竹内洋 『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』 : 宗教原理主義化した「フェミニズム」
書評:竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書・2003年)
本書は、2003年に刊行されて、かなり評判になった本だったと記憶する。私がいま手にしている古本も、初刷から1ヶ月余りで増刷された「第3刷」だ。
私は本書を、刊行当時には読まなかったが、同じ著者の『メディアと知識人 清水幾太郎の覇権と忘却』(2012年)は読んでいる。たぶん、この頃、キリスト教関係で「進歩的知識人」というものに興味を持ったからではないかと、かなり朧げな記憶があるのだが、記憶違いかもしれない。ともあれ、今回『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(以下『教養主義の没落』と略記)を読んだこととは、直接の関係はない。
ただ、昨年のベストセラー書である、三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)の「参考文献」に、本書が挙がっているのを見て、「ああ、こんな本があったな」と、記憶が蘇ったということはあった。
そんな私が、前記の三宅書を読んでからでも、おおかた1年にもなろうかという今になって、思い出したように本書を読んだ理由とは、ここ半年ほど批判している、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣その人は無論のこと、その周辺のフェミニストである大学教授たちに、軒並み「教養が無い」と、そう感じたからである。
無論、彼らはいずれも、私より10〜20歳も年下だから、そのぶん教養が無いのは仕方がない。そのぶんだけ本が読めていないのは仕方がない、ということである。
書物が「教養」資源のすべてではない、としてもだ。
しかし、ひと昔前なら、「大学教授」ともなれば、そら恐ろしいほど本を読んでいたものだ。また、それが彼らの「仕事」でもあったのだから、ある意味では、それくらいであって当然でもあったのだ。
ところが、上に挙げた、北村紗衣、河野真太郎、田中東子といった、「いまどきのフェミニスト大学教授」というのは、その著書を読んでみると、「一般教養」の無さを、ひしひしと感じさせて、実に「薄っぺらい」。
たまに、外国の研究者の名前やその著書名を挙げ、専門家ぶって見せはするのだが、そこで紹介される本というのは、ごく近年、海外で話題になったような、ごく「手近な」ものでしかない。つまり、そのジャンルの研究者なら「読んでいて当然」といったレベルのものでしかないのだ。
しかも、そうした「海外の、今どきの権威」の威を借りて、それを知ったかぶりに利用しているだけ(援用とすら言い難い)で、引用者の方には、原著者のようなラディカルさなどはカケラもなく、いかにも日本人的な「教養の輸入業者」でしかないのだ。
『 わたしは、前著(『大学という病』)で、戦前の東京帝大経済学部の教授たちの抗争と軋轢を分析したが、そのとき、当事者である教授たちの学問的業績である論文についても、『経済学論集』や『経済学研究』などあたってみた。「リカアドオの貨幣理論と貨幣制度論」のような欧米の経済学者の学説研究か、「仏国の再保険官営業の顛末」といった。欧米の経済事情の紹介ないしは受け売りといってよいような論文が大半を占めている。日本経済についての実証的研究は少ない。中間階級の研究でさえ、しばしば、欧米の中間階級理論の紹介や実証的研究の紹介である。こうした学風の弊については、当時の官学教授でさえ次のように言っている。(以下略)』
(『教養主義の没落』P165〜166)
しかも、専門分野のことですらそんな調子だから、「それ以外」の教養なんてものは、あるはずもない。
彼(女)らの著書を読んでいると、昔の学者の著作には当たり前に感じられた「教養の厚み」といったものが、まったく感じられないのだ。
もちろん、その方が「通俗書」として「俗ウケ」はしやすいのだろうが、それにしても、それを狙って、故意に軽薄に書いているのではなく、「素の軽薄」だというのがわかるところが、読んでいてじつに辛い。
つまり、約めて言うと、このフェミニスト大学教授たちには、「一般教養」というものが、恥ずかしいほどに無いのである。
だから、北村紗衣などは、文学研究者である小谷野敦から、やんわりとながらも率直に、その「無教養」を指摘されたりしている。
『(※ 北村紗衣著『批評の教室』には)日本の作品(※ への例示的な言及)が少なすぎる。シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーってのは若い読者にはいいのかしれんが。なお(※ 志賀直哉の小説)「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。』
(北村紗衣『批評の教室』に対する、文学研究家・小谷野敦による、Amazonカスタマーレビューより)
ここで小谷野が言っているのは「若い先生だから仕方がないのかもしれないが、まともに日本文学など読んだことがないのが、見え見えなんだよね。当然、志賀直哉も読んでいないんだろう。まあ、好きな映画なんかをたくさん見て育ったから、専門に関わる英文学以外は、まともに本を読んでいないのだろうな」と、そういうことなのである。
そして、この北村紗衣理解は、完全に当たっている。それは、北村紗衣の他の著書を読めば、おのずとわかることなのだ。
しかし、ここで問題とすべきは、こうした「無教養」が、北村紗衣ただひとりの個人的なものではなく、上に挙げた河野真太郎や田中東子にも止まるものですらなく、私が読んだ範囲でではあるにせよ、「今どきのフェミニスト大学教員」全体に言えることだという点なのだ。
北村紗衣、あるいは河野真太郎、田中東子は、いずれも「オタク」出身、または現役のオタクだから、そちらの情報収集に忙しかったせいで、あまり「一般教養」を身につけないまま大学教員になったのかも知れない。
一一だが、この種の「無教養」は、何も「今どきのフェミニスト大学教員」だけに限られる話でもないのではないか。
たしかに、昨今の流行に乗り、文系学者としては例外的に目立っている「フェミニスト大学教員」だからこそ、わかりやすくその「無教養」ぶりまでもが、目についたのかもしれない。
だが、そうではなく、彼(女)らが、「今どきの無教養」者を、象徴的に体現しているのかも知れないと、そんな疑いも、あながち否定できないのである。
そこで私は、本書『教養主義の没落』を思い出した、というわけなのだ。
「そうか。もしかすると、教養主義没落後の世界だからこそ、今では大学教授ですら無教養になってしまった、ということなのかも知れない」と、そんなふうに考えたので、ひとまず本書で、大学教授である著者・竹内洋が何を書いていたのかを、確認してみることにしたのである。
それに、そもそも私は、本書を「参考文献」に挙げていた、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の内容が、「薄っぺらい」と批判していた。
所詮同書は、「自分は本好きだけれど、仕事が忙しいから本が読めないだけだ」と、そう自己弁護したい、世にごまんといる「三流読書家」の自己正当化に媚びた本でしかない。だからこそ、ベストセラーにもなったのである。

だからこそ、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を褒めた読者の99%までは、同書の元ネタである本書『教養主義の没落』その他の参考文献まで読もうとは考えなかったはずだ。つまり、「上澄みの結果」だけ得られれば、それで満足してしまう、その程度の「読書」しかしていない、ということだ。
また、そういう読者だからこそ、三宅香帆が巻末に挙げた「参考文献」の量や質に、単純に感心もできるのだろうが、まともな本を書こうと思えば、あのくらいは読んでいて当たり前なのである。
前述のとおり、三宅の主張とは所詮「俗情との結託」による読者ウケを狙ったものでしかない。その点で、参考資料の扱い方も恣意的でなものでしかないのだから、そんな著作は、無論「研究書」ではなく、単なる「通俗書」にすぎない、ということにもなるのである。
ともあれ、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を褒めた読者の多くは、「自分が欲しい結論」だけが欲しい人たちであって、「この結論は、果たして妥当なものなのか?(正しく演繹されたものなのか?)」などとは、決して考えない人たちなのだ。
だからこそ、何冊読んでも「一般教養」が身につかない。
欲しいものだけを「ピックアップ」していれば、「一般教養」が身につかないというのは、理の当然なのである。
しかしながら、こうした「安直な読書」が奈辺から出てきたものかと問えば、そこで即座に思い浮かぶのが、インターネット社会における「フィルターバブル」や「エコーチャンバー」「サイバーカスケイド」などの問題系であろう。
要は、インターネットによって、膨大な各種情報が容易に入手可能になると、かえって人々は、そうした膨大の情報の中から、自分好みのものばかりを手に入れることになって、情報の偏りが極端になる、というような事態である。
情報を入手するのが容易ではなかった昔のように、とにかく色んな情報をかき集めて、その中から取捨選択しようなどとは、しなくなったのだ。だからこそ、「知識のオタク化(モノトーン化)」とも呼ぶべき事態が、一般化してしまったのである。
「フィルターバブル」とは、「情報の傾向的限定のためのフィルターとなる泡の中に、ひきこもってしまった状態」のことであり、「エコーチェンバー」や「サイバーカスケイド」も、おおよそ、同様の「情報の偏り」状況を示した言葉なのだ。
したがって、北村紗衣、あるいは河野真太郎、田中東子といった「フェミニスト大学教授」というのは、もともと「オタク」的に「趣味的な偏り」があったところに、「インターネット」世代として育ったという環境要因が重なっているのだから、そりゃあ「無教養=職業的に求められる専門知識と、趣味のオタク的な知識しか持たない」ということになるのも、当然の結果なのだ。
決して彼らは、現代社会における「例外的な無教養者」なのではなく、「無教養時代を象徴する無教養な大学教授」だと、そう考えた方が適切なのである。
それに今は、そんな「無教養」で「薄っぺらい」大学教授やその手になる著作の方が、「無教養」で「薄っぺらい」一般読者ウケするといいうのも、当然の結果であろう。
「中身よりも売れることが重要」な高度消費資本主義経済(新自由主義経済)下にあるこの時代においては、こうした「薄っぺらい教授」の方が「商品」にもなりやすいから、北村紗衣を教授にした「武蔵大学」なども、北村のテレビ出演を広報したりなどして、少子化時代の学生集めに邁進いるのではないだろうか。
無論これは、つい先日のテレビニュースで名の挙がっていた「東京大学」だって同じことなのである。
かつての帝大的に、身分の保証されなくなってしまった今の東大教員が、利害関係業者から供応接待をうけたりするのと同様、そういう供応接待を受けられないジャンルの学者、例えばフェミニズム学者が、学問的な探究を傍に置いてでも「俗ウケ」を狙うというのは、食い扶持を稼ぐためには、ある程度は致し方のないことなのかもしれない。
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さて、ここまでは肝心の竹内洋著『教養主義の没落』の中身についてほとんど触れて来なかったが、いちおう簡単な紹介だけはしておこう。

本書に書かれているのは、かつての日本に蔓延った「教養主義」の歴史的経緯とその没落、である。
ここで肝心なのは、竹内が批判的に描いているのは、「教養主義」であって、「教養」そのものではない、という点だ。
『本書の対象は、教養そのものよりも、教養主義と教養主義者の有為転変のほうにある。近代日本社会を後景にしながら、教養主義(者)の軌跡を辿ることで、エリート学生文化のうつりゆく風景を描き、教養主義への鎮魂曲としたいのである。』(P26)
言うまでもないことだが、「教養」は、あるに越したことはない、のだ。
ただし、そこで問題となるのは、その「必要な教養とは、どういうものなのか?」という点なのである。
何となれば、ある意味では、「すべての情報」は「教養」となり得るものだからである。
学術的あるいは芸術的な情報の取得とその理解といったことは無論、野球選手の名前や成績などの知識だって「教養」であり、「映画のタイトルや映画作家の個性」や「電車の名前やその性能」といった情報を持っていることも、「教養」の内であるというのは、論を俟たない。
だが「人生は有限であり、したがってすべての情報を得ることはできない」から、どんな情報を優先的に取得すべきなのか、という問題が生ずる。
つまり、「教養」が必要だというのは共通認識ではあれど、「教養」として備えるべき「情報等」の「優先順位」が、自ずと問われてくるのである。
例えば、自称フェミニストである北村紗衣の場合だと、教養として、まず第一に必要なのは「家父長制社会におけるジェンダーバイアスの存在に対する認識」だ、ということになる。
現代社会に生きている以上「男が女を抑圧しているという事実についての認識を持っていなければならない」と、それを最優先のものとして訴える立場であり、そのためには「フェミニズム」的な知識が、是非とも必要なのだ、ということである。
そして、北村紗衣の場合、そうした「ジェンダーバイアス」の、次にしばしば語られるのが、「映画」の話ということになるから、その「価値観ギャップ」に、驚かされるのだ。
つまり北村紗衣の場合は、「口のきき方」などの「最低限の礼節」などは無論「間違えたら訂正する」とか「迷惑をかけたら謝罪する」などという「最低限の社会的倫理」すら、「映画の知識」よりも、優先順位が低いのである。
一一そしてこれが、あながち冗談ではないところに、北村紗衣の「トンデモぶり」があるのだ。


たしかに、「ジェンダーギャップ」に関する知識は重要だ。
だが、そうした「社会的な問題」を第一番に挙げるのであれば、その次のものとして「映画」の話を持ち出す前に、他にもっと重要な「社会問題ががあるだろう?」と、そう考えるのが、普通の人間だろう。
だが、北村紗衣とそのファンは、そうは考えない。なぜなら、それ以外には興味も無ければ、当然「知識(教養)も無い」からである。
北村紗衣が、最も重要な「教養」として「女性差別に関する知識」を挙げ、しかしその次に「映画」の知識をひけらかすという、そんな両者間に存在する極端な逕庭に対し、私が批判を差し向けるのは、その「ギャップ」に「隠されたご都合主義」を、見ないではいられないからである。
なぜ、そんな「不合理な飛躍」が認め得るのか、と。
例えば、真っ先に「女性差別」への問題意識を重要視する人が、次に「従軍慰安婦問題」だとか「在日朝鮮人差別問題」だとか、「部落差別問題(同和問題)」だとか「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」などを挙げたのなら、それはごく「自然なこと」だと感じられるだろう。そこには「問題意識の一貫性」が認められるためだ。
ところが、北村紗衣の場合は、「女性差別問題」の次に来るのが「映画の話」なのだから、その「趣味的にご都合主義的な飛躍的チョイス」に「おいおい、ちょっと待てよ」と言いたくなるのは、しごく当然のことではないだろうか。
また、北村紗衣周辺のフェミニストたちも、北村紗衣ほど極端ではなくても、似たような「ご都合主義的チョイス」を平気でおこなう。
それは「女性差別はいけない」の次に来るのが「人種差別はいけない」「階級差別はいけない」あるいは「トランスジェンダー差別はいけない」といった、主にアメリカのフェミニストによって練り上げられた「インターセクショナリティ(交差性)」を、そのまま日本に直輸入することはしても、「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別問題」「部落差別問題(同和問題)」「沖縄への米軍基地押し付け問題(沖縄差別)」といった「日本固有の問題」は、完全無視を決め込むという、そんな「ご都合主義的」選別なのだ。
こうした「えせフェミニスト」たちは、どうして「身近な差別」の問題を飛び越して、「アメリカ産の問題」に飛びつくのだろうか?
一一それは、彼(女)らの「反差別」の主張とは所詮、「フェミニズムの本」だけを読んで形成されたものにすぎないからである。
要は「学校でのお勉強」によって得られた「問題意識」でしかないから、「フェミニズムの本」、特にフェミニズムの本場であるアメリカやフランスの本に出てこないような「身近で日本的な問題」は、その「権威主義」において「二の次」にされてしまう。
「そんなこと流行らない」「そんなこと論じても、カッコよくない」と、所詮はその程度の問題意識なのだ。
「フェミニズム先進国であるアメリカ」の「フェミニズム本」に載っていることを、そのまま唱える(口真似する)ことで、自分たちも「世界の最先端問題を論じているのだ」とそう思い込んでいるのだか、そんなお易い勘違いしてしまうのは、それが「田舎の三流知識人」の性(さが)だからである。
では、どうして、こんなに薄っぺらい「受け売り」しか出来ないのかといえば、それは、これらの「大学フェミニスト」たちが、基本的に「無教養」だからなのだ。
大学でお勉強しただけの「フェミニズム」に、外国の研究者の成果を継ぎ足すだけで「食っていこうとしている」だけ。
他の「教養」をほとんど持たないから、「フェミニズム」を「相対化」することも、他分野の知見を接ぎ穂して、新たな展開を生み出すことも出来ない。
まただからこそ、唯一の手札である「フェミニズム」を、ひたすら「最重要だ!」とアピールするしかない。
そうしないと「食いっ逸れる」怖れがあるから、「我が仏は尊し」といった、「宗教的な独善主義」にも走ってしまうのである。
そして、その端的な例が、北村紗衣周辺の、元「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」参加メンバーたちが、最近立ち上げたという、フェミニズム研究のサークル「現代フェミニズム研究会」だ。
この「現代フェミニズム研究会」の設立「趣意書」には、次のような「トランスジェンダー差別」絶対反対の文言がある。
『3つ目の理由は、フェミニズムの名の下に行われる差別や暴力が無視できないものとなっている現実です。とくに問題視しているのは、2010年代の終わりごろから見られるようになった、「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。私たちは、そのような研究者らの言動を厳しく批判するとともに、そのようなフェミニズムとは異なるフェミニズムの研究を発展させ続ける場所が必要であると考えます。鍵を握るのは、インターセクショナリティ(交差性)の視点であり、また運動の在りかたです。社会の中で支配的な意志決定層の中ではマイノリティとなりやすいジェンダーとしての「女性」集団のなかには、多様な状況・属性・アイデンティティをもつ女性たちがいます。だからこそ、それぞれの女性が被る差別や抑圧の在りかたは、同じではありません。この現実から出発し、「一枚岩的な女性の経験」に訴えることなくフェミニズム(研究)を進めること、そしてそうした交差性の視点を欠くがゆえに差別や暴力に加担してきたフェミニズムの在りかたを批判し、乗り越えること。そのために、私たちは新たな研究会を立ち上げます。』
冒頭の「3つ目の理由」というのは、同サークルの設立理由の3つ目という意味である。つまり、この趣意書で語られている「設立理由」は「3つしかない」のだから、このサークルにとって「トランスジェンダー問題」における「打倒・差別主義フェミニスト」が、いかに重要なのかがご理解いただけよう。言うなればこの研究会は、自分たちが「差別主義フェミニスト」だと認定したフェミニストを、フェミニズム業界から孤立させ、排除するための、業界政治的な組織だとも言えるのである。
ともあれ、この「趣意書」において注目すべき問題点とは、「トランスジェンダー差別は、絶対的に間違っている」とするその根拠として、
『「一枚岩的な女性の経験」に訴えることなくフェミニズム(研究)を進めること、そしてそうした交差性の視点を欠くがゆえに差別や暴力に加担してきたフェミニズムの在りかたを批判し、乗り越えること。』
と書いているように、要は、一見「多様性」の重視を訴えていながら、結局は「意見を異にする立場のフェミニスト」については「差別者」だと決めつけることで、その排除撲滅を目指しているという、「矛盾」である。
言うまでもないことだが、「トランシジェンダー差別」に限らず、「あらゆる差別」は許されない。
したがって、「多様性」が必要だということも、論を俟たない。
しかしながら、この趣意書は「自分たちは多様性を尊重する」と言いつつ、トランスジェンダーへの差別に加担している(と自分たちが一方的に認定する)フェミニストたちの存在を「絶対に容認しない」と、ほとんど「統合失調」的なことを、平気で書いているのだ。
さらに「趣意書」の別のところでは、
『以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』
とも、書いている。
つまり、この「趣意書」に賛同する人だけしか「入会は認めないよ」ということなのだが、それを『ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』と結ぶのは、論理的整合性の面から言っても、いかがなものか。
端的に言って、この「趣意書」は、「入会条件」を厳しく制限するものであり、「我々の主張に共感し支持する者以外の入会は認めない」とする、きわめて「せまい」呼びかけでしかないのだから、それを「ひろく」呼びかけていると表現するのは、頭の悪い「論理矛盾」か、「欺瞞的に悪質なレトリック」でしかない。
こうした「趣意書の自己矛盾」について、与那覇潤は、先に紹介した記事の中で、
『この趣旨文の著者の知能の程度は相当に低いと断じてかまわない。』
と書いているが、私は、必ずしもそうとは断じ得ないと思う。
なぜなら、この「趣意書」の著者は、
「今どきのフェミニズムファンは、きわめて知的レベルが低いから、この程度のことを書いておけば、それでコロリと騙されるだろう」
と、そこまで考えて、こんないい加減なものを書いたという可能性だって、いちがいには否定はできないと、そう考えるからだ。
つまり、彼(女)ら(現代フェミニズム研究会員)の書く文章というのは、意図的に「知的レベルの低い層」を狙って、自覚的に、論理矛盾も気にせずに書かれている、きわめて今風の、ドナルド・トランプ的な「フェイク」である可能性だって否定できないからである。
なにしろこの設立「趣意書」は、同研究会の中で「これで良し」と承認されて出てきたものなのだから、これが意識して書かれたフェイク文書でないのなら、その会の呼びかけ人や賛同者は、みんな文章の読めない「バカ揃い」ということになってしまうからである。
だが、同研究会の中にも、人並みの知性を持ってる人だっているだろう。
なにしろ大半は、大学の教員なんだから一一と、私は斯様に、好意的に解釈しているのである。
実際、北村紗衣のようなつまらない学者の、つまらない本でも、それなりに売れるのは、そもそも活字の本をほとんど読まず、北村紗衣をネットアイドルのごとく崇めている「知的レベルの低いファン」が多いからに他ならない。
北村紗衣には「X(旧ツイッター)のフォロワーが5万人強」もいるのだが、私が常々指摘しているとおり、北村紗衣の著作に対し、名のある人による書評が書かれたり、無名の書評家による中身のある書評が書かれたりすることなど、絶えて無いのだ。
そもそも、5万とは言わないが、北村紗衣の著作が2万冊も売れていれば、もっと版を重ねているはずだし、Amazonのカスタマーレビューも、もっと書かれているはずなのだが、そういうものがさっぱり目につかないのは、やはり今風に「お布施」として、「本尊」の著書を買い、それを専用神棚に飾っているようなファンしかいないからなのではないだろうか。
ともあれ、北村紗衣をロールモデルとして、自分たちも、資本主義的な勝ち組に「リーン・イン」したい(成り上がりたい)と願っている蓋然性のきわめて高い「現代フェミニズム研究会」会員たる大学教員たちの狙う「客層」が、当然のこととして、北村紗衣ファンレベルなのであれば、そこへ投げ与えるべきものは「論理的な文章」である必要ないし、むしろ、なまじ論理的な文章など書けば、「お客様」たちはついて来れないと、そう考えるのも当然のことでしかないのだ。
したがって、もしかすると、「客層の知的レベル」への周到な配慮において、あの「でたらめで幼稚な趣意書」が書かれた、ということなのではないだろうか。
「趣意書」の書き手は、単に「頭が悪い」のではなく、そこまで周到に「陰険姑息なだけ」なのかもしれないと、私はそのように考えたい。
一一でないと、私の批判相手として、あまりもチンケで、「手応えのない小物」ということになってしまうからである。
私が批判相手として期待しているのは、ショッカーの「戦闘員(ザコ)」クラスではなく、せめて「怪人」か「幹部怪人」クラスなのだ。そうであってほしい。
まあ、メインで批判している北村紗衣自体が「ギー! ギー!」言ってる「戦闘員」クラスの能力しかないというのも事実なのだが、私が北村紗衣を相手にしているのは「いきがかり上の理由」があってのこと。何も好きで、あんなチンピラを相手にしているわけではないのだ。
「担当者」になってしまったからには仕方がないと、そう思って、指導担当者になってやっているだけなのである。
閑話休題。
竹内洋著『教養主義の没落』で確認できたことをまとめて言えば、(シオドア・スタージョンが「SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである」言ったとおりで)昔の人も、基本的には「9割が馬鹿」だったから、当時の知識人が「これがオススメ」だという本を、盲信的にありがたがって読み、それを読んでいる自分たちを「教養ある人間だ」と(北村紗衣ファンのごとく)勘違いしていた、といった事実である。
そして、重要なのは、彼ら「教養主義者」たちは、「教養」そのものが大切なのではなく、結局のところは、「教養ある私というステータス」つまり、今の言葉で言うと、「社会的な承認」が欲しかっただけだった、という事実なのだ。
当時の、公認された「教養書」さえ読んでいれば、周囲の人たちが「すごいですね」と感心してくれるから、それに自慢に鼻をひくつかせて読んでいただけで、時代が移って「浮かれた」高度経済成長期やバブル経済期になると、そういう「修養書的な(重い)教養」は、社会的に重視されなくなってしまう。
皆が「もっと実用的な知識」あるいは「もっと趣味的な知識」を求めるようになると、途端に、旧来の「教養主義」の没落、ということになったのだ。
一一と、おおよそこういう話なのである。
しかしながら、高度経済成長期やバブル経済期になると、かつて求められた「修養的な教養」ではなく、「実用的な知識」あるいは「趣味的な知識」が求められるようになったというのだから、実際のところ「教養主義」は、かたちを変えながらも、じつは今も存続している、ということになる。
ただ、求められる「教養」の中身が、昔に比べると「お手軽になった」ということに過ぎないのだ。

だから、いま現在だって「アニメの教養」もあれば「鉄(道)の教養」もあるだろう。
そして、そうした「趣味的な教養」のひとつに「フェミニズム的教養」もあって、それらはすべて「教養」であり、いずれも無いよりはあったほうが良いものではあるのだが、やはり問題は、その「優先順位」であり「事の軽重」だという話になってしまう。
しかしながら、それを「客観的」に順位づけするのは、不可能だ。
なぜなら、昔のような「絶対的な権威」はもはや存在せず、いまや、人それぞれの価値観や人生観の方が尊重される。例えば、「フェミニズム的知識」なんかよりも「鉄オタ的知識」の方がよほど重要で「人生を豊かにしてくれる」と、そう考える人も少なからずいて、それはそれで、十分に「一理」あるからである。
そんなわけで、「価値観の多様化」した現在、さらにそこへ「インターネット社会」における「フィルターバブル」や「エコーチャンバー」「サイバーカスケイド」などの条件まで重なって来ては、人々はますます、小さなグループへと分断されて、相互に話が通じなくなる。
「多様性が大事」だと叫んでいる一方で「この趣意書に異を唱えるような差別主義者は、絶対に認めないし、話(議論)もしたくない」とかいうような、凝り固まった(不寛容な)「原理主義的フェミニスト」なんかも現に生まれてきて、密かに「戦闘員」集めをし、組織の拡大による「業界覇権」を図っていたりするのだ。
斯様、まことに困った世の中なのだが、そこで私が訴えたいのが、一一「教養主義」的な「権威主義的教養」に凝り固まるのではなく、ひとまず「ひろく」教養を求めて、自分の中で「価値観の相対化」や「自己内対話(討論)」ができるようにしましょうよ、ということなのである。
オタク的に凝り固まって、そうした「せまい教養」しか持たないなら、その人はそれを捨てることはもとより、軌道修正することすらできなくなってしまう。
それを、一部でも捨てたら、「完全無欠だったはずの教義」が、その絶対性を失ってしまう。ましてや、その「教義」をぜんぶ捨ててしまったら、途端にその人は「空っぽ」になってしまうためだ。
だからこそ、いま手の中にある「ひと色の手札」にこだわってしまうのだが、これは「宗教」の場合と、まったく同じことなのだ。
「ここまで、この信仰に人生を賭けてきたからには、今更この信仰を捨てるわけにはいかない」と、そうなってしまう。
実のところ、心の中では「神様なんて、いないんじゃないの?」とか「あの聖者ぶった教祖様だって、セックスもすればウンコもタレる人間だろう」というような、妥当な疑いを抱いていたとしても、それでも、これまで信じてきた「信仰教義」を投げ捨てることは出来ない。
自分の考えを根本から改めるための勇気と、改めた先の基礎となる別の「教養」がまったく無いために、何がなんでも、今あるものにしがみついて、「神は実在する」とか「教祖様には性欲も食欲もない」などと、無理にでも、そう思い込もうとしてしまうのである。
そしてこれは、「フェミニズム」においても、まったく同じことなのだ。
「教養」が無いからこそ、今どきのフェミニストの言うことは「一色」であり、きわめて「せまい」。
それは、「多様性」とは、およそ真逆なものになってしまっているのだ。
昔よく言われた「民主主義」の「基本」原理であり、その「理想」を語る言葉としての、
『私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る。』
というヴェルテールのものとされる言葉は、いったい、どこへ行ってしまったんだろう?
今どきの「フェミニスト」には、およそこうした発想が無く、あるのは「われわれこそが唯一正しい。ゆえに、批判は許さないし、論敵との議論も必要ない」という「狂信的な独善主義」だけなのである。
いつから、「反差別」を口にする人たちは、こんなに「独善的」で「エリート主義的」な「差別主義者」になってしまったのだろうか?
そこで、私が言いたいのは、こうだ。
「意見が違うからこそ、議論しましょうよ」
一一これだけなのだ。
けれどもやはり、「教養」の無い人は、議論などしたくないだろうな。
なぜなら、教養が無いと、相手がどんな角度から批判してくるのか、それを予測することも、およそ「不可能」だからである。
敵は、「人間」ではなく、人間以外の「駆逐すべき何か」だと、「現代フェミニズム研究会」の中心メンバーは、そう思い込んでいるようなのだが、しかしこれこそが、ナチスドイツ的な「差別の原理」であり「排除の原理」であったことを、私たちは、今一度、思い出すべきなのではないだろうか。
(2025年5月12日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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