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女性が苦手な女性でもいい/孤独について〔補2〕/府中ハケ下雑記/小林えみ

先日、男性学の本について記した。

性は男女の二元ではなく、スペクトラム(幅広い範囲)であるということは、科学的に前提とされてきている。
参考:『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』(NHK出版、2022年)
しかし、人間のジェンダーについて長らく男女二元論で社会が営まれており、現在はゆるやかに移行期にあるものの、強いバックラッシュ・差別も現存しており、特に生きづらさを抱えている当事者のことを考えると、早く社会でも「性スペクトラム」が前提となってほしい、と思う。そこから各種制度も設計は可能だ。

日本で女性が参政権を獲得したのは、1945年12月、衆議院議員選挙法改正によるもので、太平洋戦争後の話であり、まだ100年もたっていない。いま、私たちに選挙権があることに「それだと制度上問題がある」と発言することは一般的には難しいだろう。しかし、それがない時代には「女性に参政権を認める」ことに難色を示せたし、「それは問題がある」と公言できてしまっていた。
性スペクトラムのなかで、さまざまなマイノリティが被っている不利益を解消することに、今、ネガティブな発言がなされることがあるが、人びとが公平に幸福を享受できることは、後の世から見れば問題なく、不思議にしか見えないだろう。
日本国憲法第13条 幸福追求権「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」を私は愛している。
あなたも、私も、個人として尊重される。
その幸福の追求は権利だ。

とはいえ、世界をみれば、まだまだ男女二元論の段階での女性差別に苦しむ人々は多く、また日本でも十分にその差別が解消されたとは言い難い。
だからこそ、2017年に盛り上がったMeToo運動に私も心から賛同したし、それに連帯できることを感謝した。
そして、まだ苦しみの多い性的マイノリティの差別解消には心を寄せているし、男性というマジョリティの中にある苦しみも解消を願っている(加害やその加担には、さまざまなレベルでの反省は求められるにせよ。そして前稿で書いたようにそれは無限適用されるべきではないとも思いつつ)。

まだやらねばならないことはあるし、その上で、弱い立場の連帯は必要だ。

ただ、MeToo運動の盛り上がりから一定の年数がたち、少しだけ、あまり公けにはしていなかった私見を公開しておきたいと考えた。

私は女性の集まりが苦手だ。
もう少しすすめていえば、女性が苦手だ。
※ここで二元論的に「じゃあ男性が得意なのか」ということではなく、人間と接する中でその属性を前提として集まる/またその前提条件の部分が苦手だ、ということだ。人全般と接することが得意ではない(じゃあ、人以外ならで言えば、猫は得意で好きだが、向こうから好かれているかは怪しい)。

何度でも繰り返すが、連帯は必要だ。私は立ち上がる女性やマイノリティを尊敬しており、時には集いに参加もする。そして、そうしたことに声をかけてくれる人たちにとても感謝している。
ただ、個人的には、子どものころの女の子の集まりは居心地が悪かったし、その意地悪は陰湿なことも多かった。
だから、なるべくであれば、そっとひとりでありたい。
これを見て、フェミニズムに異を唱えたい人たちに「ほらご覧、フェミニズムが内輪もめしている」「嫌われている」という筋違いな意見は立ててほしくない。そうではない。
反対に「今まで黙っていたならそのまま黙っていればよいのに」とフェミニストたちに思われることもあるだろうと思う。それは申し訳ないなと思うし、水を差したくはない。
ただ一方で「集えない私たち(女性、マイノリティ)」もまた、いると思うのだ。運動が盛り上がっているときに、あえて意見を表面すれば、それこそ冷笑的にも見えただろう。
いま、これからまた先のフェミニズムの局面を迎えるにあたって、さまざまな反省も必要であろうし、また「集えない私」に苦しむ人もいるだろうことから、「それでもいいんだよ」と後進に伝え残すなら、今だと考えた。

賛同できることと、集えることは、また別だ。
シスターフッド、という言葉は甘美だが、そこには若干のメンバーシップが含まれる。
シンパシー:共感からエンパシー:想像・理解へ。
思いを同じにすることがあっても、その先にどうするのか、という距離感はもっとバリエーションがあってもいい。

母娘関係の諸問題について、信田さよ子さんの『共依存』『さよなら、お母さん』など臨床の現場から、田房永子さんの『母がしんどい』の当事者コミックエッセイなど様々な書籍が刊行されたのも近年の例だ。

「女性」という属性で人が集まったとき、それは当然どの人間の集まりであっても同じように聖人だけが集まっているわけではなく、それぞれ負の感情や特性をもっており、また属性によって社会的にこうむってきた諸事により他者への関係をうまくできない場合もあるだろう。濁した言い方をしたが、先述した女の子同士の集まりでの意地悪などだ。
しかし、だからといって「女性は意地悪だ」という属性への還元をするつもりはないし、そういうことではない。細かく分析すればある属性の当事者を集めたときに、その属性が被ってきた状況などを踏まえて起こりやすいこと、などは明らかにすることはできるだろうが、それは社会的属性と(脳器官など)器質を紐づけ、導かれる性質ではない。

私達は、集まらなくても良い。
だから、集まらないことの方に、理由をつけなくてもいい。
女性だから集まる、というときに「私は少し違う」と思ったら、それはなぜだろう、を静かに、ひとりで考えていい。後ろめたくなってまず反論をはじめてしまうと、かえって最初の「少し違う」ともまた違う立ち位置へ、急激にあなたを連れて行ってしまうこともある。
また、あなたはそのときたまたま体調がよくないのかもしれない。
私のように、人と集うことが少し苦手なだけで、集まりそのものは反対ではないかもしれない。
そこに、苦しまないでほしい。
そのために私は「私は女性の集まりが苦手だ。」と表明する。

映画『女性の休日』は、アイスランドの女性たちが1975年10月24日、仕事や家事、育児を一切放棄したストライキを描く。女性の人口の9割が参加したとのこと、9割が参加できたというのはとても素晴らしいことだ。またそうしたことは起こりうるかもしれないし、それはすごいことだけれど、おそらく、より多様化した社会で、ある属性の9割を集めることは相当困難になるだろう。私のこの言が意味するところも含めて。
だから集まることの意義を否定するつもりではなく、集まりにくくなる社会だからこそ、人数の多寡ではないところでその重要さや意味は現れてくるだろう。

女性が女性の集まりが苦手だ、ということは、おそらくさまざまな経験や気持ち、また分析が集まることだと思う。
またそれは追って追及していきたい。
そうした反省からはじまることもまた、女性が、さまざまな人たちが、それぞれらしく幸福追求をしていくこと、フェミニズムを一歩進めていくことにつながるだろう。


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