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上野千鶴子 『家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』 : 北村紗衣的リベラル・フェミニズムの欺瞞を撃て!

書評:上野千鶴子家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波現代文庫)

周知のとおり、上野千鶴子は日本を代表するフェミニストであり、フェミニズム理論家である。
本書(文庫版)の帯には『解放のための理論を提示した主著!』とあるが、なるほどまさにそのとおりの、これは驚くべき名著だ。

私は、フェミニスト北村紗衣武蔵大学教授)とのネット上での遭遇以来、北村紗衣を根本的に批判すべく、フェミニズム書を読んでいる。
北村の著作や内外のフェミニズム書は無論、北村紗衣周辺の「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」参加メンバーや「現代フェミニズム研究会」所属フェミニストの著作、「トランスジェンダー問題」や「キャンセルカルチャー問題」などの本まで読んできた。

そして、そのことで分かったのは、北村紗衣周辺の「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」参加メンバーや「現代フェミニズム研究会」所属フェミニストの著作が、「いかに低レベルか」ということである。

言い換えれば、それ以外の、あるいは「それ以前の」フェミニズム書を読まないかぎり、「フェミニズム」を、ひととおり理解することすら、不可能なのだ。

無論、「フェミニズム」には、それ相応の「歴史」もあれば「党派」的な違いがあるから、大掴みではあれ、それらのすべてを理解するというのは、門外漢には容易なことではないし、時間もかかる。
仮に「フェミニズム書」と呼ばれるものを「100冊」読んでも、その程度では、まったく不十分だろう。

私は以前、「宗教批判」の一環として「キリスト教批判」を行った際に、「聖書」の通読は無論、神学書や聖書学、教会史などの本を片っ端から読んだし、そうした自負もあって「あるジャンルを語ろうと思えば、最低200や300冊の関連書を読まなければならない」という「事実」を語りもした。実際、それに近いくらいは読んだし、またその何倍もの「キリスト教書」を購入したはずだ。
カトリック「カテキズム」『第二バチカン公会議公文書』まで読んでいたり、その一方でプロテスタント神学者カール・バルト『著作集』を全巻所蔵している非クリスチャンなど、ちょっとやそっとではいないはずだ。

だから、それに比べれば、未だ「フェミニズム書」を100冊も読んでいない私など、当然のことながら「フェミニズムの素人」なのだが、そんな私の目から見ても、日本の「今どきのフェミニストの著作」は、いかにも薄っぺらい

翻訳のフェミニズム書や、ひと昔まえの日本人フェミニストの著書は、それなりに教えられることも多ければ、その真摯な姿勢に敬服させられもするというのに、そうしたものを読んできたはずの「今どきの日本人フェミニスト」の著作は、カッコつけばかりで、あまりにも内容空疎なのだ。

だから今回は、すでに現役を引退している上野千鶴子の著作を読むことにした。今どきの「日本人フェミニストの本」には、いささか食傷気味だったからである。

無論、文学批評も行う上野千鶴子の名前だけは、小説読みとして昔から知っていたし、何冊かの対談本などは読んでいた。
だが、上野千鶴子の本領であるところの「フェミニズム」の理論的な著作は、まだ1冊も読んではいなかったから、「そろそろ読まなきゃな」と、そう思ったのである。

で、どうであったか?

前記のとおりで、まさに「主著」という呼び名に恥じない充実の内容で、これまで漠然としか理解できなかった、つまり、明確な説明もなく当たり前のように読まされてきた「家父長制」や「再生産」などのフェミニズム用語が、理論的検討に付されて明確に語られており、「目から鱗」の落ちる思いを何度もさせられたのだ。

言い換えれば、「今どきの日本人フェミニスト」の「スカスカなフェミニズム本」を100冊読んでも、本書1冊から得られるものには遠く及ばない、ということだ。

無論、本書を読むためには、「マルクス経済学」の「大筋」くらいは理解している必要がある。だから、そのあたりに完全に無知であった10年前の私なら、本書を読みこなすことはできなかったはずだが、今の私なら何とかついていくことくらいは出来たし、そのことで、これまで曖昧なものでしかなかった「フェミニズム」というものの輪郭が、くっきりしたものになったのである。

 ○ ○ ○

本書が、具体的にどういう内容の本なのか、まずはそれをタイトルから解き明かしていこう。

本書のタイトル『家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』とは、次のようなことを意味している。

(1)現代社会における、主として「女性差別」の問題を、「家父長制」「資本制」という2つの制度(システム)の「絡み合い」として分析した著作である。
「家父長制」という問題の捉え方はフェミニズムから出てきたものであり、「資本制」というのは、言うまでもなく、カール・マルクスがその「経済学」において解き明かした、社会システムのことだ。

(2)したがって、サブタイトルの意味は、上の二つの「社会の捉え方」を総合する立場が「マルクス主義フェミニズム」だ、という意味である。
「地平」というのは、それまでは、「マルクス主義」だけでも「フェミニズム」だけでも解き明かし得なかったもの、見通すことのできなかった「地平」を、「マルクス主義フェミニズム」は理論的に解き明かし指し示すであろう、というほどの意味だ。

本書の構成は、大きく分けて「理論編」と「分析編」の、2部構成である。
先に書かれて公表された「理論編」にあたる連載において書ききれなかった「個別的な現象分析」を後から書いた「分析編」で補い、両者を合わせて刊行したのが、1990年刊行の本書の同名の親本である。
そして、その「文庫版」たる本書には、当文庫版刊行の2009年に書かれた、著者による「自著改題」が付されている。

こうした内容のすべてを、ここで紹介することは不可能だから、本稿では、本書がいかに「今どきのファミニズム書」とは「次元の違うものなのか」という点について紹介したい。

したがって、現実社会の問題を論じた「分析編」ではなく、「理論編」の方を中心に紹介することになる。

「理論編」で語られているのは主に、上野千鶴子が提唱した「マルクス主義フェミニズム」が、どういうもので、それがそれまでの「ラディカル・フェミニズム」「マルクス主義経済学」とはどう違っており、その両者と、どう関係するのか、ということである。

勘違いされやすいところなのだが、少なくとも日本では、上野千鶴子以前に「マルクス主義フェミニズム」は、存在しなかったのだ。
「マルクス主義フェミニズム」は、日本では上野千鶴子が提唱したものなのである。

それまでのフェミニストたちは、「性差別を生む家父長制」の問題について、「マルクス主義は見逃してきた」と考えて「マルクス主義は、差別解消には役に立たない」と批判的に評価して、ろくに勉強しなかったし、一方のマルクス主義者の方は「マルクス主義は、この世界(資本制社会)の問題を包括的に解き明かした唯一無二の理論であり、マルクス主義の指し示す方向で社会の変革をなし得たならば、おのずとすべての差別の解消される」と、そのように考えていた。だから、当時、広範な影響力を持っていた「マルクス主義」は、フェミニストに対しても、「フェミニストたちよ、部分に捉われずに全体を見よ。マルクス主義経済学を正しく理解すれば、あなた方の誤解は解消されて、真に目指すべき道が明らかになるだろう」と、そんな感じ(上から目線)だったのてある。
そのため両者は、お互いに「分かっていないのは、そっちだ」ということで、相手の知見を認めてようとはせず「本当のことを分かっているのは、こっちだ」と、そんな関係だったのだ。

無論「マルクス主義者」の中にも「女性差別」の問題に取り組む人はいた。しかしそれは、上野千鶴子が言うところの「マルクス主義フェミニズム」の人ではなく、単に「女性差別問題にも取り組む(あるいは理解のある)マルクス主義」の人でしかない。
そして、こうした「マルクス主義者」には、「ラディカル・フェミニズム」が提示した「資本の外部としての家父長制」という問題の重要性が理解できなかった。なぜなら、「マルクス主義は完璧だ。マルクスに見落としなど無いから、よそからの補助概念の提供など不要である」と、そう思い込んでいたからである。

つまり、上野千鶴子の言う「マルクス主義フェミニズム」とは、マルクス主義者による「マルクス主義に還元された女性問題理解」のことではなく、「ラディカル・フェミニズム」が発見して提示した「資本の外部としての家父長制」を検討しなかった「マルクス主義の弱点」を認め、その上で「家父長制」の問題を「マルクス主義的な、資本の構造分析」の手法で、補おうとしたものなのである。

言い換えれば、「ラディカル・フェミニズム」だけでは「女性差別を生む、社会総体的としての分析が無い」から不十分であり、かと言って「マルクス主義経済学」による「資本」理解だけでも、その「外部」である「家庭における家父長制」の問題を取りこぼしていて不十分なので、両者の長所を組み合わせることで、新しい地平を切り開こうとしたのが、上野千鶴子が提唱した「マルクス主義フェミニズム」だということになる。

『 マルクス主義フェミニストが、マルクス主義を解放の理論としてまだ有効だと考える理由は、「マルクス主義とフェミニズムは、権力powerとその分配、すなわち不平等 inequality についての理論」[Mackinnon 1982:2]だからである。
 逆説的なことにマルクス主義フェミニズムは、マルクス主義に忠誠を誓うことによってではなく、性支配の分析にとってマルクス主義に限界があることを認めるところから出発する。』(P33)

したがって、「マルクス主義フェミニズム」なるものを提唱したからといって、上野千鶴子は「マルクス主義者」だということにはならない
そのように、読まずに勘違いする人も多いのだが、上野の立場は、あくまでも「学問としてのマルクス経済学」を、現実社会に対する「強力な分析ツール」として使おうと、そう言っているだけなのだ。
「イデオロギーとしてのマルクス主義」を受け入れろと言っているのではないのである。

「学問としてのマルクス経済学」は「優れた分析ツール」なのだから、フェミニストはこれを、イデオロギー的に嫌悪して拒絶無視すべきではないと説き、一方のマルクス主義者に向かっては、「学問としてのマルクス経済学」は「優れた分析ツール」ではあれ、所詮は「人間が考案したものでしかないのだがら、それが「無謬の真理」であるなどと、信仰的・護教的になるべきではないと説く。
それまで、資本の外部として十分な検討を成し得なかった「家庭の問題」ラディカル・フェミニストが提示した「家父長制」の問題に、真摯に取り組むことで、マルクス主義経済学の弱点を補い、修正していくべきである」としたものなのである。

こうした、上野千鶴子「マルクス主義フェミニズム」という観点は、やがて、マルクス主義経済学に欠けていた、今では常識となった重要な論点を闡明していくことになる。

次の言葉は、1990年の単行本刊行時の、「分析編」における「結び」の中のものである。

『 過去二〇年ばかりの間に、(※ ラディカル・フェミニズムから受け継いだものを発展させ、かつマルクス主義)経済学批判(※ 的検討)の中からマルクス主義フェミニズムは、「家事労働」「不払い労働」「家父長制」「再生産」のような、今日では女の問題にとって欠かすことのできない分析概念を、次々に作りだしてきた。それはその限りで、一定の説明能力と十分な理論的貢献度とを持っていた。』(P 354)

当然、上野のこうした両睨みの立場は、当初、「フェミニズム」と「マルクス主義」の双方から批判を受けることになる。だが上野は、それらに対し、真正面から堂々と応答している。
それが、本書における第一部「理論編」に付された「補論 批判に応えて」だ。

そこで上野は、こうした理論的な批判の多くは「マルクス主義」の側からであったと前置きして、主としてそちらへの応答反論をしている。
そのように偏ってしまった理由は、それまでのフェミニズムは(まして今なら尚更そうなのだが、フェミニストは)、そもそも「マルクス主義経済学」に無知であったから、上野の「マルクス主義フェミニズム」に対しも、理論的な批判ができなかったためである。

下は、「労農派マルクス主義者」を自称する川副詔三が、上野千鶴子「マルクス主義フェミニズム」という問題提起に対して、一書を物して批判した、その真摯な態度に敬意を表しつつ反論を加えた、その最後の部分である。

ここから、上野千鶴子という「論客」の情熱と凄みを感じてほしい。

『氏によればこの「科学的認識」とは「唯物論的世界観」のことであろう。氏は「上野氏、フェミニスト理論の最も根源的問題性」は、この「科学に対する冷笑的態度にある」「川副 1990:437]と言う。しかり。氏の指摘は正しい。
「科学的認識」の名のもとに、性差別的なイデオロギーを圧しつけてきたすべての理論を、私は何度でも「冷笑」する。私は「客観的実在」があるかないかを議論しているのではない。科学の名のもとに「客観的実在」に到達したと称するこれまでのすべての男仕立ての理論を、「冷笑」しているのである。氏の予測に反して、私はフェミニズムが客観的認識にもとづく実証主義だとは考えない。「客観的実在」なるものは、あるかもしれないし、ないかもしれない。あるとしてもその全貌には、誰もたどりつけないかもしれない。フェミニズムはただ「客観的実在」かもしれないものを、女の視点から見ればこのように見えるという見え方を提示したものであり、当然それには限界がある。フェミニズムは一種のイデオロギー、つまり利害や視点に制約された偏向した思想である。その「偏向」において、「しょせん女の思想」にすぎないフェミニズムは、これまでの認識のすべてに対して、「おまえはしょせん男の思想にすぎない」と、その「偏向」を指摘したのだ。そして「女の見え方」と「男の見え方」がこれほど食い違っている時に、それが同じ「客観的実在」だと、一体誰に言えるだろうか?
 私は前言を翻さない、視点の共有や複眼化は可能だと考える。それは「科学的認識」を主張する尊大な自己正当化よりは、フェミニズムをその一つとする多元的認識への謙虚な提案なのである。』(P 202〜203)

「それに比べて」と言ってはなんだが、「今どきのフェミニスト」たちは「マルクス主義」など「過去のもの」だと、「ソ連邦の崩壊」後の世間一般並みに、「マルクス経済学」をスルーおり、ほとんど無知も同然であろう。

無論その点では、私とて威張れる立場ではないのだけれど、それでも「今どきのフェミニスト」よりはマシだし、自身の無知に真摯に向き合っていると言ってもいいと思う。これは、私が立派だという話ではなく、「今どきのフェミニスト」が「不勉強すぎる」ということだ。

「今どきの日本人フェミニスト」というのは、総じて趣味的であり観念的だから、「金儲け」には興味があっても、この世界の「経済」システムの根幹をなす「資本主義」には、まったく無頓着なのだ。
この「世界」の現状の仕組みの中で「差別」の問題を考えるのではなく、セクト主義的な近視眼で、「女性差別」や「トランスジェンダー差別」といったものだけを取り出して、知ったかぶりで論じているだけなのである。

例えば、北村紗衣であればマルクスを読む以前に、好きな「映画」の鑑賞に忙しいだろうし、それは「オープンレター」仲間の、河野真太郎田中東子といった「オタク・フェミニスト」仲間も同じことだろう。
彼(女)らは、「今どき、マルクス主義など勉強しても一文にもならないけれど、元から好きな映画や漫画、アニメなどの知識の方が、よほど世間ウケする(商品になる)」と、そう考えているのである。

今の「オタク文化」なるものが、「資本主義」社会の中でどのように機能しているのか、などということは、当然、考えようとはしない。
ある「オタクグッズ」の背景には、どれだけの搾取や差別が存在しているのか、そんなことは一切考えないし、触れようともしない。

例えば、日本国内でさえ、アニメーターへの「やりがい搾取」があるのは有名な話なのだから、ましてやその商業的な展開の中に、いったい何が隠れされているだろうか。

無論、私だって「趣味人」であり「オタク」の端くれだから、そんなことを考えれば、暗い気分にもなるのだが、しかし、そうした自分に不都合なことに目を閉じたまま、どうしてこの世界の「理不尽」を、真摯に語ることなど出来ようか?

だが、そうした「理不尽」を、平気な顔をやっているのが、彼(女)らのような「第四波フェミニズム」のフェミニストたちなのだ。
まただからこそ、彼(女)らは「文化偏重主義」だと言われるのである。

そしてこうしたことも、上野千鶴子が遠の昔に考えていたことなのである。

『フェミニズムを、「イデオロギー闘争」や「文化革命」に還元するような言説が、このところ横行しているが、デルフィは果敢な「マテリアリスト」(※ 唯物論現実主義者)としてこの文化主義者 calturalist を敗北主義として非難する[Delphy 1984 chap.2, Main enemy 参照]。物質的基礎を持つ疎外からの解放は、ただ物質的条件の変革によってしか達成されないとする彼女の主張は、私自身の「文化主義」的偏向に反省を迫った。』(P86)

それでも、北村紗衣やその周辺の「今どきのフェミニストたち」は、そんな「文化主義的に偏向」した、所詮は「金儲け」のための「娯楽的フェミニズム読み物」を、反省もなければ良心の呵責もなく、当たり前のような顔で書いて販売するし、それが「女性差別を無くすためだ」などと、臆面もなく主張している。
一一だが、こんなものは、この世界の「理不尽」に対する「興味の無さ」に由来する、体の良い「嘘」でしかない。
彼らにとっての「フェミニズム」とは、所詮「商売道具」にすぎないのだ。

上野千鶴子の時代には「フェミニズム」を語ること「フェミニスト」を名乗ることは、社会的な「不利」なことだった
けれども、そう名乗ることが必要だったからこそ、当時のフェミニストは「フェミニスト」を名乗り、逆風に抗って、声高に「フェミニズム」を語ったのである。

『「フェミニズム」という用語すら販売戦略上不利な用語であることを承知している。だが、それでもわたし(たち)が「フェミニスト」の看板を下ろさないのは、「女の経験」を語るコトバの多くを、同じようにフェミニストを名のる先行の女性たちに負っていることを自覚しているからにほかならない。』(P425〜426)

したがって、「フェミニズムという用語が販売戦略上“有利”な用語であることを承知して」使い、フェミニストを名乗っている北村紗衣のやっている「今どきの日本のフェミニズム」とは、上野千鶴子を含めたそれまでのフェミニストが目指した「すべての女性」の解放などではなく、「男が悪い」と言い募ることで、「資本主義社会」の中で、自分たちだけが「地位」を得て、それに安住しようとすることでしかないのだ。

この点について上野千鶴子は、1990年時点で、次のように書いている。

『 ポスト均等法の家父長制的資本制は、第四期、女性労働を性に非関与なエリート女性労働者と、性に関与的な(※ 女性であることが、二流労働者扱いの理由とされてしまう)マスの女性労働者とに分解する段階に入っている。雇用機会均等法は、女性の間の競合をつよめることでいエリートとマスとの間の二極分解を促進した。女性の地位向上のための施策が、一部の女性にはプラスに、他の女性にはマイナスに働くという両義的な状況がすでにあらわれている。「性に非関与な労働市場の編成を」というフェミニズムの要求は、資本制によって一部積極的に推進されてさえいる。フェミニストの中には「資本制は女性解放の味方」と断言する人々さえ現れた。』(P381)

資本制ジェンダーに非関与な労働市場の再編成をしようとしている時、フェミニストの課題は次のようなものでなければならないー一資本による女性の競合と分断に抗して、女性の間にどんな「連帯」を打ちたてることができるのか?』(P388)

この中で、特に注目すべきは、次の部分であろう。

フェミニズムの要求は、資本制によって一部積極的に推進されてさえいる。フェミニストの中には「資本制は女性解放の味方」と断言する人々さえ現れた。

これは、私も繰り返し論じてきた「リーン・イン・フェミニズム」の問題そのままであり、北村紗衣が目指して半ば実現したセレブリティ・フェミニズム」の問題だ。

つまり、上野千鶴子の「フェミニズム」にあっては「自明の大前提」であったはずの「すべての女性の解放」が、いつの間にか、それを口実にした「一部エリート女性だけの解放」にすり替えられてしまっているのである。

しかしまた、これこそが、上野千鶴子が「反省」しなければならなかった「文化主義」に、無反省に安住して、心の痛むこともない、北村紗衣ら「第四波フェミニズム」の実態であり、フェミニズムにおける『敗北主義』なのだ。

つまり、北村紗衣ら、日本の「第四波フェミニスト」たちは、じつのところ、本音では「すべての女性の解放」など、毛ほども望んでなどいない
なぜなら、すべての人が「平等」に解放されてしまったら、自分たちは今のような「社会的エリート」ではいられなくなってしまうからである。

その昔、「共産革命」に成功して「平等」を実現したはずのソ連においてさえ、「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれた「赤い貴族」が実在したのだから、ましてや、経済格差を原理的に生み出す「資本主義」のままでの「平等」など、あり得ない「ペテン」でしかないのである。

私は以前、上野千鶴子が元「東京大学教授」であり、その一方「今どきのフェミニスト」である現・東大教授の清水晶子や、東大出身の北村紗衣などの例から、清水や北村は、上野千鶴子に学んだフェミニストなのではないかと疑ったことがある。
だか、上野は違うというのが、その時の私の結論であった。

だが、それにしても、本書を読んでみれば、上野千鶴子「マルクス主義フェミニズム」と、北村紗衣清水晶子(あるいは、河野真太郎田中東子三木那由他などの「オープンレター」グループとは)その系譜的な違いが、歴然としている。
仮に、北村紗衣や清水晶子が、上野千鶴子の講義を受けたことがあったとしても、北村らは、上野千鶴子の「フェミニズム」から、その肝心なところを何も継承していなかったというのは、いまや明らかなのだ、。

だから、1986年から88年までの3年間に『思想の科学』誌に連載された、本書の「理論編」にあたる部分で、上野千鶴子は、現在の「今どきのフェミニズム」を予言したかのごとく、下のように書いている。
この一点を取ってみても、上野の「フェミニズム」理解がいかに正しかったかがわかろうし、私の「北村紗衣とその周辺のフェミニスト批判」が、焦点を外したものではなかったかもわかろう。

少々長くなるが、上野の語るところを、そのまま引用する。

『 1・4 ブルジョア女性解放思想の陥穽

 私がフェミニズム理論の系譜の中に、なぜ近代主義的なブルジョア女性解放思想(※ リベラルなフェミニズム)を含めないか、について論じておこう。
 私がフェミニズムの理論的系譜に、社会主義婦人解放論、ラディカル・フェミニズムマルクス主義フェミニズムの「三つがあり、三つしかない」と書いたことに対して、水田珠技氏から、私が自由主義的な(※ =リベラルな)女性解放思想を過小評価しているとの批判を受けた。
 なるほど、社会主義婦人解放論が存在していた時代に、一方ではつねに婦人参政権運動のような「女権拡張運動」や廃娼運動のような「被害者救済運動」があったし、たしかに無視できない成果を納めてきた。むしろ、こちらの運動の方が、日本の社会では少数派の運動として孤立していった社会主義婦人解放論に比べて、はるかに大きな大衆的基盤を持っていた。こうした運動があるからこそ、私たちは、私たちの先輩が女性解放のために闘ってきた、と言いうる輝かしい歴史を持つことができる。
 近代の生み出した女性解放の思想は、「女性の権利 women's rights」の擁護から始まったが、それは何びとからも奪い得ない自然権としての「人権 human rights」の思想にもとづいていた。「女だって人間よ」という認識が女性解放の第一歩だとしたら、フェミニズムは近代のもたらした人権思想のうちにその根拠を持っていた。したがってそれは近代の生んだ「人間」という概念のうちに、その根拠も限界も同時に持っていたのである。
 だが「女性の権利」はたしかに解放の思想だが、はたして解放の理論だろうか? ブルジョア女性解放思想は「女性の権利」という「正義」が行なわれることを要求するけれども、この「正義」がなぜ達成されないかの社会的メカニズムについてのどんな解明もしない。近代社会で、なぜ女性が、必然的に「二流市民」になってしまうかという「抑圧の構造」を分析する理論装置を、ブルジョア女性解放思想(※ リベラル・フェミニズム)は持たない。
 ブルジョア女性解放思想は、原則的に「自由」と「平等」という「市民革命」の原理を共有している。だとしたら「人権」が「女権」にまで拡張されない「不正義」の原因は、(1)市民革命が「封建遺制」を払拭しない「不徹底な革命」であったか、それとも(2)市民革命の途中で「男による裏切り」が行なわれたか、のいずれかに帰せられる。前者の場合は「諸悪の根源」は前近代的な「封建遺制」であり、後者の場合は不合理な「反動」である。いずれの場合も、女性の解放は、(※ リベラルな)市民革命をより徹底しておしすすめることによって達成されると考えられている。
 だが、「封建制」と見なされている日本の「家」制度がその実、資本制の成立とともに誕生した近代的な制度であるという指摘[伊藤1982, 青木1983]のように、近代が公領域と私領域の両方をいっきょに析出したという見方が公認されてきている(※ この点は「分析編」で詳述される)現在、ほんらい性別を問わず女も男もともに「自由な市民」として解放するはずだった(※ リベラルな)市民革命が、なぜ男だけを解放し、女は解放しなかったかについて、構造的な解明がなされなければならない。「(※ リベラルな)市民革命」は「(※ マルクス主義的な)社会主義革命」同様、女にとっては「裏切られた革命」に終わった。一九二五年、日本で二五歳以上の成人男子のすべてに選挙権を与えた普通選挙法(普選法とはよく恥知らずにも名づけたものだ!)の施行を、「女に選挙権が拒否された日」として長く記憶にとどめたという市川房枝のような婦人参政権運動家(※ の社会主義フェミニスト)たちは、(※ リベラルな)市民革命が(※ 所詮は)女にとって「裏切られた革命」だということをよく知っていた。水田珠枝氏自身が、(※ 資本主義的な)ブルジョア自由思想が、ジャン=ジャック・ルソーのはじめから女性差別を構造的に組みこんでいたことを論証している[水田1979]。それは、ルソーが「不徹底な思想家」であったからだろうか? 否、「男の裏切り」には、それだけの必然的な(※ 構造的)理由があったはずなのである。それを解明しないでブルジョア自由主義の理想だけを共有することは(※ してしまうならば、あとは)、「正義」の実現を声高に叫ぶか、さもなくばすでに既得権をかくとくした人たちに「恩情」を乞うかのどちらかに堕してしまう(※ しかない。なぜならば理論という処方箋が、そこには無いからだ)。
 解放の理論を欠いた解放の思想は、啓蒙(※ 真理を知っている者が、知らない者に対して、一方的に教え諭して、その盲を開くこと)もしくは運動論に帰着するほかない。女性解放運動家にとっては、この世の中は、「性差別」という「社会的不公正」がはびこる野蛮な社会であり、この「不正義」を許しているのは、「男性の横暴」と「女性の蒙味」だということ(※ が、女性解放運動家にとっての、自明の真理ということ)になる。「すすんだ理想」と「おくれた現実」一一これが近代主義フェミニストがしばしば陥る(※ 教条的で独善的な)「フェミニスト進歩史観」である。そして「すすんだ理想」と「おくれた現実」のあいだを埋めるのは、「啓蒙」という名の、徒労に似た「シジフォスの労働」だけになる。
 フェミニスト啓蒙主義者にとって、問題になるのは人々のおくれた意識だけである。「おくれた意識」を変えるのは、啓家の力である。啓蒙と教育によっても変わらない頑迷固陋な人々に対しては、パワー・ポリティックス(※ 政治的な「力ずく」で)しかない一一つまり運動の力で政治の場において彼らを少数派に転落させることで(※ 発言権を奪い、黙らせるので)ある。
 啓蒙主義者にとって真理はつねに単純である。「男女平等」というこの単純な真理を受け容れることのできない(※ 当然のことだと理解できない)人々は、啓蒙主義者の眼には、まったくの「不可解」(※ 理解不能な劣等人種)と映る。この「度しがたい人々」は、真理の力で(※ 四の五の言わさず、問答無用で)救済する(※ しかなく、そうした)ことができなければ、(※ その次は)力の論理(※ 強制)で(※ その抵抗を)封じるほかはないー一この考え方は、強姦に反対するあまり、治安察国家を招きよせてしまいかねない女性運動の背理に通じている。フェミニスト啓蒙主義者の陥っているワナは、「男女平等」というこの「単純な真理」に、なぜこの社会が到達しないか、についての構造的な分析を欠いていることにある。その上で啓蒙家でありつづけるためには、疲れを知らない精神の持ち主である必要がある。
 女性解放のエネルギーが向かうもう一つの方向は、プラグマティックな被害者救済型の運動である。北米大陸の白人中産階級女性の(※ リベラルな)フェミニズムは、プラグマティックなボランティア活動の良き伝統を引いているが、彼女たちは、理論を語るまえに、夫に虐待された妻のための避難所や、未婚の母のためのクリニックをさっさと開設し、運営する。彼女たちは目前の活動に忙しくて、「理論なぞ必要ない」状況にある。
 この二十年、各地にそうした強姦救援センターやウィメンズ・クリニックができた。そしてそれは、フェミニストたちの精力的な活動のおかげで維持されている。しかしそこに次々に送りこまれてくる殴られた妻や、妊娠した十代の少女たちに対して、何が彼女たちを「被害者」の立場に置くのかを構造的に知らなければ、彼女たちに援助を与えるフェミニストの活動は、終わりのない徒労ではないだろうか。かつそうした活動を通じて、運動家たちは自分を「加害ー被害」の構図から「部外者」として救い出し、フェミニズムの理想の高みへと、しばしば超越してしまう。理論を失いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである。
 くり返すが、解放の思想は解放の理論を必要とする。理論を欠いて思想は、教条に陥る。女性解放のために理論はいらない、と言う人々は、反主知主義の闇の中に閉ざされる。』(P14~19)

上野千鶴子が、ここで何を「予言」したのか、それは、最後の言葉、

理論を欠いて思想は、教条に陥る。女性解放のために理論はいらない、と言う人々は、反主知主義の闇の中に閉ざされる。

に尽きているだろう。

つまり、「今どきの(日本の)フェミニズム」が言っていることは、「男が悪い」の一言に尽きる。
では、どのように悪いのかといえば、「女性が、男性によって不平等に扱われている(不利な立場に放置されている)」ということなのだが、この主張は、上野が論じていたとおりで、「人間は平等である」という「近代主義」的な「自然権」をその前提としており、なぜ「人間は平等」なのかと言えば、その根拠とは「人間は皆同じ」だという、いささか無理のある「想定(フィクション)」に拠っている
とにかく、そう「信じる」ところから、人間らしい社会が実現できるのだと、そういう「信仰的な思想」なのだ。

一一しかし、これを言い換えるならば、「同じでなければ、差別しても良い」ということになってしまうし、現にそうなってしまっている。

私たちは、人を何らかのかたちで、差別や区別する場合に、必ず「彼(女)らは、我々とはここが違うから」という「違い」を見つけることで、自分たちの差別や区別を正当化するのだが、これは近代主義的な「同じ人間ならば、平等でなければならない」という「想定」があるからなのだ。

したがって、私たちが「差別」に真面目に向き合うためには「人間は平等である」というテーゼ(仮定)を自明視して、それを呪文のように唱えるのではなく、「違っていても平等に扱われなければならない」と主張するための「理論的な根拠」を持たなければならない新たな根拠を見出さなければならないのだ。

そしてそのためには、是非とも「理論」構築が必要であり、それには「マルクス経済学」という分析ツールによって、今の資本性世界を分析すると同時に、ラディカル・フェミニズムが見出した「家父長制」の分析と、その批判的な解体が、是非とも必要なはずなのである。

ところが、日本の「今どきのフェミニズム=第四波フェミニズム」は、どうであろうか?

すでに失効したと考えるべき、近代的に単純な「人間はすべて平等である」という「教条」を繰り返し、それを根拠として「だから、女性は男性と平等に扱われなければならない」と主張するだけなのだ。

つまり、そこにあるのは上野が言うところの『反主知主義』の「イデオロギー」でしかない。
だからこそ、自ずとそれは「すべての女性=階級としての女性」を救うものではなく、「男並みに優れた女性=エリート女性」だけを救うものとなっており、大半の女性たちは、そうした「エリート女性」によって、体よく「利用されるだけ」に終わってしまうのである。

またさらに言えば、こうした「理論を欠いた教条的・宗教的なフェミニズム」は、「男が悪い」という決めつけと同じかたちで、「私たちの正義の主張を理解できない、あいつらが悪い」という態度にも通底していく。
つまり、上野の書いていた「啓蒙主義者の傲慢な決めつけ(上から目線)」である。

『 啓蒙主義者にとって真理はつねに単純である。「男女平等」というこの単純な真理を受け容れることのできない(※ 当然のことだと理解できない)人々は、啓蒙主義者の眼には、まったくの「不可解」(※ 理解不能な劣等人間)と映る。この「度しがたい人々」は、真理の力で(※ 四の五の言わさず、問答無用で)救済する(※ しかなく、そうした)ことができなければ、力の論理(※ 強制)で(※ その抵抗を)封じるほかはないー一この考え方は、強姦に反対するあまり、治安警察国家を招きよせてしまいかねない女性運動の背理に通じている。フェミニスト啓蒙主義者の陥っているワナは、「男女平等」というこの「単純な真理」に、なぜこの社会が到達しないか、についての構造的な分析を欠いていることにある。その上で啓蒙家でありつづけるためには、疲れを知らない精神の持ち主である必要がある。』

そしてここで、私たちが思い出すべきなのは、北村紗衣を中心とした、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人(呼びかけ人)メンバーが、今年になって設立した、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」に明記された、「議論(対話)拒否=ノーディベート」のスタンスである。

この趣意書において、「現代フェミニズム研究会」は、「トランスジェンダー差別に加担する、フェミニズム研究者」を、決して許してはならない存在であると断定し、こうした「現代フェミニズム研究会」の認識を共有できるできる「フェミニスト」だけに、同会への入会を求めているのだ。

つまり、「現代フェミニズム研究会」は、「トランスジェンダーの社会的な受容」について、自分たちの「差別的状況の急進的な革新」という考え方を支持しないフェミニストを「差別主義者」だと、一方的に決めつけ、その「意見」など耳を傾ける価値などないと、そう決めつけているのである。

しかし、「現代フェミニズム研究会」に、自分たちの「急進主義」についての「説得的な理論的に根拠」があるのであれば、それこそ、民主主義的に議論をした上で、相手を論破・折伏すれば良いだけの話なのではないか。

それなのに、なぜそれをしないのかと言えば、それは無論、「現代フェミニズム研究会」には「理論的根拠」が無いからである。「理論的根拠」が無いからこそ、議論することは出来ない。
議論をすれば「負けるかも知れない」し、「正義の我々が、負けるわけにはいかない」からと、議論を避けて「ノーディベート」に引きこもることになるのだ。

そして、そんな彼(女)らは、おのずと「パワー・ポリティックス」一本槍とならざるを得ない。
その結果が、「オープンレター」であり、「現代フェミニズム研究会」の「頭数集め」であり、日本女性学会の乗っ取り騒動」なのである。

現状分析の理論を欠いた「第四波フェミニズム=オープンレター現代フェミニズム研究会は、上野千鶴子の言うとおり、必然的に、

理論を欠いて思想は、教条に陥る。女性解放のために理論はいらない、と言う人々は、反主知主義の闇の中に閉ざされる。

こととならざるを得なかったのだ。

私はしばしば、北村紗衣らの「フェミニズム」が「男性が悪い」式の「決めつけ」でしかなく、説得的な「根拠提示」を欠いていると批判したが、それは北村紗衣らが「資本主義」社会の中で、自分たちだけが成り上がろうとする「リーン・イン・フェミニスト」であり、おのずと現状肯定的な「リベラル・フェミニスト」である以上、「すべての女性を救う」ための理論など、構築しようがない、ということに由来するものだったのだ。

北村紗衣らは「平等な社会」の実現など、本当は少しも望んではおらず、自分が「社会の上位1パーセント」に入りたいだけであり、その「エセ教説」が、「とにかく男が悪いのフェミニズム」だったのである。

さらに言えば、北村紗衣らのフェミニズムを批判する際に私が指摘するのが、北村紗衣らのフェミニズムが問題にするのは、いつでも「女性差別」と「トランスジェンダー差別」であって、それにせいぜい、馬鹿の一つ覚えの如く持ち出してくる「交差性(インターセクショナリティ)」に関連する「人種差別」と「階級差別」という「言葉」でしかなく、日本人としての「当事者性(加害者性)」が問われる「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」、「朝鮮人徴用工問題」、「在日朝鮮人差別問題」、「沖縄への米軍基地押しつけ問題」などのリアルな「差別」問題には、なぜ一言半句、言及しようとしないのか、という点だった。

しかしこれも、北村紗衣らが、資本主義社会における、現状肯定的な「リーン・イン・フェミニスト=リベラル・フェミニスト=セレブリティ・フェミニスト」なのであれば、当然のことなのだ。
踏み台にされる人がいなければ、彼(女)らは、人並みより高い位置には「リーン・イン」出来ないからである。

そして、こうしたことも、すでに上野千鶴子は書いていた。

『 子供の抑圧と叛乱は、フェミニズムとつながる重要な課題である。女性と子供は、家父長制の共通の被害者であるだけでなく、家父長制下で代理戦争を行なう、直接の加害ー被害当事者にも転化しうるからである。家父長制の抑圧の、もう一つの当事者である子供の問題と、それに対して女性が抑圧者になりうる可能性への考察を失いては、フェミニズムの家父長制理解は一面的なものになるだろう。』(P133)

私は、この「家父長制」における「年齢差別」というものを、完全な見落としていた。
しかしそれは「今どきのフェミニスト」たちが「家父長制」という言葉を口にはしても、「家父長制」における差別抑圧とは、「性差別」だけではなく、「年齢差別」もあるのだということを、故意に言い落としていたからである。

だが、「家父長制」の問題を、まともに考えるならば、「家長制」というかたちを採る「家父長制」は、男性の中でも「年長者」や「長男(長子)」といった「上長」を、差別的に特権化するシステムだったことに気づかざるを得ないのである。

上野千鶴子は、かつての「マルクス主義フェミニズム」が、そうした差別の現実に対する「多角的な視野」を欠いていた点を、次のように反省的に書いている。

『 市場との関係が再調整を迫られているのは、したがって家族だけではない。国家も企業もまた、資本制との新しい調停の段階に入ろうとしている。そこでは、国籍や人種、性年齢といった経済外変数が、また大きな意味を持ちはじめている。
 フェミニズムはその中にジェンダーという変数を導入することで、諸システムの横断的で包括的な分析を試みる。「家父長制」という性支配の概念を持ちこむことで、家父長制的資本制のみならず、家父長制的国家や家父長制的企業組織についても、論じることができる。だが、性支配という分析視角には限界もまた、自ずと存在する。フェミニズムは、レイシズム(人種差別)やエイジズム(年齢差別)にまで射程が届くわけではない(※ 届いてはいなかった)。(※ それなのに、これまでの)フェミニズムが「あらゆる差別」からの解放の理論だという(※ 自己規定する)のは、越権行為である(※ そのように主張する資格を欠いていた)。(※ これまでの)フェミニズムは性支配については考えぬいたが、(※ これまでのフェミニズムで)人種差別のメカニズムについて解けるわけではない。
だからこそ、今フェミニズムに要請されているのは、ナショナリズム、レイシズム、エイジズムなど他のさまざまな差別についての理論とクロス・オーバーしながら、抑圧的なシステムについての多元的な(※ 今で言う、交差性=インターセクショナリティ的な)理論を構築すること(※ が必要)である。マルクス主義フェミニズムという「市場と家族についての理論」をその二元論的構成のゆえに批判する(※ マルクス主義フェミニズムのやり方)よりは、むしろ、国家、人種等のファクターを組みこんだ、さらなる多元論をこそ目ざすべきなのである。(※ マルクス経済学のように)経済の言語一一しかもたかだか近代以降の市場経済の言語一一ですべてを一元的に語りつくそうとするより、市場が市場外的な領域にいかに包囲され、かつ依存しているかを知る方がよい。それによってはじめて、市場と資本制に代わるへ〈経済〉のオルターナティヴを構想する手がかりをうることができるだろう。フェミニズムはそのアプローチの一つである。』(P349〜351)

上野千鶴子は言う。
フェミニズムは、『「あらゆる差別」からの解放の理論』へと成長拡大しなければならないのだと。

ところが、「今どきの日本のフェミニズム」は、どうだろうか。
たしかに、アメリカ由来の「交差性=インターセクショナリティ」というジャーゴンを、専門家ぶって口にはするものの、彼(女)らの語る差別とは、実質的には「女性差別」と「トランスジェンダー差別」だけではないか。

つまり、「今どきの日本のフェミニズム」は、30数年前に上野千鶴子が持っていた問題意識から、はるかに「後退」してしまっているのだ。

だが、こうなったのも、これは、ある意味で必然的なことであるとも言えよう。

どういうことかと言うと、当時すでに、上野千鶴子「リベラル・フェミニズム」に対して、徹底した「不信」を表明していたのだが、今の「第四波フェミニズム」とは、まさにこの「リベラル・フェミニズム」(の頽落形態)なのだ。「資本主義経済に、すっかり取り込まれてしまったフェミニズム」なのである

『(※ 1990年刊行の本書の議論は、バブル経済の崩壊を、まったく予見していなかった)にもかかわらず、バブル崩壊後の「失われた一〇年」を通して、本書が分析備で示した予測の多くは当たったように思える。女性間の格差が拡大してそれが世帯間の格差の拡大につながること、婚姻率が低下して晩婚・非婚・離婚が増加すること、専業主婦が特権化し少数派になっていくことなどである。また性差別を克服するための政策的な提言として、高齢者に所得保障をすることや、介護の社会化、児童給付の実現などは今読み返しても先駆的だし、当時は非現実的だったかもしれない提案が、今日では現実性を帯びてきてもいる。』(P436)

『「主婦」がそう遠くない過去の歴史概念であること(※ 恒久的な概念ではないというの)はあきらかだし、労働のフォーマルセクター(※ 生産労働部門)がインフォーマルセクター(※ 家庭的な再生産労働部門)に依存し、前者から後者への移行(※ 子育てや介護など、旧来は家庭内における再生産労働とされたものの、公の労働への移行)が起きていることを(※ 労働の)「主婦化」と名づけるのは、一種のメタファでしかない。この過程には、ジェンダーだけでなく、人種、民族、国籍、学歴、階級などさまざまな要因(※ 例えば、外国人労働者の問題など)が関与している。ジェンダーから人種概念を類推することはできるが、人種はジェンダーに還元できない。言い換えれば、資本制はありとあらゆる差異、人種やジェンダー、階級だけでなく、文化や生活様式、価値観の差までを利用してその落差から価値を得る、と考えた方がよい。その点では、『差異の政治学』でわたし自身が述べたとおり、「どんな領域も、ジェンダーだけで解くことはできないが、ジェンダー抜きに論じることはできなくなった」[上野 2002:88]のである。』(P439)

『 もちろん(※ LGBTQ問題に代表されるような)「違っていてよい」権利の前提には、あらかじめ「同じ」であることの権利がすでに成立していなければならない。その点では水田さんの指摘通り、「人権」思想がなければ「差別の不当性」を訴えることもできない。「人権」には(※ 人間は見ない同じだという)定義上、性別がないからである。だが、「同じ」であることを証明するためには、マイノリティはつねにマジョリティへの「同一化 identification」を強いられる。「人間」のモデルが男性にしかないところでは、それは「男性」への「同化 assimilation」を意味する。フランス革命の人権宣言の持つ普遍主義には、すべての者を「文明化 civiliser」しようとする「同化主義」が組みこまれていた。その限りで「人権」思想とは、性差別と植民地差別との随伴物だったのである。「人権」批判にはこのような同化主義への批判が含まれる。
 リベラル・フェミニズムはつねに女性にダブルバインドな問い(※ 矛盾したした要求)を押しつけてきた。いや、正確にいえば、リベラリズムがフェミニズムにダブルバインドな問いを強いてきたというべきであろう。(こそうして、折衷的な)リベラル・フェミニズムは(※ おのずと)誕生した時から、その(※ 両立し得ない)問いと格闘してきたのだ。典型的な例をあげれば、中絶の自由」をめぐる「女性の権利」問題がある。フェミニズムは歴史的に一貫して「中絶の自由」を主張してきたが、それをリベラリズムの法体系の用語で読ろうとたん、それは「自己決定できる主体」としての「女性の権利」として構成される(※ 理論化され、根拠付けられる)。そしてもし妊娠した身体が「個人」ならば、個人が自己に属する身体のパーツをいかように処分しようとも自由という権利の承認となるが、他方、もし胎児もまた「個人」ならば、中絶は母親という個人が胎児という個人の権利を侵す触法行為となる。妊娠した女性の経験はそのいずれでもなく、その両極のあいだをゆれ動いており、また「自己決定」と見える選択は実はそれほど「自由な選択」ではありえない。それがリベラリズム法学の「権利」の用語に回収されることで、中絶が合法化されようが違法化されようが、そのいずれに対しても、多くの女性は「自分がのぞんだのはそのいずれでもなかったのに」という埋めがたいズレを感じてきたはずだ[山根 2004]。』

(P448〜449、ゴシックは引用者)

『リベラル・フェミニズムの形式平等は、法のもとの平等、実質平等は、「あらゆる領域への男女の共同参画」である。そのわかりやすい指標は、国連が定義するGDI(ジェンダー開発指数 Gender Development Index)、GDI(ジェンダーエンパワメント指数Gender Empowerment Index)であり、それは教育、経済、政治などの分野(主として公的領域)への女性の参画の程度で指標化されている。リベラル・フェミニズムの公式目標は、これらの指標において「女性の過小代表性 under-representation」を正すことであり、最終的には人口学的な性比を反映するまでに、指標が増加することである。
 ここまで書けば、わたしは自分がリベラル・フェミニズムにいかに深い疑念を持っているかを逆に確認することができる。男がつくりあげた社会の構造とルールとを不問にしたままで、そのもとでの「女性の過小代表性」を修正することがなぜフェミニズムの目標となりうるのか? とりわけ、「あらゆる分野への男女の共同参画」が現実性を帯びた達成目標となり、そのなかに「軍隊への男女の共同参画」まで含まれようとしているときに?
 戦前の社会主義フェミニスト、山川菊栄は、リベラル・フェミニズムの婦人参政権運動にすこぶる冷淡だった。女性が参政権を獲得しても、「戦争反対」につながらないとすら考えていた。そして山川の予想は当たっていた。』(P449〜450)

ここでの肝心な部分とは、

ここまで書けば、わたしは自分がリベラル・フェミニズムにいかに深い疑念を持っているかを逆に確認することができる。男がつくりあげた社会の構造とルールとを不問にしたままで、そのもとでの「女性の過小代表性」を修正することがなぜフェミニズムの目標となりうるのか?

つまり、「女性差別」や「トランスジェンダー差別」には反対しても、『男がつくりあげた社会の構造とルール』である「資本主義」そのものは不問にしたまま、一部の女性エリートを「資本主義」社会の上層へ押し込むことが、フェミニズムの目標になどなるのか?

「会社役員の」「国会議員の」「大学教授の」女性の占める割合などといったことを問題にする「リーン・イン・フェミニズム」としての「リベラル・フェミニズム」は、信用して良いものなのだろうか?

上野千鶴子の答えは、もちろん「否(ノー)」であったのだ。

一一だが、「今の日本のフェミニズム=第四波フェミニズム」は、そんな「リベラル・フェミニズム」が本質的な抱え持つ「問題性」を、露骨に示し始めているのだ。

本書を読めば、「今どきの日本のフェミニズム書」では一向にハッキリしなかった問題が、クリアに見えるようになる

だが、それは上野千鶴子が危惧した問題が、そのまま現実化しているということでもあるのだ。

したがって、「一部の女性のためのフェミニズム」ではなく、「すべての女性と、すべての被差別者のためのフェミニズム」を求めているのであれば、その人は、北村紗衣に象徴されるような「リーン・イン・フェミニズム=セレブリティ・フェミニズム=リベラル・フェミニズム」の欺瞞性を峻拒・批判しなければならない

そしてまさに、その理論的根拠を示してくれているのが、上野千鶴子であり、本書なのである。


(2025年8月8日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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