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◆読書日記.《ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』》

<2023年7月18日>


<概要>
わたしたちは、フランス革命を導いたルソーの代表作である本書と『社会契約論』に繰り返し立ち戻ることで、国民がほんとうの意味で自由で平等であるとはどういうことなのか、どうすれば国民が真の主権を維持できるのかを、自分の問題として問い直すことができるはずである。

本書・裏表紙の内容紹介より引用

『人間不平等起源論』(にんげんふびょうどうきげんろん)は、1755年にフランスで発表された、哲学者ジャン・ジャック・ルソーによる政治哲学の古典的著作であり、人間の不平等についての論文である。正式名称は『人間の間の不平等の起源と基盤についての論述 (ディスクール)』(仏: Discours sur l'origine et les fondements de l'inegalite parmi les hommes)である。
人間の間の不平等は、「自然状態」の産物ではなく、「社会状態」の産物であり、自然法の要請に従って、その社会的不平等は(不平等がほとんど存在しなかった「自然状態」の水準程度へと)是正されなくてはならないという主張が論述されており、同時期に書かれた『政治経済論』と共に、後の『社会契約論』へと結実する内容の作品となっている。

Wikipedia「人間不平等起源論」の項目より引用

<者略歴>
ジャン=ジャック・ルソー
〔1712-1778〕フランスの思想家。スイスのジュネーヴで時計職人の息子として生まれる。16歳でカトリックに改宗。家庭教師等をしながら各地を放浪し、大使秘書を経て、37歳で応募したアカデミーの懸賞論文『学問芸術論』が栄冠を獲得。意欲的な著作活動を始める。本書『人間不平等起源論』と『社会契約論』で人民に主権があると主張し、その思想はのちのフランス革命を導くこととなった。主著に『新エロイーズ』『エミール』『告白』など。

本書・袖の略歴より引用

◆◆◆

<本書の概要とその構造について>

 ルソー『人間不平等起源論』読了。

ルソー『人間不平等起源論』(光文社古典新訳文庫)

 本書も、今年の読書課題の一つである「民主主義思想の古典を読む」の一環として読んだ一冊である。
 というか、このごろ「民主主義思想の古典」と言うより、単に「近代政治思想の古典」と言ったほうが良いように思えてきたのだが。まぁそこは良いとして。

 ジャン=ジャック・ルソーは18世紀のジュネーヴ共和国に生を受け、後にフランスで活躍した作家・思想家である。

 彼の履歴を読んでいてちょっと驚いたのは、彼は正規の学校教育を受けず、大学にさえ行っていなかった「独学者」だったらしいという事だ。

 これが例えばホッブズだったらオクスフォード大学を卒業してから貴族の家庭教師として庇護を受けながら著述を行っていた人だし、ジョン・ロックもオクスフォード大学を卒業後、クライスト・チャーチの研究員やチューターを務め、貴族の庇護下で著述活動を行っていた。

 が、ルソーに限ってはジュネーヴの中流階級である時計職人の息子として生まれ、父親の影響で質の高い本を読みながら成長し、その後、まさに波乱万丈の人生を送る事になるが(これについてはウィキペディアにも詳しく書かれているので必読です!)学校で正規の教育を受けてはいないようなのである。
 それにしてはよくもまあこれだけ幅広い分野で著作活動を行って、決して小さくない影響を周囲に与えたものだと感心してしまう。

 そんな彼が著述活動を始めたのは、38歳の時にディジョン科学アカデミーの懸賞論文に送った『学問芸術論』が入選を果たしてからになる。
 彼がその活発な著作活動を始めるのは、これ以降の事であった。

『人間不平等起源論』はルソーが41歳の頃、再びディジョン科学アカデミーの懸賞論文に応募するために書いた論文であった。募集していた論文のテーマは「人間の不平等の源泉はどのようなものか、それは自然法のもとで認可されるものか」。
 このテーマに合わせてルソーが書いた論文が『人間不平等起源論』であり、この原題は「人間の不平等の起源と根拠についての論文」であった。

 この論文自体はそう分量の多いものではない。

 実際、ぼくが今回読んだ光文社古典新訳文庫版の『人間不平等起源論』の本文は150ページにも満たない小冊子的な分量であった。
 が、本書のほぼ半分以外を占めるのが原注、訳注、献辞、序文、解説、あとがき……といった「その他の文章」だという凄い構成になっている(笑)。

 これ水増し?と思ってしまう読者もいるかもしれないが、実は思想書は割とこういう構成の本は多いのだ。
 特に、ルソーの著作を始めて読む人にとっては、訳者の中山元の分かり易い解説があるのはありがたいと思えるだろう。

 そして、本書の場合に特徴的なのは、ルソーによる原注が非常に分量が長いという事だろう。

 ルソー自身はこの注について「ときには本文からかなり離れたことを語っているので、本文とともに読むには適さないものもある(P.46)」などと書いてはいるのだが、本文で語っている事の「根拠」となるべき様々な事例や考察が非常に詳しく書かれていて、説得材料としてのルソーの思想を支える広範な知的バックボーンが伺えて圧巻である。
 ルソーの知的傾向や、論拠となる情報源について言及されているため、「読むに適さない」というほどのものではないと、ぼくなどは思ってしまう。
 そのため、本文を読むだけでも内容は十分なのだが、この原注を読まずに飛ばしてしまうというのも、それはそれで勿体ない部分ではある。

 もう一つ、本書における「献辞」の文章も、これが意外に無視できない内容になっている。

 訳者の中山元も「訳者あとがき」で「『人間不平等起源論』の論文をまず一読された後に、「献辞」と、この「献辞」についての訳者の解説を読んでいただければと思う(P.413)」と書いているほどである。
 当時のジュネーヴは王政ではなく、17世紀からカルヴァンの定めたジュネーヴ教会規則に基づいて、プロテスタントの共和国としての自治を行っており、当時としては特殊な政治体制だったと言えるだろう。
 そして、ルソー自身が「ジュネーヴ共和国において市民として生まれるという幸運に恵まれました者として、平等と不平等が幸いな形で結びついていて、自然法にもっとも近く、社会にもっとも好ましい形で、公的な秩序と個人の幸福を守っているこの共和国の深い叡智について、思いを致さずにはいられないのです(P.10)」とジュネーヴをほめちぎっているように、彼の国家観と言うのも、この地からの影響というのは無視できないだろうし、そのジュネーヴについての思いを吐露した「献辞」というのは、ルソーの思想を捉える上でも重要な意味を持ってくるものと思われる。

……と言う事で、結局トータルで見ると本書は、ちゃんと一冊分の分量はある著作だと言えるのかもしれない。

◆◆◆

 ルソーが『人間不平等起源論』で説明している事は、非常にシンプルである。

「社会体をなす前の原初的な状態(自然状態)の人間に不平等はなかった。人間が社会状態を形成する過程で不平等が発生し始め、私有財産や文明の発展に伴って不平等は劇化、固定化されていくようになった」という事を主張しているのである。

 本書は「献辞」「序文」「原注」を除けば、内容は大きく二部に別れている。

 本書の構造は、まず第一部で「自然状態」の人間である「野生人」というものを想定し、そういう人間の状態について、肉体的な側面と、精神的な側面から「どのようなものであったのか?」という事を、様々な事例を上げてそれが具体的な像となるように考察していく。
(「自然状態」とは何か?について知りたい方は前回の記事を参照のこと)

 第二部では、その「野生人」のその後の歴史を考察していく。
「野生人」が「家族」という一団を形成するようになり、言語を発生させ、私有財産を作り、徐々に文明化してくいくプロセスを説明する。
 そのプロセスの途中で、もともとは平等であった野生人が、徐々に個人個人の「差」を生み始め、政治体が成立し、それが劇化して不平等にまで発展していき、それが固定化されるようになっていく……といった形で「自然から社会への移行プロセスの中に不平等発生の原因が隠されていた」という事を指摘するという内容になっている。

 と、このように大まかな内容を見てみると、本書は直接的には「政治思想」をメインに論じたものではないと言う事が伺える。

 だが、それでは本書がルソーの政治思想の主著の一つとされる『社会契約論』と常にセットで論じらる事が多いのは何故なのか?

 ぼくが『人間不平等起源論』を読み終えてみて感じるのは、本書は『社会契約論』につながる前段階としての「批判の書」と位置づけても良いのではないかと思えるのだ。

 ぼくの印象からすると、――ジョン・ロックの『統治二論』が、前半部が王権神授説を丁寧に論駁する内容で、後半部が絶対王政に代わる国家像を提示した内容であったように、――ルソーの『人間不平等起源論』と『社会契約論』の二書も、これと似たような関係性の内容だったのではないかと思うのである。

 つまり、ルソーは『人間不平等起源論』によってそれまでの国家体制や人間の文明を批判し)、それに代わる国家体制のモデルとして『社会契約論』を書いたのではないか……という風に思うのである。

ジョン・ロック『統治二論』
・前半部……(現状の批判の書)絶対王政と王権神授説の批判
・後半部……(理想の国家像の提示の書)それに代わる社会契約説の提示

ジャン=ジャック・ルソー
・『人間不平等起源論』……(現状の批判の書)現代文明や不平等な国家体制への批判
・『社会契約論』……………(理想の国家像の提示の書)それに代わる社会契約説の提示

◆◆◆

<第一部:「自然状態」と「野生人」について>

 それでは『人間不平等起源論』の第一部、第二部それぞれの内容を、以下もうちょっと詳しく説明していこう。

 第一部で「野生人」というものを想定するのには訳がある。

 ぼくがこれまでの記事で説明して来た社会契約論者たちの説明は、現代の社会についての考察をするための、その比較対象としての「自然状態」という状況をまず想定してから、考察していくというスタイルをとっている者が多かった。

 ホッブズにおける「自然状態」は有名な「万人の万人に対する闘争」であったし、ロックにおける「自然状態」は完全に自由で平等な状態で、人間は「理性的な神の被造物」として生きていた。モンテスキューも『法の精神』において「自然状態」や「自然法」について考察を行っている。

 が、ルソーはこれらの学者らの「自然状態」や「自然法」の定義について「この重要な問題(自然法の定義)について著作を刊行しているさまざまな学者の間で、ほとんど意見の一致がみられないのは意外なことであり、スキャンダルと言ってもいいくらいのことである。この問題について意見が一致しているのは、二人といないのである(P.38)」といったように、曖昧なものだと指摘しているのである。

 自然についてほとんど知られておらず、法(ロワ)という語の意味についてもこれほどに意見が対立している状態では、自然法(ロワ・ナチュレル)についての正しい定義について合意するのはきわめて困難なことだろう。そして書物に書かれている自然法の定義は、そもそも意見の一致がみられないという欠陥のほかにも、人間が自然に獲得したものではないさまざまな知識に基づいているという欠陥がある。さらに人間が自然状態(エタ・ド・ナチュール)から出たあとであければ考えることのできないさまざまな利点を利用しているという欠陥もある。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.40より引用)

 確かに、ぼくもロックの『統治二論』を読んでいる時に「自然状態」について「なぜこんなに曖昧なんだ?なぜ具体例が一つも出てこないんだ?仮定の話としても、なぜ考古学的な事例なんかを用いてもっと『自然状態』という状況を出来る限り説得的に作り上げようとしないんだ?」と疑問に思っていたものであったが、どうもルソーもぼくと似たような事を考えていたらしい。

 ルソーはこれまでの自然法の考え方について「(自然法の考え方は)まず定義を作り出しておいて、かなり恣意的な取り決めによって、事態の性格を説明するというご都合主義的なやり方なのである(P.40)」と結構痛烈に批判しているのである。

……が、これは半分は時代的な制約も関係しているのかもしれない。

 というのも、ぼくが『人間不平等起源論』を読んでいて「あっ、そうか!」と気づいたのは、近世の政治思想家はホッブズもロックもルソーも、ダーウィンの『種の起源(1859)』よりはるか以前の時代の人なので「猿から人間に進化する」という考え方は初めから欠落しているという事だった。ぼくもニブイなぁ。

 要は、17~18世紀の思想家たちが「人間の原初の状態である自然状態」を考える時、いくらさかのぼって考えても「アダムとイヴ」の時点までしかさかのぼれない、というわけなのだ。

 特にジョン・ロックのように宗教的な考え方がベースとなっている人間からしてみれば、「自然状態」を考えてみても、原初の状態の人間は、どこまで古代にさかのぼっても人間は人間でしかなく、最初から理性とルールを与えられてこの世に生まれてきたのが人間と言う存在だ――という、聖書に準拠した考え方しかとれなかったというわけである。

 これが「時代的な制約」というものである。ロックほどの知性であっても、その時代のエピステーメー(ある時代の知の基盤となる枠組み)の枠内でしか考える事はできなかったのだ。

 が、ルソーの想定する「自然状態」が画期的であったのは、そういった「宗教的な前提をカッコに入れて考える」という事であった。

 宗教がわたしたちに信じるように命じているのは、神みずからが人間を自然状態から引き離したのであり、人間が不平等であることを望んでいたのだから、人間は不平等なのだということである。しかし宗教とても、人間とその周囲の存在物の本性だけに基づいて、人類が〔神の干渉なしに〕そのままにしておかれたならどうなっていたかについて推測することを禁じてはいないのである。
 わたしがみずからに問いかけたのはこの問いであり、この論文ではこの問いに答えようとしている。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.53より引用)

<神の干渉なしの状態>を想定したら、人類の自然状態はどうであったか?――これによって、ルソーは聖書に書かれた人間観から解放され、様々な未開の民俗に関する情報や、野生の狼に育てられた子供の逸話、類人猿と人間との比較や古代ギリシアの時代の人間の生活など、様々な実例を組み合わせて、宗教的ドグマから離れたルソーなりの「自然状態」を考察していくのである。

 その想定として提示したのは、「神からうけとることのできたすべての超自然的な賜物と、長い期間をかけて進歩することで獲得できたすべての人為的な能力をとりのぞい」た状態の、自然の手を離れたばかりの状態の人間――「野生人」という仮定モデルであった。

 ルソーによって、ほぼ初めて「自然状態」という思考実験は、現代知られている「原始人」の知見に少しだけ近づいたわけである。

◆◆◆

 では、ルソーが想定したこの「野生人」とは、どういった状態の人間であったのか。

 ある種の「反面教師」として、ここで間違った――あるいは非常に紛らわしい――説明を行っている人の例をあげて、ルソーの説明している「野生人」の基本的な考え方を説明してみたい。

 ぼくは他の人がどのような内容の要約をしているのか、または専門家がどのような切り口でこの本を解説しているのかというのを調べるために、しばしばネット上の要約を参照する事があるのだが、次に紹介するサイトは、あまりにぼくの理解とは違っており――とくに「自然状態」の考え方に問題がある――書き方も非常に紛らわしいので、否定的な意味でとりあげたいと思う。

【要約マップ】『人間不平等起源論』を簡単にわかりやすく解説します

 ここで紹介されているルソーの「自然状態」についての説明を見てみよう。

 ルソーは、人間は本来平等な存在として生まれ、自然状態では互いに助け合い、平和に暮らしていたと主張します。しかし、私有財産の出現、農業の発達、都市の形成といった社会の発展によって、富の不平等や権力の集中が生じ、人間は次第に不平等な関係に陥ったと論じます。

(上記サイトより引用)
引用元:https://mindmeister.jp/posts/youyaku-A-Discourse-on-the-Origin-of-Inequality

 これは物凄く雑な説明で、むしろルソーが否定したかった考え方さえ書いてしまっているのが問題だ。
 ルソーは本書の中でしばしば「社会で生まれた考え方を自然状態のうちに持ち込んで、自然状態について議論している人びと(P.84)」の事を批判している。

 例えば、「家族」や「氏族」などと言った集団が形成されている状態と言うのは、もう既に人びとの交流が出来上がり、互いにコミュニケーションを行い、協力関係にある――つまり、もうある種の「社会状態」になっている状態なのである。

 そう考えれば、上記サイトで説明されている「自然状態では互いに助け合い、平和に暮らしていたと主張します」という説明は、むしろルソーが批判している自然状態の説明とさえ言えるだろう。

 ルソーは「自然状態」というものを、もっと人間の原始状態にまでさかのぼって考えているのである。

 この主張(※社会で生まれた考え方を自然状態のうちに持ち込んでいる主張)では、家族がつねに同じ住居のうちで一緒に暮らしており、家族の成員はわたしたちと同じように親密で永続的な結合を保っているとみなしている。わたしたちの家族は多くの共通の利害関係で結ばれているからだ。ところが、原初的な状態はまったく異なる。この状態では家も、小屋のようなものもなく、いかなる種類の財産もない。各人は行き当たりばったりの場所に暮らし、しかもしばしば一晩だけ、そこで夜を過ごすのである。男性と女性は偶然に出会い、機会と欲望のおもむくままに結ばれたのである。だからたがいに語りあう必要のある事柄を伝えるための言語は、それほど必要なかったのである。別れるときも、同じようにそっけなく別れていった。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.84より引用)

 このように、ルソーは「自然状態」を、まだ「社会」が形成されておらず、人間が自然の中にそれぞれ散らばって個人個人で生活している「野生人」の状態を想定していたのだ。

 この状態をして、果たして上記サイトの著者の言うように「互いに助け合い、平和に暮らしていた」と言えるのだろうか?
 また、上記サイトに掲載されたマインドマップでは、まるで人間の「自然状態」が、最初から「家族や氏族のような小規模な集団で生活」していた状態を示しているかのようではないか。

 ルソーはこの『人間不平等起源論』の約半分の分量を使って、この「野生人」というものについて、出来る限り詳しくその生活や身体的特徴や精神的な側面について考察を行っているのである。

 森の中を彷徨する野生人はとくに知恵を働かせることもなく、言葉を話さず、家をもたず、たがいに闘うこともなく、他人と交際することもなく、同胞を必要としないし、同胞に危害を加えようと望むこともない。おそらく同胞の誰一人として見分けることもできない。こうした野生人は情念の虜となることもほとんどなく、自分だけで満ち足りており、こうした状態にふさわしい感情と知識しかもっていない。ほんとうに必要とするものだけを欲求し、見るに値すると考えるものしか見ない。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.114-115より引用)

 このように「野生人」を想定したルソーの「自然状態」に関する考え方を、上記サイトの著者は何一つ汲み取っていないという事がよくわかるのではないだろうか?

 ルソーの想定する「自然状態」が「平和」だったのは何故か?――「互いに助け合い」をしていたからではなく、「他人と交際することもなく、同胞を必要としないし、同胞に危害を加えようと望むこともない」状態だったからだ。だから、同胞らとの闘争状態も起こらないのである。

 上記サイトに書かれている「自然状態における社会」という表現自体が、このサイトの著者の混乱状態を表している風にも感じられるほどである。

 それだけでなく上記サイトは「自然状態」の人間について「本来平等な存在として生まれ」たものだという説明をしているが、これも厳密にはルソーの考えに反している。

 ルソーは「自然状態においても不平等はほとんど存在していなかった(P.190)」とは言っているものの、「"ほとんど"存在していなかった」とあるように、「ある種の不平等」は、自然状態の人間にも存在していた事をちゃんと説明しているのである。
 そして、このルソーなりの「不平等」の定義も『人間不平等起源論』の非情に重要な考え方の一つとなっているので、これについても誤解を与えてはならない。

 わたしは人類には二種類の不平等があると考えている。一つは自然の不平等、または身体的な不平等と呼びたいものである。これは自然が定めたものであり、年齢、健康状態、体力、精神の質、魂の質の違いによって生まれる。もう一つは社会的<モラル>または政治的な不平等と呼びたいものである。というのも、この不平等はある種の取り決めによって生まれるものであり、人々の同意によって確立されるか、少なくとも認可されるものだからである。この種の不平等はさまざまな特権から生まれるもので、一部の人々が他の人々を犠牲にして、この特権を享受する。たとえば他の人々よりも豊かであるとか、尊敬されているとか、権力をもっているとか、何らかの方法で他の人々を服従させているとかである。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.49-50より引用)

<ルソーの想定する「二種類の不平等」>
・自然の不平等、または身体的な不平等
・社会的不平等、または政治的な不平等

 ルソーは前者の不平等について、「自然の不平等の源泉を問うことはできない」としている。
 つまり、本書で考察される対象としての「不平等」というものは、後者の「社会的不平等、または政治的な不平等」であり、これこそが問題になっているのだ、と言う事を本書の冒頭で説明しているのである。

 つまり「人間は本来平等な存在として生まれ」という説明は紛らわしい言い方で、ルソーの本書の考え方を理解している風ではない。

 議論の土台となる「自然状態」について正確に把握できておらず、テーマとなる「平等」というものについても理解できていない。
 そもそも、自然状態における人間の状態が理解できていなければ、本来人間が平等かどうかの理解も誤るのは当然であった。

 まず、ルソーの「自然状態」の認識が説明できていないこのサイトの説明と言うのは、『人間不平等起源論』のほぼ半分の内容をザックリ誤解してしまっているのである。

 では、ルソーはなぜそこまでして詳しく自然状態の人間である「野生人」の姿を追求していたのか?

 それはこの状態についての積年の誤解と根強い偏見を打破する必要があったからである。わたしは問題をその根源まで掘り下げて、真の自然状態を一枚の絵のように描きだすことが必要と考えたのである。この自然状態では不平等は、それがたとえ自然の不平等であっても、多くの論者が主張しているような現実性も影響ももちえなかったことを示すことはできないのである。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.115-116より引用)

 近世の政治思想家たちは、みな「自然状態」から「自然法」「自然権」を想定して、それぞれ当時の国家体制への問題と、新たな国家観と言うものを提示する材料としていたのだ。

 ルソーはまず、それら思想家たちの「自然状態」の捉え方の批判から、本書を書き出しているのである。「社会の土台について考察した哲学者は誰もが、自然状態(エタ・ド・ナチュール)に遡ることが必要だと考えたのだが、実際に自然状態にたどりついた哲学者は一人もいない(P.51)」
 ホッブズも、ロックも、モンテスキューも、ルソーに言わせれば「自然状態」には辿り着けていない。だからこそ、ルソーは丁寧に丁寧に、様々な資料を駆使しながら「自然状態」というものについての考察を深めていったのである。

 まずもって、この「自然状態」というものの定義をおろそかにしてしまっている「要約」なるものは、土台からして『人間不平等起源論』の内容を理解できていないのである。
(その他、上にあげたサイトの説明には、第二部からの不平等の起源についての説明などについてもツッコミたいところは多々あるものの、今回はこれ以上深入りしない)

 お分かりだろうか、皆さま。

 ネット上に掲載されている情報などというものは、このようなしっかりした作りのサイトでさえも、間違った情報がごろごろ転がっているものなのである。
 ウェブサイトやSNSばかり見ていたって、正しい知識などつけられるはずはない。
 知識を付けたいとおもうのならば、悪い事は言わない、本を読みなさい。

◆◆◆

<第二部:文明の発展と社会的不平等の起源について>

 上述した様に、『人間不平等起源論』の第二部では、一部で定義した「野生人」が、徐々に集団となっていき、社会状態を形成させていくプロセスを考察していく事となる。

 この内容については、訳者の中山元が「解説」で非常に分かり易くまとめているので、そちらを引用したほうが良かろう。

 社会形成の第一段階は、野生人たちが「障害」に直面して、孤立した状態を維持していくことができなくなり、ゆるやかな集団を形成した段階である。この段階では人々の協力作業と原初的な言語の成立が特徴となる。
 第二段階では、この集団の中から家族が形成される段階である。ここでは人々のうちに恋愛の感情が生まれるようになり、家族的な所有が形成される。男女のあいだに暮らし方の違いが生まれるのも、この時期である。これは人類の幼年期である。
 第三段階は、「世界のまさに青年期」とも呼ぶべき段階であり、自然の大変動が発生し、地域的な言語が形成され、地域的な社会が生まれる。技術的な進歩が実現し、人々の生活は現代の未開人と似た水準まにまで向上する。
 第四段階は、いわゆる新石器革命の時代であり、鉄と小麦の時代が、冶金術と農業の時代が、労働と所有の時代が訪れる。それは戦いと殺戮の時代であり、「恐るべき戦争状態」の訪れである。やがて国家が成立し、国家のあいだの戦争が頻繁になり、すべての人々が隷属するような時期が到来することになる。その後は歴史的な時代として描き出されることになるだろう。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.344・中山元「解説」より
※但し()で示された本文の対象ページの記述は省略させて頂いた)

 ルソーは第二部の冒頭で「ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思い付き、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである(P.123))」と書いている。

 これを読んでいて「おや、これは……?」と思ったのは、これがまるでマルクスの『資本論』に出てくるエンクロージャー論のようだったからである。

「土地の囲い込み」として有名なのは、16世紀~19世紀のイギリスで何度か行われたエンクロージャー運動であった。
 この時期、封建領主や富裕層が共同で利用していた土地から農民を追い出し「私有地」化していたという事が知られている。

 農民から収奪された土地は、羊毛価格が高騰していた時期には放牧地に利用され、あるいは資本主義的な農地経営を行うために利用され、または工場の設立などに使われて、これが資本主義を発展させる要因の一つともなったと言われている。
 土地から追い出された農民らは小作農になり、あるいは都市に流れて工場にで働く労働者となり、プロレタリア階級ができあがるきっかけともなった。

 エンクロージャー運動は中世以降の動きだが、マルクスというのは、このように歴史を遡って「不平等はいつから発生したか?」という事の起源を問うたのである。

 マルクスが構想しながら未完に終わった研究をエンゲルスが受け継いで書いた『家族・私有財産・国家の起源』でも、同じように「不平等」の起源を問う内容である。
 この本はぼくはまだ読んでいないので詳しい事は書けないが、おおよその内容は原始時代から未開社会、古代ギリシアやローマなど、古代共同体に関する研究を踏まえて、私有財産制や一夫一婦制の成立、国家の形成などの起源を説明していくものであったという。

 つまり、この本も歴史の発展段階の中で「不平等」の起源を問う内容なのである。

 マルクス=エンゲルスも「私有財産」や「奴隷支配」といったものには「根拠」がなく、「支配階級」といったものには正統な権利などはない、という事を明らかにした。

 マルクス=エンゲルスが世の中の「不平等」に正統な根拠などない……という事を主張するために、歴史を遡ってその「起源」を明らかにしたのと同じように、ルソーも「人間の社会的不平等」がいつから発生し、その原因が何なのかを追求するために、歴史を「自然状態」の時点にまで遡って考察した。

 両者に共通する見解とは「支配階層が、庶民らを隷属させる正統な根拠などは"ない"」という事であった。
「庶民が支配層に服従しなければならないのは当たり前」だという認識を、否定するのが両者に共通する主張だったとも言えるだろう。

 隷属の鎖を作りだすのは、人間たちの相互の依存関係と、人間たちを結ぶ相互の欲求であることは、誰にでも分かることに違いない。ある人間を隷属させようとするならば、まずその人を他人なしでは生きてゆけない状態におく必要がある。自然状態ではこのようなことは起きないのだから、この状態では人間はあらゆる軛から自由であり、最も強い者の法も無力なのである。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.119より引用)

 もともと、人間は社会的に平等に生きていたのである。彼らにとって自由は「自然から与えられた貴重な贈物(P.168)」であった。

 人間の不平等と不自由は、社会的な状況が発生し、人間が理性と文明を発展させていく過程の中で発生していった。ルソーは、その状況を描き出すために「野生人」という原始時代の人間の姿を描写したわけである。

 ルソーは言わば『人間不平等起源論』で文明批判を行っており、もっと直接的に、以下のように文明社会の「悲惨さ」というものについて言及している。

 文明人の状態と野生人の状態を、偏見なしに比べていただきたい。そして文明人の邪悪さと欲望と悲惨さを、そして文明が苦痛と死へと導く多くの新たな扉を開いたことを、よく調べていただきたい。わたしたちを苦しめる精神的な苦痛の大きさについて、わたしたちを疲れ果てさせ、悩ませる情念の激しさについて、そして貧者が背負わされている激しい労働について、富者が身を委ねているさらに危険な放埓な暮らしぶりについて、反省してみていただきたい。必要なものにも事欠いて死ぬ者がいる一方では、余分なものに圧し潰されて死ぬ者もいるのである。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.214、ルソーによる原注より引用)

 ルソーの思想は、こういった文明批判と共に、しばしば「自然に帰れ!」という言葉で説明される事が多い。

 ルソーの『人間不平等起源論』におけるこの論調が、あまりに痛烈な文明批判であるために、本書を献上されたヴォルテールなどからは「あなたの著作を読むと、ひとは四つ足で歩きたくなります」などと嘲笑的な酷評を受けてしまう事にもなってしまったという。

 だが、ここで勘違いすべきでないのは、ルソーは何も、この文明社会から、原始時代の様な生活に戻るべきだと主張しているわけではないという事である。

 本書の訳者である中山元は「ルソーはもはや文明を捨てることも、森に帰ることもできないことを熟知していた。『学問芸術論』の結論は、自然に帰るというような不可能なことを訴え、求めるのではなく、文明の富でもって、文明の悪を癒す方法を探すべきだというものだった。この論文(※『人間不平等起源論』の事)の結論は、自然に帰るのではなく、自由で道徳的な生き物として、美徳を学び、「永遠の報奨をうけるにふわさわしい存在となる」ことを目指すというものだった。さらにルソーは『社会契約論』では、この文明の悲惨さと隷属からのがれることのできる政府はどのようにして叶かを模索することになる(P.336)」と、ルソーの考えを説明している。

 ルソーの思想を表す「自然に帰れ!」は、そういう意味で誤解しやすい表現であろう。

 端的に言って「社会的な不平等」は、そもそも「自然な状態」ではない。人間の本来的な状態ではない。だから、そういう状態を「当然」のものとして受け入れてはならないのである。

 文明によって作り出されてきた様々な不平等に基づく人間の不幸や悲惨や不自由は、それは人間本来のものではないのだから、そのような「文明の悪」を正すべきなのだ、という事なのである。

『人間不平等起源論』を、ただ単に「人間は文明を築き上げていく過程で、不平等を生み出していったのです」という「物語」として読んではいけない。

 ルソーが解き明かしてきたものというのは、「不平等(社会的な不平等)」というものは、人間本来に備わっているものではなく、当然のものでもなく、「人間が作り上げたものだ」ということである。

 このような社会的不平等と言うのものは、対処しなければその「不平等」は今後も発展して止まる事を知らないだろう。

 そういった社会的な不平等はそもそも人間が自ら作り上げてきたものだからこそ、それが間違いであり「不幸の元」になっているという事ならば、その間違いは人間の手で正してやる事ができるはずだ。
 戦争は「自然なこと」ではないし、「奴隷制」や「貧困」、「危険な重労働」などの不幸も「自然なもの」として人間に必然的についてまわる不幸ではないのだ。

 つまり、「森に帰る」事などしなくても、自由と平等を取り戻す事の出来る社会体を再編すれば良いのである。そういった社会状態の理想系を提示するために『人間不平等起源論』は、『社会契約論』へと繋がっていくのである。

 社会的な不平等は、実定法だけによって認められたものであり、自然の不平等に比例したものでない場合には、つねに自然法に反するものであることも示してきた。この自然の不平等と社会的な不平等の区別は、あらゆる文明国を支配している不平等についてどう考えるべきかを、はっきりと示しているのである。自然法をどのように定義したとしても、子供が老人に命令したり、愚者が賢者を指導したり、多数の人々が暮らしにも事欠いて飢えているのに、ごくわずかな人々は余分なものを山ほども抱えているのは、どのように考えても自然法に反することだからだ。

(ルソー『人間不平等起源論』(光文社版)P.190より引用)

 このように見てくると『人間不平等起源論』の内容は、「文明批判」ではなく暗に「当時の文明国の体制批判」を行っているのであり、「自然に帰れ」というよりかは「自然法に基づく平等に帰れ」と表現したほうが良いのではないかと思えるのである。

 少なくとも、本書『人間不平等起源論』を、単なる「不平等の起源を解き明かした内容」だ、などといった観点だけから読むのでは、ルソーの真意は読み取れないだろう。


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