映画 『教皇選挙』 : 北村紗衣の解説とカトリックの信仰
映画評:エドワード・ベルガー監督『教皇選挙』(2024年/アメリカ映画)
素晴らしい作品だった。一一しかしながら、本作の素晴らしさは、「カトリックの信仰」というものがどういうものなのか、それを知らない者には、十分には伝わらない類いのものではある。
「カトリックの信仰」を「持っていないと、わからない」ということではない。「カトリックの信仰」が「どういうものなのかを知っていないと、わからない」と言っているのだ。
こまごまとした「専門知識」的な話ではなく、一人の人間における「信仰というものの重み」がわかっていなければ、本作に描かれたことの「重い(深い)部分」については「理解できない」と、そういう意味である。

例えば、本作の監督であるエドワード・ベルガーは、プロテスタントの家に育った人だそうだ。彼自身が「洗礼」を受けているのか否かまでは不明だが、少なくとも「キリスト教の信仰」が、おおよそどういうものなのかくらいは知っているだろうし、プロテスタントなればこそ、カトリックとの違いについても、おおよそのところは知っているだろう。
だが、本作の「日本語版パンフレット」に「解説」がわりの「レビュー」を寄せている者(日本人)の多くは、映画には多少詳しくても、「キリスト教」にはさほど詳しくはないだろう。私が読んだかぎりでも「こいつ、わかっているな」というほどのものを書いている者はいなかった。
本作の「レビューを依頼された」ので、数冊の「キリスト教書」を読んでの「付け焼き刃」で書いたというのは、まず間違いのないところなのだ。
無論、日本人「映画解説者」に「キリスト教の基礎知識」を求めるのは、まあ無理と言っても良いだろう。それに、そこまでは知らなくても、「キリスト教の基礎知識」を持たない日本の一般映画ファンに、それでも本作を楽しめる程度の「映画解説」ができていれば、ひとまずはそれでいいだろう。
だが、ひとつだけ言っておかなくてはならないのは、仮にも、人様の信仰なり信念なりに、あれこれ注文をつけようというのであれば、それなりの知識と理解をもって、それをすべきだ、ということである。
本作の場合なら、自分がどの程度「カトリックの信仰」について知っているのか、その「身の程」をわきまえて、その範囲で語るべきなのだ。
言い換えれば、よく知りもしないくせに「知ったかぶりで、わかったようなことを書くな」ということだ。
「無知な読者」に対して「誤情報」をふり撒くような「与太レビュー」なんか書くな、ということである。
しかし、そんなものを現に書いているのが、本作の「日本語版パンフレット」に、「武蔵大学人文学部 英語英米文化学科教授」の肩書きで「レビュー」を寄稿している、「映画レビュー」の著作を持ち、自身「映画研究者」でもあるとも名乗っている、北村紗衣である。
『私はシェイクスピア映画について日本語と英語で査読論文を出していますし、この間もシェイクスピアと映画について学会発表したばかりなので、インフルエンサーではなく映画についての論文も書いている研究者です』
○ ○ ○
しかし、この「北村紗衣による知ったかぶりレビュー」の問題を論ずる前に、まずは本作『教皇選挙』が、どのような意味で素晴らしい作品なのかについて、説明しておく必要があるだろう。
だが、本作の「素晴らしさ」は、その「驚くべき結末」に負うところが大きく、そのため、いわゆる【ネタバレ】を避けられないので、そのことをここで、あらかじめお断りしておきたい。
【※ 本稿は、本作『教皇選挙』の「結末」にふれますので、未見の方はご注意ください】
さて本作は、予告編映像のナレーションでも『極上のミステリー』と語られているとおり、「ミステリー映画」的なサスペンスに溢れた作品となっている。
では、その「ミステリー映画的なサスペンス」とは、どのあたりのことなのかというと、それは「教皇選挙におけるライバルたちが何らかの理由で、一人また一人と脱落していく」という物語構成にある。
つまり、ミステリー映画だと「嵐の山荘(あるいは、吹雪の山荘や孤島)に閉じ込められた、ある一団のメンバーが、次々と殺されていき、その連続殺人犯も『この中にいる』」という「クローズド・サークル」ものと、ほとんど同じパターンの作品なのだ。
一一そして最後に残るのは誰なのか?
本作では、コンクラーベ(教皇選挙)のために世界各国から集められた「枢機卿」たち百数名が一室に閉じ込められ、投票が行われる。「外部からの影響」を完全に遮断するためのものであり、マスコミ関係者や通信機器は無論のこと、投票権のないバチカン関係者の立ち入りも許されない。一一つまりこれが、ある種の「クローズド・サークル」であるということだ(とは言え、投票が終われば、その部屋〈システィーナ礼拝堂〉から出て、食堂へも行ければ、あてがわれたゲストルームへ戻れもする)。

「枢機卿」であれば誰にでも「被選」の権利がある。つまり「教皇(ローマ教皇=法王)」に選ばれる資格がある。だから、自分自身に投票してもかまわない。
けれども「有力候補」というのは、おのずと「数人」に限られてくる。
それまでの「実績」や「人格」といった点から「人望のある者」や「派閥のリーダー」といった人たちが「有力候補」となり、実質的には、その数名によって選挙が争われるのである。
本作『教皇選挙』の場合だと、実質的には「6名」が、その有力候補者となるわけだが、当選ラインである「3分の2以上」の得票を得る候補者が出ないまま、コンクラーベは3日間にわたって、日に二度三度と投票が行われらることになる。またその間に、各有力候補に関する「裏情報」が寄せられて、その候補が脱落していくという、サスペンスフルな状況が続くのだ。
一一「クローズド・サークル」もののミステリーで言うなら「関係者が、一人ずつ消されていく」という状況が描かれるのである。
まず最初に、有力候補だったある枢機卿が「過去の醜聞」を暴かれて、実質的に教皇候補から脱落する。
だが、その「過去の醜聞」を「リークした者」は誰なのか、という問題が残る。例えば、それを堂々と指摘公表したのなら良いけれど、ライバルを蹴落として自分が当選するために「チクった」のだとしたら、そんな人物が「教皇」に値するだろうか?
また、ライバル候補者が「チクった」のだと分かれば、彼自身も信頼を失いかねないから、その「情報のリーク」は、おのずと「匿名」で行われたのだが、結局は、情報をリークをした有力候補の枢機卿も、その事実が暴かれて、教皇候補から脱落することになる。


しかし、こうした露骨な謀略は、基本的には「例外的」なものだし、本作を「エンタメ」的に盛り上げるための仕掛けだと考えて良いだろう。「ミステリー映画」的に「サスペンス」を盛り上げるための、映画的な仕掛けである。
だが、前述のとおり、有力候補の中には「派閥のリーダー」というのがいて、これは現実のカトリック教会にも存在しており、現実のコンクラーベにおいては、むしろこちらの方の影響が甚大で、本作においても、こちらの問題の方が「本筋」であると言ってよいだろう。つまり、その点では、「ミステリー劇」であるよりも、やはり「政治劇」なのである。
カトリック教会にも、「リベラル派」と「保守派」が、現に存在している。そして彼らの間には、本作でも描かれているとおりで、ハッキリと「敵対意識」がある。
かく言う私も、昔「mixi」で、保守派のカトリック信者と喧嘩したことがある。つまり、そうした人は実在するし、そうした人が崇拝する、保守派の有力な枢機卿というのも実在するのだ。
例えば、現在の教皇である「フランシスコ」はリベラル派で知られるが、前の教皇の「ベネディクト16世」はどうであったかということを知っている人は、日本人にどれだけいるだろうか?
まあ、普通の日本人なら知らなくて当然だし、本作の「日本語版パンフレット」への寄稿者でも、知らない人の方が多いかもしれない。
しかし、カトリックについて、多少なりとも「事情通」なのであれば、ベネディクト16世が「ゴリゴリの保守派」であったことくらいは知っているだろう。
なにしろ彼は、もともとは「リベラル」だったのが、のちに「保守派」に転向した人だから、余計に「ゴリゴリの保守派」なのだ。
では、その前の「ヨハネ=パウロ2世」は、どうだろうか?
不人気だった「ベネディクト16世」とは違い、「空飛ぶ法王」として知られ、「対話重視」の姿勢を打ち出していた「ヨハネ=パウロ2世」は、(元俳優で)その温顔が印象的な人だったから、なんとなく「リベラル」だと思っている人も多いだろう。だが、じつはそうではない。
彼がポーランド人として「455年ぶりの、イタリア人以外のローマ教皇」となれたのは、当然のことながら、彼が基本的には「保守派」だったからだ。「カトリックの伝統」を守ってくれる人物だという評価があったればこそ、「ヨハネ=パウロ2世」はスラブ系(東方教会の影響が残る国ポーランドの人であり、非ラテン系)であるにもかかわらず、ローマ教皇になれたのである。
(※ ちなみに、本作『教皇選挙』では、一貫して「(ローマ)教皇」という言葉が使用されているが、これは現教皇フランシスコがその呼称を好んで使っているからで、それまでは、「法王」を名乗るローマ教皇が多く、日本でも「ローマ法王」と書かれるが多かった。ローマ教皇と法王の違い、そしてなぜフランシスコはローマ教皇という呼称を選んだのかという理由の説明は、長くなるので割愛するが、要は、リベラルなフランシスコは「俺がキリスト教界のトップだ」と言わんばかりの呼称を嫌ったのである。教皇とは、もともとは一人ではなかったのだ)
さて、そんなヨハネ=パウロ2世の後継者が、なぜ「転向リベラルの保守派」であるベネディクト16世なのかというのも、これでご理解いただけよう。
要は、ベネディクト16世は、当時の教会主流派である保守のヨハネ=パウロ2世に擦り寄って、めでたくその後継者として、ローマ教皇になった人物なのである。
ベネディクト16世は、著名な神学者であり、そうした点から「保守派」であるヨハネ=パウロ2世の「懐刀」と言われた人なのだ。要は「理屈(神学論争)でなら負けない切れ者」だったのである。
ところが、そうして続いた「保守的なカトリック教会」の体制下において、世界の各地で「司祭のよる性的虐待事件」が次々と明るみに出た。それまでは「教会の権威」を守るために「隠されていた事実」が明るみに出、「匿われていた司祭」たちの名が暴かれだしたのだ。
それだけではない。「バチカン銀行」における「資金洗浄」問題なども明るみに出て、バチカン=ローマ教皇庁の権威は、泥に塗れてしまったのである。
で、バチカンのトップとして、その対応にあたったのが「ベネディクト16世」だったのだが、彼はもともとが学究肌の人であり政治的な実務にうとい人だったから、その対応に苦慮することになる。
明らかに「教義に反すること」が行われ、しかもそれを「隠していた」という言い訳の余地にない立場に立たされると、理論派のベネディクト16世は、すっかり役に立たない「デクノボウ」となってしまい、最後はその心労に堪えきれなくなって、「異例の生前退位」つまり「聖座」を投げ出してしまったのである。
そして、そんな事情であったから、泥に塗れた「カトリック教会」を建て直すためにはと、「清新な改革派の新教皇」を求める声が大きくなった。
「カトリック教会」が泥に塗れたのは、「保守派」のせいだというのは、それがすべてではないにしろ、ある程度は間違いのない事実だったからこそ、「改革派」の新教皇として「初の南米出身の教皇」となるフランシスコが選ばれ、大人気となったのである。
で、本作『教皇選挙』で描かれる「急死した(前)教皇」というのは、公式にそうだとアナウンスされてはいないだろうが、明らかに、現教皇フランシスコをモデルにしている。

「急死した(前)教皇」は、フランシスコと同様に「リベラル派=改革派」であり「高齢」であり「白い司祭服」が印象的な人物であった。
一一つまり、この作品で描かれているのは「もしもフランシスコが亡くなったら、カトリック教会はまた、反動的に保守化してしまうのだろうか? だが、そうなってほしくはない」という「思い」なのだ。
だから、本作においては「有力候補である保守派の枢機卿」は「イタリア人」であり「かなり嫌味な人物」であり「差別主義者」だとして描かれている。
彼は「前教皇」に対して、陰に陽に攻撃を加えていた「保守派のリーダー」であり、当然のことながら「同性愛は悪徳だ」と、公然と語るような人物であった。
一一だが、そんな彼に言わせれば「聖書にそう書いてあるではないか。それを、時代が変わったから、解釈を変えろなどというのは、神の言葉を蔑ろにすることに他ならない」と、そういうことなのである。
したがってこれは、本作を見て「さすがは、世界最古の家父長制組織。そう言われるだけはあるよな」などと「嘲笑って済ませられる問題」ではないのだ。
「聖書」を「神の言葉=神が人間に書かせた言葉」と考える(教義とする)彼らにとっては、「今どき同性愛を認めないなんて古い」などというような「安直」な話では、決してない。
「神の言葉」は「絶対無謬」なのだから、それを否定することはできない。せいぜいが「解釈を変える」ことなのだが、当然「恣意的な解釈の変更」など許されることではないからこそ、「同性愛容認」は「キリスト教信仰の根本に関わる問題」として、それに反発する人も当然出てくるし、その意見には「一理」以上のものがあるのである。
無論、こう書いたからといって、私が「カトリック保守派」はもとより「キリスト教」あるいは「宗教」を擁護していると、誤解してもらっては困る。
なぜなら私は、キリスト教徒が最も嫌う「無神論者」であり「唯物論者」であり、積極的な「宗教批判者」だからだ。つまり「異教徒」ですらない、文字どおり「神をも畏れぬ人間」なのである。
だが、そんな私がどうして、上のように書くのかといえば、それは「誠実で徹底的な批判」とは、まず「敵のことを理解する」ところからしか始まらない、と考えるからだ。
「よく知らないままなされる批判」や「感情だけでの批判」など、「批判」の名には値しないと考えるからこそ、私は、キリスト教の中でも、最も嫌いな部類である「カトリック保守派」についても、「彼らの立場」というものを、上のように紹介したのである。


彼ら「宗教保守派(原理主義者)」というのは、私たち「無宗教者」からすれば、たしかに「偏見に満ちた、頑迷な差別主義者」ではある。
けれども、彼らがそうであるのは、彼ら個人がそうであるだけではなく、「聖書」や「伝統的な教義(聖伝)」の中にそうした教えがあるからであり、その教えを素直に受け取れば、そうとしか考えられないから、なのだ。ある意味で彼らは「馬鹿正直」とも呼べる、「頑迷な信仰者」なのである。
言い換えれば、「カトリック保守派」というのは、「誤った信仰(教義)」による「哀れな宗教被害者」だ、とも言えるよう。
だから私は、彼らの「理屈」や「気持ち」もわからないではないけれど、やはり「宗教・信仰」というものは「すべて誤り(現実誤認)」であり、だからこそ、しばしば「不幸」をもたらすものなのだと、そう批判するのである。
時にそれが、人に「幸福」や「安心」をもたらすものだとしても、しかしそれは「結果論」でしかない。「宗教・信仰」に、現に「力」があって人を救うのではない。それは「幻想に過ぎない」のだと、私はそう批判するのである。
したがって、こういう大真面目な「原理主義的な宗教批判者」である私からすれば、「キリスト教」のことをよく知りもしないくせに、知ったかぶりで「嘲笑う」ような軽薄な輩こそ、我慢ならないのだ。
その薄っぺらい「利口者」ぶりに、「宗教盲信者」に対するもの以上の「嫌悪」を感じないではいられない。
私がクリスチャンに対して、しばしば「聖書を通読したこともないくせに、キリスト教を語るな」などと辛辣な逆捩じを喰らわすのも、同じ感情からなのだ。
本気で信仰しているのなら、仮に文盲であろうと、字を学んででも聖書を読もうとするだろう。本気で「聖書」を「神の言葉」だと信じているのなら、イスラム教の経典とは比較にもならないほど「薄い」、あんな本1冊を読めない理由など、どこにも無い。
つまり、「聖書の通読もできていないような輩が、私は敬虔な信者でござい、などという顔をするな」という意味であり、これは「キリスト教批判者」に対する要求でもあるのだ。「知らないくせに、無責任な批判などするな」と。
○ ○ ○
話を、本作『教皇選挙』に戻そう。
ともあれ、このようにして「有力候補者」が脱落していく中で、件の「保守派枢機卿」が徐々に優勢となっていく。
このコンクラーベを取り仕切ることになった主席枢機卿であり、本作の「視点人物=主人公」であるローレンス枢機卿も、個人としては「リベラル派」であり、前教皇を慕った人だ。

そしてそんな彼は、個人としては、「リベラル派」の仲間であるベリーニ枢機卿を推すのだが、そのベリーニ自身は「教皇になりたいとは思わない」と公言しており、なかなか票が集まらない。

また、その誠実な人柄で一定の信望を集めているローレンス自身も、もともとは前教皇に「バチカンを出て修道院に入りたい」と申し出ていたのを慰留された結果、主席枢機卿として今回のコンクラーベを取り仕切らなければならないという、望まぬ大役に任ぜられた人なのだ。だから無論、自分が教皇になりたいなどとは露ほども思ってはおらず、その器ではないと自覚してもいる。
そもそも、ローレンスが「バチカンを出て修道院に入りたい」と申し出た理由とは、端的に言って「神への信仰」以外のことに、心を煩わせたくないと考えたからだ。
世界のカトリックの中枢機関であるバチカンにおいて主席枢機卿であるというのは、おのずと「世界のカトリック」の「管理者」であるということであり、その「政治」に関わらざるを得ない立場なのだ。
だが、ローレンスは、そんなことにはなんの魅力も感じず、ただ神とのみ向き合う「祈りの日々」が送れればと、そう望んでいたのだが、前教皇はそれを許さず、ローレンスにつらい役目を与えたのだ。
そんなわけで、残る「リベラル派」の中で有力候補と考えられているベリーニやローレンスは、保守派のテデスコ枢機卿(セルジオ・カステリット)を教皇にするわけにはいかないという「危機感」を共有してはいるものの、自身が教皇の大役を引き受けるという覚悟を欠いている。だからこそ、おのずとテデスコが優勢になってきたのだが、最終盤で、それまではまったく注目されていなかった人物が、クローズアップされてくることになる。それが、カブール教区から新任の枢機卿としてやってきていた、メキシコ人のベニテス(カルロス・ディエス)である。

当初、今回のコンクラーベの投票者リストに、ベニテスの名がなかった。それでローレンスが事情を調べてみると、彼が司牧活動に当たったのは、戦乱に明け暮れるような国や地域ばかりだったため、彼を枢機卿だと公表してしまうと、彼の生命に危険のおよぶ恐れがあるとそう判断した前教皇が、彼を密かに「枢機卿」に任命して、そのことはバチカン内でも秘密にしていたのである。
つまり、言うなれば「地方の、名もなき新任枢機卿」でしかなかったベニテスには、当然のことながら、バチカンに「仲間」などもおらず、教皇候補になるような人物ではなかった。
ところが、ローレンスによって、夕食の席で居並ぶ枢機卿たちに紹介され、さらにローレンスから食前の祈りの指揮を取るように促されて、言うなれば「型通りの言葉」である「父と子と聖霊の神」への感謝の言葉を彼ベニテスが唱え、枢機卿たちそれを復唱して「さあ食事だ」となった時に、ベニテスはさらにそこへ「食事を準備してくれたシスターたちのも感謝したい」という、異例の言葉を付け加えて、枢機卿たちはもとより、そこに立ち会っていたシスター・アグネスらを驚かせた。
また、肝心のコンクラーベは数度にわたる投票でも決着がつかず、さらにバチカンの外では爆弾テロが発生するなどしたため、危機感を募らせたローレンスは、枢機卿たちに話し合いの場を設け、そこでの理性的な話し合いによって、一刻も早く新教皇を決めて、世に知らせて安心させなければならない、身内で争っている場合ではないと、そう考えたのだが、そううまくはいかなかった。
「リベラル派」と「保守派」の溝は深く、話し合いどころか、「これは教会の未来を賭けた戦争だ」などと、両派の「罵りあい」になってしまったのだ。

一一だが、その時、それまで注目されていなかったベニテスが立ち上がって「あなたがたは、これは戦争だなどとおっしゃいますが、しかし、本当の戦争というものをご存知なのでしょうか。死体が散らばっているような場所で、それでも神を信じ、神に仕えるということが、どのようなことなのかわかっているのでしょうか。私たちがしなければならないことは、ここで言い争うようなことではないはずです」という趣旨のことを静かに語ったので、さすがに両派とも、ヒートアップした自身を恥じて、黙らなければならなくなったのである。

そして、そうしたことの結果、当初は誰もその存在さえ知らなかったベニテスが、ついに過半数を得票して選出され、彼は、その召命を受け入れ、新しい教皇がここで誕生したのである。
一一だが、ここまでならば、たしかに「ミステリー映画」的なサスペンスのある作品ではあっても、さほど驚くには値しない。
なぜなら、ベニテスが、無名でありながらよ、並はずれて高潔な司祭であるという「設定」を見れば、彼が最後に教皇に選ばれるというのは、いうなれば「予測の範囲内」でしかなく、そんな結末では、いささか「物足りない」からである。
だが、この後に「驚愕の大どんでん返し」が待っていた。
まただからこそ、本作『教皇選挙』は、並の作品ではなく、「傑作」だと言えるのである。
では、その「大どんでん返し」とは、どういうものだったのか?
じつは、ベニテスが教皇に選出される以前、彼に関する「ある情報」が寄せられていた。彼が秘密裏に、ある病院へ通っていたという情報である。
なぜこれが問題になるのかといえば、当然のことながら「教皇」という重責を担うからには「健康」であることが要求されるからだ。例えば、彼が「余命いくばくもない病い」に侵されてとなれば、やむなく教皇候補から外さざるを得ないだろう。
しかしながら、その情報がもたられた際のローレンスは、その前の「チクり合い」みたいなことに心底ウンザリしていたため、あえてその情報を聞くことを断っていたのだ。
ただ、自分の目と耳を信じ、あとは「神のご意志」に委ねればよいと、そう考えたのである。

そして、ベニテスの選出が決まった後になって、その報告を聞いたローレンスは、想像だにしなかった事態に驚愕する。一一どういうことだったのか?
じつは、ベニテスは「インターセックス」だったのだ。
「インターセックス」とは、簡単に言えば、
『男性または女性いずれかの典型的な身体に当てはまらない性的特徴(染色体・生殖腺・性器など)を持って生まれた人のことである。』
(Wikipedia「インターセックス」)
つまり、ベニテスは、生物学的な「性」としては「男性(オス)」とも「女性(メス)」とも言い切れない、どっちでもあれば、どっちでもない「身体」の持ち主だったのである。
では、なぜこれが「重大問題」なのかと言えば、カトリック(の教義)では「女性司祭」を認めていないからだ。
プロテスタントではすでに認められているが、カトリックは「聖書」の記述に準じて「女性司祭」を認めていない。昔は「女性司祭」も例外的に存在していたようだが、「教義」としてそれを否定してきたのである。
つまり「半分は女」であるベニテスが「司祭」であること自体が重大問題なのに、ましてや彼がカトリックのトップである「教皇」になるとなれば、ただ事で済まされないのは明らかなのだ。
無論、「リベラル派」のローレンスは、同性愛も認めるし、「いずれは女性司祭も」という方向性を否定してはいなかっただろう。だが、それが一足飛びに「半分女性の教皇」が誕生するとなれば、彼が言葉を失うのも当然なのである。
そこでローレンスが、ベニテスに「なぜ隠していたのか?」とその事情を尋ねたところ、ベニテスは、大要つぎのような説明をしたのだ。
「私は、自分がずっと男であると思って生きてきました。だから、司祭にもなったのです。だが、ある時、私の体の中に女性の生殖器が存在するというのがわかり、私は悩み苦しんだ末、その摘出手術をうけようと、秘密裏に病院に相談していたのです。しかしながら、最終的には、私は、摘出手術を受けるのを止めました。なぜなら、この身体も、神が私にお与えになったものなのだから、それを切り捨てるというのは、神のご意志に反することなのではないかと考えるようになったからです。私が教皇の職を受けたのも、それは、こんな私だからこそできることがあり、果たせる使命があると考えたからなのです。このために私は、神に召されたのだと」
じつに見事な「どんでん返し」である。
「どんでん返し」という表現は「軽すぎて」、この見事な結末の付け方を評するのに、必ずしも適切な言葉ではないのだが、しかし、この「予想だにしない結末」は、そのようにしか表現し得ないものだったのだ。

前述のとおり、「無名だが、人格高潔な人物」が、最後は「教皇に選ばれた」というだけなら、間違ってはいないが意外性もない。その意味で、面白みもない「平凡な結末」だということになっただろう。
だが本作は、ほとんど誰も予想しなかった、こんな「驚くべき結末」を備えていたのである。
無論、これは「後出しジャンケン」的に、いきなり最後になって持ち出されたものではない。そうではなく、周到な「伏線」が張られていたのだ。
そしてそれは、先に書いた夕食での「食前の祈り」の際に付け加えられた「裏方であるシスターたちへの感謝の言葉」だけではない。
ライバルの教皇候補を追い落とすために、卑劣な策を弄した別の有力候補が、その事実を、枢機卿たちの前で、ローレンスに暴かれた際、その枢機卿は「私は、自分のためにそんなことをしたのではない。前教皇の指示でやったのだ」と、「死人に口無し」でしらばっくれようとした。
だがその時、本来なら決して司祭たちの話に口を挟んだりはしない、シスターのトップであるシスター・アグネスが、その枢機卿の悪辣な「女性利用」を告発して、居並ぶ枢機卿たちの前で、次のように証言したのだ。
『私たちは修道女は裏方の存在ですが、神は目と耳をくださった』
つまり、彼女は裏方の存在として、男たちの行動を、黙ってすべて見ていたのだ。
男たちがその存在を忘れていた彼女たちだが、しかし実はいろんなことを見ており知っていたのだ。だがまたその上で、「自分の役目ではない」と、あえて口出しはしなかったのである。
しかし、前教皇と個人的に親しかったシスター・アグネスは、前教皇がその枢機卿を解任しようとしていたことも知っていたのだ。
つまり「私は、あなたが嘘をついているのを知っています。神がお与えになった、この目と耳で知ったことを、ここで証言しましょうか?」とそう言っているのである。
そして、枢機卿たちには、この「予想もしなかった証言」を疑う理由はなかった。
本来なら、黙って裏方に徹していたシスター・アグネスが、あえて嘘をつく理由など無かったからである。

本作では、コンクラーベに関わる男たちの緊迫感あふれるやりとりが描かれる一方で、時折「雑事」に心を込めて従事するシスターたちの様子が点景的に描かれていた。
つまり、それは単に「舞台背景」を描いていたのではなく、「カトリックの福音宣教もまた、女性たちの働きと支えがあってこそなのだ」という「聖書にも書かれた事実」を、問わず語りに描いていたのであり、それがあるからこそ、そんな女性たちに「陽の当たるラスト」の「どんでん返し」も、単なる「ミステリー的などんでん返し」には終わらない、深みのある「感動の結末」となっていたのである。
○ ○ ○
しかし、ここで私が問題としたいのは、この結末を、世間並みの「今どきの男女平等」観や「フェミニズム」において、「痛快だ」などと評価するような態度の、「軽薄さ」であり「傲慢さ」である。
本作「日本語版パンフレット」に、レビュー「男同士の足の引っ張り合い、それを見つめる修道女 〜ナンスプロイテーションを裏返す」を寄せた北村紗衣は、次のように書いている。
『「教皇選挙」は、一見したところ選挙をめぐる重厚な政治サスペンスだが、実は笑える。レイフ・ファインズ演じるトマス・ローレンス枢機卿は教皇選挙を取り仕切るべく、真面目な顔で業務に取り組んでいる‥‥‥わりには、トマスが出てくる場面には序盤から妙に面白おかしいところがある。選挙のための隔離は厳重にしないと‥‥‥と言った直後に来客に会うことにしたり、アシスタントのオマリーが深刻な顔で「問題が‥‥‥」というのを見た途端に「まさかどなたか亡くなったか?」と聞いたり、ちょっとクスっとしてしまうようなくすぐりが散りばめられている。
この映画のポイントはおそらく、真面目くさった男たちが真剣になればなるほど、なんとなくそれがみみっちいものに見えてくるところだ。舞台は歴史あるヴァチカンで、主要登場人物はカトリック教会で重要な地位を占める枢機卿たちだが、必ずしも純粋に神に仕えているわけではない。そこらじゅうに野心と陰謀がある。そんな枢機卿たちがゴージャスな礼服に身を包み、表向きは礼儀や伝統を重んじつつ行う足の引っ張り合いは、神のしもべにはふさわしくないくらい卑屈で滑稽だ。『クルーエル・インテンションズ』(99)や『ミーン・ガールズ』(04)のようなふざけたティーンコメディを思わせるような場面まであり、いい大人がこんな子どもっぽい行動を‥‥‥とツッコまざるを得ない。
このようにカトリック教会を舞台とし、同性だけの集団で起こる足の引っ張り合いを描くという点では、『教皇選挙』は1970年代にイタリアで流行ったいわゆるナンスプロイテーション映画(尼僧もの)にちょっと似ている。ナンスプロイテーションは女子修道院を舞台に、修道女たちが院長の座をめぐる権力闘争やら愛人との密会やら、およそ信仰の場にふさわしくない行為にふける様子をエログロたっぷりに描く娯楽ジャンルだ。「教皇選挙」にはエログロはないが、敬虔なはずの男たちが行う子どもっぽい泥仕合を調刺している点ではナンスプロイテーションの裏返しのようだ。少しうがった見方をすると、これまでは修道女のあれやこれやを見せ物にしていたけれども、カトリック教会で本当に権力を独占しているのは男たちなんだから、そっちの闘争に切り込まないとツッコミ不足でしょ‥‥‥という発想で作られた映画だと言える。エドワード・ベルガー監は前作『西部戦線異状なし』(22)でも、男性だけからなる世界とそこで発生する権力や暴力の応酬を非常に批判的に描いていたが、『教皇選挙』はそうした男性社会への批判は引き継ぎつつ、だいぶ意地悪なユーモアの味付けを施した作品だ。テレビドラマではジュード・ロウ主演の「ヤング・ポープ美しき異端児」(16)とその続編「ニュー・ポープ悩める新教皇」(19)という教皇庁の政治を主題にした先行作があり、これもなかなかきわどい調刺ものだったが、『教皇選挙』は内容をコンクラーベという特殊な状況に絞り、男性社会を凝縮した形で見せている。
そしてこの男性社会としてのカトリック教会を相対化する存在がイザベラ・ロッセリーニ演じるシスター・アグネスだ。アグネスは選挙中の宿泊所の管理を担当している。出番はそれほど多くないが、序盤から要所要所でアグネスをはじめとする修道女たちがトルテリーニなど食事を作る準備をしたり、枢機卿団を眺めたりする短いカットが挿入され、こうした女性たちの見えにくい仕事なしに教会は成り立たないが、あまり男性の聖職者たちはそれを気にかけていないらしいということが示唆される。アグネスはコピー機もろくに使えないトマスを助けるが、これもふだん男性聖職者が事務作業を修道女などにやらせていることをさりげなく示す場面だ。そんなアグネスが、自分たちはふだん目に見えない存在だがちゃんと意志も頭もあり、女性の尊厳は守られるべきであるということを主張するスピーチは、短いがこの映画の根幹に深くかかわっている。枢機卿団が気にもかけていなかった修道女が実はものごとを良く見通しており、教皇選挙に影響を及ぼすくらい賢かったということがわかる。
この映画の修道女たちは聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会の修道服に基づいていると思われる青い服を着ている。青は伝統的にキリスト教絵画でイエスを失って悲しむ聖母の衣服の色とされている。この映画では、赤中心の衣類をまとう枢機卿たちの中で修道女の青い衣服が目立っているが、これは目立ちたがりで熱くなりがちな男たちと、教皇の死を静かに悲しむ女たちの対比を目に見える形で示していると思われる。そして選挙を制するのは、初日の食事の席で修道女たちに感謝することを忘れず、性別二元論を脱した考え方ができるベニテス枢機卿だ。この作品は男性中心的で硬直的なカトリック教会をひねったユーモアで諷刺しており、その観点から笑って見ていい作品だろう。
<参考文献>
◆北村紗衣「ナンスプロイテーションの革新者、アルモドバルーーバチ当たり修道院を訪ねて」『ユリイカ』2025年2月号pp.87~94。
◆カトリーン・キラス=マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? 一一これからの経済と女性の話』高橋璃子訳、河出書房新社、2021。
◆Robert Harris, Conclave, Arrow Books, 2016.』
私がこのレビューに「不快感を覚える」理由は、おおよそお察しいただけよう。一一ここには、北村紗衣という「軽薄な皮肉屋フェミニスト」の、およそ人を小馬鹿にしたような態度が、いつものごとく露骨に現れている。
だが、北村紗衣がここに描き出した「笑うべき枢機卿」たちの姿とは、じつのところ、北村紗衣自身の「自己投影」でしかないのだ。
北村紗衣は、そんな自覚や反省などは欠けらも持てないまま、居丈高に次のように語る。
『この映画のポイントはおそらく、真面目くさった男たちが真剣になればなるほど、なんとなくそれがみみっちいものに見えてくるところだ。舞台は歴史あるヴァチカンで、主要登場人物はカトリック教会で重要な地位を占める枢機卿たちだが、必ずしも純粋に神に仕えているわけではない。そこらじゅうに野心と陰謀がある。そんな枢機卿たちがゴージャスな礼服に身を包み、表向きは礼儀や伝統を重んじつつ行う足の引っ張り合いは、神のしもべにはふさわしくないくらい卑屈で滑稽だ。『クルーエル・インテンションズ』(99)や『ミーン・ガールズ』(04)のようなふざけたティーンコメディを思わせるような場面まであり、いい大人がこんな子どもっぽい行動を‥‥‥とツッコまざるを得ない。』
たしかに本作には『クスっとしてしまうようなくすぐりが散りばめられている。』けれども、それは本作が「笑える作品」だからではない。
言い換えれば、レイフ・ファインズ演じるトマス・ローレンス枢機卿の「苦悩」は、決して「笑える」ようなものではないのだ。
どんな世界においても「政治的」になってしまいがちな「人間としての(私たちの)業」というものを本作は描いており、しかしそれは世のためにはならないもの、神のご意志に反するものなのだから、苦しくともその「現実から目を逸らせるわけにはいかない」と、そんな「誠実な使命感」を描いて、本作はじつに「重い作品」なのである。


そして、こうした「真面目な葛藤」を、無責任に「笑える」のは、自ら「不真面目な批評家」を名乗る北村紗衣ならではの、「偏見」なのである(『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』)。

北村紗衣の場合、「謙遜」から「不真面目な批評家」と名乗ったのでは、断じてない。
北村紗衣のことを知る人なら、それが北村紗衣ファンであったとしても、北村紗衣ほど、およそ「謙遜」という言葉が不似合いな人間もいないことくらいは知っており、それは周知の事実なのだ。
では、なぜ北村紗衣は、わざわざ「不真面目な批評家」だなどと自称するのかと言えば、それは、自身の「斜に構えた態度」を「予防線」的にアピールすることで「北村さんは、そういうスタイルの人だから仕方がない」と、そのように「免責」してもらうためなのだ。
「言いたい放題ボロクソに書くけど、これが私のスタイルなんで、どうぞご容赦を」という、そんな「虫が良いにもほどがある」態度なのである。
まただからこそ、上のレビューは、一読してその「姑息な心根」が嫌ったらしいと感じられるものとなっているのである。一一普通の「読解力」がある人間には、だが。

北村紗衣は、ここで「対男性専門の似非フェミニスト」として『真面目くさった男たちが真剣になればなるほど、なんとなくそれがみみっちいものに見えてくるところだ。』と書いているが、それは何も「男たち」ばかりではなく、「不真面目な批評家」だなどと予防線を張っている北村紗衣自身が、誰よりも「みみっちい」のである。
また、
『舞台は歴史あるヴァチカンで、主要登場人物はカトリック教会で重要な地位を占める枢機卿たちだが、必ずしも純粋に神に仕えているわけではない。そこらじゅうに野心と陰謀がある。そんな枢機卿たちがゴージャスな礼服に身を包み、表向きは礼儀や伝統を重んじつつ行う足の引っ張り合いは、神のしもべにはふさわしくないくらい卑屈で滑稽だ。』
だとか、
『いい大人がこんな子どもっぽい行動を‥‥‥とツッコまざるを得ない。』
などと、まるで自分が「大人と呼ぶに相応しい言動」が出来ているかのように言うが、これとて「お前が言うか」という話でしかない。
例えば、北村紗衣は、ネット上で「陰口を書かれた」と言って、歴史学者の呉座勇一に対する公開質問状「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を、千数百名の賛同署名を集めて公開し、そこで呉座を「女性差別者」だとして、名指しによる圧力をかけた。
そして、その圧力のせいで職を失う危険に直面した呉座に、卑屈なまでの「公式謝罪」を二度にわたってさせ、それを勝ち誇ったのだ。
しかし、その結果、呉座が現に職を奪われてしまうと、世間からは「悪しきキャンセル・カルチャーの見本だ」「どう見てもやりすぎだ」という非難を浴びることになる。
すると北村紗衣を中心とした「オープンレターの呼びかけ人(発起者)」たちは、途端に「オープンレター」から関係者(呼びかけ人と賛同署名者)の名前を、すべて削除して「無かったこと」にしてしまった。
そればかりか、北村紗衣は、オープンレターに関わるログを、自らの「ツイート」は無論、自らが直接関与する「Wikipedia日本語版」からも削除し、各種の「まとめサイト」には、弁護士を通じて、その管理者への「警告」を繰り返して圧力をかけ、関連ログを削除させるという徹底ぶりだったのである。

また、そんな北村紗衣の言動を、Twitter(現「X」)上で徹底的に批判した、大学助教の山内雁琳に対しても、その、いくつかの(たった「11個」の)「言葉尻」を捉えての「スラップ裁判」である「名誉毀損の民事賠償」にかけて、山琳からは、賠償金を取ろうとしただけではなく、その「職まで奪った」のである。
つまり、「男たちが女を差別してる」とか「いや、お前の言っていること自体が、偏頗な男性差別だ」といった言い争いの結果として、その相手をネット上で晒し上げた「ネット・リンチ」としての「オープンレター」だとか、「悪口を言われて、私の心と名誉は傷つきました」ということでなされた北村紗衣による対雁琳の「スラップ裁判」などが、はたして「カトリック教会内での政治抗争」と比べて、どれほど「大人のやること」だと言えるのか、「子供っぽい行動ではない」などと言えるのかと、私はそう問いたいのだ。
よくもまあそこまで、「自分自身のことは棚に上げて」、他人のこと(特に男性のこと)を小馬鹿にできるものだなと、そう呆れながらも、私は、北村紗衣の言動を黙過しがたいものと考えずにはいられないのである。
実際、北村紗衣自身は、本作『教皇選挙』で描かれた「教皇になりたくて仕方がない男たち」と大差のない、「有名人(セレブリティ)になりたくて仕方のない女」の一人なのだ。
つまり、「フェミニズム」という武器を利用して、「男社会」の中で「上位1パーセントの地位」を得たいと頑張ってきた、典型的な「リーン・イン・フェミニスト」なのである。
だからこそ、少し「人気」が出はじめた頃に書いた文章の中で北村紗衣は、みずからの「欲望」を、次のように覗かせているのである。
『最後に
異例ではあるが、著者(※ 北村紗衣)がこの論考を書くにあたって感じた強烈な居心地の悪さについて記して本論考を終わりたい。著者は二〇一九年にウェブ連載をまとめた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』というフェミニスト批評エッセイ集を刊行している他、Wikipedia でジェンダーバイアスを減らす活動に取り組んでおり、さらに@Cristotorouというアカウント名でTwitterもやっている。つまり、オンラインでの活動が多いフェミニストである。
連載を始め、まとめて刊行したあたりから、イベントをするたびに女性読者から楽しかったという感想を頂いたり、またTwitter 等で女性と思われるユーザからさまざまな質問を受けたりするなど、ある種の「ファン」として記述できそうな読者が現れるようになった。著者が「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解したのは、この過程を通してだ。著者はあまり有名ではない研究者であり、田嶋陽子やグロリア・スタイネムのようなセレブリティではない。そんな人間でもファンになってくれる読者がいるほど、日本の女性はロールモデルにできそうなセレブリティフェミニストを必要としているようなのだ。著者は知らないうちに第四波フェミニズム的な風潮の真っ只中に投げ込まれていた。
客観的な記述を心がけないといけない研究者としては、これはあまり好ましくない事態である。本論考はできるかぎり先行研究のレビューや事実の指摘にとどめたが、著者が自分でも認識していないうちに大きな第四波のうねりの中に巻き込まれていたということは書いておきたい。波を数えているうちに、波の中に入ってしまっていたのである。この論考は、波の中から書かれている。』
(『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』所収「波を読む 第四波フェミニズムと大衆文化」より/ゴシックは引用者)
見てのとおり、最初の著作を出したばかりで、まだ決して「セレブリティ・フェミニスト」ではなかった北村紗衣だが、しかし、この時にはすでに、
「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解した
と言っているのである。
「フェミニズム」というのは、元来「差別された女性」のための思想運動であり、要は「反差別」思想運動の一種なのだが、北村紗衣はここで「そのためには、有名人になることが必要だ」と考えている。
地味な活動ばかりでは、「フェミニズム」は広がりを持てず、その実力で権利を勝ち取ることができない、と。
たしかに、「スター」がいてこそ運動が広がりを持つという側面は否定できない。
だが、だからと言って「有名人になって、運動の広告塔になれば良い」というものでもない。なぜなら、そうした「功利主義」的な考え方を安易に採ると、「ミイラ取りがミイラになる」畏れが、きわめて高いからである。
一一つまり平たく言うなら、「差別を無くすために、フェミニストになったはず」なのに、いつの間にか自分自身が「その差別構造の中で、他人を差別する立場に安住してしまう」ということに、えてしてなりがちなのだ。
だが、上の「2020年」時の北村紗衣には、そうした「自戒」の念がいっさい感じられず、「出来るものなら、私もセレブリティフェミニストになりたいものだ。女性たちはそういうロールモデルを求めているのだし、私がそれになって悪いわけがない」と、そんな「欲望」が、ハッキリと透けて見えるのである。
そして、そんな北村紗衣は、今やその「野望」どおりに「X(旧 Twitter)のフォロワー5万人」という「セレブリティフェミニスト」になりおおせた。
たぶん、北村紗衣が、今の日本では「最もフォロワー数の多いフェミニスト」なのであろう。その「フォロワーの内実」までは問わないとしても。
ともあれ、そんな「大衆人気(ポピュリズム)」に支えられ、北村紗衣は「オープンレター」では「フェミニスト仲間」を結集し、憎き呉座勇一に屈辱を味わわせ、生意気な山内雁琳からは200数十万という賠償金をせしめることができたのだ。まさに「ザマアミロ」といった心境だったことだろう。
だが、こんな奴が、どの面下げて、
『舞台は歴史あるヴァチカンで、主要登場人物はカトリック教会で重要な地位を占める枢機卿たちだが、必ずしも純粋に神に仕えているわけではない。そこらじゅうに野心と陰謀がある。そんな枢機卿たちがゴージャスな礼服に身を包み、表向きは礼儀や伝統を重んじつつ行う足の引っ張り合いは、神のしもべにはふさわしくないくらい卑屈で滑稽だ。』
『いい大人がこんな子どもっぽい行動を‥‥‥とツッコまざるを得ない。』
などと言えるのだろうか。一一「恥知らず」にも程があろう。
それに、北村紗衣は、本作『教皇選挙』における「影のヒロイン」とも呼ぶべきシスター・アグネスが、まるで「自分と同じ立場」であるかのように書いているが、これは「無知ゆえの誤認」か「故意のペテン」でしかない。
『 そしてこの男性社会としてのカトリック教会を相対化する存在がイザベラ・ロッセリーニ演じるシスター・アグネスだ。アグネスは選挙中の宿泊所の管理を担当している。出番はそれほど多くないが、序盤から要所要所でアグネスをはじめとする修道女たちがトルテリーニなど食事を作る準備をしたり、枢機卿団を眺めたりする短いカットが挿入され、こうした女性たちの見えにくい仕事なしに教会は成り立たないが、あまり男性の聖職者たちはそれを気にかけていないらしいということが示唆される。アグネスはコピー機もろくに使えないトマスを助けるが、これもふだん男性聖職者が事務作業を修道女などにやらせていることをさりげなく示す場面だ。そんなアグネスが、自分たちはふだん目に見えない存在だがちゃんと意志も頭もあり、女性の尊厳は守られるべきであるということを主張するスピーチは、短いがこの映画の根幹に深くかかわっている。枢機卿団が気にもかけていなかった修道女が実はものごとを良く見通しており、教皇選挙に影響を及ぼすくらい賢かったということがわかる。』
たしかに「カトリック教会」では、女性が「従たる立場」に追いやられている。あくまでも男性が教会をリードし、女性はそれを「陰から支える」という立場だ。
しかし、ここで決して見落としてはいけないのは、シスター・アグネスは、そうした「教会のあり方」を「(敬虔に)受け入れている」という事実であり、その意味で彼女は、決して「フェミニスト」などではないのだ。
だから、いくら彼女が「女性を利用した姑息な枢機卿」を告発したからといって、それは「男性を批判した」ということではない。
彼女は、男女の別なく「神に僕(しもべ)たるに相応しくない行いをした者」を告発したにすぎないのだ。
たしかに彼女は、その「告発」の際、
『私たちは修道女は裏方の存在ですが、神は目と耳をくださった』
と、「女性にだって、目もあれば耳のある、同じ神の僕なのだ」とそう語ったが、しかし、『裏方の存在』であることについては、なんら不満を表明してはいない。
なぜ彼女は『裏方の存在』であることを黙って「受け入れている」のかといえば、「カトリック教会」が、今このような形にあるというのも、それは「神のご意志」であると、そう考えているからなのだ。
神の前では、教皇であろうと雑役係の裏方であろうと、そこには「何ら差別はない(貴賎はない)」と確信しているからこそ、彼女は自身に与えられた場所で、ひとことの「不平」を漏らすこともなく頑張れるのである(例えば、マザー・テレサを思い出してみると良い)。

したがって、北村紗衣のような「言行不一致の目立ちたがり屋」が、「フェミニスト」ぶって、枢機卿たちの「幼稚さ」を嘲笑ったのを見れば、きっと彼女は、そんな北村紗衣をこそ、「愚かな女」だと「憐れんだ」はずである。
自分がちょっと名の知れた「フェミニスト」であり「大学教授」だからといって、「彼らなりに教会の行末を真剣に心配して、大喧嘩さえ辞さないような男たち」を、「上から目線」で「子供っぽい」などと嘲る、馬鹿な女。
敬虔なシスター・アグネスならば、北村紗衣のことを、かの「卑劣な枢機卿」に向けたのと同様の「厳しい目」向けて、それでも黙っていることであろう。
一一なぜ「黙っているのか」と言えば、それは「言ってわかるような、倫理観を持った人間ではない」ということを知っているからである。
「私が言ってもどうにもならない。けれども、神はすべてを見ておられ、いずれそのご意志を示されるであろう」と。
つまり、本作『教皇選挙』で「悪役」的に描かれた枢機卿たちは、それでもまだしも、それなりに「可愛げ」があった。
彼らは彼らなりに「教会のため」ひいては「迷える子羊たちのため」に良かれと思い、それが「神のご意志」だと信じて、しかし自身の人間的な弱さに流されていただけだからである。
まただからこそ、彼らは、「正論」を向けられて「反省」したり、「反省」まではできなくとも、それを気まずく感じて黙り込んでしまうだけの「無垢な信仰心」を持ってはいたのである。
しかるに、北村紗衣はどうか?
「フェミニスト」を自称して「女性差別反対」を声高に語りながらも、そうした自己の利益に資する「パフォーマンス」にはならない、地味な「反差別運動」たる「部落差別(同和問題)」や「在日朝鮮人差別」「従軍慰安婦問題」「沖縄差別(沖縄米軍基地問題)」といった「今ここの差別」問題については、一言半句語ろうとはしないのだ。
要は「銭にならない差別問題」にまで関わる気はないということであり、北村紗衣にとっての「フェミニズム」とは、所詮、自分が成り上がる(リーン・インする)ための「商売道具」でしかないのである。

だから私は、「宗教批判者」として「キリスト教批判者」として「カトリック批判者」として、シスター・アグネスの「役割意識(使命感)」さえ「間違っている」と批判するのを躊躇わないが、しかし彼らの「人間的な誠実」を、決して笑おうとは思わない。
彼らが「間違っている」としても、それでも彼らが「真面目に間違っている」のであれば、こちらも「同じ人間」として「真面目に批判する」のが礼儀であり、それが当然のことではないか。
一一だが、本質的に「不誠実な人間」である北村紗衣には、この程度のことがわからない。
それこそ「聖書を通読したこともない」だろうに、ちょっと特殊な映画ジャンルを指す「ナンスプロイテーション」とか「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会」なんて、普通の人は知らない言葉をひけらかしては「専門家ぶってみせる」のが、北村紗衣の「ワン・トリック・ポニー(ひとつ芸の仔馬)」たるところで、私はこのことをこれまでにも何度か指摘している。
そもそも、自分が最近書いた文章を「参考文献」に挙げるというセンスが、北村紗衣という女の「臆面もない自家宣伝家」ぶりをよく表しているとも言えるだろう。
だが、こんな低劣極まりない女の言うことでも、
『この作品は男性中心的で硬直的なカトリック教会をひねったユーモアで諷刺しており、その観点から笑って見ていい作品だろう。』
などと「パンフレット」に書かれていると、それを鵜呑みにして「カトリック教会って、遅れてるねえ」などと、さも自分が「進んでいる」と勘違いするような「頭の悪い(フェミニズムかぶれの)読者」を、少なからず産んでもしまうのだ。
たしかに「カトリック教会」にも「キリスト教」にも「宗教」にも、大いに問題はある。
だが、その前に、おふざけ半分の「上から目線」で、それらをあっさりと片づけてしまえると思っているような北村紗衣の中にこそ、もっと重大な「罪源」たる、「七つの大罪(七つの死に至る罪)」のうちの2つ、「虚栄心(自惚れ)」の罪と「傲慢」の罪が、抜きがたく刻印されているのだ。
こう説明しても、本作『教皇選挙』に描かれた、男性である枢機卿たちより、それを嘲笑った女性である北村紗衣の方が、まだしも「マシ」だなどと言えるものだろうか?

(2025年4月11日)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
・
・
・
(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
● ● ●
・
・
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
