなく「例外なく抱え込まざるを得ない責任」であるがゆえに「不可視化」されやすい「責任」を、看過することなく、問わなければならない。
他者の「責任を問う者=批判者=反差別者」であるのならば、当然のこととして「自身の負うべき責任」に、自覚的でなければならない。
そうでなければ、他人の責任を問い追求する資格がない。自分を棚上げにしての、他者への責任追求など、ご都合主義の「無責任」に他ならないからである。
だが、北村紗衣や、その周辺の自称「フェミニスト」や、北村の所属する「現代フェミニスト研究会」のメンバーがやっていることとは、まさに、このような「ごまかし」なのである。』
つまり、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである北村紗衣は、まず「女性」という当事者の立場から「男性による女性差別」を告発・批判する。
そして、それ以外の「自身の属性」として認めるのは、
・大学教授
・シェイクスピアの研究家
・フェミニスト
・映画評論家
・現代フェミニズム研究会会員
・表象文化論学会会員
といった、『支援者、代弁者、専門家、研究者』などの「特権的な第三者」的な立場のみであって、自らが「加害当事者」性を帯びることとなる、
・日本人
・先進国国民
・人間
といった「属性」ついては、選択的に『傍観者』を決め込んでいるのである。
ここで言う、「日本人」とは、例えば「朝鮮半島や中国を侵略した日本人」や「この結果として生み出された従軍慰安婦や徴用工などへの戦後責任問題に向き合わない日本人」「今も残る、在日朝鮮人などに対する差別と向き合わない日本人」といったことである。
また、同じ「日本人」でありながら、今のなお存在する、「部落差別」の問題や「沖縄人やアイヌに対する差別待遇」の問題に向き合わない「日本人」のことでもある。
同様に、「先進国国民」というのは、発展途上国などの第三世界からの「搾取」によって、不公正に豊かな生活を送っている「先進国国民」という事実のことである。
また、「人間」というのは、「他の生物」に強いた「過剰なまでの犠牲」の上に生きている生物種としての「人間」ということであり、「過剰な犠牲」というのは、「生存のために必要なだけ」をはるかに超えた「犠牲」を他に強いて、地球環境までも不可逆的なまでに破壊し、他の「人間」(例えば、未来の人間、人間の未来、子孫)さえ食い物にしている、といった現実を指している。
つまり、「フェミニスト」として「女性差別」を告発批判している北村紗衣は、しかし、一歩退いて見れば、自らも「差別者」の一人なのだ。
だが、そうでありながら、「自分に不都合な問題」に関わる「属性」については、意図的にダンマリを決め込む「偽善者」だと、私はそのように批判しているのである。
したがって、北村紗衣に代表されるような「今どきの日本のフェミニスト=第四波フェミニスト」というのは、故意に「人々の視野を“女性差別のみ”限定することで、自身を正義の味方に見せかけ、そのことで個人的な、あるいは、党派的な利益を得ている偽善者」だということになるのだ。
こうしたことは、「当事者性」から一歩退いた俯瞰的な立場で、客観的に「関係者の立ち位置についての見取り図」を描いてみせる本書の知見を借りれば、こうした事実は、さらにハッキリする。
本書を読めば、「今どきの日本のフェミニスト=第四波フェミニスト」による、ご都合主義的な「視野の限定というトリック(詐術)」が、海面上に浮かび上がってくるのである。
○ ○ ○
以降は、本書本文からの引用に、解説コメントを付すかたちで書いていこう。
(01)『この複雑なポストコロニアリティの現実のなかで大切なことは、自分自身の根源的な「不純さ」を引き受け、ハイブリッドな場所から語ること、つまり同時に二つか三つ以上の事柄を語ることの必要性を認識することなのです。
(トリン・T・ミンハ/竹村和子訳『女性・ネイティヴ・他者』岩波書店、一九九六、二四二頁)』(P86)
『複雑なポストコロニアリティの現実』とは何か。
それは、例えば「先進国のフェミニスト」が「第三世界の女性の習俗」について「その習俗は女性差別だ!」と批判した際に、その「被害者」とされた「第三世界の女性」たちから「それは、あなたがた植民地国家の国民から見た偏見に過ぎない!」と逆批判されてしまったような事例のことを言っている。
つまり、「同じ女性」として、その習俗は「女性のためにならない」と考え、善意において「第三世界の女性のために」言ったつもりだったのに、それが「偏見による差別的なおせっかいだ」と逆批判されてしまったのだ。
したがって、「ポストコロニアリティの今」を生きる私たちは、単に、「女である」とか「男である」とかいうだけではなく、「人種」や「階級」や「宗教」といった「複数のアイデンティ」を多層的に生きている存在なのだから、恣意的に自身を「特定のアイデンティティ」に還元し、単純化した「立場」において発言することは許されない、ということなのだ。
そうした、自身の「複雑なアイデンティティ」への自覚と配慮がなければ、善意からの発言であってさえ、それも「差別」発言となってしまうかも知れないのである。
つまり厳密に言うならば、今は、そうした「交差性(インターセクショナリティ)」への配慮と自覚なくして、「他者の差別意識」を批判する資格は無い。
私たちは誰しも、ある属性(アイデンティティ)においては「被害者」であり、別の属性においては「加害者」であるとの自覚が必要なのだ。
「純粋な被害者(のみ)」「純粋な加害者(のみ)」といった、わかりやすい存在ではあり得ない、という「謙虚な自覚」なしには、正当な「他者批判」は為し得ないのである。
したがって私たちは、他者に対して、本気で「誠実」であろうとするのならば、『自分自身の根源的な「不純さ」を引き受け、ハイブリッドな場所から語ること、つまり同時に二つか三つ以上の事柄を語ることの必要性を認識すること』が、是非とも必要となるわけなのだ。
(02)『 もう一例として、障害をもつ白人女性と、やはり障害をもつ被差別部落出身の日本人男性を考えてみてもいいだろう。「すべての被差別」および「障害者差別」の環状島において、二人は同じ〈内斜面〉で「仲間」になるだろう。「部落差別」については、女性は〈外海〉の傍観者や潜在的「敵」になる可能性が高いが、「非当事者」であっても勉強して〈外斜面〉に立ち、「味方」になることはできるだろう。そして「女性差別」および「人種差別」については、それぞれが「被害当事者」と「非当事者」であり、「非当事者」のほうは日頃の言動によって「敵」か「味方」になる、つまり〈外海〉か〈外斜面〉に立つことになるだろう。このように、どの環状島かによって二人の立つ場所は変わり、いっしょに「当事者」になることも、「当事者」と「非当事者」になることも、(二人に直接関係のない問題については)いっしょに「非当事者」になることもあるわけである。またそれによって、相手との関係も、「仲間」になったり、「味方」になったり、「敵」になったりするわけである。』(P96)
つまり、どこから見ても「被害者」だとか、無欠の「正義の味方」といった立ち位置には、誰一人として立てないということであり、その「自覚」が必要なのだ。
言い換えれば、その自覚に立った時、初めて誠実に語ることもできるのである。
(03)『 一つの事件や一人の人の体験についても、いくつもの異なるイシュー化のあり方があり、同時に複数の異なった環状島を想定することができること。そして、ある環状島においては被害当事者同士だった人が、別の環状島を想定すれば、被害当事者と支援者になったり、被害者と潜在的敵になったり、潜在的敵と被害者が逆転するなど、二人の位置関係が簡単に、かつドラスティックに変わりうるということ。環状島の上ではつねに被害や生きがたさの重さ比べが起きてしまうこと。これらのことを冷静に、また丁寧に考えていくうえで欠かせない概念がある。それが「複合的アイデンティティ」という捉え方である。
複合的アイデンティティとは、ひとりの人間がさまざまな属性や帰属集団、さまざまな役割をもっていて、アイデンティティを一つにくくることはできない、という捉え方である。人は皆、いくつもの集団に帰属し、同時にさまざまな役割を担っている。現代社会においては、帰属集団や役割の多層性も増し、場面場面で自分が異なるふるまいをせざるをえない状況が常態化している。そのため、アイデンティティを単一のものではなく、ときには矛盾し、葛藤し合う役割の束のような複合的なものとして捉えたほうが、現実に起きていることも理解しやすい。特に民族・階級・ジェンダーなどの要素が複雑に絡み合うポスト・コロニアルな状況におかれたマイノリティにとって、役割葛藤や矛盾はさし迫ったものであることが多く、複合的アイデンティティという捉え方は不可欠なものになってきている。』(P100〜101)
「問題(イシュー)の立て方によって、簡単に立場が入れ替わる」という点については、おおよそ理解していただけただろう。
その上で、ここで注目すべきは『環状島の上ではつねに被害や生きがたさの重さ比べが起きてしまうこと。』という指摘である。
つまり、「問題(イシュー)の立て方によって、簡単に立場が入れ替わる」のだとしたら、人は容易に「我々の立てた問題が、最も重要であり、最優先課題たるものである」と「自己中心的」に主張しがちになる、ともいうことだ。
そしてこれが、北村紗衣をはじめとした「今どきの日本人フェミニスト」のやっていることなのである。
彼(女)らは、「女性差別」問題を第一に掲げ、その上で、「交差性(インターセクショナリティ)」の建前から、「人種問題」や「階級問題」までなら、形式的に、つまり言い訳程度には、言及することもある。
ところが、北村紗衣に典型されるように、こうした「日本人フェミニスト」の大半は、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工補償問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄への米軍基地押しつけ問題」といった、「日本人」として避けられないはずの、具体的な「差別問題」には、一言半句ふれようとはしない。
なぜなら、そうした問題においては、そのフェミニスト自身が「加害者」の立場に立たされてしまい、「被害者ヅラ」や「支援者ヅラ(正義の味方ヅラ)」が出来なくなってしまうからなのである。
言い換えれば、他から賞賛をうける「正義の味方」でばかりいることは出来ないからこそ、そうした問題に、誠実に関わるのは「損だ」という打算において、自覚的にダンマリを決め込む、「偽善者」なのである。
(04)『複合的アイデンティティの優れた論者、鄭暎惠(チョンヨンへ)は(中略)単一的なアイデンティティの捉え方が、「混血」の人たちや帰化した人たち、「祖国」の記憶もなく、ハングルも話せない二世や三世など、「どっちつかず」の人間に必要以上のアイデンティティ・クライシスをもたらしやすいことも指摘する。差別が激しく、それに対する抵抗運動が厳しいほど「在日朝鮮人差別」という環状島は強固になる。それだけに〈内斜面〉にいるのか、〈外斜面〉にいるのかはっきりしない「どっちつかず」の人間は、「本当はどちらの人間なのか」とつねに詮索され、うさんくさい目で見られるだろう。本人も、「自分は何者なのか」「どこにいるべきか」「どちら側にいるべきか」につねに悩まされるだろう。けれども、アイデンティティを複合的なものと捉えれば、いろんなものが混ざり合った「どっちつかず」の自分をそのまま受け入れやすくなる。鄭はこのことを、「純血でない自分を受け入れる」「自分の中にある不純性、多元性、複合性、混沌性、外部との連続性、つまり無境界性を引き受けうる」「不純な「日本人」となる」という言い方で表現している。』(P102〜103)
これが、自身の「不純さ」に悩む「誠実な人」たちへの助言である。「人間誰しも、不純なんだ。君だけがそれを気に止むことはない」と。
しかしながら、「根っから不純な人間」は、こんなことには悩まされず、さっさと「自分に都合の良い部分だけ」を、それがすべてでもあるかのように、臆面もなくアピールするだろう。
それが、北村紗衣に代表されるような「今どきの日本人フェミニスト=第四波フェミニスト」なのである。
彼らには「人間的な良心」が希薄だから、自己矛盾になど悩まず、その「加害者」としての側面についての「責任」を問う声(批判)になど、応答することはない。
みずからの「加害者責任」だけは負いたくない彼(女)らは、自覚的に「ノーディベート(議論拒否)」を、戦略的に採用する。
その代表的な事例が、北村紗衣も参加している、最近設立された「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」である。
同研究会の「設立趣意書」には、自分たちを批判する「フェミニスト」や「フェミニズム研究者」は「差別者である」と決めつけることにより、「敵と議論するつもりは無い」という意志が明記されているのだ。
(05)『 一方、ポスト・コロニアルな状況から現れた流れとして、一見マイノリティの権利を尊重するような多文化主義の政治がある。そこではマイノリティがマイノリティとして語ることが保証されるようになる半面、マイノリティがマイノリティとしてしか語れない(※ 自身のマジョリティとしての側面については語りにくい)という皮肉も生まれる。マイノリティが自分の声を挙げようとするとき、それが成功すればするほど、その声は外部に対して「代表性」をもたされてしまいかねない。そして毎回会議のたびにマイノリティの「代表者」として呼び出され、結果として他の(※ 立場の違う)マイノリティ・メンバーの声を抑圧してしまったり、「マイノリティの声をちゃんと聴きました」というマジョリティのアリバイにも使われてしまう。こうしてマジョリティからマイノリティの代表として祭り上げられた人間を「許可証(トークン)的マイノリティ」という。誰がマイノリティの代表なのかを決める権限は、あくまでもマジョリティの側がもっており、マイノリティを定義するのはマジョリティであるという構造は温存されている。
このような「許可証的マイノリティ」に祭り上げられる可能性に対抗するために、鄭はスピヴァックを引用しつつ、以下のことを主張する。マイノリティに属する人間が、マジョリティとの二項対立で自分のアイデンティティを打ち立てないこと。マイノリティ同士の間の差異についても語り、ステレオタイプ化を許さないこと。そしてマイノリティとし
てマジョリティに向かって語らないこと。マイノリティはマイノリティに向かってこそ、おおいに語るべきであり、マイノリティとして括られた者同士の間にもある〈差異〉を浮き彫りにしていくこと(二六頁)。これはまさに、「在日朝鮮人」という環状島だけではなく、マイノリティ同士の間で差異を生むさまざまな事柄についても環状島を想定し、声を挙げてみるということであり、そういった差異を「あってはいけないもの」としてごまかすのではなく、多様性や豊かさのもととして取り扱うということであろう。
鄭は「マイノリティ間の差異を浮き彫りにすることは、差別によって埋もれた〈自己〉を発掘していくことでもある」と指摘している。』(P103〜104)
これも、「差別問題」に対する、極めて「誠実な人たち」にとっての議論であるし、そうでしかあり得ない。例えば、
『マイノリティ同士の間で差異を生むさまざまな事柄についても環状島を想定し、声を挙げてみるということであり、そういった差異を「あってはいけないもの」としてごまかすのではなく、多様性や豊かさのもととして取り扱うということ』
という部分がそうで、こうした「謙虚かつ自己批判的な立場」からすれば、「われわれの主張こそが、唯一正しい。そんなわれわれを批判するのは、何をもっともらしく語ろうと、所詮は差別者でしかない」などと決めつけるような、前記の「現代フェミニズム研究会」などの「確信犯」グループには、こうした言葉は決して届かない、ということである。
言い換えれば、「現代フェミニズム研究会」に所属して、その「設立趣意書」に準じているようなフェミニストこそ、無反省で度し難い、唯我独尊の「差別者」だということになるのだ。
(06)『 彼女(※ セクハラ裁判の先駆けのなった、福岡セクシャルハラスメント裁判の原告・晴野まゆみ)が自分の声を挙げようとしたのは、セクシュアル・ハラスメントの被害者代表になるためではなかった。セクシュアル・ハラスメントによって傷つき埋もれた自己を取り戻すために立ち上がったのだ。けれども、セクシュアル・ハラスメントという言葉が多くの人々の関心を惹きつけ、環状島を浮き上がらせるのに成功すればするほど、彼女は「被害者代表」「理想の原告」として、「差別をなくす責任を一手に引き受け」なくてはいけないと無理をしてしまう。しかし、やがて彼女は支援者たちとの差異に気づき、差異を見すえざるをえなくなる。その苦しいプロセスを通して、彼女は自分自身がこれまで内面化してきた差別や偏見をもひとつひとつ洗い流し、「埋もれた自己」をさらにいくつも発掘していったのではないだろうか。そこで発掘された自己とはけっして、「純粋な被害者」=「理想の原告」ではない。矛盾も弱さも割り切れなさも抱えた、複雑で多面的な、いわば「灰色の領域」を抱えた人間である。しかし生身の大人で真っ白な人間などいるだろうか。真摯に自己に向かえば、それは必ず灰色の領域をもつものとして現れてくるのではないか。そういう「ありのまま」の自分を発掘し、肯定することで、彼女はようやく永松や安岡の(※ 彼女の人格に対して与えた)傷に少しずつ向き合えるようになっていったのではないだろうか。』(P105〜106)
つまり「福岡セクシャルハラスメント裁判」の原告だった晴野まゆみは、この先駆的なセクハラ裁判において勝つために、弁護団や支援者から「無垢な被害者」であることを強いられ、徐々にそんな自分に「居心地の悪さ」を感じるようになり、裁判後は、周囲の反対を押し切って「自分個人の言葉」を発し、弁護団や支援者と袂を分つことになったのである。
たしかに、弁護団や支援者からすれば、この裁判は、彼女一人の問題ではなく、すべての女性のための闘いだった。
だから、晴野には、いつまでも絵に描いたような「可哀想な被害者」ていて欲しかったし、そのためは、「余計なことは言わない、お飾り」であって欲しかった。「現場はすべて、私たちに任せて」と、善意から、晴野にそう求めたのである。
だが、晴野にとっては「それは何か違う。私が求めたのは真実あって、自分を偽ってでも、ただ勝てば良いということではなかったはずだ」と、そんな葛藤を抱えるようになっていったのだ。
だから本書著者は、ここで鄭暎惠の言葉を借りて「それで良いのだ。被害者とは、無垢な善人でなどある必要はないし、そんなことはあり得ないことなのだ。そう考えれば、無垢ではあり得ない被害者として闘い続けることも出来るはずだ」と、そう助言しているのである。
つまりこれは「運動論」に対する提案でもあるのである。
ただし、この提案もまた「誠実な被害者」や支援者などの関係者に向けた「助言」であって、初めから「二枚舌が使えるような不誠実な人間」が「被害者」を名乗るような場合には、まったく無関係な話でしかなかろう。
例えば、北村紗衣が「歴史学者の呉座勇一が、私をネット上で誹謗中傷し、私は深く傷ついた」と訴え、千数百名の賛同署名を集めて公開した「オープンレター:女性差別的な文化を脱するため」などの場合、今となっては、自分から「私は発達障害だから、他人の気持ちがわからない」などと公言して、その「図太い神経」で知られる北村が、「オープンレター」当時は、「傷ついた乙女」的な(私が言うところの)「泣きの三文芝居」をして見せていたりした。




つまり、こういう手合いには、本書著者の助言など、別次元・別世界の話でしかないのである。
詐欺師に「他人は無論、自分も偽ってはいけませんよ」というような真摯な助言は、決して届きはしないのだ。
(07)『そして晴野が自分の浮き上がらせた環状島から立ち去ったように。たとえ一時期は雄弁な「代表者」であったとしても、アイデンティフィケーションはあくまでも暫定的なものでよいのだ。人は変わっていくものだし、人と人との関係も変わっていく。それはけっして悪いことではないはずだ。最初に声を挙げた被害者であろうと、他の被害者や支援者であろうと、誰も環状島に縛り付けられるべきではない。
ただし、ここであえて付け加えておくならば、構築性を変容性に結びつけることについては留保が必要だと私は考えている。環状島を立ち去るということは、その人が簡単に変われるということではない。人間はそれほど器用に変わることはできない。
「作りあげられたものなのだから、変えることができるはず」という議論はよく用いられるし、社会構築主義が戦略的に用いられるゆえんでもある。しかし、現実には必ずしもそうとは言えず、特に科学技術の発達した現在においては、逆のことも少なくない。たとえば「性同一性障害」の治療が、本人の(社会構築的なはずの)ジェンダー・アイデンテイティよりも(本質的なはずの)身体を変える方向に向かっているのは、まさにそのせいであろう。長い時間をかけて資源やエネルギーが投入され、構築され、自己の一部として習慣化・内面化されてしまったものこそ変わりにくいのであり、技術によって身体を変えるほうがよほど簡単なのである。
もちろん、困難であるということは不可能であるということではない。可能性について議論するときと、実際にそれがどれだけ困難であるかの議論は別にされるべきである。可能だとまず思ってみなければ道は開けない。そこに社会構築論の貢献はあったはずである。ただ、脱アイデンティティ論が「人間は簡単に変われるはずだ」という安易な主張にすり替えられてしまうなら、それは、自分のおかれた場所から逃げられず、簡単に変わることができないマイノリティへのさらなる暴力にもなりかねない。』(P116〜117)
まずは、先の北村紗衣の問題に関わる部分から言うと、たしかに『その人が簡単に変われるということではない。人間はそれほど器用に変わることはできない。』というのは事実なのだか、もとから不誠実な人間は、場合によっては、ころりと変わってしまうという現実の方も、押さえておくべきであろう。世の中、善人ばかりではないのだ。
その上で、ここで著書が語っている肝心の問題とは、「構築主義の困難」の問題である。
そしてこれは、「トランスジェンダー問題」において、端的に表面化している喫緊の問題なのだ。
マイノリティとしてのトランスジェンダーの権利を最優先に訴える人たちの(少なくない部分が)主張する「ジェンダー・アイデンティティは、生物学的な性ではなく、当事者の性自認に依るべきであり、法律もまた、そのように改正されるべきである」といった、ラディカルな意見の持つ問題である。
こうした「性自認主義」の理論的な基盤になっているのが、まさに「社会構築主義」なのだ。
つまり、「性別」とは「社会的な構築された制度的なフィクションであり、決まりごとにすぎない。だから、それは変更可能なのだ」という主張なのである。
こうしたラディカルな主張に対し、本書の著者は、
『「作りあげられたものなのだから、変えることができるはず」という議論はよく用いられるし、社会構築主義が戦略的に用いられるゆえんでもある。しかし、現実には必ずしもそうとは言えず、特に科学技術の発達した現在においては、逆のことも少なくない。たとえば「性同一性障害」(※ 本書刊行当時の公式な呼称であり、現在では「性別違和」や「性別不合」と言い換えられることも多い。体と心の性が一致しないことは「病気でも障害でもなく、自然にあることだ」という認識に立つものである)の治療が、本人の(社会構築的なはずの)ジェンダー・アイデンテイティよりも(本質的なはずの)身体を変える方向に向かっているのは、まさにそのせいであろう。長い時間をかけて資源やエネルギーが投入され、構築され、自己の一部として慣習化・内面化されてしまったものこそ変わりにくいのであり、技術によって身体を変えるほうがよほど簡単なのである。
もちろん、困難であるということは不可能であるということではない。可能性について議論するときと、実際にそれがどれだけ困難であるかの議論は別にされるべきである。可能だとまず思ってみなければ道は開けない。そこに社会構築論の貢献はあったはずである。ただ、脱アイデンティティ論が「人間は簡単に変われるはずだ」という安易な主張にすり替えられてしまうなら、それは、自分のおかれた場所から逃げられず、簡単に変わることができないマイノリティへのさらなる暴力にもなりかねない。』(※ は、引用者註記)
と、そう「注意喚起」しているのだ。
「われわれの主張が正しいに決まっているのだから、これまでの常識など、所詮は偏見でしかなく、一顧だにする価値はない。そんなものは無視して、ただちにわれわれの主張するところの正義を為せ」というような急進的な主張は、その「正義の確信=独善性」において、また他者を蔑ろにすることにもなりかねず、新たな「差別」にもつながりかねない、ということなのである。
そしてここで危惧されたことが現実となっているのが、前述の「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」だ。
同研究会は、「トランスジェンダー差別は決して許さない」と、自分たちの立場から、違う立場の者を「差別者」認定することで、異論を封殺しようとしているのである。
つまり、「正義を為そう」とするのは良いことだが、それが「独善」に転ずれば、それもまた「差別」を生む「悪」ともなるのだという、自戒的な「謙虚さ」を決して忘れてはならず、そのために是非とも必要なのは、「批判に耳を貸す」という、ごく基本的な構えなのである。
(08)『 もちろん、被害の種類によっては、圧倒的なアイデンティティを押しつけてくるものもあるだろう。原爆被害のような心身への侵襲が多大なものや、植民地化や国籍制奪など居住や生存にかかわるもの、人種差別、民族差別、部落差別など生活を圧倒的に左右するもの、障害者差別、性差別などほぼ永続的に異なる扱いを受けつづけるものを、アイデンティティの大きな核とせずにすむことは難しい。
このように永続的で強固なアイデンティティを押しつけられるということ、一つの環状島の内側に(※ 一つのアイデンティティにのみ)縛りつけられつづけること自体が、被害そのものだということもできるだろう。けれども、どんな差別や被害を受けていたとしても、それがその人のすべてではない。他の側面や他の属性をもたない者はいない。「同じ被害者」「同じ被差別者」の中にも多様な人がいるし、一人の人間は被害以外の世界をも生きている。
また、すでに述べてきたように、追いつめられ、これ以上引くに引けないような困難な闘いを強いられているとき、これまでさまざまな裏切りや切り崩し作戦によって仲間の脱落を経験してきた場合などは、「部分的同一化」はあまりに頼りなく、あまりに危険性の高いものに感じられるかもしれない。「スパイ」が入り込んで内部工作が行なわれる可能性、良いとこ取りの気まぐれな支援者に振り回される可能性、いろんな人が集まり凝集力が弱まって内部崩壊していく可能性などを心配するのは当然であろう。
けれども追いつめられているからこそ、その切迫感を支配・被支配の関係や、共依存の関係に転化させてしまわないようにする努力はつねに必要である。「部分的同一化」は確かに頼りないが、全面的同一化がもたらす仮の安全感覚のほうが、あまりにも多くのものを覆い隠し、長期的にはより危険であると私には思える。』(P118〜119)
まさに「現代フェミニズム研究会」のことだ。
「現代フェミニズム研究会」が入会者に求めているのは、かの「設立趣意書」に、完全に同意すること。つまり『全面的同一化』である。
だからそこ「現代フェミニズム研究会」は、もはや「イデオロギー集団」であり、「宗教教団」臭さえ漂わせているのである。
(09)『たとえば民族差別と女性差別の両側面をもつ元従軍「慰安婦」問題がある。元従軍「慰安婦」問題を民族差別とみなして支援活動を行なう韓国・朝鮮人男性は、女性差別という意味では加害者ではないのかと問われ、女性差別とみなして支援活動を行なう日本人フェミニストは、加害国の人間であることをきちんと意識しているのかと問われる。もともと元従軍「慰安婦」として名乗り出たハルモニたちを支援するために集まったはずなのに、ポジショナリティをめぐる問いは支援者の中にいくつもの溝をもたらしてしまう。そして、ハルモニたちがいちばん自分たちの声を聴かせたかったであろう日本人男性の多くは、加害者として自分が責められずにすむよう、この問題に関わることを避けてきた。
これは元従軍「慰安婦」問題に限った話ではない。ポジショナリティの問いかけにおいて登場するのは、しばしば強者の中の弱者とか、弱者の中の強者といった、グレーゾーンにいる人たちである。自分の中に被害者性と加害者性を両方抱える人たちである(複合的アイデンティティを考えれば、人間みんなそうだとも言えるが)。両端の弱者と強者は出会わない。真の弱者は〈内海〉に沈み、異議申し立てなどできないし、真の強者はとうに暴力の現場から立ち去り、環状島には寄りつきもしない。』(P138)
つまり、北村紗衣のような自称「フェミニスト」がいるせいで、本来「フェミニスト」である私が、「フェミニスト」を批判しているかのような図式にもなってしまう。
そして、私が北村紗衣をぐうの音も出ないほど批判すると、それを見た「アンチ・フェミニスト」たちが「そうれみろ」と言わんばかりに喝采の声をあげ、結果としては、真っ当な「フェミニズム」が、かえって後退することにもなってしまう。
つまり、北村紗衣や「現代フェミニズム研究会」の会員であるような「えせフェミニスト」や「三流フェミニスト」ばかりが、その騒々しさにおいて目立つ「目立ちたがり屋」であるために、本来の「フェミニズム」の活動は、脚を引っ張られることになる。
真の「フェミニズム」の敵は、「獅子身中の虫」たる、北村紗衣や「現代フェミニズム研究会」会員などの「えせフェミニスト」だということになるのだが、こうしたことは得てしてありがちなのだ。
例えば、一部の「マナーの悪い来日外国人」の存在が「排外主義」を招いてしまうという現実と、これは同型の問題なのである。
(10)『無徴性の特権を有するマジョリティ。たとえば白人中心の社会で生きている白人。その特権のトリックを暴くことは重要である。ただ、個々のアクターをカテゴリーによって判断することは、ステレオタイプにもつながり、不毛な結果しか生まない可能性がある。人間を所属集団によって分類する行為は、たとえ強者に向けられていても、差別の一種であり、暴力的なことでありうる。どんな人も、どれほど特権をもっているように見える人であっても、外部からはうかがいしれない何かをもっているかもしれない。重いものを抱えているかもしれない。何の苦労もしていないマジョリティのエリートに見えても、実は‥‥‥ということはよくある。国や自治体の首長など大きな権力を握る人の場合は個人レベルの分析や解釈をしたほうがいいこともあるが、それも節度が必要だと思う。』(P140)
例えば、北村紗衣などは、「性差別」問題について、「男が悪い」と一点張り的に言う。男女には明白な「権力勾配」があるのだから、どんなに「善意の男性」であろうと、その罪は免れないからで、だから男性からの批判には「耳を貸さなくても良い」と、そのように「わかりやすく単純に」、若い女性たちに向けて訴えるのだ。
そして、またそれで、若い女性読者は「エンパワーメント」されたつもりになる。
要は「難しいことを考えなくても、あなた方は正しい」と、そう保証されたつもりになってしまう。
一一これが、「偽メシア(救済者)」北村紗衣の人気の秘密なのである。
ともあれ、たしかに「善意の男性」であろうと、現にこの世の中が「男性中心社会=家父長制社会」であり続けるからには、すべての男性は、その責めを負う責任がある。
これは事実だし、池田緑がその著書『ポジショナリティ』で強調していた部分でもある。
例えば、「現代フェミニズム研究会」に所属する「男性フェミニスト」学者(例えば、河野真太郎や藤高和輝など)が、フェミニストを名乗ることで「女性の味方」であることをアピールし、「男性中心社会=家父長制社会」を批判していようと、男性として、現にこの「男性中心社会」から受益して生きてきたし、今もそうであるという事実において、彼らとて「男性として負うべき責め」は、いっさい免れ得ないのである。
したがって、
『個々のアクターをカテゴリーによって判断することは、ステレオタイプにもつながり、不毛な結果しか生まない可能性がある。人間を所属集団によって分類する行為は、たとえ強者に向けられていても、差別の一種であり、暴力的なことでありうる。』
というのは、まさにそのとおりで、その端的な実例として、「現代フェミニズム研究会」や「オープンレター:女性差別的な文化をを脱するために」に、わかりやすく見て取れるのが、その「独善的暴力性」なのである。
「独善的」であるからこそ、北村紗衣らは、「論敵」との議論を避けて(ノーディベート)、もっぱら「敵」の「社会的な抹殺(キャンセル・カルチャー)」を企図するのだ。
そしてその具体的な犠牲者が、「オープンレター」で職を追われた呉座勇一であり、北村紗衣による「名誉毀損の賠償裁判」という「スラップ訴訟」の被告となった山内雁琳なのである。
(11)『 フェミニズムの「個人的なことは政治的なことだ」というスローガンもそれ自体は正しい。けれども、個人的な関係性の中で起きていることを、すべて政治的に捉えること、しかもそれを女性/男性といった決まったカテゴリーによってのみ捉えることは、複合的アイデンティティをもつ個々の人間存在を大きく見損なってしまうことになる可能性がある。』(P141)
『フェミニズムの「個人的なことは政治的なことだ」というスローガンもそれ自体は正しい。けれども、個人的な関係性の中で起きていることを、すべて政治的に捉えること』とは、まさに「オープンレター」であり、北村紗衣による「民事訴訟」などのことであろう。
「言論」によらず、「数の力」や「法権力」によって、力ずくの問答無用で「敵」をねじ伏せるという、暴力的なやり方である。
「勝てれば良い。勝った方が正義なのだ」という、傲慢極まりない考え方に立つ態度だ。
(12)『 ポジショナリティが問われるとき、そこでは発話者の「度しがたいまでの無知」が指摘される(岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』青土社、二〇〇〇、一三二頁)。FGM(※ アフリカを中心として行われる、通過儀礼おしての女性器切除の風習)廃絶を声高に語る人たち(※ 主として、先進国のフェミニスト)が、イスラムやアフリカの女性がどんな日常生活を送っていたり、FGM以外にどんなさし迫った問題を抱えているのかも知らないでいること。そこには「知らなくていいという権力」「知らないでいることの特権」がある(イブ・K・セジウィック/外岡尚美訳『クローゼットの認識論一一セクシュアリティの20世紀』青土社、一九九九における privilege ofunknowing の議論、および宮地尚子「治療者のジェンダー・センシティビティ」『精神療法』三一巻二号、、二〇〇五、四一1四七真を参照)。アイデンティティとは、その人が何を知っている人間かという捉え方もできるが、裏を返せば、何を知らない人間か、何を知らなくていいと思っている人間なのか、ということでもある。なぜ私たちはイスラムやアフリカ女性の日常生活を知らないのか。知ろうともしないのか。ポジショナリティの問いは、そういう自省を迫る。人はすべてを知ることはできないから、無知そのものが罪なわけではない。ただ知識の圧倒的な非対称性は構造的暴力をもたらす。発話する人間は、少なくとも自分が無知であることを知っているべきだし、知らないで話してはいけない瞬間もあることをある程度は知っているべきだろう。』(P144〜145)
例えば、北村紗衣はその著書『批評の教室』の中で、シェイクスピアに関わる志賀直哉の小説「クローディアスの日記」の「おかしな点」を、シェイクスピア研究者として指摘しているのだが、これについては、比較文学者の小谷野敦が、北村紗衣の同書に対する「Amazonカスタマーレビュー」で、
『 日本の作品が少なすぎる。シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーって(※ 内容な)のは若い読者には(※ ウケが)いいのかしれんが(※ いかにも食い足りない)。なお「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。』
と指摘していた。
これは何を意味しているのかといえば、まず間違いなく北村紗衣は、志賀直哉に代表される「日本文学」、小谷野敦が言うところの『日本の作品』をほとんど読んでいない、ということである。
だからこそ、『批評の教室』と銘打っていながら、「日本の文学」作品の名がほとんど挙がっておらず、それは北村紗衣の他の著作でも同じなのだ。
つまり、北村紗衣は、「シェイクスピアの研究者」ではあっても、「日本文学」を読んでいないものだから、自分の著者の読者もきっと「志賀直哉までは読んでいないだろう」と考えて、榊敦子の研究成果を、しらっと横領しようとした、ということなのである。
この点について、私はこれまでに何度となく指摘しているが、北村紗衣からは反論も釈明もない。
こんな、本来なら「研究者生命」に関わるような「疑義」に対して、沈黙を守るというのは、無論、私の「読み」が当たっていたからであり、その正鵠を射た指摘に対して、変に反応するのは「藪蛇になるから」と、狡猾にも無視を決め込んでいる、ということなのであろう。
実際、「いや、私は志賀直哉くらい読んでいます。ただあれは私が、榊さんとは別に、独力で見つけた事実だったんです」とか「うっかり榊さんに言及し忘れたのです」などといった応答をしてしまうと、そこからさらに突っ込まれることは目に見えていたから、北村紗衣はダンマリを決め込んでいるのだ。
そんなわけで、こんな北村紗衣が威張れる相手とは、「勤務先に通報」することで圧を掛けることの可能な「雇われ人」などの、当人の実力以外のところで「弱点」を持つ者だけであり、だからこそ私のように「隠居の身であり、かつ裁判上等」だなどとうそぶく相手には、言論的な実力が無い北村紗衣は、手も足も出ないのである。
(13)『ポジショナリティの問いかけにおいて重要なのは、問う側も問われる側も「全面的同一化」の幻想や願望をもたず、互いの他者性を認め合うこと。批判されても全面的に否定されたと考えず、すぐにその場から立ち去らないこと。健全な「部分的同一化」を行ないながらも強度や「一部圧倒性」を否定せず、「一部了解不能性」をも抱え込むこと。
そして、問いかけがなされるかぎりそこにはコミュニケーションが存在することを、肯定的にとらえることである。』(P150)
つまり、「敵か味方か」「善か悪か」などという、頭の悪い「割り切り方」をせず、自他の多層多面性を認めて、粘り強く向き合うことが肝要だということである。
無論、こうした構えがカケラも無かったのが、「女性差別者とは、職場において席を同じくすることなど出来ない」と語って、実質的に「キャンセル(社会的抹殺)」を求めた「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」や、「味方に非ずば、差別主義者であり、敵である」とすると「設立趣意書」を掲げた「現代フェミニズム研究会」である。
(14)『「和解とは相手を赦すということではなく、相手が存在するのを赦すことである」という言葉を聞いたことがある。だとすれば、それは(※ 被害者が沈められた、沈黙という)井戸の真上に生身の加害者がいることを被害者が許容できるようになることであるといえる。そのとき被害者にとって、加害者はもう臨在感や圧倒的な支配性をもたなくなっている。
そうなるためには当然、加害者が変わる必要がある。それだけでなく、その変化を被害者の側が実感として受け入れられるようになり、両者の関係が変化して、外傷的絆から被害者が解き放たれていく必要がある。
被害者はたいてい、加害者に真の謝罪を望む。賠償金よりも何よりも、心からの謝罪を望む。なぜか。それは真の謝罪は、加害者がもう事件当時の加害者ではないことを示し、そこにはニ度と戻らないということの宜言だからである。井戸の出口や、〈ゼロ地点〉(※ 環状島における内湖の中心)の上空で、全能的な力をふるまいつづける存在ではもはやないということが示され、被害者もそれを信じることができ、過去の幻影から解放されるからである。未来にも影を落として拘束しつづけるような臨在感からも解放されるからである。』(P164〜165 )
北村紗衣は、「オープンレター」を公開することで、呉座勇一の学者生命を左右する力を得、それで呉座に対して二度までも、屈辱的な「公開謝罪」強いた。
また、呉座を擁護して北村を批判し、その中でうっかり失言しながら、その点に関して謝罪しなかった山内雁琳については、その「失言の部分=11個の言葉」だけをとらえて「名誉毀損訴訟」を提起して、二百数十万円もの賠償金をせしめて、痛い目を見させた。
つまり北村紗衣が求めていたのは「心からの謝罪による、トラウマからの解放」などではなく、「敵を叩き潰すこと」だったのだ。
そもそも「トラウマ」というほどのものなど無かったのだから、「赦し」が問題ではなかったのである。
それに比べると、「誣告による管理者通報によって、note記事ひとつが公開停止」になった「被害者」である私は、加害者である北村紗衣から、まだ「謝罪」の言葉さえ受けていない。
なにも、北村紗衣が呉座勇一にしたように「責任をとって、武蔵大学教授の職を辞せ」とか、山内雁琳にしたように「賠償金を払え」などと言うつもりはない。
しかし、「たしかに誣告の管理者通報で、あなたを黙らせようとしてしまいました。あれは私の心得違いでした。申し訳ない」といったひと言くらいないことには、私としても北村紗衣を赦すことが出来ないのは、当然のことだろう。
それに、私の背中には、北村紗衣によって「無理やり黙らされた人々」の怨念が宿っているのだから、たかだか1年ほど批判したくらいで「しつこい」などと言われる筋合いはない。
北村紗衣が多くの人に与えた「トラウマ」は、その謝罪すら無い現状では、自然消滅することなどあり得ないし、むしろ私のやっているのは、「北村紗衣によるトラウマ」という「環状島」を、より多く高く、水面上に浮上させる作業なのである。
私は、北村紗衣によって生み出された「トラウマの環状島」の「尾根」に立って、〈外海〉に向かって呼ばわる者なのだ。
その私の背後にある「内湖」には、今もなお、呉座勇一や山内雁琳をはじめとした多くの人が、北村紗衣によって沈められたまま、沈黙を強いられている。
私はこうした「まつろわぬ民」に、「目覚めよ」と命ずる者なのである。

(2025年8月21日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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