時代の兆候としての「令和人文主義」。あるいは、なぜ突然そんな用語をつくったのか。【追記:よくある質問】
元々の本文
令和人文主義というワードに惹かれて読んだ、私を知らない人に向けて自己紹介をすると、哲学の学位取得者で、今も大学の先生をしています。最近は一般向けに語ることが多いんですけど(今は色々あって芸大でデザイン実技を教えています)。
なぜわざわざこんな自己紹介を書いたかというと、私の名前を知らない人にまで言葉が届いているので、「哲学の専門家としても一般向けに語る人としても書いていて、ファスト教養などと言われる筋合いはない」と明示したわけです。(なぜこんな補足を自己紹介につけたかというと、この程度の情報開示も、「マウントだ!」とする人がいたから意図を明示しました。絡み方がめちゃくちゃすぎる。)
2016年以降くらいに活動し始め、令和開始くらいに活躍し始めた、一般向けに書く人たちには一定の共通点があって、それは「教養主義」(知の誇示とマウント)でも、「ファスト教養」(「稼ぐことがすべて!」/換金可能な知)でもない、人文知のあり方を追求するもののように見えます。それを時代の兆候として取り出すために、「令和人文主義」という言葉を作りました。
つまり、知を競争・評判に回収するアテンションエコノミーや、換金可能性ゆえに知を正当化する動きにある程度距離を保ち、「学ぶこと自体への自己充足性」(自己満足性)を肯定するような言説が共通して語られているように思われる、ということですね。
『斜め論』的にいえば、垂直的な知(教養主義)が無効化した時代に、水平的な知(アテンションエコノミー)からも距離を取ろうとしているという話で、いわば「斜めの知性」の実践と言えるかなと思います。
とはいえ、知の語り方として「自己満足性」を尊重しているとしても、その先に何もないとか、これ以上のことを言っていないとか、そういう話は何もしていません。(私が言っていないことを私に帰属させるのは議論でも批判でもなく、妄想ではないでしょうか。)
しかし、大事なことですが「時代に共通してみられる兆候では?」と私が言っているだけなので、自称されている方は誰もいませんし、名前を出した人たちの活動が「これだけで説明できる」わけでもないので気をつけてください。
令和人文主義については、下記などで語っています。ちゃんとまとまっているのは、朝日新聞デジタル、VOICE辺りだと思います。本稿は、これらの補遺・補足的な位置づけなので、それらを読んでくださいね。全部内容がちょっとずつ違います。
いくつかの特徴と思われるものを列挙します。
・文体が上の世代と全然違う
・受け手は学生よりも会社員(かつての教養主義は大学生を典型としていた。新しい知の観客を意識した語り方になっている。)
・多メディア展開
・反アカデミズムではない(専門分野、専門家との協調)
・教養主義から単なる人文知へ
・SNSやポストトゥルースを意識した自己論や社会論
・言葉への強いこだわり(言語哲学、言語学など)
・専門や得意分野がある
ここから色々な特徴が出てきます。たとえば、微妙に世代論的になる。2016年といえば、三宅香帆さん、戸谷洋志さんのデビュー、深井龍之介さんが株式会社COTENを創業などと、線を引くにはわかりやすいんですよね。ポストトゥルースが話題になった年でもあるし。(世代でなく「時代」や「社会条件」の問題として語るのがいいような気もしています。)
ただ、微妙に世代論的になるというだけで、個人的には時代の問題なのでは??と思っています。ある社会的条件が揃ったので、この種の言説が出てきたというだけの話。なんとなく世代論っぽくなったのは、『斜め論』の影響もあります(この話は、上記ポッドキャストでしています。)
時期的には、2019/2020年前後に出てくる言説だと思います。
ちなみに、教養主義はもういいよ、概念的にどうしようもないところがあるんだから……普通に人文知でやろ……という話は、Ink&Thinkの11月の3週目で熱烈にやっているのでそちらをご覧ください。
よくある質問:2025.11.30追記
批判される文章の中身だけをみて語る人が多いのか、SNSでは、ざっくり若者論として語ったり、自分の不満を抱く対象を「令和人文主義」と呼んでいるのか?と思えるくらいです。
その存在や括りの有効性が疑問視されることはほぼないものの、異論百出で、なかには容姿への論評、犯罪集団と絡める人まで(普通に誹謗中傷ですね)。令和人文主義への論評は、いったんこの記事を読めばよいですが、名前を挙げた人たちの具体的な主張については、記事を読んで即断せず、ちゃんと本を読んで中身を議論してください。
繰り返しますが、私個人が「こういう時代的傾向が見えるね」と括ったものであって、誰かの自称ではないし、当人の活動のすべてが令和人文主義というラベルで説明できるという主張ではありません。また、私の視点から気になる時代の兆候の話なので、この時代はこれしかないという主張でもありません。
何度でも繰り返します。私も誰かを枠にはめたいわけではないですし、この括りが何を意味したとしても、一人の人間や時代を「このラベルだけで説明できる」わけはありません。名前を挙げた人にはこの特徴以上のものを持たないとか、そこから変化しないとか、そんなことは思いません。こんなことをわざわざ言わなければわからない状況は普通におかしいと思いますが。
【追記①:小峰さんに反論は?】(2026.05.29追記)
帰りに「あ、小峰さんがなんか書いてくれてる」と思って、ざっと読んで、論法的に思うところがあったので、「思想の自由市場」タイプの指摘だけ返しました。特定タイプの議論しか許さないような形に見えたからですね。
中身についても、いくつも反論したい箇所があります。まず、大正教養主義やその残り香を吸って成立していた昭和教養主義を念頭に置きながら「かつては教養の担い手は大学生だった」と書いたことがあります。このハイパーエリート男性かつ読書に金が使える程度の仕送りがある時代とは違って、現代の大学生が教養や読書の主たる担い手であると考えるのは無理があるでしょう。だとすれば、知の担い手は非大学生、たとえば社会人、会社員では? 小峰さんは最後の言葉尻を捉えて論点をずらし、そしていつのまにか令和人文主義を「正社員様の哲学!!!」と言い募っただけで、議論が私の話と何か重なっているとは思いません。
また、どんな本であれ、それが会社員にも読まれていることを否定することはできないと思うし、現にずっと会社員にも本は読まれてきたはずです。その意味で何がいいたいのかよくわかりません。
会社員には守秘義務があり、その意味で誰かに支配される存在だということを考慮していない!というのが、おそらく小峰さんの主張ですが、私は単にそんな話をしていないので、この論点ずらしに、反論が必要だとすら思いません。「このような議論が不要なのですか?」と聞いたら、「そうは思わない、それは言っていない」と言っていたので、なおさら私には小峰さんの批判が何の批判になっているのかよくわかりません。
小峰さんは、会社員や大学生が生きている現実の具体性を無視していて、よほど生活者のリアリティを軽視しているんじゃないでしょうか。
論点はズラしているものの、世の中の大半の人と違って、小峰さんは本や記事をちゃんと読んでいるのはいいなと思いますし(当然なんですけど)、本人の想定を超えて、令和人文主義が妙に人格攻撃や罵倒になったとき、それに火に油を注ぐようなことをせず、単に応答だけしていたのは立派だと思います。
【追記②:読者層については?】
普通に動画/ポッドキャスト、その他のメディアだけの人もいるでしょうし、本もかなり読まれているでしょうから、実態は多様だと思います。
たぶん、こういう質問をする人は、「会社員」にひっかかっているのだと思います。まさかそんな変な理解をされるとは思っていませんでした。人間って書いて男性と読まれるみたいな違和感というか。
ここで書いた「会社員」は、大都市圏・大企業・正社員を念頭に置いたものではなく、「組織人」とか「会社員世代」くらいのイメージです。「生活者」と読み替えて気に入るならそうしてください。というか、「社会人」と書いて、「社会ってなぁ…」と躊躇して「会社員」にしたんですよね。ポッドキャストを聴いてもらえばわかりますが、基本的には大正教養主義の読者層(ごく限定的な大学進学予定者や大学生)との対比です。
大正教養主義が(大学進学率が異常に低かった時期のエリートである)「大学生」(と旧制高校の学生)や、大学時代に人文知が好きでその後も読み続けている愛好家を典型的な読者としていたのとは違って、令和人文主義の著作や動画、ポッドキャストは、「今回新たに人文知に関心を抱いた!」みたいな人が接しているというイメージですね。
繰り返しますが、実際には、会社員・組織人以外にも、学生や主夫/主婦、フリーランス、一次産業従事者など、色々な読者がいると思います。たとえば、私の読者はイベントやポッドキャストから想像するに、20代から50代が大部分で、男女比はざっくり半々。都市部と地方の配分は不明ですが、Instagramやnoteの読者をみていると、半々くらいかなと思います。
いずれにせよ、どんな読者がいるのかは、書き手や媒体によって様々でしょう。読者や視聴者が数多くいるとは、基本的に読者の属性が多様であるということです。従来よくあった人文好き、哲学好き、批評好き、教養主義者とは違う層がオーディエンスにいるというだけのことです。
それに、文章読んでいないけど、動画だけはみている、ポッドキャスト番組だけ聴いているという人も多いはずで、単純に語れるものではないでしょう。
また、朝日新聞デジタルや、VOICEの記事でも明示していますが、教養主義的な「べきだ」という言葉とか、ビジネス書めいた「役に立つ」という言葉に対しても禁欲的なのが、特徴だと思います。
成果もまたひとつの視点だが、その視点がビジネスパーソンの間で支配的になりすぎていて、それ以外の視点がおろそかになっているという発想が……あるようだ。経済的・社会的成功や評判の獲得に直接つながる「成果」を得るという目的にとらわれては、「たくさんの視点」でひとつの物事を見るという点……大事な部分が失われる。
【追記③:教養を批判したのはなぜ?】(12.01追記)
大正教養主義、昭和教養主義などの流れがあり、その音の流れで、高田里惠子さんの『グロテスクな教養』を引きながら「教養」概念を批判した。
ドイツ文学研究者の高田里惠子さんが『グロテスクな教養』(ちくま新書)で論じたように、こうした「教養」という言葉には、世間の評価や他者視点をやけに重視するニュアンスが含まれていて、教養の自己陶冶や自己形成(ビルドゥング)の理想とかけ離れてしまったところがある。
昔から高田里惠子さんの本は好きで読んでいて、竹内洋さんの『教養主義の没落』とのあいだをどう埋めてよいかを悩んでいた。大正教養主義、その大衆化した形態である昭和教養主義その他の立場があるわけですが、70年代にはもう没落・無効化していると宣言しながらも、その廃墟をいとおしむ竹内論とどう付き合うべきなのか。
私はなんとなく、竹内路線ではない気がしていました。教養概念が備えているような「全体性への欲求」(すべてを知ろう!)ではなく、専門性を備えた上での学際性(専門分野の境界を超えて活動すること)への欲求と、アウトリーチ(ジャンルを背負ってジャンルを超えて活動すること)への欲求こそが大切であると考えるようになっていました。これは、私の場合は、学部・大学院が学際系で、しかも学内でその存立が危ぶまれていたことも大きいと思います。そうでなくても、文系学部叩かれがちでしたからね。
もう一つは、松井健人さんの本の影響が大きい。この本を読んで、ちゃんと終わりを認めた上で、先を思い描くべきではないかと思うようになった(この点は上記ポッドキャスト番組で、面白おかしくではあるけど話しています)。
それに加えて、「教養」という言葉は、日本語のコロケーション的に、「ある」「ない」と言われがちです。0か1かしかない。誰かをバカにして「ない」と言ったり、誰かを無条件に持ち上げて「ある」と言ったりすることが容易い。「ちょっとある」「少しできる」「割といける」みたいなグラデーションが用法的に許容しづらい言葉で、その点でも一旦「終焉」を認める方がいいと思っています。
つまり、近代日本の「教養」概念の終わりを認めた後に、その跡地・廃墟から何か(新たな夢や幻想)を立ち上げることが必要なのではないかと考えたわけです。「近代文学の終焉」(最近だとこれ)や、哲学の終焉について語られてきたことがあるように、近代教養もまた、その破壊の跡に、別の役割を立ち上げ直すアプローチがあってよいと思っていました。
じゃあそれはなんだという話をする前に、随分変な方向で話題になってしまいましたね……。12月7日のUNITÉでの松井健人さん×渡辺祐真さんとの対談とか、1月11日のロフトプラスワンウェストでの3部制のイベントとかでできたらと思います。それが「令和人文主義」と呼ばれるかはさておき…(なんてったって、誰も自称していないので)
1/11(日)開場13:30-開演14:00
— 大阪Loft PlusOne West (@PLUSONEWEST) November 26, 2025
いま人文知の現場はどこにあるのか?「2020年代の時代精神」を模索する一日。
第一部(14:00~)
「人文知のユーザー:いつ/どこで人文知は求められるのか? 知が『使われる』瞬間を探る」
登壇者:工藤郁子、中路隼輔、三宅香帆、山本ぽてと、朱喜哲(モデレーター) pic.twitter.com/uh8t8xoJrK
私個人について言えば、これからの仕事で示せたらと思いますが、私がネーミングをとってきたのは、ルネサンス期の人文主義(humanism)です。
【追記④:なぜ人文主義?】
以下に類似点を列挙しますが、基本的には「教養主義ではない」という要素が強いです。また、私個人の背景的意図なので、大した話ではなく、令和の文芸復興とか思わなくていいです。人文まわりの潮流だよ、くらいの感じでよいです。
さて、一応。
(1)ペトラルカが書簡で、知の条理を追うだけでなく、「古典古代が達成したもの」を「個人が美学レベルで実体験する」姿勢を持っており、ヴァッラもまた、特定・具体的な状況における「話(oratio)」に言葉の意味があると考え、民衆的で具体的な言い回しに富む古代の表現を掘り起こした。(フランシスコ・リコ『ユマニスムスの夢』p.24, pp.30-31)
この口語性や具体的な場を重視した言語感覚は、自身が書くだけでなく、声・耳のメディアに注目し、そこでの話し方から影響を受けた文体を構築している、現代の著者たちとも重なっていると思います。
(2)エラスムスをはじめとして、非聖職者の間で神学的な面での能力が急速に発達し、「俗人の敬虔」が問われるようになっただけでなく、民衆の信仰に関する著作が俗人に手に入りやすくなった。
これは信仰にまつわる話ですが、これとパラレルに言えば、新たなメディアの登場によって、あるいは流通経路が変わることによって、「俗人」(一般社会)と、「聖職者」(アカデミア・大学)の関係や、知識の相互貫入が起こり、知的欲求や態度が変化していた、ということは言えるのではないでしょうか。(マクグラスの研究『宗教改革の知的な諸起源』教文館)
(3)エラスムスによると、「弁舌は精神の外形」である。党派的に宗教が分裂した状況にあって、あたかも医者が外側から見える兆候によって内側の病気を察するように、人々の精神の健康を癒す「新しい弁舌」(noua lingua)を打ち出す必要があると彼は考えた。 (河野雄一『エラスムスの思想世界』p.91)
ここまで極端な物言いはしないでしょうし、レトリックは全然違いますが、下記のような関心を持っている点では、似た姿勢があるはずです。分断やお決まりの党派対立を超えてコミュニケーションするのはどうすればいいのか。どういうボキャブラリーや言い方は思考停止を招くのか。潜在的バイアスゆえに誰かに対して不正義を及ぼす可能性をどういう言葉によって減らせるか。他人の感想や感情に乗っ取られずにいるにはどうすればいいか。クリシェを自分の考えだと思い込まないためにはどうすればいいのか。
かなり古いですが、私の人文主義観は、クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』(みすず書房)の影響も受けています。言語がいかに人文主義にとって大きかったか、どう大きかったかを論じた本ですね。
とはいえ、この程度の類似性に基づいてつけただけなので、令和の人文まわりの潮流、くらいのつもりで受け取ってよいと思います。私の個人的な着想の起源はこれだよ、というだけですね。
【追記⑤:政治性ないの?】
他の著者たちも政治性はあるでしょうけど、繊細な話題なので、私自身のことだと思って読んでください。
当然ある。私について言えば、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』でめっちゃ政治の話してますし、『VOICE』の連載でも時折政治の話をしています。
(ただし、小峰さんが指摘するように、「階級」の問題はさほど語らないと思います。この点は、めっちゃ正しい。マルクスは読んでもマルクス主義者はいないんじゃないかな。貧困や格差、経済的な話題について語ることはあっても、革命や闘争が必要だとは思わない。社会調査や社会学、経済学の力こそ必要だと思う。また、学位論文の『信仰と想像力の哲学』では、階級という論点が一定浮上していますが、やはり積極的ではありません。革命ではなく漸進的改良、ピースミールエンジニアリングですね。)
ビリー・アイリッシュの言葉で、"Silence is different from processing." という言葉があって、これは、状況を黙認することと、考えたり調べたりする時間を持つこととを区別しています。私は基本的にこれに賛成だし、それに加えて、「今話題だから今コメントしなければいけない」とか、「ある意見を持っているからといって、SNSで書かなければならない」とは思いません。一般意志の表明の経路は多様であってよいし、多様であった方がいいと思っています。SNSが政治の唯一の現場ではないし、そうでない方がいい。
ただ、私の傾向として、「パッケージ化された党派性に絶対に回収されたくない」という感覚と、「ミソジニー的な人や、排外主義的な人でも、知り合いや友人、読者なら地道にかかわって、変化するためにできることをしたい」という感覚があります。SNSでも、一定の政治的立場を表明することはありますが、そういう人とのコミュニケーションの回路を閉ざしたくないからです。
この立場は、当然批判可能だと思います。完全無欠じゃないから。でも、他人が語っていることや、私のSNS投稿、そして小峰さんの記事だけをみて、それで「政治性がない」とか簡単に言うのは、ちょっと言葉が軽すぎるでしょう。私の名前挙げて、あるいはほのめかしで批判するくらいなら、私の本や文章、せめてウェブのインタビューの類を読んでもいいんじゃないですか。博論とか専門書とか、時事とかも書いているし、ポッドキャストや色んな無料記事もあるわけですから。
繰り返しますが、これは谷川の立場であって、令和人文主義のラベルを代表するものではないです(そもそも朝日新聞デジタルの記事などを読めば、「そこまでの話はしていない」とわかるはず)。
【追記⑥:〇〇さんは入る/入らない?】(12.01追記)
時代の兆候として語っているというのは、この記事だけでなく、朝日新聞デジタルでも、ポッドキャストでも、VOICEの記事でも何でもいいですが、読んだ人ならわかると思います。「こういう共通性やトレンドが見えますね」と。
なので、令和人文主義はメンバーシップではありません。また、私が活動や語り、文章の中から共通の特徴を見出しただけであって、挙げた人に何かの規範を課すものでもありません。記事や音声を聴いてもらうとわかるはずですが……。
私も人文知を網羅的に扱っているわけではないし、読んでいない/聞いていないものは結構あるので、人選に深い意図はなく、「私が作品をよく読んだり、聴いたりしている範囲」に限定されています。適当に人名を挙げることはできないですよね。ちゃんと一通り仕事を追わないと名前とか挙げないですよ。そういう事情なので、該当者を広げることは十分可能だと思いますし、狭めてとることも可能だと思います。
【追記⑦:難解さを遠ざけたいの?】(12.01追記)
そもそも、「教養」は全体性を目指すものであって、専門性とは異なります。また、教養=難解というのは副次的なものであって、「教養」概念と「難解さ」それ自体に本質的な結びつきはありません。
私は「教養」概念を立て直すより、もうそのどうしようもなくマウント的で、他者差別的な概念から距離をとること、つまり、近代日本型の教養——大正教養主義はその原風景です——の廃墟から、別の夢や方向性、可能性や幻想を立てることの方が有効だと考えています。(私自身は、教養・読書による人格陶冶という発想も問題含みだと思っています。)
何を言っているかというと、そもそもそんな話は誰もしていない、ということですね(これは私が批判した「教養」や「教養主義」をある種背負っている人たちもそうです)。しかし、世の人の教養イメージが「難解」「専門性」といった感じで、そこが議論としてすれ違い、滑ってしまった理由なのかなと。
教養(主義)って、どの論者の議論でも、身につける知識が難解かどうかの問題じゃないし、専門性を極めることでもないよ
— 谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 増補改訂版』 (@houkago_kitsune) December 6, 2025
『スマホ時代の哲学』はちゃんと読むと実は難しいですし(簡単だと思う人は何かを読み飛ばしています)、そもそも難しさを理由に何かを遠ざけることを批判する主張が含まれていますし、博論などの専門書や論文も書いていて、ちゃんと活動を追っていれば、そんなことやっていないとわかるはず。
というか、書店をめぐっていれば、「令和人文主義」と名前を挙げた人たちの本が、哲学やら言語学やらの話をしている書籍たちの中で、「不必要なまでに易しい」かどうかは、すぐにわかるでしょう。何でここまで説明しないといけないのか謎ですが。
以上、追記おわり。元々の本文も、よくある質問を追記するのに合わせてつながりやすくするため、表現レベルの修正をしています。
(これ以降は、基本的に以前のまま)
下記では、文体や語り方の話と読者層の関係、反アカデミズム仕草をしない理由、時代的な問題、読者の変化など、もうちょっと細かな話を書いていますが、ほんとおまけです。
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