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アンリ・ベルクソン 『精神のエネルギー』 : 「北村紗衣的」批評の問題点

書評:アンリ・ベルクソン精神のエネルギー』(平凡社ライブラリー)

哲学者のアンリ・ベルクソンである。名前だけなら知っている人も多いだろうが、読んだことのある人は、そう多くはないのではないだろうか? かく言う私もそうで、本書で初めてベルクソンを読むことになった。

そもそも何でベルクソンを読むことにしたのか、本書を読み終えるまでは、そのことを完全に失念していた。
ただ、ベルクソンの翻訳書は、数年前に3、4冊買っていて、その頃すでに読もうと考えていたのだが、結局のところ、例によって積読の山に埋もれさせてしまった。したがって、今回は二度目の挑戦であり、たぶん前回は買わなかったはずの、本書を読むことにした。
本書には「講演」論文などが収められており、ベルクソンの著作としては、比較的「読みやすい」とされていたからだ。
無論「読みやすい」と「わかりやすい」は、話が別なのだが、ひとまず「読み通せる」だけでもマシだと考えたのである。

で、本書を読み終わって、なぜ私が、以前にベルクソンを読もうと思ったのか、その理由の、おおよそのところは了解できた。原章二による「訳者あとがき」に、ベルクソンは小林秀雄が愛読した哲学者だと書かれていたのである。
私は、その力量を認めつつも、小林秀雄が嫌いだった。だからこそ、小林秀雄に影響を与えた哲学者にも、興味を持ったのであろう。

しかしながら、たぶんそれだけでもない。ベルクソンの代表的著作には『道徳と宗教の二源泉』という「宗教論」があって、ベルクソンは、キリスト教カトリック関係者、例えば、ジャック・マリタン遠藤周作といった人たちにも影響を与えていた人なのだ。
つまり、私が以前、批判的に読んだキリスト教書にも、彼の名前がしばしば登場して、それが記憶の片隅に残っていたのであろう。

とは言え、私はそういうことをすっかり失念した状態で、なんとなく「面白そうだ」と本書を読み始めたのである。

本書の冒頭に収められている講演論文「意識と生命」とその次の講演論文「心と体」は、近代合理主義的な「二元論的な単純化」を批判して、「まずは、現象を、方法論的な先入見なく、そのまま観察すべきだ」といった趣旨のものであった。

下の2つの引用文は、別の章からの引用であるが、ベルクソンの上のような考え方を端的に語った部分である。

『推進と牽引、「能動因」と「目的因」のあいだには、私が思うに何かしら中間的なもの、ある形式の働きが存在する。哲学者たちは、その働きの内実を抜き取って貧しくし、両極端へと分離することにより、一方には能動因の観念を、他方には目的因の観念を見いだした。』(P265〜266)

『数学的なメカニズムを先入見にせずに事実を検討すれば、心の状態と脳の状態との対応についてはもっと微妙な仮説がすでに示唆されている。』(P274)

このような考え方に対しては、私としても「なるほど、そうだ」とは思ったその一方、その「近代主義批判」的な姿勢に、多少の引っ掛かりを覚えないでもなかった。

果たせるかな、その次の三つ目の講演論文「〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉」になると、さすがに「おやおや?」ということになる。
と言うのも、タイトルにあるとおりで、この講演は、1913年に「ロンドン心霊研究会」の席でのもので、この会が行ってきた「心霊研究」に対し、最大限の敬意を表するところから始まっていたのだ。ベルクソンは、この会の会員だったのだ。

だが、ここで忘れてはならないのは、この当時のイギリスでは「心霊研究」が盛んであり、そうしたものの存在を真面目に信じたり、真面目に検討したりする人が、科学者や有識者の中にさえ少なくはなかった、という事実である。
もちろん、おおかたの科学者からは「冷笑」を向けられていたとしても、である。

(科学的知性の象徴たる『シャーロック・ホームズ』の生みの親であるアーサー・コナン・ドイルは、しかし、心霊や妖精といったものに惹かれた人だった。ドイルは、ベルクソンの同年生まれの同時代人。写真は、ドイルの頭からエクトプラズムが出ているところとされる)

だから私たちが、「今の常識」に盲従して、「当時のこうした人たち」を、頭から馬鹿にするようなことがあってはならない。
一一少なくとも、仏壇や親の位牌を拝んだり、葬式や墓が必要だ、パワースポットが大好きなどといった人に、彼らの「非科学性」を笑う資格など無いのだという程度のことは、弁えていて然るべきなのだ。

もちろん、ベルクソンの哲学においても、いささか微妙なところはある。つまり、「オカルティスト」だとか「スピリチュアリスト」だとか「信仰者」だなどと、単純には決めつけられない複雑さがあった反面、そうした要素が皆無だと断じることもできないところがあったのだ。

ベルクソンの、上のような「非科学的なもの」への肩入れは、多分に「(安直な)科学主義」への批判、という側面が大きかった。
つまり、単純化された「科学的な方法」で物事をなんでも割り切ってしまおうとする態度に対して、哲学者である彼は、もっと「現象を尊重せよ」といった批判を差し向けたのであり、そうした側面から、「科学的に」頭から否定されていた現象に肩入れしたのではないか、言うなれば「判官贔屓」が嵩じての、そうした「非科学的」とされるものへの肩入れだったのではないかと、そう考えられないでもない立場だったのである。

だがまた、「Wikipedia」に紹介されているとおり、後年の彼が、カトリックに帰依しようとしたという事実もあり、彼がもともと「科学」を尊重しながらも、いわゆる「科学的」とされる態度に対しては、あまり良い感情を持っていなかったというのも、事実のようなのだ。
そのあたりを「Wikipedia」では、次のように紹介している。

思想
生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタイン相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。

一方で、ベルクソンは新プラトン主義プロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンはテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913年、英国心霊現象研究協会の会長に就任している。

こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される。』

そんなわけで、前述の講演論文「〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉」になると、さすがに「おやおや?」ということになったし、私が読むべき本ではなかったかなとも思ったのだが、ひとまず最後まで読んでみるというのが私の読書法なので、続けてその後を読んでみると、これがなかなか私の趣味に合って、かなり面白かったのである。

というのも、4つ目の講演論文である「夢」は、「心理学総合研究所」(「心霊」ではなく「心理」である)での講演で、そのタイトルどおり、「夢とは何なのか」ということを論じたものあった。
そしてこれが、私の趣味と完全に合致していたし、これまで考えたことのない角度から「夢」を論じたものだったので、とても裨益されたのである。
一一だがこのあたりについては後で論ずるとして、残り収録論文についても、先に簡潔に紹介しておこう。
ここからはあとの3本は、講演論文ではない。

5つ目の論文は「現在の記憶と誤った再認」と題するものであり、ここで扱われているのは、よく言われる「ここに来るのは初めてなのに、この景色は確かに見たことがある」とか「会ったはずがない人なのに、私はこの人と以前にもこうしてコーヒーを飲んだことがある」といったような「記憶錯誤」の問題だ。
「見たことがあるという記憶錯誤」については「デジャ・ヴュ(既視感)」として知られるものである。

で、ここまで読んできて面白かったのは、この「誤った再認」の問題については、よく知られる「経験的な事実」であり、決して「オカルト」の類ではない、という点だ。
つまりこれは、間違いなく「科学的探究」の対象なのだが、この「誤った再認」の問題は、「〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉」で扱われていた「戦場で死んだ人の夢を、家族が同時刻に寸分違わぬかたちで見た」とか「同時刻に夢枕に立った」とかいった「現象」や、「夢」の問題とも、確かにどこかで繋がってくる、という点なのだ。
つまり、そうした、一般に「テレパシー」とかいった「非科学的」と考えられている現象も、「デジャ・ヴュ(既視感)」などの「誤った再認」や「夢」の問題と関連させて「特殊な心理状態での合理的な現象」だと考えるならば、決して「非科学的な現象」ではないし、それを頭から否定して済ませて良いものでもない、という話にもなってくるからである。

そして、続く6つ目の論文「知的努力」、最後の論文「脳と思考一一哲学的な錯覚」は、「物事について考える」ということについて、その原理を語ったものだと言えるだろう。

つまり、ベルクソン自身によって入念に編まれた本書は、「原理ー応用ー原理」というか流れで、彼の「考え方」を紹介する構成になっていたのである。

そしてそこで語られていたのは、前述のとおり、彼の「オカルト」や「スピリチュアリズム」や「宗教」的なものに対する肩入れが、決して「非科学的なもの」ではなく、「科学的思考の陥穽」を批判するところから出てきたものだ、ということを示唆しているのである。

したがって、ベルクソンがアインシュタイン「相対性理論」を批判したというのも、単純に彼が「非科学的=宗教的」だったからではなく、アインシュタインの「信仰」としての「美しい定式化(方程式還元主義)」を批判したものだと、そう考えることができるのだ。
「科学」が本質的に持っている「単純化」に抗して、ベルクソンは「それは一種のイデオロギー」でしかない、そんな「単純化」を目指すのではなく、物事をありのままに見て、それを考えなければならないと、そういう趣旨において、アインシュタインの「相対性理論」を批判した、ということなのではなかったろうか。

アルベルト・アインシュタイン

そして実際、アインシュタインの「美しい方程式」に対する信仰は、のちに「量子力学」に敗れることになる。
「量子力学」は「堅牢な法則性」ではなく「確率論」に基づく世界像を提示した。つまり、「量子力学」は、「この確率において、こうなる」とは言えても「(次は)必ずこうなるとは断定できない、そんな不確定性を抱えるのが、この世界だ」としたのだが、これはアインシュタインの「科学的な美学(信仰)」に反するものだった。だからこそアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と、「量子力学」を批判したのだ。
一一だが、現在の科学は「量子力学」における「確率的な宇宙論(像)」に基づいて、実際に多くの物理的な成果を上げており、その意味では、ベルクソンのアインシュタイン批判は「正しかった」と言うこともできるのである。

(「量子論の父」ニールス・ボーア

したがって、ベルクソンが「心霊研究協会」の会長だったから、「カトリック」に帰依しかけた宗教的な人だったから、「今となってはお話にならない、昔の哲学者」だ、などと考えるのは間違いである。
むしろ、そうした発想こそが、ベルクソンの批判した「安易な単純化」に他ならないのだ。

私たちが一体、どれほどベルクソンの哲学を知っていて、彼の哲学を批判できるというのだろうか。
私たちのやっていることは、その中身も知らないまま、ただ「勝ち組の多数派」の尻馬に乗って、「所詮、あいつは間違っていたんだ」と言って、無内容に威張っているだけなのではないか。

だからこそ私たちは、ベルクソンその人が抱えていたかもしれない人間的な「弱点」に注目してそれを貶め、「我々の方が優れている」などという身の程知らずで愚かなアピールするのではなく、ベルクソンの指摘した「単純化思考の弊」を真摯に受け止めて、自身を反省してみる必要があるのだ。それこそが「真に科学的な態度」なのである。

 ○ ○ ○

さて、以上は、本書全体についての私の感想だが、ここからは私が特に「面白い」と思った部分について書いていこう。

それが「夢と記憶」の問題である。

ベルクソンの本を1冊読んだくらいで、私がそこで語られていることを正確に理解したなどと思ってもらっては困るし、書評などでよく見られる「内容要約的な説明」で、その著作の内容や著者の思想を「わかった」つもりになってもらっても困る。一一というのも「要約」を読んでわかったつもりになるというのは、本書でベルクソンが批判している「単純化の弊」に他ならないからである。

そんなわけで、以下における説明は、あくまでも「私個人が理解したところ」によるものでしかないし、当然のことながら「誤解」も含まれていると、そうご理解いただいた上で、読んでいただきたいと、あらかじめお断りしておきたい。

さて、私が面白いと思った「夢と記憶」の問題だが、ベルクソンは「夢とは、記憶だけで作られるものではなく、眠っている時も働いている五感からの情報と、それによって惹起された関連記憶で出来ている」のだと、おおよそそのような説明をしている。「夢は記憶だけで出来ているのではない」と言っているのだ。

で、ここで面白いのは、覚醒時の私たちの「認知」もまた、実は「記憶」の助けを借りてのものであり、「現にそのとき認知した情報」だけで「認知」は出来ているわけではない、というのが、ベルクソンの説明だ。
このあたりで、すでに多くの人には「何の話だ?」ということになってくるだろう。

ここで私独自の説明をさせてもらうと、よく知られているとおり、私たちの「視覚」は、実際には「盲点」を持っている。眼球の奥に、視神経が脳へとつながるための穴があるため、その部分は、実際には「見えていない」。その部分の「視覚情報」は取れていないのである。それが「盲点」だ。
つまり、私たちの「視覚情報」は、正確には「真ん中に黒い穴が空いている」のだけれど、それがそのまま認識されないのは、脳がその穴を「周辺の情報で穴埋めしている」からなのだ。言い換えれば、私たちは、見えていない部分まで見えているつもりに「錯覚させられている」のである。

で、これと同じことで、ベルクソンが言うのは、私たちの「認知」というのは「現に認知している情報」だけで出来ているわけではなく、「記憶」によって「補足補填されたもの」だというのである。つまり、「見たつもり」「聞いたつもり」のものは、実は「外的情報そのままの認知、ではない」というのだ。

『ある文章を耳にしているとき、私たちは個々の単語に注意してはいない。私たちにとって重要なのは全体の意味である。聞き始めたときから、私たちは全体の意味を仮説的につくり直している。まず自分の精神をある全体的な方向に投じて、進行中の文章が私たちの注意を差し向ける意味の方向に応じて、全体的な方向をさまざまに修正している。ここではまた、現在はそのそれ自体においてとらえられるのではなく、それが侵入していく未来の中で見られている。』(P209〜210)

『ところで、この種の自動的な知解作用は、私たちが考える以上に大きなひろがりを持っている。たいていの会話は、その大部分が平凡な問いに対する出来合いの答えから成り立っている。知性は問いの意味にも答えの意味にも関心を向けることなく、会話が続いていく。だから知的障害者でも、自分が何を言っているのかわからないのに、簡単な主題についてはほぼ首尾一貫した会話をすることができるだろう。たびたび指摘されてきたことだが、私たちは音と音のいわば音楽的な相性の善し悪しにしたがって、語をつなぎ、本来の意味の知性が介入せずとも脈絡のある文章をつくることができる。』(P240〜241)

例えば、私たちは、自分が比較的詳しい話題ついては、うわの空で聴いていても、おおよそ何が話されているのかくらいの理解が可能なのだが、よく知らない話については、そうはいかない。これはどうしてなのか?

それは、私たちが、意識的であろうと無意識的であろうと、外部から情報を得るときには「記憶の助けを借りている」ということなのだ。「そのとき外部から得られた情報が、認知の全てではない」のである。

例えば、ある自動車を見た時に、私たちはそれをチラリと見ただけで、それを自動車だと認知して、「それはどんな物体だった?」と尋ねられれば、「これこれこういう形をした、何色の乗用車だった」と、その「イメージ」を想起しながら説明するだろう。
だが、このとき思い浮かべられた「イメージ」とは、実際に見たその一瞬で得られた情報だけによるイメージなのかと言えば、そうではない。

それは、それを認知した瞬間からすでに「記憶によって補足補填され、構築されたイメージ」なのである。
だから、そもそも「自動車というものを知らない人」だと、そんな一瞬で、そこまで「詳しいイメージ」を認知することもできないし、そのため、それを「記憶」し「思い出す(想起する)」ことも出来ない(不可能)なのだ。

またその逆に、車マニアならば、一瞬見ただけで、その車のことを「何年式の何々だ」と、その細かいディティールまで「思い浮かべ(思い出し)」ながら語ることができるだろう。彼は一瞬にして、そこまで「読み取ったつもり」なのだ。
だが、現実はそうではない。彼もまた一瞬では「少しの情報」しか得ることはできなかったのだが、彼にはあらかじめ「その周辺記憶」が多量にあったから、それを見た瞬間に、そうした「周辺記憶」によって、その視覚情報を補足して、「新たな記憶」を構成したのである。

つまり、ベルクソンが言うには、「夢」もこれと同じで、眠っている時も働いている五感からの情報に沿うかたちで、記憶が呼び出されることで「夢が構成される」のだ。

ただし、ここで重要なことは、「覚醒時の認知」と「睡眠時の夢」との違いは、「覚醒時」は、活用すべき「記憶」を、生きるために必要な情報に厳しく限定するのに対して、「睡眠時」には、そうした「緊張状態を解く」ため、覚醒時には利用価値の低いものとして排除され、押さえ込まれた情報(記憶)までが、その情報的類似性だけで活用される。そのためな私たちは、それを「夢」として、現実的には「あり得ないイメージ」を見ることになるのである。
一一と、ベルクソンの「夢と現実認知」の説明は、おおよそこのようなものなのだ。

『意識は行動に向かって緊張すればするほどバランスが取れ、夢の中でのように弛緩すればするほど不安定になる。行動の平面と夢の平面という両極のあいだに「生活への配慮」と現実への適応の諸段階に対応するすべての中間平面が存在する。』(P178)

『私たちにとって目覚めの状態は実践的に重要だが、夢はおおよそ行動にいちばん縁遠いもの、いちばん無用なものであるからだ。(※ 夢は)実践的な観点からは付属物であるために、私たちはしぜん、理論的な観点からそれを偶然の出来事と見るようになる。しかし、こうした先入見を遠ざければ、夢は逆に私たちの正常な状態の「基体」としてあらわれてくる。夢が目覚めの状態に付加されるのではなく、目覚めの状態が夢の生活というとりとめのない心理生活を限定し、集中させ、緊張させることによって得られるのだ。』(P184〜185)

そして、こうした見方からすれば、これは「夢」だけに限った話ではなく、また「デジャ・ヴュ」などの「誤った再認」の問題、「精神病」の問題などにも止まらず、〈生きている人のまぼろし〉現象などの問題についても、「科学的」に考えることが可能だ、ということになるのである。

さて、ここまで考えてきたところを応用してみよう。

私が現在批判している、「武蔵大学の教授」でフェミニストの北村紗衣だが、私は彼女の著作を、忌憚なく「クズ本」だと断じた。

なぜならば、北村紗衣の著作は、わかりやすく単純平板なものでしかなく、まったく「深み(思考の厚み)」や「(思考の)鋭さ」といったものが、無いからである。

例えば、北村紗衣の映画レビューでは、女性主人公が男性の登場人物を尻目に大活躍するような作品は「フェミニズム」的に「素晴らしい」ということになるし、「性別や人種に配慮したキャスティングの作品」も「フェミニズム」的に「正しい」ということになる。

一一たしかに、この意見は「間違いではない」という意味において「正しい」のだけれども、しかしそんなことは、わざわざ大学教授に教えてもらうまでもなく「わかりきった話でしかない」。
だから、批評文として「つまらない」という評価になるのである。

こうした「性別や人種に配慮したキャスティング」や「ストーリー」などといったことは、基本的に「社会的な問題」であって、「作品そのものの芸術性への評価」ではない。
正しい「社会的な配慮」において作られた作品が、必ずしも「傑作」ではない、というのは、「分かりきった話」であるから「当たり前の話」でしかないのだし、だからこそ、その「当たり前」の部分しか論じていないような、つまり「映画の中身や出来に対する洞察」を欠いているようなレビューは、「クズレビュー」だとしか評しようがないのである。

では、どうして北村紗衣は、こうした「クズレビュー」しか書けないのであろうか?
一一それは、北村紗衣が、「記憶」を自在に活用する能力を欠いているからである。

私は北村紗衣のことを「学歴エリート的に、丸暗記とその直接的な記憶情報の整理のよるテスト的な正答の提示能力には優れているが、それ以上に深い読解が、まるで出来ていない」と、大筋そのように批判した。

知ってのとおり、優れた「批評家」は(哲学者や思想家や作家もそうだが)、普通の人が「思いもかけない角度」から、「観察対象」の本質を捉え、それを「解読する」ということをやってのける。

ところが、北村紗衣に代表される「学歴エリート」的な人間というのは、そういうことができない。平たく言うと、才気に欠けて、凡庸陳腐なのだ。
ただ、「1足す1は2」「応仁の乱は1467年から1477年」とかいった「丸暗記した、教科書的な正解」しか出せない。だから「つまらない」。

北村紗衣がつまらない評論しか書けないのは、意識の表面的な(直接的な)「記憶」しか活用できず、無意識的なかたちで保存され、アナロジカルに活用することのできるはずの「原・記憶」的なものを呼び出すことができないため、なのではないだろうか。つまり、北村紗衣が活用できる「記憶情報」とは、極めて貧困であり、表面的なものでしかないのだ。

『記憶の努力の本質は、単純ではないにしても少なくとも凝縮された図式を多少とも互いに独立した判明な諸要素に展開することであるように思われる。私たちが努力せずに記憶力を適当にさまよわせると、イメージが次々とあらわれて、そのすべてが意識の同一平面にひろがる。それとは反対に、私たちが何かを思い出そうとして努力すると、たちまち私たちは高い階層に精神を寄り集め、そこから呼び起こすべきイメージの方向へだんだんと降りていく。前者の場合に、私たちはイメージにイメージを結びつけて水平的と呼べる動きで唯一の平面を動くとすれば、後者の場合、その動きは垂直的であり、それによって私たちは一つの平面から別の平面へ移っていくのだと言うべきだろう。』(P237〜238)

実際、北村紗衣自身、自分のことを「発達障害」であり、「他人の気持ちに鈍感」である反面「決まりきった作業をこなすのが得意」だと語っており、これは「発達障害」のある人にしばしば見られる特徴でもあろう。

つまり「ある一面が劣る(抑制される)代わりに、別の一面では優れている(活性化されている)」ということなのだが、この「特性」を言い換えるならば、「あれこれに配慮するのは苦手だが、目の前の作業だけに集中し、それを着実にこなすのは得意だ」ということにもなろう。

ベルクソンの言葉で言えば、北村紗衣は「同一表面上での」作業能力は高いが、「垂直的」な方向への深まりを持つことができない、ということにもなろう。

そんな「発達障害」のせいかどうかは定かではないものの、北村紗衣の場合は、事実として「複雑なもの」「型に嵌っていないもの」など、「階層を異にする(多階層的な)要素(としての記憶)」を活用する能力に欠けている、ということなのである。
だからこそ、認知の表面にある「見たまま」「聞いたまま」の情報の活用は得意なのだけれども、「表面的な操作」には終始しない、すでに蓄えられている「原・記憶」としての「記憶」を呼び出し、それを活用することで、「深い思考」あるいは「跳躍的な思考(ひらめき)」を実現する、というようなことが苦手なのだ。

そのため、北村紗衣の批評文には「おお、そうした視点があったか!」というような「驚き」が、およそ皆無なのである。
(無論、若年者のように、そもそも知識に乏しい読者なら、勉強になる常識的知識の紹介くらいはあるだろうが)

つまり、北村紗衣の「批評家としてのダメさ」とは、「還元主義的な科学的思考」と似たような「単純さ」にあると言えよう。
一方、ベルクソンの哲学というのは、現在の日本における「理系的実益主義」における「北村紗衣的な単細胞さ」を批判するものともなっているのである。

かつての日本には存在していた、寺田寅彦湯川秀樹岡潔といった「理系でありながら、文系的な深さを併せ持つ」理系人が、もはや存在しなくなってしまった。一一と言うか、そういう「深い思考の可能な人」たちが、新自由主義的な実益効率主義」において、活躍の場を奪われてしまったということなのかも知れない。

そのために、「三流の理系人」が、北村紗衣のような「三流の文系人」を捕まえて、「文系の学問など役に立たないから無くしてしまえ」などと言っているのだから、今の日本の学問世界は、もはや「目糞、鼻糞を笑う」の世界だと言っても、これまた過言ではないのかも知れない。

世界にはまだ、「哲学」を併せ持つ、つまり「現・記憶」をも活用できる科学者はいるのだが、日本の科学界からはそうした知性の多くが追い払われてしまった。
その結果が、今の日本における、真の意味での「クリエイティビティ(創造性)」を失った、落ち目の科学界であり、落ち目の学術界だということなのではないだろうか。

だからこそ、すでに手遅れなのかもしれないが、私たちには、ベルクソンの哲学から学ぶべきところが多々あるのだ。
「ベルクソンなんて、非科学的な、昔の哲学者だ」などと、自分の無知無教養を棚にあげて批判するような者こそが、北村紗衣的な、知性における「発達障害」なのである。


(2025年3月21日)


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