《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「11」(2026)】主軸左腕の系譜もマリーンズではリリーフの系譜へ
(写真 中央・今季から背番号11を背負う13代カスティーヨ、左上から・2冠タイトル新人王の初代荒巻淳、9年背負った2代妻島芳郎、引退後長年裏方として支えた3代池田重喜、右上から、10から11へ左腕エース5代水谷則博、左腕エースを継いだ6代前田幸長、先発中継ぎ6年背負った8代竹清剛治)
(13)「11」主軸左腕の系譜もマリーンズではリリーフの系譜へ
背番号11の系譜は、球団創設とともに誕生した大エース左腕から始まった。初代は創設年に新人ながら26勝で最多勝利、防御率2.06で最優秀防御率の2冠初代パ・リーグタイトルホルダーとなった荒巻淳から始まった。その後最優秀防御率の妻島芳郎、川崎球場時代は水谷則博、前田幸長と左腕の主軸につながり、マリーンズとなってからはリリーフ投手に引き継がれた。今シーズンからは期待の助っ人左腕
----- 現在の背番号「11」 -----
★《13代》2026(R8)年〜・26年は1年目 ホセ カスティーヨ(ホセ グレゴリオ カスティーヨ トーバー) 投手(26年は在籍1年目)
1996(H8)1月10日生(入団時30歳)、左投左打
ベネズエラ・−ウニダ・エドゥカティーバ・タレント・デポルティーバ・カマグアン校–米マイナー(12〜17、20〜21、24)–アリゾナ ダイアモンドバックス(22~23、25途中)–ニューヨーク メッツ(25途中)–シアトル マリナーズ(25途中)–ボルチモア オリオールズ(25途中)–千葉ロッテ(26〜)
【ホセ カスティーヨ 背番号変遷】11(1)
2026(R8)年から左の助っ投カスティーヨが背番号11を引き継ぐ。前年は中継ぎとしてメジャー4球団でマウンドに上がった。198cmの長身サウスポーには中継ぎとして期待が高まる。
1年目の26(R8)年は3月11日のオープン戦で左ハムストリングの損傷で離脱。5月に二軍で復帰した。
----- オリオンズ&マリーンズ「11」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1961(S36)年・12年 【殿堂入り、サイン】荒巻 淳(あらまき あつし) 投手(在籍12年)
【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(1985年)


1926(S1)年11月6日生(入団時23歳)、左投左打
大分・旧制大分商業(甲/但し戦時下の為文部省主催で公式大会として記録に入っていない大会)–旧制大分経済専門学校−星野組−毎日/大毎(50〜61)−阪急(62)
【荒巻 淳 背番号変遷】11(12)
社会人・星野組のエースだった荒巻淳が、西本幸雄らとともに毎日に入団。初代・背番号11を背負った。
エース左腕の初登板はリリーフだった。球団創設3戦目に4回途中から2番手として登板。最後まで投げ切りチームは逆転。初勝利を挙げた。以降、先発ローテーションに加わりながらリリーフとしても登板。ルーキーながらフル稼働し、最終的に48試合に登板して19試合に先発、イニングは274.2回。26勝8敗で最多勝利、防御率2.06で最優秀防御率と初代タイトルを獲得。新人王にも選ばれ、パ・リーグ初代優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。
しかし、翌61(S26)年は前年の登板過多とキャンプを兼ねたリーグ選抜チームのハワイでの調整が上手くいかず、31試合に登板したものの、防御率2.42でリーグ6位ながら10勝8敗に終わる。
62(S27)年はさらに登板を減らし26試合、防御率は1.86だったものの7勝6敗に終わった。
「火の玉投手」と呼ばれた速球が大きな武器だったが、肩とヒジの負担と速球に限界を感じてカーブの技術向上に努める。53(S28)には新しい投球スタイルで完全復活。50試合に登板。16試合に先発したが、主にリリーフとしてマウンドに上がり、248回を投げ防御率2.14(リーグ4位)17勝14敗。
54(S29)年はさらにフル回転、49試合271回、24試合に先発、2.32(リーグ8位)で22勝12敗。
55(S30)年は49試合(先発19試合)2.35(リーグ8位)で18勝12敗。56(S31)年は自己最多となる56試合に登板(20試合に先発)し2.12(リーグ8位)で24勝16敗とコンスタントに成績を積み重ねていった。
その後も58(S33)年は52試合(うち先発24試合)とフル回転して防御率2.15で17勝したものの10敗を喫する。
翌59(S34)年はリリーフを主にし、55試合(先発は4試合)に登板し17勝8敗、防御率2.25とリリーフとしてチームを支えた。
しかし、チームが10年ぶりのリーグ制覇を果たした60(S35)年は21試合のリリーフ登板に留まり0勝2敗、防御率はプロ入り以来10年間維持してきた2点台前半から4.15と大きく落とした。
61(S36)年は23試合に登板したものの0勝0敗に終わり、オフに阪急へ移籍した。阪急では1年限りで引退した。
荒巻がオリオンズ在籍時に投げた投球回は2200.2回だった。1シーズン平均183回、フル稼働した10年間だと2134回、1シーズン平均213回というフル稼働だった。また、球団最初の200勝投手と期待されたが、敗戦が107敗と多く、200勝に到達出来なかった要因となった。
◆在籍時投手成績<506試合、173勝107敗、防2.23、169先発、16完封、1067奪三振>
◇初登板、初勝利<1950(S25)年3月15日・南海1回戦/H(大須)、2番手完了、5.1回4失>
◇初先発、初完投<1950(S25)年3月20日・西鉄2回戦(後(後楽園)/先発/9回3失>
◇初完封<1950(S25)年4月14日・西鉄3回戦(後楽園)/先発/9回0失>
◆在籍時打撃成績<522試合、打率.195、717打数140安打、1本塁打、46打点、4盗塁>
◇オールスター出場/5回(53、54、55、56、57)
※在籍時に獲得したタイトル
◆最多勝利(1950年)
◆最優秀防御率(1950年)
※在籍時に選出された主な表彰
◆新人王 (1950年)
◆ベストナイン(1950年/投手)
※在籍時に達成した主な記録
◆リーグ最多無四球試合無しで通算25無四球試合 ※NPB最多
◇100勝(1955年10月8日・トンボ20回戦(川崎)、史上22人目)
◇150勝(1958年8月10日・南海21回戦(後楽園)、史上12人目)
◇500試合登板(1961年7月1日・西鉄9回戦(平和台)、史上10人目)
★《2代》1962(S37)年~1970(S45)年・9年 妻島 芳郎(つましま よしろう) 投手(在籍9年)
1938(S13)年10月9日生(入団時23歳)、右投右打
東京・日大二高(–)−日本通運浦和−大毎/東京/ロッテ(62〜70)
【妻島 芳郎 背番号変遷】11(9)
背番号11を引き継いだのは、1962(S37)年に社会人・日本通運浦和から入団した妻島芳郎だった。
1年目の62(S37)年から一軍登録される。6月に登録されるとその日にリリーフで初登板。2試合で無失点と好投するも3試合目以降は打ち込まれて抹消。7試合に登板し防御率は3.60だった。
翌63(S38)年は開幕は一軍から外れたものの、6月に一軍に合流。当初は敗戦処理登板で再度登録を抹消されたものの7月に再登録されてからは好投が評価され、7月21日の東映戦で4番手として登板してプロ初勝利をマーク。以降は8試合先発マウンドに上がるなど27試合に登板し、防御率2.25で終えた。
3年目の64(S39)年はリリーフとして重要な場面も任されながら、14試合に先発。ロングリリーフもこなしたがシーズン通して防御率は安定。最終的に2.15、151.1回で規定投球回にも達し、6勝5敗ながら最優秀防御率のタイトルを獲得した。
翌65(S40)年も57試合(先発は19試合)に登板し、防御率も2.41(リーグ8位)と安定。10勝9敗と自身初の二桁勝利を挙げた。しかし、翌66(S41)年は登板数を減らす。それでも14試合に先発し、防御率は2.65と安定感は見せた。
翌67(S42)年からは30試合(先発は4試合)、68(S43)年は38試合(先発は1試合)と登板数を減らす。何より安定していた防御率は2.89、3.95と落としていく。69(S44)年、70(S45)年はともに4試合の登板に留まり、70(S45)年限りで引退した。
◆投手成績<250試合、29勝32敗、防2.80、60先発、7完封、316奪三振>
◇初登板<1962(S37)年6月6日・近鉄9回戦/H(東京)/4番手/2回0失勝敗なし>
◇初先発<1963(S38)年6月22日・阪急8回戦/R(西宮)/先発/4回0失勝敗なし>
◇初勝利<1963(S38)年7月21日・東映19回戦/R(神宮)/4番手/2回0失>
◇初完投、初完封<1964(S39)年5月5日・近鉄8回戦/H(東京)/先発/9回0失>
※在籍時に獲得したタイトル
◆最優秀防御率 (1964年)
★《7代》2009(H21)年・1年 池田 重喜(いけだ しげき) コーチ(在籍8年、コーチ24年)

1946(S21)年5月1日(移籍時25歳)、右投右打
津久見高(甲)–日鉱佐賀関–大洋(68~70)–ロッテ(71~75、兼任76〜78)
ロッテ/千葉ロッテコーチ(兼任76〜78、79〜97、01〜02、09〜11)
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手元にある世に出ている資料、手元で眠っている表に出ていない資料に加え、関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
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