見出し画像

《全文無料》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「34」】400勝投手監督から投手の背番号に

割引あり

(写真 中央・左腕エースへ期待16代高野脩汰、左上から・ミサイル打線のけん引役4代八田正、東京球場時代の切り込み隊長5代池辺巌、右上から・400勝投手が監督となり34が宙に舞った6代金田正一、左のリリーフとして活躍13代川井貴志)


※名前横の【殿堂】は野球殿堂入りしている選手、【サイン】はサインが掲出されています(クリックで拡大)

「34」 400勝投手監督から投手の背番号に

 背番号34は左腕投手のイメージが強い。それは間違いなく金田正一という大投手のイメージであり、それにあやかろうという理由から投手に与える球団が多かったからだろう。しかし、オリオンズでは、ミサイル打線の切り込み隊長・八田正、東京球場時代の切り込み隊長・池辺巌と主力野手が背負っていた。そこに、背番号34の権化である金田正一が監督に就任し、オリオンズの背番号34の系譜を一変させた。金田監督退任後、マリーンズとなってからは投手の背番号となっている。

----- 現在の背番号「34」 -----

 ★《16代》2023(R5)年~25(R7)年は3年目 高野 脩汰(たかの しゅうた) 投手(25年は在籍3年目)

  1998(H10)年8月13日生(入団時24歳)、左投左打
  島根・出雲商業高(–)–関西大–日本通運–千葉ロッテ(23〜)

 【高野 脩汰 背番号変遷】34(2)
 2022(R4)年のドラフト4位で社会人・日本通運から入団した高野脩汰が背番号34を引き継いだ。
 ルーキーイヤーの23(R5)年は二軍でマウンドに上がり、フレッシュオールスターに選出され1回を三者凡退に退ける。直後の7月末に初登録され、25日の西武13回戦(ベルーナD)に2番手で初登板を果たす。以降、リリーフとして6試合に登板し、防御率1.64とまずまずのピッチングを見せた。
 2年目の24(R6)年は自身初の開幕一軍入りを果たす。リリーフとして2試合に登板して抹消。二軍で先発として調整し、4月24日のソフトバンク5回戦(ZOZOマリン)に初先発する。しかし3回2失点で初黒星となる。その後はリリーフに戻り一、二軍を往復。中日2回戦(ZOZOマリン)に2番手としてマウンドの上がり2.2回を無失点と好投。その間に打線が逆転して初勝利を記録する。しかし、後半は二軍で過ごし、6試合(2先発)1勝1敗、防御率3.68に終わった。

 (2024(R6)年 シーズン終了時)
 ◆在籍時通算投手成績<13試合、1勝1敗、防2.81、0S、0H、2先発、0完封、24奪三振>
 ◇初登板<2023(R5)年7月25日・西武13回戦/R(ベルーナD)/2番手完了/2回0失>
 ◇初先発<2024(R6)年4月24日・ソフトバンク5回戦/H(ZOZOマリン)/先発/3回2失●>
 ◇初勝利<2024(R6)年6月15日・中日2回戦/H(ZOZOマリン)/2番手/2.2回0失>

----- オリオンズ&マリーンズ「34」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年、52(S27)年~1953(S28)年・3年 内海 寛(うつみ ひろし) コーチ(在籍3年)

  生年月日不明(入団時50歳)、右投右打
  旧制・関西学院中(甲)–関西学院高–毎日新聞大阪本社
  毎日コーチ(50〜53)

 【内海 寛 背番号変遷】コーチ/34(3)
 初代背番号34は、球団創設時にコーチとしてチームに加わった内海寛が背負った。
 内海は夏の甲子園の準優勝投手で関西学院大学から毎日新聞大阪本社に入社。大正時代に結成された「大毎野球団」(大毎オリオンズとは別球団)に所属し投手、内野手として活躍していた。
 球団創設に当たり現場に復帰し、3シーズン指導した。

【現役時在籍なし】


※1954(S29)年 空番


 ★《2代》1955(S30)年~1956(S31)年・2年 杉浦 四郎(すぎうら しろう) 投手(在籍2年)

  生年月日不明(入団時18歳)、右投右打
  愛知・岡崎高(甲)–毎日(55〜56)

 【杉浦 四郎 背番号変遷】34(2)
 1955(S30)年に愛知・岡崎高校から入団した杉浦四郎が、前年空番だった背番号34を引き継いだ。
 前年のセンバツで甲子園に出場し、将来性高い大型右腕として期待された。しかし、55(S30)年から2シーズン所属したが、一軍未出場に終わり、56(S31)年限りで引退した。

 <一軍未出場>


 ★《3代》1957(S32)年・1年 指方 輝雄(さしかた てるお) 外野手(在籍1年)

 生年月日不明(入団時23歳)、右投右打
 長崎・大村高(–)–門司鉄道管理局–毎日(57)

 【指方 輝雄 背番号変遷】34(1)
 1957(S32)年に社会人・門司鉄道管理局から入団した指方輝雄が、背番号34を引き継いだ。
 高校(長崎・大村高校)、社会人と全国的な知名度はなかったが、毎日新聞西部本社(北九州市)の推薦で入団した。強肩強打俊足と三拍子そろった選手と期待されたが、1シーズン限りで退団した。

 <一軍未出場>


 ★《4代》1958(S33)年~1961(S36)年・4年 【サイン】八田 正(はった ただし) 内野手(在籍11年)

左・「激動の昭和スポーツ史1(ベースボールマガジン社)、右・当館所蔵サインボール

  1936(S11)年10月5日生(移籍時21歳)、右投左打
  徳島・鳴門高(甲)–大映–大毎(58~68)–阪急(69~71)

 【八田 正 背番号変遷】34(4) ⇒ 1(7)
 大映との合併で大映で遊撃のレギュラーだった八田正が、背番号34を引き継いだ。
 前年は.215と打撃不振もあり73試合に出場に留まっていた。58(S33)年は内野争いは激化し、開幕7戦目の4月20日の南海2回戦(川崎)に代打で初出場。5月4日の西鉄4回戦(平和台)で初安打を記録する。しかし、ヒットはこの1本のみで二軍落ちする。8月に再登録され、ようやく八田らしさを見せスタメン出場も果たし、最終的に34試合に出場し打率.264に終わった。
 59(S34)年は1番遊撃で開幕スタメン出場を果たす。以降、トップバッターとして定着。二塁にも入り、126試合に出場して自身初めて規定打席に到達。打率.278、5本塁打37打点と数字を残した。
 60(S35)年は6番遊撃で開幕スタメン出場も、開幕直後にケガをして離脱。その間に3年目の柳田利夫が抜擢され遊撃に定着し、八田は控えに回る。しかし、その柳田が5月下旬にケガをして離脱。再び八田が遊撃の定位置に入った。その後6月にチームは18連勝して首位を独走。ミサイル打線の切り込み隊長として打線を引っ張る。最終的に98試合に出場、規定打席には届かなかったものの打率.259、4本塁打25打点でリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは第1、2戦で偵察要員の代打でフル出場、第3、第4戦では代打で出場したものの、第4戦に放ったヒット1本に終わった。
 61(S36)年は二塁にコンバート。8番二塁で3年連続開幕スタメンを果たす。しかし、中盤までは2番に入り2割台後半を維持したものの、夏場には調子を落とし、最終的に121試合に出場したものの規定打席には届かず、打率.247、6本塁打35打点だった。オフには背番号を34から1に変更した。
 → 八田正 背番号1へ(全文無料公開)

 ◆在籍時通算打撃成績<1157試合、.265、3643打数966安打、51本塁打、289打点、253盗塁>
 ◇大毎初出場<1958(S33)年4月20日・南海2回戦/H(川崎)/代打/1打0安>
 ◇大毎初安打<1958(S33)年5月4日第2・西鉄4回戦/R(平和台)/代打/2打1安>
 ◇大毎初打点<1958(S33)年7月22日第2・阪急17回戦/R(西宮)/代打/適時打>
 ◇大毎初本塁打<1959(S34)年5月10日第1・阪急4回戦/H(日立会瀬)/1番遊撃/安藤治久から>

 ※所属時に達成した主な記録
  ◇1000試合出場(1965年7月8日、史上97人目)※自身通算1549試合


 ★《5代》1962(S37)年~1972(S47)年・11年 【サイン】池辺 巌(いけべ いわお) 投手⇒内野手⇒外野手(在籍13年、コーチ3年)

左・週刊ベースボール誌、右・当館所蔵サイン色紙

  1944(S19)年年1月18日生(入団時18歳)、右投右打
  長崎・海星高(甲)–大毎/東京/ロッテ(62〜74)–阪神(75〜78)–近鉄(79)
  千葉ロッテコーチ(93〜94、96)

 【池辺 巌 背番号変遷】34(11) ⇒ 16(2)、コーチ/81(2)、94(1)
 1962(S37)年に長崎・海星高校から入団した池辺巌が、背番号34を引き継いだ。
 出場した甲子園では派手な活躍はなかったが、将来性を見越しての投手として入団だった。1年目の62(S37)年は9月2日の西鉄18回戦(平和台)に5番手として初登板。3回を投げ無失点だったが、2安打2四球と粗さが見えた。二軍では打撃力への評価が高く、オフには正式に打者に転向。2年目の63(S38)年は内野手登録され主に三塁を守る。前年と同じく9月に登録。8日の近鉄24回戦(日生)に7番三塁でスタメンに抜擢。第2打席でタイミリーを放ち、初安打、初打点を記録する。そのまま一軍に帯同し、最終的に19試合に出場し打率.095に終わった。
 3年目の64(S39)年は外野手に転向して飛躍する。開幕から一軍ベンチ入りし、代打、守備固めで試合に出場する。後半にはスタメンに名前を連ねる試合も増やし、93試合に出場したが打率.242に終わった。翌65(S40)年も開幕ベンチ入り。代打、守備固めを中心に試合に出場するが、打撃の状態が上がらない。スタメンにも起用されるが打率は1割台で低迷し二軍で調整する。再登録され上昇気配を見せ、9月22日の南海23回戦(大阪)では初本塁打も記録する。しかし、シーズン通して状態が上がらず、95試合に出場したが打率.196、3本塁打9打点だった。
 66(S41)年は開幕一軍を外れるも、チームが開幕から5連敗を喫すると、急遽一軍に合流し6戦目に1番中堅でスタメン出場を果たす。以降3試合スタメンもヒットが出ない。その後、スタメン出場しながら代打、守備固めで出場すると徐々に状態を上げる。6月下旬からは1番中堅で実績を作る。打率は伸びなかったが105試合に出場し打率.227ながら初の二桁となる10本塁打を放ち32打点を記録する。
 67(S42)年は開幕スタメンは逃したものの、外野陣が揃って打撃不振に陥る。池辺も当初は状態が上がらなかったものの4月下旬から状態を上げる。外野の一角をガッチリ担い左翼、中堅、右翼と1試合で3ポジションを守る試合も出る。5月下旬からは5番にも入るなど前半は3割を維持する。後半も定位置をキープし、最終的に128試合に出場し、自身初めて規定打席に到達。打率.286でリーグ8位、6本塁打44打点を記録した。
 68(S43)年は助っ人のアルトマンとロペスが加入し、池辺は三塁にコンバートされ、開幕戦は2番三塁で初の開幕スタメン出場を果たす。しかし、打撃の状態が上がらない。打率は1割台で低迷。加えて守備も失策が重なり安定感を欠く。後半は状態を取り戻し打率.246(リーグ18位)まで上げ15本塁打47打点としたものの、失策は29個でリーグトップを記録した。
 69(S44)年は有藤通世が入団し外野へ再コンバートされる。守備の負担がなくなり、開幕スタメン出場し、以降、3割を超える打率で好調をキープする。シーズン中盤に一時3割を割ったものの、夏場から状態を上げシーズン通して2番に座り105試合に出場し打率.321と自身初の3割をマークしリーグ9位に入り、11本塁打33打点と数字を残し、左翼アルトマン、右翼ロペスと強固な外野の一角を担った。
 70(S45)年も2番中堅で開幕スタメン出場し、2安打を放つ好スタートを切る。チームは開幕から首位争いを繰り広げ、6月には大きく勝ち越して首位に立つ。池辺は前年ほどの状態ではないものの堅実な打撃と守備でチームを支える。7月にチームは独走状態になると池辺も打率を2割台後半まで持ち直す。最終的に125試合に出場し打率.274(リーグ13位)、本塁打はチーム5人目の20本塁打となる22本塁打、61打点とともに自己最多を記録してリーグ優勝に貢献した。巨人との日本シリーズでも2番中堅でフル出場し、15打数4安打2打点だった。翌71(S46)年も2番中堅で開幕スタメン。3割前後の打率をキープして役割を果たすが、9月にはケガで離脱。そのままシーズンを終え、最終的に106試合に出場し打率.19本塁打286(リーグ13位)19本塁打56打点に終わった。
 72(S47)年は5番中堅でスタメン出場。このシーズンは前年まで3番に座っていたロペスが移籍し、池辺は3番、5番とクリーンアップも任される。加えて山崎裕之が不調で6月からは池辺が1番に座る。終盤には5番に固定され、最終的に121試合に出場し打率.268(リーグ22位)21本塁打70打点だった。オフにはこのシーズンからスタートしたダイヤモンドグラブ賞を初代中堅として受賞した。オフには金田正一監督が就任し現役時代の代名詞だった背番号34を希望。背番号34にこだわりを持っていた池辺は断ったものの、球団側の説得もあり泣く泣く背番号を16に変更した。
 → 池辺巌 背番号 16 へ(有料エリア)

 ◆在籍時通算投手成績<1試合、0勝0敗、防0.00、0先発、0完封、1奪三振>
 ◇初登板<1962(S37)年9月2日・西鉄18回戦/R(平和台)/5番手完了/3回0失勝敗なし>
 ◆在籍時通算打撃成績<1221試合、打率.265、3710打数985安打、124本塁打、422打点、90盗塁>
 ◇野手初出場<1963(S38)年9月7日・近鉄23回戦/R(日生)/途中三塁/打席なし>
 ◇初スタメン<1963(S38)年9月8日第1・近鉄24回戦/R(日生)/7番三塁/1打0安>
 ◇初安打、初打点<1963(S38)年9月8日第2・近鉄25回戦/R(日生)/7番三塁/4打1安/初安打適時打>
 ◇初本塁打<1965(S40)年9月22日・南海23回戦/R(大阪)/1番中堅/三浦清広から>

 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ダイヤモンドグラブ賞(1972年)自身受賞2度

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇100本塁打(1972年8月4日、史上70人目)
  ◇1000試合出場(1972年8月30日、史上161人目)


 ★《6代》1973(S48)年~1979(S54)年・6年 【殿堂、サイン】金田 正一(かねだ まさいち) 一軍監督(在籍8年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(1988年)

野球殿堂博物館ホームページから
左・スポーツニッポン新聞社、右・当館所蔵サイン入り写真

  1933(S8)年8月1日生(就任時39歳)、左投左打
  愛知・享栄商業高–国鉄(50~64)–巨人(65~69)
  ロッテ監督(73〜78、90〜91)

 【金田 正一 背番号変遷】34(6)、34(2)
 日本球界最多勝で唯一の400勝の大投手。引退後はタレントとしてテレビで活躍していた金田正一が監督に就任し、オリオンズでも金田の代名詞でもある背番号34を引き継いだ。
 全国の注目が一気に集まる球団となった。テレビが情報源だった時代。タレント監督が就任したことによってキャンプから毎日取り上げられた。金田自身がピエロとなり、マスコミの話題を上手く集め、自らCMや雑誌にも積極的に顔を出した。加えて永田雅一オーナーが心血注いで作った本拠地・東京球場が使用できなくなり、仙台を準本拠地として関東圏の球場を借りる状況も話題に拍車をかけた。
 シーズンが始まると球場は連日満員となった。金田監督自らコーチスボックスに立ってスタンドを沸かした。1年目の73(S48)年、パ・リーグは前後期の2シーズン制の短期決戦となったことも大きかった。前年は5位に沈んだチームだったが、見違えるように前期から優勝争いに絡んだ。ドラマチックな戦いも話題を呼んだ。「カネやんブーム」「カネやんダンス」「ラッキーエイト」など、オリオンズにまつわる言葉が連日新聞の見出しとなった。前期の最終盤・神宮での日拓3連戦は3連勝したら優勝という状況で迎え、チケットは早々に売り切れ、テレビも急遽中継を巨人戦から切り替えるという注目を集めた。パ・リーグの人気球団となった1年目は前期・後期とも2位、通算3位で終えた。
 2年目の74(S49)年も前期は惜しくも前年に続き3シーズン連続して優勝争いしながら2位に終わる。後期も激しい優勝争いを繰り広げ、中盤に首位に立つ。終盤にもたつく時期もあったが奇跡的な勝利を積み重ねて後期優勝。プレーオフでも前期優勝の阪急を3連勝で破り、4年ぶりにリーグ優勝を遂げた。セ・リーグでは金田監督の古巣・巨人が前年まで9連覇していたために巨人との日本シリーズに期待が高まったが、巨人の10連覇を阻止して中日が優勝した。日本シリーズでもシーズン同様の戦い方を見せ、4勝2敗で球団創設年以来となる24年ぶりに日本一の座をつかんだ。
 ところが3年目の75(S50)年は故障者も相次ぎ前期は最下位に沈む。後期は盛り返して一時首位に立つなど首位争いに絡むも終盤には引き離され2位、シーズン通算ではBクラスの4位に終わった。
 76(S51)年、前期は阪急の独走し許して3位に終わる。後期は南海と首位争い。中盤には首位に立ち引き離しにかかるも終盤に急失速。その間隙をついて阪急が逆転優勝を許す。前期も後期も阪急が優勝しプレーオフが実施されないシーズンとなり、2シーズン制への再考論が出たが継続する事となった。
 77(S52)年の前期は良いところなく5位に沈む。後期はクラウンが飛び出したものの、中盤にはひっくり返して首位に立つ。終盤に阪急の追い上げを受けたものの逃げ切り、3年ぶりに後期優勝を果たす。しかし、プレーオフでは2勝2敗と踏ん張ったものの最終戦に敗れてリーグ優勝は逃した。
 6年目の78(S53)年はベテランで投手陣のリーダー役だった八木沢荘六を強制的に引退させたことでチームに不協和音が発生する。この騒動の影響もあり前期は5位に沈む。選手会の反発を受け八木沢の引退は撤回したものの、後期中盤には辞任が取り沙汰される。終盤に盛り返して3位に滑り込んだものの、シーズン通算では4位に終わり、オフには辞任して6年間の金田政権に終止符が打たれた。

 ◆監督成績(第一次・73(S48)年~81(S56)年)
  <750試合、366勝319敗65分、勝率.543、日本一1回(後期優勝2回)> 


 ★《7代》1979(S54)年~1984(S59)年・6年 劔持 貴寛(節雄)(けんもち たかひろ(たけお)) 外野手(在籍6年)

  ※1979(S54)年まで節雄、80年から貴寛

  1953(S28)年5月16日生(移籍時25歳)、右投右打
  (出身・広島)岡山・岡山日大高(–)–広島(72~78)–ロッテ(79~84)

 【劔持 貴寛 背番号変遷】34(6)
 1979(S54)年に広島との複数トレード(劔持+望月卓也+平田英之⇔金田留広+渡辺秀武)で移籍した劔持節雄が、背番号34を引き継いだ。77(S52)年にはウエスタン・リーグで首位打者を獲得していた。
 広島では二軍暮らしが長かったが、移籍1年目の79(S54)年は後期の9月に一軍合流。2日の南海後期9回戦(川崎)に途中から中堅に入り移籍後初出場。5日の近鉄後期6回戦(日生)では代走で出場し回った打席で移籍後初安打を記録する。以降、シーズン最後まで一軍に帯同し、代走、守備固めで自身最多となる32試合に出場し、打率.182を記録した。翌80(S55)年も後期に入り一軍合流。前年同様に出場し40試合に出場、打率.281と好調な打撃を見せた。プレーオフにも代走と守備固めで出場した。
 81(S56)年は5月に合流。当初は代走が主だったが、好調な打撃を見せスタメンでも起用され前期優勝に貢献。後期も代走、守備固めが主だったが、8月30日の近鉄後期8回戦(日生)では自身初本塁打も記録する。最終的に61試合に出場し、打率.300で終えた。プレーオフでも5戦中4戦に途中出場した。
 82(S57)年は初の開幕一軍ベンチ入り。2戦目で代走で出場し回った打席でヒットを放つスタート。それでも新谷吉孝、芦岡俊明ら若手が好調で控えに回る。しかし、新谷がケガで離脱し芦岡の状態も落ちてくると劔持の出番も多くなる。中盤にはスタメンにも起用される試合が増え、打率も2割台後半をキープする。トップバッターも務め、最終的に105試合に出場し、打率.264、1本塁打11打点を記録した。
 レギュラー獲得も視野に入れた83(S58)年だったが、高沢秀昭が台頭し71試合の出場に留まり、4本塁打を放ったものの、打率は.235に終わる。84(S59)年は有藤道世が外野にコンバートされてさらに出場試合数を減らし、加えて打撃も低調で68試合に出場し、打率.217に終わる。オフには田野倉利長内野手とのトレードで中日に移籍した。

 ◆在籍時通算打撃成績<379試合、打率.252、656打数165安打、6本塁打、40打点、29盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初打席<1979(S54)年9月2日・南海後期9回戦/H(川崎)/途中中堅/1打0安>
 ◇ロッテ初安打<1979(S54)年9月5日・近鉄後期6回戦/R(日生)/代走中堅/1打1安>
 ◇初打点<1980(S55)年9月2日・南海後期11回戦/H(川崎)/途中中堅/犠飛>
 ◇初スタメン<1980(S55)年10月8日・阪急後期13回戦/R(西京極)/2番中堅/6打1安>
 ◇初本塁打<1981(S56)年8月30日・近鉄後期8回戦/R(日生)/代走右翼/橘健治から>


 ★《8代》1985(S60)年~1989(H1)年・5年 笠原 栄一(かさはら えいいち) 投手(在籍9年)

  1966(S41)年6月11日生(入団時18歳)、右投右打
  群馬・佐波農業高(–)–ロッテ/千葉ロッテ(85〜93)–ダイエー(94〜96)

 【笠原 栄一 背番号変遷】34(5) ⇒ 41(4)
 1984(H6)年のドラフト1位で群馬・佐波農業高校から入団した笠原栄一が、背番号34を引き継いだ。
 1年目の85(S60)年、2年目の86(S61)年と二軍で研鑽し、その2年目のシーズン最終盤に一軍初登録される。10月18日の阪急25回戦(川崎)に初登板初先発のマウンドに上がる。しかし、4回途中まで3失点で降板しプロ初黒星を喫する。翌19日の日本ハム25回戦(川崎)にも2度目の先発。この試合も3回途中2失点で降板し連日黒星。2日間で2先発2敗という珍しい記録を作る(但し両日ともダブルヘッダーの第1試合のため連続試合にはならず)。2年目はこの2試合の登板に終わり、防御率7.11だった。
 3年目の87(S62)年は開幕直後の4月中旬に中継ぎとして登録される。しかし2試合に登板してともにピンチを断つ事が出来ずに降板し登録抹消。最終的にこの2試合の登板に留まった。翌88(S63)年は一軍と二軍を往復する。最終的に6試合に登板(偵察試合もあり記録は11試合)、0勝4敗、防御率7.00だった。
 89(H1)年は1試合に登板、1回を投げ勝ち越しを許して黒星を喫して抹消され、登板は1試合に留まった。オフには金田正一監督の復帰に伴い、背番号を34から41に変更した。

 ◆在籍時通算投手成績<20試合、0勝8敗、防、0S、-H、13先発、0完封、33奪三振>
 ◇初登板、初先発<1986(S61)年10月18日・阪急25回戦/H(川崎)/3.2回3失●>


 ★《9代》1990(H2)年~1991(H3)年・2年 金田 正一(かねだ まさいち) 一軍監督(在籍8年)

 ※球歴の詳細は上段『6代』へ

 【金田 正一 背番号変遷】34(6)、34(2)
 1990(H2)年に金田正一監督が復帰。再び背番号34を背負った。若手の有望株の多い投手陣への手腕に期待が高まった。
 90(H2)年は、投手陣では村田兆治が間隔を空けらがらも柱となり、前田幸長、小宮山悟といった若手も徐々に結果を出しつつあった。打線も助っ人ディアスが3割30本100打点、西村徳文が首位打者を獲得、堀幸一、初芝清といった若手も台頭し活躍した一方で牛島和彦のが故障、移籍した高橋慶彦の不振と誤算もあり5位に終わる。オフにはドラフトで8球団競合の末、小池秀郎をくじ引きで交渉権を得るも入団を拒否される。
 91(H3)年は、前年で村田が引退した投手陣では伊良部が不調、牛島も復帰ならずと苦しい台所が続いた。打線は頼みのディアスが骨折して離脱し低空飛行が続く。シーズン中には川崎球場の老朽化や観客動員低迷への抜本的打開策として、千葉県千葉市への移転を決め、川崎時代最後の監督となった。平井が首位打者を獲得したものの、シーズン全般低迷し最下位に終わり、2年限りで退団した。

 ◆監督成績(第二次・90(H2)年~91(H3)年)
  <260試合105勝148敗7分、勝率.415>
  総計<1010試合、471勝467敗72分、勝率.502、日本一1回(後期優勝2回)>


※1992(H4)~1993(H5)年 空番


 ★《10代》1994(H6)年~1995(H7)年・2年 加藤 高康 投手(在籍2年)

  1969(S44)年6月7日生(入団時24歳)、左投左打
  宮城・仙台商業高(–)–東海大–NTT東北–千葉ロッテ(94〜95)

 【加藤 高康 背番号変遷】34(2)
 1993年のドラフトでこの年から導入された逆指名1位、NTT東北から入団した加藤高康が、金田退団後2年間空番だったマリーンズ初代となる背番号34を引き継いだ。
 1年目の94(H6)年は二軍スタートだったものの7月に登録。10日のオリックス18回戦(神戸)に初登板初先発。5回1失点と好投したものの初黒星を喫する。しかし、30日のダイエー17回戦(福岡D)では6回途中まで1失点と再び好投し、初勝利をマーク。8月6日の日本ハム18回戦(千葉マリン)では初完封勝利を挙げる。以降、ローテーションに加わり、最終的に12試合(9先発)に登板し2勝4敗、防御率3.89に終わり、翌年の飛躍が期待された。
 ところが95(H7)年は左ひざなどのケガに見舞われ二軍でも未登板に終わり、オフには戦力外となった。渡米してマイナーに挑戦した。

 ◆在籍時通算投手成績<12試合、2勝4敗、防3.89、0S、-H、9先発、1完封、19奪三振>
 ◇初登板、初先発<1994(H6)年7月10日・オリックス18回戦/R(GS神戸) /先発/5回1失●>
 ◇初勝利<1994(H6)年7月30日・ダイエー17回戦/R(福岡D) /5.2回1失>
 ◇初完投、初完封<1994(H6)年8月6日・日本ハム18回戦/H(千葉マリン)/先発/9回0失>


 ★《11代》1996(H8)年~1997(H9)年・2年 仲田 幸司(なかだ こうじ) 投手(在籍2年)

  1964(S39)年6月16日生(移籍時31歳)、左投左打
  沖縄・興南高(–)–阪神(84~95)–千葉ロッテ(96~97)

 【仲田 幸司 背番号変遷】34(2)
 1995(H8)年オフにFA宣言して阪神から移籍した仲田幸司が、背番号34を引き継いだ。
 移籍1年目の96(H8)年は開幕二軍スタートだったが、5月に一軍登録され、19日の日本ハム9回戦(千葉マリン)に3番手として籍後初登板を果たし、22日の近鉄7回戦(ナゴヤ)には初先発する。しかし、初回に4点を失い2.1回で降板し登録を抹消される。シーズン終盤に再登録されリリーフを主にマウンドに上がったものの、このシーズンは9試合の登板に留まり0勝1敗、防御率は6.23に終わる。97(H9)年も開幕は二軍スタート。5月に一軍登録されリリーフとしてマウンドに上がる。しかし、10試合の登板に留まり二軍落ち。オフには戦力外となり引退した。

 ◆在籍時通算投手成績<19試合、0勝1敗、防6.58、0S、-H、2先発、0完封、28奪三振>
 ◇初登板<1996(H8)年5月19日・日本ハム9回戦/H(千葉マリン)/3番手完了/1回1失>
 ◇初先発<1996(H8)5月22日・近鉄7回戦/R(ナゴヤ)/先発/2.1回4失勝敗なし>


 ★《12代》1998(H10)年・1年 渡部 高史(わたべ たかし) 投手(在籍1年)

  1972(S47)年8月27日生(移籍時25歳)、左投左打
  北海道・札幌琴似工高(–)–横浜(91~94)–オリックス(95~97)–千葉ロッテ(98)

 【渡部 高史 背番号変遷】34(1)
 1998(H10)年に五十嵐章人とのトレードでオリックスから移籍した渡部高史が、背番号34を引き継いだ。
 横浜、オリックスに7年在籍した経験から、左のリリーフとして期待されたが、一軍未登板に終わり引退した。

 <一軍未出場>


 ★《13代》1999(H11)年~2006(H18)年途中・7年5ヶ月 川井 貴志 投手(在籍8年)

  1976(S51)年9月16日生(入団時22歳)、左投左打
  大阪・大阪桐蔭高(–)–城西大–千葉ロッテ(99〜06)

 【川井 貴志 背番号変遷】34(7+途中)
 1998(H10)年のドラフト3位で城西大学から入団した川井貴志が、背番号34を引き継いだ。
 1年目の99(H11)年から開幕一軍入り。4月6日のダイエー1回戦(福岡D)に4番手として初登板を果たす。リリーフとしてマウンドの上がり、6月6日の西武12回戦(西武D)に初先発。しかし、3回途中3失点で初黒星を喫する。結局、ルーキーイヤーは7試合(1先発)に登板し0勝1敗、防御率14.63で終えた。
 2年目の2000(H12)年も開幕一軍入りし、リリーフとしてマウンドに上がる。5月3日の近鉄5回戦(千葉マリン)では先発として5回を1失点でしのぎ、自身初勝利を挙げる。その後もリリーフとローテーションの谷間を埋め、9月8日の近鉄22回戦(千葉マリン)では1失点完投勝利もマークした。最終的に22試合(7先発)に登板し4勝3敗、防御率4.71で終えた。翌01(H13)年はリリーフとしての比重が多くなり、25試合(3先発)に登板し2勝2敗、防御率3.38だった。
 02(H14)年もリリーフとしてマウンドの上がり好投を見せる。徐々に大事な場面での登板も増え、藤田宗一とともに左のリリーフとして、小林宏之、小林雅英につなぐ役割を果たす。その一方で4試合の先発マウンドにも上がった。最終的に自己最多となる51試合に登板し4勝1敗、防御率2.76と好投した。03(H15)年もリリーフとしてマウンドに上がり、前年を上回る2年連続50試合登板となる54試合(2先発)に登板し4勝0敗、ただ、防御率は4.42と前年を下回った。04(H16)年は新任のバレンタイン監督から中継ぎ専念の指示を受ける。このシーズンは自身初めてリリーフのみの47試合に登板したが、状態は今一つ。2勝3敗、防御率は7.11だった。
 05(H17)年も状態が上がらない。序盤は一軍のマウンドに上がったものの、状態が上がらず後半は二軍暮らし。最終的に11試合の登板に留まり、防御率8.10だった。翌06(H18)年は開幕から一軍登板なく二軍で調整。5月22日に新里賢とのトレードで楽天に移籍した。

 ◆在籍時通算投手成績<217試合、16勝10敗、防4.74、0S、0H、19先発、0完封、229奪三振>
 ◇初登板<1999(H11)年4月6日・ダイエー1回戦/R(福岡D)/4番手完了/0.2回0失>
 ◇初先発<1999(H11)年6月6日・西武12回戦/R(西武D)/先発/2.2回3失●>
 ◇初勝利<2000(H12)年5月3日・近鉄5回戦/H(千葉マリン)/先発/5回1失>
 ◇初完投<2000(H12)年9月8日・近鉄22回戦/H(千葉マリン)/先発/9回1失>
 ◇初ホールド<2005(H17)年6月4日・阪神5回戦/R(甲子園)/2番手/1回0失>


※2007(H19)年~2008(H20)年 空番


 ★《14代》2009(H21)年~2016(H28)年・8年 木村 優太(雄太)(きむら ゆうた) 投手(在籍8年)

   ※2012(H24)年まで雄太、13年から優太

  1985(S60)年5月21日生(入団時23歳)、左投左打
  秋田・秋田経済法科大附属高(–)–東京ガス–ロッテ(09~16)

 【木村 優太 背番号変遷】34(8)
 2008(H20)年のドラフト1位で東京ガスから入団した木村優太が、2年空番だった背番号34を引き継いだ。前年のドラフトでは横浜から指名を受けたものの入団を拒否していた。
 即戦力左腕として期待されたがケガもあり、1年目の09(H21)年と2年目の10(H22)年は一軍未登板に終わる。3年目11(H23)年の夏場にようやく一軍登板。8月24日のおソフトバンク16回戦(Yahoo!D)に2番手として初登板し1回を無失点で切り抜ける。以降、一軍に帯同し、9月18日のオリックス20回戦(QVCマリン)では2番手で1回無失点で初ホールドを記録するなど、最終的に13試合に登板し、防御率3.38だった。しかし、12(H24)年は4試合の登板に留まり、登録名を優太に変更した13(H25)年は再び一軍未登板に終わる。
 6年目となった14(H26)年は5月に一軍合流。リリーフでマウンドに上がったが好投が認められ、先発にも回る。終盤に調子を崩したものの、最終的に19試合(2先発)に登板し0勝1敗、防御率5.35で終えた。
 翌15(H27)年は開幕一軍入り。リリーフで黒星を喫したものの、4月8日のオリックス2回戦(京セラD)で先発し、5回1失点で切り抜け、7年目にして初白星を挙げる。その後も3試合に先発するも2敗を喫する。最終的に5試合(4先発)に登板し1勝3敗、防御率7.79で終えた。16(H28)年はリリーフのみで6試合に登板したものの0勝1敗、防御率4.22で終え、オフには戦力外となり引退した。

 <47試合、1勝6敗、防5.24、0S、1H、6先発、0完封、56奪三振>
 ◇初登板<2011(H23)年8月24日・ソフトバンク16回戦/R(yahoo!D)/2番手/1回0失>
 ◇初ホールド<2011(H23)年9月18日・オリックス20回戦/H(QVCマリン)/2番手/1回0失>
 ◇初先発<2014(H26)年9月7日・楽天21回戦/H(QVCマリン)/先発/4回3失●>
 ◇初勝利<2015(H27)年4月8日・オリックス2回戦(京セラD)/先発/5回1失>


 ★《15代》2017(H29)年~2022(R4)年・6年 土肥 星也(どひ せいや) 投手(在籍8年目)

  1995(H7)年7月7日生(入団時21歳)、左投左打
  (出身・大阪)香川・尽誠学園高(–)–大阪ガス–千葉ロッテ(17〜24)

 【土肥 星也 背番号変遷】34(6) ⇒ 121(2)
 2016(H28)年のドラフト4位で大阪ガスから入団した土肥星也が、背番号34を引き継いだ。
 1年目の17(H29)年は5月に一軍初合流。10日の楽天6回戦(Koboパーク)に2番手で初登板を果たす。以降、リリーフとしてマウンドに上がり、13日の日本ハム8回戦(東京D)に2番手で2回無失点で切り抜け初ホールドを記録する。ルーキーイヤーは18試合に登板し0勝1敗2ホールド、防御率9.31で終えた。翌18(H30)年は先発に転向。開幕から二軍で登板し5月に一軍合流。20日のソフトバンク7回戦(ZOZOマリン)に初先発。この試合は勝敗はつかなかったものの、4度目の先発となった8月16日の日本ハム20回戦(札幌D)で6回途中まで2失点と好投し、プロ初勝利をマークする。このシーズンは6試合に先発し2勝1敗、防御率5.08だった。
 19(R1)年は7月7日の西武戦にシーズン初先発し、5回1失点で初勝利を挙げる。以降もローテーションの谷間で先発し、6試合に先発し1勝0敗、防御率3.13とまずまずの数字を残したが、オフには左ヒジのクリーニング手術を受けた。翌20(R2)年は手術の影響で一、二軍とも未登板に終わる。
 21(R3)年は二軍で復調に努め、9月に一軍登録される。その当日の23日のソフトバンク戦で先発予定だった佐々木朗希が先発を回避。土肥が急遽先発マウンドに上がった。しかし、2回3失点で黒星を喫する。このシーズンの一軍登板はこの1試合だった。翌22(R4)年はリリーフとして二軍で登板。しかし、一軍登板は1試合に留まる。オフには戦力外通告を受けたが、育成選手として再契約を結び背番号を121に変更した。

 ◆在籍時通算投手成績<32試合、4勝3敗、防5.47、0S、2H、13先発、0完封、58奪三振>
 ◇初登板<2017(H29)年5月10日・楽天6回戦/R(Koboパーク)2番手/1回0失>
 ◇初ホールド<2017(H29)年5月13日・日本ハム8回戦/R(東京D)/2番手/2回0失>
 ◇初先発<2018(H30)年5月20日・ソフトバンク7回戦/H(ZOZOマリン)/先発/4.2回2失勝敗なし>
 ◇初勝利<2018(H30)年8月16日・日本ハム20回戦/R(札幌D)/5.2回2失>


 ★《16代》2023(R5)年~25(R7)年は3年目 高野 脩汰(たかの しゅうた) 投手(25年は在籍3年目)


※背番号年数は、着用年数のみ。年数1年未満の場合は月数で表示しています。
※在籍年数は現役としての年数。シーズン途中移籍や入団も1年として算出。
※監督歴は他球団の監督歴も表記、コーチ歴はオリオンズ&マリーンズのみ表記。
※高校の(甲)は甲子園出場、(–)は出場無し。
※通算成績は背番号時に関係なく在籍時の通算成績です。
※記録内の◆はタイトル、表彰、主な記録。◇は節目の記録。
※初出場等の記録のHホーム、Rロードの略。
※タイトル、表彰、記録は在籍時に表彰を受けたものを対象としています。
※イースタン表彰のFA(JA)はフレッシュ(ジュニア)オールスタの略


(次回)⇒《有料・冒頭試読》「35」初代監督から、外野手の出世番号へ


--- オリオンズ&マリーンズ 背番号の系譜 INDEX ---

《全文無料公開》「1」巧打好守の好選手の歴史
《有料・冒頭試読》「2」3人の高卒新人開幕スタメン
《有料・冒頭試読》「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜
《有料・冒頭試読》「4」職人肌野手と助っ人の系譜
《有料・冒頭試読》「5」歴代最少11人、打撃職人の系譜
《有料・冒頭試読》「6」落合が生んだ打線主軸の系譜
《有料・冒頭試読》「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜
《有料・冒頭試読》「8」看板打者の系譜
《全文無料公開》「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也
《全文無料公開》「0」新しい系譜は快足とリリーフエースの系譜に
《全文無料公開》「00」最も新しい系譜は助っ人、俊足の系譜
《有料・冒頭試読》「10」投手と野手混在の系譜、3000本安打張本勲も背負う
《有料・冒頭試読》「11」左腕の系譜もマリーンズではリリーフの系譜へ
《有料・冒頭試読》「12」球団初戦先発投手から続く投手 時々 打者の系譜
《有料・冒頭試読》「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ
《有料・冒頭試読》「14」球団創設から続く主力投手の系譜
《有料・冒頭試読》「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
《有料・冒頭試読》「16」トレード移籍投手の系譜】
《有料・冒頭試読》「17」佐々木朗希につながるエースの系譜
《有料・冒頭試読》「18」植村義信で生まれたエースの称号
《有料・冒頭試読》「19」投手系譜の背番号も名捕手から始まった
《有料・冒頭試読》「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
《有料・冒頭試読》「21」投手と野手が混在の系譜は、監督の顔に
《有料・冒頭試読》「22」捕手の系譜から助っ人の新しい歴史へ
《有料・冒頭試読》「23」主軸野手が紡いだ背番号23
《有料・冒頭試読》「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ
《有料・冒頭試読》「25」正統・打撃職人の系譜
《有料・冒頭試読》「26」TEAM26、マリーンズファンの背番号を振り返る
《有料・冒頭試読》「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
《有料・冒頭試読》「28」助っ人、野手から投手の系譜へ
《有料・冒頭試読》「29」サンデー兆治が育て、サンデー晋吾が継いだエースの称号
《有料・冒頭試読》「30」監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ
《有料・冒頭試読》「31」野手の出世番号から投手の背番号へ
《有料・冒頭試読》「32」主力選手から職人野手の背番号、そして捕手の新しい歴史へ
《有料・冒頭試読》「33」2人の殿堂入り胴上げ監督の背番号
《全文無料公開》「34」400勝投手監督から投手の背番号に
《有料・冒頭試読》「35」初代監督から、外野手の出世番号へ
《有料・冒頭試読》「36」36からの飛躍した三井、サブロー
《有料・冒頭試読》「37」投手、野手、助っ人、25代の系譜
《有料・冒頭試読》「38」強心臓投手と大砲候補の系譜
《有料・冒頭試読》「39」投手・野手から捕手の系譜へ
《有料・冒頭試読》「40」多士済々のメンバーが連なる系譜
《有料・冒頭試読》「41」期待の星から主軸へ、チーム支えた成長の系譜
《有料・冒頭試読》「42」多彩な系譜オリオンズ~マリーンズは助っ人の系譜
《有料・冒頭試読》「43」土肥から捕手の系譜~ウォーレン、ミンチー助っ投の系譜
《有料・冒頭試読》「44」顔に育てた山本功児、井上晴哉の背番号《有料・冒頭試読》「45」得津、横田、堀、田村と並ぶ、出世番号の系譜
《有料・冒頭試読》「46」成田文男から続く、主軸投手の系譜
《有料・冒頭試読》「47」打者のチームから投手のチームへ変貌させた300勝投手の背番号47
《有料・冒頭試読》「48」リリーフ左腕、代打、好守、チームを下支えした系譜
《有料・冒頭試読》「49」職人選手の出世番号
《有料・冒頭試読》「50」2人の殿堂入り監督が背負った背番号50
《全文無料公開》「51」東京球場で舞った51、航輝が育てる
《有料・冒頭試読》「52」大沢親分から立川、塀内、そしてマウンドで躍動する52へ
《有料・冒頭試読》「53」ベテラン、コーチの53から捕手の印象付けた2人の捕手
《有料・冒頭試読》「54」2人の殿堂入りコーチから、マウンドで躍動する54へ
《有料・冒頭試読》「55」初代殿堂入りコーチから、技巧派外野手の系譜
《有料・冒頭試読》「56」短命続いた系譜も隠れた出世番号
《有料・冒頭試読》「57」57のイメージ残した佐藤幸彦
《有料・冒頭試読》「58」2人の「毅」が刻んだ58の系譜
《有料・冒頭試読》「59」捕手の系譜から野手、そして投手の系譜へ
《有料・冒頭試読》「60」首脳陣、裏方の背番号から出世番号へ
《有料・冒頭試読》「61」角中勝也が躍動させた背番号61
《有料・冒頭試読》「62」息の長い野手が継いだ背番号
《有料・冒頭試読》「63」小野晋吾、種市篤暉M投手の出世番号に
《有料・冒頭試読》「64」短命が続いた背番号も二木康太が出世番号に
《有料・冒頭試読》「65」コーチ番号も榊親一、大塚明と出世野手に
《有料・冒頭試読》「66」ユウゴー、岡田幸文と息の長い背番号に
《有料・冒頭試読》「67」意外な出世番号67
《有料・冒頭試読》「68」山内監督、猪久保、早坂と多彩な系譜
《有料・冒頭試読》「69」裏からチーム支えた3捕手から現役の系譜へ
《全文無料公開》「70」福浦が原点に戻った背番号70
《全文無料公開》「71」二軍監督が引き継いだ背番号71
《全文無料公開》「72」稲尾監督が背負った72はコーチの系譜
《全文無料公開》「73」OBコーチが引き継いだ背番号73
《全文無料公開》「74」初代現役以外はコーチが細かく継いだ背番号
《全文無料公開》「75」コーチの顔、高沢秀昭、堀幸一が13年背負った背番号
《全文無料公開》「76」コーチの系譜もフローレスが唯一の現役
《全文無料公開》「77」監督から始まった背番号77の系譜

※参考文献、参考WEBは『プロローグ』から

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 200〜
Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

2023年シーズンは千葉ロッテマリーンズ74度目のシーズン。 73年間の歴史を振り返りつつ、今シーズ…

オリオンズ&マリーンズ博物館 メンバーシップ

¥500 / 月

週2本ペースで毎日オリオンズからロッテオリオンズまでの歴史を辿ります。資料の読み込み含め、長い長い時間をかけた連載になりそうなので、3回目からは有料制(定期購読/月300円・単体100円)と致します。 結果や記録は書物やネットで収得出来るので、違った角度(球団運営、インタビュー、新聞記事、思い出、内緒話等)から記していきます。

手元にある世に出ている資料、手元で眠っている表に出ていない資料に加え、関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?