《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「27」(2026)】主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
(写真 中央・捕手のエースナンバーとして17代田村龍弘、左上から・4番にも座った初代三宅宅三、ミサイル打線支えた捕手4代谷本稔、完全試合を達成して涙する7代八木沢荘六、抑えの切り札からエースへケガから復活マリーンズ1勝目で涙の10代牛島和彦、ルーキから抑えの切り札11代河本育之、念願だった捕手のエースナンバー背負った13代清水将海)
「27」 主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
オリオンズ&マリーンズの背番号27の系譜は、意外にも主力選手の系譜だ。初代の三宅宅三から始まり、毎日・大毎時代は谷本稔も背負った主力打者の系譜だった。その流れを変えたのは完全試合も達成し、13年背負った八木沢荘六だった。以降、オリオンズの終盤には牛島和彦、マリーンズとなってからは河本育之、戸部浩、古谷拓哉と投手が継いでいた。
そして昨季から捕手の田村龍弘が継いだ。マリーンズでは、投手が継いだ背番号27だったが、2003年と04年の2年間だけ清水将海が背負っていた。「捕手のエースナンバー」とも言われ、清水も「名捕手のイメージが強く欲しかった背番号」と念願の背番号27だった。2年で移籍して以降投手が継いでいたが、その背番号を田村が継ぎ、新しい背番号の系譜を作っていく。
----- 現在の背番号「27」 -----
★《17代》2023(R5)年~現在・25年は3年目 田村 龍弘(たむら たつひろ) 捕手(在籍12年目)
1994(H6)年5月13日生(入団時18歳)、右投右打
(出身・大阪)青森・光星学院高(甲)–千葉ロッテ(13〜)
【田村 龍弘 背番号変遷】45(4) ⇒ 22(6) ⇒ 27(3)
→ 田村龍弘 背番号 45 へ(有料エリア)
→ 田村龍弘 背番号 22 へ(有料エリア)
自身10年目の2023(R5)年に、前年2試合の出場に終わった田村龍弘が6年間背負った背番号を22から27に変更した。
23(R5)年は2年ぶりに開幕スタメンマスクを被る。ところが序盤は開幕直後に無安打が続くなど打率は1割台前半と低迷。5月24日には3年ぶりに一発を放つなど徐々に状態を取り戻すものの、佐藤都志也と併用起用される。最終的にフルシーズン一軍で過ごしたが、78試合(捕手は76試合)に出場し、打率.166と2割を切った数字で終わった。
24(R6)年も正捕手の座を佐藤都志也に譲る形となり、ベンチで控える試合が多くなる。最終的に51試合の出場に留まり、打率.200、14打点に終わった。
25(R7)年も開幕一軍は果たしたものの、ベンチで控える試合が続く。打撃も振るわず打率も1割台に低迷し、2年目の寺地隆成の成長もあり5月中旬に抹消。6月中旬に再登録され、引き続き第3捕手としてベンチで控える。打撃の状態も上がり2年ぶりに一発放ったものの9月初旬に抹消され、そのままシーズンを終えた。最終的に18試合に出場、打率.158、1本塁打3打点に終わった。ー
(2025(R7)年 シーズン終了時)
◆在籍時通算打撃成績<990試合、打率.220、2524打数555安打、20本塁打、256打点、19盗塁>
◇初出場、初打席<2013(H25)年7月14日・日本ハム11回戦/R(札幌D)/代打捕手/1打0安>
◇初安打<2013(H25)年7月15日・ソフトバンク13回戦/H(QVCマリン)/途中捕手/2打1安>
◇初打点<2013(H25)年7月25日・西武13回戦/R(西武D)/代打捕手/2打0安/内野ゴロ>
◇初スタメン<2014(H26)年7月14日・ソフトバンク13回戦/H(QVCマリン)/8番捕手/3打0安>
◇初本塁打<2015(H27)年6月13日・巨人2回戦/H(QVCマリン)/8番捕手/杉内俊哉から>
※在籍時に選出された表彰
◆ベストナイン(2016年/捕手)
◆月間MVP(2016年6月/野手)
◆最優秀バッテリー賞(2016年 投手/石川歩)
◆月間最優秀バッテリー賞(2020年8月 投手/益田直也)
----- オリオンズ&マリーンズ「27」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1957(S32)年・8年 三宅 宅三(みやけ たくぞう) 内野手(在籍9年)
1921(T10)年4月16日生(入団時28歳)、右投右打
岡山・(旧制)玉島中(現玉島商業高)(–)−明治大−倉敷工業高(監督)−毎日(50〜57)−毎日/大毎/東京コーチ(58〜59、63〜65)
【三宅 宅三 背番号変遷】27(8) ⇒ 53(1)、コーチ/53(1)、65(3)
明治大学を卒業後、岡山・倉敷工業高校の監督として前年には甲子園に導いていた三宅宅三が、球団設立時にテスト入団し、初代背番号27を背負った。
球団創設初戦に6番一塁でスタメンに抜擢され初出場。その試合は無安打に終わったものの、押し出し四球で初打点を記録した。球団4戦目の3月16日の阪急1回戦(大須)に代打で登場して初安打を記録。しかし、以降は打撃が低調で打率も2割を割り一軍を離れる。その後、一軍と二軍を往復し、シーズン終盤には徐々に状態を上げたが、1年目は37試合に出場し、打率.231、1本塁打、9打点に終わる。日本シリーズにも2試合に出場したが無安打に終わった。
翌51(S26)年は外野も守る。ハワイ遠征の一軍ではなく留守軍に入りキャンプイン。留守軍で組まれた開幕戦に3番中堅でスタメン出場する。一軍メンバー帰国後も一軍に帯同し、外野と一塁でスタメン起用される。最終的に88試合に出場し規定打席に到達。打率.281と前年から数字を大幅に上げリーグ16位、8本塁打39打点と飛躍した。
52(S27)年は開幕一軍を外れて4月中旬に合流。合流後は一塁と外野でスタメン起用され、4割近い打率をマークして4番に起用される。夏場には調子を落とし4番を外れる。9月にはケガで離脱したものの復帰後も3番として2割台後半の打率をキープし、最終的に打率.291でリーグ12位、18本塁打69打点と打線を引っ張ったシーズンとなった。
53(S28)年は開幕戦で4番一塁でスタメン出場する。山内和弘の加入で4番を渡すが、3番に入り3割前後の打率をキープする。最終的に113試合に出場し、打率.272(リーグ22位)、14本塁打63打点だった。ところが翌54(S29)年は一転して不振に陥る。開幕は3番一塁でスタメン出場も状態が上がらない。山内が開幕から離脱したこともあり4番にも座るが、打率は2割前後で低迷。最終的に規定打席に到達したものの打率は.199と2割を割り(リーグ47位)、9本塁打45打点と低迷した。
55(S30)年は榎本喜八が入団し一塁に固定され、外野に専念する。開幕スタメンは外れたものの、打撃が好調で右翼と中堅の定位置を確保する。前半は打率.292、7本塁打で折り返す。終盤に調子を落としスタメンを外れ規定打席に届かなかったものの、打率.276、15本塁打46打点と復活したシーズンとなった。翌56(S31)年も好調な打撃を武器に外野の一角を占める。後半は1番にも座り、最終的に打率.274、7本塁打37打点だった。
57(S32)年は主将に任命される。主将として若手の指導も役割の一つとなり、一軍を離れて二軍で若手の指導に当たる。一軍と二軍の往復が多くなり、最終的に33試合の出場に留まり、打率.200、1本塁打4打点に終わった。オフには背番号を53に変更した。
→ 三宅宅三 背番号 53 へ
→ コーチ/三宅宅三 背番号 65 へ
◆在籍時通算打撃成績<723試合、打率.262、2087打数547安打、73本塁打、312打点、125盗塁>
◇初出場、初スタメン、初打席、初打点<1950(S25)年3月11日球団初戦・西鉄1回戦/H(西宮)/6番一塁/4打0安/初打点押し出し四球>
◇初安打<1950(S25)年3月16日・阪急1回戦/H(大須)/代打/1打1安>
◇初本塁打<1950(S25)年8月16日・近鉄12回戦/H(後楽園)/代打/黒尾重明から>
◇オールスター出場/1回(52)
★《2代》1958(S33)年~1959(S34)年・2年 新井 茂(あらい しげる) 外野手(在籍2年)
1935(S10)年9月29日生(入団時22歳)、左投左打
群馬・藤岡高(–)–高崎鉄道局–大映(55~57)–大毎(58~59)
【新井 茂 背番号変遷】27(2)
1958(S33)年に大映との合併で入団した新井茂が背番号27を引き継いだ。
大映では外野の準レギュラーとして活躍していた。若手の台頭もあり外野手争いが激化した中で、58(S33)年は6番中堅で開幕2戦目にスタメン出場を果たし、大毎初安打も記録する。その後もスタメン出場しつつ代打としても出場し、2割台後半の打率を維持する。しかし、後半に入ると失速して二軍落ち。最終的に打率.229、1本塁打6打点に終わる。
翌59(S34)年は4月に代打で1試合に出場したものの無安打。最終的に一軍での出場はこの1試合に終わり、59年限りで引退した。
◆在籍時通算打撃成績<56試合、打率.226、84打数19安打、1本塁打、6打点、0盗塁>
◇大毎初出場、大毎初打席、大毎初安打<1958(S33)年4月12日・西鉄1回戦/H(後楽園)/6番中堅/4打0安>
◇大毎初打点<1958(S33)年5月13日・南海3回戦/R(大阪)/途中左翼/2打0安/犠飛>
◇大毎初本塁打<1958(S33)年7月13日第2・近鉄15回戦/R(日生)/途中右翼/田中照雄から>
★《3代》1960(S35)年・1年 保坂 幸永(ほさか ゆきなが) 捕手(在籍3年)
1931(S6)年8月13日生(移籍時26歳)、右投右打
山梨・日川高(甲)–立教大−大映(56〜57)−大毎(58〜60)
【保坂 幸永 背番号変遷】47(2) ⇒ 27(1)
→ 保坂幸永 背番号 47 へ(有料エリア)
大映時代は捕手として活躍し、合併に伴い一度は引退し大毎の二軍コーチとなったが、その強肩が認められ投手として現役復帰し、1960(S35)年に3年目を迎えていた保坂幸永が背番号を47から27に変更した。
しかし、投手としての出番はなく、偵察要員として1試合に登録されたのみで、60年限りで引退した。
◆在籍時投手成績<一軍未登板>
◆在籍時打者成績<2試合・偵察要員のみ>
★《4代》1961(S36)年~1964(S39)年・4年 【サイン】谷本 稔(たにもと みのる) 捕手(在籍7年)

1937(S12)年2月1日生(移籍時21歳)、右投右打
愛媛・八幡浜高(–)–大映(55~57)–大毎/東京(58~64)–阪神(65~68)
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