見出し画像

知的ゾンビのための思想 : 〈令和人文主義〉的な精神の末路

「令和人文主義」の話題も、そろそろ山場を越えつつあるのかも知れない。
一一だが、私がこの問題に惹かれ、まだまだ語りきれていないと感じるのは、なぜなのか?

そんな不全感を感じながら、あれこれ書いたり考えたりしていると、私が引っ掛かっていたのは、令和人文主義者と呼ばれる人たちを「どう評価するのか(肯定か否定か)」ということではなく、彼らが代表的に象徴する「令和人文主義的な精神」の「意味するところ」であり、そこをハッキリさせたかったのだいうことに、徐々に気づいてきた。

令和人文主義者と呼ばれる「一部の人」が問題なのではなく、そういうものが流行ってしまう、若者を中心にした現代日本の精神性が問題だということに気づいたのだ。

しかし、私は何も、若者が悪いと言いたいのではない。
若者というのは、経験が少ないだけに、良くも悪くもその時代の「空気」というものを、顕著に反映するものである。言うなれば、「時代のリトマス試験紙」であり「時代のカナリア」なのだ。

オウム真理教事件の際、毒ガス兵器サリンの開発が行われた目された施設を捜索する際、警察はカナリアを捜索に持参した。かつてカナリアは、炭鉱などで有毒ガスの感知装置として利用されていたのである)

リトマス紙やカナリアが反応するのは、リトマス紙やカナリアに問題があるのではなく、彼らに反応を起こさせてしまう、時代の「空気(環境)」の方だったのである。

だからこれは、激しく反応する彼らに対して、「ちょっと空気が変わったくらいで、嬉しそうにピーピー鳴くな!」などと叱りつけることで、済ませられるような問題ではない。

なぜ彼らは、騒がしく鳴きたてるのか、その原因を探らなければならない。
この場合、カナリアを黙らせることでは、問題は解決しないのである。

だがまた、さらに問題なのは、そこを考えずに「令和人文主義は素晴らしい!」「いや、くだらない!」とやってしまっている、大半の人たちの無思考的な「愚鈍さ」なのだ。
そうした、勝った負けたの水準でしか考えられない、思想の浅薄さなのである。

私は、令和人文主義を「100円ショップ人文主義」だと否定的に評価したけれど、決して否定したわけではない。
一一この違いが、あなたにはわかるだろうか?

言うまでもなく、私は「100円ショップ」を否定しているのではない。便利な「100円ショップ」やその商品も、あった方が良いに決まっている。

つまり、「品質は高いけれども、値段も高い」ものと「品質は劣るけれども、安くてひとまず役に立つもの」とは、二者択一ではなく、両方あった方が良いに決まっている。時と場合によって、使い分けるための選択肢は、あった方がいいに決まっているのである。
一一だから、私は決して「100円ショップ(の商品)」を否定しないのだ。

だが、当然のことながらそれは、「100円ショップ」さえあればいいとか「それで事足りるじゃないか」ということではないし、それは間違いだ。

つまり、「令和人文主義」の、あるいは「令和人文主義をありがたがる人」たちの問題は、「100円ショップ」に満足してしまって、「品質が高いけれど、値段も高い」ものを、「もう必要ないよ」と、そう感じている節が見受けられる点なのだ。

彼らの、それまでの「重厚な学問」に対する、「威張ってる」「無駄に難解」といった否定的な評価が、そのことをよく物語っているのである。

例えば、「100円ショップ」で売っている香水と、シャネルなどのブランドものの香水を比べてみた場合、私なんかだと、容器が同じなら、どちらが高級品だが、きっと区別がつかないはずだ。
こうしたことは、私だけではなく、日頃から高級品を使っている人でさえ、決して珍しくはない話なのではないだろうか。

(伝説の香水シャネル N°5(シャネル・ナンバー・ファイブ)」
マリリン・モンローが「寝るときはシャネル N°5だけ」と語った逸話で、永遠の女性らしさと官能性の象徴として世界的な名香の代名詞)

で、そういう現実を見て、

「バカ高いブランド品なんかいらないんだよ。実際のところ、ああいう物が売れるのは、質が高いからではなく、ブランドをありがたがってる馬鹿が多いってだけなんだ。
だから、もうそろそろ、そういう見栄は捨てて、実を取ろうじゃないか。もう、100円ショップさえあればいいじゃないか」

と、そうなってしまっていることが、問題なのだ。

一一そしてこれこそが、「令和人文主義」流行の本質であり、「令和人文主義」的な精神なのである。

したがって、「令和人文主義」という「100円ショップ人文主義」が問題なのではなく、そうした「便利な廉価品」と「品質の高い高級品」の区別がつかない人たちが、

「品質の高い高級品などいらない。と言うか、どっちも同じでしょ。なら、安い方が使い勝手がいいに決まっている」

と考えて、「品質の高い高級品」を排除し、廃棄してしまいかねないところが、問題なのである。

 ○ ○ ○

実際、この「令和人文主義」の問題を論じている人の少ない部分が、その肯定派であれ否定派であれ、本質的に「令和人文主義」的にお手軽なのだ。
物事の上っ面しか見ておらず、それで満足してしまっている。

例えば、

「令和人文主義とは、これこれの特徴を持つものである。令和人文主義が出てきた背景には、教養主義や倫理主義への反発があった。また、それだからこそ、教養主義や倫理主義の重要性を奉ずる人たちは、令和人文主義を批判したのだ」

というような、よくある「(まとめ的な)解説記事」がある。

そして、こうした文章の結論は、

「たしかに、教養主義や倫理主義には問題がある。しかしながら、それに反発することで生まれた令和人文主義にも、これこれの問題がある」

といったところに落ち着きがちだ。

しかしこれは、このように評している自分は、そのどちらにも巻き込まれてはおらず、状況を客観的に見ているつもりなのだが、一一そうではない。
単に、自分自身の、「令和人文主義」的な「お手軽さ」が見えていないだけなのだ。

だが、こうした「特権的な視点からの評価」であることを、無自覚に自負する主観的な「解説記事」なんかを読んだ人は、それを読んだ自分までもが、そうした特権的な立場に立ち得たかのような錯覚にとらわれてしまう。

本式に物事を考えるという習慣を持たない彼らは、「観察(観測)者には、必ず立ち位置があり、それは結果に何らかの影響を与える、恣意的な立場に他ならない」のだという認識もないから、あっさりと「なるほどね。よくわかった」と納得してしまうのである。

だが、「観察者」の問題すら考えたことのない、この程度の理解では、何も理解したことにはならないし、何の問題解決にもならない。

だがまた、それにもかかわらず、「令和人文主義的な精神」とは、この程度の説明で納得してしまえるほどに、お易い(お安い)精神なのだ。そこが、問題なのである。

もう少し詳しく説明しよう。

まず、令和人文主義が、教養主義や倫理主義に反発して生まれてきたというのは、大筋では間違いないだろう。

にもかかわらず、令和人文主義者たちが、この「まとめ」を聞かされれば、

「いやいや、私たちも、教養や倫理の重要さは十分に理解していますから、それが必要だということも認めています。ただ、私たちは、教養的な知識さえあればいい、それが最も大切なのだといった、権威主義的な押しつけには、素直に従うことは出来ないと、そう言っているだけなんです。同様に、倫理そのものは大切ですが、硬直した教条的、あるいは党派的な倫理観の押しつけは御免だと言っているだけなんですよ」

と、そう抗弁するはずだ。

事実、彼らの主張は、「反教養」でもなければ「反倫理」でもなく、「反教養主義」であり「反倫理主義」なのだ。

一一だから、彼らは、決して間違ってはいないのだ。

しかしながら、「間違ってはいない」から「正しい」のかと言えば、そうではない

この「違い」がわからないところに、「令和人文主義」の「薄っぺらさ」がある。一一どういうことか?

それは、「令和人文主義」の「新しさ」とは、それまでの学問の、「程度の低い」部分を問題視することから出てきたものでしかなく、そのために、その「程度の低い」部分を乗り越えたとか、あれよりは随分マシだ、などと言っても、当然その「令和人文主義」自体が、そもそものレベルが低いものであらざるを得ない、ということなのだ。

つまり、「令和人文主義」の「優位性」とは、

「目くそ、鼻くそを嗤う」

水準のものでしかない、ということなのである。

「令和人文主義」というのは、その批判者たちが印象づけようとするような「粗悪品」、とまでは言えない。
「令和人文主義」者たちは、それなりに頭も良ければ、それなりに勉強もしており、その成果を「わかりやすく」語っているだけなのだから、それを「粗悪品」呼ばわりするのは、違うのだ。

だが、だからと言ってそれは、決して「一流品」ではないし、それと同列に扱って良いものでもない。

例えば、ジャック・デリダ谷川嘉浩は、決して「同レベル」でもなければ、交換可能でもない。
デリダをオンリーワンの思想家だとすれば、谷川嘉浩レベルの思想家は、掃いて捨てるほどいる、つまり、万単位で世界中に存在している、ご当地アイドルみたいなものなのだ。

だが、それにもかかわらず、デリダの思想がまったく理解できないからといって、

「谷川嘉浩の方が、優れているよ。デリダみたいに、訳のわからない、無駄に難解な書き方をするのではなく、谷川さんは、難しいことを、わかりやすく語ってくれるんだから、谷川さんの方が上等なんだよ」

などと評価するのが、愚かな「負け惜しみ」でしかないことは明らかなのである。

「令和人文主義」が、若者のあいだで一定の人気を博したのは、若者たちが、特に日本の若者たちが、自分たちの将来に、明るい展望を持てなくなったからなのではないかと、私はそう見ている。

つまり、発展途上国ならば、若者たちは、決してこんな、後ろ向きなスタンスにはならない。
将来に明るい展望が持てれば、若者たちは「今はしんどくても、困難に挑戦しよう」という、前向きさを持つこともできる。

だが、将来に明るい展望が持てなくなれば、「今が楽しければいいじゃないか」「いま楽しんでおかないと、きっと馬鹿を見ることになる」と、そうした発想になるだろう。

つまり、何年もかけて、デリダの難解な思想のごく一部だけでも理解して、少しでも自身を高めようとするのではなく、ひとまず手っ取り早く、谷川嘉浩や三宅香帆なんかを読んでおけば、今の頭でも完全に理解できるし、小知恵のついたぶん、賢くなった気にもなれれば知ったかぶりだってできる。
ならば、「安かろう美味かろうで、良いではないか」と、そうなるのも当然なのである。

だが、本当にそれで良いのだろうか?

無論、それで良い訳がない。
そんなことを、つまり、そんな「盲目的な現状への追認耽溺」を続けていけば、ますます「日本人の知的レベル」が下がっていくのは目に見えているし、世界の中での競争力を、ますます失っていくことになる。

日本国内だけを見ていれば、それでも済むように思えるかもしれないが、客観的に見れば、つまり外国人から見れば、日本の若者の知的レベルは、どんどん低下しているということにしかならない。まさに「爛熟期をすぎた国の末路」だということにしかならないだろう。

アメリカやフランスや中国人の学生たちが、まだまだ世界最先端の知について、若者らしく多少は背伸びしながらでも、喧々轟々の議論をしている時に、日本の学生は「三宅香帆すげえ!」とか言っているのである。
これは、同じ日本人として、あまりにも情けない。

たしかに、三宅香帆も、それなりにはすごい「100円ショップ文芸評論家」だろう。
話題作りに読むくらいにはちょうどいい。いつの時代にも、そうした「読んで楽しい」流行作家はいたのである。

だが、それで「わかった」つもりになれば、その人の知性は「そこでゲームセットですよ」ということしかならないである。

100円ショップのカップ麺を、本気で美味しいと思えるのなら、それはそれで幸せなことであろう。
なんでも美味しく食べられるのなら、それに越したことはないのだけれど、しかしそういう人に「高級品」の味がわかるのかと言えば、決してわかりはしないだろう。

料理でも音楽でも、あるいは文学でも哲学でもそうだが、「高級品」を十分に堪能するためには、やはり「訓練」が必要なのだ。ごく一部の「天才」は別にして。

だから、そんな訓練などせず、なんでも美味しく味わえるのであれば、それはそれで幸せではあるのだけれど、しかしそれは、結局のところ、人間文化の否定に行き着くしかない。

つまり、なんでも美味しく食べられるのなら、そのへんに生えている雑草や、ゴキブリやネズミでも食べていればいいということにもなる。

おしゃれな服を着なくても、裸でいればいい。それさえ恥ずかしいとは思わず「それで私は平気だ」と思えるのなら、どうしてわざわざ、衣服になど金を使う必要がある? ゴミ袋やダンボール紙を身体に巻きつけておけば、それで寒さは防げるじゃないか。

文化的なものなど何もなくても、それで幸せなら、これほど強いものはないじゃないか、ということになるのだが、果たしてそれでいいのだろうか?

たしかに、人間的な欲望は際限がないから、美味しい物が食べたい、美しい服を着たい、頭が良くなりたい、快適な生活がしたい、なんて言い出したら、それこそ際限がなくなって、その挙句、地球環境を決定的に破壊し、人類は自滅することにもなるだろう。
だから、「知的な欲求」も含めて、人間的な欲望を無条件に「肯定せよ」と、そんなことを言いたいのではない。

だがまた、その「宿痾としての欲望」を、すべて「放棄せよ」というのでもないのだ。

すべての欲望を脱ぎ捨てていった果ての、寂滅的な解脱といったことも、個人としては悪くない
だが、種としては、それは単なる自殺だろう。生きる欲望を捨てたということだからだ。
だから、「無自覚な欲望の縮減」というものもまた、決して無条件には肯定できないものなのである。

だが、「令和人文主義」的な精神とは、そういうものなのだ。

「難しい」ことに挑む意欲を失い、意欲を失ったことを自己正当化して、小さく満足しようとする、退嬰的な精神
一一それが「令和人文主義」的な精神なのである。

だから、問題は、「令和人文主義にも、一長一短があるよね」などという「わかりきった話」ではなく、そんな「わかりきった話」で自足できてしまう、今の日本の若者の「精神状況」なのだ。
「知的状況」ではなく「精神状況」の方なのである。

これは、今の「生成AI」ブームとも通底する精神性であろう。

つまり、ネット上の「解説記事」を読んで、上っ面だけの知識を得て、知ったかぶりさえできるようになれば、それが「自分の知恵(自分の頭の良さ)」だと勘違いするといったようなことは、生成AIで作成した絵や小説を「自分の作品」だと思い込むのと、同程度に愚かな、誤認なのだ。

例えば、「生成AIを使って絵を描く」というのは、千人のスタッフを使って作った映画を、監督が、自分一人の力で使った「私の作品」だと思い込むのと同じようなことなのだ。
あるいは、召使いによって支えられた快適な生活を、主人が自分一人の力による快適な生活だと思い込むのと、同じような誤認だと言えるだろう。

たしかに、金のあるうちは、そう思っていても大禍はないだろう。
だが、何らかの事情で、スタッフを雇えなくなった映画監督、召使いを雇えなくなった元富豪、生成AIを使えなくなったお絵描き好きに、いったい何ができるだろうか?

そのとき彼は、きっと、自分の無力さを痛感するしかないはずだ。
自分一人では、何もできない「素面の自分」に気づくのである。

現在の私たちは、ひととおりのことをするだけなら、昔の人の数倍、数十倍の早さ、あるいは質や量で、それをこなせるかもしれない。

だがそれは、私たちの力量がアップしたからではない。単に技術が進歩しただけで、私たち自身はほとんど、なにも進歩していないのだ。
だが、このことに気づいている人が、どれほどいるだろうか?

ネット上の「解説記事」をいくつか見繕って、それを生成AIに食わせれば、「令和人文主義」についてのひととおりの記事くらいは、幼稚園児にでも書けるのである。

だが、そうした「令和人文主義」的な知性では、そんな自分自身の恐るべき無能力には、永久に気づくことができない

なぜなら、その人自身には、いまだ幼稚園児並みの知性しか持たないからだ。

自分の頭で考える、そのための頭が、そもそもまだ育っていないのである。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』の中で「末人」ということを語っている。
この「末人」とは、優れたものになりないという憧れに発する向上心を持たず、「今の私をそのまま承認せよ」というような、甘ったれた傲慢と、それに発するルサンチマンに身を委ねて生きているような人間のことだ。いま風に言えば、オワタ\(^o^)/人とでも言えようか。

そして ニーチェは、人間は人生が上手くいかないと、普通はそのほとんどが末人になってしまうと言っている。

これはまさに、現代日本における「令和人文主義」的な精神そのものではないか。

つまり、「令和人文主義」とは、向上心を持たない「末人」のための、現状自足的な「自慰的教養主義」にすぎない。

ハイデガー風に言い換えれば、死に先駆するどころか、死に追い抜かれて、今に「頽落」しきった人間のための思想、生きたまま死せる「ゾンビのため思想」なのである。

(2025年12月30日)


 ○ ○ ○






 ● ● ●


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○