見出し画像

真鍋厚 『令和ひとりカルト最前線 サバイバリズム時代の生存戦略』 : 北村紗衣と裏北村紗衣

書評:真鍋厚令和ひとりカルト最前線 サバイバリズム時代の生存戦略』(現代書館)

本書は、オススメの社会派書である。

しかし、そんな本書とは違って、読んでいて、言っていることにはいちおう納得できるものの、どうもスッキリしない社会派系の本というのが少なくない。

なぜなのかと考えてみると、そういう本というのは、たいがいは「党派的」なのだ。
つまり、敵視している対象を批判している分にはまったくの正論で、なるほどと納得させられるのだが、では、その批判者本人はそれほど立派なのかというと、そうとは思いにくい、その党派性が透けて見える。

敵を批判する際には厳格きわまりないのだが、党派の身内には甘く、その意味で自分自身にも甘い。
敵を批判するのと同じ水準で、自分や身内を批判できているようには、とうてい見えない。

私が「心の師」と仰ぐ大西巨人が、常識に反して「死者を鞭打て。鞭打たれんがためなり」というようなことをどこか書いていた。
これは「人からの批判を避けるために(自己防衛目的に)穏健ぶるのではなく、自分が間違わないために、間違った時には他から正してもらえるよう、必要な批判を担保するためにこそ、自身は呵責のない他者批判を実践すべきである」と、そういう趣旨の言葉だ。
昨今の、党派作りに忙しい馴れ合い著述家たちには思いも及ばない、古風な「文士」的発想であろう。

そんなわけで、「今どきの著述家」の場合、いちおう言ってることは正しい場合でも、そう語る当人自体はあまり信用することができない。だから、こちらとしても、その(綺麗事にすぎない)意見を、丸ごとすっきりと褒めることができないのだ。

例えば、私は現在、「武蔵大学の教授」でフェミニストの北村紗衣を批判し、その仲間のフェミニスト教員たちも批判しているけれども、それは彼女たちが「フェミニスト」だから批判しているのではないし、男の敵だからでもない

北村紗衣がそうであるように、単に自分の権益や利得や覇権しか考えていないくせ(あるいは、目立ちたいがためだけ)に、フェミニズムを悪用して「女性差別反対!」なんてご立派なことを宣っている偽善者だから、その「偽善」を批判しているのだ。
つまり、性別による「差別」など無く、しごくフラットな立ち位置から批判しているのである。

ところが、私と同じように、北村紗衣やその周辺のフェミニストを批判している人たちの方にも北村紗衣らのような「似非フェミニスト」と似たような、フェアネスを欠いた「党派性」が、しばしば透けて見えてしまう

彼らは、わかりやすく「フェミニズム」や「フェミニスト」あるいは「左翼」や「リベラル」が世の中をおかしくしていると批判するけれども、普通に考えて、今の世の中の「良き部分」の多くは、善意のフェミニストや左翼やリベラルが存在したからこそあり得たものなのだ。

だが、そうした「肩書き」を持つ者の中からも、当然のことながら、程度の低い者や「エセ(似非)」でしかない者が出てきて、社会に害悪を垂れ流してしまう。
だから、そのあたりについては、当然、批判も必要となる。

ところが、そうした「悪い例」だけを捉えて、「フェミニスト」や「左翼」や「リベラル」を、丸ごと否定する、わかりやすく「党派的」な人が少なくない
しかしこれは、大衆迎合(ポピュリズム)的な堕落による、安直な態度である。

「外国人」にも犯罪者はいるが、外国人全員が犯罪者ではない。
諸外国においては「日本人犯罪者」もいるが、日本人全員が犯罪者であるわけもない。

一一こんなことは、まともに物事を考えていれば、おのずもわかる程度のことでしかないはずなのだが、この程度の理屈すらわからない「ミソもクソも一緒くた」にする、その区別のつかない(故意に、つけようとしない)人たちが、現に少なくないのだ。

私がいつも引用しているとおりで、

SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである。

という、SF作家シオドア・スタージョンの言葉は、フェミニストにも当てはまるし、アンチ・フェミニストにも、当然あて嵌まる

ところが、そうした当たり前の区別(1割と9割の、質的区別)をせずに、「フェミニストが悪い」「左翼が悪い」などと、単細胞に言い立てる者が少なくない。

なぜ、そんな「雑な言い方」ができるのかと言えば、それは彼らの多くが、自分の「顧客」に向けて、そうした「ウケの良い、わかりやすい言い方」をしているからなのだ。

ここで言う「顧客」とは、自分の著書を読んでくれたり、投げ銭をしてくれたり、スキ(いいネ)を押してくれたり、支持応援コメントをくれたりするような人たちのことだ。

「エセ言論人」というものは、北村紗衣がそうであるように、自分の支持層を、決して批判したりはしない
心の中では「馬鹿だ」と思っていても、決してそうは言わないし、書かない。

「(私とは違って)ブスのくせに」と思っていても、そうは言えないからこそ、北村紗衣などは、たまに婉曲なかたちで、そんな本音を漏らしたりもする。
その実例が、第一著書である『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房)収録の、

愛の理想郷における、ブス 一一夢見るためのバズ・ラーマン

における、「ブス」という言葉の連呼である。

しかしながら、こうした「偽善」は、何も北村紗衣やフェミニストに限ったことではなく、アンチ・フェミニストにもよくあることだ。
自身の顧客層なら、どんなに程度が低くても、決して批判したりはしないのである。

つまり、「エセ言論人」でしかない彼らは、一見「確固たる信念」に立って、一貫した発言しているようで、実は、そうではない

結局のところは彼らも、「党派」的な発言に終始しており、要は「儲かる物言い」しかしておらず、公正で誠実な物の言い方など、しようともしていないのだ。

知的レベルの低い「大衆層の顧客」に広くウケようとすれば、物事を単縦化して語らなければならない
例えば、「同じように〝フェミニスト〟を名乗っていても、この人は本物のフェミニズムで、そっちは似非(偽物)だ」というような、慎重で誠実な言い方はしない。

そんな言い方をしても、そもそもフェミニズムが何たるかをろくに知らないまま、とにかくフェミニストの言うことが気に入らないとネットで騒いでいるような、無知で不勉強な男どもには、本物と偽物の区別など、つけようもないのだから、そんな客層の「理解」など、初手から得られないと、そう諦めている
一一だから、誠実に説明を尽くすのではなく、お望みどおりにわかりやすく、雑な言い方しかしないのだ。

そうした「顧客」一一つまり、「本物と偽物」の違いなどという細かい議論には興味がなく、ただ「フェミニストをやっつけてくれれれば、それで満足だ」というような、単細胞な人たちにウケるには、わかりやすく「フェミニストは、全員クズだ」というような言い方をしなければならない。
いや、その方が、金儲け的には手っ取り早く「得策」だから、十羽一絡げに「フェミニストはクズ」だと、そう威勢よく言うことになるのである。

つまり、こうした「不誠実な書き手=二流の書き手」というのも、部分的には、まったくの正論を語ってはいるのだが、その正論とは、自分の顧客に「ウケる」範囲内での正論でしかなく、逆に言えば、顧客が喜ばないのような正論については、わかっていても口を噤んでいるものなのだ。

だから、北村紗衣がそうであるように、こういう人たちというのは、野党的に批判している時には、公正ぶっているけれど、自分たちが多少なりとも立場や力を得れば、決してフェアに振舞ったりはしないし、出来もしない。

言い換えれば、「本物のフェミニストと偽物のフェミニストの区別」もつけずに悪口するような人のやっていることとは、「まともな保守ネトウヨの区別」もつけないで批判している人と同レベルでしかなく、まったく信用ならないものなのである。

一一そして、こうした「公正さ」の観点からすると、本書『令和ひとりカルト最前線 サバイバリズム時代の生存戦略』(以下『令和カルト最前線』と記す)の著者・真鍋厚は、今どき稀有な、「党派性」では物を言わない、信用できる「人物」なのだ。

もちろん真鍋は、人一倍「現実政治」というものを重視するからこそ、それに対して批判的な視線を向けはするけれども、その政治性は、決して「党派」的なものではない。

人を敵味方で区別して、味方にはウケの良い言い方しかしない凡庸な書き手たちとは違って、真鍋は自身の信念に従って、右であろうと左であろうと(あるいは、社会階級的に上であろうと下であろうと)、差別なく批判もするし支持もする人なのだ。

では、どうして真鍋厚には、そのようなことが出来るのかと言えば、それはこの人がやっているのは「身過ぎ世過ぎのため(糊口を凌ぐため、食い扶持を稼ぐため)の著述」ではなく、「人間とは、どういうものなのか?」という問題意識のレベルで、物を書いている人だからである。

そこでは、今どきの「ウケ狙い」(いいネ欲しさ)ではなく「知的探求」があり、真鍋厚は、その探求結果を、著述家として売っているのである。
つまり、今どき珍しい、正統派の著述家だから、芸を売ってはいるが、媚を売っているわけではないのである。

例えば、私がだいぶ前に、著者が真鍋厚だと意識せずに読んだものに、『山本太郎とN国党 ~SNSが変える民主主義~』(光文社新書)があった。

近年の国政選挙では、国民民主党参政党といった新しい政党が、インターネットを駆使して多くの票を集めたことで話題になっているけれども、上の『山本太郎とN国党』は、それに先駆けて、 世間のそうした動向を正しく指摘したものであった。

そして同書で面白いのは、左寄りと見られている山本太郎れいわ新選組についても、右寄りと見られている立花孝志N国党(NHKから国民を守る党)についても、その党派的政治性を問題とするのではなく、どうして彼らが世間に「ウケたのか」ということを問題としている点だ。

つまり、山本太郎立花孝志の熱心な支持者は、政治的な立場こそ違っているものの、新政党の新カリスマに熱狂しなければ救われないものを、それぞれに抱えもっていたという点においては「共通している」と、その共通点を焦点化しているのだ。
つまり、あえて、どちらの支持者からも煙たがれる立場を選んでいたのである。

これは、今回の『令和ひとりカルト最前線』でも同じだ。
例えば、参政党の支持者とアンチ参政党とは、その心性としての「カルト性」においては、共通したものがあると、そう真鍋は見ている。

「自分たちだけが、今の危機的な状況の元凶を理解しているから、このように熱心に」支持しているとか、批判しているのだといった、そんな「妄信的な熱狂」だ。

しかしながら、こうした心理状態は、限られた一部の人のものではなく、社会全体が、そうした「限定的な真理」にすがらなければならない空気に覆われている(精神状況に置かれている)という点をこそ、真鍋厚は問題視している。

前記『山本太郎とN国党』を読んだ後、私は、真鍋厚の文章とは知らずに、別の真鍋論文を読んで、感心させられた。
それは、『宗教問題』誌の「2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食い荒らす!」に寄稿された記事オンラインサロンは新時代の宗教か」である。

真鍋のこの論文は、昨今流行の「オンラインサロン」を扱って、その「非宗教でありながら、極めて宗教的な性格」を指摘して、こうした現象が奈辺から生じたものなのか問うていた。

ともあれ、『山本太郎とN国党』と言えば「政治」の問題であり、「オンラインサロンは新時代の宗教か」では「宗教(性)」の問題を扱っているように見えるが、その本質は「政治」や「宗教的現象」などの中に潜んでいる、「社会不安」の問題なのだ。

人々は、今のこの社会をどのように感じ、どのように怯え、それにどのようにして対処しようとしているのか。
一一それが真鍋厚の問題意識なのである。

また、だからこそそんな真鍋厚には、薄っぺらい「(政治的な)党派性」などといったものは、かけらも無いのである。

また、だからこそ、真鍋厚の問題意識は、本書『令和ひとりカルト最前線』でも、何も変わってはいない。
真鍋が関心を寄せて観察し、考え続けている、「日本社会における、人々の心理状況」というものが、刻一刻と変わり続けているからなのであろう。

そのため、真鍋の興味の対象である「社会心理」というものは、本を一冊書けばそれで終わりというようなお手軽なものではなく、刻一刻と変貌しながら、その時々の社会に大きな影を落とすという、そうした性格のものなのである。
真鍋はその影を追って、あらゆるものの中にその影を見出し、その問題と向き合い続けているのだ。

本書の帯には、次のような文言や惹句が刷られている。

推し活 ソロ活 YouTube 陰謀論 ミニマリズム マインドフルネス オンラインサロン ポピュリズム

孤独と絶望を熱狂に変える、新カルチャーを徹底分析

生命力をロジカルに鍛える令和サバイバルの最強指南書⁉︎』

また、帯の背面に刷られている「主要目次」は、次のとおり。

『主要目次
プロローグ  崩壊する社会、見捨てられた人々
第1章 剝き出しのサバイバリズムへようこそ
第2章 サイコパス万歳!
第3章 ソロ活、拡張家族、陰謀論
第4章 ポピュリズムという宗教
第5章 人生がクソゲー化する社会
エピローグ  そして世界は終わらなかった』

同様の問題意識を持つ人には、以上を見ただけで、本書の内容は一目瞭然であろう。

だが本書は、そうしたごく一部の人むけ書かれたものではないし、また、そうした人が読んでも、教えられるところの多いディテールに満ちた一書となっている。

例えば、数年前に大ブームとなった「新NISA「iDeCo」などの話は、そうしたことにまったく興味のない私の耳にさえしばしば入ってきて、それらに言及した本も少しは読むことにもなった。

けれども、それらの本に書かれていたのは、そうしたものの胡散臭さであり、「素人がうかうかと乗せられては危険ですよ」という社会的な警告だったのだが、本書『令和ひとりカルト最前線』では、そうした問題も「社会心理」的な側面から扱われることになる。

つまり、「なぜそのような政策が採られたのか」という事実関係だけではなく、「なぜそのような政策に乗せられてしまうのか」という社会心理の側面から、こうした問題を鋭く論じており、私自身にも、自らを顧みることを促してくれたのだ。

『 二〇二二年十一月二十八日に当時の岸田政権が正式決定した「資産所得倍増プラン」である。①家計金融資産を貯蓄から投資にシフトさせるNISA(少額投資非課税制度)の抜本的拡充や恒久化、②加入可能年齢の引上げなどiDeCo(個人型確定拠出年金)制度の改革、③消費者に対して中立的で信頼できるアドバイスの提供を促すための仕組みの創設、④雇用者に対する資産形成の強化、⑤安定的な資産形成の重要性を浸透させていくための金融経済教育の充実、⑥世界に開かれた国際金融センターの実現、⑦顧客本位の業務運営の確保一一という七つの柱で構成される同プランは、要するに、国家が国民生活を未永くフォローすることは不可能になるということの婉曲的な表明であった。国民一人ひとりが自らの資産を投資によって増やすことができる手はずだけは整え、後はすべてを個人の努力に委ねる業績主義的放任ともいえた。
 この方針は、石破政権にも引き継がれた。二〇二五年四月二十三日に岸田が会長を務める自民党内の資産運用立国議員連盟が石破 茂首相に「資産運用立国2・0に向けた提言」を提出し、金融庁も検討を開始したからである。その提言には、「高齢者が物価上昇の下でも、投資のメリットを受けつつ、生涯にわたって計画的に運用資産を活用して生活に充てることができる」という触れ込みの高齢者向けの「プラチナNISA」と、子育て支援・少子化対策の一環として、若年層の資産形成を後押しするため、「投資可能年齢の下限を撤廃し、早期からの投資を可能とする」「こども支援NISA」を導入すべきとあった。二〇二六年度の金融庁の税制改正要望にも盛り込まれた。国家主導による国民総投資家時代がいよいよ到来したといえる。
 だが、そもそもの経緯を振り返れば、二〇二一年の自民党総裁選で岸田が掲げていた公約にあった「令和版所得倍増」が出発点であるが、いつの間にか「所得」が「資産所得」へと修正され、「成長と分配の好循環」をコンセプトにした「新しい資本主義」の実行計画は成長に軸足を置かれることになり、分配重視という当初の目論見は大きく後退した。
 いや「分配」のうちには「投資のリターン」が含まれているというかもしれない。なぜなら、同プランは「中間層がリターンの大きい資産に投資しやすい環境を整備すれば、家計の金融資産所得を拡大することができる。また、家計の資金が企業の成長投資の原資となれば、企業の成長が促進され、企業価値が向上する。企業価値が拡大すれば、家計の金融資産所得は更に拡大し、『成長と資産所得の好循環』が実現する」と明言しているからだ。いずれにせよ、これも格差是正の道具立てのうちというわけだ。ただし、格差是正を行う主体は政府ではない。「あなた」自身が自らの責任において行わなければならないのだ。
「あなた」自身が自らの道任において行わなければならないのだ。
 だが、四世帯のうち一世帯が貯蓄ゼロで、貯蓄一〇〇万円未満の世帯が一〇パーセントを占め、「近年低所得層が増加する中で無貯蓄・低貯蓄世帯が増加傾向にある」国で、誰が得をするかは明白だろう。もっといえば「中間層」はもはや存在しない。バブル崩壊以降、実質賃金は減少傾向にあり、経済成長率も低迷。全世帯の平均所得は一九九四年の六六四・二万円をピークに、なだらかな下降曲線を描き続けており、二〇二〇年は五六四・三万円だった(「令和3年国民生活基礎調査の概況」厚生労働省)。中長期的に収入の増加が見込めず、非正規雇用率の上昇や、雇用の個人請負化によって社会的地位の不安定化が進む状況下で、いわゆる「中間層」的なライフスタイルは贅沢品と化し、いつの間にか「勝ち組」にカテゴライズされるほどになった。すでに多くの国民が「中間層」の消滅という承服しがたい事態に直面して慌てふためいている。下流に押し流されるスピードが激的に増していることも手伝って、自らの社会階層を正確に認識する余裕や心構えもないまま、金利のわずかな変動や、公共料金の値上げ、物価や原材料費の高勝、受注の減少といったアクシデントの連鎖によって最下層へと転落する可能性はかつてないほど高まっている。』(P27〜29)

上に引用した部分は、岸田政権に始まった経済政策が、いかに欺瞞的なものなのかということを伝えるものだが、その一方、それで終わらないところが、本書著者の真骨頂だ。
つまり、ここで注目すべきなのも、次の部分ということになる。

『すでに多くの国民が「中間層」の消滅という承服しがたい事態に直面して慌てふためいている。下流に押し流されるスピードが激的に増していることも手伝って、自らの社会階層を正確に認識する余裕や心構えもないまま』

つまり、なぜこのような欺瞞的な政策が、大して批判されることもなく広く受け入れられたのかと言えば、それは国民の多くが、経済的不安において、すでに追い詰められており、藁にもすがる気持ちになっているためなのだ。
冷静に物事を判断するだけの「経済的な余裕」を失い「心理的な余裕」を失っている。

つまりここに、政治批判をするだけでは解決し得ない、問題の根の深さがある。
政治家の悪徳を批判することは必要だが、そうした政策を受け入れざるを得ない国民の心理状況も、決して無視し得ない。

最近のベストセラー小説、朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』で扱われている「押し活」の問題も、単に「押し活」をする人たちの愚かさ論うだけでは済まされない。
そうではなく、同書がそうであるように、それを根の深い「社会不安」の問題として捉えなけれぼならないのである。

私は本書で初めて「FIRE」という言葉を知ったのだが、皆さんはご存知だっただろうか?

もちろん「火」のことでも、缶コーヒーのブランド名でもない。

経済のことには、興味も無ければまったくうとい私も、説明されれば、なるほどと唸らざるを得ない、これはそんな、ある流行についての言葉なのだ。

『 その一方で、(※ 岸田政権が決定した「資産所得倍増プラン」について)歓迎ムード一色なのは、FIREの実現に向けて投資に励む人々だ。
 FIREとは、Financial Independence, Retire Early の頭文字を取った言葉で、経済的自立と早期リタイアを意味する。ここ数年トピックに上がることが多くなっているのは、ミニマリズムと同じく自己防衛的な潮流だからである。
 昭和の時代、定年を迎えた大半の人々は、年金暮らしを期待することができた。例えば一九七〇年代から九〇年代にかけて定期預金の年利が八パーセント、あるいは六パーセントという夢のような時代があった。一定水準の貯蓄と年金があれば老後の安心が得られたのである。だが、今ではあまりにもお気楽な人生設計となってしまった。資金計画を考慮しない引退生活は自殺行為とされ、近い将来資金ショートによる老後破産が待ち受けていることを、ウェブ広告のファイナンシャル・プランナーがご丁寧に教えてくれる。そのため、とりわけ若い世代は、攻めの攻勢に転じることを半ば強いられているところがある。現役世代のうちに一心不乱に貯蓄に励んで、投資の運用益だけで生活できる状態を目指すのがベターというわけだ。これにより早期のリタイアを実現し、会社や仕事に囚われない自由が手に入るという寸法である。
 とはいえ、これは表面的な理解に過ぎない。深層には、仕事と報酬のギャップがある。特に会社員の場合、個人の実績に見合った収入が得られないばかりか、家庭の事情を顧みない理不尽で過重な労働を強いられることが少なくない。FIREを特集したテレビ番組における「労働環境が厳しさを増す中で、『働く意味』を見出せずに切実な思いを抱えながら、模索を続ける人たちが多い」という取材者の感想は、まさに現代的な不条理の一端を掬い取っている。FIREとは、報われない労働のカオスと過度に先取りされた将来不安が強迫的なまでの金銭的防衛(financialdefense)へと結晶化された社会現象なのである。
(中略)
 だが、一般の人々にとって完全なFIREは夢のまた夢である。「サイドFIRE」(資産収入と労働収入の組み合わせによる生活。「ゆるFIRE」とも呼ばれる)のほうがまだ現実味があるだろう。それに資産収入は放っておいても天から降ってくるようなお金ではない。投資の運用益を不労所得だと能天気に語る人々がいるが、投資のスキルが個人の能力に帰することや、常に元本割れのリスクを抱えながら注視しなければならない労力をあまりに過小評価し過ぎている。金融庁ですら金融リテラシーについて、「知識の習得に加え、健全な家計管理・生活設計の習慣化、金融商品の適切な利用選択に必要な着眼点等の習得、必要な場合のアドバイスの活用などが重要」と付言している。とてもとても不労と呼べるような〝稼ぎ方〟ではないのだ。
 では、「資産所得倍増プラン」は、わたしたちに優秀なトレーダーになることを望んでいるのか。それはあり得ないだろう。岸田首相(当時)がロンドンで投資家向けに行った基調講演の言葉を借りれば、「眠り続けてきた1000兆円単位の預貯金をたたき起こす」ことが目的だからである。国民が役生大事に持っている「1000兆円単位の預貯金」を株式市場に放出し、金融商品に変えることこそが悲願なのだ。最終的に「1000兆円単位の預貯金」が水泡に帰そうが関知はしない。なぜなら、それは投資した側の自己責任だからだ。また、国家は、安定的な報酬を約束することが困難になり、経済状況の好転も見込めず、年金などの社会保障がジリ貧であることを百も承知であるからこそ、「資産所得倍増プラン」に活路を見出しているのである。「もう国はあなたたちの面倒を見ません。自分の身は自分で守ってください」という最後通告なのだ。

 とはいえ、先述のミニマリズムもそうであるように、左うちわのインフルエンサーたちの助言に従い、月三万円の風呂なしアパートかシェアハウスに住み、食費や雑費を最低限に抑えることができたら、一人だけであればFIRE達成は不可能ではないと思わせられる魔力がある。You-Tubeやインスタグラムなどを見ると、「年収三〇〇万円FIRE」や「貯金四〇〇万円でFIRE」といった低所得者向けのFIREを拡散するインフルエンサーが増えている。小さな成功者たちだ。NISAの抜本的拡充・恒久化が現実化すれば、多少なりその実現可能性は高まるかもしれない。これは、ある種の救済思想なのだ。「昇給を目指すより投資をした方がお金を手にできる」という考えに頭を切り替え、近い将来仕事から解放されれば「毎日、心が穏やが」に過ごせるという境地に向かってひたすら投資のスキルを練磨する一一その先にあるのは誰もが羨ましがるFI(経済的自立)という「解脱」なのである。「億り人」(株式投資や暗号資産取引(仮想通貨取引)などで億単位の資産を築いた投資家のこと)のような人々はさながら最終解脱者であろう。
 FIRE信仰、FIRE真理教は、日々涙ぐましいほどの節約と広告収入的な副業と狂的な貯蓄熱による小乗仏教的な修行によって成り立っている。自己増殖に似た膨張する金融資産の永遠なる生命を奉し、「労働という苦しみに満ちた〝迷いの世界〟」からの脱出を夢見、最適なポートフォリオという個人経典とインフルエンサーの教えに従って投資行に勤しむのだ。その核心部分には何者からの助けも望むべくもないという孤立無援の寄る辺なさがある。頼りになるのは「四パーセントルール」と自分だけなのだ。』(P29〜34)

ここまで読んでいただければ、私たちを取り巻く状況が、単に「政治」や「経済」の問題に止まらず、深く「心(精神)」の問題に食い入っているというのがわかるだろう。

リアルな「経済」の話が、最後はバーチャルな「宗教」の比喩に移行しているのは、決して故なきことではない。

私たちを取り巻く現実状況は、それほどまでに厳しいものだからこそ、私たちはそこからの逃避を求めて、そうと気づかないうちに「宗教の代替品」にすがりついて、「ひとりカルト」と化している。
それが本書で扱われる、

推し活 ソロ活 YouTube 陰謀論 ミニマリズム マインドフルネス オンラインサロン ポピュリズム

などなど、なのである。

無論、すでに何度か指摘したことだが、フェミニズムブームにおいて、北村紗衣のような「似非フェミニスト」が「Xのフォロワー5万人」といったもて囃され方をするのも、同じような「追い詰められた精神の求める、逃避としての宗教的な妄信」が蔓延しているからだし、それに対する「アンチフェミ」もまた、同様の精神的な背景を持っている。
そこでは、狭い狭い範囲の敵を叩くことが、「社会正義」のすべてであるかのように感じられているのだ。

たいがいの場合、金持ちは喧嘩せず、金さえあれば、フェミニズムをファッションのように纏うことはあっても、それにすがることはないし、またフェミニズムを目の敵にするようなこともない。

本書が描き出したように、現在の特異な「熱狂」の背後には、社会的な下部構造の問題があるのであって、上部構造だけを論じていても、それを解消することなど、原理的に不可能である。

まさしく私たちは今、「貧するが故に鈍している」のだ。


(2025年11月8日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

























































 ○ ○ ○

(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)

 ● ● ●


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○