見出し画像

小林えみ 『孤独について』 : 北村紗衣の同志・小林えみへの「公開質問状」

書評:小林えみ孤独について』(よはく舎)

小林えみは、本書の版元である「よはく舎」の社主であり、「マルジナリア書店」の経営者である。
つまり、街の本屋を始めてから、出版も始めたという、根っからの本好きということなのであろう。
本書に書かれた文章が、ブログをはじめとしたSNSでの公開に止まらず、わざわざ「活字の本」として自費出版したというのも、活字の本への憧れが強かったからに違いない。

だが、作家デビューするなどして、既成の出版社から著書の刊行を勧められたというのではなく、自ら著書を自費出版する人というのは、まず間違いなく、SNSなどに掲載される文章よりも、活字となったものの方にありがたみを感じているということなのであろう。

私の場合は、少数例外を除いて、ずっとネットに文章を書いてきた。電子掲示板、mixi、Twitter、Amazonカスタマーレビュー、そして現在の、noteだ。
一時、自分のホームページを作ったこともあるが、レンタルだったのでサーバーの移転にうまく対応できず、そのままになってしまった。
書くのは好きだが、それ以外のあれこれの手続きなどはすべて面倒で、自分ではやれないタイプだったからである。

しかし、長年にわたりそんな調子で、ネットに膨大な量の文章を書いてきたにもかかわらず、ネットにおいての私は、いわゆる「書き専」である。
つまり、ネット上の文章は、ほぼ読まない。

というのも、読みたい本、未読本の蔵書が山のように貯まっているのに、質の保証されないネット上の文章まで読んではいられない。
また、縦書きの活字に馴れた私は、横書きが基本のネットの文章は読みにくい。だから、横書きの本だって苦手なのだが、とは言え、ブラウザ上の縦書きというのも、妙なもので読みにくいのだ。

そんなわけで、結果としてネット上の文章は、ほとんど読まない。
質の保証されている書き手のものでも、必要に迫られないかぎり読まない。例えば、愛読している作家の文章だとしても、ネット上では読まず、本になるのを待って、わざわざ本を買って読む、ということをする。その方が好きだからだ。

そんなわけで、私自身、ネット上の文章よりも、活字になった文章の方にありがたみを感じるから、本書著者の小林えみが、SNSなどに文章を書くに止まらず、本にしたいと考えたその気持ちは、よく理解できる。

本書『孤独について』は、見るからに自費出版という感じの味気ない装丁の本で、多少は絵心があり、装丁にも一家言ある私としては、たとえソフトカバーの軽装本だとしても、私が装丁をやれば、もっとカッコいいものに出来るという自信がある。

昔、同人誌の装丁を何度かしたことがあるのだが、その中には作家デビュー直前だったミステリ作家・城平京の、個人誌の装丁をやったこともある。タイトルは失念したが、もしかすると第8回鮎川哲也賞最終候補作となり、のちに加筆されてデビュー作となった『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫)の原型版だったかもしれない。
その後の城平京は、ミステリ作家としてはさほど活躍してはいないようだが、私は読まないミステリ漫画の原作者としては、かなり有名になったようだ。
『月刊少年ガンガン』に連載されて大ヒットしたという『スパイラル 〜推理の絆〜』の原作者だと言えば、思い当たる方もあるだろう。

ともあれ、本書『孤独について』は、見るからに自費出版という感じなのだが、当人としては、こういう本でも、やはり「活字の本」にしたかったのであろう。

著者の小林えみは、私より一回りほど下の人だが、それでも今の若い人には比較的薄いのかも知れない、活字本への憧れやこだわりがあるというのは、よく理解できるところである。

ただし、言うまでもないことだが、活字本になっているからといって、それが内容の保証にはならない

ネット上の文章であろうと、活字になった文章であろうと、優れたものは優れたものだし、クズはクズだ。
活字の本など、金とその気さえあれば、誰にでも作れるものだからである。

では、本書はどうなのかと言えば、端的に言って「凡庸」である。

つまり、間違ったことは書かれていないが、特に変わったことも、深いことも書かれてはおらず、ネット上にいくらでも転がっているような、いささか自己陶酔的な、いかにも素人らしい文章だと言えよう。

これは自費出版してまで自分の本を出したいという人にはよくあることで、特に悪いことではない。
だが、あまり格好の良いことでもない。

ネット上でだったら、ただのありふれた文章でも、本になれば何やらありがたく見えるのではないかと、そんな期待の込められたものであることは、まず間違いないからである。

だが、金ピカの衣を着ている王様が、だから中身まで立派だとは限らないというのは、分かりきった話である。

だがまた、金ピカの衣を本気でありがたがる、「見る目」のない、権威主義的「大衆」が多いというのも事実なのだから、そうした層を騙してでもチヤホヤされたいと思うのであれば、ネットに文章を載せるよりは、衣に金をかける方が良いに決まっていよう。「馬子にも衣装」という言葉があるではないか。

したがって、自費出版してまで、活字本の体裁を採るには採るなりのメリットがあるし、自費出版をする人の多くは、それがわかっているからこそ、わざわざ金をかけて、本にするのである。

そんなわけで、本書も、そうした自費出版の例に漏れない一冊だと言える。

何かを語りたい訴えたいから書かれたというのは無論のこと、書き手として、作家として「評価されたい」という隠された欲望、つまり「承認欲求」が、こう言ってはなんだが、だだ漏れの本なのだ。

無論、著者は自分が世間から「承認されたい」とは、ひと言も書いておらず、むしろその逆であるかのように書いているが、これこそが「承認欲求の強い人」にありがちなこと(韜晦)なのだ。

例えば、今年、私に論争を挑んできた「歩く水のような人の形をしたもの」氏。
私との論争用に、わざわざ別ハンドルネーム「スロウ・ボート」を作って使い分けていた、「歩く水のような人の形をしたもの」という人がいる。

この人も、「note」を始めた当初は「自分は謙虚です」というのを、自己紹介として、これ見よがしにアピールしていた。



(1)『特別なものは何も持ってはいません。特別な知識、特別な経験、特別な見識、特別な感受性、他の人と比べて特段秀でている何かがあるとは思いません。ただ、いくらかの平凡な人生という日常と非日常を過ごしてきました。文章を書く特別な才能が自分があるとは思ってはいません。私はただ「いろいろ思ったり、考えること」が好きなのです。』

ところが、私に論争を挑む頃には、次のように、「自己顕示欲」丸出しの文章を書くようになっていた。

(2)『わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!』

にわかには同一人物だと信じがたいほどなのだが、どちらか「歩く水のような人の形をしたもの」氏の「素」であるかは、言うまでもなかろう。本気で、

『特別なものは何も持ってはいません。特別な知識、特別な経験、特別な見識、特別な感受性、他の人と比べて特段秀でている何かがあるとは思いません。ただ、いくらかの平凡な人生という日常と非日常を過ごしてきました。文章を書く特別な才能が自分があるとは思ってはいません。私はただ「いろいろ思ったり、考えること」が好きなのです。』

なんて思っていた人が、(2)のような「厨二病」丸出しの文章など書けるわけもないし、それを人前に出すことなど恥ずかしすぎて、頼まれても出来る相談ではないはずだからだ。

また、そもそも「歩く水のような人の形をしたもの」という、凝りに凝ったハンドルネーム自体が、大阪人の私からすれば「ええかっこしい(気取り屋)」丸出しなのである。

だが、こうした「金ピカ趣味」は、何も「歩く水のような人の形をしたもの」氏に限った話ではない。

同氏は、凝ったハンドルネームや、そのペダントリー(衒学=知識のひけらかし)で、読者をケムに巻いて、自分を大きく見せようとする人だったのだが、本書『孤独について』の著者の小林えみは、それを「活字本」という「体裁の権威」でやっているだけなのである。

まあ、この程度の「承認欲求」の発露は、何も特別なことではなく、ごくありふれたことなのだから、批判するようなことでは、まったくない。

ただ、こうした「ハッタリ」を真に受けて、ありがたがってしまい、過大評価してしまう「読めない人」も少なくないから、このようにわざわざ指摘しているのである。

「人を見かけだけで判断してはいけませんよ」と子供に物を教えるような、こうしたお節介も、詐欺がまかり通る今のご時世では、やはり必要なものなのだ。

ともあれそんなわけで、本書『孤独について』の「中身」は、極めて「凡庸」である。
金を払ってまで、読むような本ではない

しかし、上のような、評価を下すからには、その根拠を示して「説明責任」は果たしておこう
でないと、フェミニストに対する単なる悪口だということに、されかねないからだ。

 ○ ○ ○

本書『孤独について』に書かれているのは、極めて「当たり前の話」でしかない。
では、いったい何を書いているのか?

「孤独は重要である」

一一これだけである。

こんな分かりきった内容のものを、わざわざ自費出版するというのは、よほど他に書くことがないのか、これ以上のことが書けないということなのであろう。その自己証明にしかなっていない。

・孤独は大切である。
無論、巨悪に立ち向かう際には、連帯も必要だ。
ただし、連帯は馴れ合いであってはならない。

といった具合にセルフフォローを加えたとしても、どこまでも「凡庸」な意見でしかない。「当たり前の話」でしかないのだ。

では、子供の頃から「本の虫」だったと自称し、事実そのとおりだったのであろう小林えみが、どうしてこのような「立派な屋根の上に、安っぽいボロ屋根を架す」ようなことをするのかと言えば、それは、そのことで、自身が「巨人の肩」に乗ったような気分が味わえ、かつ「読めない読者」からは「巨人の言葉」だと、そう勘違いされる可能性に期待しているからであろう。

そうでなければ、ネット社会となり「承認欲求の肥大」が問題になってひさしい今の世において、いまさら「孤独は大事」などという「分かりきったこと」を書こうとは思わないだろうからだ。

つまり、「私は、そういうどこにでもいる人たちとは違いますからね」と、そう言いたいからこそ、わざわざこういう文章を書いて自費出版までする。
一一だがそれは、逆に小林えみの「承認欲求の強さの証明」にしかなっていないのだ。

ことさらに「私は欲ぶかい人間ではありません」などと公言するような人は、まず間違いなく「欲ぶかい人間」なのだ。

そうした現実を認めたくないし、人からもそう見られたくないからこそ、ことさらに「私は無欲な人間です」とアピールする。

まさに小林えみは、件の「歩く水のような人の形をしたもの」氏の、眷族なのである。

実際、私が小林えみの名前を知り、どんな人なのだろうと興味を持って、本書を読むことになったきっかけも、私が現在批判している「武蔵大学の教授」でフェミニストの北村紗衣が主導した、公開質問状「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に、小林がその名を連ねていたからだし、それに止まらず、その他にも「フェミニズム」関連のこの手の運動に、小林は、常連的にその名を連ねている。

「この人、よく見かけるな。フェミニズムの運動家なんだろうな」とそう思い、その名と肩書きとして付されている「よはく舎」でネット検索したところ、「よはく舎」は、小林の個人出版社であるらしいことが判った。
「出版の関係でフェミニスト学者とつながりがあるから、賛同署名を求められたんだろうな」と、その事情が理解できたのである。

実際、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」は、北村紗衣が大学教員でありフェミニストであることから、賛同署名者の大半は、なんらかの形でフェミニズムに関わる大学教員であり、その次が「勁草書房」「みすず書房」といった学術書を刊行する出版社の編集者だった。編集者の名前の横には、大学名ではなく出版社名が添えられていたからである。
編集者の場合、ふつう本名では無名だから、説明的に会社名を付したのだろうが、そのことで、この賛同署名には「出版関係者」が、自社刊行物の著者または執筆者でもあろう「先生」に協力を求められて、それに応じたのだろうと察せられたのだ。

したがって、小林えみの名に添えられていた「よはく舎」も、小林の所属する出版社名だと推察したのだが、調べてみれば、小林の個人出版社だと判明したというわけである。

実際、本書を読んでみると、「オープンレター」の発起人のひとりであり、同じく、今年設立された「現代フェミニズム研究会の発起人でもある、専修大学教授である河野真太郎の名前が登場する。

『 「働く人たちがみんなしあわせになるための運動は、人間としてしなければいけないことだと思います。」と関心を持つようになるのは、30代も半ばになってからだ。
 それでもまだ、河野真太郎氏に『戦う姫、働く少女』という女性の働き方に関する本をお書き頂きながら、「地味なフェミニズムの棚では売れないから、文芸批評の棚に置かれるようになってほしい」と思っていた。』

(本書P32)

もちろん、前記の「現代フェミニズム研究会」には、北村紗衣も参加している。
「オープンレター」で大いにお世話になった河野真太郎なのだから、これは当然のことだろう。こういう「連帯」があってこその「運動」なのである。

だが、この「現代フェミニズム研究会」は、フェミニズムの「研究者」のために立ち上げられた会のはずなのだが、ここにも「小林えみ(よはく舎)」の名前が見られる
これは、フェミニズムの研究者である大学教員ではなくても、フェミニズムを研究している人なら、誰でも参加できる会だということなのだろうか?

ならば私は、小林えみよりもフェミニズムについて、突っ込んだ文章を書く自身があるから、この「現代フェミニズム研究会」に参加しても良いのだが、しかしこの研究会は、フェミニズム・イデオロギーにおける政治的立場を同じくする者しか入れないという「設立趣意書」を掲げているので、北村紗衣河野真太郎を名指しで批判している私は、決して入会させてはもらえないだろう。

私の場合は、小林えみと同様、アマチュアのフェミニズム研究者ではあるけれど、その「イデオロギー」に賛同していないから、入会は不可なのである。

ともあれ、小林えみは、このように人一倍「つながっている」人である。

実際、こうしたところに、しばしば顔を出しているからこそ、フェミニストたちから重宝され、アンチフェミからも目をつけられて、その界隈での「プチ有名人」にもなり得たというのは、間違いのない事実だ。

そもそも、そうした「コネ(クション)」が無ければ、街の書店の経営者の名や個人出版社社長の名前など、関係者以外は、誰も知らないはずである。
事実私は、現在の岩波書店の社長の名前も、新潮社や講談社の社長の名前も、ぜんぜん知らないのだけれど、普通はそんなものであるはずだ。

つまり、小林えみが、それなりに名を知られる存在になり得たのは、主としては「オープンレター」の署名者としてであり、フェミニズム界隈で、しばしば名前を見かける人物だからなのだ。

「小林えみ」という名前だけでは記憶に起こらないが、「(よはく舎)」と付いていれば、記憶にも残るからである。

そして、こんな小林えみの本を定価で買う人がいたとすれば、それは99%、フェミニズムのファン的読者であろう。
「オープンレター」に共感した、名もなきフェミニストたちが、あの「小林えみ(よはく舎)さんの書いた本だ」ということで、興味を持って買うくらいしかないはず。

当たり前の本読みだったら、ほかに読むべき本、読みたい本が山のようにあるから、フェミニズム界隈でちょっと有名な本屋さんの書いた本まで、読もうとは考えないからである。

もちろん、「オープンレター」「現代フェミニズム研究会」の発起人の大学教授などには、まず間違いなく「献本」しているだろう。

例えば、前述の、北村紗衣河野真太郎はもとより、清水晶子田中東子三木那由多隠岐さや香藤高和輝菊地夏野といった面々である。

で、こうした「コネ」が売りであり、それが無ければ無名に等しく、自費出版しても誰も買わない程度の「書き手」だからこそ、

「私は、コネで生きてる人間ではない!」

と、そうアピールしたくなるというのも、「人情」ではあろう。

そんなわけで、本書では「孤独は重要である」という一般論を語るだけではなく、「自分は孤独を生きている(馴れ合ってはいない)」と、著者の小林は、そうアピールしているのだ。それが主眼なのである。

本書に締めの言葉は、こうだ。

犀の角のようにただ独り進め。』(P103)

だが、それでも「戦争に反対するためには」「差別に反対するためには」、連帯も必要だと、さも不本意ででもあるかのようなエクスキュースを付けなければならないところが、小林えみの限界でもあれば、偽らざる現実でもあり、それが辛いところ(急所)なのでもあろう。

だからこそ、「私は本当は、孤独を大切にする人間なのだ。みんなで連れもって盛り上がること(運動など)に依存しているような、寂しい人間ではないんだ」などと、ことさらにアピールしなければならないのである。

そもそも、私の世代は無論、小林えみの世代だって、「一人(独り)立つ」ことのできない「他者依存」体質の、「群れて強気になる」ような類いの人間なんて、かなり恥ずかしいという感覚がある。

だから「あなたは、群れるのが好きですか?」と尋ねられて、「はい、そうです」と答えるような正直者は、滅多にいない。
群れて騒ぐのが常態だった、元ヤンキーや元暴走族だって、そのように尋ねられれば、

「いや、俺、本当のところは、独りの方が好きなんだよね。一匹狼と言うか、ローンウルフと言うか。
でも、なんだかいろいろ頼られちゃってさ、そうすると無碍にも出来ないだろ。だからまあ、仕方なく付き合ってやってるわけよ」

なんて言うはずだ。

「俺、寂しがり屋だし、一人では怖くて外も歩けないビビリだからさ、いつも群れてないと不安なんすよ」

なんて正直なやつは、100人に1人もいないだろう。1000人に1人くらいはいるかもしれないが。

まあ今どきの自称「繊細さん」の繊細アピールとして「同類よ集まれ!(傷を舐め合おうよ)」というのはあり得るが、小林えみは、その世代ではないから、

犀の角のようにただ独り進め。

なんて書いて、「ローンウルフ」ならぬ「ローンライノ(犀)」を気取ったりしてしまうのだ。

ともあれ、こうした私の評価が、ご本人の主張を無視した一方的な決めつけだというのであれは、是非ともご当人に反論していただきたいのだが、さて小林えみには、そんなことが出来るだろうか?

『ニコニコと上手いことばかり言って業界関係者の中で地位を形成し、それを頼みにまた権威をつくっていくような、そういう者は、虎に食われてしまえばよい。』(P49〜50)

これは、自分(小林えみ)は、『ニコニコと上手いことばかり言って業界関係者の中で地位を形成し、それを頼みにまた権威をつくっていくような、そういう者』ではない、というアピールだろう。
そうでなければ、他人のことを言う資格はない。

『彼女(※ エミリ・ディキンスン)は書きながらも、生前の名誉は遠ざけた。その後も、(※ 著名評論家だった)ヒギンスンとの文通は継続するなど、世間とのつながりを断ったわけではなく、断ったのは自分の生きているあいだの名声だ。
 その後の成功が約束されているならば、生きている間の孤独や不遇にも耐えられよう。しかし、それはわかるものではないし、死後の名誉を本人が体感することはできない。もし、自分の承認欲求を満たしたいのであれば、生きているあいだにうまく立ち回る方が良い。そうした選択を(※ 私、小林えみは)軽んじるつもりはない。どちらが良いかは、あくまで本人次第であり、ディキンスンは(※ 他者の評価に振り回されることなく)自分の詩を自分が完成して大切にすることを選んだ。(※ そんなディキンスンに、私・小林えみは共感を覚える)』

(P61。※ は引用者補足)

後半が少々、大勢に日和った場合の「予防線」っぽくはあるものの、これもまた、生前の名声を捨ててでも、自分の世界を守って独り歩んだ人、エミリ・ディキンスンの生き方を支持するという趣旨のものである。

つまり要は、ディキンスンに共感する私(小林えみ)は『ニコニコと上手いことばかり言って業界関係者の中で地位を形成し、それを頼みにまた権威をつくっていくような』ことはしないと、そういう趣旨の文章なのだ。

ならば、そんな小林えみにお尋ねしたいのだが、あなたはどうして、北村紗衣のような、フェミニストの風上にもおけない「嘘つきの卑怯者」を、批判しないのか?

もしかして、北村紗衣が「嘘つきの卑怯者」だということを、「知らない」と言い逃れなさるのだろうか?

「オープンレター」からでも、そこそこ長いつきあいのはずの北村紗衣について、その悪い評判を一度も聞いたことがない、とでもおっしゃるのだろうか?

それとも、北村紗衣への批判は、アンチフェミの根も葉もない誹謗中傷に決まっているから、読む気にもならないから知らない、とでもおっしゃるのだろうか?

それならば、ここでひとつ具体的な事例を示して、「小林えみさんご当人」にお尋ねしよう

一一いいでしょうか、小林さん

 ○ ○ ○

これは、私自身に関わる事例です。

北村紗衣と映画マニアの須藤にわか氏との「アメリカン・ニューシネマ」に関する論争記事を(双方)読んで、私は、須藤にわか氏の当該「note」記事に、次のようなコメントをしました。
(※ 下は、一連のコメントの最後の部分)

年間読書人
2024年8月25日 05:14

それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった素人が、「アメリカン・ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。
そして、そうした態度の根底にあるのは「差別的な上から目線」。だから、そこで「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。

今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。

すると、論争相手である須藤氏の「note」記事のコメント欄までチェックしていたのであろう北村紗衣は、いきなり、同じコメント欄に、次のように書いてきました。

北村紗衣
2024年8月27日09:36

須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様 になることが女性の権利向上と考えてい るフシがある」などと私が思ってもいな
いことを言って人格攻撃を行いました。 それが弁護できることだとでも思ってい るのでしょうか。フェミニズム観の違い
に逃げようとしても無駄です。 年間読書人さんの、私の本を切り刻むと
いうコメントは通報いたしました。

特別に「本読み」ではあらずとも、私が上で書いたのが「北村紗衣の本を買って読み、その内容を事細かに遠慮なく論評してやろうか」と、そういう趣旨の文章であることは明らかでしょう。

小林さんだって、私が「北村紗衣の著作を物理的に切り刻むぞ」と言っているわけではないことくらい、わかりますよね?

あのコメントは、中学生にでも意味の取れる文章なんですが、それなのに武蔵大学の教授である北村紗衣は、なぜ、あんな「誤解」をしたのでしょうか?

いや、本当に「誤解」をしたのでしょうか?

私はそうは思わないし、普通の人なら、そうは思わないでしょう。

つまり、北村紗衣は、自分に対して批判的な私を黙らせたいがために、「故意に曲解」することで、私のことを「脅迫者」だと決めつけて「note」管理者に通報し、記事を削除させようとした
あるいは、そう脅しつけることで、私と須藤氏を黙らせようとしたと、そういうことなのではないでしょうか?

実際、北村紗衣からこの種の恫喝を受けた人は、一人や二人ではない。
だからこそ、北村紗衣には「名前を言ってはいけないあの人」という呼び名さえあった

実際このあと、須藤氏は、北村紗衣の要請に沿うかたちで、当該記事を書き換えてしまいました。
そのために、私のコメントは、旧記事ごと消えてしまったのでした(もっとも、ログだけは採ってありましたが)。

つまり北村紗衣は、私のコメントを「故意に曲解」することによって、誣告の「管理者通報」を行い、そのことで私を黙らせようとしたわけですが、一一小林さんは、こんな同志フェミニスト北村紗衣の行いを、フェミニズムの同志として「黙認」なさるのでしょうか?

それとも、直接自分には関係のない話だから、ノーコメントだとでもおっしゃるのでしょうか?

では、お尋ねしますが、倫理観の問題でなく、文章読解の問題として、私のコメントに対する、北村紗衣の「理解」は、正しかったとお考えでしょうか? それとも間違っていたとお考えでしょうか?

私は、北村紗衣に対し、それは明らかな「故意の曲解」であると反論し、教育者であり言論人でもある北村紗衣を、真っ向から批判したのですが、北村紗衣は、自分の方から「難癖」を付けて、仕掛けてきたくせに、私の反論には、1年以上が経過しても、未だウンともスンとも言ってこないのです。

これは、「言論人」として、あまりにも無責任な態度だとは、小林さんは、お思いにはならないのでしょうか?

それでも小林さんは、北村紗衣との「つきあい」を優先して、ノーコメントで逃げますか?

だとしたら、あなた(小林えみ)には、

『ニコニコと上手いことばかり言って業界関係者の中で地位を形成し、それを頼みにまた権威をつくっていくような、そういう者は、虎に食われてしまえばよい。』

などと書く「資格」などない、と私は思いますが、いかがでしょう?

エミリ・ディキンスンはもとより、沢村貞子坂口安吾三木清などなどを自著の中で引き合いして、その「理解者」ぶる資格なんてない、とも思うのですが、いかがでしょう?

こう問われても、やはりノーコメントでお逃げになりますか?

でも、その資格は、あなたにはありません。
なぜなら、あなたには「説明責任」があるからです。

あなた(小林えみ)は、キリスト教プロテスタントの神学者・深井智朗に対する「公開質問状」(オープンレター)を書き、「説明責任を果たすために応答せよ」と要求していましたよね?

以上、お答えいただきたく存じます。

と。

人に「自分の行いについての説明責任に果たせ」と要求なさる以上、あなたは、ご自身の参加した「オープンレター」「現代フェミニズム研究会」に対して寄せられた批判に対して、「個人」としての「説明責任」を、可能なかぎり果たしておられるのでしょうか?

それとも、自分の関わったことに対する批判は、すべて不当なものであり、説明の労を取る価値も必要もないものだとして、無視しておられるのでしょうか?

しかしだとしたら、深井智朗があなたの「説明要求」を無視しても、文句が言える立場ではないですよね。
だって、あなた自身が、私のこの「公開質問状」を無視なさるのなら、それは深井智朗のそれと、差別なき行いとなるからです。

当然、私のこの批判的な「公開質問状(オープンレター)」に対して応答して下さるのなら、どんな応答にも、私はお応えしましょう。なにしろ、私の方から仕掛けたことなのですから、これは当然のことです。

私は、北村紗衣のような「言行不一致」の嘘つきではありません
それに、私の場合、すでにあなたを論破しているという自信があって、これを書いているのです。

それでも、もしもあなたが応答してくださって、「オープンレター」についてはこう、北村紗衣についてはこうと、すでに説明済みだとおっしゃるのであれば、それらを見落としていた事実については謝罪した上で、その中身について、議論させていただきましょう。

しかし、失礼ながら、私の見たところ、あなた(小林えみ)は間違いなく、私のこの「公開質問状」から、お逃げになることでしょう。

変に私の相手なんかしたら、「お仲間」から叱られるかも知れませんものね。

当然ご承知のことでしょうが、北村紗衣「オープンレター」に関わるログを次々と削除して、証拠隠滅を図っています
自身の過去の発言が、不穏当なものだったことを認めているからで、しかし、それについても謝罪する気はないから、証拠隠滅をする。

だから、「オープンレター仲間」のあなたにもきっと、「オープンレター」については一切触れてくれるなという「口封じ」がなされていると、私はそう見ています。

だからあなたは、自身の一存で、私に応答することはできない。
そんなことをしたら「仲間はずれにされる」からです。

つまり私は、あなた(小林えみ)のことを「その程度の人間」だと見ておりますし、この「公開質問状」への応答が無ければ、「やっぱりな」と思うだけです。
この文章の読者も、きっとそう思うに違いありません。

無論、応答を強制することは出来ませんが、私はただ、深井智朗に応答を要求するあなたなら、当然、ご自身の関わられた(名を連ねた)ことに関しては、説明責任なり応答責任なりはあるはずだからと、その応答・説明責任を問うている。

だから、私のこの「公開質問状(オープンレター)」に応答できないのであれば、あなた(小林えみ)に「言論人」の真似事をする資格は無いと思いますので、できれば今後は、恥を知って、筆を折っていただければと思いますし、

『ニコニコと上手いことばかり言って業界関係者の中で地位を形成し、それを頼みにまた権威をつくっていくような、そういう者は、虎に食われてしまえばよい。』

なんてことを、他人事のように、書いたり言ったりなさるのは止め、身の程を知って、本業に邁進していただきたいと思います。

どんな運動であれ、別にあなたが連名しなくも、たぶん誰も困らないでしょう。
出版の便宜を図ってくれないのは困ると、そういう人はいるかも知れませんが。

以上、北村紗衣とは違い、少しでも言論人としての矜持をお持ちなのであれば、是非、この公開質問状に、お応えいただきたく存じます

(2025年11月29日)

………………………………………………………………………………………

【補記】 小林えみは、女性中心のフェミニズム「運動」から距離を置きたくなったようだ。

(2025.12.01)

昨日、上の『孤独について』のレビューをアップした後に、小林えみが下のような「note」記事をアップしていたことに気づいた。

もちろん、問題はその内容で、要は上のタイトルのように、どうやら小林えみは、女性中心のフェミニズム運動から距離を置きたくなっているようなのだ。

その理由として、自分は昔から『女性の集まりは苦手』だったからだ、と言う。

しかし、これまでその事実を口にしなかったのは、フェミニズム運動がせっかく盛り上がりを見せていた時期だったので、無理を押してでも、黙って参加したのだと、おおよそそういう説明である。

ひとまず、下に引用した部分を読んでいただきたい。

私は女性の集まりが苦手だ。
もう少しすすめていえば、女性が苦手だ。
※ここで二元論的に「じゃあ男性が得意なのか」ということではなく、人間と接する中でその属性を前提として集まる/またその前提条件の部分が苦手だ、ということだ。人全般と接することが得意ではない(じゃあ、人以外ならで言えば、猫は得意で好きだが、向こうから好かれているかは怪しい)。

何度でも繰り返すが、連帯は必要だ。私は立ち上がる女性やマイノリティを尊敬しており、時には集いに参加もする。そして、そうしたことに声をかけてくれる人たちにとても感謝している。
ただ、個人的には、子どものころの女の子の集まりは居心地が悪かったし、その意地悪は陰湿なことも多かった。
だから、なるべくであれば、そっとひとりでありたい。
これを見て、フェミニズムに異を唱えたい人たちに「ほらご覧、フェミニズムが内輪もめしている」「嫌われている」という筋違いな意見は立ててほしくない。そうではない。
反対に「今まで黙っていたならそのまま黙っていればよいのに」とフェミニストたちに思われることもあるだろうと思う。それは申し訳ないなと思うし、水を差したくはない。
ただ一方で「集えない私たち(女性、マイノリティ)」もまた、いると思うのだ。運動が盛り上がっているときに、あえて意見を表面すれば、それこそ冷笑的にも見えただろう。
いま、これからまた先のフェミニズムの局面を迎えるにあたって、さまざまな反省も必要であろうし、また「集えない私」に苦しむ人もいるだろうことから、「それでもいいんだよ」と後進に伝え残すなら、今だと考えた。

賛同できることと、集えることは、また別だ。
シスターフッド、という言葉は甘美だが、そこには若干のメンバーシップが含まれる。
シンパシー:共感からエンパシー:想像・理解へ。
思いを同じにすることがあっても、その先にどうするのか、という距離感はもっとバリエーションがあってもいい。

無論、注目すべきは次の部分である。

『これを見て、フェミニズムに異を唱えたい人たちに「ほらご覧、フェミニズムが内輪もめしている」「嫌われている」という筋違いな意見は立ててほしくない。そうではない。
反対に「今まで黙っていたならそのまま黙っていればよいのに」とフェミニストたちに思われることもあるだろうと思う。それは申し訳ないなと思うし、水を差したくはない。』

このように、ご当人は、

『筋違いな意見は立ててほしくない。そうではない。』

と否定しているが、はたして「筋違い」なのだろうか?

なにしろ、当事者の供述だから、鵜呑みにはできない。そりゃあ「あなたの批判は、当たってます」とは言えないに決まっている。

ただ、その後の、

『「集えない私」に苦しむ人もいるだろうことから、「それでもいいんだよ」と後進に伝え残すなら、今だと考えた。』

という言葉は、先輩ヅラで他人に助言するかたちで書かれてはいるが、これは実質的に、自身の今後の身の振り方の「予防線的前振り(伏線)」にしか見えない。

レビュー本文でも指摘したことだが、小林えみは、こういう他人の話に事寄せて、自己を正当化するのがお得意なようだ。

「嫌なら無理に参加しなくても良い」と言うのなら、同様に「運動のためと言って、嫌な事があっても、無理に黙っている必要はない。嫌なことは嫌だと、はっきり意見表明して、議論したらいい」とは、言えないのだろうか?

『子どものころの女の子の集まりは居心地が悪かったし、その意地悪は陰湿なことも多かった。』

とのことだが、問題は今現在の方だ。

つまり「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」や、今年参加したばかりの「現代フェミニズム研究会」などの、自身の連名した、いわゆる「オープンレターズ」の一連の活動は、どうなのか?

こんな記事を書きたくなるのは、それ相応のことがあったからなのであろう。

ならば、それを書いて問題提起することは出来ないのか?

フェミニズム運動業界内に蔓延る、陰湿なあれこれについて、「#MeToo」(私も!)と他人の尻馬に乗るばかりではなく、まずは自分が勇気を振り絞って、声をあげるべきではないのか?

それとも、仲間がたくさんいないと、声をあげられないのか?

やっぱり、なんらかの「口封じ」があるのではないのか?

縁のない男性のことは告発できても、顔見知りの女性や、フェミニストの行いについては、怖くて無難にだんまりを決め込むのか?

それとも、もうそれなりの知名度を得て、単独で深井智朗を告発しても、それを記事にしてもらえるような「立場」を得たから、ウザい女性の少なくないフェミニズム運動から距離を置きたいと、そういうことではないのか?

他人への助言をする前に、自分のことをハッキリさせるべきではないのか?

一一以上の質問にもお答えいただきたい。
言論人としての、小林えみ様。

(2025.12.01)



 ○ ○ ○


 ○ ○ ○
























































 ○ ○ ○

(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


 ● ● ●

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○



 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集