苛立ちと嘲笑 : 〈令和人文主義〉的な精神について
このタイトルを見て、「苛立ちと嘲笑」が、昨今話題の「令和人文主義」の性格を指すものだと思ったのなら、それは誤解だ。
「苛立ちと嘲笑」は、ほとんど相反する感情であり、むしろ苛立ちを引き起こす感情の喪失こそが嘲笑を生んでいるのではないかというのが、私のここでの見立てである。
周知のとおり、「令和人文主義」者とされる人たちの特徴としては、
・威張らない
・説教をしない
・争わない
・楽しい知を称揚する
といったところにある。
だからこそ、『おゝ、厳格なる数学よ』とでも呼ぶべき顔をした「学問的な知」というものに抑圧性を感じ、それに対する「被害者意識」を募らせている若い世代には、歓迎されてもいるようだ。
令和人文主義の言うとおり、
一一「学問が楽して何が悪い」と。
無論、学問が楽しいのは、大いに結構なことである。
けれども、学問が「楽しい」のは、それまで「わからなかった」ことが、多少なりともわかるようになるから楽しいのであって、学問しなくても「知っていること」について、
「そこが重要なんだよ。あなたは最初からそのことに気づいていたんだね。いや、大したものだ!」
などと、煽ててくれたり、無知未熟であってもいいのだという「お墨付き」を与えてくれたりするからではない。
「学問的な知」というものは、それまで「知らなかったこと」「見えていなかったこと」に関するものであって、「知っていたこと」「見えていたこと」を、ごてごてと飾り立てることで、その「ありがたみ」を演出し、結果として「現状に安住すること」を肯定するためのものではない。
「学問的な知」とは、常に「それまでの私」の輪郭を揺るがし、ひび割れや裂け目を与えることで、私たちにひとまわり大きくなることを促すような、そんな「暴力」の一種なのだ。
その「知の一撃」によって、私たちは傷つき、もがき苦しむ。
もう、大人たちが庇護してくれていた「子供時代の楽園」に安住することは出来ない。
「そろそろ君も、一人立ちしろ」と、そう迫ってくるものだ。そうして「親の与えた価値観から、自由になれ」と。
「学問的な知」は、子供の夢を破って「サンタクロースなんていないんだよ」「あなたの親は、戦争で人を殺してるんだよ」「あなたの幸福は、他者の犠牲の上にのみ成り立っているものなんだよ」なんていった、嫌な「現実」をあなたに突きつけてくる。
大人であるからには、その現実を引き受ける応分の責任があるのだと。
そして、それを知らされたあなたは、もう、それを知らなかった「幸福な子供時代」に戻ることは出来ない。
出来るのは、その「現実」と対峙して、より「大きく強固な世界観」を獲得した主体へと成長するか、さもなくば「小さな子供時代」に退行して、自身の世界観に走った裂け目から懸命に目を逸らし続けるかの、いずれかだろう。
いずれにしろ、「知の衝撃」は「無かった」ことにはできないのだ。
しかし、未来に明るい展望のひらけないこの時代にあっては、人々は、勇気を持って自身を開いていくことができない。
傷ついてでも成長していくことが、その先の希望へとつながっていくのだなどと、楽観的に考えることなどできない。
当然、人々は、可能なかぎり、「子供の楽園」に止まろうとし、そこに引き篭もろうとする。
また、だからこそ「傷ついてでも、世界に開かれてあれ」と命じてくるようなものは、「加害者」としか感じられない。
しかしながら、引きこもりが可能なのは、その生活を支えてくれる誰かがいるからであって、引きこもりの当事者が、自身の生活を自力で支えているわけではない。
したがって、いずれは外に開かれて、傷ついてでも、自身で生きるすべを見つけなければならない。
だからこそ、「外部の知」は「開かれてあれ」と呼びかける。一一そうでなければ、あなたはあなたとして生きられないからである。
だが、前述のとおりで、「君よ、開かれてあれ」という叱咤の声は、子供時代に引きこもっていたい人たちには、暴力的であり、加害的なものに感じられるだろう。
実際それは、私には不快なものであり、苦痛なものなのだ。
しかしながら、だからと言って、
「いいんだよ。君たちはそのままでいいんだ」
といった、耳障りの良い言葉に縋りついていても、本当に大丈夫なのだろうか?
「この投資は、絶対確実です」という言葉は耳に優しいからこそ、それを信じてしまう人もあとを絶たないのだが、この世界は、そこまで私たちに「優しい」ものなのであろうか?
「そんな甘い話に乗さられちゃダメだ。あなたはいいように騙されているだけなんだ。あなたは、世間の現実というものがわかっていない。
嫌かもしれないが、あなた自身のために、現実に目を見開かなくてはいけない。見たくない現実を見て傷つくことで、あなたは強くならなければならない。
そうでなければ、あなたは、口先だけは優しそうな輩の、いいカモになるだけなんだよ。あいつらが、あなたのような世間知らずを煽てて見せるのは、親切でも何でもなく、あなたが利益を産むカモだからであり、あなたの持てるものをむしり取った後は、ポイ捨てするためなんだ。
残念だけれど、それが大人の世界なんだ。だから、目を背けちゃダメなんだ」
と、そう言われた時、あなたは、
「あなた方は、私を馬鹿だと思っているだろう? だから、そんなことを言うんだ。
私が彼らを信用するのは、彼らが私をよく理解してくれているからだ。私のことを、正しく理解し、適切に評価してくれているからなのだ。だから私は、彼らを信用する。
それに比べて、あなた方はいつだって、そうして私のことを〝何も知らない若造〟扱いにする。自分たちは、世の中のことをよく承知しており、それに比べて、若い私たちは何も知らないと、そう決めつけている。
でも、そんなことはない。私だって、いろいろな経験を積んできたし、自分なりにいろいろと考えても来た。
それなのにあなたがた老人は、そんな私たちの苦労や経験を、少しも尊重しようとはしない。
あなた方は、その経験において、この社会のことを理解しているつもりなんだろう。だが、実際のところ、今のこの社会のことを知っているのは、今を生きるわれわれ若者の方なんだ。あなた方の認識は、もう古いんだ。だから黙っているがいい」
と反論するかもしれない。
一一だが、それで本当に大丈夫なのだろうか?
そんなあなたに対して、本気で腹を立てて、
「馬鹿野郎、世の中そんなに甘くはないんだよ。煽てられてその気になったって、それだけで幸せになれるほど、この世の中は甘くはないんだ。
どうして、このくらいのことがわからないんだよ。この甘ったれの世間知らずが!」
と、そう本気で怒ってくれる人と、
「いやいや、あんな時代遅れの老人の戯言に耳を貸す必要なんてありませんよ。あなたのことは、同世代である私の方がよく知っているんだ。経験には乏しくても、あなたには、物事を本質を直観的に理解する能力があるんです。
そのことを私はよく知っているし、だから私はあなたを肯定するのです。
そう、人を否定するというのは、傲慢な人間のすることだし、批判するだけなら誰でも出来る。
そもそも、そんな偉そうな助言とやらをするあの爺さんたちが、どれだけ立派な人間、尊敬に値する人間だと言うのでしょうか? ぶっちゃけ、無駄に知識だけはある、ただの年寄りじゃないですか。
だから、若者は若者同士で協力し、支え合っていけば、それでいいんですよ。
いずれ爺さんたちは死んでゆくんだし、その後には、確実にわれわれの時代が到来するんです。
だから、我々はわれわれで、協力してやっていこうじゃないですか」
と、そんなふうに言って、老人たちを嘲笑して一蹴する、そのいかにも賢そうで、頼り甲斐さえありそうな同年輩の、どちらを信用するだろうか?
もちろん、後者の物言いの方が断然、耳障りがいいだろう。
だが、あなたが当たり前に、慎重な知性を持っているのなら、最低限、両方の意見に耳を傾けて、それを比較考量するくらいのことは、是非ともすべきであろう。
今は、苛立ちよりも嘲笑の貴ばれる時代だ。
怒るのは負け組の証拠で、勝者は笑っているものだ。
歯を剥き出しにして悔しがってる敗者を、嘲笑していればいいのが勝者なのだと、そう思っている人が少なくない。
右であれ左であり、敵を嘲笑することが、勝者の証しなのだと、そう感じている人は少なくない。
だから、苛立ちや怒りなんていう野暮なものには関わりたくない。
「怒るのではなく、叱る」という言葉が、何やら普遍的な真理のごとく語られているが、この「叱る」というのは、なんの感情もない、フラットなところから出てくるものなのだろうか?
だとすれば、それはそれで、出所不明の行動であり、かなり不気味なものではないだろうか?
まさか、純粋にその人のことだけを思ってなされた「無償の行為」だなんて、あなたは思ってはいないだろうか?
例えば、「感情」で叱るのでなければ、「打算」で叱るのではないだろうか?
あなたが「仕事ができないと、上司である自分の評価に関わるから、やむなく叱る」といったようなことだ。
だから、損得抜きで「叱る」人なんて、じつのところ、ほとんどいないのだ。
そもそも、あなた自身がそうじゃないのか?
利害関係のない、赤の他人のために、わざわざ本気で叱ってあげたりはしないだろう?
叱ってあげることが、その人のためだと思っても、所詮は他人。
親切心で叱ってあげて、それで逆恨みでもされたらたまったもんじゃない。だから、見て見ぬふりで、黙っていよう。
一一それが、今の世の中なのではないのか?
素人のつまらない文章まで、金に換えようとする世知がらい世の中だというのに、そんな時代に、
「あなたはあなたのままでいいんだ。今のあなたに、上から物を言う権利のある人間なんかいない。みんな平等なんだよ。だから、仲良くやろう」
なんて、いかにも聞こえの良い言葉をかけてくる「他人」を、そうあっさりと信じていいんだろうか?
「高額アルバイトあります」
なんて言葉を、鵜呑みにしてもいいのだろうか?

年寄りである私が、ここで言いたいのは、
「美味しい話には裏がある」
という、そんな言い古された教訓なのだ。
私はこの教訓が、古いからといって馬鹿にしても良いものだとは思わない。
若いから馬鹿にしても良いというわけではないのと、同じように。
ニコニコと優しそうな笑みを浮かべて近づいてくる「他人」と、気難しそうな顔を隠さない「他人」となら、そのわかりやすさにおいて、よほど後者の方が信用に値するし、危険性も低いのではないだろうか?
令和人文主義が、あなたに見せている顔を、そのまま鵜呑みにするのは、あまりにもナイーブにすぎないだろうか?
それとも、これだけは「例外」だと言える、何か確たる証拠でもあるのだろうか?
それとも単に、信じたいから信じるのだろうか?
「信じるものは救われる」のだろうか?
ちなみに、2025年の特殊詐欺被害額は10月末時点で1,096.7億円に達し、過去最悪を記録したそうだ。
(2025年12月28日)
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