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不人気だという「人文学」について

日本では最近、人文系の学問が不人気だという話を、ときどき耳にします。

最近はあまり使わないのかどうかはよく知りませんが、私が学生の頃には、「文系・理系」という言葉が、最もオーソドックスで、この「文系」に当たるのが、おおよそのところ「人文系」であり、人文学なのでしょう。

では、あらためて、「人文」とは、いったい何なのでしょうか?

これが、「人間文化」の略語であろうことは容易に推定できます。
また、ネット検索して出てきた「オックスフォード英語辞典」でも『人間が作り上げた文化。文物制度。』ということになっているようです。

つまり、「人間が作り上げたもの」を研究するのが(人文学)であり、この「人文系」に対置される「非人文系」が、「理系・理科学系」の学問ということになるのでしょう。
「人間が作ったものではないもの」すなわち「自然に存在していたもの」を研究するのが「理科学系」ということになるのだろうと思います。自然とか動物とか人体の構造と物質の構造とか、そういったものを研究する学問です。

でも、理系の代表選手である「数学」は、人間が作り出したものではなく、「自然」を研究する学問の内だということなのでしょうか?
人間が記号化して道具化したけれど、「数」的なものは自然の中に元から存在しており、それを研究したものだから、「数学」は理系ということなのでしょうか?
これはちょっと怪しいような気もします。

例えば、人間の「心」を研究する「心理学」というのは、人間が作ったものではなく、元から備わっているものとしての「心」を研究するものであり、生物学的な「自然」の一部の研究だとそう考えたから、心理学は「科学」、つまり自然科学の一種であり、生理学や医学に近いものとして、長らく「理系」に含まれていたのであろうと思います。

しかし、周知のとおり近年では、「心理学」は「科学ではない」と言われることが少なくありません。
フロイトにしろユングにしろ、理論化がなされるから「科学的」なようではあるけれど、やっていることは、「文学的な解釈」と大差がないのではないかと、そう疑われるようになったのでしょう。

「心」というものが、物質的な実体を伴う存在なのであれば、それを客観的に観察することも可能です。けれども、人の心というのは、実体を持たない現象的なものなのですから、それを解釈する人の主観との関係で、解釈はいくらでも変わってくるはずです。つまり、そうした点で心理学は、文学テクストの解釈に近いとも言えるのです。

しかしながら、研究の対象が「自然現象」であろうと、それを「学問」するためには、それそのものを、あるいは、それに関するデータを「解釈する人間存在」は、必要不可欠です。
そして、だとすれば、あらゆる学問もまた、決して客観的ではなく、文学テクストの解釈と同様の、主観性の関わるものなのではないでしょうか?

一一と、このように素人哲学をしてみましたが、こうした、一般の庶民には「どうでもいいようなことを、あれこれ考える」という「哲学」が、一般から不人気なのは、理解できない話ではありません。
よく言われるように「哲学では、腹は膨れない」「下手の考え、休むに似たり」だからです。つまり「実益が無い」に等しい。

しかし、だからと言って「哲学」は、不要なのでしょうか?
まったくどこにも、何の役に立たないものなのか?

そんなことはないと、私は思います。

先ほど「数学って、本当に理系なの?」と問うてみたように、「哲学」というのは、私たちが「自明な事実」だと思っていることまで、疑ってみることをします。
「そのあたりまえは、あたりまえなのか?」

まあ、たいがいの「あたりまえ」は、いくら疑ってみても、やっぱり「あたりまえ」だということになりますから、「哲学」なんてものは随分と無駄なことをしているように見えるでしょうし、だから「役に立たない」という印象にもなってしまいます。

けれども、「哲学」が、私たちが「真理」だの「現実」だのと信じているもの中に、千に一つの「そうではないもの」を見つけ出してくれたとしたら、それは、たしかに効率は悪いかもしれませんが、やっぱりすごいことだし、必要なことなのではないでしょうか?

あたりまえに「神さまはいる(存在する)」と考えられていた時代に、「神さまは本当にいるんだろうか?」(とか「本当に、太陽は地球の周囲を回っているのだろうか?」)なんてことを真剣に考え、思い悩んだ「原・哲学者」は、きっと「罰当たりな大馬鹿者」であり、役立たずの典型だったのでしょう。
彼が一生懸命「神の不在証明」らしき理論を構築して、人々に説明したとしても、多くの人は彼のことを「罰当たりなキチガイ」だと、悪意や敵意を持って嘲笑したはずです。だから、彼はきっと誰からも尊敬されない、不人気者だったのだろうと思います。

一一しかしそんな彼らも、今の私たちの目から見れば、「時代に先駆けた、勇気ある知の人」だということになるはずで、彼らの思考は「決して無駄ではなかった」と、そう高く評価されるに違いありません。

近年、人文系の学問が否定的に評価される場合、その理由としては、

(1)役に立たない(実益がない)
(2)客観性に乏しく、学問の名に値しない
(3)なのに、無駄に偉そう

といった理由の挙げられることが多いようです。

けれども、すでに書いたように、人文系の学問、つまり「人文学」を、(1)「役に立たない」とか「実益がない」と考えるのは、間違いだと思います。
なぜなら、実際のところ、いろいろ役に立っているからです。

ただし、その役に立ち方が、「理科学」系の学問とは、ちょっと違う。いや、かなり違う。

例えば、哲学や文学で、パソコンや薬や原爆は作れない。
けれども、それらの「正しい使い方」なら教えてくれることもあるのではないでしょうか。

例えば、哲学の一種である「倫理学」で、パソコンや薬や原爆を作ることはできません。ですが、その「正しい使い方」に関する、ひとつの指針を示してはくれます。

「それを悪用してはいけません」
「人殺しの道具に使ってはいけません」

そういったことは、たぶん理科学系の学問は、教えてくれない。
なぜなら、それらの指針は、主観によるものであり思想であって、客観的な根拠のある、自然科学的な「事実」などではないからです。
要は「べつに、人類を絶滅させたっていいじゃないか。そうしちゃいけないという自然法則なんてないんだから」と、おおよそそういうことです。

つまり、「人文系の知」というのは、あまりにも私たちの内面に溶け込んでいるために、その有り難みが、わかりにくいのではないでしょうか。
言うなれば「親のありがたみ」みたいなものです。

あまりにも、身近なものすぎて、あって当たり前だから、それがあることの有り難みに気づけない人が多い。
例えば、「親のありがたみ」は、パソコンや薬や原爆のように、テーブルの上に置いて「これが、親のありがたみだよ」と指し示すことなど出来ない。だから、わかりにくいのです。

では、(2)の「客観性に乏しく、学問の名に値しない。」というのは、どうでしょうか?

しかし、そもそも、そんなことを言ってる人は、「客観性とは何か」「学問とは何か」というのをわかっていて、その上で、そんなふうに言っているのでしょうか?
一一そこがそもそも、かなり怪しい。

なぜって、「客観性とは何か」「学問とは何か」ということを研究するのも、人文学の仕事であって、自然科学の仕事ではないからです。
「客観性」や「学問」というのは、物理的に存在しているものではないのですから、自然科学的な手法では、研究できないはずです(‥‥‥まあ、たぶんこの理解で間違いないと思います)。

ですが、いずれにしろ、「客観性」や「学問」は実在せず、文系的に曖昧な「概念」だからと言って、「そんなものを、気にする必要はない」とは言えないはずです。

「客観性」無くして「自然科学」はあり得ないし、「学問」という観念なくして、「科学」はあり得ない。あり得るのは、興味本位の「遊び」程度のことでしかないのではないでしょうか。

したがって、人文学が「客観性に乏しく、学問の名に値しない。」というのは間違いだと思います。

文系の学問というのは、理系の学問のような「目に見える成果」を生むことは少ないでしょう。ですが、何かを生む「学問」そのものを、土台として支えているものなのですから、文系の学問無くして、理系の学問も、あり得ない
つまり、厳密な意味での「客観性」は無いとしても、文系の学問は、学問ではないどころか、学問という「人間的な営為」の基礎なのです。

実のところ、人文学的に言えば、「客観性」とは「主観」の中にしか存在しない「比較的信憑性の高い立場」というようなことにしかならないのではないでしょうか。
客観性、客観性と言いますが、そうした立場が間違っていたことなど、歴史的に見て、いくらでもあったのです。

したがって、「客観性」を絶対化する態度は、ある意味では「客観信仰」でしかないとも言えるですが、実務的な理科学者の大半は、そこまで突き詰めては考えませんから、そこを人文学者が考えるわけです。

では、次の(3)「無駄に偉そう。」というのはどうでしょうか?

たしかに、偉そうではあるけれど、しかし、何も考えていない人よりは、いろいろ考えて、物を知ってもおれば、理解してもいるのだから、そのことを話せば、知らない人、理解していない人から見れば、「偉そう」に見えるのは、当然なのではないでしょうか?
一一実際、「知恵」を有する分、「偉い」というのは、客観的な事実だからです。

では、なぜ人は、自分より知恵のある人が、その知について語るのを、「偉そう」だなんて思ってしまうのでしょうか?

それはたぶん、自分を「最初から(それなりに)賢い」と思い込んでいるから、なのではないかと思います。

無知でも単細胞でも「同じ人間」じゃないか。人間同士に差別があってはならないのだから、知恵のある者を、特別に尊重しなければならない理由なんてないじゃないか一一と、そんなおかしな「平等観」にとらわれているからではないでしょうか。

そうでなければ、自分より知恵のある人が、自分の知らないことを話していたとしても、感心しこそすれ「無駄に難しい話をして、利口ぶって見せてやがる」なんて、腹をたてることもないはずです。

自分の知らないことなら、素直に耳を傾けたり、教えを乞うたりするべきで、「とにかく俺とお前は平等だ」なんていう、つまらない意地なんか、張らなくてもいいのではないでしょうか。

たしかに、人に物を教えるのに、無駄に威張ったりする人はいますし、それは愚かなことだと思います。
けれどもそこは、その人の「人格の問題」として「馬鹿だなあ」と評価すればいいし、馬鹿にしてもかまわないと思います。

ただ、自分が知らないことを知っているとか、理解し得ないことを理解している人が、そんな話をしているからと言って「威張っている」なんて思うのは、単なる「妬み」や「僻み」でしかないでしょう。

自分より頭の良い人は、客観性事実として、頭が良いと認めるしかないし、自分より美形の人は、美形だと認めるしかない。
そこで、美人と不美人は対等だなどと言い出すのは、お角間違いであり、筋違いなのです。
しかし、だからと言って、人として「卑屈になれ」と言っているのではありません。事実は事実として認めるしかない、と言っているだけなのです。

そんなわけで、(3)の、人文学は具体的な結果も出せないくせに「無駄に偉そう。」という意見も、間違いです。

人文知は、現に役立っているのだから、その事実において、現に偉いのです。

なのに、それを「偉い」と思えないのは、その人が「人文知」というものを理解しておらず、そのために、その価値が「見えていない」から、そのありがたみもわからないだけなのですね。
「親のありがたみ」がわからない、馬鹿息子・馬鹿娘みたいなもの、なのです。

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そんなわけで、最近、日本で言われているような、「人文知」は「下らない」とか「いらない」というような意見は、基本的に「人文知」の価値が見えていない人の、戯言だと言ってもいいでしょう。

そして、わからないこと、知らないことを、ひとまず貶すことで、マウントを取ろうなどとするのは、猿並みの人間でしかない、ということにしかならないのだと思います。

たしかに、無駄に偉そうな「人文学者」というのは存在します。一一例えば、誰か?

そうです、そのとおり。

私が名前を挙げる前に、あなたがその名を思い浮かべたであろう、「武蔵大学の教授」で、自称フェミニストの北村紗衣などは、典型的な「無駄に偉そうな人文学者」だと言えるでしょう。

ですが、ここで勘違いしてはならないのは、北村紗衣「無駄に偉そう」なのは、「人文学者」だからでも「非凡な知を蓄えた人」だからでもない、という点です。

北村紗衣の場合、それは単に、「威張りたがり屋」という当人の「個人的な性格」のゆえでしかありません。
要は、個人的に「性格が悪い」から、偉そうにするだけで、人文学のせいではないのです。

そもそも、文系であろうと理系であろうと、偉そうにしたがる人は、偉そうに振舞うもので、そこに文系だとか理系だとかいったことは関係ない。

むしろ、「哲学」や「文学」などを講じる文系学者を、総じて「偉そう」だなんて思ってしまうのは、それはその人が、「哲学」や「文学」のありがたみを理解していないからです。
そのために「どうでもいいことを押しつけられている」くらいに感じて、「被害者意識」から相手のことを「どうでもいいことを偉そうに語ってる」なんて思うのではないでしょうか。

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さて次は、「物理的に役に立つ理系の学問」とは違う、文系の学問の「役にたち方」について、私なりの考えをご紹介しましょう。

すでに書いたとおり、文系の学問は、理系の学問のように、目に見えるかたちでの成果を生むことは少ないかもしれません。
ですが、実は、その「成果生む人間を育てる」という点において、役に立っているとは言えると思います。

つまり人文学は、理科学の根源的な土台であり基礎なのです。
だからむしろ、その存在の大きさの故にこそ、不注意な人には、その価値を見過ごされがちなのです。

たしかに理系の学問は、発明を生み、私たちの実用に供する物を生み、生活を豊かにしてくれるでしょう。
しかし、一方での文系の学問は、そういう目に見えるものを、わかりやすく生んだりはしないから、物事の表面しか見ない人には、その価値が見えない。

そこで、わりとよく言われるのは、「文系の学問は、人の心を豊かにする」というようなことです。
つまり「理想的な人間の姿」というものを語ってくれる。

理系の学問にとっては、人間は「生物」や「動物」の一種でしかありませんが、文系の学問は、それ以上のものであり得る「可能性」を示してくれます

つまり、今ある姿そのままが人間なのではなく、「人間とは、すべての生物の中で、最も可塑性に富む生物なのだ。だから、人間は、より良きものへと成長すべきである」と、その可能性や方向性を語ってくれる。

しかしながら、「今の自分を、そのまま全肯定してほしい」というような承認欲求ばかりが無駄に強い人の場合は、人文学の語る「人間の理想」などというものは、煩わしいばかりでしょう。だから、それを憎む。

理想なんか目指したくないし、理想なんてものを認めたら、おのずと今の自分の「不完全さ」を認めなければならなくなるからです。

しかしまあ、そんな手前味噌なことばかり考えていては、その人は少しも進歩のない、下らない人間のままに止まるしかありませんし、その意味で、その人自身が不幸でしょう。

人間は、理想があるからこそ成長し、成長があるからこそ、生きる喜び(生の充実)もあるのではないでしょうか?

今のままで全肯定されても、そんなもので、人は満足し続けることは出来ません。

なぜなら、実際にはそれは、単に「つまらないものだ」というのを、自分自身でも感じてしまうからです。
人がお世辞に誉めてくれたりしても、往々にして人は「お世辞なんかいらない!」と、より高い望みを持ってしまう、そんな欲の深い生き物なのです。

では、人文知の独自性とは、何でしょうか?

それは、理系の知とは違い、具体的なものは生まないし、だから金儲けの役にも立たない。
金儲けも出来なければ、権力の握り方も教えてはくれない。それどころか時には「権力とは、こんなものだから、望んで欲するようなものではない」なんてことまで言い出す始末です。だからこそ、「役に立たない」と言いたくもなる。

ても、違うのです。そこが違う。

文系の知が教えてくれるのは、幸せになるための道具の作り方とか、そういう具体的なことではありません。

そうではなく、「金も地位も何もなくても、それでも平気で生きていける人間の方が、幸せだし、強いのだ」と、そんなことを教えてくれたり、それどころか、「人のために、自分の持てるものを捨てられる人こそが、最も幸せなのだ」「何もなくても、それが苦になることもないような人間であることこそが、最も強いと言えるし、幸せだとも言えるのだ」なんてことまで言い出します。

つまり、理系学問の成果である、物理的な幸せとは真逆のものを、文系の学問は、しばしば教えてくれる。

例えば、宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」が、そうした文学的知の提供するビジョンの、ひとつの極北と言えるでしょう。
理系の知では、なかなかこういうものは生み出せない。

雨ニモマケズ) 宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

そう。
理系の知ではなかなか、こうした「マイナスの理想」には到達できない。

人のために右往左往して、それでも人から褒められることのないような人間になりたい、なんて発想にはなれません。

(宮沢賢治)

知恵や知能や地位や権力や財産を手に入れることで、他に秀でて強くなろうとするようなものが、理系の知であり、それの生み出すものなのです。

しかし、文系の知は、そうした「足し算の知」だけではなく、「引き算の知」をも生み出してしまう

知恵や知能や地位や権力や財産を手に入れることで幸せになろうとすれば、その欲望は際限なく膨らんで、結局はその人を不幸にもする。
例えば、地球の環境破壊なんかが、その典型的な例です。

ですが、そんなに危険な「過剰な力」なんか持たなくても、それが苦にならない精神を養えるのなら、それ以上に強いものはないんじゃないかというのが、いや、そういう逆説をも、真にしてしまえるのが、人文知の、非常の力なのです。
昔よく言われた「人格の陶冶」とは、そういうことなのです。

もちろん「心頭滅却すれば火もまた涼し」くなるわけではありませんから、物を手に入れる方法を蔑ろにしてはいけませんが、かといって、それだけでは、人は幸せにはなれない。

人の幸せとは、それを求めているときには得られないものであり、それを求めていく過程の中にこそ、すでに存在しているものなのだと、私は、そう思います。

幸せの「青い鳥」は、どこか他所にいるのではなく、懸命に生きる、その生活の中にこそ、その存在を見出されないままに存在する。

昔、テレビアニメで、『妖怪人間ベム』と作品がありました。

この作品は、タイトルに「妖怪人間」とありましたが、実際には「妖怪」ではありません。
正確には、人間によって生化学的に作られた、「妖怪」のようにグロテスクな、「人造人間」なのです。

彼ら3人は「正しい心」を持って生まれて来ましたが、その姿は「バケモノ(化け物)」そのものでしたから、そのままの姿では、とうてい人間社会に受け入れてはもらえません。

しかしながら、彼らには変身能力があって、人間に化けることが出来ます。
だから、ベム、ベラ、ベロの3人は、その個体特性に合わせて、成人男性、成人女性、男子児童の姿に変身して、日頃は過ごしています。

したがって、ずっとその姿のままで過ごしていれば何も問題も無いようですが、その能力には若干の難点があって、変身しても、なぜか手の指は3本のまま。そのため、周囲の人々から「こいつら、本当に人間なのか?」と怪しまれることになってしまいます。

これは今なら、単なる奇形的な身体障害ということで、周囲も問題にしないどころか、配慮さえしてくれることでしょう。
ですがそこは、「妖怪や化物の実在する物語世界」でのことですから、そうした特徴は「人間ではない証拠」とされがちなのです。つまり、厳しい「偏見」の目で見られてしまう。

さて、この物語の基本となるのは、3人の妖怪人間のリーダーである、ベムの思想です。
物語の中では説明されることがないので、ベムがどうして、そのような「思想」を持つようになったのかは詳らかではありません。ですが、彼は、

「人間を助け、善行を行い続ければ、われわれもいつかは、真っ当な人間になれる」

と、そう信じており、そのせいで3人は旅をしながら、街々の人々を苦しめる妖怪や化け物を退治してゆきます。

このあたりは、ちょっと「仏教説話」的な印象があるように思います。
もともとは妖怪の類だったものが、仏の教えに帰順しての仏道修行の果てに、菩薩や守護善神に生まれ変わるといったお話です。

しかしながら、ベム、ベラ、ベロの3人が、その超人的な力を発揮して、悪の化け物を倒すためには、自分も本来の醜い姿に戻らないと、その実力が発揮できない。
それで、その本来の姿を表してしまうと、もうその街では住めないということになってしまいます。
つまり、せっかく人々のために戦って、化け物を退治してあげたのにのに、その結果、かえってその街を追われることになってしまうのです。

さて、そんなこの物語の最終回では、果たしてベムたち3人は、本当に人間になれたのでしょうか?

アニメ『妖怪人間ベム』の主題歌の、歌詞は次のようなものでした。

妖怪人間ベム
(作詞:第一動画文芸部)

やみにかくれて生きる
おれたちゃ妖怪人間なのさ
ひとにすがたを見せられぬ
けもののようなこのからだ
「早く人間になりたい!!」
暗いさだめを吹きとばせ
ベム・ベラ・ベロ
妖怪人間

月になみだを流す
おれたちゃ妖怪人間なのさ
悪をこらしてひとの世に
生きるのぞみにもえている
「早く人間になりたい!!」
暗いさだめを吹きとばせ
ベム・ベラ・ベロ
妖怪人間

星にねがいをかける
おれたちゃ妖怪人間なのさ
正義のために戦って
いつかは生まれかわるんだ
「早く人間になりたい!!」
暗いさだめを吹きとばせ
ベム・ベラ・ベロ
妖怪人間

最終回での結末については、次のようなところで紹介されていますから、詳しくはそちらを参照して欲しいのですが、一一要は、ベムたちは、妖怪の犠牲になった人々を救うために、自分たちが人間になれるチャンスを捨てた末に、生死不明の結末となります。

つまりベムたちは、自らの希望を捨ててまでなした「究極の善行」の結果、死んでしまったのか、妖怪人間のまま生き残ったのか、あるいは、一一その善行によって、奇跡が起こって、望みどおりに人間に生まれ変わることが出来たのか、そのいずれとも取れるラストになっているのです。

今、考えても、素晴らしい結末の付け方だと思います。

せっかく自己犠牲としての善行を行ったのに、それで死んでしまったというのでは、あまりにも可哀想です。

かと言って、生き残っていたとしても、妖怪人間のままで、人間に生まれ変わるという希望を失い、差別される身分のままで生きていくというのも、また酷な話です。

しかしまた、単純に「奇跡的に人間になれました」というハッピーエンドでは、いささかご都合主義的であり、リアリティが無くなってしまう。

そこで本作の場合は、視聴者である子どもたちに、その解釈を委ねた作品だったのです。

「君たちなら、ベムたちがどうなったと考える?」と。

さて、現在、日本では不人気だと言われる「人文学」を考える本稿で、なぜ私は、いきなり『妖怪人間ベム』の話なんかを始めたのでしょうか。

それは、このアニメが「人文学」的だと思ったからです。

結局のところベムたちは、人間に生まれ変わらなくたって、並の人間以上に「人間らしい心=正義の心=美しい心」を持っていました。

けれども彼らは、自分たちの醜い姿を恥じる一方、「人間」を理想化しすぎていたところもあります。
実際の人間なんて、彼らが思うほど、立派なものではないのだから、善行をなしたからといって「人間になる」なんて保証も道理も無い。

それでも彼らが、「人間」というものを信じて善行を為し続けたのは、彼らのなりたかった「人間」とは、今ここのリアルな人間ではなく、「人間らしさ」という言葉によって示されるような、「人間の理想」の姿だったからなのだと思います。

つまり、「人文学」は、人間の「不完全さ」というものをよく承知しており、その上で「理想の人間になりたい!」という願いのもとに、学問をしている
それが、ベムたちにおける「善行をおこなう苦闘の旅」のようなものなのではないかと、私にはそう思えるのです。それを続けていけば、いつか「理想の人間」になれるのではないかと、そんな希望を持って。

しかし、そんな努力をしても、人間はいつまで経っても、なかなか変わることができない。
そのため、多くの人は、

「善行なんてしても無駄。徒労だよ。人間はどこまで行っても人間で、変わることなんか出来ず、今のままに決まってるんだから、むしろ今のままで、楽しむことを考えた方が得に決まってるよ」

と、そう考えるようになってしまった。

それが、

人文学は役に立たない

とか、

楽しい人文学だけで、いいじゃないか」(令和人文主義)

ということなのではないかと、私には、そう感じられてなりません。

でも、これは一種の「ニヒリズム」でしかないし、(詳しくは知りませんが)ニーチェの言った「末人」みたいなものではないかと思います。

子供の頃に、何度も『妖怪人間ベム』を見て育った私は、彼らの苦闘を踏みにじるがごとき「そんなのぜんぶ無駄だよ」というような立場に与する気には、到底なれません。

たしかに、ベムの主張する「善行を行うことで、人間になれる」という思想は、今の私たちにすれば「説教くさい」ものとして、「偉そう」な物言いに聞こえるかも知れません。

でも、そうではないと、私は思うのです。

「人文学」とは、「人間とは何か」という問題を探求することによって、「人間が、より人間らしくなる」方途を探るものだと思うのです。
つまり、ベムたちの「善行をおこなう、苦闘の旅」みたいなものです。

それで「理想の人間になれる」という保証はありません。
けれども、そうしたベムたちと、彼らの苦闘を「無駄な努力」だと嘲笑う人間とでは、どちらが「美しい」でしょうか?

私が思うに、「人文学」とは、人間の不完全性を認めた上で、「より人間らしい理想を目指そう」とするものであり、喩えて言えば「ベムたちの旅」のようなものだと思うのです。

でも、実のところ、ベムたちが、最初から「人並み以上の美しい心」を持っていたように、心根の美しい人ほど、自身の不完全性を認めて、理想を目指すものだと思うのですね。現状に開き直ることなんて出来ない。

そういう意味において、「人文学」とは、ベムたちの「善行をおこなう、苦闘の旅」なのではないかと思うし、そうした美しい心根に発する「願い」や「祈り」を、文学的に表現したのが、宮澤賢治「雨ニモマケズ」だと、私はそう思うのです。

立つのであれば、私は「妖怪人間」や、宮澤賢治の言う「デクノボー」の側に立って生き、そして死んでゆきたいと願っています。

(2025年12月21日)


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